07 ジャックとエリッヒ
アデャータ紳士院の新しい学期が始まった。
学期末のパーティーであんな騒ぎがあって、幾人か紳士院を去った生徒もいたため、少しざわつきながらのスタートとなった。
例のパーティーで最後の登場人物となってしまったエリッヒも多少取り巻かれたが、細かい事はジャックに言ってくれの一点張りで無視した。エリッヒの身分でペラペラしゃべる訳にはいかない。ドジではあるがその辺りの分別はついている。だから、友人であるトマスたちにだってその後どうなったのかは話していない。
以前は朝も夕もジャックに挨拶しにいっていたし、それ以外ですれ違ってもちゃんと挨拶をしていたが、ブリギッテをあんな目に遭わせた男に挨拶をしてやる気分にもなれず、どうしようもなく目が合った時以外は無視している。
それが苛立ったのか、今、エリッヒとジャックは模擬戦用の木製の剣を持って生徒に囲まれた運動場で向き合っていた。
その日の午前、ジャックから決闘を申し込まれたのだ。
断る理由もなくエリッヒはそれを受け入れた。
勿論、本物の剣を持ってやる訳にもいかないので正式な決闘ではなく、手合わせだが。
「やっちまえー!」
「本気でやってやるなよー!」
紳士院などと名前がついていても、通っているのは年頃の男児だ。中々に過激な声援が四方から飛んでいる。
声援の内容としては、エリッヒの身を遠回しに案じているような内容が多い。
エリッヒの普段のドジさが紳士院でも有名な結果だった。
また、ジャックとエリッヒではジャックの方が体格が恵まれているという点も、エリッヒが不利であるように思われる原因となっていた。
「怪我すんなよフンガー!」
そう直接声をかけてくる者までいて、エリッヒは恥ずかし気に頭を掻く。
一方でジャックを応援する声はさほどない。学期末のパーティーで喜ばれない方向で騒ぎを起こした事を生徒たちは忘れてはいないのだ。それでも剣を構えて胸を張る光景は立派だ。
学期と学期の間の休み期間で檀上から突き落とされて痛めた足の怪我は治ったトマスはあーあと溜息をつく。
「止めておけばいいのに」
それはどちらへの言葉であったのか。
その答えは、すぐに出た。
「はじめ!」
審判役を引き受けた生徒の声が運動場に響き渡ってから、木製の剣が弾かれて遠くに飛ばされるまで、十秒もなかった。
運動場で二人を囲っていた生徒たちは、沈黙する。あまりにあっけない終わりに誰も言葉が無かった。
剣をはじかれて何も持っていないのはジャック。
そしてジャックの剣を弾き飛ばしたのはエリッヒだった。
ジャックは呆然と、震えの残る手とはじき落とされた剣を見ていたが、我に返ると慌てて叫んだ。
「も、もう一度だ! これはたまたまだ!」
「はあ。分かりました」
エリッヒは頷いて、剣を拾って来たジャックと再び向き合う。
「はじめ!」
今度は十秒も要らなかった。最初にジャックが剣を振り下ろした時に正面から打ち込んで、また剣が弾き飛ばされる。
ジャックは自分が劣る事が許せないのか、もう一度! と叫ぶ。
二人は何度も打ち合ったが、全てジャックが負けの形ですぐに終わってしまう。ざわざわと普段のエリッヒを知る者が狼狽える一方で、トマスなど同学年で親しいものたちは全く驚かず、むしろ未だにエリッヒに挑むジャックに呆れていた。
この光景を、途中から運動場に現れて見ていた者がいる。
その人物は周囲の生徒とは違い全く狼狽えていないトマスに目を止めると、そちらに近づいて彼に声をかけた。
「失礼。君はあの青年とは親しいのかな」
「エリッヒの方だったら友人ですよ。ジャックの方もさっさと諦めればいいんですけど――ねッ?!」
しっかりとは確認せずに返事をしたトマスは振り返って、驚愕した。
そこにいたのは、若き公爵、ロナルド・シュルト。
ブリーカ王国南部を国王から任されて統治している第二王子ラファエルの娘婿――ラリッサ姫の姉、ジャスミン姫の夫だ。
南部で暮らす人間からすれば、当然顔と名前を覚えておくべき人物であり、トマスも勿論顔も名前も把握していた。
突然自分よりずっと身分の高い者が現れた事に狼狽えるトマスにロナルドは少し困った顔をして言う。
「すまない、そこまで驚かせるつもりはなかったのだが……。諦めればいい、と言うが、その理由は何故だい?」
「な、何故って…………。前提が違いますから」
相手が公爵であることに腹を括ったのか、トマスは意外にもしっかりとした口調で答える。
「確かに剣は貴族令息としての嗜みですが、ジャック・ガイスラーは嫡男で、実家の土地を継ぐ立場です。別に剣の腕を鍛える必要はそこまでありません。彼の実家は農場の地主ですし。……けれどエリッヒは小さな子爵の四男で、何か秀でて取り立てられなければ生きていく事も出来ません。そしてあい――彼にとってはその秀でた部分として認識されたのが剣の腕ですから、エリッヒにとって剣とは自分のこれからの人生に関わる事です。そんな男の剣に、手習いで多少鍛えられた程度のガイスラーが勝てる訳ありません」
「なるほど……」
トマスの言葉に納得しながら、ロナルドは視線を中央に戻した。
運動場の真ん中では、およそ十回目になる打ち合いが始まろうとしている。十回目に至って、やや冷静になったエリッヒは後にブリギッテの夫となる男をあまり打ち負かしては不味いのではないかと思った。かなり今更であったが。そうした冷静さよりもブリギッテを悲しませた相手だという怒りの方が勝っていたのだ。
結果として十回目の打ち合いは、ジャックが剣を振るうのをエリッヒがひたすらに避けるという、明らかに手を抜いていると分かる戦いとなってしまった。
冷静になったエリッヒとは反対に、ジャックは頭に血を上らせる。
彼自身、エリッヒに手心を加えられていると分かっている。それは彼には、自分より下の立場であるエリッヒに馬鹿にされているとしか思えなかった。
エリッヒにそのつもりはないが、そう見えてしまうのだから仕方ない。
「くそおおおおおお!!!!」
ジャックが大きく剣を振り上げて下ろす。その動作の隙間に身を滑り込ませて、エリッヒはくるりとジャックの背後を取った。
打ち込む先を失ったジャックは体勢を崩し、倒れ込む。ぜえぜえと荒い声で呼吸をしているだけですぐに立ち上がろうとしないジャックを見下ろして、エリッヒは溜息をついた。
審判役の生徒も、もうどう見ても決着のついている戦いに飽きてきたようで、目線で終わらせていいかとエリッヒに訴える。エリッヒは両手の手の平を上に上げて肩を上げて「わからない」とジェスチャーすると、ジャックを指さした。ジャック次第だから自分に言われても、という事らしい。
そこに、一定以上近づかないように距離を作っていた生徒の間を通り抜けて一人の男性が進んできた。
エリッヒはその人物を見て首を傾げる。紳士院の教師でもなければ先輩でもない。騎士服を着ているので騎士なのだろう。突然の乱入者に、周囲の生徒たちも左右の友人と「あれ誰」「知らん」と話し合っていた。
男性はエリッヒの前に立った。
ジャックも体格はいいが、男性と並んでしまえばみすぼらしく見えるかもしれない。それぐらい、男性は立派な体格をして、立ち姿も堂々としていた。鍛えてはいるものの細身なエリッヒと並ぶと、エリッヒはより弱そうに見える。
「えっと……」
「はじめまして。エリッヒ・フンガー殿かな」
「は、はい! 僕がエリッヒ・フンガーです!」
慌てて背筋を伸ばしながらそう答えると、男性は微笑んだ。
「私はヴェンツェル・レデラー。ロナルド・シュルト公爵の護衛をしているものだ。一戦、手合わせ願えるかな」
「ロナルド――シュルト――公爵!?」
突然の大物に、エリッヒは声を裏返させた。
審判役もその声は聞こえて、狼狽える。
「な、ななな、なぜ!?」
「先ほどの打ち合いを見ていたよ。彼では残念だが君の相手としては力不足が過ぎるようだからね。君の実力を、私の主は知りたいらしい」
ヴェンツェルがちらとロナルドのいる方角を見る。エリッヒもつられるようにそちらを見て、顔を引き攣らせているトマスの横に見知らぬ、学生でもなく上等な服を着た人が立っているのに気が付いた。
その顔はうろおぼえであったが、エリッヒの記憶にもあったシュルト公爵の絵姿そのものだ。
(シュルト公爵って、この前お嬢様がお会いした殿下のお姉様の旦那様……? どうして……?)
訳が分からず混乱しているエリッヒだったが、もう一度ヴェンツェルに「いいかな」と声を掛けられて、慌てて頷いた。断れる訳もない。
ジャックは友人たちによって回収されていき、エリッヒは木製の剣を握ってヴェンツェルと向き合っていた。向き合った段階で、エリッヒは自分敵わない事を悟った。ヴェンツェルが剣を握った段階で、自分が負ける姿が想像できてしまった。
とはいえ一度向き合った以上は逃げる訳にもいかない。腹を括り、剣を持った。
審判の戦いの開始を告げる声に、エリッヒは踏み込んだ。
結論から言えば、数分続いた打ち合いはエリッヒの負けで幕を閉じる。
ジャックと打ち合っていた時とは違い汗だくになりながら地面に転がるエリッヒの前にヴェンツェルが剣を突き立てた所で審判は決着を告げた。
「いい戦いだったよ。ありがとう」
「ありがとうございました」
ヴェンツェルの手を借りて立ち上がり、頭を下げる。その後ヴェンツェルは主の元へと戻っていくと、その主ロナルドと少し会話をした後にエリッヒたちを振り返る事もなく去っていった。
「……なんだったんだろ」