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57:夜会の話は禁句です


翌週、私は仕事に復帰した。


家にいるのも良かったけれど、ラファイルさんと一緒にいられる仕事も、今ではむしろ嬉しいくらいだった。

ラファイルさんの助手としてプロであろうと務めて、もう日にちも経った。

ラファイルさんが指示しそうなことは多少わかってきて、事前に準備しておくこともできるようになったし、かといって踏み込んで余計なことをすることのないように、ラファイルさんに確認を取ることも怠らずしっかりする。


書いてあることがだいぶ判別できるようになったので、学校の方ではラファイルさんの研究室の片付けにも着手した。

書類やら楽譜やらが出るわ出るわ。

捨ててよさそうなものはラファイルさんに最終確認してもらってから捨てることにし、本の整理や書類の分類と綴じる作業を行っていく。


私は仕事中に練習することもラファイルさんから許されているから、ここにあるピアノでほとんどはラファイルさんにいただいた基礎練習をしている。

例の元学部長に聞かれたら嫌なので、この部屋ではほぼ基礎練しかしていない。


…………

…………


そろそろ、ラファイルさんが今日の授業を全部終えて戻ってくる頃だ。

早く帰って練習したいだろうラファイルさんがすぐ引き上げられるように、私は荷物のまとめを始めた。



だが今日は、授業が済んで10分経っても、ラファイルさんが戻ってこない。

今の授業は個別じゃなく全体講義だったはず。

学生さんの質問でも受けているのかもしれない。


まだかな、と思って、研究室のドアを開けて廊下の様子を見た。


「先生!楽団に合格する秘訣、教えてくださいませ!

やっぱり学校の試験の成績なんでしょうか?」


甲高い女性の声。


角を曲がって歩いてきたのは、ラファイルさんと、その声の主らしき女の子だ。


「一概に成績だけというわけでもないですよ。

楽団にはチームワークも重要ですからね」

「それなら大丈夫ですわ!わたくし、先生のいる楽団で絶対演奏したいんです!新年度のクラス替えは、先生、わたくしを入れてくださいませ!」


金髪を美しく結いあげた、可愛らしいご令嬢だ。

ラファイルさんの横について行くように歩くのを見て、私の胸に重いものがのしかかった。


ラファイルさんに、憧れている学生さんだろうか。


ラファイルさんの受け持ちには、あんな学生はいなかったはず。

誰?


王立楽団への入団希望者……?


「カザロヴァさん、それも俺の一存では決まらないので、約束はできません。

それに俺は楽団の指導以外では演奏しませんよ」


カザロヴァ。

確かにラファイルさんの受け持ちの学生に、そんな名前はない。

誰、何のために、ラファイルさんの担当に入れてもらおうとしているの。

不快感で鼓動が速くなる。


「えっ?でも先生、パレードのときの夜会、演奏してらっしゃったでしょう?」


夜会。

その話題は、やめてーー


私は思わず、開いていたドアをそのままに、廊下に出た。


「金髪の先生、初めて拝見しました!わたくし、あの夜会に出席しておりましたのよ!とても麗しいお姿でしたわ、普段から金髪になさればーー」


「先生、講義お疲れさまでした」


私は呼びかけて、カザロヴァ嬢の会話を遮った。

ラファイルさんが、私を認識する。

予想通り、明らかに顔色が悪くなっていた。


「……カザロヴァさん、そのことについては今後言及を慎んでもらいたい。……急ぐので失礼する」


低く、押し殺したような声で彼女に告げ、足早に私に向かってきた。


「マリーナ、すぐに出る。荷物を頼む」

「はいっ!」


私は準備した荷物と二人分のコートをすぐに取ってきて、研究室の鍵を閉め、事態が分からず立ち尽くすカザロヴァ嬢には目もくれず、ラファイルさんの後を小走りに追った。


***


帰りの馬車は、スピードを上げて屋敷に戻っていく。

ガタガタいうが、音があるほうがちょうどいいーーラファイルさんが、今呻いているから。


ラファイルさんはなんとか馬車まで耐え切り、私が乗り込んで走り出すなり、喚き始めた。

顔には前と同じように蕁麻疹が広がり、痒くてどうにも辛そうだった。

不快感に覆われているのを見ながら何もできないのがもどかしい。


「ラファイルさん、ラファイルさん」

私の呼びかけにも返事はなく、息を荒くして馬車の床でうずくまってしまう。


「ラファイルさん。触りますよ?」

予告してから、私はラファイルさんの顔に両手を触れた。


「マリーナ……?」

「マリーナです。ここにいます」

「マリーナ、息、が……」

「ラファイルさん?」


苦しい、とラファイルさんが訴える。

どうしよう、まだ家まで10分はある。


これ……

もしかして、過呼吸?


吸いすぎるのがいけないんだっけ、と思うが、如何せん聞きかじった情報しか知らなくて、どうすればいいのかは分からない。

あの袋を口に当てるやつだっけ……?


というか過呼吸なのかどうかも素人判断ではわからない。


「ラファイルさん、声、聞こえますか?

息、ゆっくり吐けますか?」


プローシャさんが、業務中パニックに陥った人を鎮めるのに、口からゆっくり息を吐かせて呼吸を落ち着かせると言っていたのを不意に思い出したのだ。


「ラファイルさん、一緒に、息吐いて」


フー、とガイドするように言ってあげて、ラファイルさんの息を胸に手を当てて確認する。

それを何度か繰り返すと、私と同じタイミングで息を吐いてくれるようになってきた。


「落ち着いてきましたよ。きっともう大丈夫。

私が、いますからね」


私は馬車の床に座り込んで、ラファイルさんの頭の下に脚を入れて、膝枕状態にした。


触れているほうが、もしかしたら落ち着くかと思って。


ラファイルさんの呼吸はだんだん静まっていき、かすかに、助かった、という呟きが聞こえた。


「大丈夫……何も考えないで、いいんです。

ゆっくり息をして」


私はラファイルさんの胸に手を当てて、胸がゆっくり呼吸で上下するさまを確認した。


***


帰邸して先生に診てもらい、おそらくストレスによるものだと言われた。

多分私の世界の中近世よりは医学が進んでいそうだが、それでも私の世界の現代ほどではない、いくら優秀なお医者さんでも現代と同様の診断は難しいだろう。

ただ、こういう症状のある人は、今後も同様の状況下で症状が出る傾向があるそうで、気をつけるように言われた。


ラファイルさんと一緒に先生の話を聞いた私は、どうしたらいいんだろう、と思案していた。


今回みたいに、あの夜会のことを無遠慮に持ち出す人がいたら、ラファイルさんの過呼吸?が出てしまう恐れがある。

私のいないところでそれが起こったら、多分誰にも対処できない。


私がボディガードみたいについて歩くとか?


あの令嬢は何のつもりでラファイルさんにあんなことを言ったんだろう。

ラファイルさんは応じる様子はなかったが。



「少し、練習に付き合ってくれ。

……嫌なことを忘れたい」

「はい、無理のないようにしてくださいね」


ラファイルさんは先生が帰られた後、それでも練習に向かった。

気が紛れるのならそれが一番だ。

私たちは食事も着替えもしないまま、音楽室に向かった。


…………

…………


練習をしばらくした後、この日私たちはラファイルさんの部屋で一緒に眠った。


ラファイルさんは練習ですっかり落ち着きを取り戻しはしたが、まだ蕁麻疹のかゆみは引き切っていなかった。


明日は王宮だし、私に引っ付いて気分が収まってくるならその方がいいと私も思ったのだ。


楽団のみなさんは、エフレムさんたち以外はこの蕁麻疹は目撃していなかったように思うから、驚かれそうだ。


私の体を抱きしめて目を閉じるラファイルさんの頬に、ラファイルさんがいつもしてくれるように、私はそっと唇を当てた。

蕁麻疹が早く引けばいいな、と思って。


「マリーナ……?」

「あっ、ごめんなさい……起こしちゃった」

「ん、いい」


今度はラファイルさんが、思い出したように私の頬や額にキスをくれる。


「気持ち悪くない?」

「何が、ですか?」

「……俺の顔」

「そんなわけないでしょ」

「あんた、すげぇわ」

「どうして?」

「息が苦しくなったのも、対処してくれたし。あんたの世界では医学までやるのか?」

「いいえ、たまたま……過呼吸は聞いたことがあったから。

それに、プローシャさんがパニックの人を鎮める話をしてくれたのを、思い出したんです」

「……あんたじゃなきゃ、死んでたかも、俺」


その言葉に怖くなって、ラファイルさんの腕をきゅっと握った。


でもそれも、私がいなかったらそもそも発生しなかったな、と思い直す。

私はラファイルさんを脅かす原因を作ってしまったのだ。


「……大元の原因って、私ですよ……私のミス」

「マリーナ。違う」


ラファイルさんは、私から顔を離して、私をしっかり見てきた。


「たまたま、あのときのミスをきっかけに、こんな状態が発生した、それは事実だ。

でも単なるきっかけであって。思えば元々、ずっと前から俺の中にあったものなんだ。

表面化したのが初めて、ってだけのことだ。

だから何も、あんたのせいじゃない」


そう、なんだろうか。


「見て見ぬふりをしてただけだったんだ、きっと……


向き合うときが、きたのかもしれない……」


独り言のように言うラファイルさんは、少し苦しそうだ。

向き合うというのは、ご実家のことだろうか。

表舞台に立つ人たちの演奏を見るということは、何事もなくできていたから。


「私、ついてますから」


私はラファイルさんに、任せると言われている。

ラファイルさんが立ち向かうときには、全力で支える、そう決めている。



ラファイルさんが私を見て、

少し体を起こしたかと思うと。


私の肩に手をかけて、そのまま覆いかぶさってきた。


やばい、この体勢。


一瞬そう思って緊張したが、ラファイルさんは私の胸に頭を乗せたまま、動かなかった。


「……あんたがいれば……乗り越えれそうな気がする。

……あの夜会のときみたいに」


「一緒にいます」


ラファイルさんの頭を胸に抱きしめた。



程なくして、ラファイルさんの寝息が聞こえてきた。


※過呼吸(=過換気症候群)対処でペーパーバッグ法が思い浮かぶかもしれませんが、(口に袋を当てるやつ)


現在は「しないよう」推奨されています。酸素濃度とかの関係で逆に危険が増すらしいです。


※ラファイルさんが「死んでたかも」と言う場面がありますが、過呼吸が直接命にかかわることはないみたいです。

ネット検索できないからマリーナも、心配いりませんと言えないのです。

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