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燈埜の言葉に気分を変えようとカップを持ち上げたが空になっていた。
そのことにも溜め息を吐いて、カップをソーサーに戻すとソファに深く凭れた。
お代わりを注ごうとベンジャミンは動いたが視線で制される。
「女狐ごときに私がどうこうされると思ったのか?」
「あっ、いえ、失礼しました」
「とにかく瑠花に関しては勝手な真似はするなよ。お前の軽率な行動のせいでイザード家が窮地に立たされるかもしれん。そのことは肝に銘じておけ」
「はっはい!」
「下がれ」
短慮で軽率ではあるが、するなと命じられたことは絶対にしない。
ただ応用が利かないから一つずつ、するなと命じなければいけないという手間がある。
これでしばらくは大人しくしているだろうが、瑠花に関しては自制が利かないという点もあった。
壁の隅で控えていたベンジャミンは静かにお茶のお代わりを注いだ。
「燈埜から目を離すなよ」
「心得ております」
燈埜と同学年の者は当主の座を譲られて、領地運営を実地で学びながら引き継ぎを始めている。
そんな中、燈埜だけは未だ教育係による勉強が続いていた。
頭の出来は瑠花にやや劣る程度で十分に賢い部類に入るのだが、その性格が災いして実地を任せられるまでには達していない。
獅己とベンジャミンの悩みの種でもあった。
「あとは瑠花の旦那だが」
「何も連絡はございません」
「このままなら援助は打ち切ると手紙を出しておけ」
「かしこまりました」
わがままではなくなったが、問題は起こす瑠花と一向に変わらない燈埜に頭を抱えた。
さらに未だに当主としての自覚がない瑠偉にも悩みの種は尽きない。
それでも見捨てないのはサンズ家にはイザード家にはない旨みがあるからだ。
そのことに瑠偉も前当主夫妻も気づいていない。
損しかない援助にイザード家が長年を費やしてきたのは、その点のみだ。
「もう少しだな」
瑠花がイザード家に里帰りしていることはサンズ家前当主夫妻の耳にも入ったことだろう。
カントリーハウスで自分たちの領地運営の無能さを棚に上げてバカンスを謳歌している。
今までは離縁するという言葉だけだった瑠花は実際に行動した。
イザード家に戻れるはずがないと高を括っていた夫妻は度肝を抜かれたことだろう。
瑠花が大人しく部屋で読書をするようになって三日が経ったころに待ち人ではない訪問者があった。
「・・・お義父様とお義母様が?」
「はい、瑠花お嬢様にお会いしたいとのことです」
「会わないと言っても帰ってはくださらないでしょうね」
「はい、会えるまで滞在させてもらうと仰っておいででございます」
領地運営の資金を全額出してもらっている家に前触れもなく来て、用が済むまで泊まる宣言だ。
自分たちの要求は叶えられて当然という思惑が侯爵家という身分なのだなと実感させた。
会わないと言って部屋に閉じこもれば、きっとベンジャミンを含め恙なく手配してくれるだろう。
だが、それでは根本的な解決にはならない。
「はぁお会いします」
「では、そのようにお伝えして参ります」
ベンジャミンと入れ替わるように侍女が入り瑠花の着替えを手伝う。
妊婦は動かないという常識から前当主夫妻は瑠花の部屋に押しかけようとしたが、それをベンジャミンは上手く抑えた。
応接室で会うということになったが、そこに行きつくまでにも一悶着あった。
いわく歩いて、子が流れたらどうしてくれるのだという言い分だ。
サンズ家の跡取りがいなくなったらイザード家に賠償してもらうというものだ。
売り言葉に買い言葉でベンジャミンは、そうなったらいくらでもお支払いしますと言って応接室で会うことを取り決めた。
「・・・お待たせしましたわ。お義父様、お義母様」
「瑠花ちゃん! あぁお腹が大きくなってきたわね」
見ただけでは、はっきり分からないくらいの出方だが瑠花は曖昧に微笑んでおく。
視線を向けると、なぜか兄の燈埜が一緒にお茶を飲んでいた。
「お兄様はどうしてこちらに?」
「私がいては不都合か?」
「えぇ不都合ですわ」
「まぁ兄妹が喧嘩をしてはいけないわ。それにお腹の子にも。さぁさぁ座ってちょうだい、瑠花ちゃん」
瑠偉が迎えに来るまでは帰らないと言うだけのつもりだったが、そんなことを言えば燈埜が目くじらを立てて阻止してくるに決まっている。
どうして大人しくしてくれないのかと心の中で呪詛を呟いておく。
サンズ家前当主夫妻が来たと知って、瑠花の身支度が整うまでの間、話し相手になっていたと、おおかたそんな理由をつけてくる。
ここは下手に出て、夫妻を味方につけるのが得策だ。
そうと決まれば瑠花のすることは決まった。
「少し気が立ってしまって」
「いいのよ、いいのよ。妊娠中は些細なことでも感情的になることがあるもの。本当の母と思って甘えてくれていいのよ」
「お義母様」
いつ切り出そうかと瑠花は機会を伺いながら世間話をする。
燈埜も瑠花が大人しくしているから連れて帰れとは言い出せないでいる。
そもそもが当主ではなく燈埜が同席している時点でおかしいが、言ったところで大人しくしていないから、そこは追及しないでおく。
「お義父様、お義母様」
「どうしたの? 瑠花ちゃん」
「わたくし、瑠偉様に嫌われているようなのです。いつもいつも別れてやると言われて」
「まぁそんな酷いことをあの子が?」
「それで、わたくし辛くて実家に来てしまったのです」
「安心してちょうだい。瑠花ちゃん」
「そうだ。瑠花さんがいなければ我が家は破滅してしまう。あの子も素直になれないだけだ」
瑠花がいるからイザード家から援助を受けていることは十二分に理解している。
それでも実の息子の方が可愛いという親の思いがある。
「私たちから瑠花さんを迎えに行くように伝えよう」
「えぇ、それがいいですわね」
「でも」
「何か心配事があるのかい?」
「侍女頭の方が」
「侍女頭がどうかしたのか?」
「いいえ、何でもないですわ」
わざと言葉を濁しておく。
あとは瑠花を失いたくない夫妻が対応してくれるだろう。
やりすぎだとは思うが、今は使える手がほとんどないために仕方なく泣き落としにかかった。
燈埜もこんな状態で連れて帰れと言えば、火の粉が自分に降りかかると分かっているから静観する。
「不安なのね。あの子には、よくよく言って聞かせておくから心配しないでちょうだいね」
「子どもが産まれたら私たちのいるカントリーハウスに来てはどうだ?」
「えぇそれがいいわ。空気もきれいだからきっと心が休まるわ」
「ありがとうございます」
「あまり長居しても疲れてしまうだろうからお暇しよう」
「そうね。あの子にはお灸を据えて上げないといけないわ」
瑠花は離縁するとは一言も話題に出さなかったから侍女頭からの手紙は杞憂だと思い込んでしまった。
この楽観的な考えのためにイザード家に頼らなければ侯爵家を維持できず、さらに息子が当主としては今一歩の性格になってしまった。
瑠偉にお灸を据えると言ってはいるが、このままカントリーハウスに戻るのだろうなと薄々、瑠花は勘付いている。
話が落ち着いてしまい瑠花を連れて帰って欲しいと言い出せないままになったことに燈埜は苦虫を噛み潰していた。
さすがに連れて帰るようにとは言い出せないようだった。




