1.富山県の事情
富山県、神通川流域の大邸宅。
十二畳と八畳の和室二間続きの一方――廊下側に、一人の女性が背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐに正面を見据えていた。
「……ちゅうわけながやちゃ。でな……」(訳:……というわけだ。それで……)
きらびやかな仏壇の前に座っている、一見ヨボヨボの老人が……気だるそうに溜息をついた。
しかし、その眼光はまだ壮年のように鋭い。
「おらっちゃ富山県としたら、漁夫の利作戦はおいて……ここはつまつまと仲を取り持っていかんまいけ」
(訳:我が富山県としては、漁夫の利作戦はやめて……ここは少しずつ仲を取り持つようにしようかと思っている)
「……」
女性の眉が、ぴくりと上がった。
「……それが『川の長徳』の出した結論ですか」
「そいがやちゃ」(訳:そうだ)
「……」
老人の名は、長徳ショウゾウ。
富山県の北から西を勢力範囲とする組織の会長で、『川の長徳』と呼ばれる人物。諜報活動に関しては県内はおろか全国でも右に出る者はいない、と言われる――富山県のヌシである。
「『山の安念』としちゃ……不服け?」
(訳:『山の安念』としては……不服か?)
「……いえ」
女性はこほんと咳払いをした。
「わが富山県は未だ他を制圧するほどの軍事力を備えていません。腕力に長けた石川県との協調路線を推進することについては、異論はありません」
「ついて、は……?」
女性のやや含んだ言い回しに、ショウゾウはピクリと頬を釣り上げた。
女性の名は、安念ユリ。
富山県の南から東を勢力範囲とする組織の長――つまり、現『山の安念』である。決して姿を現さない『川の長徳』に代わり、表に立って県を治め、他の都道府県との外交や、『川の長徳』から提供された情報の分析を行っている。
「なんが不満なんけ」(訳:何が不満なんだ)
「不満ではなく、危惧しているだけです。今回の横浜港の事件――これをきっかけに、この北陸と新潟の勢力図が変わる可能性があります」
「……」
「早々に北陸三県同盟会議を招集する必要があるかと思いますが」
「……わかったちゃ。おらの名で石川県と福井県に案内状出いとくちゃ」
(訳:……わかった。わたしの名で石川県と福井県に案内状を出しておこう)
「よろしくお願いします」
ユリは頭を下げると、「では」とだけ言ってすっと立ち上がった。
その姿を見たショウゾウはニヤリと笑った。
「ユリさんちゃ……再婚する気ちゃないがけ?」
(訳:ユリさんは……再婚する気はないのか?)
「ありません」
ユリは即答した。
「主人から受け継いだものを、確実に守っていく。――それが遺された私の役目ですから」
「おとまっしゃ……。その身体、まだまだ使い道はあるいうがに」
(訳:もったいないなぁ……。その身体、まだまだ使い道はあるというのに)
「……失礼します」
廊下に控えていた部下に目配せし、ユリはさっさと立ち去ろうとした。
……が、ショウゾウはニヤニヤしながら
「石川県の王生レンジなんかどうけ? なかなかのきかずやいうとったぜ?」
(訳:石川県の王生レンジなんかどうだ? なかなか活きがいいらしいぞ?)
とさらに追い打ちをかけた。
ユリは黙ったまま、ギロリとショウゾウを睨みつけた。
「そんなおっとろしい顔せんとっても……」(訳:そんな怖い顔をしなくても……)
「……」
「会議には王生レンジも呼ぶちゃ。例の事件の当事者ながやし。そんときでかいと、顔を拝んでくっこっちゃ」
(訳:会議には王生レンジも呼ぶ。例の事件の当事者だからな。そのときたっぷりと、顔を拝んでくることだ)
「……わかりました」
去り際、ユリはもう一度頭を下げると、足早にその場を去った。
その後ろ姿を見送りながら、ショウゾウは溜息をついた。
「ほんとにおとまっしゃ。あんなにけなるいべっぴんさんながに……。シゲオも、おっかによわったことを残いていったもんだちゃ」
(訳:本当に勿体ない。あんなに羨ましくなるほどいい女なのに……。シゲオも、妻に難儀なことを残していったもんだ)
「あ、の、クソジジイが――――!」
車に乗り込んだ途端、ユリはたまらず大声で吠えた。運転係の部下がビクッとして飛び上がった。
「……何があったんで?」
「うるさい!」
「へーい……」
『川の長徳』の帰りは、ユリの機嫌が悪いことが多い。
運転手は慣れた様子で、おとなしく車を走らせ始めた。
「でも……それは、ワシらも……ちっとは思うんですよね」
助手席に乗っていた田口という熟年の部下が呟く。
彼は廊下に控えていたので、ショウゾウとユリのやりとりは全て聞いていた。
言うなれば、ユリの片腕とも言える存在である。
「はあ!? オンナ使って石川県をたらしこめって!?」
「いや、そうではなくて……。ユリさん、まだ30じゃないっすか」
「29!」
「……」
そこはこだわるんだな、と田口は苦笑した。
「恋人ぐらい作ったって、バチは当たらないと……」
「そんな暇がどこに?」
ユリはふん、と鼻をならした。
「生前、先代が何のために私を妻にして、あちこちに面通ししてくれたと思ってるの。私に『山の安念』を任せるためでしょう?」
「それは、まあ……」
「先代亡きあと……やっと、県内はどうにか回るようになって……。ここで、三県会議よ。前回の会議は先代と一緒に参加したから、顔は知ってるけど……富山県のアタマとして参加するのは、初めてなの。この、ナメられちゃいけないって時に、何で……オンナ使え、とか……」
言っているうちに興奮して来たらしく、ユリはわなわなと震え出した。
「あの、エロジジイ――!」
「まあまあまあ……」
ユリの隣に座っていた小池という部下が、茶色いまんまるのお菓子――富山銘菓、反魂旦――を差し出す。
反魂旦はユリの大好物で、機嫌が悪くなりがちな『川の長徳』の帰り道では必ず用意されていた。
「……ぱくっ……」
「慌てないでくださいね。喉に詰まるから」
「ん……むぐ、むぐ……」
「お茶も飲んで下さいね」
「ん……ずず……ずず……」
それからしばらくの間、ユリはもくもくとお菓子を食べていた。
「……はい、どうぞ」
食べ終わった頃を見計らって、小池がおしぼりが手渡す。ユリはふう、と息をつきながらそれを受け取り、丁寧に手を拭いた。
「……まぁ、ただね」
少し落ち着いたのか、ユリは普段のクールな表情に戻っていた。
「石川県はいつも、三納タケヒコだけだったから……」
「そうですね」
「王生レンジがどういう奴なのかっていう、興味はあるわね」
「……来ますかね?」
「来てもらわなきゃ困るわよ。今回の主な議題は、アノ事件についてなんだから」
そう言うと、ユリはもう一度、溜息をついた。