06 元鞘
ブリギッテの予想通り、二日後、ガイスラー一家がニュスライン伯邸にやってきた。
父ローデリヒとガイスラー子爵の間で話し合いは済んだらしい。
元々この政略結婚、いやまだ結婚していないから政略婚約か。ブリギッテとジャックの関係はニュスライン家とガイスラー家が合同で事業を行うための婚約だった。ローデリヒ側としてもこの婚約破棄は痛いので、破棄したくないのだ。……とはいえニュスライン家をコケにするような事をしでかした分はしっかりと、ガイスラー側に賠償してもらう所で話がついたらしい。
婚約がどうして成り立ったのかを知っていたブリギッテは父が婚約を破棄しようとしているとは思わなかったので、予想通りの着地だった。
ただ、それでもローデリヒも、娘の気持ちを完全に無視は出来なかった。
故に当主としては婚約関係の継続を受け入れたが、最後はブリギッテ本人に謝罪し、許しを得るようにとガイスラー子爵に言ったらしい。
「最終的には許すよう。とはいえ、お前の気がある程度すむぐらいまでなら袖にしてやって構わない」
子爵たちが到着する前にブリギッテは父からそう言われていた。
貴族当主としての冷淡な判断以外で、娘の気持ちを慮ってくれた父にブリギッテは感謝している。ここで父からすぐに許すように言われて簡単に許してしまえば、ブリギッテはガイスラー家にとってもジャックにとっても軽い女になってしまう。彼女の意思を簡単に踏みにじるかもしれない。結婚してしまった後ならば、ローデリヒやガブリエラの意見もそう通せず、ブリギッテは己の力でガイスラー家で意見を通さなければいけなくなるのだから、その未来を考えても、相手を少しは手こずらせた、という印象を与えたい所だ。
婚約破棄を宣言したという日から、ジャックに会うのは今日が初めてだった。けれど確かに婚約破棄を本当に宣言したのだろうと納得するほど、ジャックがこちらを見る瞳には怒りと嫌悪があった。
「ブリギッテ、どうかうちのジャックと結婚してくれませんか……!」
「このような事は二度と起こさせない。だから、どうか……!」
必死に、まだ十六でしかない娘に頭を下げるガイスラー子爵と夫人に、ブリギッテは同情してしまう。その背後で悔しそうに顔を歪めているジャックは、子爵に頭を掴まれて無理矢理頭を下げさせられていた。彼の様子を見れば、婚約関係を続ける事も結婚する事も、彼の本意ではないという事がよく分かる。彼は自分の立場を分かっているのだろうか。まあ、分かっていないぐらいが扱いやすいのだけど。しかし謝罪の言葉を口にしている所を見ると、よほど家で両親から怒られたのだろうなとブリギッテは想像する。
ブリギッテは暫し、何も返事をせずにガイスラー家の人々を見ていた。
沈黙で憤りを表した。
しかし少しすると、あまりに必死に頭を下げる子爵と夫人、将来の義理の両親の姿に、やはり憐みを感じ始める。ブリギッテは目じりを下げて、未だ頭を下げている夫婦に優しい声で語り掛けた。
「おじさま、おばさま」
ガイスラー子爵とガイスラー夫人が顔を上げる。同時に、声を掛けてもいないジャックとも目が合ったが、ブリギッテは知らぬフリをした。
ただ夫婦の方だけを見て言う。
「どうか頭を上げてくださいまし。お二人のお気持ちはこのブリギッテ、よく理解しました」
「では……」
二人が顔をやわらげた所で、けれど一転させてブリギッテは眉を寄せた。少女の表情の変化に、ガイスラー夫婦も口角を上げたのか下げたのか分からない微妙な所で止めて固まった。
ブリギッテは、こちらを見上げて来るジャックを見た。ジャックは男性として、立派な体格を持っている。背も高い。だからジャックに見上げられるというのは、思い返してみると初めての事だった。
「けれど先ほどから、ジャック様から誠意というものが感じられませんわ」
ビクリと子爵夫妻は体を揺らし、ジャックを睨みつける。ジャックは余計な事をと言わんばかりにブリギッテを睨んだが、「その目はなんだ!」と子爵に肩を突かれた。父親に叱られたジャックは唇を噛みしめてうつむく。
「おじさまとおばさまからの謝罪、しかと受け取りました。けれどわたくしを、そしてニュスライン家を馬鹿にしたジャック様から本心での謝罪を受け取れない事には、婚約者であり続けたくはありません」
ぷいとブリギッテは顔を背け、部屋を出ていった。今日はもうガイスラー家に会うつもりはない。ローデリヒが形だけブリギッテを止めるように声を掛けてきたが、聞こえないフリをした。
ずっとその場に付き添ってくれていたアンが部屋の扉を開き、ブリギッテが外に出て扉が閉じられた後、部屋の中からは子爵と夫人がジャックを責め立てる声が聞こえて来る。
それからというもの、ジャックは毎日毎日ニュスライン邸を訪れた。
最初は門前払いで追い払った。対応を請け負った使用人たち曰くしぶしぶ来ているようだったそうだ。恐らく両親からブリギッテが許してくれるまで通えと言われ、家から追い出されているのだろう。友人の家に逃げればそうしなくてもすむ訳だが、そうしていないのはそんな事をしたら嫡男として許さない……みたいに、厳しい事を言われたからだろうかとブリギッテは想像する。実際の所は彼女には分からない。
その様子が変わったのは、およそ十日が過ぎた頃だった。
ワイエンマイアー侯爵令息ハンノとクロージック伯爵令嬢アニエルカの婚約破棄が決定し、賠償金の話し合いにケリがついたのだ。
結果として元々クロージック側が提示していたのと比べれば金額が下がったものの、これまでアニエルカに与えていた心痛なども考えられてかなりの金額で話が付いた。……そうだ。元々の金額を知らないのでブリギッテは具体的には知らないが。
アニエルカは分家の人間と婚約を結び直したらしい。身内であれば、元々アニエルカに同情的なので辛い思いもそれほどしないだろう。
一方でハンノは極めて遠方の、ド田舎の男爵に婿入りする事になった。ド田舎。今まで様々な女と遊んでいたハンノだが、最早馬で数時間走らねばまともに人に会えぬほどのド田舎。そこにハンノは多額の結納金と共に放り込まれた。
噂でしかないが、結納金だけで男爵家は数年生きていけるぐらいの金額らしく、大喜びで女癖が悪いハンノを受け入れているという。婿入りではあるがそこで当主になった所で男爵家の当主だ。今までの、侯爵家という身分を盾にしていた人間からすれば苦しいだろう。しかも婿入り先は他の貴族との付き合いも殆どないようなド田舎の男爵家だというから、ハンノにとっては最悪な結婚となった……のかもしれない。
そういう風に一番盛り上がって注目を浴びていた所の決着がつくと、人々の興味は今まで影が薄くなっていた他の組に移る。けれどこの時期になると、それぞれの家で決着がついていた。それぐらいハンノ・ワイエンマイアーとアニエルカ・クロージックの婚約破棄騒ぎは大騒ぎで長引いていたという事だ。
真実がどうであれ、未だに表向きですら決着がついた風に発表していないのは、ブリギッテとジャックのペアだけだったのだ。
結果としてジャックとブリギッテはある事ない事囁かれる事になった。
傷心を理由に引き籠っているブリギッテの耳には殆ど届かないが、婚約を破棄されたとなれば引き籠るのも仕方ないと思われている。その上ジャックは連日ニュスライン家に現れては門前払いされているのは周囲から見られていたので、ジャックが必死に謝り続けているという噂が簡単に回った。それに乗じて母ガブリエラが社交界でうまく噂を回した。つまりは大体の責任をジャックに押し付けたのだ。ガブリエラとしてはガイスラー夫人には同情する余地があるようで、親が必死に叱って諫めているのに未だに常識的な事すら分かって居ない親不孝な息子――という風にジャックは広まっていっていた。そこからは各々が好きに尾ひれを付けて噂は大きくなっていく。
これを収束させるにはブリギッテに謝って、元鞘になるしかない。
よってジャックは今までの態度を一転させて必死こいて謝ってくるようになった。
仕方ないので、ブリギッテは家に入れてやった。客間ではなく玄関ホールまでだが。必死に謝り続けるのを数日間見てから、ブリギッテは頭を下げているジャックの手を取って、客間まで通してやった。
「すまなかった。君は平民を虐げているんじゃなくて、平民のために最期の時の憩いの場を開いていたというのに、それを勘違いした挙句紳士院という場で悪い噂を広げるように事を大きくしてしまって、本当に申し訳なかった」
ブリギッテは何も言わず、三十分程の時間、ジャックの謝罪を見続けていた。
ジャックは床に膝をついて、両手をついて頭まで下げた。その顔には必死な気持ちがにじんでいる。ブリギッテへの謝罪が本心なのかは分からない。自分の保身のために必死になっているだけの可能性の方が高い。だが、――貸しとしては、十分だろう。
「ジャック様、立ってください」
ジャックは恐る恐る立ち上がった。その顔を見上げて、ブリギッテは微笑む。
「許して差し上げます。貴方に嫁ぎましょう」
「! 本当か」
「ええ、本当ですとも。この婚約はお家のための婚約ですからね。ジャック様もそれはよく分かっておいででしょう?」
「あ、ああ」
ブリギッテはジャックに自分の対面に座るように促した。ジャックはブリギッテが何を考えているのかが気になるのか、やや怯えを見せながら座った。
その直後にブリギッテは閉じた扇でジャックを指した。
「けれど覚えてくださいませ。わたくし、この度の事で酷く、……酷く傷つきましたの」
――その日の午後にはニュスライン伯爵家とガイスラー子爵家連名で、ブリギッテとジャックの婚約と結婚の日取りまで発表された。結婚は数ヶ月後になった。
この騒ぎの結末をブリギッテから聞かされたエリッヒはむぅと頬を膨らませている。子供みたいな顔をするなと同席していたゲラルトに叱られたが、やはり納得がいかない様子だ。ブリギッテは幼子が駄々をこねているのを見守るような優しい瞳でエリッヒを見た。
我慢出来なかったのだろう。エリッヒが呟くような声で言う。
「どうして許してしまったんです。本当に、お嬢様はジャックと結婚するのですか…………? あんな奴と結婚して、お嬢様は幸せに……」
「エリッヒ。それ以上は止めなさい」
「でもアンさん!」
「分かってるわ。あんな男にお嬢様が嫁ぐなど、私も納得は行かない。けれどお嬢様と旦那様がお決めになった事よ? これ以上は私たちが口を出す事ではないわ」
年下のエリッヒを、アンは不出来な弟のように可愛がっている。
アンもエリッヒと同じように弱小子爵の三女で、親から継げるものなどなにもなく生きていくためにニュスライン家にやってきた身だから、余計に親近感がわくのかも知れない。
エリッヒを咎めてはいるけれど、やはりアンにも不満はあるようだ。そんな二人の手を取って、ブリギッテは言った。
「貴方たちは、私と一緒に来てくれるでしょう。二人がいるのなら不幸になんてならないわ」
一番信頼している二人がいるのなら、例えそこが敵だらけの場所でも生きていける。ブリギッテはそう思っている。
そんな思いを込めて語り掛ければアンは仕方ないとばかりに笑った。エリッヒも背筋を伸ばして声を上げる。
「勿論、私はお嬢様の味方です」
「どこまでもついて行きます! お守りします!」
しかしそこで、エリッヒはまた子供のように唇を尖らせた。
「でもあいつはお嬢様の夫として」
「いい加減にしろ。――ブリギッテ様、御前失礼します」
見かねたゲラルトがエリッヒの耳を掴んで引っ張り、部屋から出ていく。
「い、いた、いたたた! お師匠様~!」
エリッヒの情けない声が聞こえて来るのをアンとブリギッテは笑って見送った。
……アンはエリッヒが居なくなってから、ずっと微笑んだままのブリギッテを見る。
ずっと側にいるアンであるが、それでもブリギッテの事を完全に理解できる訳ではない。
ただ、エリッヒよりかはブリギッテが何を思ってジャックと元鞘になったのかを理解はしているつもりだった。
アンは年下の主人を見下ろして、呟いた。
「エリッヒの牛は、ガイスラーの農場に馴染んでおりますものね」
「……そうねぇ」
エリッヒが親の死後引き継げるのは、親がエリッヒのためにやった牛二頭だけだ。その牛は普段からニュスライン伯爵家に置いておく訳にはいかない。家には家で、前からいる乳用の牛もいるからだ。エリッヒの牛は現在、どうせブリギッテが後に嫁いでいってエリッヒも一緒に来るのだからとガイスラーの農場に置いている。
親からの愛情の結晶である牛を、エリッヒはとても可愛がっている。
エリッヒだけを護衛兼使用人として連れて行くのならばそこまで困る事はないだろう。だがエリッヒの持ち物である牛ごと嫁いで行ける先はそう多くはない。
牛の事も考えるとガイスラー子爵家はブリギッテにとって、これ以上ない条件の揃った嫁ぎ先だったのだ。
「勿論それだけじゃないわよ? それ以外の条件も考えて、ジャックと結婚するのが最善だと思ったから許してあげたの」
ニコリと微笑むブリギッテに、アンは年下のこの令嬢は自分とは違い、まさしく貴族令嬢なのだなと思った。
「……アンはお嬢様の味方でございます」
「ありがとう、アン」