09 馬に蹴られたくはない
庭の芝生に転がって受け身を取り、立ち上がる。すぐ追撃が来るかと構えるが、追撃は無い。代わりに、相手が別方向を見ている事と、そちらの方角から人の気配がする事に気が付く。
エリッヒはそちらを見て、あっと口を開いた。髪の毛の隙間から汗が頭皮を伝って、喉元に落ちて来る。額の汗を雑に袖で拭い、エリッヒは庭出てきた所の主人の元へと駆け寄った。
「お嬢様!」
ブリギッテとロナルドが穏やかに談笑しながら庭に現れた。
それぞれの背後にはアンや他の侍従たちが付き従っている。
ブリギッテは駆け寄ってくるエリッヒに笑顔を浮かべた。同時に、汗だくのエリッヒの後ろからついてくるゲラルトと見知らぬ騎士――ヴェンツェルも汗をかいているのを見て、意外に思う。
エリッヒが汗だくになるのはよくあるが、ゲラルトまであからさまに汗を流している姿はブリギッテは見た事が無かった。
エリッヒは親し気に出てきたブリギッテとロナルドを交互に見つめる。何を話したのか、彼には想像がつかなかった。
「お、お嬢様、その……?」
ロナルド当人が居る場で、ロナルドが何の話をしたのかを聞いていいのか分からず、エリッヒは口ごもる。
オロオロとしているエリッヒにブリギッテが事の次第を伝える前に、横に立っていたロナルドが明るい声で言う。
「君を頂けないかと交渉をしたんだがね」
まだロナルドは話し終えていなかった。
けれどそれを聞いた瞬間エリッヒは仰天して持っていた訓練用の剣を取り落とすと、ブリギッテの足元に飛びついた。
「い、嫌ですうううう! おおおおおお嬢様! 僕の事を捨てないで下さいいいいいい!」
シュルト公とヴェンツェル、そしてその他護衛たちがドン引いた。
ロナルドの元で働けるという、彼の生まれを考えれば極めて名誉で出世となる機会を得れそうだったというのにそれを大声で嫌がっている……不敬だと問われても可笑しくない事だ。
けれどブリギッテの足に縋りつきそうな勢いで(本当に彼女のスカートを掴んで縋って居たら問題だ)、本当に、涙まで流して叫んでいる姿を見ては、誰も何も言えなかった。先ほどまでエリッヒと打ち合っていたゲラルトも、頬を引き攣らせている。
ゲラルトは手で顔を覆って天を仰いだ。それから、哀れな姿を公爵の前で晒す弟子を引き剥がすと、弟子と共に地面に膝をついて、ブリギッテと公爵に頭を下げる。
「申し訳ありません!」
正直にいってこういう情けない所が、エリッヒの愛嬌でもあった。
なのでニュスライン家では今まで皆、叱りつつもそこまで本気で咎めてはいなかったのだが、公爵のような上の立場がいる所でさえこうでは流石に問題がある。エリッヒの首がこののちに物理的に飛ばなければ、その辺りも含めてまた鍛え直さなければならないとゲラルトは思った。
「ロナルド様、わたくしの護衛騎士が見苦しいさまをお見せしてしまい、誠に申し訳ありません」
ブリギッテもすかさず、頭を下げる。
令嬢の通る声にロナルドは我に返った。そして片手を振る。ロナルドは特に気分を害している訳ではなかった。驚きはしたが。
「いや、いや。大丈夫だ」
「恐れ入ります」
「……しかしエリッヒ、話は最後まで聞くべきだぞ?」
ロナルドはそう言って、ぽかんとした顔で涙と、鼻水まで垂らしながらこちらを見て来る若者を見下ろした。若者とは言うがロナルドもそう年をいっている訳ではないので、彼からすれば弟ぐらいの年の差でしかない。
若き公爵は苦笑して、ブリギッテを見た。
「これを見ては、無理は言えぬな。……エリッヒ、安心しなさい。君をもらえぬかと頼んだが、ブリギッテ嬢にあっさりと断られてしまった」
エリッヒは目を見開いてブリギッテを見つめた。ブリギッテは振り返りはせず、ロナルドにそっと重ねて、礼をする。
「それでは我々は失礼しよう」
護衛たちにそう声をかけて、ロナルドは歩きだした。
すぐ近くで様子を見ていた使用人が慌てて「シュルト公爵様がお帰りです!」と指示を出しに走った。
ブリギッテとエリッヒたちもそれに続き、ニュスライン家の人々は最大限の敬意でもって若い公爵を見送った。
――伯爵家から公爵家までの帰路。
遠くなっていく伯爵家を見る主人の普段とは違う様子にヴェンツェルは首を傾げる。
帰る前に服を着替えて汗をぬぐったヴェンツェルは主に呼ばれて馬車に同乗していた。ヴェンツェルは公爵の乳母子であり、共に育った仲で信頼も厚い。
元々短気などではなくむしろ忍耐強い性格で懐も広い主ではあるし、爵位も年も下のものにあっさりと否定されたからと腹を立てたりはしないだろう。実際、腹が立っている様子ではない。
しかしそれにしては、なにか、いつもと違う。
暁月から話を聞き、やや粗雑に扱われながら義妹にまで話を聞きに行っていた様子からして、なんとしてでも新人を引き入れようとするとヴェンツェルは思っていたのだが。
「随分あっさりと引かれましたね」
「うん? ああ……随分とハッキリ断られてこちらが面食らったさ。エリッヒは大事な護衛であり最も信を置いている人物であり、お譲りできません、との事だ」
「大人しそうな令嬢でしたが……貴方に直接そんな事を?」
「意外に強欲だ、あの令嬢は。……エリッヒは久しぶりに見た逸材であったし惜しいからな。なら私の部下の誰かにエリッヒも連れて嫁いでくるか? と言ってみたんだが、はっきりと断られてしまった」
ヴェンツェルは意外だという顔をした。
エリッヒについて調べるついでに、ジャックとブリギッテが少し前に南部の貴族たちの間で騒ぎになっていた婚約破棄騒ぎの一組である事を知っていた。
領地がある裕福な子爵家といっても、公爵家で働いている部下たちの方が年俸は良いだろう。立場も生活も、そちらの方が良い。それでありながら、ブリギッテはジャックを選んだという事実がヴェンツェルには意外だった。
「よほど、ジャック・ガイスラーが好きなのでしょうか」
「いや違うさ」
ロナルドは笑いながらハッキリと否定した。
「あの令嬢が一度己を裏切った令息を結婚相手に選んだのは、都合が良いからだ」
「都合が良い……?」
「そう。私も婚約破棄だなんだと一度騒いだ身だからあまり上からは言えんが……。ガイスラー家の人間は、ブリギッテ嬢に頭が上がらないだろうな。裏切った上に冤罪をかけようとした男――新しい嫁など取れるか分からぬ男を許して嫁いできてくれた女に、文句が言えるか? 更に女主人として必要な事を完璧に果たしてからならば……ガイスラー家は、否、夫となるジャック・ガイスラーは例えあの令嬢が何をしても、文句は言えないだろう」
「ロナルド様、なんのお話をしているのです。何をしても、などと。あの令嬢が何か企んでいると?」
「企んでいるだろうさ。例えばそうだ、子供を産んだ後ならば、ブリギッテ嬢が愛人を抱え込んでも、文句など言えぬだろうな」
ヴェンツェルは素直に驚いた。
「あの二人、そういう関係だったのですか」
そうは見えなかった。少なくとも、エリッヒの方にそうした様子は見られなかった。
故に驚いたヴェンツェルに、公爵は続ける。
「いや。現時点では違うだろう。二人は責められる所などないまっさらな関係だと思うぞ。……だがブリギッテ嬢の方は、エリッヒに対してただの護衛に向けるにしては強すぎる思いを抱えていたさ」
「……だから、お手をお引きに?」
「ああ。覚えてないか。エリッヒの話を聞いた時に、暁月殿も言っていただろう? 九尾国の言葉で。あの時は何故突然そんな事をと思ったが――『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』、とな。私はそんな理由で恨まれるのはご免だ!」
ロナルドはそう言って笑った。




