香
香の匂いが満ちていた。部屋の主は何処にも見当たらない。残り香、だろうか。長く部屋を空けているとは思えない程しっかりと香りが分かるのだから、決めつけるのは早そうだ。
部屋の外には下男が一人、寒そうに両手を擦り合わせながら立っていた。話を聞くと、部屋の主は上機嫌で何処かへ行ってしまったという。何故こいつは引き留めなかったと内心歯軋りしたが、それを下男に言ったところで無駄だろう。手掛かりが無い状態であの厄介者を見付けなければ。憂鬱さに襲われたが、やらねばならぬ。頭を振って、颯爽と歩き始めた。布同士が擦れる音が廊下に響く。
まだ明るさはあるとはいえ、十五夜も過ぎたので夜は冷える。早く暖かい部屋で一杯やりたいものだ。始めようとした時、何故私だけ呼ばれねばならなかったのか。何時も気まぐれで呼び出される側としてはたまったものではない。あの酔狂な趣味の人間が、今日は何処に居るのやら。台所の方向から鰹出汁の香りが鼻腔を擽る。何の料理に使われるのだろうか。ふわりと香るそれは何時も食欲をかきたてる。もしかして同僚達は今あの出汁を使った料理を食べているのか? ならば、早々に探し出して呑みに行かなくては。歩を少し速め、疑わしい所へと。
襖の前で立ち止まり、胸一杯に空気を吸い込んだ。出汁の香りと、それに誤魔化されたうっすらと香る香。何の意図があり、この部屋まで来たのか、とんと検討がつかぬが、無視することは出来ない。
「…………奥方様」
暫くの間の後、小さく入りなさいと聞こえた私の主の声。それはまだお嬢様と私が呼んでいた頃と何も変わらぬものだった。
「奥方様、それは出来ませぬ。貴女はもう結納された。私はただの従者に過ぎない。私以外にも、こうして昔からの従者や護衛を呼んでいるのでしょう?」
「……入りなさいと言ったのですよ」
聞こえた声は震えていた。先程よりも近い所からの声であろう。無邪気で明るい、少し生意気なお嬢様は影を潜めていた。
「………………失礼します」
想像通り、襖のすぐ近くに奥方様の姿があった。お嬢様の頃よりも美しく、豪華な着物に名のある職人が作った簪を丁寧に結い上げた髪に差した奥方様が。化粧をしているとはいえ、長年この人に支えてきた私が顔色を見破るのは簡単なことだった。
「御用件は何ですか。どうかされましたか?」
何をしたいか、何を言いたいか分かっていて猶、こんな質問をする私は狡いのだろう。奥方様に余裕が無いのと同じような私も余裕が無かった。
「もう、帰りたいのです。私がここに居なくても、殿には正室も側室もいらっしゃるでしょう。家族の期待に応えよと言われても、殿は私に興味なんて無い。ならば私の居場所はここではないはずです。私を、ここから連れ出してください……! 昔に、皆と楽しく暮らしていた頃に戻りたいのです…………」
近くで香の匂いが動く。昔ならば、こんな上等な香を焚くお嬢様など想像だに出来なかった。殿の側室となり、贅沢を許され、豊かになったはずなのに……「お嬢様」の心は貧しくなってしまわれたらしい。香の匂いが忌まわしかった。この香が「お嬢様」をこの縮こまった「奥方様」にしてしまったようで、上等のものだとしても全て投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。「お嬢様」は昔はよく笑う酔狂な世界に二人と居ない娘だった。今ではよく泣く何処にでも居る普通の女になってしまった。嗚呼、せめて、私の前だけでは酔狂な娘でいて欲しかったのに。香の染み付いた胸にやたら腹が立った。