05 貴人を訪ねて
事はすぐには進まなかった。二週間近く、ブリギッテは何をするでもなく屋敷に引き籠る事になった。
けれど家に籠っているものの、外からの情報は届いてくる。使用人たちはある事ない事噂を囁き合い、親しい友人たちからは社交界の状況が送られてきた。ガブリエラはこの状況でもいくつか選んだ社交に出ている。普段は少し気の弱い所もある母だが、腹を括ると行動力は凄い。
手紙や母からの話によると、ブリーカ南部の社交界では、現在アデャータ紳士院で起きた騒ぎの噂で持ち切りらしい。
とはいえ五組も同じネタの騒ぎが起きたので、人々の関心の中心はより目立つ部分に行く。
一番注目が集まったのはワイエンマイアー侯爵の三男であるハンノ・ワイエンマイアーと、クロージック伯爵の長女であるアニエルカの婚約破棄騒ぎである。
爵位こそ侯爵であるワイエンマイアー家の方が上であるが、クロージック家は歴史が古く分家も数多くある名家だ。爵位が下だからと、簡単には軽んじられない。
その上ハンノの普段の態度が酷過ぎた。何度も女を作り、更には子までこさえてその度に騒ぎになっていたのをアニエルカ側が寛大な心で許していたにも関わらず、今回は堂々と婚約を破棄するとのたまったのだ。当然クロージック家は本家も分家も怒り心頭で今度という今度は堪忍袋の緒が切れたとクロージック伯は言い、婚約破棄は結構、その代わりにと多額の賠償金を請求したという。
一方でワイエンマイアー侯も婚約破棄に関してはもうお手上げ、どうしようもないとは思いつつ、その多額の賠償金は流石にそのままは呑み込めないと反論した。侯爵のプライドとして全面降伏は出来なかったのだろう。紳士院のパーティーで逆上したクロージック伯の分家筋の男たちがハンノをぼこぼこにした分は賠償金を下げるべきだという主張をした。一理ある。当然、ワイエンマイアー家側としてはそう主張するだろう。なにせ賠償金の金額はかなりゼロの数が多かったらしいから。具体的な数字は表に出ていないが、皆「多い」というだけでいくらだ、いやいくらだと妄想に忙しいらしい。クロージック側にやや不利だったのは、アニエルカがハンノの女癖の悪さに怒り今の恋人であるアニーにややよろしくない嫌がらせをしていたのも事実だったらしい事だ。ワイエンマイアー側はそこに目をつけて、かよわい平民に手を出すなどひど過ぎる、ハンノの言い分にも真実があるのだから、その分は賠償金も下げるべきだと主張した。
現在もっとも大騒ぎになっているのは間違いなくこの二人の婚約破棄騒ぎだ。
おかげで、他の四組――もちろんその中にジャックとブリギッテも入っている――の事情はそこまで表に出ていない。
引き籠ってからジャックからブリギッテ、或いはニュスライン家への直接の問い合わせは無い。ブリギッテも父から引き籠るよう指示されているのでどこにも出掛けない。
元々、親同士が話し合って取り決めた婚約だ。結び直すにしろ撤回するにしろ賠償をどちらかがするにしろ、代表となり話し合うのは親同士になる。勿論、どこかの段階で当人たちも引っ張りだされるだろうが、現時点ではお呼ばれされる所には来ていないらしい。
ただブリギッテは、そう遠くない日――明日か明後日か、それぐらいには自分自身もこの話し合いの場に引きずり出されるだろうと予感していた。
その前に彼女には確認しておきたい事があった。
その結果がこの日出たために、ブリギッテは久方ぶりに屋敷を出た。いくつかあるとっておきのドレスに袖を通し、どこに行くのかと不思議がる使用人たちに臆することなく相手の名を告げれば、皆何も言わなくなった。
ニュスライン伯爵家のある街から更に南下し、片道二、三時間はかけて彼女は南部最大都市に赴いていた。
そこにはかつて砦でもあった巨大な城、アーテム城がある。
ブリギッテの乗る馬車は、その城に向かっていた。御者の横にはエリッヒが座っており、馬車の中にはアンが付き添っている。
馬車は城内に入り、ブリギッテはエリッヒの手を借りて馬車から降りると案内人に着いて城内を進んだ。
そうして現在、背後にアンとエリッヒを連れた状態で、ブリギッテは一人の少女と向き合っている。ブリギッテは彼女がいる部屋に入ると一番最初に彼女にカーテーシーをした。
「お久しぶりでございます、ラリッサ殿下」
「よく来たわね。座って」
ニコリ、笑った彼女の瞳は人間のものではない。
ラリッサ・フォン・シュルト。
ブリーカ王国の王族に名を連ねる貴人である。
ブリーカの現国王ジークフリードの孫姫だ。
ラリッサに促されてブリギッテは座る。ブリギッテの家の椅子とて安物ではないが、流石は王族が領主として暮らしている城だ。見ただけでも一級品だとは思っていたが、座り心地が更に一段上だった。
本来、ブリーカ王国の王族は家名を持たない。
けれどラリッサは生まれた時点で成人に伴い臣籍降下して新たに家を立ち上げるか、臣下に嫁ぐ事が決まっている立場であるために、後に彼女が持つだろう家名シュルトの名を既に名乗っていた。
正面に座ると、彼女の瞳がよく見えた。
薄黄色の瞳は、しっかりと見ると瞳孔が人間のものとは違い細く縦に伸びているのが分かる。これはラリッサが父である第二王子から、そしてその母でラリッサにとっては祖母にあたるブリーカ王妃、狐の妖怪である九姫から引き継いだ、妖狐の瞳だった。彼女には四分の一、妖怪の血が流れているのだ。
ブリギッテとラリッサの関係は、アデャータ淑女院での広い意味での学友に当たる。
正直に言えばこうして個人で会うほどの間柄ではない。
が、この度知りたかった事を調べるには彼女を頼る以上の良策が思い至らず、ブリギッテはラリッサに手紙を送った。父に報告すれば様々指示を出される事は分かっていたから、その前に早馬で出した手紙は無事ラリッサの元に届き、こうして今日城に呼ばれるに至った訳だ。いくらなんでも王女からの呼び出しであれば父も止める事は出来なかった。
本題に入る前にブリギッテとラリッサは何て事ない会話を重ねる。貴族の会話ではよくある事だ。本題よりも先に、とりとめのない、或いは互いが抱えている感情を遠回しに告げ合うのだ。嫌い合っている間柄であれば殺伐としたものになるし、親しければ文字通り楽しい歓談となるだろう。ブリギッテとラリッサの場合では、ラリッサが遠回しに好奇心から婚約破棄がどうなりそうなのか尋ね、ブリギッテも遠回しにまだ結論が出ておらずそれ以上は父の意向もあり伝えられないと返事をした。
さて。ブリギッテの背後ではエリッヒとアンが控えているのだが、エリッヒが先ほどからやたらと緊張した様子でずっと周囲をチラチラと見ていた。本日は腰に剣を携えているためにドジを踏んではいないが、それにしても落ち着きがない。見かねて、ブリギッテはラリッサに謝罪を入れながらエリッヒを叱らねばならなくなった。
「エリッヒ、先ほどから周囲を見てばかりで、失礼でしょう」
「も、申し訳ありません……そ、その」
「ラリッサ殿下の前で何を申すというの。黙って居なさい」
「はい……」
縮こまるエリッヒに、ラリッサは寛大に言った。
「構わないわ。どうかしたかしら」
「……」
エリッヒはどう答えるべきか狼狽えて、助けを求めてブリギッテを見た。ラリッサがこう言うのであれば素直に答えるべきだろうとブリギッテは判断して、答えるように指示を出す。
主人からの許可に、エリッヒは恐る恐る口を開いた。
「そ、その、天井と、そこのテーブルの影と、そのカーテンの裏と、ソファの影にある気配は、よ、妖怪の方なんでしょうか……?」
ラリッサはゆっくりと目を開き、片手で扇を広げると口を覆って隠した。それから少し間を置いて、まあ、と小さな声が貴人の口から漏れる。
「その通りでございますよ」
「ヒッ!」
突如、エリッヒの背後に男が現れた。反射的にエリッヒは腰の剣を鞘から抜き去って背後を切りつける。しかしエリッヒの剣は何も捕らえない。
一瞬の出来事で令嬢であるブリギッテが理解し反応出来たのは、突然エリッヒが抜刀したという事実だけだった。
「エリッヒ!」
ブリギッテの厳しい叱咤が護衛の青年に飛ぶ。ラリッサ王女の前で突然抜刀するなど、王族への反抗を露わにしていると取られても可笑しくない事態だ。エリッヒもそれは分かっているのだろう。反射的に抜いてしまった剣を構えたまま、顔を青ざめさせて固まっている。
突然の事に横に立っていたアンも顔を青ざめさせて固まっていた。
ブリギッテは急いでラリッサに向き直ると、必死に頭を下げた。
「申し訳ありませんラリッサ殿下、これは……」
「問題ないわ。今のはこちらの落ち度です。――暁月、客人を揶揄うものではありませんよ」
「申し訳ありません」
そこでブリギッテは、ラリッサ王女の傍らに先ほどまでいなかった男が立っている事に気が付く。恰好からして侍従だろう。美しい男だった。けれどブリギッテの思考は聞こえてきた男の名の方に飛んでいた。ラリッサが呼んだ名は、ブリギッテには聞き馴染みのない音だった。名前らしいと辛うじて認識できたぐらいだ。その男の顔を見上げて、伯爵令嬢は息を呑む。彼の瞳もまた、ラリッサと同じく人ならざる瞳だった。そして理解した。これは人の姿をしているが、妖怪であると。
暁月と呼ばれた侍従は、ラリッサに謝罪をいれておきながら「いやそれにしても」と楽し気に口を開く。その様子は王族にするには馴れ馴れしすぎた。もし妖怪であると気が付いていなければ、うろんげな視線を向けてしまう所だった。
暁月はエリッヒを見て笑う。
「そこな少年、中々に悪くありませんよ。部屋中にいる護衛の妖怪に気が付くだけでなく、先ほどの反応速度、うん、悪くありませんでした。人にしては上出来だ」
「そう顔を青ざめさせなくて良いのよ、エリッヒ、でしたか。ブリギッテも。それから、そちらのメイドも。……紹介するわ。これは父の侍従筆頭をしている、妖狐の暁月と言うの」
暁月は胸に手を当てて恭しく頭を下げる。
ラリッサの父、という事はブリーカ第二王子のラファエルの事だ。王妃の子供たちは一人ずつ、自由に扱える妖怪の侍従を連れているという。この男もその一人――いや一匹? なのだろう。
エリッヒが青ざめながらも咎められる事も首が飛ぶ事もないらしいと理解して恐る恐る剣を仕舞った後、王女は本題に話を進めた。
「さて暁月。お前が調べてきた事を話して頂戴」
「かしこまりました、御姫様」
そしてやっと、一同は本題へと入った。
――そもそもブリギッテが何故身分違いのラリッサに手紙まで書いたのか。それはエリッヒから話を聞いた時に、似た話を聞いたことがあると思ったからだ。
その話をしていた主こそ、ラリッサである。
ラリッサには姉がいる。
その姉姫は二年前、十七歳の誕生日パーティーにて婚約者である令息から婚約破棄を伝えられた。当然王族への不敬だと大騒ぎになったのだが、ところがこの令息と令息の家族は王妃に対して悪意を持つ妖怪たちに操られており、令息は姉姫に害を及ぼさないように離れようとした結果、婚約破棄などと言い出した事が後に発覚。操っていた妖怪たちは退治され、洗脳を受けていた令息たちは救い出されて二人の婚約も破棄される事なく、無事二人は結婚した。現在では姉姫は臣籍降下して、婿入りした令息は若いながらシュルト公爵の身分を得ている。
この婚約破棄の話はその場に居合わせていたラリッサにとっては大きな出来事であり、姉姫の事をそれこそ目に入れても痛くないほどに大好きなラリッサは未だに「お姉様を守ろうとした事は分かりますがもう少し方法がなかったのかしら」と愚痴混じりに話をしている。一見、義兄とはいえ不敬な行為ではあるが、ラリッサは当人にも未だに根に持って行っているらしく、それを本気で咎める人間は義兄含めて今の所存在していない。
この一件と、今回ブリギッテ自身を襲った出来事が似通っていると思ったのだ。
ブリギッテとジャックはそこまで関係が悪かった訳ではない。むしろ良かった方だろう。それにも関わらず突然婚約が破棄された。しかもパーティー会場で、突然にだ。
もしかすれば、ラリッサの姉姫の一件を知っている妖怪が何かしら裏でしていた可能性はゼロではない。或いは、一件を知っていたものが妖怪を使った可能性もある。
九姫王妃がブリーカ王国に嫁いできて以降、ブリーカ国内には妖怪が多くやってくるようになった。全体的には良い移住者であるものの、一部よろしくない移住者も存在している。そうした妖怪たちが何かしたのか……そのような可能性がある以上、実際になにかされたのかされていないのか確認を、ブリギッテは取りたかった。けれどニュスライン伯爵家にはそこまでの妖怪への伝手はない。
蛇の道は蛇。
ラリッサ王女に事の次第を告げて、もしかして婚約者は妖怪に操られているのでしょうか、どうか調べる事は出来ませんか、と頼んだのだ。
「結論から申しますと、ブリギッテ様の婚約者である子爵令息は、妖術によって軽い洗脳状態でした」
「まあ……!」
ブリギッテは扇で口元を多い、目を丸くした。
洗脳、それは――それはよくない。
「本当ですか、暁月様」
「私に様などいりませんよ、ブリギッテ様。ええ、確かに。とはいえ、これは極めて簡易的な妖術です。ラリッサの姉姫の夫様が象も引きちぎれないほど頑丈な鎖で縛られ操られているものだとすれば、貴女様の婚約者は蜘蛛の糸で操られていた程度のものです」
象。確か異国にいる、力持ちの巨大な生き物だったか。それをやっと縛る鎖と、蜘蛛の糸では、どれだけ蜘蛛の糸が頼りないものか……。
けれど妖怪や妖術に詳しい訳ではないブリギッテには、実感を伴って理解する事は叶わなかった。
「それは、わたくしが受けても操られてしまうようなレベルの洗脳でございますか?」
「そうですねえ……私はブリギッテ様と親しい訳ではありませんのでそれはどうだか……。ですが、あの程度で人間を意のままに、操り人形のように操るのは無理です。精々、ほんの僅かに関心を逸らすぐらいのものでしょう。……事実、子爵令息は繰り返し受けていたために貴女が平民を虐げている人間だと思いこんだようです」
「繰り返し……」
つまり、彼の近くにいた人間がしたという事になる。
一体誰が。
そう思ったブリギッテの目の前に、暁月が一枚の写真を取り出した。
ブリーカ王国には写真を撮る技術も印刷する技術もない。これは妖怪が記憶をありのままに再現した念写と呼ばれる術だ。
その写真には、一人の女が映っている。見知らぬ女だった。だがその、肌を晒すような恰好を見ればある程度の想像はつく。
ブリギッテたちが答えを当てる前に暁月はケロリと言った。
「令息が御用達にしている娼館の贔屓の娘です。名はイーナと言います」
マッとアンとエリッヒは顔を赤らめた。怒りと羞恥心からだった。ブリギッテは狼狽えはしなかったが、改めて写真を見下ろした。
「この娘は、どうやら妖怪の血を引いているようです。とてもとても弱い力ですが、洗脳の術が使えるようで、どうにもそれで男を篭絡して稼いでいるようで」
「……ジャック様はその術にハマったと」
「ええ。イーナ本人に事情聴取をしてまいりました。イーナももう年で、このまま娼婦としてやり続けるのは難しい。なので自分を贔屓にしている中でよさそうな男に身請けしてもらおうと考えていた。そこに、若く、貴族で、イーナからすれば十分に裕福なジャック・ガイスラーが現れたので彼に身請けをしてもらおうと考えた。ところがジャックにはブリギッテ様がいるので遊びとしてしか構ってくれず、勿論身請けしようなどとはしてくれない。なのでブリギッテ様を斬り捨てさせれば身請けしてくれるかもしれないと思い、夜を過ごす度に少しずつ洗脳していって、ジャックの中にブリギッテ様への悪意を植え込んだ――と。そういう事のようです。あ、イーナはこちらで処理をしておきました。殺してはいませんが、もう南部に戻ってくる事はないかと」
「そうですか……」
俯いたブリギッテに、暁月が更に言葉を重ねる。
「ですが、此処から先は個人的意見ではありますが、あの程度の洗脳にかかるようではジャック・ガイスラーの質も見えたようなものです。洗脳系の妖術は精神力があればある程度までは退けられます。あんな粗末な術にあっさりとかかっている様では……」
「これ、暁月。あまり余計な事まで語るでありません」
「出過ぎました」
ラリッサが鋭い言葉で咎めると、ペコリと暁月が頭を下げる。
ブリギッテはその後、ラリッサと暁月に重ねてお礼を言ってから城を辞して帰途に就いた。
ラリッサや暁月には図々しくもこの調査の内容を外には洩らさないよう、頼んでしまったのだが、二人は気にする事なく受け入れてくれた。




