2:死ぬ前に弾かせていただきます
……やばい。
これはやばい。
私は既に、ぐったりとなって床に突っ伏していた。
ここへ来てからまる二日。
誰も、来なかったのだ。
昨日一日、誰も来なかったから、さすがに私もドアを内側から叩いて助けを求めた。
だが虚しくもやはり誰も近くにいなかったようなのだ。
室内には隣に部屋が二つあって、洗面所(トイレ込み)だったので、無断で申し訳ないけれどお手洗いは使わせてもらった。
洗面台で、どうしてもお水だけは頂いた。
驚いたのは、トイレも洗面所も、どこのお屋敷!?というほどゆったりした作りで、美しかったことだ。
しかも水洗。洗面台の灯りは点いている。そしてスイッチがなく消し方が分からなかった。
自動センサー……?
なわけないよね?
とりあえず過去のどこかじゃなさそう、というのはわかった。
部屋の方には、壁燭台がぐるりと設られていて、夜にはなんと勝手に灯りがついた。
やっぱり自動センサー?
いやいやまさか。
しかし窓は広いのだし、これでこの部屋に誰かいるだろうことは外からわかっただろうに、だが誰もここへはこなかった。
もう一つの部屋の方は鍵がかかっていて入れなかった。
……と、状況説明は置いておいて。
もう二日が過ぎようとしている。
今は灯りがついていて、外は真っ暗だ。
時間は、多分私の腕時計とはずれている。
……窓を割って出る?
それも、考えなくもなかったが……
水だけで10日間は生きられると聞いたから、脱出したところで行く当ても何もないのだし、数日待ってみることにしたのだ。
窓から脱出すれば、泥棒と思われるかもしれないし、
泥棒ならひたすら待つなんてしないはずだから、身の潔白の証明になると考えたのもあった。
……ここへ放り出された状況で思考がおかしくなっていたのかもしれないが。
このときの私は、ひたすら待つことしか考えられなかった。
だがそれにしても。
体はすっかりフラフラになってしまった。
仕事から帰る途中で、あの日は簡単な昼食しか取っていなくて、既に空腹でヘトヘトだったのだ。
ここへ来たのはおそらく昼頃。それから一日半は立っている。
体感で丸2日は食事を取っていないことになる。
これ、このまま、死ぬのかなぁ。
ひんやりとした床だが、もう構わず横になったままでいた。起きる気力もなかった。
だが、何とかしなきゃというより、別にもういいか、という気持ちの方が大きかった。
第一発見者には多大な迷惑をかけてしまうけれど。
窓を壊す元気はもうないし。
大した人生でもないし、元のところに戻れるかどうかもわからないし、元に戻ったって苦痛な毎日が待ってるだけだ。
別に、戻りたくはない。
向こうで私がどうなったかは分からない。
消えたのか、死んだのか。
私がいなくなれば家族は悲しむだろうけど、親のレールの人生なんて大して生きる価値もないんだよって見せつけてやれる気さえした。
本当に、つまらない人生だったな。
明日には、さらに起きられなくなるだろう。
じゃあその前に。
最期だから、許して。
最期だからと思うと、立ち上がる気力は出た。
パンプスは危なっかしいからもう脱ぎ捨てて、よろよろと向かう先は。
部屋の真ん中にある、グランドピアノだ。
好きな曲、弾き切って死のう。
ほぼ思考が停止した頭で、それだけを決めたのだ。
ピアノの上蓋は、重くてもう開けられなかった。
鍵盤の蓋だけ開けて、一音、音を出す。
ーーああ、いい音。
さすがいいピアノ。
私は所詮地方の音大に行くレベルでもない素人で、秘められた才能(笑)なんかあるわけないけれど、
このピアノの音が、乾いた大地に水が染み込むように自分の体に染み込んでくる気がした。
普通は、仕事のストレスを趣味で解消したりするものなんだろう。
音楽サークルの友達はみんなそう言って、就職していった。
でも私は、仕事が嫌になり人生が嫌になるにつれ、楽器を触る気力が失われていった。
こんな人生を楽しくなんてしたくなかったのだ、多分。
同時に音楽も、段々聴かなくなっていったけれど……
学生時代にやりまくった曲を、片っ端から弾いていく。
私はいろんな楽器に興味が移ってしまって、いろいろやって遊び、
サークルではドラムメインになったが、ピアノもずっとやっていた。
幼い頃から、ピアノ教室に通うずっと前から、既に家で好きに弾いていたから。
サークルではジャズをやっていた。
理論はかなり忘れたけど、弾きまくった曲ならまだコードも何とか覚えている。
スタンダードと呼ばれる、ジャズの有名な曲を次々に、弾いていく。
左手でベースラインを引き、右手はコード(和音)と、アドリブだ。
私のレベルではソロピアノなんて本当にショボくて、ベースラインを意識するとアドリブが思うようにできない。
少なくともベーシストがいてほしい。
次に、クラシック。
大学に入る頃まで、個人の先生に習っていた。
楽譜をやっただけで、真髄は全然理解できていないのだろうが、こんないいピアノなら久々にクラシックも弾いてみたくなった。
フラフラなので指もあまり回らないが、もう最期なのでいいやと思って、覚えている限りの曲を弾いた。
それから。
好きなバンドやアーティストの曲。
この1年ほど、ロックというかメタル系もかなり聴いた。
しかも、拍子が複雑なやつ。
ジャズをやったからこそ興味が出たのかもしれないが。
5拍子、7拍子はデフォルトのようなもので、
15拍子とか13拍子とか平気で繰り出してくるバンドだった。
ちなみにどうやって私が数えたのかというと、
15拍子=7拍子+8拍子、
13拍子=7拍子+6拍子、といった具合だ。
判別できるまでにどれだけ聴いたやら。
少しだけならこういう拍数ーー変拍子というーーでも耳コピーまでできるようになったほど、
聴きまくっていた、学生の間はそれだけの時間と心の余裕があったのだ。
一回生のときは5拍子のジャズの曲で必死だったのに、
今じゃ5拍子がずいぶん楽になったなぁなんて思いながら、
5拍子や7拍子のアドリブまで作って遊んでいた私だったのだが。
いつの間にか、部屋の戸が開いて、人が入ってきたのには全く気付いていなかった。
「おいっ!!誰だ、あんたは!?」
「ひゃあぁっ!?」
いきなり耳元で男性の大声がして、驚きのあまり、ピアノの椅子から立ち上がったら足が引っかかって転んでしまった。
だが、もう、立てないどころか、目の前に砂嵐のようなものが浮かぶ。
ああ、人がいるーー
既に朦朧とした意識の中で私が認識できたのは、それだけ。
多分小柄な、黒髪の、外人の綺麗な顔の男の子、という印象だけ持って、私の意識は途切れた。
変拍子のバンド、実在のバンドを参考にしています。
わかる人ー。