三章後半
「この冷気はなんだ まるで巨大な冷蔵庫だな」
エグザムは扉の金属枠を跨ぎ、暖かい空気が入り込む入り口前で薄暗く青い光を放つ中央の構造物を見上げた。
空間内の空気は冷たく乾燥している。照明設備は上部の外壁に二列だけ配置されており、中央に配置された逆さまの塔のような物体から青白い光が漏れている。
エグザムに続きゼルも空洞内に入り、呆然と立ち尽くすエグザムの後ろで分厚い隔壁を閉める。開閉機構の原始的な蝶番が此方側の外壁に固定されており、ハンドルを回すと鈍い摩擦音が木霊する。
「僅かに塩気を感じる匂いだ この空間は何なんだゼル」
入り口の高台から中央へ伸びる柱の様な橋を正面に構え、アーチ状に僅かに盛り上がった空中通路に手摺や落下防止柵がない事に戸惑うエグザム。人が二人並んだだけで道幅に余裕が無くなる狭い架橋に対し、本能的に違和感を感じた。
「この空間は言わば上の蒸気発生装置の為の復水器です 地熱炉を形成する重要区画の一つ 位置的中央に在る事からこの遺跡の中心部だと言えば解りますか」
エグザムは戸惑いながらも幅が細い橋を渡り始める。すると頭上から何かが動く振動が聞こえ、反射的に上を見上げた。
「確かあれは人工鉱泉を上の湯沸かし器に送る熱交換用の水路だった筈 ああして配管を中央のくみ上げ井戸を中心に旋回させ 全方位から定期的に送られてくる処理済み汚染水や鉱泉を蒸留装置へ送っています」
ゼルの言うとおり足元の橋と同じ構造物が塔を軸に左回りで反対側に固定された。空洞内は多層構造の縦穴なので、同様の橋はエグザムの上と下に無数に存在している。
「古代遺跡にしては仕組みが原始的だな 此処も定期的に修理しているのか」
エグザムの問いをゼルは否定した。続け様にこの遺跡自体が単一の分子構造で出来ていると伝える。
「詳細は調査不足で不明 私の想像上だと構造体の内部は結晶の様な分子結合で構築されており 骨の様な自己修復機能が今も働いていると考えています なので定期的に清掃はしますが外部からの手入れは一切出来ません」
橋を折り返しの場所まで到達すると逆階段状の塔がますます大きく見えてくる。エグザムが複数に重なった円環らしき層の間から漏れる青い光に注目し、頭を傾けて左耳を立てる。
(僅かだが風が吹くような音が聞こえる。外壁と塔の外観は共通点が多く同じに見えるが、内部は違うらしい。)
エグザムは残りの緩やかな下り坂を進み、そのまま反対側の高台に辿り着いた。縦に重なった円環の壁には入り口と同じ様な隔壁が在るらしく、今度はエグザムが重いハンドルを回す番だ。
「此処まで来るのに随分手間がかかる 地下の研究所を地上に移す考えは無かったのか」
ハンドルを回し終え、分厚い層が重なった重い扉を引いて開けるエグザム。想像したとおり開けた扉から勢いよく空気が流れ込み、扉を支えるエグザムを圧迫する。
「言い忘れていましたが此処は地下施設内の与圧を管理する場所でもあるので 時間によって温度や湿度が変わります まぁエグザム様には支障ありませんが 扉を閉め忘れたりすると区画隔壁が下りる事も有るので もし閉じ込められたら空調が回復するまでに数十分掛かるのを忘れずに」
エグザムはゼルが塔内部に入ったのを確認すると、自身も壁枠を跨いでから再び重い隔壁扉を引いた。
「何故この遺跡が数千年も機能し続けたのかなんとなく予想できた どんな獣や探索者でも閉じ込められて衰弱死するのは御免だろうし俺も嫌だ」
塔内は一転して狭い通路と赤い光が支配していて、エグザムの地下探索欲を急激に削って行く。次地下に下りる時は地図か案内人を必ず用意しようと心に誓った。
立ち上がりゼルの案内の下で塔内の狭い通路を歩き出したエグザム。通路自体が円環の外壁に沿うよう設計されており、曲がった通路は十数メートル先が壁に隠れて見えない。
しかしそんな退屈で赤いだけの地下通路は直ぐに終わり、案内役のゼルは塔内へ続く曲がり角へ姿を消した。
(床と天井との距離がだいたい二メートル半。外から見て一階層が五メートル程度だったから、階層一つき一階が妥当だな。問題は重なった階層同士が階段で接続されているかだ。区画ごとが単一構造体なんて建築法は何が有るかさっぱり解らない。)
ゼルの後ろを歩きながら生暖かい壁を触って構造物の秘密を解き明かそうとしたエグザム。残念ながら古代技術に詳しい代理人ですら解らない代物を、狩人出身の探索者が理解できるわけない。
こうして不可解な点を数多く残して、エグザムの地熱炉探検は終わった。二人は塔内中枢の主柱内昇降装置を利用して第三層最上階まで上がり、地熱炉の導力源を生み出す装置が稼動している巨大地下室へと足を踏み入れる。
「ここは第三層の最上部にして地熱炉の最重要装置である加圧分離器が稼動している地熱機関の終着駅 旧時代に建設された謎多き蒸気機関の主電源室でしょうか 先に忠告しておきますが此処はまだ地下です 見てのとおり上がドーム天井なので地表に近い場所だと勘違いすると迷いますよ」
昇降機から降りたエグザムは階段状の高台から下りつつ、周囲の壁沿いに設置された白く大きな円筒状の物体を観察する。
(何等かの複雑な装置が入った容器だろう。とても蒸気缶には見えないし、描かれた古代文字も知らない種類だ。)
ゼルは次の昇降機が待機している支柱の一本へ歩きながら説明を続けていた。
全部で八つの白い円柱状の容器には熱水や鉱泉を分子単位で分解する機能が有り、抽出したガスや純粋な水蒸気を上の階層へと送っている。さらに上の第二層は浄水培養層と呼ばれており、第三層の地熱循環層を経て届けられた様々な物質を生物が利用可能な資源に変える区画であるらしい。
「その浄化作用の説明は上でもできるだろ それよりあの古代語の意味を教えてくれ」
エグザムに左肩を捕まれ有無を言わせない力で体を左隣の大きな格納容器に向けられたゼル。エグザムの左手が指す方向に描かれた記号に近い単一文字の塗装を説明する。
「あれは数字の八番目を意味する古代語です 後ろの容器から順に割り振られていますが 遺跡内にこれと同じ種類の文字は有りません」
高さ二十メートル弱、幅は十メートル程の円柱容器を横切りるエグザム。横にも描かれた八番目を意味する小さい古代文字を目に焼き付けると、胸ポケットに仕舞って置いた緑装丁の手記と筆記具を取り出す。
(これが例の旧時代の固有語。確かに白爺が言っていたとおり、古い文字体系の方が古くて複雑だ。統一暦が始まって以来旧時代の調査は活発だ。この類の文字がどれくらい残っているのか資料が有るはず。探検家として大陸中を探索するにまでに更に多くの情報を知っておきたい。)
支柱内の縦穴を降下している昇降機を待つ間、手記に古代語を書き込んでいるエグザムへゼルが古代語について詳しく知りたいのかと問うた。当然拒む理由が無いエグザムはゼルに情報の開示を求める。
「あの文字は象形文字の一種で東大陸では希少ですが 西大陸と南洋諸島では少なからず確認されていますね 現代の共通文字と比較すると 様式が違う別の文字と混同使用されている特異な記載方法が採用されているらしく 探検家連盟でも最も解析が困難な この場合は最も解読が困難な古代言語として登録されています ただし」
ゼルは一旦口を閉じると、エグザムへ体の向きを変えて狩人の獣目を直視する。
「これらは全て表向きの情報 言わば世間に流布された学術統制用の情報です エグザム様はアルケメアの聖柩塔へ多大な貢献を果しました 代理人の活動規定により褒章として組織内で機密指定された情報を伝えます」
ゼルは昇降装置が降りて開いた扉を待たせつつ、超法規的組織アルケメアと謳われる探検家連盟及び同調査機関「聖柩塔」の真の支配者云々の話を始めた。
「西方連合共同体に属する西方諸島の海洋型自治都市アルケメア 表向きは古今東西の錬金術を調査研究し文明の経済活動に貢献するのを生業としています しかし自治都市として指導者を擁立する委員会は表向きの外交と都市機能の健全化を目的に設立された代替品に過ぎず 真の指導者は洋上都市中枢の古代遺跡である星間移民船アルトリアの指令区画に居ます」
ゼルの妖しい話を半信半疑で聞いていたエグザムは、手記にも載ってない星間移民船と言う単語に筆を止める。
「聖柩塔は発見者に名付けられた遺跡の名でしかなく そこで古代語を調査している者も本当の名を知りません そしてエグザム様に教えたあの古代文字は我々の主からも別途で調査命令が出されており 世界中の代理人共通の調査対象に指定されています」
そう言うとゼルは昇降装置内の狭い部屋に入った。エグザムも代理人がそれ以上組織について情報を開示しないと察したのか、組織の絶対存在について深く探ろうとしなかった。
西方連合共同体。一般的には「西方連合」か「連合共同体」の名で知られている西大陸東岸の地域経済圏の総称。西大陸東部の内陸部は荒野や肌山が多く、人が住むには適さない地が多い。文明圏は特定の河川流域に集中しており、古くから複数の都市国家体制が続いている。さらに連合共同体は西大陸と東大陸を海上交易路で結ぶ緑海の中継地「西洋諸島」まで傘下に入れており、陸地より海の方が広い海上共栄圏でもある。
昇降機内でしばし沈黙が漂った後、鈍く壊れた鐘の様な音が鳴り目的の階に到着したエグザム。開かれる扉から強烈な光が差し込み、地下の暗闇に慣れていたエグザムは少しの間目を細める。
「第二層の浄化培養層そして地下農場を兼ねた汚染物質加工場にようこそ」
エグザムは目前に掲げた指の隙間から明るい光に目を慣らす。光は太陽光の様に眩しく地下には無い黄色い光で、一瞬だけ地上に出たと錯覚してしまう。
「本物の太陽光を再現した発熱灯の光です 人間や亜人と獣にも害はありません さぁ扉を越えて前に」
ゼルの催促どおり緩やかな足取りで昇降装置から降りたエグザム。慣れた目で周囲を観察しようとすると、鼻腔をくすぐる僅かな粉塵に鼻が反応してしまった。
「この農場では下の区画から加圧されて送られる反応性ガスや蒸気によってホウキ住民用の食料を生産しています 生産しているのは主に穀物と野菜で 生産区画はこの階層内に三箇所 地表に四箇所在りますが エグザム様は既に地表の二箇所を見ている筈です」
エグザムは目の前の僅かな傾斜が続く広い勾配区画内にて栽培される様々な植物を見比べる。
十メートルに届きそうな天井に吊るされた水道管まで伸びた南国風の木。同じく高所に吊るされた網に枝を複雑に絡ませた蔦植物。そして水耕農場特有の棚型栽培と堀内促成栽培。これ等が中央の下り道から左右へ直線状に栽培されており、僅かかな段差しかない隣の栽培区画に同じ作物が隣接しないよう交互に配置されている。
「二箇所 あぁ家畜用の米モドキか あれ 家畜用だよな」
独りでなにやら過去に記憶を漁っているエグザムと違い、ゼルは緩やかな勾配がついた坂道を歩いて行く。エグザムもそれに気付きゼルの背後まで足を急がせる。
「この区画で栽培されている作物は全部で四種 東洋梨と豆玉 固有種の紫無糖と沿岸麦です 他の地下区画では玉草や地下茎野菜を栽培していますが 規模だけならこの区画が最も大きい農場です」
歩きながら横目で畑の列を観察すると、およそ五十メートルの壁際まで植物の列が伸びている。さらに列ごとに床や天井に吊るされた水道管や強化繊維の管が違い、汲み上げ機で汲み上げられた水が堀の縁を流れてもいた。
エグザムは興味が湧きゼルから離れて無数の脇道の一つに侵入する。
(浄水培養層なんて聞いたこと無い名だから複雑な構造の古代機械が稼動していると思っていた。下層農場と呼ばれている以上地下で作物を栽培していると理解していたが、これほど広い空間の農場は連合の平野部にしか無いのに。)
さらにエグザムは脇道沿いに掘られた堀と反対側の棚を見比べる。
(沿岸麦なら知ってるが紫無糖なんて果実は聞いた事が無い。どことなく黒茄子に似ているが、やけに弾力が軟らかいな。)
自身の胸の位置に実る紫色の長太い実を指で軽く弾くエグザム。棚の下に設置された透明な水槽は緑色に濁っており、棚を挟んだ向こう側の豆玉が生る蔦植物の根元へ栄養分を送っている。エグザムは棚の容器内に盛られた見た事がない程きめ細かく軟らかい土を触り、本来なら神の園の深部で実る植物だと判断した。
「あんまり触ると植物の保有菌が拡散するので他の農産物に触らないように そして黙って何処かに行くのも控えてくださいね」
背後から注意されたエグザムは短い相槌を送っただけで、そのまま反対側の堀へと振り返る。
「地上の家畜用の飼料栽培池にも魚が居たが こっちの固有種には光苔の一種か何かで水質を調整させているのか」
エグザムとゼルの視線は、連合西部の沿岸農耕地で大規模に栽培されている沿岸麦に集約した。
「少し違いますがおおよの性質は合ってます この黄色い光は微細光虫と言う西大陸水系固有の微生物の亜種で 鉱毒や沈殿した腐敗物を分解する性質を与えられた人工微生物です 沿岸麦は多少汚染された水でも育ちますが やはり神の園の様な汚染世界では育ちません この微細生物はアルケメアの微生物部門がおおよそ五十年前に開発した新種を元に改良を重ねた種で ここの管理者含め皆ゲンジーと呼んでますね 現在この微生物は死ぬと植物の成長に欠かせない三大栄養素の材料と成るので 専用の培養層で管理飼育されてます」
まだ成長途上の細長い新芽を無数に並べた緑の稲穂。足元より低い位置の水面から伸びた茎はエグザムの腹まで達しているが、水面下に伸びた根の方が遥かに長く太い。そして清涼な湧き水の如く透明度が高い水面から埋められた黒い水槽の底を見下ろすと、沈殿した緑の層に届く根の一部に淡く光る大小無数の光点が付着している。
エグザムは壁沿いに沈んだ汲み上げ器の吸い取り口に溜まった微生物の死骸と思しき塊をしばらく見つめ続けていた。
再び脇道から緩い下り坂の農道に戻った両者。とくにエグザムは白い天井で明るい黄色光を灯す照明装置を見上げながら、隣の区画へ接続された門の様に大きい通用口を目指している。
「人工微生物か まるで鉱物生命体を操る精霊族の劣化型だな 植物の栄養源に成るなら連中が飼う機械獣の動力源にも使えそうだな」
独り言の心算で思いついた考えを喋ったエグザムだったが、予想とはまったく違う答えが返って来る。
「機械獣ですか 確かにあれは生物兵器としてとても優秀なので 汚染環境にも耐えれる新たな微生物を生み出せれば 害獣対策として帝国内で広く普及するかもしれませんね」
機械獣は鉱物生命体を捕食し糧とするので、おそらく生物兵器の一種だと害獣部門にて認知されている。しかし長らく帝国内北部の封鎖領域から出ておらず、統一暦に変わっても姿を見た者が居ない事から絶滅した幻獣扱いされている。
エグザムは手記でも絶滅したと記されていた種に対して、ゼルが明確な否定をしなかったことを見逃さなかった。
(やっぱり聖柩塔、いやアルトリアの主とか言う奴は白爺か他の代理人に例の聖地を調査させている。どうやら代理人共は専門用語を交えた知識人同士の議論にも成らない曖昧な与太話に弱いらしい。白爺は自分が若い頃は誰よりも活動的だったと自慢していた。あの我侭なら自ら進んで制限を突破する勢いがある。俺ももっと独自に調べれば、手記に載ってない隠された真実とやらが見つかるかもな。)
珍しく急に押し黙ったエグザムに何かを感じたのか、ゼルは思い出したかのように歩きながらとある報告を後ろのエグザムに伝える。
「それより以前エグザム様が秘境より回収した機械獣と思しき害獣の一部について報告があります」
手始めに何を調査するか考え事を始めた矢先、エグザムの脳内に蟲らしくない獣の様な生物の姿が浮かぶ。それは赤い山の高原にて遭遇した何の情報も無かった見知らぬ害獣で、回収した目玉を代理人ではなく現在の神の園探索団団長に預けた筈の代物だったはずだ。
「あれは団長の依頼で古い探索道の調査ついでに未確認種の捜索を行った際遭遇した獣の一部だったけ 上手く思い出せないな」
本当は団長の個人的な調査依頼で赤い山を探索した時に遭遇した獣を勝手に命名した挙句、本来の赤い山の遺跡や生体調査を断念した言い訳と贖罪のつもりで戦利品として持ち帰った提出部位だ。そう心の片隅で真実を呟いたエグザム。黙ってゼルの話の続きを聞く。
「やはり採取者は貴方でしたか とりあえずその害獣は提供者の供述どおり赤眼と呼称され 此処から遥か南の研究所にて生体調査が行われました 結果から言えばその赤眼は我々が追う命の血と近しい関係の個体と判明したので 貴方の結晶体が初めに変化したのもそれが原因でしょう」
大きな目玉は光によって網膜細胞が変化して彩光が赤と青の対色に変化する。同じく網膜内から採取した遺伝子情報には、神の園の害獣に見られる過去の複雑で雑多な交配を示す遺伝子配列が無かった。それはまさに古代種とも言われる悠久の時を生きた生物の証であり、過去に何度も代替わりしても他の種と殆ど交わらなかった証でもある。
「赤眼の遺伝子には聖柩塔が世界中から集めた古代種の遺伝子情報に似た特徴が複数存在しているのが判明し 現在は遺伝子の培養と実験用に遺伝子が適合する生物の照合を進めています エグザム様には後で対象生物の絵を描いてもらうので 今のうちに記憶を整理するのを勧めます」
エグザムは己が獲って来た蟲には似合わない大きな目玉に対する考えを改め、赤い山の高地で不気味な獣とであった場面を思い出す。
(確か川沿いの林で接近してくる何かを待ち伏せしていた時だったな。手記に絵を描いたかもしれない。後で確めるか。)
エグザムが思案しているうちに、先頭を歩くゼルが城壁の様に高く長い壁まで到達した。
「この近辺が蟲や害虫が迷い込んでくる区画で 今は武装したホウキの技士が警戒がてら巡回している時間です」
錆付き固定部分から外された両開きの隔壁。本来なら壁に埋め込まれた蝶番の変わりの深い溝が、応急修理に失敗して流し込まれた人工石材で塞がれている。汚れも酷く塗料が剥がれた部分も目立ち、見る者を古戦場に居るような気分に引き込ませる。
エグザムは深い堀の様な壁が高い通路を見上げ、階段が行き止まりの天井付近の出入り口に視線を釘付けにする。その出入り口は扉が設置されてないのか光が通路内へ漏れていて、農場と違うがささやかな明るさに溜息が漏れそうなほど安堵感を得れる。
「呆けてどうしたんですか 此処は害獣が出没する場所ですよ」
ゼルの何気ない一言がエグザムを狩場へと惹き立てる。体が覚えたツルマキを構える動作で通路の先の暗い穴を狙い、ゆっくりと壁際に移動しながら敵を待つエグザム。ゼルに遊ばないよう注意を受けてようやく我に帰った。
「もしかしたら暴れ猿の獣因子が血染めを越えて俺に作用したのかもな なんとなくそんな気がする」
自嘲気味に笑い薄気味悪い代理人相手に同情を求めたエグザム。しかしゼルは何も答えず独りで壁に埋め込まれた階段を登って行ってしまう。
エグザムはツルマキを担ぐと急ぎ足でゼルの後を追う。自分がこれから何を率先して調べるべきかより、胸に響く謎の高まりの方が気になって仕方が無かった。
沿岸麦。貴族連合西部地域を占める平野部と、平野を流れる二大河川下流で栽培されている同国を代表する穀物。西大陸原産の種だが独自の改良を続けた結果、寒く低い汚染環境にも耐えうる穀物として国外にまで輸出されている。
大半が粉末にしてから商船に積み込み出荷される為、近年の大部族団では長引く食糧問題から他国産の麦と偽装して不法に安く卸し競合相手へ損害を強いる案件が多発している。
地上に出たエグザムは休憩用に設置された未加工の石に座り、ゼルの話を聞きながら雲の隙間の高い位置から大地を照らす太陽を拝んでいた。
(日光浴で体の内側から温まっていく。組合が言うには暴君の飛猿は体毛で温度調節を行うらしい。雪山や氷河辺りで活動するには餌より日光の方が貴重なのかもしれん。)
下層農場最上階の温室農場が在る扇状地の高台から周囲を眺めると、五百メートル程離れた山間に東南東方向へ流れる川が在る。川は上流の氷河から溶けた水と、同じく東の上流で流されている浄化水が合わさった唯一の水系。秘境の山間を流れる群青色の川は川幅が大きく、遠くから見ても流れが速いことが判る。
隣に座るゼルが周囲の施設で生産されるあらゆる生産物を説明しているが、エグザムは河川敷から扇状地の中腹にかけて広がる牧草地域で草を食む草竜の群れを観察し始めた。
「と言う訳でこの地域だけで里の住人千五百人分の食料を賄っています 狩猟採取が主流で狩や生存圏の防衛に勤しんでいた時代は過去となり 探索団本隊が合流すれば神の園への進出も劇的に進むでしょう」
ゼルの話を纏めると、現在南の断絶海岸からゆっくりと新しい探索道を整備しながら進んでいる神の園探索団が、予定どおりなら一週間の十日ほどでホウキへ到達するらしい。貴族連合とイナバの探索街そして隠れ里ホウキの三者合同組織が始めて結成されてからまだ一年も経ってないのに、ここまで劇的な速さで開発が進むにのには現在の開発計画へ多くの期待が集まっているからに他ならない。
「計画の下準備も兼ねて聖柩塔が我々を調査に差し向けてから多くの歳月が経ちました 三代目にあたる私の代でも本格的な合同開発は不可能だと判断していましたが 時代が変われば人の営みも劇的に変わりました」
錬金術研究の最高峰であり優秀な学者を要した学園都市でもあるアルケメア。その栄誉ある名を代理人が直接口に出さない辺り、舞台役者を支える裏方根性が染み付いている様に見える。エグザムは自身と同じ造られた存在である筈の同胞に対し、全く親近感や同情を感じれない。
「俺が育った保護区の旋風谷のように失業者や犯罪者が流れて来ないようにしないとな」
文明圏と違い適度に鉱物を含んだ栄養ある食物。森や遺跡の廃墟群へと分け入れば、命の源である多様性に富んだ獣因子を含む獲物が獲れる。狩人として生き、亜人として秘境に生きるエグザムにとって神の園がどれだけ貴重な土地か身を以て知っていた。
「さて時間です 此処から東の水源遺跡へ歩いて三十分ほどで到着するので 道中に貴方の血染めについて幾つか説明します」
ゼルは立ち上がると尻に付着した砂や埃を手で払う。相変わらずエグザムと似たような野戦服を着用しているが、研究所に置いて来た野戦銃の変わりになる自衛具の代わりになる物は何も所持していない。
「少し休んだだけでこの軽さ 血染めが優秀なのか暴れ猿の獣因子が凄いのかいまいち判らん」
果樹園を広げる為の伐採から運よくを逃れた古木の並木道を東へ進む両者。丘陵のど真ん中を削って造られた道は真っ直ぐ東へ延びていて、季節特有の南風が吹くと酸っぱい樹木の匂いが獣の鼻腔を刺激する。
やがてゼルは果樹園が下り坂の側壁である地層の斜面に隠れた場所まで来ると、ツルマキを両手で持ちながら前を歩くエグザムへ小さい声で血染めに関する話しを始めた。
「話を整理する為にもこれだけは覚えておいてください 貴方の血染めはホウキの英雄達が纏った遺物とは別物です 獣因子を取り込み身体能力を強化し汚染環境への抵抗性を高める作用は同じですが 貴方の様に全身が変容する前例はありませんでした 資料や現物が残ってないので私も昔の血染めの装いを知りません 先代曰く繊維の様な細胞膜で構成された密着服だったそうで 機能も物によって違ったそうです」
エグザムは大地を二メートルほど掘られた緩やかな上り坂を歩いている。後ろを守るはずのゼルが非武装なので獣への初動が遅れると後手に回る。厄介な事に森を切り開かれた道は元々獣用の防塁として構築された経緯があり、両者は文字通り里を守る最前線を歩いている訳だ。
「似たような話を祭司長から聞いたぞ なんでも昔は火事場の地下浴場で選ばれた戦士に湯浴みをさせていたらしい あそこの湯は血染めの維持管理に適しているそうだ」
足元の地面は固いが、どうやら硬い岩盤そうが露出しているだけのようだ。水はけは坂道だからか良いものの、歩くたびに靴底の鉄爪が小石を踏み締める気に食わない音が狩人の神経を逆撫でる。
「そこまで聞いているなら話を省けます まず筐体の結晶体と血染めの相性から復習しましょうか」
神の園の外森林へ入る途上で、前の代理人から死神の首飾りと言う皮肉を交えた言葉と共に渡された謎の遺物。それはエグザムが神の園へ派遣された目的である命の血を収集する為の記憶装置で、血染め同様聖柩塔アルトリアで極秘裏に製造された結晶体だ。
旧時代、つまり古代技術の塊である二つの遺物は機能こそ違えど、互いの機能を互換し合う目的で設計されている。
「血染めは筐体や繊維表面に付着した獣因子を取り込み 同質化した繊維細胞を体内へ送る機能が有ります 言わば逆代謝と言える作用で細胞膜沿いの伝達血管を伝い肉体へ遺伝子情報だけを流します 高濃度の汚染物質や圧縮鉱物液すら分解し糧にする特殊な粘菌と微細生物が繊維に織り込まれており 以前伝えたとおり肉体と拒絶しないよう最初の適合さえ済めば使用者の体と同化します」
そして分泌物質を経由して結晶体と共有された獣因子は、肉体の内部構造や構成細胞を一から作りかえる設計図と成る。この世界では失われた遺伝子操作と生体科学を用いて作られた人型人造生物は、生物の遺伝子と深く関わり独自の染色体でもある獣因子によって秘境の生物として生まれ変わるのだ。
「今までのエグザム様には生物として必要な三大欲求の内 生殖欲と生殖能力が不在でした しかしこれから様々な生物の遺伝子と獣因子を取り込むことで体が内側から作り変えられ 新たな染色体によって生殖能力を有す新種の亜人や獣人に進化するかもしれません」
そこでゼルは話を区切った。余所見を繰り返すエグザムは前や周囲の地層の上を警戒しているが、今まで代理人の話を聞き逃した事はなかった。
「この分野の研究は聖柩塔のみならず市井の学府機関でも行われており 前例が少なすぎて理論体系すら纏まってない程に途上の段階なのです そして我々にはエグザム様の変移を監視する命が通達されており 我々の主は予期せぬ暴走で生物汚染が発生する可能性を危惧していると思われます」
ゼルは獣遺伝子を取り込んだ新たなエグザム染色体(細胞)の暴走として、偏食や暴食を例えに体細胞の不自然な活性化と分裂による危険性を述べた。
「要するに健康管理を怠ると文明人より重篤な状態に陥り易く 命の血を集める器として完成するまで誰も手助けは出来ない ならば実験生物として代理人と協力し経過観察と情報収集に努めろ ようはそう言うことだろ 俺は白爺と同じく秘境で死ねれば本望だ」
エグザムは目を閉じると瞼越しの光景を意識した。すると視界に淡い赤い影が現れ無数の点と霧の様な壁を創り出す。それらは必ずしも反射させている物体の影ではなく、視界内十メートルの範囲内で熱を発している物体の群像を映した影だ。
「今のところ獣因子を取り込んだ肉体改造は順調らしい それに暴れ猿の件も考慮すれば 必ずしも命の血を取り込む必要が有るとは思えない そこんところはどうなんだゼル」
エグザムには組織が命の血を求める理由を教えてこなかった。あえて情報を与えず秘境へ放逐同然に放ったのには理由が有る。
「神の園への適応だけなら命の血に固執する理由は無いでしょうね しかし聖柩塔には様々な文献と現地調査により錬金術を発達させた経緯があります 文明圏では見られない数多の隔絶世界の代表例である神の園を解析するには 獣の楽園を形成する獣因子が全ての事象を代弁している事実を確めなくては成りません」
そこでゼルの語気が強まる。普段は語り部や放送司会者特有のゆったりとした口調で喋るのに対し、熱弁を奮う学者を彷彿とさせる口調に変わった。
「世界の大半は海が占め 有史以来文明が繁栄する環境は悉く特定の地域に集中している 人々は狭い範囲で覇権を争い秘境勢力や害獣との生存戦争に今もなお晒されているのだ 果たして現在の人類とその共栄圏は長く続くのだろうか 統一暦が始まり一世紀と五十年が過ぎてようやく世界中の紛争や係争の炎が鎮火された しかし火種となる様々な問題は今も燻っていて 我々の未来は導火線の先に繋がっているかもしれない もし錬金術を再興し失われた科学とやらを探求しても貧困や格差そして新たな疫病や環境問題が勃発すれば世界は再び混乱の時代に逆戻りするだろう そうなる前に我々は秘境を開拓し汚染世界を浄化して真の意味で未踏領域を地図から無くさなければ成らない と言うような風潮が世界中の都市や秘境に伝播しつつある状況なので 我々も悠長に調査を進める訳にはいきません」
差かを下り防塁として積み重ねられた石垣の道を進むエグザム。旋風谷から神の園へ向かう途中に見かけた開拓される山々と大規模河川の造成工事風景を思い出す。
(組織の権力争いに巻き込まれる神の園。そして俺は謎の権力者の尖兵。つくづく狩人には行き辛い世の中だ。)
前時代の末期に盛んに行われた探索業が衰退してから百五十年以上が経過した現代。水源の枯渇や地下鉱石の高騰などが地方経済を苦しめている。元々は秘境と共に生きていた亜人や獣人も文明圏で暮らすように成ってから、秘境の生情報を伝える担い手が狩人くらいにまで減っていた。
(俺もカエデの様に文明圏でも暮らせるような方法を考えるか。調査が終わるまでに答を出そう。)
その後二人はそのまま道を東に進み、エグザムが飛猿を討伐しようと河川敷に降りる前の道に架かっていた木造のアーチ橋を渡った。
「しかし下層農場の名が古い制度の名残だとしても 遺跡を利用した敷地が広すぎるように思えるな そもそもなんで地下で浄化した水を堤のような遺跡まで流す必要が有る 家畜用の飼料を栽培している棚田の水は未処理の水だと聞いたんだが」
ウシブナの森狼に先導され走った農道を歩みながら質問したエグザム。するとゼルはエグザムの前に出て山肌の木々から立ち昇る水蒸気の煙を指差す。
「あの煙突の下には水源遺跡の蒸留施設から発生した気化ガスから有機物や鉱物と科学成分を抽出する為の処理装置が埋まってます さらにこの辺りの地下には広範囲にかけて貯水層が在るので 定期的に純水を浸透させて汚染水が地表や川に上がって来ないよう対策が講じられています 下層農場はこの辺り一帯の様々な浄水施設を動かす導力源なので敷地面積が増大するのは止む負えません」
相変わらず作業中の人影は無く石膏と人工石材の壁で形成された無数の生簀内を川魚が泳いでいる。エグザムはまだ日が高いうちに駆け抜けた道を歩みながら、じっくり観察できなかった分を取り返そうとゼルを質問攻めにする。
下層農場。全部で十三の区画で作物や家畜を育てる複合型の浄化と生産施設。その語源はホウキの民が炎の民を名乗っていた時代にまで遡る。前時代の初期まで続いていたとされる赤い山の遺跡群を中心に栄えた古代都市文明では、食料の生産や設備の維持管理を行う民衆は下層階級者「グラート」と呼ばれていた。
古代都市文明では下層は文字通り低い階層を意味し、大地の底に這い蹲る者とも受け取れる。グラートは共通語の浸透により現在では死語と成っており、昔の階級制度化された役職をそのまま受け継ぐホウキでは湖の様な意味だけ伝わる古い言葉が多い。
時刻は十四時四十五分前。巨大な箱が谷の間で壁を構築した様な水源遺跡の一階を通り、衣服に保管された様々な穀物の匂いを染み込ませたエグザムとゼル。鉄板を溶接して組み上げただけの簡素な階段を上がり二回の屋内通路を通って封鎖を意味する縄が張り巡らされた曲がり角を曲がる。
「まさか内部は放棄遺跡だったのか 少しは掃除しないと下の匂いに釣られた獣が寄って来るぞ」
廊下の隅には埃や靴の裏から落ちた長年の汚れが堆積しており、風が吹けば直ぐに通路内は塵芥が充満する汚染空間に様変わりする。しかしエグザムの問いにゼルは問題無いとだけ告げ、そのまま暗い廊下を足早に歩いていった。
エグザムは壁際の足元にて小さな斜面を形成する灰色の砂山から砂を一掴みだけ掬うと、試しに息を吹きかけて空気中に小さな粒子を噴射してみた。
(なるほど。これは塵や土でもなく壁の表面から剥がれた塗装か何かだ。汚染源を運ぶと下の倉庫ごと汚染してしまうから放置しているらしい。)
エグザムは人工石材の壁上部に刺さった釘に固定された古い電気ケーブルを辿り、腐った匂いも混ざっていた穀物の痕跡も辿りながらゼルを追う。そして予想どおり先に行ってしまったゼルは、黒い樹脂管で保護された漏電し易い電気線の先に居た。
「この辺りは空気が淀んでいるので長時間滞在すると獣の免疫が過剰に反応しますよ」
扉が無い枠だけの入り口へ通路の前後から電線が通っている。エグザムはゼルの声が聞こえたその入り口前に立ち、内部から聞こえる僅かな振動音の正体を確認する。
「何だ此処は まるでゴミ捨て場から拾って来た機材で築いた秘密基地だな」
俗に言う真空式電子素子を信号交換する為の様々な機材が、中央の天井から吊るされた丸い蛍光灯の光に負けない様々な色の光を発している。ほぼ正四角形の室内四隅を除き、壁には様々な解析装置が隙間無く並んだいるではないか。
「ここに在るのは本来なら地下研究所に在る筈の解析装置です 見てのとおり形式は三十年前の古い中古品ですがアルケメア製なのでまだまだ現役ですよ あぁ伝えてませんでしたね 進化研究所が稼動している時間は一日の半分で 残りの時間は機能維持の為に発電状態で施設ごと休眠するよう設定してます」
予想はしていたエグザム。たった二日の間に様々な出来事を体験したので考える暇も無く、隠れ里の電力事情を今更ながら痛感した。
エグザムは四方に置かれた機材で室内が狭く感じる、中央に置かれた机の下に荷物を置いて自身も椅子に座る。机の上には便箋用にしては大きく分厚い封筒が五つ重なって置かれており、そのうちの一つは封が外されていた。
「封筒の中身は全部白紙だ あぁ印字用の紙束か」
エグザムが分厚い封筒を両手に持って重さを量っていると、何かしらの解析装置で作業を継続していたゼルが作業を止めて振り返る。手には何枚もの書類を握っていて、エグザムの前に置くと一枚一枚丁寧に並べ始める。
「これよりエグザム様の今後の探索目標と活動方針を説明します 質問は説明が終わってから聞くので メモには鉛筆とこの紙でも使ってください」
イナバ三世の探索団本部で説明を受けるのと違い、周囲には秘境には似つかわしくない電子機材と解析装置が稼動している。棚に並べられた古臭い長銃の油臭と天井に付着した煤汚れを懐かしみながら、エグザムは強く握っただけで簡単に折れそうな軟らかい鉛筆を手に取った。
「これ等の資料のうち何枚かは南で活動している代理人からホウキの狩人を通じて届けられた重要書類の一部です 現在南のくぼ地では探索団受け入れの為の宿泊施設を畜民や技士達が建設している最中で 完成次第エグザム様も其処へ移ることになります」
ゼルは喋りながら机に全ての資料を並べ終えると、その中の一枚を手に取りエグザムの前に置いた。
「これは上空から屍の森と南水源地遺跡を撮影した写真を拡大転写した資料です 見てのとおり大半が白い霧で覆われていますが 本物の霧と違いこれ等は汚染物質を含む汚染植物の花粉 つまり胞子状の微粒子が大量に放出された擬似的な大気現象で 微粒子の中には微細生物や寄生虫の死骸と卵も含まれています この霧を長時間吸うと粘膜から侵入した細菌が細胞に寄生し 極度の脱水症状に犯されそのまま死亡します 探索街では懐死と言われていますが 我々はホウキに伝わっている枯死の呼び名の方が適切だと判断しました」
紙くずの繊維が全く目立たない綺麗な紙に印刷された白と緑が混在する絵。まるで雑草畑に薄っすらと雪が積もっている様にも見えるが、霧がある一点から溢れて周囲に流れている様が窺える。
「貴方の血染めを以てしても枯死環境で長時間行動するのは不可能です 肺がやられる前に肌代わりの菌糸神経が崩壊するでしょうね 既に南の探索団からエグザム様用の新装備が届いているので 次の探索で調整も兼ねた実験 と言うより屍の森で直接機能を確めてください」
不吉な単語を隠すように新たな資料をエグザムの前に運び、ゼルはどうやって撮影したのかさえ不可解な資料の上に置いた。
「ホウキの民は古くから森の神と崇める大型生物のヘラジカです 元々は赤い山の古代都市で飼われていた家畜だったようですが 同じ元家畜でも竜の巣や外壁遺跡に住む飛竜とは違い 汚染による遺伝子変移により巨大化した珍しい固有種です 屍の森において植生の八割を占める様々な有害植物を食した結果 屍の森の代名詞でもある特定の巨大樹だけが育つ環境に作り変えました 唾液には寄生虫や有害胞子を餌にする細菌が含まれ 巨大樹に寄生した汚染植物を食す際に樹皮や樹脂を舐めて縄張りを示すそうです」
鉛筆の芯で真っ白い紙を叩きながら、巨大獣に匹敵する大きさの獣と遭遇した時の記憶を思い出したエグザム。ツルマキでも仕留めきれない相手に害獣駆除用の必殺の弾丸である緋色金成分が通用するかはエグザムでも判らない。
「これはエグザム様も知っている別の代理人が製作した報告書です 当人は現存する書物や遺物などの資料から命の血に関する所在を調査しており 例の赤眼の手がかりも含めて神の園の生態調査を任されていました 記されている場所は候補として消去法で残っただけの場所です しかし神の園は広くとも生物が生息可能な地域が限られているので おそらく赤い山を中心に探索者の手記や手紙などを調べたのだと思います」
印刷された字は古い形式の印刷文字で、同じく古い形式の打鍵器により直接打たれた文字が等間隔で並んでいる。エグザムは一語ずつ確認しながら頭で文章を纏めて翻訳する。
(まるで暗号通信だ。バロンは龍と言う古い呼び名を手掛かりに命の血の在り処を探したらしい。屍の森と南水源池遺跡の名がしっかり入ってるな。災厄の龍は火事場のあいつの事だろうからほっといて、この陽光龍とか言う奴が噴水広場にあったあの大きな頭骨の正体か。湿地流域の霧の中に居たでかい水妖の事が書かれてない。あれは怪しいと思ったんだが、どうやら見当違いだったか。)
エグザムは文章を読み進め最後の記述が纏められている部分を読み始める。そこに書かれていたのは過去の獣や探索者の歴史資料の類ではなく、エグザムも所属している探索団に補給要員として雇われたバロンからの警告が記されている。
「我々は表立ってこの一大事業に関与するつもりはありません したがって現場の意思決定に口を挟みません もしエグザム様が謎多き霧胞子を晴らす事が出来れば 森が他所の者の手で焼かれるのを防げるかもしれませんね」
ゼルの言葉が終わるより先に短い最後の行を読破したエグザム。多くの秘境を渡り歩いた経験豊かな探索団の団長が森を焼く準備を命じた事に戸惑い、朽ちた小枝の様に砕け紙に落ちた鉛筆の破片を見つめ続ける。
「残りの資料は補足説明用の情報と持ち込まれた装備の説明書です そしてこれ等の資料には記されていませんが 長老にお願いして今回の探索に案内役として狩人頭の若い首猟を同行させます 昨日長老が少しだけ説明しましたが 三公職の代表者は本来の血染めと対になる遺物を代々継承しており 今回の探索に同行する首猟のヴァンも 古代語で聖なる炎を意味するメータと呼ばれる遺物を所持しています」
聖なる炎と遺物と言う単語を聞いて、浄化の炎と遺跡を連想したエグザム。メータとなどと聞いた事も無い遺物がどんな物かと想像すると、やはり火事場に眠る龍の存在が強く浮かんで来る。
(土地勘が無い場所で優位な探索なんて無理だ。贅沢は言えんが小数精鋭を保てれば幾分かは楽になる。何の炎だろうと関係ない。例えオルガ団長が里と探索街の秘密協定を遵守しようが、狩人の目の前で森は絶対焼かせない。)
エグザムは邪魔な鉛筆の破片を紙で掃うと残りの資料に目を通し始める。ゼルが首猟の遺物について詳しく語り始めたが、エグザムは楽しみを当人と会うまでとって置く事にした。
龍。神の園を中心に土着的に伝わる詩や伝記に登場する上位存在の別命。時に神として崇め祀られ、疫病や破壊を振り撒く人知を超えた存在だった。神の園に外の文明勢力が初めて踏み入れた七百五十年前。歴史区分では丁度、暗黒期から前時代期に変わろうとしていた時代。既に種として衰退途上にあったとされている。
隠れ里の住人が干支と呼称する十二種類の特定害獣と違って、文字どうり始祖の獣因子を受け継いでいる可能性が高い。
翌日。二十三日の早朝、五時二十八分。まだ朝日が赤い山から姿を出す前の薄暗い夜明け時。見回りの戦士達と小川の土手で遭遇してからまだ数分しか経過していない現在、エグザムは南の森へ続く古い探索道を歩いている。
探索道と言っても小川沿いの南側の踏み固められた畦道を、南西へ蛇行して流れる小川に沿って南下しているだけで、数メートル先の対岸の沢沿いに生えた若い木々を見ながら歩いていた。
(昨日の夕食は上手かった。豆料理にあんな調味料が有るなんて知らんかったわ。肉の塩分もしっかり出ていたし、久しぶりの焼魚と相性抜群だった。)
昨日の夕方頃。ゼルとの長い協議をへて久しぶりに感じた空腹を満たす為、エグザムはゼルが案内した里の食事処で自身でも驚くほどの量の料理を食べた。文明人の間では苦味や生臭さが強く薄い塩加減と硬い食感で嫌煙されがちな秘境飯だが、獣や人間の生き血が大好物のエグザムにとって調理された素材に隠れていた味覚を知る良い機会になったようだ。
「血染めを着てから五感が冴えて居心地が悪かったが 今まで味が薄かった野菜や木の実の美味しさが解った気がするぞ」
表情筋を綻ばせ鋭く尖った険しい表情を緩めるエグザム。本人は自覚してない様子だが、顎上の頬肉の付け根が僅かに痙攣していて薄気味悪い。
エグザムは両手で抱えていたツルマキを肩で担ぐと、畦道の只中に転がっている大き目の石を遠くまで蹴り飛ばす。気分が良く体が軽いのは解るが、些か力を入れすぎて加減を誤ったようにも見えた。
実は既にツルマキや長銃には大型獣用の飛び道具が装填されており、新調した探索具を試す準備が終わっている。そして探索時にいつも背負っていた大きな背嚢は見当たらず、代わりに腹袋として腰に巻いていた小さい背嚢を背負っている。
(軽いからと言って少しでも大きく動くと体中が冷える。便利なのか不便なのかなんとも言えん。)
首に提げているガスマスクと防護装備の下に着ている防水服が今までの探索具と違う。今までのガスマスクは平たく丸いレンズと二つの浄化膜を左右に別けた構造の安い中古品だったが、軽量合金製の枠に収まった湾曲した合成硝子と埋め込まれた三種の浄化膜が層を成している新型の軍用規格品だ。
エグザムは短く剃ったばかりの茶色い体毛越しに感じる、深緑迷彩が特徴の密着服の冷たさが気に障ってイラつく。なにせ防水仕様の膜には温度を一定に保つ為に細い金属膜が張り巡らされていて、若干の防弾特性も考慮して外気と防水膜が触れないように分厚い強化繊維で覆われているのだから。
「保温容器の様に中空構造だから熱が通ることは無い こんな代物は軍産品を取り扱う店でもまず売ってない 俺に化学処理部隊の真似事でもさせる心算なのか」
エグザムは小川の土手際まで辿り着き小川沿いに鬱蒼と茂る森の中へと入る。小川はそのまま南西の方へ流れているが事実上里の勢力圏はここでお終いだ。
この場所は元々は隠れ里の田畑が広がっていたが、頻繁に作物を食い荒らされてまでして里の外を開拓しようとした者達が居た事を物語る耕作放棄地だった。
藪や低木の間を縫うように進めば十分も経たずに再び開けた場所に出た。其処には河川敷でよく見られる小石や岩が転がる川の浅瀬が広がっており、エグザムは何時の間にか増した青い川の川幅にしばらく理解が追いつかない。
「ああ 向こう岸の崖に空いた地下道から水が流れているのか 通りで色が青く濁っている訳だ」
里から流れる浄化された川は植物性の成長に欠かせない栄養素を含んでいる。主に南の溝帯や南東の竜の巣北部の山間へと意図的に流されており、エグザムにはそれらが土壌を汚染する害獣を寄せ付けないよう講じられた対策の一つだと聞かされている。
エグザムは凹凸が激しい川沿いの浅瀬を避けて、牧草に適していそうな名も知らぬ雑草が生えた高台を歩いて行く。右手に聳える急斜面の山肌は度々崩落したのか地層が露出していて、しばらく暇をつぶす事が出来た。
それから二十分程度経過してもなお、休まず川沿いを南西へ歩き続けるエグザム。ある程度川を下り川辺に砂利や砂場が少なくなった代わりに、今度は鬱蒼と生い茂る雑木林が行く手を邪魔しようとする。
「此処にも生活跡は無いか」
かつて狩人や棄民が暮らしていた河川敷の森には文明の痕跡が見当たらなかった。既に森に埋もれたり撤去されたりして、エグザムが期待した風景への期待が崩れた。
そうこうしている内に川の流れる音が激しき聞こえるようになった。急流は着々と大地を浸食しているようで、何処かで見たような大きな岩陰が木々の間から幾つか見える。エグザムは緩やかに蛇行を繰り返す川へ水を採取しに向かおうとした矢先、獣の聴覚が背後の森の奥から何かが飛んで来る僅かな風きり音拾う。
(死角からだ!)
エグザムは片足を軸に急反転し、矢と思しき物体を目の前で掴み取る。矢はホウキの狩人が好む枝の皮を剥いてから焼入れ加工しただけの棒に似ている。しかし先端には軟らかい石か砕け易い硝子石と思われる破片が麻糸で巻かれていて、エグザムなら子供のおふざけだったとしても躊躇わず報復して殺せるだけの判断材料だった。
「すごい反射速度だな 選ばれし英雄達の逸話を見た気分だ」
三メートル程の高さの太い木の枝から降りた襲撃者。己に対し枝の矢より太い杭が向けられているにも関わらず、躊躇せずエグザムの目の前まで歩いて来る。
エグザムとは違い狩人は軽装の皮防具で急所を隠しているだけで、使い古した汚れが目立つ古めかしい燻った茶葉色の密着服を着用している。皮防具の素材は家畜の草竜と毛深い獣の皮をあわせた代物で、以前エグザムが戦利品に入手した獣のマントとは装いが違う。
「俺が狩人頭の首猟を任されている聖獣使いのヴァンだ 前から合ってみたいと思ってたんだよ」
笑いながら目だし帽を脱いだ青い髪の青年へ対し、構えていたツルマキを下に向けると簡単な自己紹介を行ったエグザム。視線を青年の右手首に移動させると、ゼルが言っていた希少な種類の遺物と思しき赤黒い手甲を確認した。
「話は聞いている 危険な道だが案内役を頼む 俺も自衛具として使う遺物を見てみたかった」
エグザムはそう言いながら己の右手を前に出し、ヴァンに挨拶がてら隠れ里ホウキだと珍しい握手を求める。勿論狙いは赤黒い手甲の外殻から剥き出しに尖った角の様な乳白色の突起部だ。
エグザムの企みに気付いたヴァンは大声で笑いながら左手でエグザムの右手首を掴んで間接を稼動外へ捻ろうとした。しかし僅かしか動かないエグザムの右手を前に表情を変え、歯を食いしばって両手でエグザムの手首を捻ろうとする。
「残念だが力比べは俺の勝ちのようだ 諦めろ狩人頭」
首猟と言う言葉が言いにくいのかそれとも狩人の長を屈服させたと強調したいのか、エグザムは微笑みながら自分よりも拳一つ分だけ背が高い相手へ勝ち誇る。
「よし解った ならこれはどうかな」
エグザムから手を離したヴァンは不敵に笑うと、長い左手の素早い生拳突きでエグザムの顔面を狙った。
(おっとぉ危ない。)
上半身を右へ傾け何とか頬に皮鎧の表面を擦らせる事に成功したエグザム。瞬間的に頬から火花が飛び散りそうな熱さを感じて冷や汗をかく。
「終わりじゃないぞ亜人」
しかしヴァンはまだ攻撃の手を緩めない。エグザムは上半身だけ傾けて放たれたヴァンの右生拳突きを避けようとしたが、瞬間的に手甲の突起部が振動した次の瞬間にはエグザムの顔を串刺しに出来そうな鋭い槍が飛び出した。
「ぁあぁ」
情けない悲鳴を上げて後ろに倒れたエグザム。自身の顔が在った場所に届きそうで届かない長さの白い隠し刃で己を指すヴァンの勝ち誇った表情を拝む。
(くっそ、まんまと掌で転がされた。あんな隠し技、知らなければどうやって対処すればいいんだ?)
エグザムは差し出されたヴァンの左手を自身の左手で掴み立ち上がる。ゼルから説明された情報には遺物の使い方を体験し、牙が欠けた獣の如く大人しくなった。
「その槍は見たところ仕込み武器とも違うな 聖なる炎の 何だっけ」
大人しくなった途端わざととぼけて情報を聞きだそうとするエグザム。髭を剃ったばかりで滑らかな顎を擦り、育ての親の真似をした。
「これは神の園の真の支配者にして炎の一族の故郷である聖域を統べる正統な統治者が 神々の黄昏時に人と獣を結ぶ手段として造った古き名の継承者 その名ワァァッ」
突如声色を変えて叫んだヴァン。何時の間にか左手に握っていた煙玉を握りつぶし地面に叩き付けた。
(これは獣除けか! いや違うようだ。)
視界を瞬く間に埋めた白煙と急激な燃焼により眩しく光る白い輝き。エグザムが光に目を細めて刹那の光景を目に焼き付けようとすると、右腕をV字に組んで聖獣の長い角を肩のシルエットから飛び出させた影が光の中に現れた!
「聖なる炎の導き手 偽りの名に封じられし三聖獣の一角 メータ 俺の血が滾る限りっ聖なる炎が明日を貫くぅっ」
白い閃光が衰え急激に光が弱まるなか、白い煙幕の仲で仁王立ちして右手を天に伸ばしたヴァンの聖獣が赤く輝いている。エグザムは煙で何も見えなくなっても赤く発光する分厚い籠手を確かに見た。しかしその光が何なのか判らず、炎龍デウスーラから授かった能力を使用し煙幕の中で熱反応の探知を試みる。
(駄目だ。ヴァンの顔しか映らん。あの光の最中、俺の熱視が勝手に発動したとわ思えん。)
エグザムが思考を巡らせている僅かな間に、煙は空気中で分解され瞬く間に消えてしまった。姿を現したヴァンは何時の間にか聖獣の角を元の大きさに戻していて、何も言わず考え込むエグザムに感想を述べるよう目で合図を送り始める。
「うん そうだな 少し場所が悪かったような気もするが だいたい八部咲きの出来だと思う 煙の演出には驚いたよ」
既にエグザムの記憶内では、ヴァンの渾身の決め台詞の大半が欠落している状態で消去を待っている状況だ。しかしヴァンにはそんな事は些細な出来事でしかない様で、その後も上機嫌のまま自らが受け継いだ遺物について説明を続けた。
首猟のヴァン。ホウキの狩人を束ねる若い指導者。エグザムより一歳若く背が五センチほど高い。染めてない地毛の鮮やかな青い髪の毛が特徴で、母親譲りの顔立ちをしている。
戦士長や祭司長と違い選出の基準は狩りの才能一点のみ。父親譲りの高い視力としなやかな身体で秘境を駆ける暑い男。
エグザムは左手の斜面から転げ落ちた大小の岩が木々をなぎ倒した跡が目立つ林の中を走っている。里の害獣対策と狩人の定期的な間引きと監視が効果を発揮しているらしく、此処まで来るのに獣や蟲の一匹すら出合っていない。蔦や食用にもなる多肉植物が細い木の根元に密集しており、走っている間にも定期的に管理されている狩人達の苦労が窺えた。
エグザムはそんな光景から目をそらし、右手の川沿いが見えるように首を曲げる。やや後方だが増水した川の水が植物を浸食している雑木林の切れ目、もしくは濁った緑色の水により足元が浸かる場所を併走しているヴァン。川辺は砂利が多く障害物が少ないので常に一定の速度で走れるが、エグザムが考慮した水の抵抗と走行距離による疲労を気にする素振りも見せず元気に走っている。
(俺とは違って人間の体なのに驚異的な体力だ。以前文明圏の競技場で見かけた長距離選手は全員痩せ型の体系ばかりだったな。ヴァンは狩人だから選手より筋肉が発達していて均一的な肉付きだと思うが。先祖代々秘境で暮らすと人間でも亜人かするらしい。)
何故二人は川沿いを目的地まで別々の場所を走っているのかと言うと、獣や怪我を警戒した訳でなく単純にどちらが速いか競争しているからだ。体も歩幅も四肢が長いヴァンが有利で装備重量も軽い。しかしエグザムは機械工学に基づいた骨格と筋肉構造を有している生身の体。謂わば人造人間に他ならない。
(俺が聞いてないだけで、走るのに優位な血統か聖獣の恩恵を受けている可能性も有る。試しに下り坂で一気に引き離してみるか。)
斜面の藪を飛び越え、岩の頭を蹴って腐葉土に着地したエグザム。日差しが木立や大きな葉で遮られた下り坂の先、蛇行した川が南の岸側へ湾曲している方向へ加速してゆく。
事の発端はヴァンが歩きながら狩人の狩猟生活について大まかに説明している時だった。エグザムは基本的に聞き手として黙って聞いていたが、先代の首猟が三年前に引退したときに次の狩人頭を決める方法として踏破競争が採用された話に興味が湧いたエグザム。里の周囲の山岳地帯を一周して二十五人の狩人がたった一つの旗を目指す戦いに、文明での陸上競技を重ねてしまった。
腐葉土や落ち葉を舞い上がらせ、既に何匹かの甲虫を踏み潰した後かもしれないエグザム。最短経路を選びながら走り、再び川と森の境界が近い明るい場所まで出た。
(良し居ない。どれだけ秘境と文明圏の生き方が違うとはいえ、流石に地形を無視して走り続けるのは導力車でも無理だ。空を飛べる飛行船じゃぁ、何だ?)
耳に獣でも機械でも無い人の叫び声が聞こえ、まるで警笛のように周囲を驚かすために発せられている叫び声に聞き覚えがあった。エグザムは木々で途切れ途切れに見える川の上流側へ視線を動かすと、浅瀬で泥と水を攪拌させながら接近してくる青い髪のヴァンが居た。
エグザムは亜人の獣目で瞬間的に視界を拡大させ、ヴァンの右頬に有る引っ掻き傷の様な三本線の生体痕を確認する。緑の生体痕は基本的に狩人の適性を有しているが、具体的に何が優れているかは個体差が有り性格も身体的特徴も疎らだ。
エグザムは追いすがるヴァンの速度に驚いて自然と足に力が入る。しかし足元は川辺よりも軟らかい腐葉土で、下手に爪先に力を入れると地面を掘り返すだけで滑って転んでしまう。
「エグザァァァァァム エグザァァァァム」
後ろから繰り返し聞こえる自分の名が鬱陶しい。しかし一呼吸おいた次の瞬間、エグザムはヴァンの叫び声の真意に気付いて振り返る。
「大熊じゃないか 話が違うぞ」
ヴァンの後方約二十メートルに一体の大型害獣が獲物を追走している。飛び猿より体毛が長く量も多いが、体毛が生え変わっている最中で白と薄茶色の斑模様が幾つも浮かんでいる。
エグザムは背中からツルマキを引っこ抜き、速度を少し落としながら板バネの弓部分を展開する。相変わらず螺旋バネと板バネを接続する留め金が硬いが、足で蹴って強引にはめ込む余力は無い。
「何故聖獣を使わない 格闘戦はお前の方が有利のはずだ」
そう大声で叫んだ後、木々から抜け出てヴァンの隣を走るエグザム。獲物が二匹に増えたのを大熊に教えてから森に誘い込もうかと考える。
「言っただろ 俺は獲物を食う時にしか狩らない どれだけ鋭い包丁でも使い続ければ何度も磨ぎなおさないといけない メータは肉きり包丁じゃなんだ だからあれは任せたぞ」
通りがかりの挨拶を済ませたヴァンはそのまま川辺の森の中へと消えてしまう。去り際の前に倒れそうな勢いの走り方に目を疑ったエグザムは、遅れて獣を自身に押し付けたヴァンの言い口に耳を疑った。
(あの野郎。あとでおぼえてやがれ!)
走るのを止めたエグザムは、岸の水辺で転びながら反転した。泥と水で黒く汚れた探索具を心配する暇は無い。
足を止めた獲物を視界の中央に固定し、大型害獣の大熊は勢いを利用して体当たりを仕掛けた。前足が黒く濁った水ごと泥を掘削し、生え変わりつつある白と焦げ茶色の体毛を泥水で派手に染め上げる。
しかしエグザムは大熊が飛び掛った瞬間に、全長四メートルの筋肉が複雑に隆起した胴体下へ滑り込んで無事だった。
(飛び道具を警戒してない。若い個体だな。)
エグザムはようやく杭を装填すると、そのまま体を反転させて隙だらけの頭蓋側面を狙って引き金を引いた。
大熊は自分の分厚い皮膚や筋肉そして頑丈な骨を貫通する小さな棘を知らなかった。そしてそれが敗因だと気付く前に絶命し、浅瀬の泥の上に身を横たえる。
「無駄撃ちしてしまった 何が食料調達が役目だ 俺に勝つ為に獣を誘き寄せやがって」
走りを止めてから急に頭の回転が速くなったエグザム。体を痙攣させ死後硬直が始まっている巨体の頭部に近付き、半分以上刺さった杭を強引に引き抜く。
「飛猿より血の粘度が低い 脂も少ないし良い物を食ってるな」
エグザムは杭に付着した血液や保護液を舐めて若い大熊の獣因子を取り込む。本来なら筐体から結晶体を取り外し直接結晶体に血液を付着させるだけで済むのだが、狩った以上美味しく味わうのがエグザムの流儀だった。
(メータの角とやらは筋肉やバネで伸びる機械仕掛けの自衛具とは訳がちがう。分解して調べたいが、何処かでヴァンを殺す手段を考えないと。今は案内役と便利な調理道具が近くに在った方が楽だ。追求は目的地に着いてからでも出来る。)
エグザムは約一時間ほど前に教えられたメータの話を思い出しながら、汚れを落した杭を腰の矢筒に戻してツルマキを畳む。部材もバネ機構も単純な機械構造なので、各部位に巻かれた迷彩帯びに付着した泥水を川の水で簡単に落せば点検なんて不要だ。再び背嚢脇に担いで、背中を小刻みに揺すって反対側に挿した長銃とのバランスを調整した。
「獣を利用した妨害が許されるのなら 直接邪魔するのも問題無いに決まってる 俺から逃げれると思うなよ」
エグザムは二分程度の後れを取り戻そうと、ヴァンと同じ様に川沿いを道に選び全力で駆けて行く。後に残されたのは大熊の死体だけで、森は風に揺すられて静かにざわめいている。
森熊。探索組合が脅威指定した大型の害獣。ホウキの住人からは毛玉と呼ばれている雑食の四足獣。夏と冬で体毛が大きく違い、人間で言う衣替えによる容姿の変化が顕著。
神の園に同じ熊科の害獣は居らず、他の隔離・封鎖領域に住む熊科の害獣と殆ど同じ骨格なので、南の海か西の山脈から渡って来た外来種と目されている。
基本的に春から秋にかけて子育て中の雌を中心に群れを形成する。雌は子供が自立すると群れから離れて雄と同様単独生活に戻る。幼児は雄雌問わず二三年で自立するので、神の園の害獣の中でも育児期間が長い部類だ。
攻守が逆転した追走劇は、結局エグザムがヴァンに追い着けないまま目的地に到着して終わった。
「七時八分 時間は一分と三十秒遅れ 健闘虚しく残念だったなエグザム 俺の勝ちだ」
滝の音が空間を振動させる轟音の所為で殆ど何も聞こえない。しかしエグザムは高さ一メートル半の岩の上で勝ち誇った表情で自身を見下ろしていたゼルを引きずり降ろした。
「まさか狩人の長たる者が不抜けた理由で獲物から逃るとは思わなかったよ なんなら俺が変わりに聖獣を継承してやろうか」
首を絞められた状態で腰を強引に地面から浮かされているゼル。エグザムから逃れる術は無く、自らの首に回された太い腕を何度も叩いて反省の態度を示した。
エグザムはゼルを地面に落してから、目の前の花崗岩らしき天然の高台に上る。かくして小川から始まった一時間とおよそ五十分程度の短い川旅は、複数の河川が合流した滝の上流部で終わった。
(途方も無い量の水が溝帯に流れている。元は昔の探索最盛期に掘られた石窟現場へ流れていたんだろうが、遺跡ごと大地を削り続けてこの有様か。)
ゼルとの協議の末。エグザムは森の焼却行為が調査の邪魔に成ると言い出し、ゼルに数日後には始まる森の一部焼却を五日先に先延ばしさせた。屍の森か更に西の南水源池遺跡を調査し有毒な霧の発生源を特定すると共に、活発化している害獣の移動を調査。生息域の拡大がホウキの生存圏を脅かさないよう、誰もが納得する口実を探さないといけない。
(弱肉強食の法則では、たった一種の最終捕食者が縄張りの統治権を有す。つまり人も獣も必ず縄張りを造り自らを守る殻を維持しなければならない。ヘラジカだけであれだけ巨大な森を作るのは不可能、土壌ごと生物の営みを他世界から隔離する存在、すなわち例の龍が必ず要るはずだ。)
エグザムはゼルから聞かされた説明を反芻し、対岸へ渡る方法を考え始める。目の前に広がる大きな水の垂れ幕は二十メートル以上の高さがあり、滝つぼに落ちたら二度と浮かび上がってこれないかもしれない。
「観察はそれくらいにしてそろそろ戻るぞ 此処から向こう岸に渡れる道は無いからな」
その言葉に振り返ったエグザム。ヴァンは今まで着用していた皮装備を脱いで、里で栽培されている綿製の下着姿で背嚢を漁っている。
「この辺りは限定領域で獣や蟲も寄り付かない ただしそれは日が天へ昇っている朝方と夜の間だけ だからエグザムも今の内に森へ入る準備をしとけよ」
エグザムはゼルの忠告に気を引き締め、短い相槌を送っただけで岩から降りる。
背後から聞こえる轟音で自分の声がヴァンに聞こえたかは判らない。しかしこれから始まるだろう森の変化を考えれば、ヴァンの言うとおり悠長に滝を見物している訳にも行かない。
(里を発つ前に殆ど準備を済ませておいたから、予定どおりこの場所で食事を済ませてしまうか。)
背嚢内に入れた様々な探索具と備品の下に入れておいた二つの金属製の食料容器を取り出し、何重にも強く巻いた紐の結びを解いて蓋を開ける。
「大丈夫だ 腐ってない」
三種の家畜の乾燥肉と、穀物や野菜をすり潰して乾燥させた団子。塩漬けにした豆と新鮮な果実から切り取った果肉片。一週間の十日間近くは獣の血だけで体を維持できるとは言え、せっかく持たされた食料を霧の有毒成分で腐らせる訳にはいかない。
「ほらヴァン 里の妹から届け物だぞ」
エグザムはもう片方の容器を隣のヴァンに手渡す。自身の容器は枠だけが金属製で中身は大きな葉で別けられた只の保管容器だ。しかしヴァンの容器には木枠で囲われている内箱構造(二重箱)で、中身も非常食ばかりの簡素な料理とは到底思えない。
「うわ卵が半熟だ やけに手が込んでやがる」
エグザムは観光地などで販売されている旅弁当の様な豪華な弁当箱を食べるヴァンをしばらく見つめる。高級宿などで客を喜ばせる為に料理人が手間と時間を愛しんだ作品と遜色ない。エグザムは一時の間、調理技術の格差まじまじと感じながら手に持つ自作の食料を口に詰め込む作業に勤しんだ。
食事を先に終えたエグザム。背嚢から縁を硬く結んだ皮袋を取り出し、今度は被っていた鉄帽の紐を解くと頭部の装備をすべて体から外す。
(消石灰だか生石灰だかの混ぜ物が霧の成分に効くらしいな。汚染植物の胞子や微生物の卵を体に付着させたまま里に帰る訳には行かない。念のために密着服の開口部にも塗しておくか。)
エグザムはやや小さめの皮袋の封を開け、砲弾の炸薬の様な固形状に固められた粒を複数手に取り解す(ほぐ)す。粉末が手汗だけでも吸収すると焼けどする温度まで発熱するが、皮袋を外した手は密着服に守られ熱くない。
(昔白爺が肥料用に用意した消石灰に素手で触れて火傷しかけた事があったな。あれは粗悪品だったから怪我しなかったが、こいつは一度焼いてから薬品で選別した一級品だろう。この量だけで本物の火薬の原料を十分な量抽出出来る。)
空になった弁当へ粉末にした石灰を慎重に入れてゆくエグザム。ある程度の量を粉末に戻すと、今度は自身も密着服以外の装備を体から取り外し始めた。
血統。血中に含む汚染物質への抗体や浄化能力の差異、若しくは生体痕により識別される身体能力と職業適性を総合したホウキ独自の呼称。
七時二十一分。懐中時計を懐に仕舞うヴァンの横で、エグザムは雪解け水で増水した川に等間隔で沈んでいる無数の岩を数えていた。
(全部で十六箇所しか足場がない。この流れだと沈みきる前に流されて滝つぼ送りだな。)
エグザムとヴァンはガスマスクを着用しているが、二人とも装備も含めて全身にまぶした特殊な石灰の粉で殆ど白い。本来生石灰等は水に触れて発熱する物質だが、今回の隔離領域への探査から身を守る粉には別の成分が含まれている。
「今日は普段より少し寒いから霧が出るまで少し余裕がある 岩塩が解ける前に抜け穴の説明をするぞ」
ヴァンは岸に程近い場所に在る小さな中州を指差した。中州は背が高い雑草に覆われた浮島にも見えるが、ヴァンが言うように人工物らしき崩れた橋桁らしき構造物が在った。
「あそこの下に俺がよく使う森への地下通路が埋まってる 中は何時も暗くて何も見えないから足元の水には注意しろ 毒蛇や土蜘蛛なんかが身を隠している たまに獣胃以外にも軟体生物や水際の生き物が入っているから 不用意に刺激すると襲われるからな」
着いて来いと手で合図したヴァンはそのまま岸辺に半分使っている岩に上り、そのまま中州へと一直線に岩の上を飛び跳ねて渡って行く。慌てて最初の岩に上がったエグザムもその後姿を見ながら勢いよく飛び跳ねると、両腕を回しながら姿勢を安定させつつ、水飛沫が付着して滑り易くなった岩肌に鉄爪を食い込ませて強引に飛び移った。
エグザムの目に苦も無く半分を渡り終えたヴァンの姿が映った。当人が自慢していたとおり、隔離領域の調査や採取を趣味にしているだけあって、どれだけ足元が水飛沫に晒されようが立ち止まる気配が無い。
(汚染物質から身を守る為にわざわざ三台汚染物質の一種まで使ってんだ。急がねば全部手遅れになるぞ。)
されぞれ二メートルから三メートル間隔で離れている三つの岩を連続で飛び跳ねて渡ったエグザム。更に勢いつけて岩の傾斜を蹴り、最低限の動きで重心を安定させる。
最後の岩から中州までの距離が遠い。どうやら川の増水により水位が上がっているので、砂や砂利が堆積した岸辺は完全に水没している。
「ここだ 足を滑らすなよ」
エグザムはヴァンの忠告を聞いてゆっくりと岩の尖った部分に右足を乗せる。既にヴァンは中州内に到達していて何処へ跳ぶべきか解り辛いが、抜かるんだ足場に残る真新しく折れ曲がった高草は難なく見つかった。
「問題ない 先に行ってくれ」
ゆっくりと息を吐き、太股と腰周りの筋肉に大量の血液を送り普段は使わない筋繊維を強引に機能させる。そして吐く息を止めて上半身を前に傾けて重心をわざと崩すと、体が岩から落ち始めた瞬間に両足を蹴って大きく跳躍した。
ヴァンが見守る前で体を空中で器用に捻っていつもどおり着地に備えたエグザム。しかし想定より余分に遠くまで跳んでしまい、ヴァンの頭上を跳び越えてそのまま中州内の高草の森に消えてしまう。
「おいおいおい 大丈夫かエグザム こんな所で怪我する奴なんて早々居ないぞ」
ヴァンが駆け寄るまで派手に高草をへし折って抜かるんだ地面に仰向けで倒れていたエグザム。着地の際に重心が前に傾いてしまったので満足のいく着地とは程遠い有様だ。
「大丈夫だ 大量の雑草のおかげで助かった」
エグザムは体に付着した枝や枯れた雑草の一部を払い、そのままヴァンの後を歩いて中州の中心へと進む。
中州は中央の人工物に漂流物や砂が堆積して出来た天然の造成地らしく、遠くからでは確認できなかった瓦礫や代償の岩が埋もれている。既に例の人工物を見上げる位置まで進んだエグザムは、前方のヴァンが上ろうとしている一メートル程高い位置に在る足場の様な人口石材の上を見つめる。
「ここが地下通路へ降りれる縦穴の入り口だ 今からこの蓋を上げるから反対側を頼む」
直系が一メートル半よりやや大きいが、綺麗な円状の蓋と枠の縁には幾つかの凹みと大きな蝶番が在った。エグザムはヴァンの指示どうり水が残っている反対側の凹みに手甲ごと手を差し込み、大きな漬物石のように思い金属蓋を静かに持ち上げた。
「ガスマスクを確認しといた方がいい 亀裂から化学物質だとか有毒ガスが漏れている時もある ガスの臭いなんて殆ど判らないから 気分が悪くなったら首を押さえて合図しろよ」
両手で合図の真似をしながらガスマスクの予備口を閉じたヴァン。そのまま円柱状の壁に打ち込まれた金属製と思しき梯子を音も立てず下りて行く。
「ああ 照明の光を点けるの忘れてた 蓋を閉める前に光源を持って下りてくれ 反応液を少しだけ入れれば十分だぞ 光を強くすると獣が居た時に厄介だし 出口は森の中だから向こうの光に慣れるのに時間が掛かる」
エグザムは何時も慌ただしそうなヴァンに呆れつつ、腰に提げておいた緑の透明容器内へ樹脂と植物の絞り汁を混ぜた反応液を入れる。反応液は容器内に固定された反応棒、つまり紫外線放射用の電極を埋め込んだ人工炭と化学反応を起こして光を発生させる代物だ。古くから探索活動以外でも使用されており、ガス灯などが整備される前は都市部でも使用されていた。
腰の照明具から小さい蝋燭の灯火に似た淡い緑色の光を確認し、エグザムは数段下の梯子に足を掛けると重い縦穴の蓋をゆっくりと閉じ始める。流石に一人で重い蓋を閉じるのは骨が折れそうなほど大変なので、遺跡と同様に古い梯子が折れないようにゆっくりと梯子を降りて閉じる蓋を支えた。
エグザムは蓋を閉じるとそのまま梯子を下って深い縦穴の底へ下りた。底はヴァンの事前説明どうり丸い配管構造と成っており、丸い底部には僅かだが水らしき液体が流れている。
「すまなかった 上の蓋重かっただろ 実は楽に閉める方法があったんだが 教えるのを忘れていた」
謝りながらも自身の照明具に素早く反応液を注入して光を灯しているヴァンを見ると、エグザムはわざと重要な情報を教えず外から来た狩人を試しているのではないかと考えた。
「見てのとおり此処は古代の下水道 それも奇跡的に崩落や探索の破壊を免れた場所だよ とは言っても今の外世界と何ら変わりないありふれた地下道だから 迷うと何処に出るか俺でも解らないから気をつけろよ」
ヴァンは腰の皮袋から見慣れない小さな物体を取り出して、ガスマスクの放出口に開いた小さな穴に差し込んだ。今回の調査に活用しようと持って来た獣笛に埋め込まれた人工耳石らしき結晶が半分露出していて、エグザムは嫌な予感を感じる。
「探索街に居た時に潜り屋の話を耳にしたが やはり此処と似たような地下道が数多く残っているらしいな 大半の探索者は殆ど近寄らないから俺も詳しくない だから道案内は頼んだ」
エグザムはガスマスク越しにヴァンの目を目つめた。人と同じ構造の彩光が照明の光で輝いていて、ヴァンが手筈どおり会話を控えて奥へ進むよう目で合図を送ってきた。
二人は無言のまま狭い配管の中を奥へ進む。二人の身長は百七十台で連合国民の平均身長に近く、背を曲げて歩かないと円形の天井に頭が当たってしまう。
反応液を少しだけ注入し光量を抑えたのは他に理由が有る。既にヴァンが警告したように、地下の配管内では地中から漏れた毒性のガスが充満している可能性が有る。ガスにも様々な種類が有るが、この場合は反応液と反応棒が接触して発生する静電気と窒素系ガスを留意しないと、地層から漏れたガスと化合して塩素系や硫化水素等の有毒物質を活性化させる恐れがあった。
人子石材の配管は断絶海岸を渡った時の空中通路とは違い、材質や施工法が何なのか全く解からない。エグザムはある程度の建築用語と知識を知っている。しかし完全に一体成形されたような無機質な壁に心当たりなど無かった。
(十分以上は潜ったままだ。春頃だからヴァンの言うとおり虫が湧いるはずなのに、今のところ一匹すら遭遇してない。単に照明の放電光を嫌って逃げているのか? いや違う、それなら足音聞こえるはず。これも園の変とやらと関係しているのかもな。)
同質の配管と合流した丁字路を左に曲がり、やや傾斜している狭い下り道を確実に進むヴァン。後ろからその背中を見ていても動きに迷いは無い。本人の発言どおり屍の森を中心に趣味の探索と狩りを同時に行っている実力が窺える。
エグザムは反応液の残量を確め、地下に入ってからあと数分で二十分が経過する事を確認した。道中に幾度も道を曲がり、時には北西方向以外の道を進んだのでもはや自分がどの辺りに居るのか見当がつかない。それでも躊躇わず道を進んでいるヴァンを見て不安に狩られたエグザム。丁度十字路の様な集合地点が視界にぼんやりと浮かんでいるのに気付き、曲がり角に入る直前で急に止まったヴァンの肩を掴もうとする。
しかしエグザムはヴァンの肩を掴む直前で手を引っ込めた。何故ならヴァンが右手を上げて停止の合図をかざしたているらだ。
(今度は何だ。左通路の奥を気にしているな。狩人独自の血統とやらで何か解かるのか?)
エグザムはヴァンの隣に立ち、左通路の奥を見つめる。通路の数メートル先は闇に包まれていて何も解からず、熱視による空間認識能力でも網膜には数メートル先まで続く空洞しか映らない。耳には自身とヴァンのガスマスクから排出される空気の音しか聞こえず、通路の奥から流れて来る僅かな水の音にも異常が無い。
しばらくの間、ずっと聞き耳を立てているヴァンに事情を聞こうとしたエグザムだったが、ヴァンが後ろのエグザムへ振り返りると不穏な単語を口にする。
「空気の流れが前と違う どうやら予定の道が崩れているようだ 今から迂回して森に抜ける道を探すから少し時間が掛かる」
簡潔にまとめられた台詞を直ぐに理解したエグザム。 黙ったままヴァンの背後に戻り行動で了承を伝えた。
それから更に十分以上かけて配管の分岐道を一本ずつ歩いて確認したヴァン。ようやく目的地に通じる道を発見するとそのまま止まらずに光を目指した。
地下を歩き回って道を出口へ通じている道を探している間、その配管の出口とやらがどうなっているか気にしていたエグザム。曇天の雲の様な深い霧と陰った日差しを目にして少しだけ意識がずれたが、出口から数歩進んだ場所から配管の丸い穴へ振り返る。
(なるほど。地下配管自体が柱のような構造体の中空部分だったか。どうりで浸食や劣化がすくない訳だ。)
大波のように大きく盛り上がった斜面には、構造体の四角い断面の他にも大小の岩や瓦礫が何かの残骸と共に埋もれていた。出口の配管から垂れる少量の水が砕けた人工石材の瓦礫に垂れていて、限定的な範囲に苔のような奇妙な植物が自生している。
「七時三十八分 予定より八分も遅れてしまったな エグザム聞いてくれ 例年より異常なほどに霧が深い このままでは数時間後に死の時間が訪れる このままだと高い確立で森から脱出出来なくなるかもしれない」
ヴァンの言うとうり、巨大な針葉樹の幹が等間隔で乱立している森の空気が白く濁っている。まるで白い粉末を絶えず舞い上げているようにも見え、発生源と推定した天空樹までの道のりは険しそうだ。
「此処まで来て引き返すなんて冗談は言わんぞ お前も聞いているだろヴァン 数日後に南の森が焼かれればまた貴重な土地が減るかもしれない 俺達に後戻り出来る選択肢なぞ何処にも無いんだ」
出あって間もない元狩人の探索者に命を賭けろと真顔で告げられたヴァン。探索団の情報や経緯を当事者として知っている以上、エグザムの案内役をまっとうするのが筋だと考えた。
「解かった 先に進もう 天空樹が俺達を待ってるはずだ」
霧深い森の中は空気が澱んでいて不気味なほど静かだ。これほど有毒な物質が充満していれば獣や蟲が外から侵入するのも容易ではない。ゼルの情報どおり巨大な樹の表面には大量の汚染植物が付着していて、本来なら汚染物質によって秘境では生きれない筈の雑菌の塊が繁殖している。
エグザムは前を歩くヴァンの足跡を辿りながら森を慎重に歩き続ける。不用意な会話などもってのほかで、ガスマスクのろ過膜を定期的に叩いて詰まりを抑制する。
(情報だと胞子がばら撒かれるのはもう少し気温が上がってからの筈だが どうやら温度だけでなく光量や湿度も関係していると見た。汚染植物は巨大樹の花粉が霧に含まれる汚染物質により変異した出来損ないの姿らしい。どこまでが正確でどこからが間違っているのか見当がつかん。)
岩に付着した貝類や珊瑚類が世代を超えて大きな岩礁を形成するように、汚染植物も巨大樹の根元で大きな花や蕾を芽吹かせている。それらは栄養豊かな大地に棲息する植物とは違い、青や黒い緑色の薄気味悪いカビの集合体にも見える。
(こんな物の何処にあの巨体を維持するだけの栄養が有るんだ? 寄生虫の他にも体内で栄養源を生み出す雑菌を飼っていても不思議ではないな。)
エグザムはヴァンの後を追い霧の中を進み続ける。地中の鉱物かそれとも霧が含む汚染物質の影響だろう。持たされた磁場の乱れに強い磁力石は固まったまま動かず正確な方位が判らない。
(此処にも蝕指の挿し枝が接木されている。新しい種の汚染植物でも育てているのか? どうやらヴァンはこの森で観察調査以上の事を行っていると考えて間違いない。自分で獣道を整備して普段から森中を隈なく行き来している話は事実のようだ。今まで表向きは隠れ里だったホウキが文明との繋がりを強めれば、いずれこの森にも調査の手が入るように成るだろう。当然ヴァンは狩人を辞めても現地調査官として採用される道がある。)
普段どおり秘境を歩いているのに、白い煙の様な霧の所為でゆっくりと進んでいるように感じれる。エグザムはその後もヴァンの後多い霧の発生源へと足を進めた。
汚染物質。地下水に混じった鉱毒から、未知の文明から排出される謎の物質まで。現在の科学技術では解明されてない様々な有害物質を大衆向けに総称した一般常識の大衆用語。工業と産業廃棄物から発生する有害物質と対比として認識されている。
霧の発生源と目される天空樹が在る低地へ近付くと、それまで停滞していた空気が前方へと流れているではないか。さらに周囲の植生も、カビが堆積した汚染物質の肥溜めからふっくらとした蕾や蝕指を垂れさせた鮮やかな花々が多くなり始めた。屍の森と言う名前どおり停滞した死の世界が霧と共に少しずつ晴れてゆき、今まで辛うじて見えていたヴァンの姿がはっきりと視界に映し出される。
(体内時計換算でざっと一時間弱。ただ歩くだけだと長く感じる時もあったから、色々数えて少なくとも十キロ以上歩いたはずだ。屍の森は東盆地全域。まだ中心部が遥か先とは言え、そろそろ天空樹が在る例の低地に到達する頃だ。)
歩きながらエグザムは、徐々に開けて来る世界と明らかに違う森の植生をどう説明すべきか考える。腐敗臭がする廃棄物埋立地の様な有様から改善されつつある光景に、自然と歩みに力が入った。
「こ これは」
足元には腐った汚染植物の残骸は無く、変わりに樹齢千年に達する木々が自生する森に見られる苔が生えている。手記に記載され自身も目撃した密林深部の白い森ほどではないものの、抜かるんだ地面には堆積した汚染物質のヘドロが何処にも見当たらない。
エグザムの声に反応したヴァン。振り返ってエグザムが不用意に声を出したの注意するかと思いきや、歩くのを止めてエグザムが傍に来るまで待っていた。
「凄いだろ 此処の植物は汚染物質を食って成長するんだ 言うなれば屍の森とは仮初の姿 太古から変わらない最も深い息吹の園 まさに天空樹のお膝元である禁断の園だな」
ヴァンは手で触れる範囲に咲いている細く黄色い花びらを一枚摘み取ってエグザムに見せる。
「光に翳して見ろ 見た目は花びらだけど中身は別物だから」
霧の濃度が薄くなり、高く聳え立つ巨大樹の上部が白く濁って見える。エグザムは言われた通り薄い花びらを右手に摘まんだまま白い天井に掲げた。
「何だこれは おかしい 硝子細工とは違うな これは繊維状の細かい結晶体か何かか」
光を透過させた花びらは同種の植物より硬くて薄い。そして葉脈に相当する筋だけが光を通しておらず、繊維状の筋が金属光沢を放っている。
「結晶体とは少し違うけど まぁ硝子細工の様な複雑な構造と似てるのは確かだ 普通の植物とは違って根本から違っていてな 実は汚染物質を材料にして作られた微細生物の工芸品と言ったところが妥当な説明だろう」
手渡された三冊の手記にも載ってない不可思議な天然の造花。ヴァンの説明がしっくりするほど均一な厚さと葉脈の形状に、エグザムは花ごと摘み取って持ち帰る為に背嚢を降ろそうとした。
「悪いが此処の物は全て採取が禁じられている 此処の存在は代々の首猟と長老のみにしか伝えられてない秘密の場所なんだ だから調査や実験用に持ち帰りが許されているのは俺だけ 本来なら探索街の探索者でも立ち入れない神聖なのを覚えておいてほしい」
ヴァンは花びらに釘付けのエグザムから天然の工芸品を没収すると、そのまま口に入れて証拠を咀嚼する。乾燥した肉片や上げた芋類と飴を噛み砕くような音が聞こえ、エグザムはヴァンが何時の間にかガスマスクを外している事に驚く。
「俺は狩人の間でも汚染物質への耐性に優れている それに長らく森と里とを行き来したおかげでこのとうり弊害は無い 勿論エグザムにはまだ無理だ まず粘膜を作るための解毒薬を吸わないと 直ぐに呼吸出来なくなる」
ヴァンは奇妙なマスクを外したのを皮切りに、再び歩きながら森について詳細な説明を続ける。エグザムに自身と代々の首猟が収集した様々な情報を伝えることで、植物の採取を防止するのが狙いだった。
「つまり途中のカビが変移した植物ではなく 天空樹から風に流されて飛んで来た微生物が菌類と共生した姿がこの植生か 成長過程が珊瑚類や茸と少し似ているな それなら独自の寄生虫や微生物を持つヘラジカが汚染植物を食らうのも解かるぞ」
エグザムは歩きながらヴァンが説明した話を口に出して整理し始めた。
赤い山の麓に位置する屍の森へは、毎年の雨期明けに大量の地下水が赤い山から流れて来る。その地下水の大半は、赤い山に降った雨水と遥か北の氷河から流れて来る汚染物質を含んだ汚染水だ。汚染水は地下遺跡や旧時代に埋められた配管を通り山の南側へと流出している。そして屍の森は海へと汚染水が流出する前に、天空樹と巨大樹の根が地下水を吸って汚染物質を浄化擬似植物に供給する浄化役を担う天然の浄化装置だ。
エグザムはふと横を見る。下垂花の実のような二つの膨らみをぶら下げた大きな蕾。下から覗けば花が咲く場所に開く前の黄色と赤の小さな花弁が見えた。
「ここの浄化植物は高濃度の汚染水を浄化する過程で霧の醸成を手助けしている 数代前の首猟が空気の綺麗な下層農場の実験場で栽培したら 奇妙な事に霧を構成する物質の一部である毒胞子を出さなかったそうだ 勿論胞子を出さないから浄化擬似植物は次の代を残せず枯れてしまったよ それで残った土を長らく観察した結果 今の地下農場で熱帯麦の促成栽培に貢献している光虫の元と成った微生物の卵を発見できた訳だ 驚いただろ それが此処の植生を監視するように成った経緯だ」
有る意味浄化された地であり、人や獣が立ち入れない聖域。そう考えたエグザムは上を見上げる。
背が高い針葉樹の体表には、茸とはまるで違う放射状の枝がらしき食指が無数に生えている。どう見ても針葉樹の枝ではなく汚染植物とも思えない。遥か高い位置からゆっくりと舞い降りて来る小さな白い胞子は粉雪の様にも見え、呼吸器や粘膜に付着したら発芽する有害植物には到底見えない。
「そろそろ天空樹が有る低地の境目だから今の内に石灰を塗り直そう この辺りはヘラジカにとっても重要な場所だから迂闊に見つかると危ない」
ヴァンの忠告どおり消石灰を体にまぶしていると、土壌中和剤や殺菌洗剤として使われるこの粉末が、吸水塔の浄化設備で生産されているとついでに詳しく知らされたエグザム。
(長老のロウから置換抽出による置き換えられた浄化と聞いていたが、どうやら生活排水や排出物を処理するだけの施設とは限らないようだ。この類の生産施設には複雑な蒸留施設と殺菌装置が付き物なんだが、どうやら団長のオルガが言うように、相当触れてはならない危険な代物なのかもしれない。)
それから程なくして、二人は目的地の天空樹を見据える場所に難なく辿り着いた。ヴァンが警告していたとうり、森の周囲は気温の上昇で分厚い霧の層が雲を形成し始めた。しかし肝心の二人が居る場所における森の変化は正反対な方向へと変化していて、高さ百メートルを越える巨大な植物を遠方からでも細部まで観察出来るほど晴れた空が広がっている。
浄化擬似植物。植物の植生を模した有機固形物に近い何か。装飾品の造花と違い物によっては食せるが、基本的に人間の消化器官では吸収出来ない毒の塊。汚染物質を体内で分解できる者には食える食玩なのかもしれない。
これら擬似植物の大半は、二十から三十メートル以上の高さまで生長した巨大樹の根や岩の様に硬い樹皮に張り付いて繁殖している。主に空気中の放出された汚染物質や有害物質を体表に生えた微細な毛から吸収し、体内に住む浄化微生物によって酸素や窒素等の供給を受けている。
温かい日差しに恵まれた静かな森を揺らすヘラジカの地響きによって、巨大樹の葉に積もっていた汚染物質の白い堆積物が花粉の様に舞い上がってから空中を漂いはじめた。
「おいマスクを装着しろ お前でもあれは危険だ」
エグザムは巨大な天空樹を森と低地の境界から見上げているヴァンに忠告した。
「大丈夫だエグザム この辺りの汚染物質は危険性が低い 仮に人体に入っても免疫で対処出来るから焼却炉の掃除と殆ど同じだよ」
そう言いながら天空樹から目を離さないヴァン。狩人として狩る獲物はこの隔離領域に存在し無い筈なのに、この男は先程から何かを待て居るようだ。
エグザムはヴァンの懐から無言で時計を引っこ抜くと、九時前だと短く呟いて低地の空を見上げる。
(日が高くなると気温が上がり、森の外側では大量の霧が発生している頃合だ。風によってはこの辺りまで霧が何処からか流れて来るだろうに、この晴れ具合は異様に不自然だ。)
高高度に薄く伸びた雲が在る以外は日常と大差無い光景だ。エグザムは無言で鎖に結ばれたヴァンの懐中時計を懐に戻すと、地表から露出した巨大樹の根に腰を降ろした。
「天空樹の話は聞いただろエグザム 今は何処にでも在りそうな双子の大樹だけど 実は気温や光量によって空気の流れを変える性質が有るらしい おや どうやらそろそろ始まるようだ」
ヴァンが口を閉じたのと同時に、容姿が対照的な巨大植物の樹皮や葉に在る太い葉脈が胎動し始めた。
(葉脈が鼓動している。根元から何かを吸い上げているようだ。)
エグザムは耳に聞こえる静かな鼓動の音に神経を研ぎ澄ませつつ、徐々に早まっていく巨大植物の息吹を観察し続ける。
片方は天高く蔦を絡ませた巨大植物。もう片方は幹を曲げながら大きく広がった枝を懸命に支える大きな広葉樹。どちらも湿地の中央に在って、鉢植えの様にも見える崩れた遺跡から生えた主根から、さらに枝分かれした二本の大枝だ。
その二本の枝で構成された巨大植物は頂上の蕾と果実の様な複数の膨らみに何かを集めている様に見えた。
「あれの原理はまだ解からない ただもう直ぐ蕾がはじけて大量の胞子が天に昇る 圧力釜から噴き出る蒸気音より煩いから耳栓ごと手でしっかり塞いだ方がいい」
エグザムは言われるがまま、鉄帽の側面の下に在る耳を両手で塞いだ。直後、目の前で大きな笛が吹かれる様な重低音が周囲に鳴り響く。重低音に混じって湯沸かし器の様な独特の甲高い音も聞こえ、ヴァンの言う通り二つの大枝から上方と周囲方向へ大量の水蒸気らしき霧が噴出している。
(蒸気船の汽笛と蒸気栓の排出音みたいだ。どうやら別々の形状に伸びた大きな枝の内部は縦笛と大法螺に似ているらしい。これはどう考えても植物の類じゃない。巨大な蒸留設備と何も変わらないじゃないか。)
槍の様に高く真っ直ぐ聳え立つ植物の頂上排泄口。未成熟の花を包む蕾に見えた膨らみは、今や大量の何かを噴出す花と成っている。ただでさえ高い天空樹より更に高い空へとドーム上の雲を広げており、日の光が遮られ辺りが薄暗く変わってゆく。
「頃合だエグザム そろそろ空気の流れが天空樹へと集まり始める 風を感じたら直ぐに天空樹の根元へ移動するぞ」
屍の森に入る前に頭部を有害物質から守る為、二人とも耳栓をしてから鉄帽の下に汗を吸収する保護防止で頭を覆っている。しかしエグザムとヴァンは耳石が発達しているので、若干耳が遠くなった程度の影響しか無かった。
エグザムはヴァンの後を追って、下の斜面へ伸びる根に上る。既に噴出している二種類のガスによって周囲の環境は変化しており、肌寒さから急激な温度の低下を感じ取れた。
隣のヴァンがガスマスクを再び装着したのと同時に背後から地響きの様な音が聞こえて来た。エグザムは後ろを振り返ると、透明度が高い森の奥にから霧の壁が濁流の如く迫っているのに気付く。
「おいおい こんなこと聞いてないぞ まだ下りないのかヴァン」
エグザムは戸惑いながら隣のヴァンの顔を見上げて驚いた。なにせヴァンは屈伸運動をしながら興奮気味に荒い呼吸を繰り返していて、まさに背後から迫って来る霧の壁を待っている様に見える。
「下は沼地で底が深い それに足場も脆くて崩れ易い 今から下りても間に合わないよ でも心配するなエグザム 派手にぶっ飛べば中央小島へ続く埠頭まで飛び移れる 重要なのは手足を伸ばして濁流に身を捧げる事 下手に抵抗すると痛い目に遭うぞ」
ヴァンは後ろを一切見ずに天空樹だけを見つめていた。エグザムもその視線を追って広葉樹の様な幹から伸びた枝にぶら下る無数の蕾を見つめる。
風船の如く膨らんだ複数の果実は、はじけて花を咲かすことなく無数の穴から方々に細かい粒子を放出させていた。それらの粒子は光を反射させて雪の様に輝いており、緩やかに上方へ上がっていく様は不自然にしか見えなかった。
エグザムは数十メートル先まで迫って来た霧の濁流を確認し終え前を向き直ると、隣のヴァンと同様に膝を曲げて大きく跳躍する体勢に移る。
(装備重量が軽くなったとは言え、ヴァンより重いことに変わりない。高く跳んで埠頭とやらに辿り着けるか運に身を任せるか。)
背後から空気を振動させる轟音に紛れて、ヴァンの行くぞと言う短い合図を耳にしたエグザム。およそ一時間半前に岩から中州へと飛び移った際に踏ん張った力より更に強い力で跳躍した。
霧の壁は圧縮された空気の塊でもあり、秒速五十メートル程の速さで森の境界から天空樹が在る低地へと流れて行く。気体といっても圧縮された流体内は物を吹き飛ばすだけの力が有り、エグザムは木の葉の様に体を高速で回転させながら空中を流される。
(駄目だ自由が効かない! このままだと勢い余って底なし沼に)
数秒間だけ空中を彷徨った後、予想どおり玉が転がる容量で草花が多い茂る沼地を転がるエグザム。体に加わった回転を止めようにも、手足が抜かるんだ地面を滑るばかり。しかし転がる体勢を辛うじて変更出来るので、エグザムは腰から鉈を抜くと地面に刺さる事を祈って鉈を振り下ろした。
「かなり飛ばされた こんなことならいつもの探索装備も持って来るべきだった ヴァンの奴は何処に落ちたんだ あいつ 絶対埠頭の意味を勘違いしてるぞ」
エグザムは体を抜かるんだ地面に横たえ、直ぐ脇に生えた多年草の様な浄化擬似植物と同じ様に暴風に耐える。
「まだ終わらんのか もう何も解からん ヴァンは無事か」
しかし想像以上に霧の濁流が長く続き、周囲の視界は暗いまま絶望的に時間だけが過ぎてゆく。エグザムは風上を睨んだまま、風に紛れて飛んで来る石や狩れた巨大樹の残骸が当らないよう風が止むのを待った。
やがて低地は霧が充満した屍の森の一部と成った。一分前まで晴れていた青空は見えず、冷えた空気が空から地上を圧迫しているかのように冷たい。そんな状況でもエグザムは素早く立ち上がり装備品の点検を始める。
基本的に爆発と落下の衝撃に耐えれるよう設計されている探索具と自衛具。そしてそれらを固定する帯びや鎖はこの程度では外れないのだ。
(ヴァンとはぐれた以外に問題は無い。俺を驚かすためにワザと霧の津波を隠していたのか、それとも単純に忘れていたのか。もしかしたらあいつも探索団との連絡役に聖柩塔が派遣した別の代理人かもしれない。)
暗く寒い抜かるんだ地面。歩く度に靴底に泥が付着し、粘度を踏み固めている感触が続く。低地境界の斜面から見上げていた時、遠視と熱視を併用したり個別で湿地を観察していたエグザム。観察時に大よその地形を把握していたおかげで、直ぐに現在位置が判明した。
(おそらく地下に伸びた天空樹の地下茎の上。丁度入り江の様に方々へ陸地が続いている場所だ。ヴァンの言うとおり天空樹は容姿こそ違うものの、基本的に絞め殺しの樹で構成された巨大植物。絞め殺しは成長すると内部に空洞を穿つ。当然埠頭とは全く別の小動物や虫が通れる道が出来るわけだ。)
天空樹の低地は、埋没した遺跡と天空樹の根が支えている擬似的な陥没大地。ヴァンが忠告したように地面には脆い場所と深い穴を見下ろせる水場とで形成されており、霧の所為で真っ黒な地面と陰った水面が似て見える。
エグザムは狭い足場を長銃の台床で突きながら、足元に繁殖している苔や植物らしき硬い何かを道しるべに砕いて行く。砕けた硝子ほど硬くはなく、どちらかと言えば地面に張った薄い氷の膜を砕いている様な感触で、静寂を破るその音と同じ音は周囲から全く聞こえない。
「若い身ながら狩人の頭目を務める出世頭 隠れ里は惜しい逸材を亡くしてしまった 帰ったら長老を説得して俺が首猟の代役に就くのもいい そう言えば長老もイナバ出身の元探索者だったな そこで隠れているお前の代わりに俺が園の調査をしてやってもいいんだぞ ヴァン」
青黒く濁った湿地に自生した緑の水草の下へ声を送ったエグザム。熱視能力で見ている光景には、真っ黒の世界の中に浮き上がった白く濁った水面が映っており、何等かの生物が潜んでいると簡単に理解できた。
「なんだ無事に辿り着けたのかエグザム 声が聞こえないからてっきり水底に沈んでしまったと考えて探していたのに まったく驚かせやがって」
ゼルは水中でも呼吸が出来る様に改造した呼吸具らしき棒を背中に差し込むと、全身から水を垂らして沼地の上に上がった。
「確かに俺は体が重過ぎて泳げん ただしその時の為の備えは万全だ」
エグザムは脱いだ皮の羽織を絞って大量の水を足元に垂らしているヴァンに、新しい探索具として密着服に装着した浮き袋の説明を始める。
「この密着服には降下服用の固定帯びを改造した枠線に何種類かの浮き袋が装着してある この紐を引けば栓が解放されてガスの精製が始まるんだ 前は今より分厚い装甲を纏ってたが 防御が薄くなった分は浮き袋を衝撃吸収に使って対処する優れものだよ」
エグザムの腰と胸の二箇所に小さな吊り革に似ている輪が固定されている。後から付け加えられた縫い目は粗く、刺繍の様に何重にも太い糸で枠線を縫い合わせられてある。
そんな急造の代物で体を守れるのか疑問に思ったヴァンだったが、浮き袋の話より潜水していた自身を見つけたエグザムの血統が気になって仕方ない。
「しかし俺が気付く前に見つかるとはな 名を聞いた時は驚いたよ いったい血染めに何を与えれば そこまで五感を強化できるんだ もしかしたら何か有益な情報を教えれるかもしれないから 少しだけでもいいから血染めの事を教えてくれよ」
革靴や羽織と腰巾着からある程度水気を抜いたヴァン。暗く濁った湿地に臆する事無く、エグザムの前を歩く。しかし英雄の遺物を前にして何時までも冷静ではいられないようだ。
「俺の血染めはホウキを守った狩人や戦士達が纏っていた例の遺物とは違う 肯定的に言えば模倣した探索具 否定的に言えば中途半端な模造品か 話に聞いた空を飛べる翼や溶岩に耐えうる鎧と言った代物よりも どちらかと言えば肉体を造りかえる繭と説明するのが正しい」
繭と言う単語を聞いて立ち止まったヴァン。振り返りエグザムの鉄爪の先端から頭の鉄帽を何度も見返すと、突然笑い出してガスマスク越しに変な声を響かせ始めた。
血染めの詳細は代々秘密にされているので、装着者以外で知る者は歴代の長老と祭司長くらいだろう。その事をわざわざ考慮して説明してやったエグザムは、手に持つ旧式長銃の銃口をゆっくりと持ち上げる。
「静かにしろ 蟲の羽音が聞こえる 何かの群れが近付いてるようだ」
後頭部に冷たい凶器の穴を感じ取ったヴァンはエグザムが忠告を発する前に口を閉じていた。そしてエグザムの言葉どおり薄暗い霧が立ち込める低地に、森をざわつかせる不穏な羽音が反響し始める。
「この音は四羽甲蟲の羽音だな 大丈夫だエグザム あいつ等は基本的に群れて飛んで来るが攻撃しなければ襲ってこない それにあいつ等が見ている景色は俺達の世界より色彩が薄いらしい この霧では上から俺達を見つけるのは無理だろうよ」
エグザムに身の安全を告げたヴァンはそのまま湿地の細い道を歩いて行く。エグザムは長銃を小さい背嚢脇に差し込んでから、周囲を警戒しながらヴァンを追った。
それから十分ほど遠回りに迂回して湿地を突破した二人は、高台と成っている巨大な遺跡の正方形状の足場にまで辿り着いた。足場は四メートル程の高台だった。周辺に散らばる無数の崩れた残骸に張り巡らされた天空樹の根を伝って、さらに探索街の外壁と同じくらい高い根を昇っている。
「今は先客が居るから上では長居出来ないだろけど 此処からもう少し登れば霧の上に出られる 主根の基部に地下へ降りられる縦穴が在るから 蟲に噛まれる前にそこまで一気に駆け抜けられれば問題無い」
ヴァンは四羽甲蟲が餌や羽休めに天空樹へ頻繁訪れている事実を伝えた。まだ姿を見た事は無いエグザム。しかし手記にはしっかり記載されている固有種、既に天空樹の樹皮は体長一メートル程の蟲に覆われていると察する。
「俺が知る情報だとあいつ等は甘い樹液を好むらしい 天空樹は見たところ森の擬似植物のお仲間のようだが わざわざ蟲を寄せ付ける餌か何かを与えているのか」
本当に羽根を休めているとは思えない程に上が騒がしい。しかし耳栓と吸着布のお蔭で虫唾が走りそうな不快感は無かった。
「昔 狩人の誰かが高い枝の天辺まで登ったんだ その時に齧られた天空樹の樹皮から赤い樹液の塊を持ち帰ったんだけど 舐めると物凄く甘くて 舐めた奴の舌がしばらく直らなかったらしい そいつは蟲の丘で採れる紫琥珀よりも甘いと言っていたそうだ」
根なのか枝なのか判らない細い何かが太い根の表面に絡まっている。その一種の縄にも見える枯れた蔦に足を掛け、虫の様に次の蔦まで飛び上がったエグザム。杭が刺さらないほど硬く弾性に優れた天空樹の根もあと少し上れば終わる。
(垂直の崖をよじ登るよりかは何倍も楽だ。それよりもこの蔦は天空樹を構成する一部なのかもしれない。あれだけ色々な植物と融合した様な樹皮だ、さぞ硬いんだろう。)
再び上の蔦へと飛び上がったエグザム。見慣れた霧の白い風景が一瞬にして様変わりし、突如明るくなった世界へ自然と振り返ってしまう。
(遠くから見た時より高い。低地が少しだけ擂り鉢状に傾斜して見える。霧の奔流に流されてからまだ一時間も経ってないのに、随分長い道を歩かされたな。)
命綱など不要とばかりに腕の力だけで蔦植物の網を一気に上るエグザム。少しだけ下界を眺めていた間に、上を先行しているヴァンと距離が離れてしまっていた。
天空樹の根は太い主根と細い側根で構成されている。湿地と化した水没した遺跡群の鉢で肥大成長を続けた結果、湿地内の全域に複雑な地下茎を張り巡らせるに至った。肥大成長とは人間に例えるなら二次以降の成長で、ようするに細胞分裂に必要な栄養を与え続ければ巨大化すると言う事だ。
「まだ根元だというのにかなり高い だいたい四十メートルくらいか」
今や巨大化した天空樹は汚染水に水没した旧時代の遺跡を足場として必要としていないかもしれない。主根の下部先端は地下二百メートルの作業区画に到達している場合、赤い山から流出した汚染物質や有害物質の大半を吸収し終えた筈。
エグザムは垂直に垂れた根を上り終え、基部の構造物に刻まれた亀裂の前まで辿り着いた。やや黄ばんだ高さ三メートル程の壁には天空樹の若い根や蔦が至る所の亀裂や窓枠から伸びている。断絶海岸内の孤島に在った遺跡の壁と腐食具合が似ていて、やはり付着した微粒子や何等かの成分が変質しているようだ。
「こっちだエグザム この中で霧が晴れるまで休憩しよう」
ゼルは既に亀裂の中に入っており、手だけをのぞかせて手招きの合図を送っている。エグザムは真上に天空樹に目もくれず一目散に亀裂内へ飛び込んだ。
天空樹の湿地内には危険な軟体生物が生息しており、時には天空樹を自力で上って蟲や獣を捕食するらしい。その話を巨大樹の森側で聞いていたエグザムにとって厄介な相手だと認識していた。
「やけに寒いな 遺跡内は何処もこうなのか まるで冷蔵設備に閉じ込められた気分だ」
室内は宿の個室よりは広く、家畜の餌を保管した納屋より狭い。床には雨水が流れた痕がしっかりと残っており、堆積物が固着した床には大理石の如く滑らかだった頃の面影は無い。
「火を熾すと煙で蟲が騒ぐから諦めろ それより例の湿地ダコの件だが」
ヴァンは例の危険な軟体生物について詳細を話し始めた。
湿地ダコと呼ばれる軟体生物は一般的に海に生息する軟体生物のタコと同じ存在だ。有史以来海の民や沿海地方の食文化を支えた貴重なタンパク源だが、起源が同じでも秘境の様な環境で変移した珍しいタコと言える。
「確かに内陸の人間には煙たがれる見た目だよな 墨吐くから厄介だが焼いて食うと上手いんだぞ」
エグザムは旋風谷の海岸で素潜りをして多数の海産物を獲った記憶を漁る。夏場には気温が四十度近くまで上昇する連合南部の沿岸沿いは、陸地内の保護された自然環境によって海の生態系が豊富な漁場として知られている。
「見れば解かる 名前だけ似ているだけでそのタコとは全くの別物だから 特に壁や根に擬態している時は大抵眠ってるから 知らずに近付くと溶解液を吐かれる たぶん俺達の装備でも数分しか耐えれない その時は迷わず水に飛び込め 汚染されてるが成分が溶解液を中和してくれる」
ヴァンの供述を基に湿地ダコの生態を纏めると、他のタコと違って水中と陸上に対応した二種類の活動携帯が最も特徴的だ。体長は数十センチから三メートル半。長い捕食腕を含めると体長の三倍程度の全長を有す大型の水棲獣。本物のタコより筋肉繊維が発達していて、高度な柔軟性を失った代わりに吸盤の吸着力と陸上での活動能力が高い。
「水中から弱った翼獣を水に引き込んだり 低地に落ちたヘラジカの足にしがみ付いて引っ張り合いをしていたのを見た事が有る 恐らく腕に巻かれたら顎で噛み千切られる前に装備ごと砕かれると思う それに外側の擬態膜は紙やすりの様な表面だ 迂闊に素手で触れると生皮が剥がれ落ちるかもしれない」
そしてヴァンは真剣な表情でエグザムを見つめ、再度飛び道具が有効な相手ではないと忠告した。
「ああ 軟体生物特有の噛み応えは巨大化すると繊維装甲と化すんだろ 緋色金も内臓まで届く前に潰れて防がれるだろう 俺は手を出さんから好きに調理してやれ」
エグザムは尻の密着服が濡れて緩やかに体温が逃げていく感覚を嫌いたったまま休んでいる。天空樹から放出された熱気により再び大気が大きく動き始めるその時まで、狩人にしか解からない暇つぶしの方法について語る事にした。
四羽甲蟲。甲殻種の鎧蟲や角蟲と同じく、小さい獣や植物の体液を啜る中型の甲殻種。名前のとうり四つの羽根を交互に素早く羽ばたかせ、群れごと餌場を転々と飛び回る神の園の固有種。基本的に体色は赤と黒の二種だが、大きな群れには数匹だけ違う色の個体も確認されている。
丁度ヴァンの懐に有る懐中時計が九時五十分を指し示す頃、エグザムとヴァンは朽ちた植物片や枠組みの瓦礫が散乱する人工石材の階段を登っている。低地に低く流れ込んでいた霧が大気の変動が始まって上空へと吸い上げられており、周囲は風に流された霧に再び覆われようとしている。
エグザムはヴァンの数段下を登りながら上を見上げた。
(もう天空樹の先端まで霧が届いている頃だろう。蟲達はこの汚染物質の霧にも耐性があるようだ。赤い山の南側は沿岸部まで汚染環境が強い。南盆地まで飛ぶ種にとってはこの程度の汚染源に耐えれられなければ、他の生存領域を探しに他所へ移るしかない。)
流れる水の量を調節する為に構築された階段式の用水路の様な階段。その一種の要塞として機能しそうな壁に付着している様々な堆積物の中には、明らかに真新しい物も有った。
「なあヴァンよ 蟲の排泄物が多いが獣の糞も有るぞ ヘラジカも此処まで来ているのか」
雨季の大量の雨水によって定期的に堆積物が除去されている階段。構造上では、表層の人が通る道は排水路として機能するように設計されている。上の階に溜まった雨水を数箇所の階段へ集めて流す為に、階段の両側は一メートル程の人口石材の壁によって遮られている訳だ。
「その糞はおそらくミカヅチの落し物と思う あいつ等は基本的に山で暮らしているけど 餌に困れば縄張りに入った他の翼獣や蟲を襲って食うらしい 最近は冬の断食期間明けに少ない餌を探して森まで下りて来ている事が多い もしかしたら山腹に新しい巣でも在るかもね」
エグザムは壁の手摺表面に付着した泥の様な糞の数を数え始めた。
(古いのは匂いで判るから数えないとして。この真上に天空樹の長い枝が在ると考えると、だいたい五回は翼獣の群れが来ている事になる。白爺の手記によればミカヅチは肉食性だったはず。神の園だと少ないかもしれんが、旋風谷の五色怪鳥だとこの飛来数は縄張りの範囲内だ。)
その後に階段が太い柱を軸に螺旋状に構築された登り道を駆け上がり、ようやく遺跡の最上部に到達したエグザムとヴァン。上に上がるにつれて激しく吹いていた風が急に穏やかに変わったと思ったていたら、いつの間にか視界が晴れていた。
エグザムは巨大な幹の中心に開いた裂け目を背にし、低地の南側を見渡しながら湿地を眺めていた。
「霧が晴れたら水棲獣が湿地に出てくるらしい 命の血を受け継いだ龍は俺の熱視が通用する相手だろうか」
そう呟くとヴァンの元へと小走りに近寄るエグザム。霧が晴れるほぼ同時に止んだ羽根の音が気になって仕方がない。
巨大な二つの枝を生やす枝分れ部分の幹。遺跡の構造物を柱に肥大成長した植物らしく、かつて鉄塔の様な構造物が在った天空樹の内部は、今や地下へ続く闇の穴を大きな縦穴が隠しているようにも見えた。
エグザムとヴァンは裂け目のやや奥まで続いている途切れた足場から穴の奥を見下ろし、下の地下空洞へ降りれる方法を考えている。
「他に遺跡から下へ降りられる道は無いのか 此処から降りるには縄が足りない もう飛び下りるくらいしか方法が無いぞ」
エグザムの言うとおり天空樹を構成する様々な植物の幹が重なった内部は、まるで無数の絞め殺しの樹が少ない日差しを求めて競り合いながら成長して形成された構造をしている。
天空樹は元となった植物が汚染物質に晒され、遺伝子暴走を起こした挙句肥大化した唯一の固有種。同時にこれまで見てきた様々な擬似植物や巨大樹の元となる存在だと、根から伸びた若い蔦の葉を見れば一目瞭然だろう。
「狩人で此処から下に降りた奴は居ないんだ だから俺たちが初めてになる それよりもエグザム 俗に言う樹滑りと言う遊びを経験した事はあるか なんでも遥か南の砂漠地方に在る本物の巨大樹で毎年レースが開催されてるらしいけど 勿論秘境育ちなら小さい頃に樹を滑って遊んだりしてるよな」
エグザムは肩をつかまれヴァンが指差した方向に見える縦穴内の壁を張り巡る絞め殺しらしき幹を見つめた。
「流石にそこまで行動派じゃないんだが 滑ったのは精々雪が積もった山肌とか渓流に流れる川の岩肌くらいだ 本気で言ってるのかヴァン 地形が解からない滝つぼに飛び降りる方がまだマシだぞ」
その言葉にヴァンは大層驚いたらしく、一歩だけ離れて戸惑いの声を口に出す。どうやら自分より長く秘境で狩りをしていた亜人が、まさか流行の遊戯どころか樹滑りも知らない世間知らずだと思っていなかったらしい。
「外の世界では隠れ里とか言われてるけど 俺でも国によって秘境がどう思われているかは知ってるぜ いいかエグザム 俺達が居る秘境は文明圏では危険な場所だけじゃなくあらゆる可能性を秘めた場所なんだ 砂や雪が永遠と広がる大地だとか 絶えず煙を吐く火山が溶岩を垂れ流すだけの場所でも魅惑的に見えるそうだ とにかく此処で無駄話をしてる暇は無いから 勇気を出して滑ってみろよ」
日の光が僅かに入り込む亀裂内の縦穴に張り巡らされた絞め殺しの樹。ヴァンの言うとおり樹皮は滑らかで滑り易そうだが、例え螺旋状に伸びている樹の根元が地下に在ったとしても躊躇する高さにかわりない。
今にも崩れそうな人工石材の太い柱が突き出ている場所の直ぐ下が飛び出し位置らしい。ヴァンは嫌がるエグザムを強引に押してその場所に立たせ、樹滑りを楽しむための要点を教えた。
「解かったかエグザム 樹に吸い付く様に滑りながら流れに身を任せるんだ そうすれば自然と体が滑り落ちて行く 何事も経験するべきだろ 俺も後ろから滑るから楽しんで来いっ」
ヴァンは言い終わる前にエグザムを背後から蹴って強引に樹の上部に立たせた。照明具の反応液すら準備する間も無く危険な遊戯が始まり、傾いた樹皮の上で重心が崩れないよう足掻くエグザムの戦いが始まった。
「待て待て待てまて」
言葉とは間逆で傾斜に従い体が勝手に樹の表面を滑って行く。まるで体が初めから理解しているかのように、適度な角度で開いた足と膝が小刻みに動く。エグザムはヴァンの言葉どおり体勢を維持するだけに集中して、日差しが届かない暗い穴の中へと下りて行く。
(この体勢では反応容器の蓋を開けるのも無理だ。はやく、速く下まで辿り着けば良いが。)
重心を崩す恐れのある僅かな挙動さえ出来ない中、少しづつ加速していく滑走速度と比例して周囲の視界も暗くなる。エグザムはガスマスク越しに、視界を熱視による白と黒と赤の単調な景色に切り替えた。
(十分見えるぞ。何度も能力を使ったから目が適応している。)
入り口の亀裂穴から見た光景が永遠と続いているような感覚に、エグザムは入り口との距離を目で測ろうと上を見上げようとした。
「おぉ うぉおうおぅ」
視界を傾けただけで腰が前後に激しく揺れ、意識せずとも両手を小刻みに回転させ重心を維持しようとする。体が獣の本能に従い身を守っている訳だが、まだ不慣れなエグザムに状況を客観的に捉える余力など無い。
(危ない危ない危ない。これは遊びどうこうと言うより、危険な状況を楽しむ為の娯楽と同じだ。白爺が生きてたら絶対秘密にしなきゃ成らん事態だ!)
数秒か十数秒にも感じ取れる間の気付かないうちに、体の半分が縦穴中央へ傾いている事に気付いたエグザム。体勢を戻そうにも体に掛かる遠心力に逆らうと足を踏み外す可能性が有り、簡単に止まれる手段が思い浮かばない。
「ヴァァン 止まる方法は無いのかぁ」
エグザムは腹筋に意識を集中させていたので、思いのほか大きな声を出してしまった。足の鉄爪が柔らかい樹皮を削っている様な音が耳から離れず、エグザムはもう一度ヴァンへ声を届けようと大きく息を吸った。
「止まるなエグザム 今止まると俺まで巻き込まれる」
ヴァンは上の幹を滑っていると思っていたら、なんと直ぐ背後から返事が返ってきた。今更振り返って重心を崩すのも癪に障るので、エグザムは仕方なく滑走に身を任せて前方のやや下方に視線を釘付けにする。
(まだ下は真っ暗のままだ。外の根には若い枝や蔦が生えていたのに、この樹の樹皮は予想以上に滑らかだ。汚染物質で成長してなかったら今頃柱として木造家屋に利用されていただろう。)
皮肉な考えを思いつき心の中で笑っていたエグザム。雪山の斜面を板で滑走するより速い速度で滑走している事に気付く。
(もう止まらねぇ。何かあったらヴァンを盾にしよう。今更殺した狩人が一人や二人増えたところで大した差は無いしな。)
その時真っ暗なままだった視界に白い均一な平面が現れた。それは温度が低く熱を発しない物質を意味していて、氷や不純物が少ない水のような分子構造が単純な物質の塊でもある。
エグザムは少しだけ頭を前に傾けると、樹滑りの終着点が均一な平面に接してない事に気付く。どうやら地下深くは階段を上る過程でヴァンに説明されたとうり、人工的な構造の地下空洞が存在しているようだ。
「ヴァン聞こえるか 減速しろ このままじゃ仲良く汚れた水に落ちてしまう」
エグザムのくぐもった悲鳴の様な警告の後、ヴァンは短い合図を送ってから指示どうり減速を始めた。すると闇の中で背後から聞こえて来る摩擦音がどんどん遠ざかりはじめ、エグザムは派手に樹皮を削って体を背後に倒し減速を始める。
結論から言えば二人は無事に樹から落ちずに停止した。そのまま砕かれた人工石材の瓦礫が積み重なる小山を下り、熱視により見えていた水と思しき物質が存在する地下の下層へ降りた。
エグザムとヴァンは見えない状態でも難なく照明具に光を灯す。それまで手探りの範囲しか認知出来なかった視界が急激に広がり、緑と黄色の淡い合成光が白い壁と透明な水を照らした。
「これは凄いな 間違いなく天空樹の主根だよ これだけ太いと白株だけで数年分は有るね」
下りて来た瓦礫の山は天空樹の主根に抉られ盛り上がった壁の一部でもあり、ヴァンの言う地下茎野菜の根頭の表面にも見えた。白い主根表面はそれほどまでに艶やかで、近付いて見ると大量の水滴と少量の雨水が表面を流れ落ちているのが解かる。
免疫に自信があるヴァンはガスマスクをつけておらず、エグザムが盛り上がった人工石材と主根との間を調べ始めている間、隣で味見がてら水滴や表面を流れる水を舐めていた。
「只の水だ 湧き水のような苦味が全く無い 俺が聞いた狩人の話とは違う」
ヴァンの感想に記憶にも残らないほどあっさりとした相槌を送ったエグザム。壁の残骸と思しき二十センチ以上ある瓦礫の断片に付着した白い何かを発見する。
(こいつは人口水晶体が経年劣化で水に溶けた溶媒と似ている。あれは汚染物質の中でも有害指定されてない珍しい分子結合体らしいが、この白濁した蝋みたいな物はどうかな。)
謎の材質を如何なる技術を用い何の為に造られたのかも解からない。塗料のような白い何か触れようともせず、エグザムは探索者として手記の余白にそれを書き残す事にした。