32:初めてのお菓子屋さん
帰りの馬車の中が、何だか気まずかった。
いや、ラファイルさんは何も知らないから、気まずいのは私側だけだが。
考えないようにしていたのに、ノンナさんに結婚というワードを言われて、妙に意識してしまっている。
そう、分かっていたけれど、考えないように努めていた。
ラファイルさんを、男として好きになることを。
だって、いらっしゃるところが高すぎる。
私が釣り合うわけがない、音楽についても人間的にも社会的立場についても。
だから、ファン、ということにしてきた。
ノンナさんが言うには、私は王宮への出入りもあるから、侯爵家の妻という立場があれば随分助けになるということだ。
それにラファイルさんは私以外で一緒に住める人なんかいないし、音楽バカ同士理解もあるし、私以上に最適な女性はいない、とノンナさんは感じていると。
最初に私を見た時、ラファイルさんに手を引かれて入ってきたから、てっきりそういう存在かと思っていたそうだ。
客を見送る様も、普通に妻っぽかったらしく……
ラファイルさんに、彼女を逃さない方がいいよと耳打ちした、
私がそれを見て、二人の親しさに動揺した、あのときのことだった。
そのときラファイルさんが、私をここへ置いておくつもりだと言ったから、(私が思うに助手としてだと思う、そんなうぬぼれませんとも)
それから何かと、ラファイルさんから私とのやりとりの情報を聞き出しては、女性視点で私をどう扱ったらいいかラファイルさんにアドバイスくださっていたらしい。
ラファイルさんがあまりに不器用なので心配だそうだ。
…………
だめだ冷静じゃない。
ちょっと時間をおいて頭を冷やそう。
ラファイルさんと結局いろいろな話はできていないままだった。
話しかけるのが下手な私は、今ならいいかな、とか逡巡しているうちにタイミングをいつも見逃すのだ。
何を何からどう話せばいいのかも分からなくて、しかもラファイルさんを前にすると、話したかったはずのことが頭から飛んでいってしまう。
「着きましたよ、坊っちゃま」
御者さんの声でふと窓の外を見ると、そこは王都の中心街だった。
学校から王宮に向かうときには通るが、私は立ち寄ったことはない。
ラファイルさんは扉を開けて出て行き、私を振り返った。
「マリーナ。おいで」
手を差し出してくださっている。
ドキドキしながら手を取って、馬車を降りた。
「甘い物、好きか?」
「?はい」
「じゃあ、何か買っていこう」
ラファイルさんについて、一軒の店らしき建物に入る。
「……え、これ、ケーキ、ですか?」
***
どうやらお菓子屋さんらしい。
ケーキや焼き菓子がいろいろと並んでいるではないか。
「なんでも選んでいいぞ」
正直、日本のケーキ屋さんほど種類はなく、彩りにも乏しい。
そりゃあフルーツだって季節があるものねぇ。
年中苺が手に入るわけないもの。
でも私は、そこだけは年頃の女子っぽく、甘いものーー女子っぽく言うところのスイーツーーは大好きだ。
実はこの世界に来てから、ケーキは口にしていないのである!
メイドさんの手作りクッキーなんかは、ティータイムにいただいていたのだが。
というのもお屋敷で「若い女性」はおろか「若い人」は私とラファイルさんのみで、みなさん甘い物はほぼ召し上がらないため、ケーキは自然にあの屋敷から遠ざかっていたのだろう。
でも、なんでケーキ屋さんに。
お屋敷のみなさんの分も考えた方がいいよね。どれを選べばいいのか分からない。
そしてもう一つ気づいた、
この国だから、この世界だからなのか、ケーキが日本の感覚に比べて、異様に高かったのである……!
ピースでひとつ、多分1500円くらい。
ホールになると、日本なら3000円くらいで買えたであろうものが、なんと2万ちかくするのだ。
こういう社会ってケーキは贅沢品になるのかなぁ。
これでパンがなければケーキを食べればいいじゃないとか言われたらそりゃあ怒りますわ。
しかし余計に、これがいいと言い難くなった…
「……あの、ケーキってこれくらいするもんなんですか……?」
「さあ?
姉上に聞いたらここが一番だって。王室御用達らしい」
ひぃぃぃ!
そら高いですわ!
さ、さすが上流階級、サラッと王室御用達の店に連れてくるとか……!
こういうとき育ちの差を実感してしまうよね!
で、釣り合わないって思っちゃうよね……
選ぶフリをして、私は一番値段の低いものを探していた。
「みなさんのも、買います……か?」
「いや、みんなこういうのはあんまり食べないから、あんたがいいのを選びな」
恐る恐る選んだものを、ラファイルさんはさっさと買って、馬車に戻ろうとする。
え、ラファイルさんのは?
「俺も甘い物別に食べないから」
そっか。
でも、私だけ買ってもらうのは、申し訳ないな。
「ラファイルさん、アーリャさんたち、パイとか召し上がりますか?」
「ん?
まぁあれば食べるんじゃね」
「私からみなさんに差し上げたいので、買ってきますね」
そう、この前、初給金を頂いたのだ。
しかし使うこともほぼないから、いつもお世話になっているみなさんに気持ちばかりのお返しをしようと思ったのだ。
こういうことに気が利く方ではないが、それくらいはさせていただきたくて。
だがラファイルさんが戻ってきて、それを遮った。
「いいから」
そしてさっさとお会計を済ませてしまった。
…………
…………
「……すみません」
「ん」
「こっちも買っていただいてしまって」
「なんでそれくらい俺に言わないんだ」
うう怒らなくても。
「みんなにはこんだけ買ってあんたのは小さいの一つじゃねーか、何だその自己犠牲精神は」
「いやだって高いですし……別に自己犠牲だなんてつもりは」
こっちは庶民なの庶民。
しかも私はもともと節約体質である。それにグルメより断然音楽だから、実を言うとそこまでこだわってはいないのだ。
「あんたそういうとこあるよな。周りにはすっげ気ぃ遣いなのに、自分のことは何も言わない」
「……口下手でして」
「見ててもどかしい」
「……しょうがないじゃないですか、そういう性格なんです」
「自分に不利になるばっかりだぞ」
「……分かってるんですけど、どうも、口に出せなくて。
でも絶対無理なことは、ちゃんと断ったりしてますよ?
こう見えて結構自分本位ですから」
ドゥナエフ氏とかちゃんと断ったよ。
「へぇーそれで自分本位ねぇ」
「今バカにしました?」
「こんな菓子程度を遠慮しといて自分本位とか、何の冗談だっつーの。
まぁあんたはそれでいいんだけどな」
うー小馬鹿にしたように笑ってるし……!
何だって4つも年下にこんな偉そうにされなきゃいけないの……!
ちょっとふてたくなった。
でもそれにしても。
「一体どうしたんですか、お菓子屋さんなんて。
プローシャさんにわざわざ聞いてまで」
おや、ちょっとラファイルさんの目が泳いだ気が。
「いや……別に。
いいだろたまには」
そう言ってそっぽを向いてしまう。
照れてる?ねえ照れてる?
「連れて行ってくださってありがとうございました。嬉しかったです」
私には珍しく、はっきりと告げた。
嬉しかったから。
それはちゃんと伝えたかった。
「ケーキ、大事に食べますね。
ラファイルさんも、このパイよかったら召し上がってください。
すっごいいい匂いします」
「ん、気が向いたら」
素直にもらえばいいのに。とちょっとかわいく思ってしまったのは内緒だ。
***
「あらぁ坊っちゃまがそんなことを!
まあまあかわいらしいことをなさいますねぇ」
「ようやくそういうことにも気が回るようになられたのねぇ」
帰宅した途端、ラファイルさんはさっさといつものように音楽室へ引っ込んでいった。
私はひとまずケーキとパイを台所に持って行ったのだが、それで事情を知ったアーリャさんたちにつかまっているところである。
パイはみなさんに喜んで頂けたようで、よかった。
「いつもより早めだけれど、夕食にしましょう。パイも早く食べたいしね」
「みんなを呼んでくるわ」
そしていつものように、ラファイルさんを除いた屋敷の全員で夕食をとり、デザートにパイを、私はケーキもいただいた。
さすが王室御用達、絶品である。
使用人の方々が口にすることは本来ないものなので、みなさん私にすごく感謝してくれた。
でも結局ラファイルさんに買ってもらってしまったものだし、私だって使用人のみなさんと同じ立場だと思っている、いつもよくして頂いている気持ちを、それこそ奮発してでも表したかっただけなのだ。
私は、ここじゃなかったら、音楽がなかったら、もしかしたら生きていけなかったかもしれない。
訳の分からないところにいて、一からやれる気は、今でもやっぱりしない、
きっと諦めて餓死かなんかを受け入れてたと思う。
そのくらい、生きたいという感覚を失っていたな、と今になればわかる。
ラファイルさんを最初怖いと感じたのは、あまりにも生きる気力がギラギラしていたからだと、今では思う。
貪欲に音楽を求める思いに、生きる気力を失いかけていた私は、完全にひるんでいたのだ。
そう思うと、いつのまにか、毎日を必死でやっているうちに、生きる気力は戻ってるな、と感じた。
ケーキとパイのおかげで、今晩はちょっと多めに練習しようと思えた。
いつものようにサブの練習室に閉じこもり、基礎練習から開始する。
ラファイルさんにもらった基礎練で、結構難しいんだけど、いい指のトレーニングになる。
1時間も練習した頃、コンコン、と部屋がノックされた。
驚いて顔を上げると、ラファイルさんが顔をのぞかせた。
パンがなければ:マリーアントワネットの言葉ではないという説が強いようです。




