91:この世界のマルーセニカ
翌日は、地下鉄を乗り継いで、とあるスタジオに足を運んだ。
今日はここで、ブラック・コンダクターの曲である『マルーセニカ』の動画を二人で作るのだ。
あの世界ではメロディはチェロだったが、今回は私のピアノと、我が夫のギターである。
まさかこういう形で演奏することになるとは。感無量である。
ラファイルさんは、旅行でも常にギターは持ち歩くし、今回はこの撮影のために最低限のエフェクターを持参していた。
画面越しでは何度も音を聴かせてもらっていたし、昨日もホテルで練習してはいたが、エフェクターとアンプを通した音は今初めて生で聴く。
ラファイルさんがギターを抱え、アンプをつけて調整を始めるのだが……
「待って……ラーファかっこよすぎる、どうしようヤバい」
「え?そう?嬉しい」
マジでガチでカッコいいんですけど。ほんとどうしよう。どうしたらいい。
とりあえず写メ撮りまくった。
動画もいっぱい撮っておいた。
うわーもう音出しだけで昇天しそうだよ。
こんな人が夫てヤバいでしょ。
「マルーセニカ、合わせようか?」
「はい!やります」
私は完全に挙動不審である。
なんでそんなに慌ててんの、とラファイルさんに苦笑された。
とりあえず一度リハーサル。
私のピアノのイントロから。
半年前までは私だってプロとしてこのピアノを弾いていたのだが、こっちへ戻ってからは十分に弾いていたとは言えなかった。
というのも、この曲を弾くと、ラファイルさんが今いないということを実感してしまって、つらくて弾けなくなったのだ。
ラファイルさんが連絡をくれてから初めて、この曲の練習を堰を切ったようにやるようになって、今日までにかなり頑張って出来を取り戻しはしたのだが。
そういった一連の思いがよみがえり、感動で手が震えてしまっている。
そしてラファイルさんのギターが入った途端、ゾクっとして奇妙な気持ちになった。
覚えてる、この感覚。体中が喜んで、感動して心が震えている感じ。
楽器が違っても同じ。
この人の音はいつもこう。
私の深いところに刺さって、巻きついて、私を絡めとってしまう。
やっぱりこの人の出す音が、大好き。
「……マルーセニカ」
ラファイルさんが椅子から立って、私の側に来ていた。
頬を撫でられて、泣いていたのに気付いた。
「どうした?」
「あ……ごめん。ラーファの音聞いたらもうだめ。涙腺ヤバい」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃない。ほんとヤバいんだから」
「あんたのピアノも、居心地いいよ、変わらず」
ラファイルさんは私の肩を抱いてきて、額にキスを落としていった。
「ほら、もう一回」
「はい」
「だからなんでかしこまるの」
「ラーファがかっこよすぎるからしょうがないでしょ」
「あんたのそういう反応、変わんないな。嬉しい」
またそうやって私の嬉しがることを言う。
この人は私がどれだけ自分に惚れ込んでるかわかっているんだろうか。
「……あんたがいつも一番に評価してくれてたよな。
今は実力があれば評価はしてもらえるけど。
あんたほど感動してくれると、やっぱり格別に嬉しいよ」
「私が貴方の一番のファンだからね?この座は誰にも譲らないよ」
「俺より好きなミュージシャン、今でもいない?」
「当たり前でしょ」
「俺まだソロデビューしてないのに」
「デビュー前からのガチファン1号ってことで、ずっとよろしくね」
「ん、一番に贔屓してあげる」
そう言ってもう一度私の額にキスをして、ラファイルさんはエフェクターの位置に戻る。
「さ、マルーシャ、お互いプロ同士だ、やろう」
いや名実ともにプロと私を一緒にしちゃだめでしょ、とこの世界だからつい思ってしまうが、私もプロだと気持ちを切り替える。
こんな素晴らしいミュージシャンと合わせるのに泣いてなんかいたら時間がもったいない。
ラファイルさんの音に集中して。
この人の音が降り立つ音を探す。
チェロとエレキギターでは印象も全然違うはずだが、エレキでエフェクターも通して音は歪んでいるのに、こんなに柔らかく丸みのある音が出るなんて。
この人のことだから、音作りもこだわったに違いない。
エフェクターを使って音色を使いこなして、エレキギターってこんなに表情豊かだっけ、と思わせる繊細さ。
ピアノ音とエレキギターのデュオは、そんなにやる人いないと思うけど、見事にピアノ音に雰囲気を合わせてくる。
ロックでガンガンやるだけのものじゃなかったんだ。
エレキなら、エレピやオルガンにしようかとも思ったのだが、必要ないと思った。
叶うならば、グランドピアノとこのエレキギターを合わせたい、と感じた。
これが、今の私たちの音。
その時ごとに音が変わるかも、と、ブラック・コンダクターのデビューの頃思ったことがまさか本当になるなんて。
この曲はこれからも、ずっと二人でやり続けたいと思う。
スマホをセットして、曲を撮影し、ちょっとだけカメラに向けて二人で喋る映像も入れた。ロシア語で。
編集のとき日本語の字幕つけます……
ブラック・コンダクター名義で一人バンド動画を上げてきたが、今回初めて、バンドメンバーとしてラファイルさんが登場することになる。
ロシア人なら苗字から私たちが夫婦だと分かるだろう。
これも、ラファイルさんが私とのつながりを表現して作った曲だし、やっとちゃんと曲について説明できる。
この動画からは、私も顔出しすることに決めた。
ラファイルさんはプロのアーティスト、人前はもちろん、今後どんどんメディアにも出る仕事である。
正式な仕事とはちょっと異なるが、このセッション動画だってブラック・コンダクターのプロモーション動画になるわけで、私もメジャーデビューこそしていないがラファイルさんと並び立って撮影をしているのだ。
ラファイルさんがイケメン過ぎて私のルックスが見るに耐えるのかというのはちょっとあるが……
演奏の方は一応既にラファイルさんにはプロと認めていただいているので、何通りか撮ってはみたがNGもなく、私たちは満足して撮影を終えた。
念のために長めにスタジオを押さえていたから、残り時間はひたすらいろんな曲を合わせる、合わせる、合わせる。
それこそぶっ通しで、ブラック・コンダクターの曲から、完全なるアドリブに始まったセッションやら、二人で合わせまくった。ドラムも置いてるからドラムでも合わせた。
スタジオの終了時間が来るのが本当に惜しかった。
***
音楽バカな私たちは、翌日もスタジオにこもってセッションした。
昨日一日の数時間で私たちが満足するわけがない。
昨日やり切れなかった分をひたすら合わせて、ラファイルさんのソロを堪能し、セッション動画もいろいろ撮った。
合わせていると時間はあっという間に過ぎ、後はちょっとだけ東京観光をした。
ラファイルさんもせっかく日本に来たんだし、日本らしい場所も見せてあげたかったのだ。
日本の楽器屋も見てみたいと言うので、東京じゃ地元密着マニアックな品揃えの楽器店なんか知らないから、都心の大手楽器店に行ってみた。
さすが東京、品揃えは豊富で、マニアック系のものもこういうところにはあったりする。
楽器店なんて見慣れているであろうラファイルさんだが、ギターをいろいろ手に取ってなんか私に説明してくれたり試奏してくれたりした。
楽器屋でプロが試奏するのを見ている私って。もうなんかすごく楽しい。
店員さんがいろいろ説明してくれて、逐一私がラファイルさんに伝えていくのだが、ラファイルさんが聞きたいことも私が通訳する羽目になった。
いやギターとエフェクターがそもそもあんまり分からないのでうまく通訳できません。
ロシア語が分かるのに、ギター用語だから日本語でなんて言うのかが分からないよ!?なことに何度かなった。
しかもやっぱり楽器については、ラファイルさんは本当によく喋る、通訳追いつかないよ!
お礼を言って去るとき、店員さんに何語なんですか?と聞かれ、ロシア語だと答えてびっくりされた。
…………
…………
最終日4日目、ラファイルさんが帰国してしまうときは、本当に辛かった。
このまま一緒に行ってしまいたいと強く思った。
またラファイルさんのいない日常に戻るのか、とつい思ってしまうのを、いやもうネットで毎日話もできるし、と認識し直す。
本当に、次ラファイルさんがきた時は、一緒にロシアに帰る。
離れていたくなんかない。
ラファイルさんは、搭乗時間が近づく間、私の右手にはめた指輪をずっといじっていた。
ラファイルさんも、同じ指輪を右手にしている。
ちなみにファッションリングとかではなく、18金製ガチの結婚指輪である。
あの世界で、私が気に入って選んだデザインと同じものにしてくれていて、つまり既製品でなくオーダーメイド……ちょっと用意周到すぎると思ったのは内緒だ。嬉しいけど。
ラファイルさんも、ユーリを妊娠するはずの時期について気にしていた。
だから、早めに私を呼び寄せて生活を安定させたい、という気持ちが強かった。私も当然その時期は気にしている。
友人もいて一人じゃないにしても、慣れない環境であることには変わりがない。
あの世界でも最初は頑張りすぎて倒れたりしてたし。
慌ただしいが、3ヶ月後くらいにはあちらに移っておきたい状況だ。
仕事はともかく、家族になんて言うか。
父を説得できるとは思っていない、自分が正しくてそこから外れるのをおかしいと言う人だ。
それでなくても、普通の親は、いきなり結婚して外国にいくって子どもが言ったら、ちょっと待てって言うよね……
ラファイルさんもそこは分かっていて、うちの親に一緒に話しに来てくれるとは言うが、まず言葉がどうにもならないから戦力にならない。
成人で仕事もしていて親の管理下でもあるまいし、と言いながらも、一方的に親から私を奪うのもよくないよな、と言い、次回、親に挨拶しに来る、とラファイルさんが言い出したのだ。
追い出されたらそのときは私を連れて出ると言って。
カリーナを一方的に奪う男になんかやれないから、自分も誠心誠意話を試みる、と。
正面からうちの家族にぶつかるのはどうなのかなと不安ではあるが、ラファイルさんの気持ちは嬉しかった。
私も戦う。
初めて、親の言うことを聞かない、ということをやるのだ。
でも、一人じゃないから。
ラファイルさんだけでもない、プローシャさんも、ノンナさんも、ヴァシリーさんもいる。
ラファイルさんと過ごした夢のような4日間だった。
夢では、終わらせない。
ラファイルさんを見送った後、私は帰りの新幹線で、撮りためた写真と動画でいつまでも夫の存在を感じ続けた。
飛行機の中でラファイルさんも同じようにしていた、と、帰国後のメールで知って、私たちは画面越しで笑った。
楽器店っていつもワクワクする!
大手も楽しいけど、地元密着型の、店員さんのこだわりで取り扱うメーカーとかがある楽器店も楽しいです。
店員さんのプロ意識が素晴らしい。




