65:戻ってきました
オストロフスキー邸に帰る馬車の中、ラファイルさんは、私を迎えにきた経緯を話してくれた、私にがっちりひっつきながら。
ラファイルさんの知らない男性から私宛に手紙が来たことに、衝撃を受けたそうだ。
私がラファイルさんの知らないところで男性と知り合っていたと思うと、頭が真っ白になって、自分でも意味の分からないことを口走ったと。
私の言葉はほぼ、耳に入っていなかったようだ。
混乱した頭に、タムをセットしたばかりのドラムだけが思い出されて、ほかのことをシャットアウトするかのようにドラムに没頭した。
そして気づけば朝。
そのとき初めて、私がいないのに気づいたのだ。
朝早いサーニャさんが仕事を始めていたので、つかまえて問い詰めてみれば、執事さんとアーリャさんと、私を送った御者さんがそろうまで待たされ、事情説明が始まった。
「マリーナさんは、邸を出られました。坊っちゃまが、そうおっしゃった、と言われていましたよ」
「……嘘だ。俺はそんなこと言ってない」
「マリーナさんから、事情は聞いておりますので、お伝えします。
マリーナさんが知り合ったという方が、楽器屋を通じてお手紙をよこしたそうですね。楽器屋でたまたま話をした同郷の方だったそうです。
そのとき、坊っちゃまが急にお怒りになったということですが」
「……うろ覚えなんだ。なんかカッとなって……」
「マリーナさんは、知り合ったことをわざと黙っていたわけではなく、坊っちゃまの練習が落ち着いたら話すおつもりだったそうです。
坊っちゃまは、その辺りのことを全く聴く耳持たれず、マリーナさんを必要ないとおっしゃったそうで」
「それでマリーナはどこにいるんだ……
まさかそいつのとこに行ったのか?」
「落ち着かれませ、坊っちゃま、行き先は把握しておりますから、ご安心を。
マリーナさんのご様子を見て、我々は、あのときのことを嫌でも思い出してしまったのですよ。坊っちゃまには、お伝えしておかなければなりません。
……大旦那様が、亡き大奥様を、同じように一方的に責められていたことを」
「……やめろ」
「あのときも、大奥様は、ずっと無実だと訴えていらっしゃいました。
ですが大旦那様は、大奥様の非を決めつけられ、大奥様は心労のあまり、寝込まれて……」
「その話は……するな」
「誰に非があるという話ではございません。
問題は、一方的に決めつけたことです。
マリーナさんは、坊っちゃまに言われたから、ここを出て行かなくてはと嘆いておられました。
我々が聞いてもマリーナさんに特に非があったようには思いませんでした、店の者も、話をしただけだったと言っておりましたから。
坊っちゃま、それだけのことで、大奥様……貴方様のお母上様が受けたのと、同じような仕打ちを、マリーナさんになさるのですか」
「……マリーナは……そいつに興味があるのか……」
「いいえ、音楽の話は合ったようですが、それだけだとおっしゃいました。
マリーナさんは、坊っちゃまを何より大切になさっているではありませんか?
その知り合った方にも、身元を知らせることなく、坊っちゃまのお立場に影響が出ることのないよう、細心の注意を払われています。
だからその方も、楽器屋を通じて手紙を渡すしかなかったではありませんか」
「…………」
「同郷の方ということですから、話が弾む部分もありましょう、
ですがマリーナさんは、ご自分が間違ったことをしたのかと気にされていました。マリーナさんの故郷で、見知らぬ男女が話をするのは特段珍しいことでもないようですから、この国の価値観に沿わぬことをして坊っちゃまがお怒りだったのか、と。
マリーナさんは、坊っちゃまの望まぬことは、したくないとお思いなのですよ。
今まで、大変に献身的でいらっしゃったこと、お忘れですか?」
「…………
でもマリーナは……
俺に何も言ってこない、俺を頼ろうとしない、何も欲しがらないし望んでこない。
嫌がらないが好意も向けてこない。
それに俺の元をこんなに簡単に離れていける……」
「坊っちゃまの言葉がなければ、そんなことはされなかったでしょう」
「離れるなって、言ってあったのに」
「マリーナさんは、大変素直でいらっしゃいますから。言われたことは、大体そのまま受け取ってしまわれるのでしょう。
ですから改めて、離れないようお伝えなされませ。戻ってきてくださいますよ」
「マリーナは……もう俺が嫌かも」
「嫌で出て行かれたのではありません。我々が坊っちゃまにお話しするまでは、離れられたほうがお二人のためと判断いたしました」
「マリーナは……どこに」
「ノンナ様のお屋敷です。私が間違いなく、ノンナ様にお引き渡ししました」
「……行ってくる。馬車を」
***
私に愛想を尽かされたかも、という不安から、すぐにアルツィバーシェフ邸に向かうことができず、ラファイルさんはヴァシリーさんの家に寄ったらしい。
そこでひとしきり事情を話して、不安をヴァシリーさんに宥めてもらって、ようやく私に会いに来る決心がついたそうだ。
ヴァシリーさんと一緒に来たのはそういうわけだった。
「……俺の母上。
心労で、亡くなった」
ぽつりと、ラファイルさんがつぶやいた。
「……歳が離れて生まれた俺が、黒髪だったから。
父上に、不貞を疑われた。
たまに、黒髪じゃない親から黒髪が生まれることは、あるらしい。
でも、兄上や姉上みたいな金髪じゃなかったから、疑ったそうだ。
母上にやましいことはなく、無実を訴え続けて、俺は一応オストロフスキー家の子と認められたが、わだかまりは残ったらしい。
その後、ただの噂が、まことしやかに周辺に広がったんだ。
母上はそれに耐えきれず、寝込むようになって、食事をしなくなり、……痩せこけて、亡くなった。
俺が、10歳の時。
今実家にいるのは、後妻だ。
黒髪の子なんていいように思うわけがない。だから卒業と同時に家を出た。
兄上は、俺が母上を奪っていったと思ってる。
父上は、今でもどこか俺が父上の子じゃないかもと疑っている。
強い姉上が唯一だった」
悲しい告白だった。
私は、もたれてくるラファイルさんの頭を抱きしめた。
「母上の……二の舞にならなくて、よかった、マリーナ。ごめん」
「大丈夫、ラファイルさん」
金髪へのアレルギー反応は、そういう背景も関わっているのかもしれない。
「ラファイルさんが必要としてくださる限り、離れたりなんかしませんから」
「マリーナを離そうとする俺は、信じないで」
「そうします。一度経験したから、もうきっとそこまで戸惑わないです」
「うん……」
屋敷に帰り着くまでの残りの道中、ラファイルさんは執拗なほどに、私にキスを浴びせかけた。
顔周りも、唇も。
着く頃には、唇がひりひり痛くなったほどだった。
「もう痛い……ラファイルさん」
「足りない……ずっと我慢してた」
「そうだったんですか……?」
ラファイルさんの唇が、再び覆い被さる。
肩を掴まれて、逃すまいとしているようだった。
大丈夫、離れたりしない。
私はそんな思いを込めて、ラファイルさんを抱きしめる。
この人は一体どれだけ渇望しただろうか、受け入れ、愛してくれる存在というのを。
私がその役目を担えるのなら、それこそ私の天職だと思った。
セミプロででもどこかでできたらという願望は、今はなかった、また、出てくるかもしれないけれど。
ラファイルさんの思いを受け止めている今、私は一人で進むラファイルさんを追っているのではなく、ちゃんと横にいて、一緒に進んでいるように感じたから。
プロという世界に私は入ってはいけなくても、ラファイルさんは私を置いていくことはないと思えたから。
馬車が止まって、屋敷に着いたことを知らされ、唇をようやく離したラファイルさんの目は、尚も心残りを湛えて私を見つめていた。
***
私がなぜか、屋敷の皆さんに心配をかけてすみませんと謝った。
ご無事でようございました、というみなさんからは、何か温かいものを感じる。
ラファイルさんはというと、気まずそうに、ぼそっと謝罪らしき言葉を呟いたが、私がちゃんと謝るように引き留めた。
「え……なんで俺もうマリーナの尻に敷かれてんの……?」
「別に敷いてません、みなさんにご心配おかけしたんですからちゃんとお伝えしましょうよ」
尻に敷くだなんて心外だ。
でもなんだかノンナさんと話していて、ラファイルさんのヘタレっぽい部分が見え隠れするようになったのだ、微笑ましいやら頼りないやら。
「ふふふ、その調子ですよマリーナさん。そのくらいの方が家庭というのはうまく回るものですよ」
アーリャさんが珍しくからかってくる。
尻に敷いていると思われるくらい、私も遠慮を取り払えてきているように思える。
「お二人とも、お食事をどうぞ。
本日は何の日か、お忘れではないでしょう?」
執事さんに促されてダイニングへ入れば、見事なご馳走が準備されていた。
そうだ、今日は、ラファイルさんの誕生日。
私たちがあんな状態だったのに、二人で戻ってくることを信じてくださっていたのだろうか、時間のかかるであろう料理の数々が並んでいる。
テーブルの所々に、温かい室内で育てた花が飾られていて、すっかりお祝い仕様になっていた。
「坊っちゃま、お誕生日、おめでとうございます。
我々からのお祝いの気持ちですよ」
「……ありがとう。
みんな、テーブルについて。みんなで食べよう」
ラファイルさんの言葉で、みなさん一斉に席につき、料理をいただいた。
ラファイルさんが、ご実家で不遇でいたとしても、こんな優しい使用人さんたちに囲まれていたから、表面的にはともかく中身はしっかりと優しい人に育ったのかなと思った。
もちろん、心強い味方のプローシャさんの存在もあるけれど。
食事中、来客の知らせがあり、執事さんが対応しに行ったと思うと。
「遅くなってすまん!なんとか一晩休暇をもぎ取ってきたぞ」
プローシャさんが、ラファイルさんの誕生日を祝いに来てくれたのだ。
一人分お皿が空いているなと思ったらそういうことだった。
プローシャさんとは年始の休暇以来、久しぶりに会う気がする。
プローシャさんも一緒に食卓を囲み、本当に家族団欒といえるひとときになったのだった。
***
昨日一睡もしていないラファイルさんの電池がそろそろ切れそうだったので、私は食後、ラファイルさんをバスルームに放り込んだ。
私の遠慮がかなりなくなっていることにプローシャさんは驚いていたが、頼もしくなったと褒めてくださった。
ラファイルさんは寝る時も私といたがり、プローシャさんの手前一緒に寝るわけにもと思っていたが、プローシャさんは、邪魔はしないよ、と言い置いてゲストルームに行ってしまった。
えと……
これはイチャイチャ許可の方向なんでしょうか……?
ちょっと待ってそれは心の準備がちょっと。
私の顔が引きつっていたのかもしれない。
お風呂を終えて部屋着姿になったラファイルさんは、心配するな、と言った。
「今はしばらく、しないよ。
そっちに踏み込んだら、俺いよいよ止まらなくなる。その前にやっときたいことも山積みだし、そういう準備ができるまで、しない、今妊娠しても困るし」
「はい、私も、まだその方が」
「でもキスだけはありで」
「もうラファイルさん」
いい加減嬉しいより大変になってきた私は、ラファイルさんを一旦止めると、用意していた小箱をラファイルさんに渡した。
「お誕生日、おめでとうございます。
……お役に立てたらいいんですけど」
ラファイルさんは、プレゼントのペンケースに、いたく感動してくれた。
またも私にキスを豪雨かというくらい降らせ、絶対一緒に寝てと念押しすると、とうとう電池が切れたのか、ベッドに倒れ込むようにして寝入ってしまった。
私はそんなラファイルさんに、穏やかな気持ちで布団をかけ直すのだった。
その頃アルツィバーシェフ邸にて。
「ねぇヴァーシャあれ絶対キスしていったよね!?」
「ぽいね」
「いやーよかったぁ!マーニャちゃんめっちゃかわいかった萌える」
「だねぇ、あーラーファが無事に謝れたようでよかった……」
「疲れてるね……」
「マーニャちゃんならちゃんと話聞いてくれるってどれだけ説得したやら」
「……おつかれ。それで一緒に来たの?」
「そうだよ……マーニャちゃんじゃなきゃオレが連れて来た時点でアウトだろ」
「うん一人で来てよってなるね」
「あれくらい懐が深いと、モテるだろうなぁ、ラーファが囲い込むのも無理もないか」
「それは同意……マーニャちゃんは囲い込まれてるって全然気づいてないのが幸いというか……」
「「ま、二人幸せならいっかぁ」」




