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「うっ、うえぇ」
「奥様、しっかり」
吐くものもなく嗚咽だけを繰り返す女性を世話係の服を着た女性たちが取り囲んでいた。
背中を擦ったり冷たい風を送ったりと忙しいが、どれも効果は乏しい。
「うっ」
「こちらをお飲みください。楽になりますよ」
水にレモンを浮かべただけのものだが今は何より有り難かった。
溢さないように少しずつ飲むとようやく周りを見る余裕が出来た。
「一体、何なのよ」
「奥様はつわりでございますから暫しの辛抱でございます」
「つわり? 何で? てか、誰?」
「なっ! すぐにお医者様を!」
今まで苦しんでいた仕える主人から名前を訊ねられれば如何に冷静を保つよう訓練している侍女でも冷静さを失う。
周りの騒動に驚いて何も状況が掴めないまま一人にされた。
「一体、何が?」
部屋を見渡して目に入ったのは鏡だ。
そこに写ったのは今まで見慣れた顔ではなく、見慣れない年上の女性の顔だった。
菫色の長いウェーブのかかった髪に焦げ茶色の瞳の明らかに元の日本人では持ち得ない色だ。
「はぁ? なにが? いや、まて」
混乱しているが現状の把握に努めようとベッドから降りた。
書きかけと思える手紙と便箋には名前が書いてあった。
『瑠花=サンズより』
その名前に心当たりがあった。
「はぁ? 何で帝国パラダイスのキャラの名前がこんなとこにあんのよ」
別に神のお告げがあった訳では無いが日記帳を手にとって開いた。
ヒラリと一枚の紙が落ちた。
そこには、ファンシーな文字で一言。
『間違えちゃった。テヘペロ』
それだけで記憶が蘇った。
走馬灯のように駆け巡り最後の記憶を思い出すと同時に紙を握りしめた。
「あんのぉ、クソ神がぁ」
握りしめた紙を床に叩きつけると踵で踏み潰した。
そんなご乱心を繰り広げているところに侍女が医者を連れて戻って来た。
「おっ奥様ぁ! 安静にしてないとお腹のお子に障ります」
「だまらっしゃい!」
「おっおくさまぁ」
侍女三人がかりでベッドに連れ戻されると医者から簡潔に告げられた。
「妊娠中の記憶の混濁でありますでしょう。精神を落ち着かせる漢方を処方しますので朝晩お飲みくだされ」
「ありがとうございます」
「奥様、良かったですね。妊娠中の記憶の混濁で安心しました」
記憶の最後の神への怒りのせいで周りを全く見ていなかった。
大人しくなったのは医者に診断してもらったからだと、勘違いして侍女たちは漢方を煎じて用意すると部屋を出ていった。
漢方の匂いで我に返り落ち着いて考えるだけの冷静さを取り戻した。
「間違ったって何よ」
*****
規則的な電子音がベッドで寝ている女性が生きていることを示している。
淡々と日々の業務として医師や看護師たちが、機械の数値を記録したり薬をチューブに投与したり迷いなく動く。
だが女性は無表情のまま天井を見つめていた。
一週間前に女性はわき見運転のトラックに撥ねられ病院に搬送された。
一命は取り留めたものの首の骨が折れる重傷で、生きているということ以外は何一つ自分でできない体になった。
毎日天井を見て寝るという生活を繰り返している。
トラックの運転手が勤める会社は大手で醜聞を嫌い、女性が何としてでも生きていることを望んだ。
事故の相手が重傷と死亡では社会的印象がかなり変わるからだ。
決まった時間の回診が終わり個室に一人になると女性は小さく呟いた。
「小説ならトラックに撥ねられたりしたら異世界転生とかするのにね」
女性は声を出すことはできたし表情を出すこともできた。
ただそれができるから救いになるとは限らない。
最初は謝りに来た運転手とその上司と話すつもりはあった。
「まさか、あんなことを聞かされたらね」
まだ体調が本調子ではなく、夢うつつに、微睡んでいたときに彼らは来た。
向こうは聞こえると思っていなかったのだろう。
『いいか、とにかく謝っとけ。それと向こうが訴えるとか言って来たら病弱な奥さんと育ち盛りの子どもが五人いるとでも言っとけ。いいな』
『分かりました。だいたい信号の無い横断歩道を渡るやつが悪いんですよ』
横断歩道を渡ろうとはしていなかった。
ただ歩道を歩いていただけで後ろから撥ねられた。
災難なのは付近に防犯カメラが無く、トラックにもドライブレコーダーが付いていなかった。
それから私は事故のせいで言葉が発せなくなり感情も表に出せなくなったと演じることにした。
首の骨を折ったせいで脳に何らかの影響がでた可能性があると判断された。
これ幸いと加害者側は自分たちに都合の良い話を作り事故の責任を軽くし、それでも被害者のために救済を続けると表明して世間の同情を誘った。
一気に悪役になったために勤めていた会社は首になり、結婚の約束をしていた男性とは自然消滅した。
「まさか両親まで来ないとはね」
娘が事故にあったのなら心配して駆けつけるのではないかと思っていたが間違っていたらしい。
この一週間はまさかの連続だった。
首の骨を折ったことが原因だろうが心肺機能が緩やかに落ちていた。
「ふぅ」
少し声を出すだけで疲れてしまう。
このまま死ぬのだろうなとぼんやり思い出した頃に出会った。