音楽バカの初恋 前
番外編のおまけ。
番外編登場のイラリヤ・プロトニコヴァ嬢視点でお送りする、新婚旅行編の裏側のお話です。
前後二話になります。
一年前、私はあの音に夢中になった。
音が輝いているように見えた。
弾いているあの人は黒い髪だったけれど、美しくて。
飛び級で高等学校への入学を目前に控えていた私は、特別講師として来られているラファイル・オストロフスキー先生の個別指導を受ける学生の一人に選ばれていた。
入学前から特別な扱いを受けていた私だったが、オストロフスキー先生は私の直すべき箇所をあっという間に看破し、指導してくれた。
その瞬間私の音が変わったのを、今でも覚えている。
先生もまだ19歳、学校の最上級生よりも年下なのに、お国元では王立楽団の総監督を務められ、王立学校の教授もされているという、ものすごい経歴の持ち主でいらっしゃるから。
そんな先生が、私にとてもすばらしい感性があり、これからも上手くなっていくでしょうと言ってくださったから、嬉しくて仕方がなかった。
私は個人指導の後も4日間、夢中で先生の講義を聞いた。
最終日、帰る前の先生を追いかけて、精一杯の感謝と感動を伝え、来年も絶対来てください、とお願いした。
先生は、来年の音を楽しみにしています、と言ってくださった。
一年間、私は夢中で練習した。
先生の輝く音は、いつまでも色褪せず私の記憶に残り続けた。
私は幼少期からピアノの才に長けていたらしく、私が弾けばみんな驚くほど賞賛してくれ、我が家で開催されるパーティーの重要な余興となったほど。
飛び級するほど認められてはいたが、ずっと心のどこかに、既存の楽譜を再現するだけなのか、と思うところがあった。
でも先生の音を聞いて、それが私の目標になった。
先生のように弾きたい。こんなに心躍る音は、初めて。
先生の音がもっと聴きたかったが、隣国に留学していた従兄弟のヴィタリー兄様によると、先生は絶対に金髪をかぶらないので、コンサートには出られないという。
金髪をかぶれば済むのになぜ、と思ったが、先生のこだわりなら仕方がない。
私は、先生の音楽がいかに素晴らしく多くの人が聴くべきか、家族と、ヴィタリー兄様に力説した。
ヴィタリー兄様は、バイオリニストなのに先生の指導も少し受けたということで、私の言うことをよく分かってくれた。
「イリ、お前がそんなに目を輝かせるのは久しぶりだよな。
ほんとに、オストロフスキー教授の音がよかったんだな」
「ええ、私、大きくなってからこんなに高揚したのは多分初めてよ」
兄様はそう言った。
「うふふ、きっとイリの初恋ね」
姉様はそんなことを言ってからかった。
恥ずかしくなって、先生の音は好きだけどそんなのじゃない、と言ったのだけど。
それからというもの、事あるごとに両親と姉様、ヴィタリー兄様までもが、オストロフスキー先生を婿に迎えたらどうだろう、と言うようになった。
侯爵家次男でいらっしゃるという先生は、爵位は継げないはずで、隣国ではコンサートの出演もできないという状況。
もし我が家の婿として来てくだされば、伯爵位を引き継ぐことができ、我が家が後ろ盾になって先生単独のコンサートも開催するし、王宮にも働きかけよう、とお父様がおっしゃった。
もし、そんなことが実現するなら、先生にとってはきっと喜ばしいに違いない。
もうすぐ15歳になろうという頃で、結婚というものに現実味はあまりなかったものの、憧れの先生と一緒にいられることを考えるととても幸せな気分になった。
本当は夏期講習終了後、我が家に先生をお招きしてお礼を申し上げたかったのだが、その連絡を差し上げたときには先生は既に帰国されていたから。
来年先生がいらしたら、婚約の段取りをしよう、ということになった。
ヴィタリー兄様には、16歳になったら留学して先生の元で学びたい、と相談もした。
両親は、女の子がそこまでしなくても、と許可はしてくれなかったが。
それより先生にこちらに来ていただいた方が、先生も含めみんながよくなれる、と。
婚約のことは別にして、何より先生の音が待ち遠しかった。
***
待ちに待った一年後、王宮の夜会にプロトニコフ家として出席してきた姉様が、両親と何か言い合っていた。
「うちのイリを差し置いてオストロフスキー教授を奪うだなんて!あんな女のどこがいいのよ!」
「そうは言っても教授に直接お話したわけではなかったし、それは仕方がないじゃないか」
「イリに何て言ったらいいかしら……」
先生を奪う。女。
その言葉だけで、胸が締め付けられるような気がした。
嫌な鼓動だ。
でも、何が起こったのか知りたくて、私は部屋の扉を開けた。
…………
夜会に参加されていた先生が、結婚されたと姉におっしゃったと聞かされた。
衝撃で、手が震えた。
「イリ、かわいいイリ、貴女より先生に似合う子はいないわ。お父様、何とかなりませんの」
「さすがに結婚してしまっているものは、どうにもならんだろう、教授のお気が変わらない限りは」
「イリ、まだ諦めちゃだめよ。貴女の音楽なら先生のお心をまだ動かせるに決まっているわ、講習は頑張るのよ」
姉様はそう言ってくださったが、私にも結婚を覆すのは難しいことくらいは分かる。
第一奥様から取るようなことをするつもりはない。
それよりも、姉様が先生に、我が家から婚約の打診をするつもりだったと言ったと聞いてびっくりした。先生と奥様に何と失礼なことを。
姉様はときどき、こうして余計なことをしてしまうときが昔からあるのだ……
そういうことも含めて、ヴィタリー兄様にも話したが、なぜかヴィタリー兄様も怒った。
「イリ以外に目を向けるなんて、教授も見る目がないんだな。
その人が何か教授を騙したんじゃないか?変な女に掴まってるようなら、目を覚まさせてやったらいいと思う。
イリの音は去年より成長したし、教授の印象には絶対残るはずだ。教授に思い出させたらいい」
「……でも私、先生や奥様を困らせるつもりは……」
「何言ってる。イリは誰よりも優れてるし、こんなに美しいじゃないか。俺はイリに誰よりも幸せになってもらいたい。お前みたいな素晴らしい演奏家のことを忘れる教授が悪い」
「……先生とそんな約束したわけでもないのに、そんなこと言ったら先生に悪いわ」
「教授にとっても、ムズィカンスクにいるより全てがいい話だろ?最終的にこっちに呼び込めたらそれが最良だ。お前はもっと自分に自信を持って、売り込んだらいいんだよ」
なぜみんな、そんなことを言うんだろう。
たしかに衝撃は受けたし、二、三日ピアノを弾きたくなくなったが、だからといって先生と奥様を引き裂くのは違うと思う。
その後いろいろ考えたのだが、私は先生に認められたらそれで嬉しい。
私が先生の音に憧れているのは変わらないし、正直結婚なんて現実的に考えていたわけではなかったのだ。
先生のお心を射止めた奥様は、どんな方なんだろう。
そんな思いを抱きながら、講習を迎えた。
***
一年ぶりの先生の音は、やっぱり変わらず輝いていた。
この音が好き。やっぱり先生の元で学びたい。
年上だが同学年の級友たちも、先生の音にすごいね、と口を揃えて言っていた。
先生は二十歳になられ、教壇に立つ姿は一層堂々として素敵だった。
早速午前終了後に質問にいく学生は多かったが、少しすると小柄な黒髪の異邦人女性が壇上にやってきて、先生に何か話しかけたかと思うと、先生は質問を切り上げた。
ひと目見て直感した、先生の奥様だ。
誰、あの人?という声が聞こえる中、私は思わず教員室に戻る先生を追った。
奥様は、先生の荷物を持って、先生の少し後ろを歩かれていた。
私が声をかけ、先日の姉の非礼を詫びると、先生は気にしないよう言ってくださった。
奥様は何も言われなかったけれど、私に対して穏やかな笑顔を見せてくださり、姉様やヴィタリー兄様の言ったような先生を騙すとか、横取りするとか、そんな意地悪な印象は全くなかった。
その後の個別指導は、本当に素晴らしい時間だった。
先生は一年前の私の音を覚えてくださっていて、さらに私をより良い方向に導いてくださった。
腐らずに、頑張ってよかった。
もう単位は必要ないはずだが、ヴィタリー兄様も講義に参加していて、先生とバイオリンの二重奏を披露してくれた。
先生の音は本当に素敵。明日以降は、グループの指導やオーケストラの指導がほとんどで、私の出番はないが、先生の指導を聞けるだけでも満足だ。
ヴィタリー兄様と、クルィシャエフ先生にも本格的に留学の相談をしよう、と思った。
***
翌日も、講義を聞いていたのだが。
「ねえ、あの黒髪の人、オストロフスキー教授の奥様ですって」
「嘘、イリが婚約するんじゃなかったの?」
「教授、まだ二十歳くらいじゃない?何か騙されたのかしら」
「あの人よりイリの方が断然かわいいじゃない、似合わないわ」
「さっき話したけど、すごく乱暴だったわよ、人の腕をはたいたりして」
「まぁ、野蛮な方なのね?イリ、お父様に頼んで取り返してもらったら?あなたのお父様なら陛下にも口利きできるのでしょう?」
休憩中、後ろで学友たちの声が聞こえてきて、びっくりした。
私の友人と、顔を知らない学生が数人喋っていた。
「でも、先生は今回の話はご存じなかったはずよ、先生が選ばれたのなら仕方がないわ」
「イリはお人好しすぎるのよ」
「奥様も、昨日お会いしたけれど、優しそうな方だったわ」
「そう振る舞ってるだけよ」
婚約の段取りは既に両親や姉様が、いつの間にか周囲に広めていて、社交界でつながりのある人は大体知っている。
したがってそういった家柄の友人にも知られていたから、先生は何もご存じないのに私だけ失恋したかのような印象になってしまい、恥ずかしかった。
「だからって、先生がすぐ鞍替えするような人なら、そっちのほうが嫌だわ。
私がいいって言ってるんだから、もう先生と奥様を悪く言うのはおやめになって」
私は先生の音を楽しめたらいいんだから。
でも女というのはどこか、人の悪口を言うのを楽しむ節があるようで。
先生というよりも、奥様の印象が悪くなってしまっている。
美人じゃないとか、先生に媚びているとか、安っぽいとか。
私はそんな悪口、望んでいないのに。
女同士のそういうところが、私は嫌いだ。
貴族社会も、そう。
人の悪口を言ったり策略を企てる暇があるなら、自分を高めることに使えばいいのに、といつも思う。
講義が始まっても後ろでボソボソいう声がするから、気が散るからお喋りは外でやってくださる?と注意した。
翌日以降、その学生たちは見かけなくなったが、先生の講義で私語をする人なんかいなくて結構である。
だがその日の講義終了後、離れたところの席で何か騒がしくなったと思ったら、なんとヴィタリー兄様が先生の奥様と話していて驚いた。
そして壇上から先生が降りていかれ、奥様に寄り添ってヴィタリー兄様に言っている、
「ジェルガーチェフ君、俺の妻に何か用か?」
ーー先生は、完全に奥様を庇われている。
奥様を大切にしていらっしゃる。
それが遠目にもよく分かった。
その光景を見るとちょっと胸が痛んだけれど、でもそんな先生の姿は、とてもかっこよかったのだ。




