07.5 ジャック・ガイスラー
(イーナ、イーナ……)
イーナ、イーナはジャックが正しいと言っていた。あの女は恐ろしい女だと。それは真実の筈で……ならどうして自分は?
――イーナとの出会いは、特にドラマチックでもなんでもない。
男である以上、肉欲が溜まっていくのはどうしようもない事だ。
貴族間での婚前交渉はあまり褒められた事ではなく、そんな事をすれば後に義父となるニュスライン伯爵は怒り狂うだろうとジャックは分かっていたし、ブリギッテは性に奔放なタイプでもない。だから彼は貴族向けの娼館で欲を晴らしていた。
それは間違っていたとは思わない。
娼婦など、遊びの相手でしかない。都合の良い、色欲を晴らすための道具。
だがそれと交わった所で、不倫や浮気には当たらないとジャックは認識している。
だからブリギッテにうしろめたさも一切感じず、ジャックはいくつもの娼館を渡り歩いていた。
その中で出会った最も相性の良い相手がイーナだった。
美しい女だった。やや年増だが、まだ子供っぽさのあるブリギッテを知っている分、大人っぽいのは大歓迎だった。ジャックは彼女といくつもの夜を越えた。
その内、イーナは身請けしてくれないかと匂わせるようになった。しかしそれは出来なかったし、いくらイーナが好きでもそこまでしてやる義理はジャックには無かった。
ガイスラー子爵家は、裕福な家だ。それでも子爵であるという事実は変わらない。そんなジャックが更に上を目指すために、名家であるニュスライン伯爵家の娘であるブリギッテとの結婚は不可欠だった。もしこれがブリギッテと結婚した後で、ブリギッテに跡継ぎを産ませた後ならばイーナを妾として引き取っても構わないが、まだ二人は婚約段階。結婚はしていない。この段階で義父であるニュスライン伯を怒らせるような事をする訳にはいかなかった。
ブリギッテはニュスライン伯爵と夫人が年を行ってから作った一人娘だ。年齢を考えると意外ではあるが、髪の毛や瞳の色、そして若い頃の夫人の絵姿を見るに彼女が伯爵夫妻の娘であることは疑いようもない。
そんなブリギッテを伯爵夫妻は慈しんでいる。ジャックがあまりに不義理な事をすれば、流石に婚約を白紙にする事はないだろうが、未来永劫ずっとぐちぐちと突かれる事になるかもしれない。そんなのは面倒なので嫌だった。
だから、その気は全く無かったのだ。
無かった筈なのに。
気が付くとジャックはイーナに休日を全て費やすようになっていた。
イーナが囁くことは全て事実のように思うようになった。
「ジャック様、知っています? ブリギッテ様が酷い事をしているのを」
女の声が、ジャックの脳に入り込んだ。イーナに連れられて、死にかけの平民たちが閉じ込められている場を見た。酷い光景だった。
こんなのを持っている女を嫁にするなんて、いくらなんでもご免だった。いくら相手が格上の家の娘でも、ご免だ。
だから、その罪を、訴えて、別れようと、思って。
アデャータ紳士院の学期末パーティーで、婚約者の罪を訴える先輩や同輩たちを見て、ジャックは今しか宣言するタイミングは無いと思った。
いつもあの恐ろしい女の側にいるエリッヒは、あんなものを見て放置できるような精神ではない。恐らく隠されていて知らないのだろう。
いつもブリギッテに付き添っている侍女は冷たそうだから、ブリギッテに協力しているかもしれない。
エリッヒに声をかけてやったのは善意だった。それなのに、エリッヒは怒り、上の立場であるジャックを蹴った。そしてジャックは気絶した。
目が覚めた彼は一番にエリッヒを怒鳴ろうとしたが、既にエリッヒは帰ってしまっていた。仕方なく、ジャックは家に帰ったのだ。
その日の深夜、ジャックは父親にたたき起こされた。
「どういう事だ! ブリギッテ嬢との婚約を破棄すると言ったのか!?」
「なぜ、なぜそんな失礼な事を!」
眠っていた所を左右から父と母に矢継ぎ早に罵られる。最初はぼうっとしていたジャックだったが次第に覚醒すると、両親に言い返した。
「あの女が平民を虐げ殺しているような悪人だから――」
「馬鹿者が!」
父はジャックの言葉を最後まで聞く事なく、ジャックを殴り飛ばした。おおらかな父に叱られる事はあっても、手を出して怒られる事など今まで一度も無かった。ジャックは呆然とガイスラー子爵を見上げた。部屋の入り口で侍従が持っている蝋燭の光は父の後頭部背中だけを照らし、ガイスラー子爵の顔は影になって見えなかった。まるで見知らぬ化け物に父がなってしまったようにジャックには感じられた。
「父さん」
「お前の判断など聞いておらん! 当主は私だ! お前は私の言う通りにしていればいいんだ!」
そう大声で怒鳴ると、ガイスラー子爵は背中を向けて部屋を出ていった。部屋の入り口では母が泣き崩れている。
「母さん」
「どうして、なんでそんな酷い事が言えるのです。ブリギッテが人など殺している訳ないではないの……」
「でも平民が」
母は嗚咽を漏らしながら泣いてしまい、そのままフラフラと部屋の外に出た。ジャックの言葉になど耳も貸してくれなかった。
ジャックは苛立ちを覚えて、ベッドに入り込むと頬と口の中の痛みに耐えながら、眠りについた。
朝になり部屋を出ようとしたジャックは異常に気が付く。ドアが開かないのだ。
「おい、おい! 誰か!」
ドアを何度も何度も叩きながら訴えると、外から枯れたガイスラー夫人の声がした。
「朝ごはんは後で届けます……」
「何故閉じ込められているのです! 母さん!」
「旦那様からのご命令です。ニュスライン伯爵と旦那様との間で話し合いが終わるまで、お前は謹慎しなければなりません」
「どうして!」
「お前は旦那様の! 我が家を露頭に迷わせる気ですかッ!」
「っ」
普段大人しい母の怒声にジャックは言葉を失った。
扉の向こうで、ガイスラー夫人は大きく深呼吸をしてから息子に語り掛ける。
「……ニュスライン伯爵家と我がガイスラー子爵家は共同で新しいチーズ精製所を作っています。長く農場で乳を売る以外に収入源は殆どない我が家にとって、チーズを大規模に作れるようになれば利点が大きいのです。分かっていますね。そしてその精製所を作るお金の殆どをガイスラー家はニュスライン家に融資してもらっているのです。その借金はチーズを作るようになってからその利益で返金をしていく手筈になっています。そうして、借金を間違いなく返済する証明としてお前はブリギッテを嫁としてニュスライン家からいただくのですよ。つまりブリギッテとの婚約を破棄するという事はそのお金は返済する気がないというようなもの。ニュスライン家がすぐさま融資を止めると言われたとしても、何も文句は言えないのです。そうなった時、我が家は今年の税も納められず、家財や土地や牛を売り払うしかないのですよ。分かっているのですね」
ジャックは何も返事は出来なかった。まだ父から、そうした新事業の具体的な話は聞かせてもらえた事がなく、どれほどの損失が出るなど考えた事が無かったのだ。
「あ、で、でも、ブリギッテは……」
「母としてお前に言える事は頭を冷やしなさいという事。それだけです」
その後何を言っても外から返事はなく、母が立ち去ってしまったのだと分かった。
それから一日三回、侍従が十人がかりでジャックが部屋の外に出ないように監視しながら部屋で謹慎させられる生活が続いた。風呂やトイレの時まで、十数人の侍従が周囲にいて監視しているのだ。下手な事は出来ないし、反抗すれば「旦那様よりご命令されていますので」と言われて終わりだ。部屋の外に逃げようにも、ジャックの部屋は二階で、飛び移れるような木も生えていない。窓から降りるにも、縄に出来そうな布製品はジャックが風呂に出ている間に回収されていた。お蔭で現在、ジャックの部屋にはカーテンもない。
完璧に逃走を邪魔され、ジャックは苛立ちながら仕方なく大人しくしていた。
その後さんざん叱られて、ジャックはニュスライン邸に訪れた。
久しぶりに見るブリギッテは扇で顔を隠して、殆どこちらに表情を見せなかった。
ジャックと同い年のただの娘に必死に謝罪する両親に苛立ちもしたが、謝らなければ自分の将来も危ないとなれば、仕方ないので謝る。そうしたらブリギッテは溜息をついて、こう言った。
「謝罪に誠意が感じられません」
そしてブリギッテが退出した後、両親は何故ちゃんと謝らないのかとジャックを叱りまくった。
次の日からジャックはブリギッテに許してもらうためにニュスライン家に通う日々が始まった。しかし門前払いばかりされる。付き添いで来ていた御者はもっと粘れと言うが、帰れと言われているのだから帰ればいいじゃないか。ジャックはそう思い、一度振り払われたらすぐ帰った。しかし家に帰れば何をしているのだ、ブリギッテに謝罪してこいと追い出される。
ふと、そう言えば婚約破棄を宣言してからというものイーナに会ってないと思いいたる。御者が娼館に行ってくれる訳もないので、ジャックは一人で人目を盗んで娼館にイーナに会いに行った。
そうすれば、娼館の主である老人はジャックに顔も向けずに言った。
「ああ、あの年増なら身請けされてったよ」
「は……?」
「なんだい若いの、お前もあれを身請けしようとしてたのか? そう言えば身請けされた後から次々に色んな奴が身請けしようとしてきたなァ。年食ってるって言うのに、随分とやりてな奴よ」
ケラケラと老人は笑った。その笑い声を聞きながら、ジャックは自分がイーナに裏切られた事を知ったのだ。
イーナはただ、自分を身請けしてくれる相手が欲しかっただけだ。ジャックを愛していた訳じゃない。
身請けしてくれて、その後の生活を保障してくれるのなら誰でもよかったのだ。
(なら、イーナは)
彼女は適当に言っていたのだろうか。嘘をついていたのか。
(でも私は、イーナと共に平民が死んでいく酷い場を)
そこで御者がジャックを探している声を聞いた。ジャックは御者の元に戻ると、ブリギッテが所有している平民たちが死にゆく場所に行けと怒鳴った。御者は怪訝そうな顔をしたが、遠目から見るだけであれば、と返答をして以前行った建物へと向かった。
ジャックは遠目でその建物を見て、驚いた。
建物の前では老人が座り込んで日向ぼっこをしている。その周りでは近所に暮らしているらしい子供が集まっていて、何やら地面に小枝で書いているようだった。
子供たちが笑い、老人も笑う。建物の中から、若い人間が出てきた。持っているのは洗濯物のようだ。若者は外で集まっている子供たちを見て微笑み、頭を撫でてから洗濯物を洗うために裏へと歩いて行く。
若者と入れ替わるように、農家だろう恰好をした青年が現れる。青年が建物の中に入ってから暫くすると、背中に老婆を背負って出てきた。
そのまま青年は老婆を背負ったまま、歩いてくる。段々と青年が馬車に近づいてくるのに気が付いたジャックは、馬車を避けるように道の脇にずれて歩いている青年を呼び留めた。
「すまない、少しいいか」
「へえ」
「その老婆は」
「これはうちのばあちゃんです」
青年はあっさりと答えた。白くなった髪に皺だらけの老婆は、青年に背負われて歯の無くなった口でもごもごと何かを言っている。
「その、あの場から老婆を連れ戻しに?」
「?」
青年は首を傾げた。ジャックの質問を理解出来なかったのだ。けれど老婆を背負って歩いている理由を問われているらしい、という事は彼にも理解出来た。
「ばあは目が見えなくてですね、家で一人で置いとくのも不安だし、でもうちのちっせー弟たちじゃあ世話も出来んし。別に死にそーではないんですが、ブリギッテ様が一人にさせるのが不安なら、あの家に置いてもええ言うてくれましたんで、ごこーいに甘えて、ばあはあそこで住まわせてもらっとるんです。でもまああそこで働いとる人らも忙しいですし、時間が出来たら、こうしてわしらでばあを散歩させてんですよ」
青年は御者とジャックに会釈をして、背中の老婆に「ばあ、太陽あったけーかー?」と話し掛けながら歩いて行った。
ジャックは呆然と、また建物に視線を戻す。あの日見たのはなんだったのだろう。確かに、人がベッドで苦しみのた打ち回っていたのに。まるでそれが無かったかのように、彼らは幸せそうな顔をしている。
(俺は、俺は)
御者は何も言わなくなったジャックを連れて家に帰った。父と母が何か言っていたが、ジャックは覚えていない。
次の日、ジャックは友人から呼び出されて、ニュスライン家に行っていつも通り門前払いを食らった後に会いに行った。
彼は開口一番、こう言った。
「お前、本当にやばいぞ。分かってるのか?」
友人の一人は久方ぶりに再会したジャックに冷たい目を向けながら言った。
「お前だけじゃない。ガイスラー子爵家や、その親戚筋の悪口まで流れてる事、お前分かってるのか。ワイエンマイアー家とクロージック家の調停が終わった。まだ解決してないのはお前の所だけだ。……悪いけどお前と必要以上に関わって、うちまでニュスライン伯爵に睨まれたくない。次オレに話しかけるのなら、ブリギッテ嬢に謝罪が終わってからにしてくれ」
一番親しい筈の友人にそう言われて、ジャックは怒った。なんて奴だと苛立ちながら、けれど社交界の現状を把握していない事を思い出す。
家に帰り母に訴えれば、母は顔を青ざめさせて、背けた。
自分の行動のせいで家族にまでどれだけ苦痛を与えてしまっていたのか。それをやっと理解したのだ。
それからジャックはブリギッテに必死に謝った。ブリギッテもそれを受け入れて門前払いではなく屋敷の中まで入れるようになり、玄関を経て、部屋まで通された。そして謝罪を受け入れてくれた。これで全て解決されたのだ。
アデャータ紳士院の新しい学期が始まった。
今まではそれなりに周囲に居た人が、ジャックを見て遠巻きにしてコソコソと話し合っているのに彼は苛立ちを覚えた。ジャックに忠告をした友人はジャックとブリギッテが元鞘に収まったからか、普通に声をかけてきたが、困っている友人に冷たい事を言い放った相手と親しくする気にもなれず、距離を取っていた。
しかも誰も彼も、ジャックに婚約は本当に破棄したのか、再び結んだと聞いたが何故結んだのか、むしろどうして破棄しようとしたのかなどと次から次へと質問をする。中々人が減らず何故俺ばかり! とジャックが文句を言えば、その時集まっていた野次馬の一人が「フンガーがお前に聞けって言ったから」と答えた。
エリッヒ。
エリッヒ・フンガー。
その名を聞いて、苛立ちは彼に向かった。
今まではこちらに媚びを売ってきていたというのに、あれ以来一切挨拶もせず、遠目で見ても無視してくるようになった男。思い返せばジャックは彼に気絶もさせられているのだ。
これは一つ、立場を分からせねばならない。
エリッヒはブリギッテの護衛兼使用人だ。つまり、将来的にジャックの家で働く使用人ともなる。
ならば未来の主人に対して粗雑な対応をする事を咎めなければならない。
そう思って、恥をかかせようと決闘を申し込んだ。
けれど恥をかかされたのはジャックの方だった。
エリッヒは強かった。確かに、ブリギッテはエリッヒは剣の腕だけはちゃんとあるのだと言っていたが、普段のドジさを見ていてはまだマシぐらいだろうと勘違いしても可笑しくはない。実際ジャックは、エリッヒの剣の腕を直に見た事はなかった。婚約関係といっても、エリッヒの腕が必要になるような場でブリギッテと会う事など無いから、話に聞くだけだったのだ。
「うそだ……」
荒く呼吸をしながら、ジャックは地面に倒れ込んで呟いた。
背後でエリッヒの近くに誰かが来る。シュルト公爵家の紋が入った服を着た騎士だった。
友人――あの、冷たい事を言って来た友人だ――に引きずられるようにしてジャックは強制的にその場から退けさせられた。その後ジャックは、エリッヒと騎士の戦いを見た。
先ほどまで自分に対して剣を振るっていたエリッヒとは全く違う姿だった。普段、お皿などを持つと周囲から「気を付けろ」「割るなよ」と声を飛ばされるエリッヒとも全く違った。ブリギッテに何かいじわるを言われて涙目で許しを請うエリッヒとも、違う姿だった。
結局エリッヒは騎士には負けたが、ジャックは魂が抜けたようになって動けなくなっていた。
ずっと、自分より下だと見下していた。
同じ子爵家の生まれとは言え向こうは弱小、貧乏子爵。その四男。自分は裕福な子爵の長男で跡継ぎ。生まれ持ってエリッヒより立派で偉い存在。エリッヒはこちらに媚びを売らねば生きていけぬ存在。
そう、思っていた。
これと思った下の身分の女には捨てられ。
一度は自分が捨てた女に頭を下げて拾ってもらい。
些細な存在だと思っていた相手に負ける。
若い自尊心を折るのには十分だった。
ざまぁ要素はこれで終わりです。




