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つわりが治まってからは部屋に籠るのを止めて庭の日除けの下で読書をして過ごすようにした。
動き回られたり、癇癪を起されるよりは良いと判断したのか侍女頭は何も言わなくなった。
それでも一時間おきくらいには様子を見に来るから鬱陶しくはある。
「さてと」
いつも傍にいるアンズには、あの貴婦人が読む雑誌のバックナンバーを集めてもらっている。
それも三十年前のものを。
奥様に関わりたくない侍女たちは近づかない。
今なら完全に一人だった。
「安定期にも入ったし、ちょっと動こうかしらね」
転生させた神様が言っていたように記憶の定着が進んでいるのだろう。
転生前の瑠花の記憶を少しずつ思い出せるようになった。
今なら迷うことなく実家に帰ることができる。
帰っても瑠花を嫌っている兄と駒のようにしか思っていない両親しかいないが、今回は利用させてもらう。
「・・・辻馬車って、タクシーみたいなものなの?」
大通りに出ると空の馬車と人が乗った馬車が走っていた。
辻馬車を止めると、行先を告げる。
「イザード家まで行ってちょうだい」
「わかりました」
料金は後払いだ。
自由に使える金貨を持っていないから後払いなのは助かった。
踏み倒すつもりはないが、家に着いたら出迎えた家令に支払わせればいい。
「・・・着きましたよ」
「ありがとう」
家の前に馬車が停まったことに気づいて予想通り家令が出て来た。
馬車から降りたのはサンズ家に嫁いだ身重の瑠花だったから驚き以外になかった。
言われるがままに料金を支払い、瑠花を家の中へ案内する。
ついに出戻りかと思えば、身重であることから使用人たちは浮足立った。
「一体、どういうことだ?」
「あら、お兄様が来られるかと思いましたが、お父様が来られるとは驚きましたわ」
「御託はいい。どういうことだ? 身重なら部屋から出ないのが普通だろう」
「ちょっとした里帰りですわ。娘の顔を忘れましたの?」
侍女が用意したコーヒーには口を付けずにソファに座って父親と対峙する。
無理やり馬車に乗せられて戻されては計画は頓挫してしまう。
「御託はいいと言ったはずだ。お前は誰だ? 間違っても瑠花は里帰りなどとは言わん」
「・・・いつ、気づかれたのですか?」
「普通に話して構わん。瑠花は嫁ぐときにイザード家を実家などとは思わない。そう言った。そんな娘が里帰りなどと言うはずがない。それに顔つきが違う」
「そんなに違いますか?」
瑠花が瑠花でないことに瞬時で気づくくらいには娘のことを見ていたのだろう。
それが駒として使えるかどうかを吟味するためだったとしても見ていた。
そのことに瑠花は最後まで気づかなかったが。
「まさか、私の娘が<落ち人>だとはな」
「<落ち人>?」
「まれに元の魂が抜けて、代わりの魂と入れ替わることがある。天上に住まう神が暇つぶしに、人の世の生活を楽しまれているのだと伝わっている。本当に神かどうかは我々では判断できない。それでも神が人の世を必要以上に荒らさないために、神であったときの記憶を封じているとも言われているが、真偽のほどは分からん。ただ、性格が変わったり、記憶を無くしたりと説明の付かないことが起きる。それを我々は神の余暇と呼び、神の依り代になった者を<落ち人>と呼んでいる」
たとえ外見が娘だとしても、神だと言われているなら呼びかけが、お前では不敬な気がするが、神が人として生きようとしているなら遜るのも違うのかもしれない。
ただ、瑠花は神ではなく、別の世界で間違って死んで転生させてもらっただけの普通の人だから神と言われるのも落ち着かない。
すんなりと別人であることを受け入れてもらえたのは有り難いが、瑠花として要求しようとしていたことを話すのは躊躇われた。
「問題は<落ち人>は王族の中にしかいないとされていることだな」
「えっ?」
「これは王家が神が降りて来ると認められた一族だと民に思わせるための話だろうな。実際に私の娘が<落ち人>だ」
「はぁ」
「それで何をしに里帰りをした?」
それが本題なのだが記憶が完全に定着していない今、洗いざらい話すのは躊躇われた。
だが、このまま何も無かったかのように帰してもくれなさそうだ。
覚悟を決めて話すしか無かった。
「えっと、その旦那様と話がしたくて」
「旦那様とは瑠偉のことだな。話なら家でいくらでもできるだろう」
仲が悪くても話があると言えば、瑠花の言葉は無視できない。
いざとなれば資金援助の打ち切りをしてしまえばいいのだから。
「その、いつも後ろに侍女頭がいまして」
「侍女頭? いたところで口出しはできんだろう」
「よく分からないのですが、領地運営を手伝っているらしく」
瑠花自身もどう説明していいか分かっていない。
執事や侍女の仕事もどういった線引きがあるのか分からない。
記憶の定着が進めば分かるかもしれないが、転生してまだ二か月ほどだ。
全てを思い出すことはできない。
「あの夫婦の気質なら使用人が領分を超えても仕方ないか」
「えっと」
「今まで通り、お父様でいい。呼び方を変えれば怪しまれる」
「ありがとうございます」
「今日は泊まっていけ。何か考えがあったようだからな」
ベルを鳴らすと執事が音もなく入って来た。
ただ記憶を探っても執事の顔には見覚えがなかった。
「瑠花が今日は泊まる。準備をしろ」
「かしこまりました」
瑠花が来ていることは分かっていたし、当主である父親がすぐに追い返さないところで泊まる可能性が高いと推測して部屋は準備済だ。
すでに騒めきは収まり通常業務に戻っている。
「お父様」
「何だ?」
「彼の顔を覚えていないんだけど」
「・・・それ、本人に言ってやるなよ。泣くぞ」
「分かったわ」
昔から仕える執事だったらしい。
名前はベンジャミン。
瑠花の教育係を一時期務めたこともある。
思い出せるように努力することを心に誓った。
その日の夕食は父親である獅己と兄である燈埜とだったが食べた気はしなかった。
燈埜がずっと視線を向けて何か言いたそうにしているからだ。
それを無視するのも神経を使う。
「どういうつもりだ? 瑠花」
「何のことかしら? お兄様」
「そんな身重で我が家に来たことだ! 実家とは思わんと啖呵を切っておいて、のうのうと出戻って来よって何が目的だ!」
食事が終わって皿が下げられてすぐに燈埜が瑠花を問い詰めた。
テーブルを叩いて掴みかからんばかりの剣幕だが、相手が身重だとして自重するくらいには冷静さが残っていた。
この様子から獅己は何も話していないのだろう。
記憶に残る兄は少々、短慮な面があり、わがままな妹を疎ましく思っていた。
どう答えるか考えながら食後のお茶を優雅に飲む。