52:過労でした
私は栄養失調と貧血、そして過労と診断された。
確かにずっと食欲がなく、食べる量がかなり減っていて、それに加えて仕事も残業続き、各種公演にも足を運んでいたから、そりゃあそうでしょうと先生に怒られた。
先生は、私がここに来たときに診てくださった先生で、環境の変化によって溜まっていた疲れもここで一気に出たんだろうとおっしゃった。
それも確かにあるかもしれない。
そのときと同じように栄養剤の注射を打たれて、食事が普通に取れるようになるまでは仕事をしないように言われた。
また注射を打ちにくるからと腰を上げた先生は、ふと思いついたようにおっしゃった。
「そういえば……月のものは、来てるかね?」
あ。
妊娠の可能性ですか。
「そういうのは、ないです、確かにいつもよりは遅いんですけど、妊娠するようなことはしてないので」
「ああ、そうか。……すまんすまん、あのときのお嬢ちゃんがラーファと一緒に住んでるっていうから、万が一そういうこともあるか、と思っただけでな」
「彼女の不名誉になるようなこと、しませんよ、先生」
「すまんのうラーファ。そうでない場合はままあるものでな。きみはさすがじゃよ」
ああ。
婚前交渉は実は結構あるということですか。
ですよねー。
古今東西、どこでも同じだ。
多分二十歳超えて未経験の私は、結構レアなんじゃないだろうか。
大学で彼氏のできた友達はみんな経験済みのようだし、彼氏ができたイコール経験ありと考えるのが普通らしい。
私も、一人だけ付き合った人はいたが、そうなる前に別れた。
いや、別れさせられた。
結果ラファイルさんに未経験だと言えるから、別れさせられてよかったと今は思っているけど。
先生が帰られてから、私はラファイルさんから、倒れた後のことを聞いた。
***
私は全く覚えていなかったが、私は倒れた後、うわ言のようにラファイルさんを呼び続けていたらしい。
脈があって呼吸もしていたから、ひとまず邸に連れて帰ることにして、
運んでくれたのはヴァシリーさんだった。
ラファイルさんの体格では確かに無理があるだろう。
ラファイルさんが見守りたいからとこっちの部屋に寝かせて、急遽先生に診てもらい、栄養失調と貧血を認めた。
そのときも注射をしたが、今回私は針を刺しても起きなかったのだった。
夜中、急に私がラファイルさんを呼んだらしい。
ラファイルさんは呼ばれたものの、私は目覚めておらずうなされているように見え、懸命に私を呼んでくれたそうだ。
そして私の意識が戻り、ラファイルさんが一緒に寝てくれたという次第だった。
そのときのことを、だんだん思い出してきた。
完全に、元の世界にいたときの感覚になっていた。たまに中高生とかに戻って学校にいる夢を見ることがあるが、そういった夢の一種だったのかもしれない。
起きたときには心底ホッとした。
今は違う。
ラファイルさんが一緒だし、私はラファイルさんと楽団員のみなさんのために、仕事を頑張りたいと思っている。
ただ仮に、元の世界に戻ってしまうことがあれば、ラファイルさんのいない世界で私は頑張れる気なんてしない。
私は多分、ラファイルさんのように、ついていきたい!と強く惹かれる要素がないと、生きる目的を感じられないような気がする。
いくら条件のいい仕事でも、相手でも、条件の良さだけでは割り切って受け入れることがどうしてもできないのだ。
生きにくい性格だと思う。
条件で選んで仕事なり結婚生活なりを続けられる人に比べて、私は損をしているのだろう。でも無理なものは無理なのだ。
もっとも、そんないい条件の仕事も相手も、美人でもなければ仕事も家事も大したことのできない私に来ることはないだろうが。
とはいえラファイルさんと助手の仕事は、条件も相手も良すぎて畏れ多いけど……
うん、異世界だし、その辺は例外として考えよう。
でもたとえタダ働きでも、ここへ置いていただけるならやるつもりだったし、今だってお金のためにやっている感覚はほぼない。至れり尽くせりだからお返ししなきゃという気持ち、憧れのラファイルさんのためにお役に立ちたいという気持ちの方が大きい。
ラファイルさんの背中を見て、私もプロとして仕事をしよう、とここへきて初めて思えたのだ。
ラファイルさんのためだから、頑張れるのだ。
…………
…………
少しの間、ヘッドボードにもたれて体を起こしていたのだが、しんどくなってきて私はラファイルさんに断って横になることにした。
ラファイルさんが、横になるのに手を貸してくれるのが嬉しい。
元気だったら音楽を楽しんでいたはずなのに、こんなことになってしまってラファイルさんに申し訳なく思った。
「……ごめんなさい。音合わせ、できませんでしたね……」
私も、楽しみにしてたのに。
「ったく……疲れてるなら早く言えよ。
こんなになるまで、無理して……
大丈夫っていうから出かけたのに」
ラファイルさんが険しい顔で言い、私は責められた気がして少し凹んでしまった。
弱ってるところにそれはちょっと、つらいかも。
「……すみません。
こんなになるなんて、思ってなくて……」
「どんだけ心配したと思ってんだよ」
ラファイルさんの口調は、なぜか思いの外キツかった。
申し訳なさが大きくなり、私は俯いた。
「ごめんなさい……」
「別に謝ってほしいわけじゃない。
……あー、その。
仕事のことは忘れて、ゆっくりしろ。
俺はここにいるから」
「……はい」
「……あのさー、しんどいときに、ちゃんとしんどいって、言ってくれよな。
俺そんな気付ける方じゃねーし……
いっつも、言わなすぎるんだよ、逆に昨日は俺のこと呼んでくれて、驚いたっつーか……
あれくらい言ってくれていいのに……」
私の方を見ずにそう言うあたり、どうも照れているような。
この人は照れると余計ぶっきらぼうになる気がする。
「……だって、ラファイルさんの邪魔になったら、申し訳ないので……」
「だから無理なときは後で聞くって。用があることだけでも知らせてくれよ。
なんだってそんなに遠慮すんだよ。なんかそういうの見てるとこっちが痛々しくなんだよ。
俺はそんなに頼りになんねぇかよ?」
「頼りに……してます。
頼り切ってます。だから……」
「どこが?倒れるまで我慢して頼るもクソもあるか」
頼り切ってるのに。生活の面倒を全部見てもらって。仕事までいただいて。
今や身分も貴族に準ずると保証してくださって。
私はラファイルさんがいないと生きていけない。
そのくらい、べったり依存している。
我ながら重たくて、言葉にするのが憚られてしまった。
「あんたがこんなになって怒られるのは俺なんだからな……
勘弁してくれよ。ヴァーシャにもノーナにも、俺が怒られたじゃねーか、ほんとにもう……」
私の胸に、重いものが突き刺さる。
ヴァシリーさんやノンナさんにも心配をかけてしまったけど、ラファイルさんが責められるようなことじゃないのに。
結局ラファイルさんに迷惑をかけてしまった。
だがラファイルさんは、思い出し笑いのような苦笑をした、
「あいつらほんと、あんたのことになるとうるせーんだよな」
私はなんだか拍子抜けしてしまった。
迷惑をかけたと思ったのに、そういうわけでもなかったの?
私はシリアスに捉えていたのに、ラファイルさんはそんなつもりではなかったようなのだ。
緊張と安堵を感じたせいか、疲れを感じた。
ラファイルさんは人の気分を振り回してばっかりで、癒し役には向かないなと思ってしまった。
癒し役は私だから、いいんだけど。
顔を布団に伏せてため息をつくと、ラファイルさんが立ち上がって、ベッドに腰掛けてくるのが見えた。
「しんどいのか?マリーナ」
それでもこうやって声をかけてくれるのは、嬉しい。嬉しいに決まっている。
大丈夫、と言いかけて、それだとまたこの人が文句言うかも、と思った。
文句というのは嫌な感情を向けられるという意味ではない。
私が無意識に、自分の本音を無視して、大丈夫とかわかったとか言ってしまうことに、文句を言っているように思ったのだ。
そう思うと、今の状態で大丈夫だなんて、言えなくなった。
「しんどい……」
「何か、水分でも、取れそうか?」
「はい……何か、ジュースがあれば……」
「わかった。待ってて」
ラファイルさんは、私の髪をなで。
ベッドに乗り上げて私に素早く近づくと。
額に、キスをしていったのだ。
***
えー。
えーと。
いや欧米では別に特別なことじゃないよ、うん。
まぁ赤の他人にはしないと思うけど……って実際のとこどうなんだろう?
この国に4か月いる間、そういう光景は見かけなかった。
といっても学校と王宮しかほぼ行ってなくて、それもほぼ室内作業で、外の様子を私はあまり知らないのだ。
王宮でイチャつくような人は(表立っては)いないし、家でだってアーリャさんサーニャさん夫婦もそんなことを人前でしない。
テレビでは、赤の他人でも挨拶のために頬にキスとか、見たことあるけど……
ここもそれと同じなのかそれとも日本人の感覚通りの特別ことなのか、判別できない。
しんどいのに脳内フィーバーして余計疲れるじゃんかー。
何してくれるんだラファイルさん。
頭まで布団をかぶって、私はひっそりと身悶えていたのだった……




