251話 異世界のイセ
二ノ神先輩。
下の名前はなんだったのか思い出せない。
大学の概説の講義で出会った一学年上の先輩だ。
気さくに声をかけてきて怪しいと思ったし、なんたらの教えがどうたらとか、いい人を紹介してあげるとか、儲かる投資じみたことを言い出したら距離を取ろうと考えたが、そういう話にはならなかった。
先輩後輩という関係だが、ただの駄弁り友達。
学食や大学近くの中華屋やファミレスやバーガー屋で、前に見たドラマがどうとかアニメがどうとか、ゲームがどうとか、そういう話をする関係だった。
時々おごってくれるし、先輩んちでゲームをするのがお気楽で楽しいので、のこのことついていく後輩が俺、という関係。
大学の講義の話や史学の史料の話くらいはしたことあるが、本格的な勉強会ではないし、駄弁っている時とゲームしている時以外は何をしているのかわからない人だった。
先輩から、俺自身のことを根掘り葉掘り聞かれたこともないので、多分先輩は俺のことをあまり知らない。
だが日常的なところだけは知っているという関係だった。
その関係のふたりが、俺の目の前にいた。
伊勢誠は、二ノ神先輩に見たまんま話す。
「ハイエース、どうしたんですか? あ、これレンタカーですね」
「よくわかったね」
「『わ』ナンバーですから」
「乗ってみる?」
薦められて、伊勢誠は苦笑気味に応える。
「いいですよ。懲りました」
「あんな事故のあとじゃ、そうだよね」
「ですよ。それで、こいつが何か? 会わせたいのって志賀ちゃん?」
「私じゃありません」
「じゃあ誰?」
「この子です」
シガさんがジャンって感じで両手を広げてハイエースを指す。
伊勢誠は反応に困っている。
「あ、こいつでこれから出かけようとかそういうやつですか? まさか、動画撮影とかしてませんよね?」
「そういうことするタイプと思われてたか。そんな楽しい側の人間と思われてて光栄だよ」
「二ノ神先輩、そういうことにしておけばよかったんじゃないですか?」
「だから、そういうことをするタイプではないから、そういうのできる人に憧れてるんだがね」
「なんなんですか? 志賀ちゃんはわかってるみたいだけど」
この三人のやりとりを、俺は第三者として眺めている。
俺の記憶にある限り、こんなやりとりはない。
そもそも俺は、志賀飛鳥なんて知らない。
だが目の前の伊勢誠は、彼女のことを知っている。
どこで知り合った?
思い出せないだけか?
いや、これは……俺の過去ではない?
「伊勢くん、ちょっとこいつに乗ってみてよ」
「どういうこと? やっぱりこいつでどこか出かけるんですか?」
「出かけはしないよ。これが来られるのはここまでが限界だから」
そのひと言は、俺に向けられていた。
アイにも聞こえたのか、微かに反応をした。
二ノ神先輩の言った『ここまでが限界』という言葉は、アイに険しい顔をさせる。
「いいからいいから」
「え、ちょっと、何無理矢理乗せようとしてんすか」
伊勢誠の体を押して、ハイエースの方へ近づける二ノ神先輩。
そして、俺の方をちらりと見た先輩から聞こえてきた。
『乗っているみんなを、彼から見えないようにして』
と、心の声が響いてきた。
え? 何言ってんの? と思ったし、そんなこと俺にできるの? とも思った。
「いいからいいから」
今度はシガさんが伊勢誠の手を掴んでひっぱった。
そして、ハイエースの運転席の扉に手をかけて開ける。
見えないように、というのはそういうことか。
そう気づいた瞬間、車内には誰もない光景を作り出した。
開かれた運転席には誰も乗っておらず、助手席にも後部座席も飾り気もなく空いている。
そんな車内を見た伊勢誠は、振り返って二ノ神先輩とシガさんを見る。
「運転はしませんよ」
「わかってる」
伊勢誠は、観念したように車内に入って運転席に座った。
それからハンドルを握る。
「……あの時のハイエースと同じ感じだ。レンタカーだとどれも同じなんすかね」
「そうなの? 自分、免許持ってないからわかんないな」
「そういえば先輩、免許もないのにこいつどうやって持って来たんですか?」
二ノ神先輩は応えず、俺に話しかけてきた。
『んじゃ、その体に乗り移ってみて』
そんなことできるの?
と思った瞬間、俺は……体を得たことに気づいた。
「あ、これキーが――」
伊勢誠が刺さったままの鍵に気づいたところで、意識が閉じていくのがわかった。
代わりに俺の意識に塗り替わっていく。
まるでハイエースを操っている時のように、伊勢誠の体が馴染んでいく。
若干の違和感があるのは……俺が交通事故後の伊勢誠の体を知らないからだ。
意図がわかった。
二ノ神先輩とシガさんは、伊勢誠の体を俺に乗っ取らせることで、この世界でも活動できるようにしたんだ。
もうここまでお膳立てされれば嫌でも気づく。
俺は相変わらず隣に座ってこっちを見ているアイを見た。
「……イセか?」
「うん。俺はイセだ。……伊勢誠ではなく、イセだ」
自分の声に微かに違和感がある。
本当の伊勢誠の声は、俺の声とは違った。




