16:本当に恐怖症なんです
「きみがオストロフスキー君の助手かね」
声をかけられた。
ラファイルさんの、目上の方だろうか。助手がいるということも知っているのか。
「……はい、そうですが」
顔を上げたが、この人の表情が少し怖くて、心拍数が上がっているのが分かる。
「最近この研究室から不快な音がするのだが、オストロフスキー君は何をしているのかね?」
不快?
何と答えたらよいのだろう。
「それは……」
「聖なる学堂に耳障りな音が響いていて我慢ならん。後で本人にも言っておくが、興味を惹かれるからといってあんな汚い音楽に手など出すなど、神への冒涜だ!
学生を指導する立場のものがなぜそんなおかしなものに手を出すんだ!」
怒鳴られて、身が竦む。胸に何かが刺さったような感覚になる。
どうしたらいいのか、分からない。謝らないといけないのだろうか。
「あんな崩れた音楽をやってはタッチも繊細さも壊れてしまうだろうが!二度と至高の音楽ができなくなったらどうするつもりなんだ?そう伝えておくことだ、そうなればここは解雇だということもな!」
ーー解雇。
ラファイルさんが。
この男性と、彼が言ったことが怖くて、私は目を伏せているしかなかった。
男性はそのまま私の横を通り過ぎて、去っていった。
私は、思考が止まってしまって、しばらくそこへ立ち尽くしたままだった。
***
ふっと我に返って、研究室に戻ってきたのを思い出した。
だが、私の体全体が完全に萎縮してしまっている。
鍵を持つ手が震えて、なかなか鍵穴に差し込めなかった。
楽しく仕事をしていたのに、暗雲が立ち込めてしまった。
私は男性の怒鳴り声に、強い恐怖心がある。
女性の怒りも同様に怖くて嫌いだが、男性の方がもっと怖い。
元の世界の仕事でも、電話でこういう男性に当たったことがあり、それから電話が怖くて仕方がなくなった。
多分元の世界に帰りたくないと思うのは、それが大きい要因の一つだ。
抱えていた書類を机に下ろしたが、まだ手が震えていて、止まらなかった。
そのまま何も手につかず、頭の中でただ、さっきの男性の怒鳴り声が繰り返されるままになっていた。
ーーラファイルさんが。
クビになるかもしれない。
私のせいで。私がクラシックじゃない音楽を持ち込んだから。
クラシックとジャズとではリズムの取り方が違うのは、もちろん分かっている。
ラファイルさんが、リズム感やタッチが崩れるなんて心配をしていなかったから、言われるままお伝えしていたのだが。
ラファイルさんなら、クラシックの障害になると思えば、しない方がいいと言ってくれると思い込んでいた。
でも、もし、万が一、ラファイルさんがタッチやリズム感の崩れにつながると気づいていなかったとしたら?
いやあんな天才がそんなことに気づかないわけがない。
でもやっぱり万が一……
もしそうなら、私はラファイルさんに、将来を潰すようなことをさせてしまったのではないか。
そうだ。こんな天才音楽家のタッチが乱れたら、国宝を失うようなものだ。
私は全身から力が抜けてしまった。
なんという恐ろしいことをしてしまったのか。どうやって償えばいいのか。
どうしよう。どうしよう……!
これもまたどうすればいいのか、分からない。
ともかく、ラファイルさんに言う?
そうしたら、私はもうラファイルさんのお側にいてはいけないのではないか。
そんな思いも加わり、私は最悪の状況を思い浮かべることしかできなかった……
***
動揺が収まらないまま、私は仕事を片付けていた。
早く言わなきゃいけないのに……
だが今は、とてもラファイルさんに話しかけられるような気がしない。
ラファイルさんは、授業を終えて戻ってきて、机の書類を見るなり言い放った、
「仕事が済んでない。何やってた」
いきなり不機嫌に言われて、胸がずきっと痛み、また思考が止まってしまった。
「……申し訳ありません……」
「とりあえず今日はこれを終えるのが先だ。あんたの仕事だ。こなしてくれないと困る」
私は、泣きそうになりながらも、何とか平常を装って仕事を片付けるしかなかった。
あの男性が怖かったのもある。
が、ラファイルさんが、私の様子を全く気に留めてくれなかったこともまた、辛かったのだ。
ーーこれが普通だ。ラファイルさんに見返りは求めないって決めてるんだから。
そう自分に言い聞かせて頑張った。
仕事なんだから。やらなきゃ。
決して、難しい仕事ではなかったのだ。今日中に仕上げる予定だったが、残りの時間で十分済ませられる内容だった。
ラファイルさんは、ゆとりを持って仕事を頼んでくれていたのに。
情けなさもまた、落ち込みに拍車をかける。
いつもより30分ほど残業になってようやく仕事を終えたとき、私はすっかり沈んでしまっていた。
ラファイルさんに謝ろうと思うのに、ラファイルさんは不機嫌そうに机に向かっていて、できることなら話しかけたくなかった。
おずおずと、終わったことだけ報告する。
ラファイルさんは、無言で私の手から書類を取った。
怒ってる……
あのことも、言わなきゃいけないのに……
「帰るぞ」
そっけなく一言だけ。
置いていかれないように、急いで荷物をまとめた。
…………
…………
馬車に乗っても、私たちはずっと無言だった。
普段から無言のことは多いが、今日はいつになく無言でいるのが気まずい。
きっと私を怒っている。使い物にならないと思われただろうか。信頼に値しないと思われただろうか。
信頼を損ねて申し訳ない気持ちもまた、大きかった。
それと、あのこと。
言わなきゃ……
早く……
そう思うのに、言う勇気が出てこなかった。
演奏家生命を脅かされて怒らない人などいるはずがない。
でも今、これ以上怒られたら私はきっともたない。
いつもの私のパターンだ。
しなきゃいけないのに怖くて言えなかったりできなかったりして、後で困ったり怒られたりする。
仕事の嫌だった部分が思い返されて、辛くて苦しかった。
わかってるのに。わかってる、だけどどうしても言えない。
お屋敷に帰り着き、馬車を降りる。
いつもならこのままラファイルさんとセッションタイムなのだが、今日はこのまま部屋に閉じこもりたかった。
音楽に集中できるような状態ではなかった。ラファイルさんの邪魔にしかならない。
「すみません。今日はちょっと調子が悪くて……先に、休ませていただきます。
今日は、申し訳ありませんでした」
ラファイルさんの背中に言葉を投げた。
一方的な謝罪だ。
受け取ってもらえるかどうかもわからないけれど、謝罪の気持ちがあることだけは分かってもらわなければ、と必死だった。
ラファイルさんの返事は聞かないまま、ラファイルさんの方は見ずに自分の部屋へ逃げるように向かった。
どうして私はいつもこうなんだろう。
怒られると、体が萎縮して思考が停止して、何も手につかなくなる。
自分が怒られるのはもちろん、他人が怒られているのを見てもそうなるのに、
今日はあの男性とラファイルさんから二度も浴びてしまって、ダメージが大きすぎる。
寝よう。寝て起きれば少しは落ち着く、少しは。
それが経験則だから。
…………
…………
お風呂に入ってベッドに潜り込んでも、怒られた時のことが脳裏から一向に消えてくれない。
いやだ。
こんな自分が嫌だ。
仕事に行くのがもう怖い。あの男性に会うのが怖い。
嫌なのに、頭の中でそのときの状況を繰り返し自動再生してしまうのだ。
こんなときに、楽しいことを考える余地などない。
体中が不快で、楽しいことに向かえない。音楽で忘れるということができないのだ。
どうやったらこんな性格から抜け出せるんだろう……
怒られることに言い返す、反発できるような強い性格だったらよかったのにと、何度思ったかわからない。
思考が停止するから言い返すどころではないのだ。
それに、どうしよう、ラファイルさんに会わせる顔がない。
明日の朝、どうやってお見送りすればいいんだろう。
学校のない日は、王宮に仕事に行くラファイルさんをいつもお見送りしているのだが。
私に見送られて不快になるかもしれない。
でも顔を見せなければそれもまた失礼だ、私は使用人なんだから……
一向に眠気がやってこない中、私の脳内にはあの男性の言葉が次々再生されていて、
そして思い出した、
ーーラファイルさんの演奏家生命が、危ない。
そうだ、言わなきゃ。早く。止めさせなきゃ。
これも私の嫌になる癖だ、何も考えず言えばスムーズに行くのに、その一言がどうしても口をついて出てこない。
言えばいいのにともちろん思うのだが、言えたら今頃こんなつまらない人生にはなっていない。
でも。
ラファイルさんに、本当に怒られるかも、追い出されるかもしれないけど。
これだけは、やっぱり言わなきゃ……!
私がどうこうなんか言ってる場合じゃない、あの世界遺産レベルの才能を、私が潰すようなことをしたら、本当に取り返しがつかなくなる。
そうしたら私は、ラファイルさんに嫌われるよりも、もっと後悔してしまう。
寝間着だった私は、明日用の服に着替えると、手を握りしめて部屋を出た。
今でこそマシになりましたが私も怒鳴り声が(耳にするだけでも)恐怖でした……
跳ね返せる強いメンタルがあればと思って止みませんでした。
ほんとに、思考停止して何もできなくなってたんです。分かる人いるかなぁ。
今は、嫌だし動揺はするしメンタルも落ちますが、でも前よりは流せるようになったかな。
何が違うかっていうと、自分が怒るということを覚えたからかなという気がする。
怒ったことキレたこと、昔は本当になかったんです(!)
今でも鋼のメンタルは欲しい。




