78:お兄様から求婚されました
私の顔からは、表情が消えていたと思う。
その端正な顔が見えた途端、全身が固まるかと思った。
「マリーナ・オーヤ嬢……
あの、夜会ぶりかな」
「……訓練、お疲れ様でございます、オストロフスキー、第二騎士団、副団長様」
「そんなにかしこまることはない」
私は丁寧に礼をして、目線を伏せていた。
「うちの弟の、助手だったとはな」
いきなり、そこから言われた。ドゥナエフ氏がそう伝えたんだっけ。
「……左様でございます」
「ミトロファノフ殿が己の助手と言っていたが、まぁ、追及すまい」
……そうでしたね。そういえば。そうやってヴァシリーさんが助けてくれた。
この人は、私に何をしかけてくるつもりなんだろう。そろそろラファイルさんが出勤してくる時間なのに。
鉢合わせたりしたら。
「何ぞ、御用でしょうか」
「用というほどでもないが……
そなたから直接、返事がもらえなかったのでな、騎士団で働いてもらえたらと思ったのだが。
楽団事務局が断ってきたのと、関係各所から話を聞くに、我が愚弟がそなたを囲い込んでいると聞いた。
不自由していまいかと思ったのだ」
「……お誘いいただきましたことは、身に余る光栄でございました。
ですがわたくしでは、みなさまの期待されるほどの仕事はできませんでしょうから、辞退させていただいた次第でございます」
「なぜ、決めつける?そなたの仕事の評判は、騎士団にまで聴こえているのだぞ」
「楽団のみなさまが助けてくださるから、できているだけで。
私はもともと仕事は下手です、完璧を求められるでしょう騎士団では務まらないでしょう。評判とやらで、おそれながら買い被りすぎかと存じます。
それに私は、何より音楽が好きですから。音楽に関われる仕事だから、頑張れるだけです」
この人は何がしたいのか。
よくわからないけど、音楽が好きだから、と強調してやった。
この人は、芸術に価値を見出さないと聞いたから、音楽が好き、という訳のわからないことを言う、と私への興味をなくしてほしかったのだ。
「音楽が好き、とな。
……役に立つものでもあるまいに。そなたの能力は、もっと役立つことに発揮すればよいと思うのだが。
そなたほど教養があるならば、望めば文官で出世もできように」
「出世には、興味はございませんので……」
「……本当に、珍しい女性だな」
どうも。
というか、音楽が役に立たないって言った、この人。
なにそれ、と胸の中で怒りが渦巻く。
貴方には役に立たなくても、私やラファイルさんたちには絶対必要なのに。
「あの愚弟では、そなたの足枷にしかならん。
そなた自身の幸せを考え直した方がいい。愚弟についていっても、振り回されるだけだ、あれで幸せになどなれん」
ちょっと言ってる意味が分からない。
何で私の幸せがどうとかいう話が出てくるのか。私の幸せなんて、貴方には関係ないし。本当に何がしたいのか、この人は。
「お言葉ですが……私には、私の幸せがありますから……ご心配には及びません」
お兄様が、一歩、練習室に足を踏み入れてきた。
やばい。
出入り口は当然、一つしかない。
そろそろ近くを誰かが通るかもしれないけど。
「あの、私は練習中ですので。仕事の前の大事な時間なんです、集中したいのですが」
「強がるな。正直苦労しているだろう?愚弟の前で」
「……何をおっしゃるんですか」
「そなたの表情を見れば分かる。
いつも奴の機嫌を伺っているのだろう。
……そういう不幸な女性を知っている」
そんな顔。
私は、していたのか。
そういう不幸な女性、って……
ラファイルさんとお兄様の、お母様……?
私に思い当たるのはそれしかない。
ラファイルさんの顔色を伺うのは、確かにそうで、否定はしきれなかった。
というかどこからそんなに見られていたのか、そっちの方が怖い。
「そんなにも、私のことを観察でもなさっていたとでもおっしゃるのですか?」
「たまたま見かけたのだ、何度か、王宮内や劇場の警備中にな」
「苦労だとしても、それは、私が選んだものです。私がどうなろうと、貴方様には関係ないかと存じます」
はっきり言ってしまって大丈夫なのかどうか、もうそこまで熟慮する余裕はなかった。
苦労?
ラファイルさんのための苦労なら、むしろ引き受けてやる。
大体苦労って。
そうだとしても、ラファイルさんが私にくれるものは、十分な充足感を与えてくれる。
逆に十分すぎるほど、大切にしてもらってる。
「この私にそれほどはっきり意見してくるとはな」
その一言に、やばい、と背筋が凍った。
「やはり、そなたはおもしろい。
愚弟のところに置いておくにはもったいない。
我が妻として、そなたを迎え入れたい。
近々正式に申し込むから、そのつもりでな」
「……あの……」
衝撃すぎて、頭が真っ白になった。
今私、何言われた?
ちょっと待って追いつかない。
なんで。どうして。
意味がわからない。
「では、失礼する」
お兄様が、去ろうとする。
ーーだめ。
絶対、受けたらだめ、今、言わなきゃ。
「あの、申し訳ありませんがお断りします!」
「……拒否、すると?」
お兄様が、足を止めて振り返る。
怖い。
怖いけど。
「私はっ……弟様にお仕えすると、自分自身に誓っております、他の方に心を移すつもりはございません」
私も、この選択が正解なのか、正直分からない。
今、ラファイルさんと気まずいから、余計に。
ラファイルさんに言いたいことも言い切れていないのは、事実だ。
でもそれなら。
ちゃんと言って、言い切って、それで愛想を尽かされるのなら仕方がない。
私は、ラファイルさんと、バンドがしたい。
お兄様が嫌だというよりも(嫌だけど)、私はラファイルさんと生きたいから。
「弟様の機嫌を伺っているのは、そうかもしれません。
でもそうなら、ちゃんと話し合うように、努力します、これは私の問題です。
誰かに幸せにしてもらうとか、それで解決できることではありません。
……気づかせてくださって、ありがとうございます」
思わず、そんな言葉が出てしまって、自分でも驚いた。
「ますますもったいないな、愚弟には。
そなたなら、国にとっても秀逸な人材になろうに……」
まだ、続くのか、この押し問答が。
そう思ったとき。
「兄上。そこをどいてください」
ラファイルさんの声だ。
ラファイルさん。
来てくれたの。
でも、お兄様と顔を合わせて、大丈夫なの。
扉のところに立ち塞がっているお兄様のために、ラファイルさんの姿はまだ見えない。
「……久しいな、役に立たぬ道楽者」
「兄上、貴方のことはどうでもいい。俺の部下の仕事の時間なので、どいてもらいたい」
「道楽の仕事に何の価値がある、それこそどうでもいい。
ああそうだ、その仕事もじきにしなくてよくなる、マリーナ嬢を妻に迎えるのでな」
ちょっと……!断ったのに!
「マリーナ嬢はかいがいしくもお前に仕えると言い張るが、侯爵家の申し出を断るなら、ラファイル、身元保証人の貴様は王宮及び王立学校での一切の権限を失うことになる。
マリーナ嬢は異邦人ということで知らなかったろうが貴族社会とはそういうものだ、貴様も知っていよう。
マリーナ嬢には、動揺させるのも何だったので触れずにいたのだがな」
何、それは。
意味が分からない。
何、その脅迫は。
ラファイルさんにはそんなに脅していいとでも。
「オストロフスキー殿、それはあまりにも横暴がすぎる、マリーナ嬢はつまり拒否したんだろう?」
ヴァシリーさんの声。一緒にいるようだ。
「ヴァーシャ、……いい。分かってるから。
別に俺は貴族社会の地位を失おうが、構わない。兄上がそのつもりなら、やってみるといい、それだけだ。
マリーナ、仕事だ。出てきて」
「はい!……通してくださいませ、オストロフスキー様」
ラファイルさんに呼ばれたのが、何よりも嬉しくて。
私はお兄様のいる扉に近づいた。
「相変わらず、自分のことしか考えていない愚か者め!
国を守るべき力も身につけず、道楽にばかり溺れ、今またこの優秀な人材を道楽に囲い込もうとする」
お兄様は扉を退かず、ラファイルさんに向かって怒鳴りつけた。
その声に身がすくんでしまう、男性の怒鳴る声は本当に嫌だ。
「道楽って、立派に王室からだって認められた仕事だよ、それに、多かれ少なかれ、誰かが必要としてる。仕事には向き不向きがあるもんだろう、力を発揮できる場で頑張ればいいだけじゃないか。きみが我々の仕事を貶める理由なんてどこにもない」
ヴァシリーさんが反論する。
「爵位も継げず下働きしかできぬ者が偉そうに口答えをするな。所詮全てお遊びだ。出資者がいなければ身も立てられんくせに」
この人は、どうしてこんなにも音楽を敵視するのか。
確かに、どれだけ神技の演奏をしても、聴く人がいなければ、さらに聴く人がお金を出してくれなければ、食っていけない、そういう面は、悔しいけど否定できない。
でも必要としてくれる人だっている、それも事実なのに。
「騎士団の仕事の方が、よっぽど価値があるし、世のため人のためになる。
道楽者の元で身にならない仕事をするよりよっぽどいいとは思わないか。私なら爵位も持てるし、大体仕事などしなくてよくなる、人生は安泰というもの、黒髪に煩わされることもない。
なぁ、そうだろう?ラファイルよ」
「マリーナの幸せはマリーナが決める。彼女自身が幸せだと思うところにいなきゃ、どんな恵まれた環境に置いたって意味がない。
大体爵位なんかマリーナには気苦労にしかならない。彼女はそういうところに価値を見出す人じゃない。
マリーナを、通してくれ、兄上。彼女は俺らと同じで、ちょっとずれてる人だから、あんたのいうような世界を望まない」
公務員至上主義なのか、お兄様は。
ああ、なんだか父みたい。
そう思うと、ますます身が縮こまってしまう。
父に逆らって家を出て一人でやっていく強さがもてなくて、反論できないでいた。
でも今は、ラファイルさんがいてくれる。
私は相変わらず自力で開拓していけてないけど、ラファイルさんとなら、私はついていける。
いや、ついていく。
ラファイルさんの擁護が嬉しかった。ちょっとずれてるという言い方も。
この人は、本当に私のことを分かってくれているし、私が幸せでいることを考えてくれている。
愛されている、と、心底感じた。
「……この厄介者め。貴様さえいなかったら……我が家は平穏だった……
母上も、亡くならずに済んだだろうに、貴様さえ……!」
その恐ろしい言葉に、また、背筋が凍る思いがした、
この人はどこまでも、ラファイルさんを傷つけ拒否するつもりなのか。
お兄様が部屋の外へ踏み出して、出口ができた隙に私は急いで外へ出た。




