新婚旅行編 8
温厚で争いは嫌いな私だが、さすがに怒りを覚えた。
何でまだ持ち出すの?
何でそっちの都合で、ラファイルさんが言われなきゃならないの?
私こそ納得できない。
ラファイルさんを守るのは私の役目。
私はそう思って、ラファイルさんの半歩前に出た。
「イラリヤがショック受けて泣いてたの、知ってますか?
あいつ本当に、先生に憧れてたんですよ、先生のとこに留学したいって言ってて俺も相談受けてたんです。
先生、イラリヤの気持ち、知ってましたよね?先生が帰国された後、お礼と挨拶のためプロトニコフ家の使者が伺ったはずです」
「我が家に?
覚えがないが」
「奥さんの前だからって誤魔化してるんですか?」
「我が家には訪問客を基本的に受け付けていない。執事に聞けば記録は残っているかもしれないが」
「……先生に憧れて頑張ってる生徒に、そんな扱いなんですか?」
「学校以外で学生とは関わらない。仕事の責任は果たすが仕事が終わればあとは自分の時間、俺はそういう人間だ。期待はずれなら仕方ないが、そんな期待を勝手にされても困る」
「その人が先生の時間に入れてイラリヤが入れないのは?
先生あいつのこと認めてくれてるじゃないですか。なのに何で音楽で及ばない人なんかーー」
「ーージェルガーチェフ」
いつに間にか、ラファイルさんが私の前に出ていた。
ラファイルさんの佇まいはとても静かで、だけど厳かにも見えて。
「君は単位は必要ないと思うが、明日の発表は出演するだろ?
納得いく演奏はできそうか?」
「……できませんよ、このことが納得いかなくて」
「プロも人間だし、感情の揺れがあることを否定はしない。
それでもプロとして、観客にそこは見せてはいけない部分だな。
分かっているとは思うが、自分のコンディションは自分で整えろ。
何かのせいにしているようでは、いずれ行き詰まるぞ」
私が演目を見落としたとき、ラファイルさんは何一つ私のせいにしなかったのを思い出していた。
そして、金髪をかぶっても一切内面の不快さを感じさせなかった。
とはいえこの人は、ストイックさが規格外な気もするが……
ラファイルさんは、ヴィタリー君の主張自体にはほぼ言及せず、まともに取り合ってさえいない。
彼と同じ土俵には立たないということだ。
「各学生の評価は明日、筆記と実技で決める。一名の例外もない。それだけだ」
ラファイルさんは私の方を向いて、帰ろう、と目で促し、私の背に手を添えて向きを変えさせた。
私は、ヴィタリー君の動きに用心して背中に神経を集中させながら、ラファイルさんについて歩き出す。
「彼女は、もっと甘えさせてくれる男性のほうがいいですよ!
妻に荷物持ちなんて、使用人みたいで、彼女に相応しくない」
ええ?今まで私の方がラファイルさんに相応しくないとか言ってましたやん。
完全に捨て台詞っぽい。本当なんでここまで絡むんだろう。
え、それとも、私は使用人みたいに見えるから、相応しくないって皮肉?
妻に荷物持ちさせるラファイルさんに、イラリヤさんはもっと合わないと思うんだけど。
大体私は助手ですし、元平民ですから。
「マリーナ、聞くな」
「大丈夫ですよ」
ラファイルさんが、私の背にそっと手を当てて囁いたが、私は大丈夫だ、この夫の優しさは十分わかっているから。
だが、そのときーー
「ヴィターシャ!やめてよ!」
少女の声がして、私の方が思わず振り返ってしまった。
ヴィタリー君の向こうから、当のイラリヤ嬢が小走りでやってきていた。
「イリ……」
「クルィシャエフ教授から聞いたのよ。
お姉様が友人に言って、先生の奥様に失礼をしたって!
何であなたが先生と奥様にそんな失礼なこと言うのよ?
私はお姉様にも両親にも、あなたにもそんなことしてなんて言った覚えはないわ」
「でもイリ、俺はお前のために」
「私のためって何よ!私のためなら、先生と奥様が困られるようなことしないでよ!」
「だって、お前あんなに頑張ってきてんのにさ、報われないだろ」
「だから先生には憧れてるけど、そんなんじゃないってば!
みんなして勝手に話広げて盛って!
先生は何もご存じないのに、なんで先生や奥様が何か言われなきゃならないの!」
えーと。
「なんか、イラリヤさん、代弁してくれました……」
私は思わずラファイルさんにそっと囁いた。
「だな」
ラファイルさんも頷く。
どうやら今の時間まで、イラリヤ嬢はクルィシャエフ教授に話を聞かれていた模様。
イラリヤ嬢は、とりあえず、私に文句はなさそうだけど……
でも女ってその辺、腹の中は別のことを隠してたりするんだよね……
きっとイラリヤ嬢は、ラファイルさんが結婚している以上、ラファイルさんと私を立ててくれるだろう。
でも、心の奥底では、本当はラファイルさんが好き、となっていても私は驚かない。
絶対に表には出さないし、なんなら墓場まで持っていくくらいのつもりだとしても、好きという気持ちそのものはあったりするんだよね、イラリヤ嬢がそうかどうかはわからないけど。
女性というのはそういう秘め方がときに抜群に優れているものなのだ。
「先生。先日の姉のことのみならず、わたくしのことで多大なご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳ございません!奥様にも、深くお詫び申し上げます」
イラリヤ嬢は、私たちに向かって必死に頭を下げる。
内心がどうであれ、私たちが知る限りでは、彼女の行動としては謝るようなことはしてないのにな、と思う。
「プロトニコヴァさん。もういいから、帰りなさい。明日は大事な最終日だから」
「先生……」
突き放しているように聞こえるが、でもこれはラファイルさんとしては思いやっている言葉だ。
彼女の明日の発表を気にかけているのだ。
口調もやさしいし、横顔も優しい。
「妻のフォローはするから、君が気にすることはない。
迎えは来ているか?」
「は、はい……」
「遅いから、気を付けて帰りなさい。
ジェルガーチェフ君も。
失礼する」
私たちは、立ち尽くす二人を背にして、その場を後にした。
…………
…………
「鞄……持つよ」
廊下を曲がってイラリヤ嬢とヴィタリー君がもう来ないのを確認したところで、急にラファイルさんが手を差し出した。
「気にしてるんですか?彼の言ったこと」
「いや……俺、あんたのこと妻っぽく扱えてなかったかなって……あんたが愛されてないなんて思ってほしくない」
「もう、何言ってんですか。深窓のお嬢様扱いなんてまっぴらです。
第一仕事なんですから、鞄持つのは当たり前です、私は助手なんですからちゃんと仕事振っていいんですよ。それに、」
私は、ラファイルさんの空いている手を握った。
「鞄を持ってもらうより、二人で持って、手をこうやって繋げる方が、ずっといいです」
…………
うぁぁぁ。
我ながら漫画みたいな発言をしてしまい、一人で赤面した……
「マルーセニカ」
ラファイルさんが、手をぎゅっと握ってきた。
「やっぱりあんたって、俺を守ってくれるんだよな」
そう言って私を見る顔は、これほどになくやわらかくて、か弱く見えるほど。
「俺は、だいぶ普通の夫とは違うと思うけど。
……俺でも、いいか?」
「結婚したのにそんなこと言います?
最初から、普通の夫なんて思ってませんから。
比較対象もないし、そもそも異邦人の私からしたらこの世界の普通の夫が合わないかもしれないですよ。
私たちは、お互いがよかったらいいんですよ」
「うん……」
ラファイルさんは、繋いだ手を引き寄せ、私の頬にキスをした。
普段学校では手を繋ぐこともしないラファイルさんが、である。
もっともいつもは定時で上がり、周りに人がいるけど。
私たちはほぼ建物を出るところまできていたから、そこからすぐ馬車に乗り込んだ。
扉が閉められるなり、ラファイルさんは私の頬を引き寄せて、深いキスをしてくる。
その流れからの、帰邸してからは食事もそこそこにーー
ラファイルさんはピアノに向かった。
うんあなたはそういう人だよね。
面白くて、私は一人で笑みがこぼれるのを抑えられなくて、使用人さんたちにどうしたのかと聞かれた。
「私の夫はほんと、独特で面白いです。
あ、私先に夕食をいただいてもいいですか?」
この屋敷では、ダイニングと広間は繋がっていて、つまりラファイルさんの演奏を聞きながら食事ができるという特等席なのである。
食事も妻も放っぽりだして楽器に向かう夫、その夫を差し置いて先に夕食をとる妻に、こちらの使用人さんたちは少しは慣れてくれただろうか。
でも、私たちはこれでいいのだ。
ラファイルさんはまたアドリブで、聴いてるこっちが火照ってしまいそうな切ない音を出してくる。
これはヴァシリーさんも顔負けではないだろうか。
ああ、これならこういうドラミングにしたい。
ノンナさんがボーカル入れてくれたら……
ラファイルさんの音に触発されてゆっくり食事をするどころではなくなり、私は慌ただしく食べ終えてラファイルさんのアドリブに参加した。
二人で合わせているうちにだんだん曲構成が決まってきて、その晩一曲できあがることとなったのだった。




