39:お兄様に遭遇しました
国王夫妻のダンスの後は、順番はよくわからないけど大勢の参加者によるダンスが行われた。
会場では順番待ちの人のおしゃべりも始まり、オーケストラの音も会場のざわめきに紛れていく。
それでも私は、美しく舞い踊るひとたちより、ラファイルさんだけをじっと見ていた。
以前からリハーサルをやっていた曲は、ラファイルさんがいない状態で完成していたわけだから、ラファイルさんは休憩ができる。
と思ったのだが、ラファイルさんはバイオリンを手にして弾いているではないか。
ヴァシリーさんに聞いてみた。
「今回は人数がギリギリで、削れるところは削って仕上げてるからね。
多分削ったとこを弾いてるんだよ」
「演奏しっぱなしじゃないですか……
三時間、続けるおつもりなんでしょうか?」
「うーん……そうかもしれないね。
でもラーファは三時間くらい余裕っしょ、毎日それ以上ぶっ続けで練習してんだから」
「あ……そうか……」
出会ったばかりの頃から、7時間8時間余裕で弾き続けてた、そういえば。
私が途中で居眠りしてたくらい。
この事態を見越してではないだろうが、下地はとうにあるのだ。
「ラーファに任せておけば、大丈夫だよ。
オレも散々ミスって、その度にラーファに助けられてる。安心してミスができるよ」
「ちょっ、それ、ダメでしょう?」
「あいつはピンチのたびに才能が開花するからねぇ。
オレはもう慣れたよ」
「もうラファイルさんにそんな負荷かけないでくださいよ!」
負担が大きくてラファイルさんが心配になる。
「あー、冗談冗談。
きみのおかげでミスは相当減ってるし。
練習に集中できるってこないだ喜んでたなぁ」
それはヴァシリーさんへの当て付けでは……とちょっと思ったが、言葉通りに受け止めておく。
「マーニャちゃん、飲み物もらって来ようか?
熱気も結構ある。顔が火照ってるよ」
そういえば、少し暑さを感じていた。
さすがに熱中症はないだろうが、冬用の服で結構着込んでいるから、水分をとっておいた方がよさそうだ。
ヴァシリーさんに、お水をお願いして、ヴァシリーさんは私の隣から離れていった。
一人で待っていると。
「失礼、お嬢さん」
男性の声がかかった気がして、私はそちらを見上げた。
金髪の、背の高い、彫刻のように美しい男性が、こちらを見ていた。
「一曲、お相手を」
***
……なんで、そうなるんですか。
どう見ても上流貴族のこの男性に声をかけられて、まず思ったのは、それだ。
待って。
ドレスでもない私が踊れるわけないでしょう。ほんとにどうなってるんですか。
とりあえず、立ち上がる。差し出されている彼の手は、取らない。
この方は、騎士装束ではないが、体格的におそらく騎士様だ。
なんで私に。
意味がわからないが、とにかく、ここを離れるわけにはいかない。
「お申し出、大変ありがたいのですが、わたくしは使用人の身、そのような資格はございません。
わたくしは勤務中ですので、ここを離れるわけには参りません、どうか、ご無礼をお許しくださいませ」
目上の方に断りを入れること自体が非礼に当たるのだが、こちらもそれどころではない。
「ふむ?身分を気にしているのなら、そちらのバルコニーにでも出ればよい。勤務中であろうと侯爵家である私から声をかけたのだから、咎め立てなどされまい。不粋なことを申す者には、私から言ってやろう」
ええぇ……!なんですかそれ!侯爵家って!お偉いさんの権力ですか?
やばいどうしよう。
「まぁ、ご覧になって!エドゥアルド様が、使用人の娘にお声を!」
「何てこと!あの娘、お手を取るのかしら?平民の分際で!」
急に、周りの女性たちから非難の声が上がる。
エドゥアルド様、て。
やばい。
ラファイルさんの、お兄様……
顔から血の気が引いていく。
今日はもういろいろありすぎて、追いつかない。
もう思考はまともに働いていない、だから私の頭には、ラファイルさんのことしかなかった。
「使用人の分際で出ていけば、貴方様の御評判にも関わりましょう、どうか御身にふさわしいご令嬢にお声掛けください。
わたくしには忠誠を誓う方がおります、その方のために、仕事を離れるわけには参りません。
何卒、ご容赦くださいませ」
「フン……面白い。
女の身でそこまでするとは、なかなか見どころがありそうだ。
着飾ることしかせぬ令嬢とは随分と心構えが違うな。
よかろう、ならばそなたが私にふさわしくなればいい。
私がそなたを、誰にも負けぬ貴婦人に仕立て上げてやろう」
え。
ちょっと待ってなんでそうなる。
「そなたの主人の名は?」
待ってよ。無茶がすぎる。私の意思は全く無視だ。
でもこれ以上、どうやって非礼にならず断れるのか、もはや分からない。
これが権力者というやつなのか。
「どうした、そなたの主人など恐るるに足らぬ。そなたの安全は保証するから恐れず申してみよ」
違うのに!
あんたが安全じゃないんだよ!
ノンナさんくらい身分があれば、きっと言えるのに……
これ以上断って、無礼だと罰される確率の方が高い。
でも。
私は絶対ラファイルさんの元に帰る。
もう、物理的に逃げるしかーー
「ーーオストロフスキー殿。僕の部下に何か用でも?」
後ろから聞こえたのは、耳に馴染んだ、ヴァシリーさんのものだった。
***
ラファイルさんとお兄様のご実家は侯爵家。
ヴァシリーさんのご実家は、公爵家、格上だ。
「ごめん、マーニャちゃん、水持ってくる間だけでこんなことになるとはね」
ヴァシリーさんは、私の前にまわり、お兄様を遮ってくれた。
「……ミトロファノフ殿か。
随分と優秀な部下のようだね」
「ええ、その通り。オストロフスキー殿はさすが、お目が高い、彼女を部下にできたのは幸運だった。だから手放すつもりはないので、ご遠慮願おうか」
「だが貴殿は嫡男ではない。
公爵になれない男より、侯爵の位を約束されている男の方が、優秀な彼女にはふさわしくないかね?」
「オストロフスキー殿、そうやって、数多くの令嬢の敵意を彼女に向けさせるおつもりか?
今既に彼女を目の仇にしたご令嬢が何人もいるのに、お気づきではないとおっしゃるのか。
彼女の立場を不利にする男に、彼女を任せたい主人がどこにいるだろうねぇ」
「……フン、器量の狭い主人だことだ。
彼女に手を出す令嬢など、こちらから罰してやる。ならば彼女も怖くなどあるまい?」
「畏れ多くも国王陛下主宰の席で、そんな乱暴な言葉は慎みたまえよ、オストロフスキー殿。
それに彼女が、己の勤めを果たそうとしているのが分からないとでも言うのかい?それを遮るのは賢明な者のすることではないと思うけどね」
「……その言葉が間違っていること、いずれ証明してやろう。
仕事に邁進する女性を邪魔するのは確かに無粋だった。しっかり勤めを果たすとよい、
だが女の幸せはそんなもので満たされることはない。
私ならば仕事などさせぬがな。
女の幸せとは何か、よく考えてみることだ」
お兄様は、ようやく、踵を返して去っていってくれた。
…………
…………
あまりの緊張に、軽い目眩を覚えて、私は椅子に倒れかかった。
「マーニャちゃん、大丈夫?事務所に戻ろうか」
「いえ……座っていれば、何とか……
ありがとう、ございました、ヴァシリーさん」
「いいから。なんだってエドゥアルド殿がきみに声をかけたんだ……
ラーファの関係者って気づかれなくてよかった。時間の問題かもしれないけど」
ほんとに、なんなんだ、あのしつこさは。
まさか私が断るとは思ってなかったということか。
よりによって女性の理想が高い人が何で私に。
これもさしずめ、ドゥナエフ氏と同様に、レア物を愛でてみたいという好奇心に過ぎないのだろう。
まだ、私を取り囲むようにして見ているご令嬢たちから、敵意のこもった眼差しを感じる。
ヴァシリーさんがそちらを睨みつけると、彼女たちはそっと人混みに隠れていった。
私は、水分を少し取って、再びラファイルさんに目を向けた。
先程の騒動が、目に入っていなければいいが。
ただでさえ屈辱の金髪を身につけて、負荷がかかっているかもしれないのだ、
これでお兄様が私に話しかけたとわかったら、負荷がもう計り知れない。
遠目には、ラファイルさんは譜面に集中しているようで、変わりなかった。
一安心して、背もたれに体を預ける。
「マーニャちゃん。
ラーファと結婚するといい。それも早めに」
ヴァシリーさんが、そっと言った。
「エドゥアルド殿があれほど言ってくるとは誰も予想しなかったことだ、
本気できみを手に入れようとするかもしれない。
人妻になってしまえばとりあえず手も出せないだろ。
きみさえ嫌でなかったら、それが最良の方法だと思う。
オレからラーファに言ってもいい」
「……今日はもう、考えれません……
ラファイルさんに、ご迷惑だけはかけたくない……」
「うん。ごめんね。
でも頭に入れときなよ。
オレも協力するから」
はいともなんとも、答えられなかった。
ラファイルさんがどう思っているかも分からないのに、結婚と言われても現実として考えられないのと、もうすっかりキャパオーバーになってしまって、考える容量が残っていなかった。
すっかり疲弊して、私はひたすら演奏を聴くのみだった。




