新婚旅行編 4
午後からはいよいよ、一人ずつのレッスンである。
課題曲を学生さんが演奏し、ラファイルさんが評価、指導する。
ラファイルさんが楽器も全部教えるので、ラファイルさんが次々違う楽器を手に取ってお手本を見せるたびに、学生さんたちから驚きの声が上がっていた。
というか各楽器の先生がいるだろうに、それでいいのかこの学校の先生方は……いいんだろうなラファイルさんに任せてるということは。
ラファイルさんどれもプロ級だし。
小型の楽器をいろいろ持ってきたのはこのためでもあったわけですね、単に練習したいからじゃなく……
この一年でいろいろとラファイルさんの才能には驚かされてきたが、いまだにびっくりしてしまう。
本当にどこまですごいんだろうこの人は。
この人と同じステージでやったというのが信じられなくなってくる。
やばい、練習しないと。
助手の仕事はもちろん大事だけど、見ているだけという時間がもったいなく感じてしまう。
もっともっと、もっと練習しないと、こんな人たちと同じ空間で陛下の御前で演奏するなんて。
帰ったら、ラファイルさんに練習時間くれるように言おう……
そんなことを思っているうちに、イラリヤ嬢がステージに上がってきた。
ピアノの椅子に腰かけ、構えてーー
綺麗……
透き通るような。
何が違うって、抜群にリズムーー私たちの言うところのグルーヴーーが安定しているのだ。
ほかの学生さんたちも素晴らしい技術を持っているが、ちょっとしたところの危なっかしさとか外し方とか、安心して聴いていられるという点がもう一息、と感じる。
だがイラリヤ嬢は、そこは通り越して、難易度の高い箇所もさらっと弾きこなすし、ダイナミクスも申し分ない。
楽譜を弾くのではなく、弾きこなしているというのか……
十分に、自分のものにできている感じがする。
これは誰しも聴き惚れるだろう。十分プロとしても通じそう。
演奏を終えると、思わずほかの学生たちから拍手があがる。
「素晴らしい、プロトニコヴァさん。去年より一層磨きをかけましたね」
ラファイルさんの言葉に、またホールに拍手が響き渡る。
「ありがとうございます、先生!」
「去年私の教えたこともちゃんと消化していましたね。既に音楽界では通用するレベルに達しています」
ラファイルさんは、音ではよく彼女のことを覚えていたようだ。
たしかにこれだけ天才肌の演奏なら、ラファイルさんなら聴き逃さないだろう。
ラファイルさんは、数カ所もう一度弾くように指示をして、
「あなたの解釈も間違ってはいません。
ただ、私ならこう弾きます」
そして実演。
うわぁ、やっぱり素敵、ラファイルさんの音。
ラファイルさんの音、大好き。
でもきっとそう思っている人は多いだろう、みんな体乗り出して聞き入ってるもん。
ていうか先生方までも。
ほんとにこの人が、表立って演奏できないのがやっぱり疑問だ。
ブラック・コンダクターでは存分に演奏できるけど、こういうクラシックの場で、広い会場で満員のオーディエンスを前にだって、絶対弾きたいはずなんだ。
それを考えたら、こちらの国の方が、もしかしたらラファイルさんにとってはいいのかもしれない、なんてことを少しだけ思った。
今回のサロンのことといい、こちらの方が少しはラファイルさんの受け入れ度が高く、早く実現するのはこちらだろう。
「すごいよなぁ、オストロフスキー教授って」
不意に男性の声がして、私は思わず隣を見た。
背の高い男性が、私の一つ隣の椅子に腰掛けてこちらを見てきている。
「そう思わない?」
透き通る金髪に、綺麗な緑の瞳。
典型的なモテ男だ。私は興味ないけど。
「ええ」
私は肯定する。
「君この学校の人じゃないよね?異邦人はいなかったはず」
「私は……」
答えようとしたとき、イラリヤ嬢のピアノの音が入り、私はそちらに気を取られて前を向いた。
私にはラファイルさんの気づくような細やかな違いはもはや分からない。
だが、ラファイルさんが満足そうに頷いているのを見ると、彼女はきっとラファイルさんの言うことを身につけていっているのだろう。
羨ましい、ラファイルさんにあんなに近づける才能が。
いつもラファイルさんが隣にいるのにそんなことを思ってしまった。
「イラリヤもすごいよな、教授にあんなについていけるって。
すげぇ、似合いじゃねぇ?あの二人。
あいつんち、教授を婿に迎える予定にしてんだよ。
そうなったらこっちもムズィカンスクに張り合えるしな、あそこは音楽に関してはうちより格上だ。でもムズィカンスクじゃ教授は表に出れないからさ。
姉はいずれ嫁に行くし、イラリヤに婿入りすりゃ伯爵だって継げる。あそこ結構有力な家だからな、あそこに逆らったら社交界から冷たい目で見られるって有名なんだよ。
そのプロトニコフ家が後ろ盾なら、黒髪だろうが誰も文句言わないし、堂々とデビューできる」
誰?この人。
イラリヤ嬢のお姉さんが言っていたことが、具体的に分かった。
なぜ私にそんな話を。
いや、私を誰だか知っていて言っている?
でもラファイルさんはもう結婚してしまっているわけだし、結婚は我が国の国王陛下直々の許可によるもの。この人の言うことが実現不可能なことではあるけれど。
ラファイルさんの結婚、知っててわざと言ってる?それとも知らないから言ってる?
舌戦は苦手な私は、どこから突っ込もうか迷って機会を掴めずにいた。
それにこの人の意図もさっぱりわからない。
「イラリヤは俺の従姉妹なんだ。あいつの才能は抜きん出てるし、遠からず国を背負って立つ音楽家になれる。
教授に憧れて頑張ってきたんだし、幸せになってもらいたいんだよな。
教授とならきっと……」
「ヴィタリー・ジェルガーチェフ君」
「あ。はい」
意図的かそうでないのか、私の聞きたくないことを言ってくるこの彼に、いつ私がラファイルさんの妻と言ってやろうかと思っていたところを、ラファイルさんが遮ってくれた。
たまたまだろうけど、やっぱりラファイルさんは私の夫。
イラリヤ嬢の番は終わっていて、呼ばれたこの金髪の彼が立ち上がった。
手にはバイオリンのケース。
ラファイルさんを前にしても臆する様子はなく、堂々とステージに向かう。
上級生かな。
学生さんにしては落ち着いているというか、風格があるというか。
ヴィタリー君(苗字一発で覚えられない)は、ラファイルさんと並んで立つと頭二つ分くらいデカい。ヴァシリーさんくらいあると思う。
何かラファイルさんと言葉を交わし、バイオリンを構え、演奏を始める。
ーーこの人も、すごい。
圧倒的。
そして力強い。
イラリヤ嬢と同じ、揺るぎないリズム感に、危うさを感じさせない技術。
それでも美しく、切なく響くのはなんでだろう。
彼も自分の確固たる音を持ち、別格だと思わせる弾き手だ。
「ーー素晴らしい。言うことはもうない」
ラファイルさんが、そこまで。
評価に私はびっくりしたが、ちょっとざわめくところをみるとみんなびっくりしたのだろう。
「音も完成している。自力で歩めると思う」
「ありがとうございます!」
ラファイルさんは、準備していたバイオリンを手に取り、ヴィタリー君には楽譜を手渡した。
「なら、ジェルガーチェフ君にはこの譜面を。二重奏だ」
「うおぉ共演すか」
「合わせてみたくなった。初見いけるだろ」
「任してくださいよ」
おそらく予定にはないであろうラファイルさんとの二重奏が始まった。
講義というより普通に演奏会である。
ここに来る学生さんならば最高の栄誉だろう。
ヴィタリー君の音はしっかり存在感があって全体的に強い印象だが、ラファイルさんの音はやっぱり際立って聞こえる。
私の耳がラファイルさん仕様になってるからかもしれない。
演奏が終わると、またもホールが拍手で満ちた。
ラファイルさんがいい笑顔で、ヴィタリー君を讃えている。
「みなさん、彼は今月卒業し、タニエツク王立音楽隊へ所属することが決まっています。
彼はムズィカンスクへ留学しに来て、再びタニエツクで修練に励み入隊試験を突破した本物だ。
必ずや、タニエツク音楽界の先駆者となり引っ張り上げてくれるでしょう。
期待しているよ、ジェルガーチェフ君」
そんな人いたんだー。
学生さんというより既にプロ。
講義受けに来る必要ないでしょーが、と思わなくもないが、ラファイルさんもムズィカンスクで教育に携わったようだ。教え子の活躍は嬉しいことだろう。
……でも、留学してまたこっちで学校行ったなら、ラファイルさんと同じくらいか年上……?いやこの人年上のヴァシリーさんの指導教官だったわ。
…………
…………
ヴィタリー君が、本日の講義のトリを飾ったのだった。
ラファイルさんが講義の終了を告げ、質問の受け入れをする。
あーやっぱり日本と違うよねぇ、みんな発言にも積極的。
予定通り終わるかな、これ。
私も帰って練習したいけど……
質疑応答はしばらく終わらなそうだ。
せっかくの機会だから、講義後はできるだけ質問を受けたいとラファイルさんは言っていた。
そう言われたら昼みたいに切り上げさせるわけにはいかない。
当然、イラリヤ嬢もヴィタリー君もそこにいる。
ラファイルさんが困ってそうだったらヘルプに行こう。
早く帰ろうと圧力かけても悪いし。
私はそう考えて、そのまま後ろの席で待っていた。
練習したいけど……
プロトニコフ(男性形)=プロトニコヴァ(女性形)




