79:初めて、怒った
扉を出ると、そこには、お兄様に胸ぐらを掴まれて壁に押し付けられたラファイルさんが。
その光景を見た瞬間、私の中の何かが、初めて切れた。
衝動的に駆け寄り、私はお兄様の腕を掴んだ。
「やめて……離して!離してください!」
「離すんだ、オストロフスキー殿!」
ヴァシリーさんも加勢してくれた、だが騎士であるお兄様の腕は、武人でないヴァシリーさんに掴まれてもびくともしなかった。
私など言うまでもない。
「どけ!こいつは我が家の悪魔だ」
私はお兄様に、片手で引き離され突き飛ばされ、勢い余って倒れ込んだ。
でも、すぐに起き上がる。
怒りが湧き上がって仕方がなかった。
私の一番大事な人を、脅すようなことを言って、侮辱して。
本当はお兄様の腰の剣を引き抜いてやりたいくらい、私は人生で初めて、こんなにも激しい怒りを感じたのだ。
「何でですか!?ラファイルさんに何がしたいんですか!?
ラファイルさんの仕事は貴方に何も関係ない!貴方が絡んできてるだけでしょう!?
貴方は騎士団で頑張ればいいじゃないですか!私たちのことは捨て置いてくださればいいんです!」
「この、女の分際で私に盾突くか!」
お兄様の怒りが、私にも向いて、
でも怖さより、ラファイルさんを守りたい思いの方が強くて、私はお兄様を睨み返した。
「貴方の家にとって悪魔なら私が引き取ります。大体ラファイルさんは独立されていて、貴方の家には関係ない。
騎士団のご活躍はご立派です、でも音楽を貶める必要がどこにあるんですか?
音楽は私の生きる力なんです!
私を優秀とか思われるのなら、それは音楽あっての私であって、音楽がなければ私は生きる気にもならない役立たずですから!
どうぞ捨て置いてくださって結構です!ラファイルさんを離して!」
ラファイルさんから、うめき声しか聞こえてこないのが気になって、私は必死で叫んでいた。
「オストロフスキー殿、いい加減にしないか!これ以上するなら騎士団長にも報告するぞ!
きみの正当性はどこにもないのは明らかだ、離せ、早く!」
ヴァシリーさんが、初めて見る剣幕でお兄様の腕を押し返す。
「オストロフスキー殿!何を乱暴なことを!」
「マリーナさんを突き飛ばしたな、見ていたぞ」
「ラーファを、早く離せ!」
駆けつけて加勢してくれたのは、楽団員さんたちだ。少し早めに出勤してきた人たちだった。
さすがに多勢に無勢を悟ったのか、ようやくお兄様はラファイルさんから手を離した。
ラファイルさんは、無言でその場に崩れ落ちる。
「ラファイルさん!ラファイルさん、大丈夫!?」
「ラーファ、しっかりしろ!」
ラファイルさんは……
咳き込みながら、息を吸おうとして、吸えずに苦しんでいた、過呼吸状態だ。
「ラファイルさん、私がいるから!一緒に息して、ね!」
ラファイルさんの胸に手を当てて、前やったように息を吐き、続いて吸うタイミングのガイドをする。
何度か一緒に息をしているうちに、ラファイルさんの呼吸は静まってきて、
ようやく、ラファイルさんは目を開けた。
「ラファイルさん……大丈夫ですか」
「……マリーナ……無事か……」
「私は何も……無事でよかった……」
思わず、ラファイルさんの頭を抱きしめた。
「マーニャちゃん。ひとまず事務所で休もう」
ヴァシリーさんがそう言うと、立ち上がってーー
「オストロフスキー殿、やはり今回のことは騎士団長に報告させてもらうよ。
弟君に何も非はないはずだ。無体を働いたのは貴殿の方だ。
我々の大事な仲間を危ない目に遭わされて、黙ってはいられないのでね」
「家庭内の諍いに、部外者が首を突っ込むな」
「家庭内の範囲を超えているだろう。それに仮にも副団長たる貴殿は、丸腰の者、しかも王宮勤め人に手を出した。この意味がわからないとか、言わないよな?」
「黙れ、不肖の三男のくせに何ができる。そいつがどうなろうと我が家には元々不要だったのだ、私の邪魔をするものは今度こそ、排除してやる、覚悟しておくんだな」
私は、ラファイルさんの頭を抱きしめながら、ラファイルさんの耳に手を当てて塞いでいた。
もしかしたら聞こえたかもしれないけれど。
お兄様の靴音が遠ざかるのを、そのまま聞いていた。
***
ヴァシリーさんを直接の目撃者として、次いで加勢してくれた団員さんたちを証人として、ヴァシリーさんが第二騎士団に訴状を提出した。
公爵家のヴァシリーさんは、第二騎士団長とは家同士の交流があり、顔見知り程度には面識があったため、団長さんは事態を重く受け止めてくれた。
人目につきにくい楽団のエリアの練習室だったが、それでも遠目で見ていた人はいたらしい、騎士団員が王宮内で喧嘩をしたとかなんとかいう噂があっという間に広まった。
その日の午後には、王宮内でのトラブルに対処する第一騎士団による事情徴収があり、私とラファイルさん、ヴァシリーさんが呼び出された。
王室警護もするあの第一騎士団である、つまり彼らは王族エリア入館有資格者であるラファイルさんのことを知っているのだ。
後で知ったがその流れで、話は国王夫妻まで届いてしまったのだった。
ところで、お兄様の前に私と話していたドゥナエフ氏は何をしていたのかというとーー
私に別れの挨拶をした後、お兄様に先に行っていろと言われ、ラファイルさんとお兄様の確執を多少聞いていたから気にはなったものの命令のため逆らうわけにもいかず、とりあえず楽団事務所に寄った。
そこへちょうどラファイルさんが出勤してきて、お兄様が私に話をしていると報告してくれたそうだ。
ラファイルさんはそれを聞いて、顔色を変えて飛んできてくれたそうで、
すぐ後に出勤してきたヴァシリーさんにもドゥナエフ氏は事の次第を伝え、ヴァシリーさんも慌てて加勢に来てくれたらしい。
ドゥナエフ氏はなぜそんな厄介な上官を連れてきたのかとまたも団員のみなさんに言われたが、一応ラファイルさん側の立場にはついてくれたから、私はドゥナエフ氏に非はないと表明して収めた。
うん、彼に非はないはず……多分。
たまたま練習していた私にちょっと声をかけただけの話で。
悪いのは絡んできたお兄様で、私はドゥナエフ氏には特に何も思っていない……
ラファイルさんもそこは納得してくれたが、
だから王宮で一人で行動するなとちょっと怒り気味に言われました……
その辺の危機管理意識が、最近すっかり抜けていた。
反省した。
***
今回の件は、私たちの思った以上に大ごとに発展した。
ラファイルさんを気に入っている国王ご夫妻が、ラファイルさんを命に別状はないとはいえ危険な目に遭わせたと、お兄様に対してお怒りになったのだ。
だがラファイルさんは、王室としてはお兄様に処罰をしないように求めた。
王室からのお達しがあれば、王室が黒髪のラファイルさんを贔屓していることが知れ渡り、王室への反発が貴族の間で起こるのでは、という懸念からだった。
さらに、本当は黒髪でウィッグをかぶっている人が、妬み嫉みを王室に対して持つかもしれない、ということも。
それに本来優しい性格のラファイルさんは、自分を傷つけてきた人であっても滅多打ちにして気が晴れるわけではないのだ。
仕返しをするよりも、関わらないでくれたらそれでよく、それは私も同じだった。
しかし陛下ご夫妻は、
「王室に多大なる貢献をしている音楽家への暴行は、王室への不敬にあたる。
音楽への侮辱は、国の文化的価値に対する侮辱であり、国を侮辱する者に騎士団の要職は相応しくない」
という結論を出された。
ただこの形なら、楽団員全員が当てはまる言い方であり、誰が聞いてもラファイルさんと特定されるわけでもなく、両陛下の芸術への理解は国の誰もが知るところだ。
ラファイルさんが王室に曲を献上していることは知っているヴァシリーさんや楽団員たちにも、この形ならラファイルさんが王室に出入りしていることは気付かれなかった。
お兄様には、国境警備隊への異動命令が出されてしまった。
その理由も、伝えられた上で。
それでも副隊長という肩書きであり、一応体面は保ったまま中央部から外された形だ。
ラファイルさんも私も、処罰は望まなかったのと、騎士団では仕事は優秀にされていたというから、そこは加味したようだ。
上官の団長さんがうまく諭してくれるといいんだけど。
お兄様も、ちょっかいを出さないでいてくれたらいいだけなのに。
道楽なら道楽で結構だけど、ほんとに、関わらなければいいだけなのに。
…………
…………
あれからラファイルさんは、また私にがっちりひっついて離れなくなった。
お兄様が、私を妻にすると言い放ったのが何というか、気持ち悪いらしい。
私も気色悪かった。
ラファイルさんが減りそうな感覚がしたから、私もラファイルさんにひっついて補充する。
ラファイルさんは、先日の一件で怒ってはいなかったというか、あの言い合いで気まずくなったのは忘れてしまっている気がする。
でも、ちゃんと言わなきゃ。あのときのすれ違いをこのまま有耶無耶にしたら、また同じことになる。
お兄様にも私は自分で言ったのだ。
我慢しているなら、ちゃんと話し合えるように努力する、と。
仕事から帰って、当たり前のように練習するか、というラファイルさんを、私は呼び止めた、
「ラファイルさん。
お話ししたいことがあります」




