color:Chocolat「交換条件」
「エクリュくん」
その日の授業を終え、鞄を背負って帰ろうとした時でした。誰かに呼び止めらて、エクリュは足を止めました。
「ジェードくん?」
振り返ると意外な顔がそこにありました。あの前髪の長い少年、ジェードです。自分とだいたい同じ高さに顔があります。並んでみて初めて知りました。彼の身長が自分とだいたい同じぐらいだったということを。見詰められてエクリュは頬を赤らめました。ぜんぜん恥ずかしがり屋じゃないのでは? そんな疑いを持ってしまうほど物怖じしないまっすぐな視線に狼狽えます。ダークブロンドの髪の下から覗いていたのは、美しい翠色の瞳でした。
「この髪のことだけど……」
「エクリュ、帰るぞ!」
後ろから自分を呼ぶ声がして、エクリュは振り向きました。
「ごめん、バフ。今日は先帰ってて!」と申し訳なさそうな顔で断りを入れます。
「……っ」
バフは敵意を顕わにした目でジェードを睨み付けると、ぷいと背を向け、不機嫌な態度で一人教室から出て行きました。いつの間にか教室は二人だけになっていました。
「友達、なんか怒ってたみたいだけど、大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫」
「ならいいんだけど」
ジェードは先程言いかけた話を再開しました。
「この髪のことだけど」
「うん」
少し間を空けてからジェードが言葉を紡ぎます。
「おかあさんに言われたんだ。
『お前の顔は醜い』って」
だから顔を隠すために前髪を伸ばしているとジェードは言いました。彼の母親は父親が再婚した二人目の妻で、ジェードには義母に当たります。産みの親はジェードがもっと幼い頃にある男性とかけおちして所在が不明だそうで、もう何年も会っていないということでした。
「きっとこの顔のせいだ」
ジェードは両手で顔を包み込んで嘆きました。母親に似た顔が気にくわなくて、義母に虐待されているんだと。
ジェードは母親の顔を微かにしか覚えていません。まだ幼かったジェードの記憶には残りませんでした。写真は全て――どちらかわかりませんが、親によって処分され、確認することもできません。ところがある日、彼は聞いてしまったのです。近所のおばさんたちの話を。それは知りたくない情報でした。
「ニームさんちの息子のジェードくん、“母親”の顔にどんどん似てきたわね」
「あれじゃあ、複雑よね。旦那さんも」と。
「あの人もかわいそうな人なんだ……」
義母による虐待は父親のいない所で行われる陰湿なものでした。彼女の機嫌を損ねたら物置小屋に連れていかれ、その中でジェードは背中を木の棒で酷く叩かれました。身体が大きくなって、そうやって背中を叩かれることはなくなりましたが、義母が叱る時はすぐに手が飛んできます。避けたりでもすれば、もっとエスカレートするので、ジェードは黙ってその体罰を受けるしかありません。身長はもう追い越しました。逆らうことも不可能ではありません。でもそうしないのは、そんなことをしてしまう義母にジェードが同情しているからでした。
「だからって酷いよ!」
事情を知ったエクリュは嘆きました。ジェードがなんでそこまで酷い仕打ちを受けなければならないのかと、悲しくなってきます。そんなこと絶対許しちゃいけない。君は悪くないんだ、ジェード……哀れんで瞳を涙で光らせます。
当のジェードはふと口角を上げました。その上下に重なった唇を押し明けて彼は言いました。
「じゃあ、“替わってくれる?”」
「え……?」
エクリュはその意味を理解しかねて目を丸くしました。ジェードが続けます。
「僕たちは背格好が似ているだろ。だから君が僕のように前髪を伸ばしたら、入れ替わってもばれないかもしれない」
突然何を言い出すのか。ジェードは、ものすごく大胆なことをエクリュに提案してきました。
「そんなの絶対ばれるよ!」
普通に考えたら無理でしょう。背格好が似ているからといって、髪の色が似ているからといって……あ、意外と類似しているからいけそう? いやいやいや、絶対やめておいた方がいいでしょう。バレたら大変です。
「じゃあいいよ」
冷めたような口調でジェードが言いました。彼があまりにあっさり諦めたので、エクリュは逆に焦りました。
え、なんか怒ってる? ど、どうしよう!
「……」
なんと言ってあげたらいいのか頭を悩ませていると、ジェードが接近してきました。
「?」
ジェードがエクリュの耳元で囁きます。
「替わってくれたら……」
続く言葉にエクリュは目を見張りました。
「ほんと?」
ジェードの提案はこうでした。
一日だけなんでもいうことを聞いてあげる――
なんでも――エクリュはなんだか気分が高揚してきました。
「先に言っとくけど、お金がかかることは駄目だからね」
「うん」
さっきまでの義母の虐待行為に対する感情はどこへやら、エクリュはすっかり乗り気で声を弾ませました。
こうしてエクリュは、ジェードと入れ替わるという提案に乗ることにしたのでした。
二話のイメージカラーはショコラです。甘い言葉の誘惑をイメージしました。