sisou01b
2008-10-17
■思い込みの指摘について
考えてみると、「思い込み」というものは、自分なのか相手なのか、どちらとも考えられることがある。自分が思い込んでいるから、相手にそのように感じられる。逆に、自分ではなく、相手自身の思い込みによって、感じ方を変えている可能性もある。
■本当の真実について
本当の真実を、人間が知ることはできない。人間が知ることのできる真実は、人間が定義付けた真実のみ。
人間は、人間の感覚と、人間の思考で、真実を知ろうとする。しかし、それによって見えるのは、人間の感覚レベル、人間の思考レベルのものだけです。
――だから、本当の真実は最初から、見えていない。
人が見ているのは、人が定義付けた真実だけだ。
■話し合いの後ろ
敵対する者同士の話し合いは、本当にそれ自体では、解決の手段になることが難しい。話し合いの後ろには、武力がある。暴力が。互いの武力が同程度のときに、話し合いの効果はある。
言葉は、規模が大きくなければ、武力に勝てない。
(言葉のみを武器とする人間と、ライフル一つ持った人間では、すぐに言葉の方がやられてしまう。ただ、言葉が大規模になったらば、ライフル{武力}を持った人間も大規模にならない間、やられる)
■まわりの悪
人が協力して、大きな悪となるものを倒せない理由の一つに、
個人個人が、自分の周りの悪に対しての対処で、それでもう精一杯だからというのがあると思う。
大きな悪に向かう前に、周りの近くの人間が、悪になっている。だから、協力どころではなく、対処をしなくてはいけない。そういう状況になってきていると思っている。
■染み付いた悪
染み付いた悪というものは存在すると思っています。
そういう人の一部は、普段話す何気ない会話でも、なにか悪意に満ちたものを感じます。言葉の端々によくよく悪が出てしまっている。しかし、本人は多分、気づかない。本人にとっては、すでになじんでしまって、(つまり、染み付いた悪)、もうそれが悪だとは思っていない。
本人が悪だと思っていないので、周りが指摘するにも、根強くやらないと、分かってはくれない。それは本人は、間違ったことをやっていない、と思っているから。
もうあきらめてしまって、ほっといている場合もあると思います。しかし、自然からすれば、そういうものだと考えます。――その人に悪が染み付くことも、それも生きる流れの結果。
■死(命)の高低。および殺人について
人が重々しく死んだり、殺したりする一方で、人が軽々しく死んだり、殺したりする。
それに、何か違和感を感じた。がっかりした。
一方で、追い詰められて、いくら考えようとも、いくら相談しようとも、死ぬか殺すかしかの行動しかないと考え、実行する人もいれば、
一方で、ただそのとき、あまり考えずに、死ね、殺せなどと、云う。のみならず、本当そうしてしまう。そういうのが、存在する。
それが、とても違和感に感じた。
殺しはいけない。殺しはいけないが、それを合法的にやるときがある。それは死刑のこと。殺しは、いけないと共に、必要な時がある。法律上は、死刑というのがあるので、殺しが必要な時がある、ということになる……。
死刑そのものには反対しない。それはすっかり悪ばかりの性質の人間も、いないはずはないからです。
それよりも、死刑よりも問題なのは、(今はまだどうしようもないけれど)、
「人間が人間を裁いていること」。人間ではなく、法が裁いていると云っても、今のところ同じこと。それは法も人間が作ったため。
そしてこの問題をどうしようとないと云ったのは、そもそも人間以上の存在がないから。そして、それを調べることが、本当の意味では無理だから。
人間が裁くことへの問題の理由は、別な言い方をすれば、つまりは感情を持つ者、私情を持つ生き物だから。そして、人間には本当の真実を見分けられないから。人間が見分けられるのは、今まで人間が作ってきたり決めてきたりした考えや、人の感覚の中での真実。これはもう妥協するだけ。解決策もなにも、人間の性質で、妥協するぐらいしか、方法がない。
*
ただ、真実を求める態度として、それを自覚できるほどになればと思った。人間は、人間レベルでの行動の中で、見たり聞いたり考えたりしているということ。人間レベル以上のものは、見えてないという自覚。
実際のところ、その自覚は無理かもしれない。人がある仕事をやり続けるならば、余計な考え、余計な感覚は、徐々になくなっていくものだと思っている。
仕事をやり続けることで、成長する面もあるけれど、それと同じように、あなたのどこかが退化している――
■自然体
いろいろな人間がいろいろ都合よく言う。いろいろな指摘も言う。
それをすべて相手になどしていられない。
最後にわたしが思うのは、「自然体」(しぜんたい)であること。
取り込むものは取り込み、余計なものは受け流す。その結果、いろいろな悪も発生する。そして善も。もしそれが自然の流れで起きたものならば、その悪と善は、いつかは発生する類のものかもしれない。そして、その発生は繰り返される気もする。本当に自然に発生してしまうのなら。