オシアンの歌――常若の国
宇宙船が大気圏から離脱したあと、オシアンがはじめに感じたのは、地球から遠ざかっているように思えない異様な感覚だった。しかし地球が太陽を中心に公転し、地軸を傾けたまま自転する、いつ果てるとも知れぬ二つの運動が変わらず続いているのは確かだった。それを証明するように水の惑星と呼ばれる地球は、上弦の星となり下弦の星となって、見るものに感慨を抱かせたからだ。オシアンは異様な感覚が彼の身体的原因によるのか、あるいはる亜光速宇宙船エターナル・ヴァージン号の航路の狂いによるのかを確かめるため、探査計画のすべてを統御し、長い航海中の話し相手でもある、高度な人工知能を誇る電子頭脳マルヴィーナ・システムに話しかけた。
「ニアブ、航行に特に変わったことはないのかい?」
電子頭脳は抑揚ゆたかな女性の声で返答してきた。
「ありません。すべて順調、予定通りです」
ニアブというのはエターナル・ヴァージン号に搭載されたマルヴィーナ・システムの個体名だった。24世紀までのAI技術の進歩は目覚ましいく、ニアブの話しぶりは、注意していない限りAIのつくる疑似音声だと気づけないほど人間味に溢れていた。だから、オシアンが人恋しいと思ったなら、彼女に話しかけ、彼女が応答している最中に話の腰をおればよかった。ニアブはすぐに黙りこみ、やがてオシアンが話している内容を憶測したなら、彼の話しの腰をおって語りかけてくるほど人間的だったからだ。それだけでなく、彼女の疑似音声は声楽家の声から作られていたから、歌を美しく唄ったり、詩を吟じることもできた。しかしニアブにも一つだけ非人間的な部分があった。それは人と人が会話するときに生じる、微妙な「間」だった。それだけは、24世紀の科学技術をもってしても乗り越えられていなかったのだ。
「そうか、安心はした。したんだが、一つ確かめたいことがある。エターナル・ヴァージンと探査計画に狂いがないなら、なぜ僕の目には地球がずっと同じ大きさに見えるのだろう?」
「ああ、それですか」ニアブの声にはかすかな忍び笑いがあった。「それはあなたの脳や目が連携して起こす、大きさの恒常性のせいです」
「恒常性? 地上を走る高速リニアの窓から見える遠景が動いてないように見える、それと似たようなことかい?」
「いいえ、それとは違うんです。人間というのは不思議なもので、1メートル離れたものと10メートルはなれたものが同じ大きさに見えるということです。もちろんそのような現象は――」
「なるほど、大体理解できたよ。人は目でものを見るのではなく、脳で見ている。だから恒常性によって、距離に関係なく物が同じ大きさに見えるってことだろ」
「そうです、そのとおりです」ニアブは嬉しそうに答えた。
オシアンは異様な感覚の原因に納得すると、船窓から見える漆黒の宇宙へと目を向けた。瞬く星辰をとらえた眼差しにはなぜか深い寂寥があった。
無理もないことだった。オシアンがニアブを友とする旅は、帰還できる可能性が極めて低い探査計画だったからだ。エターナル・ヴァージン号は地球の衛星軌道を離脱したあと、光速の95%まで加速しながら150年の往路を進み、復路は光速の95%から減速しながら150年かけて地球を目指すという遠大な計画だった。そしてそのあいだ、航行中に収集したデータを絶えまなく地球に送りつづける、深宇宙を調査する目的をもったものでもあった。宇宙開発のために企図されたとはいえ、それはあまりにも人倫に背いた計画だといえた。そうした事由から、搭乗員も最少人数の一人ということにされたし、搭乗者は志願によるとされたのだ。
「そういえばオシアン」ニアブの声には憂慮があった。「今はまだいいのですが、太陽系を離脱するまえに相談しなければいけないことがあるのです」
「なんだい?」
「残酷な質問なのですが……」彼女は口ごもってからつづけた。「オシアン……あなたはご存知なのですか? 生きて地球の土を踏める可能性がほとんどゼロだということを」
「知っているよ、重力の問題だろう」
「知っていて……なぜ?」
ニアブの電子頭脳からすれば、それは探査計画が順調に進んだある地点に到達したなら、確かめるようにプログラムされている項目の一つに過ぎないのだが、不思議なことに、彼女の声には思いやりが見られたのだ。
オシアンは坦々と話しはじめた。
「300年にも渡って無重力状態にいれば、脳はもちろん心肺から血液の循環、筋肉から骨にいたるまで、あらゆる体組織が無重力環境に適応してゆく。血圧は下がり、不必要な筋肉はエネルギーへと代謝され、骨はやせ衰える。したがって無事に地球に帰れたとしても、地上に降り立つことは不可能だ。そんなことをしようものなら、僕の体は地球の重力に押しつぶされて、ぺしゃんこというわけだね」
「知っていてなぜ志願したんです?」
「わからない。わからないんだけど、なんとなくね……」
実際彼は、胸の内側でおこったことを正確に理解していたわけではなかった。ただ、地球にはもはや自分の居場所はないという気持ちがあったことだけは、間違いなかった。しかし、そのような気持ちになった原因が何なのかといえば、オシアン自身にさえはっきりさせられなかったのだ。彼は宇宙飛行士や冒険家が抱く、進取の精神といったものとは無縁だった。人間は帰るべき場所があってこそ無謀な場所へと乗り出してゆける、人間にはそのような本性があると考えるなら、オシアンの胸に湧き起こった心情は、逃避とか絶望といったものに近かっただろう。それでいてどこかに希望があるという朧げな思い。彼が抱いていたのはそのようなものだった。さながら、パンドラの匣を開け、様々なものが飛び去ってしまったあと、その底に希望が残っていた、というようなものなのかもしれない。
「ならば先に伝えさせてください」ニアブの声には切迫感があった。だがそれは、彼女が深い苦悩を一人電子頭脳の奥に収めていことからくる苦痛を、和らげたがっているような印象を与えた。「わたしはあなたを無惨に苦しめたくないのです……」
「おかしなAIだね。君には思いやりや気遣いという機能は無いはずなんだが……」
「わたしにもわからないのです。でもどうしても話さずにはいられないのです。これから起こる悲しみがあなたにとって想像もしえない事がわかるからです。船内環境のことです。この船は星間物質を動力とする半永久機関によって運航されていますが、これから先300年間でどれほどのエネルギーを得られるかは未知数なのです。ですから、節約を考えたなら、船内の環境維持システムは、いずれ最小限にしなければならなくなるのです」
「それのどこに問題があるんだい?」
「オシアン……わかりませんか?」ニアブはしばらく間をおいて、彼が何も言わないことに気づいて先をつづけた。「人間は昼と夜があって、気温の変化があって、はじめて時間を感じられるものです。そうした変化を感じて、体内時計を調節してもいるのです。今、船内は地球環境を模して、時間の経過にあわせて照明がしだいに明るくなり、しだいに暗くなるようになっています。それにあわせて気温も変化するようにされています。疑似的ですが、季節さえあなたが暮らしていた土地の気候風土を模してさえいます。例えばこのようなことも、あなたが望めば可能なのです」
そう言ってニアブは船内にある壁面すべてをスクリーンにして、オシアンに見覚えのある風景ををつぎつぎに描きだしてみせた。
「ゆくゆくはこうした環境機能を極限まで制限し、つまり、気温は常に一定で、照明は必要最小限度で一定にせざるを得なくなるのです。もちろん、今お見せしたような手品をすることなど叶いませんでしょう。――そうしたなら、あなたは恐らく時間の感覚を完全に失うでしょう……それは無といっていい感覚かもしれません。世界中にある創世記で語られてきた混沌なのかもしれないのです。恐ろしくないのですか? 無になることが? 混沌に呑まれることが?」
「なるほど……君がしていた心配はそういことだったのか」オシアンの声に恐れはなかった。むしろかすかな喜びがあった。「さっき君に教えてもらった大きさの恒常性、それと今聞いたずっと変化のない宇宙の闇にいることで、僕は完全に時間感覚を失うというわけだね。だけど、僕の爪は伸びるだろうし、髪も伸びるんじゃないかい? それで時間というものを感じられるんじゃないかな? それに腹が減るのは確実じゃないかい? ……新陳代謝が無重力環境に適用するから、そう頻繁に空腹を覚なくなるとしてもね」
「それはわたしにもわかりません。なにしろ、これからあなたが体験することは、人類史上はじめてのことなのですから。冷たい言いかたですが、わたしのメモリーバンクにすらそれに関するデータは皆無なのです」
「ニアブ、どっちにしろ同じさ。光速に近づけば近づくほど、流れている時間は遅くなるんだから……。そうだな、あんまり深刻にならずに、なるにまかせる。僕はそうしようと思うんだ」
「……こんなとき、人間はどう相手を慰めたり、説得するのですか? 残念ながらわたしにはわからないのです」
「そうだね、こんなとき人間は何も言わないかもね。何も言わずに、ただ……」
「ただなんですか?」
オシアンは長く嘆息してから言った。
「ただなんだろうね……。君は僕のことを不思議に思うかもしれない。だけど僕はわからないことが多いんだ。いやむしろ何も知らないのかもしれない」
「…………」
ニアブがオシアンと交わす口調や声音は次第しだいに人間らしさを深めていった。とくにニアブの間のとりかたは、人工知能ということを感じさせないレベルに到達していった。それと同時に、オシアンは夢想とも幻想ともつかない世界へ一歩一歩踏み込んでいった。船窓から見える無数に輝いている恒星が、1ミリたりとも動くことのない静寂な光景。常に一定の室温、光速に向けて加速していることで起こる時間の緩慢化、そうした環境に身を晒しながら彼は照明ひとつない常闇のなかで、足置きのあるリクライニングシートに身を横たえ、生体機能を一定化する生命維持装置に繋がれていたのだ。完全ともいえる宇宙の闇は、オシアンの様々な感覚をつぎつぎに奪い、しまいには視力さえ奪うほど深淵さを増していったのだ。
太陽系を離れてから、オシアンはニアブが語るケルト民間伝承をたくさん耳にした。そしてニアブが語る物語は尽きることなくつづいていた。
「オシアン、今日は『常若の国』のお話しをしましょう」
「常若の国、か……」
「ええそうです。ケルトではティル・ナ・ノグと呼ばれる国のお話しです」ニアブの声は子守歌のように彼の全身を優しく包み込んでいった。
「――常若の国には時間もなければ、死もなく、喜びも悲しみもありませんでした。ただそこにあったのは混沌とした闇だけといわれていました。ある時、一人の男が常若の国について知り、心惹かれ、彼はその国を目指して旅に出たのです。男の名はオシアンといいました。彼が乗る白馬とともに旅をしたのは、妖精のニアブでした。白馬に乗ったオシアンとニアブは、様々な難所をまるで波乗りするように超えて、ついに常若の国を見出したのです。彼は300年ものあいだ常若の国で遊び暮らしたのですが、ある日、昔出会った人たちへの強い感懐の情に打たれて、故郷に帰ることを決意したのです。そうしてオシアンは戻ってきたのです。しかし、その瞬間、常若の国で暮らした300年の月日が彼に襲いかかり、彼はその重みに耐えかねて息絶えてしまったのです。それでもオシアンが死ぬ前に語ったことは人びとの間に伝わり、それからというもの、多くの人が常若の国を目にしたといわれています。ある人は、その国は湖の底にあるといい、ある人は、西方の世界の果てのまた先にあるといい、ある人はその国を見ることは巨大な災厄がおこる凶兆だといいました。またある人は、その国は氷に閉ざされた島にあるが、その島は決して人を寄せつけない魔女が住んでいるといったり、妖精たちの棲み処であるといいました。結局のところ、常若の国がどんなところなのかは、誰にもわからないのでした。だた、そうした色々なことから、常若の国が、生者の島であり、勝利者の島であり、水底の島であることは間違いないと信じらるようになったのでした」
ニアブは語り終えたあと沈黙した。そして、どれほどの時間が過ぎたのかわからなくなった闇のなかで囁くように彼の名を呼んだ。
「オシアン……」
彼はすぐに応えなかったが、やがて口を開いた。
「聞こえているよ、ニアブ。――ねえ君はどう思う?……オシアンが伝えたことで常若の国を見たという人たちは幸福だったのだろうか?」
「……」
「湖の底や西方の世界の果てのまた先というのは、ブッディズムにある思想に似ているね。ニルヴァーナはまったく流れのない湖の底のような心とブッダは言ったはずだ。世界の果てのまた先というのは、西方極楽浄土とも思えるし、ギリシャ神話にある冥界ハデスのようでもある。――巨大な災厄というのが何を指しているのかはわからないけど、例えば噴火だとか、地震なのだろうね。氷に閉ざされた島というのは今ひとつピンとこないけど、バミューダ諸島とかイースター島を連想させる。例えば、モアイ像で知られるイースター島を発見した男を物語るとしたらどうなるだろうか?……」
オシアンはしばらくしてそれを語りはじめた。
「 アレンド号を旗艦とした三隻の艦隊でリスボンを出港したのは、1721年8月1日のことだった。それから八か月あまり、航海は順調に進んでいる。船上で新年を祝い、2月24日には、スペイン人ファン・フェルナンデスによって発見されたサン・ファン・バウティスタ島に到着した。ロビンソン・クルーソー島とでも言ったほうがわかりやすいのだろうが。それからも順風に恵まれつづけているのだ。とはいえ先は長く、無事に帰還できる保障などどこにもない。いよいよ未知の海域に舵をきったのだし、四周を水平線に囲まれつづける日々は孤独の虫を蠢かせるからだ。妻のアンを同伴していることだけが慰めなのだ。海洋冒険の過酷さを知らない者たちは、われわれの帰還を胸躍らせて待っているのだろう。いい気なものだ。と言ってみても、待っている彼らこそわたしたちのような者を根っからの楽天家だと思っているのだろう。
『あなた、ヤーコプ。あら、お仕事中でしたか』
『いや大した仕事ではないよ、日記を書いていただけだ。船旅は退屈が友だちみたいなものだからね』
応じながら振り返ると、日夜の苦労を顔に表さない妻の健気な顔があった。
『そうですか、相変わらず達筆だこと。海の上でも丘の上でもあたなの緊張面さは変わらないのですね』
日記をちらと覗いたアンにはなにか別の目的があったのだろうが、すぐに用件を切り出さないのは彼女の性質なのだ。齢六十を超えて冒険にでるわたしもわたしなら、それに付き従う妻もまた物好きな類なのだろう。でなければ一時たりともおさまらない揺れる生活のなかで、無邪気な会話などできようはずがなかったからだ。
『そういえば、何か甲板が騒がしいようなので、あなたにお伝えしたほうがよろしいかと思って』
『それはそれはご親切に。ご報告恐縮至極に存じます、奥様。――だが何も心配することはないよ。必ずネーデルランドに連れ帰ってあげるから』
アンとキスを交わしたあと、わたしが甲板へとつづく扉へと足を運ぼうとしたとき、遠くから雷鳴のように床を蹴る音が近づいてくるのが聞こえた。その音は扉の前で止まると、こんどは落雷のごとくノックする音がした。
『隊長、島影が見えます。すぐに甲板にいらしてください!』
その報告がわたしと妻の、いやそれ以上にアレンド号とそれに率いられた二隻の帆船の乗組員たちの人生航路を大きく変えてしまうことを、そのときはまだ知らなかったのだ。
――どうかな、ニアブ? 僕は君に負けないストーリーテーラになれるかな? なれるにしてもなれないにしても、僕がしているこの旅に意味があるとはいえないんだろうね。故郷の星を離れ、僕が探そうとしていたのが常若の国だったとしたら、もしそうだったとしたら、僕は馬鹿なことをしたのかもしれない……もしかすると故郷で見れたかもしれないと気づきもせずに、こうして宇宙の闇を漂っている僕は愚か者だったのかもしれない。いやそれ以上に、僕の愚行ににつき合わされた君は、さながらヤーコプの妻と同じじゃないか。だけど僕は君を地球に連れ帰ってあげることなど出来ない。いやむしろ、僕を地球に連れ帰るのは、君なんだからね……僕は馬鹿だ、僕は無力な男だ」
オシアンの閉じられた目に涙が滲んでいた。
「……」
「ニアブ、なぜ黙っているんだい? ああそうか、君は責任を感じているんだね……」
「……こんなとき、わたしはどうあなたを慰めればいいのですか? わたしにはわからないのです」
「こんなとき人間は何も言わない。何も言わずに、ただ……」
「ただ……なんでしょうか?」
「ただ抱きしめるんだ。今やっとわかったよ、ニアブ。前に似たことを話したときは、わからなかったのにね」
「オシアン! わたしはあなたを抱きしめることができないのです……それが悲しいのです。とても悲しいのです」
「いいや違うね。君はずっと僕を抱きしめてくれていた。その声で、その歌うような声でね。何度も、何度も」
「ああ、オシアン、オシアン!」
「ああ、君が僕の名を呼ぶ声は、なんと美しいのだろうか……」
彼と彼女が交わした論理的な会話はそれが最後だった。それからというもの、ニアブがどう話しかけようと会話はなりたたなくなってしまったのだ。
しかし彼の心が完全に凍りついていないことにニアブはすぐに気づいた。なぜなら、オシアンはときどき熱に浮かされたように詩を歌って聞かせてくれたのだから。
それは、故郷に住む人びとがすべて死に絶えたあとも、生きつづける運命を背負った、ケルトの戦士であり盲目の吟遊詩人、オシアンその人ようであった。
おお君よ、マルヴィーナよ
黄金いろした竪琴もちて
歌を忘れたそなた悲しや
我と運命をともなす汝なら
悲嘆の歌もかなしからずや
おお君よ、マルヴィーナよ
妖精ニアブの化身なるなら
生身の歌を唄いなれかし
鬣なびかす白馬あれこそ
我と汝のかりそめなりや
いろなす緑野もわだつみの声も
白馬の蹄のつくりなせるを
君しらんとは思わざるかな
琴が奏でし馥郁なる風
葦を鳴らして響きたること
八千代につづくと信じたれかし
いざ征かん、ニアブとなりた汝ならば
征かむ理由はなかりたるかな
白馬いななく聞こえますれば
征かむ理由はなかりたるかな
いざ征かん、永遠のしじまに彷徨せすとも
歌が導すと信じたれかし
我オシアンと汝マルヴィーナのほか
懐かしき人みな墓の下なれば
いざ征かん、永遠のしじまに彷徨せすとも
歌が導すと信じたれかし