73:ラファイルさんの欲しい音
月曜日以外の平日は、練習時間の多くはラファイルさんと合わせるようになった。
ラファイルさんは私のために、何度でも例の山形氏の曲を弾いてくれた。
さすがに付き合わせ続けて申し訳なかったので、あとは一人でやると言ったこともあったが。
「まだ納得してねぇだろ?掴めるまでやれ。俺はいくらでもできるから構わない」
ラファイルさんは人の気持ちを読むのは下手なのに、音に乗る感情は分かるのだろうか、と思うほど、読まれていた。確かに今の出来には納得できていなかったのだ。
しかし同時に、納得いくまでやめさせてもらえないというスパルタだった。私はやり続ければいいものができるかというとそういうわけでもない。疲れて逆に出来が悪くなることもしばしば。
それにしても何回やってもムラのないラファイルさんの演奏、ほんと半端ない。
なんでこんなすごい人とやってるんだろうと不思議に思うことも、しょっちゅうである。
プロってそういうことなんだなと思うも、今の私はひたすらやり続けるしかない。
しかもラファイルさんは、何回何十回何百回同じことをやろうと、楽器に触ること自体が喜びだから、飽きないどころか嬉しがっているのだ。
一種変態だわこれ(尊敬を込めた褒め言葉である)。
…………
…………
ラファイルさんは、私が寝た後、他の楽器の練習などもしつつ、バンド用の作曲にも取り組んでいた。
元の世界の曲をやるかという話も出たのだが、やっぱりデビューは全曲オリジナルで行きたいというのが、特にラファイルさんのこだわりであったため、曲を作る必要もまた出てきたのだ。
その一週間のうちに、ラファイルさんは一曲作り上げ、楽譜を作ってしまった。
はい、と週末に渡されたのだが。
私はその楽譜を見て目の前が暗くなりかけた……
「……ちょっと何ですかこのオーケストラばりの楽譜は」
「え?普通だろ」
「いや……コピー譜じゃないんですから全部が全部書かないでいいんですよ……前私が譜面起こしした、あんな感じで」
「書かないとイメージが掴めなかったんだよ」
うん、クラシック畑で極めてきた人だから、無理もないか。
オーケストラ指揮者用の譜面に、全パートを最初から最後までずらーーっと書いている上に、何と大半が16分音符である、つまり細かくて速いフレーズの連続である。
楽譜、黒っ!
ちょっと待ってこれ譜読みにどんだけかかるよ!?
一般的にジャズとかフュージョン方面の譜面は、メインのメロディとコードだけ書いていて、あとはコード進行を頭から繰り返して曲が進む。
ビッグバンドなら、全パート譜があって、決まったフレーズは書いてあるが、ドラム譜なんてほぼ小節数と、管楽器と合わせるフレーズくらいしか書いていない。リズムパターンは「ミドルスイング」「バラード」「ラテン」みたいな指示だけだ。
律儀に16ビートを書かれると逆に見失ってしまう。
「あのーこれ、自分用に書き替えてもいいですか……?この通りにやらないとだめですか?」
「いや、あんたのいいようにアレンジしてくれたらいい。あんたっぽいフィルをいれたつもりだけど、流れにくかったらやりやすいようにしてくれ」
私っぽいフィル。てなんですか。
フィル(=フィル・イン、曲の合間に入るちょっとしたドラムソロ)って手癖だから、私も無意識でやっていることも多く、わざわざ譜面に起こすとかえって難しく見える。
「私、譜読みに時間がかかるので、さわりだけでもちょっとやってくれませんか?
私もイメージ掴みたいので」
「いいよ」
ラファイルさんはピアノで弾いてくれた。
私はまずは譜を追わず、自分の感覚で捉えることにした。
黒い楽譜の印象と随分違い、軽やかで爽やかな曲。イメージは春から初夏。新芽の黄緑色。
新芽の生命力もまた感じそう。そんな躍動感や、スピード感も併せ持つ、澄んだ曲。
山形氏の、頭を振るタイプの曲も好きだけど、この曲もすごく好き。
このバンド、バリエーションがあって面白い。
この感じなら……
「ラファイルさん、こんなのどうですか?」
ラファイルさんのイメージしていたらしい16ビートとはガラッと感じが変わる。
ビートはハイハットじゃなくライドシンバルで、スイングしないシンバルレガート。
でも速さが必要だから、かなり細かいスティックコントロールが必要になる。
裏でなく頭にリムショット(スティックをスネアの上に寝かせた状態でスネアの縁を叩く)を入れれば、曲の躍動感に合うビートが作れる。
曲が盛り上がってくれば、スネアに変えれば音量が上がる。フィルも増やしていって、ピアノ交響曲でやりそうな大掛かりなピアノソロの後に、エンディングの静かなシンバルビートを入れる。
音を止めると、ラファイルさんはピアノに突っ伏して、はぁー、と大きくため息をついた。
あ。だめだったかな今のは。
ていうか天才のアイディアを差し置いて、凡人風情が差し出がましいことをしてしまった……
でも合うと思ったんだよな、あのピアノのサウンドなら……
「まいったな、マリーナ……
このバンドほんと、あんたじゃなきゃできねぇよ」
へっ?
何ですって?
「あんたは俺の一番欲しい音をくれる。
どんな超絶技巧の、この国のトップに立つ音楽家にだって、できないことだ。
あんたと音が作れて、俺は誇らしいよ」
「いや……あの……
私ってただすごい人たちのプレイを取り入れてきただけで……」
いきなりラファイルさんに賞賛されて、意味が分からなかった。
いやそんな畏れ多すぎるでしょ。
天才と凡人を一緒にしちゃいかん。
そう私は何一つ自分で作り出したわけじゃない。
全ては元の世界で培った、数多のプロたちのスタイルだ。
「取り入れたか作ったかなんてどうでもいい。
俺に大事なのは、俺の欲しい音をあんたがその幾多のスタイルから選び出したことだ。
言っちまえばあんたより上手い奴はいくらでもいるが、俺の欲しい音をくれるのはあんただけだ」
はぁ……
そうですか……
ちょっとラファイルさんの台詞に驚きすぎている。
そんなに言われても本気で信じられるもんでもないよねぇ。
いや、もちろん嬉しいんだけど。嬉しいよそりゃあ。
ラファイルさん、お世辞言うような人じゃないし。
でも天才の欲しい音を私が持ってるだなんて、とても信じられないのだ。
「……ほんとにそうなら、光栄です……」
「そうだよ。
……こっち来て、マリーナ」
呼ばれてラファイルさんの側に寄ると、抱き寄せられた、一緒にピアノの椅子の座るようになる。
ちょっとバランス悪い。
ラファイルさんが、私の頬に手を添える。
「あんたってさ、王立楽団の楽譜庫に等しいよ。
この中に、あんたが聞いてきた音楽が全部入ってる。この世で唯一の存在。……あんたを側に置いとくためなら、俺は何だってする」
ちょっとかなりなマジ顔で言われた。
口説き文句なのか褒め言葉なのか、
ロマンチックなんだかヤバ系なのかちょっとわかんなくなってきた。
うぅん私ってつまり携帯音楽プレイヤー的な役割ですか。確かにラファイルさんの知らない音楽はいっぱい入ってるわ。
そのまま再生、はできないけど。
でも。
「じゃあラファイルさんは、私の音楽を全部再生してくれる唯一の存在、とか?」
ラファイルさんがはっとして、すぐに嬉しそうな顔になった。
「そう、……うん、そういうことだな」
私がデータでラファイルさんが再生機。
うんなんかいいように繋がった感じ。
ラファイルさんがまた、私の顔のあちこちにキスを落としてくる。
唇にも当たり前のように。
最近、こうされると体の奥が熱くなって、この先に行ってみたいような気分になる。
「マリーナ、かわいい」
なんかラファイルさんの声が艶っぽい気がする……気のせいかな。
その雰囲気に、私もあてられたようで。
次にラファイルさんの顔が近づいたとき、つい私の方から唇を捕まえてしまった。
するとラファイルさんに一層深いキスを返されて、私たちは互いに貪り合うように、キスを続けた。
昼間っから何やってんだというくらい。
逆に夜じゃなくてよかったと思う。
また首筋に、跡が残るだろう強さでされたが、なんか私も変なテンションになっていて、それを受け入れていた。
くすぐったいけど、気持ちいい気もして。
ーーだがラファイルさんは、我に返ったように顔を上げると、なんだか辛そうな顔になった。
「はぁ……ごめん。
まずいな、俺」
「別に、謝ることなんて」
「嫌じゃない?」
「何でですか?嫌なわけないです」
「……いや……がっつきすぎかなって……」
えーそんな心配してんですか。
急に赤くなって顔を逸らすのがなんかかわいい。
私も経験こそないが、別に修道女みたいな純粋無垢でもない、むしろ知識だけならラファイルさんよりあるかもしれない。一応年上だし。
結婚したら、さりげなくリードしてあげようかなぁなんて不埒なことも考える最近である、逆にこういう世界観だったら、女なのに積極的って引かれる心配をした方がいいかも。
この国のそういう習慣はまだ知らないけど。
「ラファイルさんなら、喜んで受けますから、心配しないでください、ね」
「……なんであんたの方が余裕あんだよ……」
そう言いながらも、ラファイルさんは私の肩に頭をもたせかけて体に腕を回してきた。
こうやって甘えてくれるのが、自分でも意外なのだが、密かに嬉しいのだ。
***
後から、ラファイルさんの元々書いていた譜面を読んでみた。
ラファイルさんの思い描いていたものだって素晴らしいに違いないのだから。
彼の想定していた16ビートも、確かによかった。
それに私っぽいフィル、というものも、確かに私のよくやる感じになっていて、ここにこういうフィルが欲しいんだな、と分かった。
この人は、オーケストラの曲を作るような人だから。
彼の中で、音は既に決まって、脳内再生できているのだ。
私がおこがましいことをしてしまったかもしれない。
そう思って一度楽譜のスタイルで合わせてみたが、ラファイルさんはやっぱり私の出したパターンのほうがいい、と決めた。
でも、ラファイルさんのイメージしていたフィルは、楽譜のように入れることにした。
ラファイルさんは、私の好きなように叩いたらいいと言ってくれたし、私も何も楽譜に忠実に入れるとまでは思っていないが、ラファイルさんのフレーズはやっぱりプロのもので、洗練されているのだ。
私は自分のプレイが力不足だからというのではなく、ラファイルさんに敬意を表して、取り入れたいと思ったのだ。今まで、好きなミュージシャンのフレーズを取り入れてきたのと同じように。
それに、ラファイルさんの作ったフィルは、私の手癖と見事にぴったりで、私がアドリブで自然に叩くようにできていたのだ。
私のパターンもこれだけ把握して、さらに、アドリブでやるのよりはちょっと複雑なフィルもまた作ってくれていた。
アドリブだと、自分のできることしかできないから、それ以上の難易度のものが基本出てこないのだが、
ラファイルさんの作ってくれたフィルを練習することによって、私自身に使えるパターンが増えるし、フィルのレベルも高くなるということなのだ。
この人腕のいい教授だわそういえば。
もうどこまで尊敬できる人なんだろう。
すごすぎる。かっこよすぎるよ。
それを伝えたところ、素っ気なく、おう、と返された。
あれあなた照れてますよね?
そう突っ込むと、別に、と顔を逸らされた。
後ろから抱きついて、ありがとうございます、と言ってやった。
もー、やべーから、と何やら言いつつ、この人は私の手をがっちり握っていてくれるのだ。
・コピー譜:音源をそのまま譜面に起こしたもの。バンドスコアとかがそうです。
・楽譜が黒い:16符音符以上が多いとそれだけ音符がぎっしり書いてあるので、そういう曲にあたったら、楽譜黒い〜ってサークルのみんなで言ってた記憶が。。笑
・ビッグバンド:リズムセクションとホーンセクションからなるジャズバンド。一般的に20名前後います。
管楽器のアンサンブルは譜面通りにやり、ソリストがアドリブを取ります。
・リムショット:本文中のは、厳密に言えばクローズド・リムショット。太鼓の縁を叩くので、静かなバラード等のビートで使ったりする奏法。
オープン・リムショットは、スネアの打面と縁を同時に叩く奏法で、アクセントを効かせたいときに使います。




