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86:生きる目的


ここ数日の記憶は、全くない。


私はただただ、放心状態でいた。


どうして、何で。

思うのはそればかり。


目の前の光景から、色が消えていた。


家族が見舞いに来たらしいがそれも覚えていない。



意識ーー自分で物事を認識する力が戻ったのは、この病院に運び込まれ、入院してから一週間も経ってからのことだった。

と後で知った。


自分の身に起こったことを整理すると、


私は仕事帰りに倒れて、救急車で運ばれた。

体の方は特に熱中症でもなく異常はなかったが、人格とか自我というのが喪失したようで立てもしない状態だったため、入院となっていた。


つまり私は、22歳に逆戻りしたことになるーーこの世界ではほんの数十分のことだったようだが。


本当に、何がどうなっているのかわからない。


ラファイルさんは、ユーリは、カリーナは。


全て、夢だったとでもいうのか?

いやそんなはずがない……

こんなにリアルな夢は、私は見たことがない。


だって、夢だったら絶対思い出せない音楽を、覚えてるから。

何百回と練習した曲たちは、体で覚えている。


ーーとにかく家に戻らないと。

戻って、この音楽をとにかく、録音しておかないと。


そうだここでは録音もできるんだ。

それを思い出した。


とにかくどこでもいいからピアノを弾いて録音がしたくて、それまで全く喉を通らなかった食事を、入院して十日後にして初めて口にした。


…………

…………


自我が戻り食事もできるようになったことで、数日後には私は退院した。

母が迎えに来たが、私はほとんど話をしないままだった。


母は心配しているのだろう。

私も、()()()()()()()()()()()()()()


大丈夫だから、そっとしておいてとだけ伝えて、家に戻った私はそれからピアノに張り付いた。


仕事の方だが、病院から診断書をもらって、とりあえず二週間安静にということにしてもらった。

倒れるまでの記憶がおぼろげで仕事に戻るまでに時間がほしいからと主治医にお願いしたのだ。


そう私は会社に勤めている状態である。私の中では7年前のことになっていて、思い出しただけでも偉いと思う。

診断書の件を伝えるために職場に電話をしたのだが、7年ぶりに上司と話すというのはなんとも奇妙な感じがした。


仕事について考えるのは後回しだ、とにかく音楽。



無我夢中で、あの世界でやった音楽を思い出せるだけ録音した。


バンドの曲も、ラファイルさんの作った練習曲も、ノンナさんとやった曲も、片っ端から。


録音がひと通り済んでも尚、弾き続けた。


だって私も、一日3、4時間は練習するのが当たり前になっていたのだ。

音楽をしているのが当たり前。

食事さえどうでもよかった。


母はもちろん、仕事から帰った父は多分、戸惑っていた。

私はろくに返答もせず、笑うこともなくひたすらピアノを止めなかったから、そりゃあ一般の人は驚くだろう。

普通の家で夜間はさすがに音が出せないから、譜面起こしをしていた。



そんな調子で一週間経った頃。



ラファイルさん。


なんで、いないの。



ある夜、一気にその辛さが押し寄せてきた。


今でも耳に残っている、


「マルーセニカ。愛してる」


優しく、温かい声。


絶対に、彼は存在していた。


夢なはずがない、この曲たちが証明している。


それに何より、ラファイルさんが今私の隣にいないということ。


ベッドの温もりも、触れ合った温かさも、くすぐったいキスも、一切が断ち切られてしまっていて。


そして子どもたちに触れられないつらさ。


今ここにいないのだからどうにもできないと分かってはいたが、私があの世界から消えたのだとしたら、私がいなくてどうしているだろうと、ふと気を緩めるとずっと考えてしまう。


どうにもできない苦しみにのたうち回る心持ちだった。



その苦しみは深くて重くて、また食事が喉を通らなくなったし、動けなくなった。


音楽に没頭することで、この苦しみを味わうのを先延ばしにしていただけだったのだ。


愛する人たちを失うというのは、これほどまでに絶望するものだなんて。


半身がもぎ取られるような。


これを凄まじい悪夢と言わずして、なんと言えばいいのだろう。



数日食事を受け付けなかったら、私は心配した母の手配で再び入院になったのだった。


フラフラの体で眠りがやってくるとき、これでラファイルさんの元に行けるかなと淡い期待も抱いたが、それは叶わなかった。

それどころか夢にさえ、ラファイルさんも子どもたちも、出てこなかった。


***


私は主治医にも誰にも、あの世界のことは伝えていなかった。

妄想か幻覚と片付けられるのがオチだし、もしかして精神科系の薬を飲むことになってラファイルさんたちの存在が私の中から消えたりしたら嫌だったから。


そんな薬あるのかどうか知らないけど。


もし、ラファイルさんの、あの世界のことを忘れてしまえるなら、楽にはなれるのかもしれない。


でも。


そんなの、私じゃない。



ラファイルさんがいない世界で生きてても、意味がない。


ラファイルさんの記憶がないまま生きていても、それは私じゃない。



そして、私たちの、子どもたちのことを、改めて考える。



私は今22歳で、子どもは確かにまだいない年齢だった。


事実、私の体からは妊娠線がなくなっていたし、明らかに妊娠前の身体だった。


でもそれなら。


ユーリとカリーナは、まだ産まれていない状態になっているんじゃないか。


だったら私は、ユーリを、カリーナを、産まないと。


あの子たちの存在が、なくなることになってしまうのかもしれない。


ラファイルさんを、見つけないと。


この世界に、いるのかな。


まったく検討もつかないが、私はユーリとカリーナを産むということが不思議なほど腑に落ちる感覚を得ていた。



私は、ラファイルさんを探す決心をした。


荒唐無稽だろうと。


どうせ私はラファイルさんがいなきゃ、生きたくなんかないんだから。


とりあえず、家に帰ろう。


ラファイルさんを探すためにいろいろ考えなきゃ。


再入院から3日後、私はひとまずの生きる目的を見つけて、数日ぶりの食事をとった。


***


だがしかし、一体どこからどうやってラファイルさんを探せばいいのか。


出会ったときと同じ19歳だろうか。

もう貴族の世界じゃないから、どんな家に暮らしているだろう。

やっぱり天才音楽家のままなのか。

そもそも同じ、ラファイル・オストロフスキーの名前なのか。

同じだとしたら、ロシア語圏になるのか。ロシア語なんかできない。どうやって探そう。


退院が決まって、退院を翌日に控えた私は、動けるようになったので病院の食堂に向かっていた。


食堂の隅にはテレビが置いてあり、ニュースが流れている。


特に気にせず、一人で席について食べ始めた。



いきなり、テレビから、聞き覚えのある言葉が流れてきて、

私はテレビの方を向いた。


ロシアの政治家が会見を行なっている様子が映っている。


なんで。


全部、分かる。


ロシア語が。


嘘でしょ?



……違う。


私の学んだ言葉とは違う。


でも、聞いて分かる。


映像に映り込んだ文字も、あの世界のものではないのに、読める。



こんな奇妙な話があるだろうか。

意味がわかんない。



でも、とにかく私はロシア語ができるようになったらしい。しかもネイティブにかなり近く。


後で病室のテレビを初めてつけてみたが、分かるのはロシア語だけで、フランス語とかドイツ語はさっぱりわからなかったし、英語は元の実力のまま変わらなかった。



よし。


探すんだ。


きっとロシア語は手がかりだ。



私の内面は捜索に向けて燃えたぎっていたが、表面上はやつれていたので、心身の衰弱の診断書を書いてもらってさらに2週間、仕事の休みをゲットした。


ピアノもまた再開して、ドラムはないからスティックでドラムパッドを叩く。


そして夜には、ネットで片っ端からラファイルさんへの情報がないか探した。


まず名前の検索では引っ掛からなかった。

別のオストロフスキーさんならいろいろ見つかったが、ラファイルさん、お兄様のエドゥアルド様、お父様のスヴャトスラフ、といったファーストネームも、なかった。


オストロフスカヤの方で調べても、プローシャお姉様にはたどり着けなかった。



そもそも存在がない可能性。

名前が違う可能性。

これから生まれる可能性。

ロシア圏内ではない可能性。


「ない」可能性を考えればキリがないが、探すほかに道もまた、ない。


ロシア、旧ソ連の貴族の検索なんかもしてみたり、考えられる限りのネット検索をしたのだが。


成果はなし。


ちなみにロシアの貴族制度に、オストロフスキー家が持っていた「侯爵」はないらしい。

言葉にせよ社会文化にせよ、いろいろとロシアと似て異なる。

本当にあの世界はなんなのだろう。


ロシア語も、改めて勉強してみたら、なんだか最初から知っていたかのように字もすぐ覚えて、字が読めれば単語がわかった。


こういうのチートって言っていいのかな。

「前世」とか「異世界」とかも検索してみたら、確かに山形氏が言ってたように、「転生」「転移」の創作物が山のように出てきた。

異世界行ったら特別な能力がつくことは割と一般的な設定なのかぁ……

私は言語と、周りの人がチートばっかりだったなぁ……


ついでと言ってはあれだが、インディーズバンドにいたという山形氏の形跡がないかも探してみた。あの人はきっと同じ名前、だよねぇ?

だがこちらもヒットせず。


***


名前がだめなら、ロシア圏内の音楽をあたってみようと思って、動画投稿サイトでロシアのミュージシャンから主に、ひたすら探し続けた。

クラシックもジャズもロックも、ピアノもドラムもギターもベースも。


しかしこれはキリがない、本当に。


先の長さに絶望感を抱きながら、ふと思った。


私も投稿すれば、もしかしてどこかでラファイルさんの目に止まるかもしれない。

もしくはラファイルさんや私の関係者に。


投稿するのはもちろん、ブラック・コンダクターの曲だ。

7年やり続けた曲である。大まかになら全員分再現できるくらい、私は曲を知り尽くしている。


いろんな動画を見ていて、最近では簡単に合成動画も作れるらしいことを知り、

私は一人ブラック・コンダクターを再現すべく、ピアノでギターとベースの練習を開始した。


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