クラスタ論。なろうクラスタにおいて、類は友を呼ぶか?
やあ、樋口諭吉だ。
俺のことを知ってもらおうと初めたこのエッセイだが、その必要性を感じなくなったので、このエッセイは本稿を持って完結としたい。
このエッセイの締めくくりは、クラスタ論だ。
すなわち、クラスタにおいて『類は友を呼ぶ』は成立するか?
君たちはどう思う? なろうのクラスタを見回して、『類は友を呼んでいる』と思うか否か。
階層論的な考え方を取るとしても、距離空間論的な考え方を取るにしても俺の答えは、クラスタにおいて『類は友を呼ぶは成立する』だ。
活性の高い中心人物と同じような属性を持っていること。思想的に近い階層に属していること。それらがクラスタを形成するのだ。
であるならば、今の俺の現状は、俺の考え方に類する人間が少ないということで、それは逆に幸福であることに気がついた。
クラスタの成り立ちを考えるなら、クラスタには必ず同調圧力が存在する。
中心人物を褒め称えないといけない空気。違う意見を排除しようとする空気。中心人物は似たような肯定コメントに返信しているうちに摩耗する。俺はそんなシーンをいくつも見てきた。クラスタ民が『その意見には同調できない』と言おうものなら、他のクラスタ民や承認欲求の強い中心人物から爪弾きにされる。
そんなヨイショ楽園は俺には必要ない。そこから『得るものはなにもない』からだ。
俺はコメントが欲しくて作品を書いているが、同調圧力による肯定を求めているわけではない。
承認欲求は普段承認している側の俺には正直どうでもいいし、友の言葉を借りるなら『1円にもならない』。
俺は、自分の頭で考えず、虚飾にばかり熱心で中身のない奴が嫌いだ。
そして、そういう奴がなろうには多すぎる。俺はそいつらと交流する必要を感じないし、もう今感想をくれている人たちに向けてだけ、これからはエッセイを書いていこうと思う。
そんなわけで今、このエッセイを終わらせる。
このエッセイにコメントをくれた皆さん、どうもありがとうございました。
皆さんのコメントのおかげで、ここまでエッセイを書くことができました。
本エッセイはこれで終わります。本エッセイ読者の方で、『引き続きコメントしてやってもいいぞ』という人がいらっしゃいましたら、ゆるーいエッセイの方もよろしくお願いいたします。
また会う日まで、さようなら。
-完-




