三章前半
三章「英雄の少女と古代兵器」
崖沿いに巡らされた山道を登ったエグザムは、崖際の展望台から岩山の尾根に等間隔で灯された篝火を見つめているゼルを発見した。
(ここは人里から離れた場所だが他の場所と様子がおかしい。ゼルは話し声を聞かれると不味いからここを選んだのか?)
野戦服に身を包むもその無防備な背中は周囲の岩と同じでまったく動く気配が無い。エグザムは一歩ずつ慎重に歩を進めながらゼルの背後をとろうとしたが、既にエグザムに気付いていたゼルは振り返ると懐のポケットから懐中時計を取り出した。
「只今二週目の二日 午前三時を七分経過したところです すごいですね 私がここに来てからまだ三分も経ってませんよ」
その口調は明らかにエグザムが追いかけて来る事を知っていたようで、エグザムは無防備なゼルの背後に飛びかかろうと身を屈めたままの体勢で硬直してしまった。
「昨日の昼間にロウ長老と一緒にその血染めの事を話しましたよね 百年前にホウキの戦士達が獣の力を宿して戦いに使用した遺物を再生した品だと ですから私はエグザム様の能力を見極める為に貴方を試しました どうですかその新しい体は 今まで感じた事の無い生命の躍動を感じるのでは」
エグザムはゼルの口から発せられた生命の躍動などと言う抽象的で似つかわしくない言葉を鼻で笑う。
「確かに走っている間は本物の獣に成った感じだった 頭だけが元のままで首裏辺りに違和感を感じるがな」
そう言いながら首筋を右手で擦り新たな感触に戸惑うエグザム。まるで毛に覆われた首筋を前足で掻き毟る小動物の様な姿に見える。両手足の爪先まで完全に特殊な繊維の布に覆われているにも係わらず、手の触覚が何時の間にか戻っていたのに気付いた。
「侵食菌糸が皮膜下の神経細胞に達したので手の触覚が戻ったのですよ 元は鉱物を食べる微細生物の集合体でしたが 寄生型の植物粘菌と掛け合わせて我々が生み出した特殊な繊維に癒着させました 無論体から茸が生えてくることはありませんのでご安心を」
エグザムは己の頬に手の甲を擦り付けて熱の伝わり具合を確める。幼児の頃から布団や柔らかい布の繊維を肌と擦り合わせて感触を楽しむのが大好きなのだ。
「まあいい それより何故こんな場所まで俺を連れ出した 随分長い階段がまだ先まで続いていようだが この先に見せたい物でも在るのか」
現在位置は隠れ里「ホウキ」を一望できる窪地北東側の外壁頂上。ゼルが眺めていた暗い地上と対照的に、更に東の斜面へ続く荒削りの石階段は松明で淡く照らされている。
「そうです この先の制限区域 里では聖域と呼ばれている場所に貴方を連れて来るよう頼まれましたから」
そう言うとゼルはエグザムに自身の後を付いて来るよう促すと口を閉じて階段を登り始めた。エグザムは呼び掛けても一切返答しないゼルに不信を増大させたが、溶岩が固まったままの岩肌が階段に現れると状況を察する。
(この辺りはもう獣や狩人の狩場なのか。里と獣の領域を隔てる物なんて無いに等しい環境だ。)
階段を一歩づつ登りながら周囲を警戒し始めたエグザム。強化された己の聴覚が普段から聞き慣れない音を拾い戸惑いつつ状況を推測していると、これまで当たり前の様に持ち歩いていた相棒の存在を思い出した。
エグザムは再び無防備なゼルの上着を見つめ口を開けようとしたが、此処で今更取りに戻ると言い出してもゼルが聞き入れるか判らない。今この場で獣に襲われた場合、頼りになるのは人の姿に近い亜人の肉体だけだった。
結論から言えばエグザムの心配は杞憂に終わった。確かに里の周囲は危険な害獣の生息域なので付近に守護役の戦士が必ず常駐している。しかし斜面を切り開いた耕作地や倉庫街の一部が周囲の岩山にも在り、武装した見張り役の農耕民が最後の壁として獣の侵入を監視している。
そうとは知らず聞き耳を立てながら階段を登っていると、これまで感じた事のない謎の違和感に襲われ歩みを一時的に止めた。
(痙攣、いや違う。筋肉ではなく皮膚が振動している。)
エグザムは己の右手を見つめながら手の握り開きを繰り返す。分厚い血染めを纏っている弊害で関節の動作が少し阻害されているものの、血染めの侵食による感覚の希薄化以外に異常は感じれなかった。何時までも立ち止まっている訳にいかず、エグザムは右足の筋肉に力をいれ再び長い石階段を登り始める。その動作を繰り返しても体表の振動以外に異常は感じれず、大きく離れてしまったゼルとの距離を縮めようと階段を大きく跳躍した。
しばらく石階段を登っていると油皿に灯された炎で一際明るく照らされた石階段が現れた。その石階段は今までの岩を削って造られた階段と違い煉瓦や立方体に削られた石灰岩で築かれている。岩の階段を登り終えゼルの左隣で立ち止まったエグザムは、平たく造成された岩山の頂上に在る謎の建造物を見上げる。
「聖域なら神殿と言うべきか 遺跡とは明らかに構造が違うが 何故立ち止まっているのだゼルよ」
エグザムの真横で立ち止まっている代理人は普段と様子が違い、珍しく表情を曇らせて何等かの考え事をしている。ただ時間が過ぎるだけで不信を限界まで募らせたエグザムはゼルの肩を揺し行動を促そうとした。
【突然の事ですが狩人の戦士よ その物はその場に立たせておいて独りで階段を進みなさい 私は貴方を歓迎します】
唐突に何処からとも無く聞こえた言葉に驚いて周囲を見回すエグザム。物言わぬ代理人の脇に腕を入れて持ち上げると。沈黙した盾を闇夜にかざした。
【それは私が干渉したので暫らく動きません それよりもそれをそこらに置いて階段を進みなさい 詳細は口答で説明します】
再び前触れも無く聞こえた言葉にとうとうエグザムの不信が限界を超えてしまう。エグザムはゼルを神殿の土台とを仕切る壁に無造作に立て掛けると石階段を駆け上がり、夜空に暗い影を投影した三角屋根の謎の建造物の敷地内に踏み入れる。
【あらためて狩人の戦士よ 祭司本殿にようこそ】
岩肌に設置された松明の淡い灯りと違い、急に開かれた金属製の重厚な扉の先は昼間と錯覚するほど眩しかった。エグザムは急に自身を照らした室内灯の灯りに驚き、咄嗟に左腕で視界の大半を覆い隠す。
(この光。まさか蛍光灯が有るのか?)
夜目に慣れた獣の目に人工の太陽光はとても眩しく映る。そんな状態のエグザムは入り口から噴き出てくる生暖かい空気に包まれながらゆっくりとした足取りで入り口をくぐった。
謎の言葉が告げた祭司本殿内はイナバ三世内で復旧したばかりの探索組合本部、エグザムが所属する神の園調査団が占有している地下施設と似たような内装をしている。エグザムは石材と漆喰で均一に平面化された無機質な玄関を土足のまま通り、建物内へ唯一通じている直線廊下へと進む。
(四隅だけ板張りだ。おそらく其処に空調設備と照明用の配管が通っているはず。しかし秘境の遺跡を再利用している様に見えない。現地生産は流石に無理だろうし、どこからか現代的な設備を運んだのだろう。)
エグザムは一直線状の廊下を突き当りまで進み、目の前の白い扉に反射した自らの虚像と相対した。
「誰だこれ」
扉の表面に反射した廊下の壁や床が血染めの白さと同化していて、自らの体が影となり周囲と浮いた頭だけが不自然に微笑んでいる。重装備を着用したまま秘境に住み、背中と腰を占有するほどの荷物を背負って探索するのが当たり前の狩人にとって、無数の力瘤が関節から隆起している裸に近い状態は、やはり非弱で無防備な弱者にしか見えない。
ご丁寧に矢印で開閉方向を示してあった扉を押し開けると、十メートル以上後方の最初の扉が閉まり始める。しかしエグザムは扉をくぐり取っ手から手を離した直後であったので、くぐったばかりの扉と入り口の扉が同時に閉まった事に気付けなかった。
「はじめまして狩人の戦士エグザム 私が貴方をここへ連れて来るよう命じた張本人 祭司長のノアと申します」
エグザムは面会室と思しき室内をくまなく観察する。部屋は自体は宿の個室程度の広さだが、調度品や何等かの装飾すら飾られていない無機質な空間で、二つの木製椅子のうち片方に座る人物の存在感が際立っていた。
「作法に疎い身ゆえ名前だけですが 狩人の探索者として招待されましたエグザムと申します」
長く鮮やかな薄紅色の髪と白い地肌をもつ女性。薄衣を何枚も縫い重ねただろう大きな衣装には見たこと無い複数の紋章が施されている。何より額には調査団の副団長と同じ紋様が浮かんでおり、瞳の色も同じ赤色だった。
「役目を果した我等の遺産を再び目にするのはなんとも複雑な気分です さぁどうぞお座り下さい この部屋は外部に音を洩らさないよう出来ていますので 普段どおりの口調でも構いません」
エグザムは促されたとおり椅子に腰掛け背もたれに白い身を預けた。そして多くの疑問を整理するために必要な時間を稼ぐ為、用件を聞こうとあえて手短に答えた。
「里の掟や制度は既に長老から直接伝えられたと聞き及んでいます なのでまず始めに 私の詳しい自己紹介と祭司長の役目について話しましょう」
人間ならば二十代後半から三十代前後、背は隠れ里の住人の例に漏れず高い。エグザムは目線の高さが殆んど同じ相手の赤い目を見てから考え事を一旦止めることにした。
「里の秩序を支える三つの公職の中で 里と神の園で起きた様々な事象を観測し記録するのが祭司の務めです 全員合わせても百名足らずの最も少ない公職ですが 代々様々な行事や慣わしを執り行ってきました」
祭司とは本来時間を計測する専門集団であり、古来から大陸中で天体を元に気象や時間の概念を計測してきた。隠れ里の祭司長もその例に漏れず、現在も里の運営に必要な様々な情報を統括している。
「しかしそれらは全て表向きの活動で 私の本来の役目は神の巫女として現在も機能している遺跡の維持と保存を使命としています」
祭司長のノアは一呼吸はさむと、ホウキを維持している全ての遺跡を一つずつ紹介し始めた。
「貴方に住居が提供された場所に地下水汲み上げ用の吸水塔がありますよね あの吸水塔は浄化機能を有す古代の遺跡の一つで 聖柩塔の支援により改修され使用されています 入り口は貴方の住居沿いに在る石畳の道を辿れば見つかるので 興味が有れば族長から鍵を借りてください」
祭司長は舌が乾きそうな勢いで他の遺跡について説明を続ける。一方、ただ黙って聞いているエグザムは遺跡と言う単語聞いた時点で、これから自身も深く関わる可能性が有る話だと気付く。
(しかし秘境の奥地で現在も稼動している古代遺跡が在るとはな。しかし白爺の手記にそんな情報は無かったが、ゼルの言葉を鵜呑みにすれば当の本人は確実にこの里へ辿り着いたはず。もう少し真面目に白爺の自慢話を聞くべきだったか。)
エグザムの一喜一憂を他所にノアは務めを果そうと話し続ける。遺跡についての案内もいよいよ佳境に差し掛かろうとしていた。
「今まで話した遺跡は現在 重要管理物件として管理区の長が監督しています ですがこれから話す遺跡はこの里で最も重要な存在なので私含め少数の配下が直接監視下に置いています」
ノアは長い髪を結わえた部分に手をかざし、複数の髪飾りから一つの鍵付き櫛を引き抜いた。
「昨日 代理人が里の一部を案内したはずなのでもうお気づきでしょう 里 いえこの街には文明の利器である導力炉が存在します ただしその導力炉は現在の文明圏で使用されている小型で持ち運びが容易な簡用式ではありません 大半が地中に埋没した古代建造物の一部であり おそらく導力技術が普及する以前の 世界最古の導力炉と言えば理解できますか」
そう言うとノアは立ち上がりエグザムへ鍵付きの櫛を手渡した。エグザムには手元の古い鍵が何の鍵か推測できても、手渡された理由までは解らない。
「我等 祭司を司る代々の長はこの鍵と動力炉を受け継ぐ為に存在しています この額の紋様を発現させた幼子は例外無く修練の過程に進み 多くの知識を受け継げるよう最善を尽くさねば成りません 今から貴方にはその理由を含め 代々秘匿された真実をお見せしましょう」
椅子から離れ部屋奥の扉を開たノアはエグザムに見せたい物が在るようだった。開いた扉から流れて来た生暖かい空気と、鼓膜を振動させる微かな重低音に気付いたエグザム。促されたままに立ち上がると足早に通路の闇に消えた。
導力炉。現代において広義的には発電装置を意味している。由来は統一暦以前の科学や文明が衰退途上にあった頃に流行った想像上の革新的装置。単純に燃料を燃焼させて内燃機関を可動させる蒸気機関を元に発達し、昨今では電磁誘導と分子分解作用を統合させた推進装置など、文明を動かすありとあらゆる派生型が存在する。経済文明を象徴する失われた錬金術の集大成だ。
体を動かすだけで汗ばむ額、吐く息は時折短くなり呼吸も荒い。血染めの侵食が皮下脂肪まで達し血流に異常が発生したのかと歩きながら分析するエグザム。応接室からさらに奥へ歩み続けてからすでに十分近く経過しており、角を曲がり新たな扉をくぐる度に減る照明の数と光量により自身の現在位置を見失っている。
そんな状況でも同じ速度で歩むノアに対し、エグザムは何度目かの不信と淡い期待から来る疑問を投げ掛けてみる事にした。
「祭司長 目的地までまだ長いようなら今ここで 代理人を気絶させる干渉方法とあの言葉について教えてくれないか」
その問いにノアは何も答えない。口を動かすより足を動かす事に没頭していたいのか、会話自体は既に成立しているので耳が聞こえないはずも無い。意図的に無視されたと判断したエグザムにはノアの姿が黙々と階段を登ったゼルの後ろ姿と重なったので、今度は手をのばしてノアの左肩を掴み歩みを強制停止させる。
「ゆっくりと体を反転させて俺の問いに答えろ それさえ出来ないのならこの鍵は返すが 此処で選べ」
肩を掴まれ驚いたのか体を硬直させたノアにエグザムは生物としての気配を確認した。それでも直ぐに行動に移さないノアにある疑念を重い浮かべたエグザムは、肩から手を離すと自らノアの前に立ち位置を移す。
(どうやら俺の不調の原因は血染めだけでは無いらしい。しかし今ここで助けを求めても無駄に終わるかもな。)
目を瞑ったままエグザムを見返すノアの額は薄っすらと汗ばんでいて、頬赤らめて吐く息も荒かった。秘境なら何かしらの病原性疾病に感染していても何ら不思議でないが、生憎血染め以外何も持たない素っ裸同然のエグザムでは手の施しようがなかった。
「今から医者の所にお前を運ぶ 生憎俺には道が分らないから案内はお前に頼むぞ いいか絶対意識を手放すなよ」
言葉を発しながらノアを運ぼうと細い腰に素早く片腕を回したエグザム。患者を運ぶ為には背負わなければならず、一度自身の方へノアの体を倒そうと力を入れようとした。
「折角ですが私は病気持ちでも気弱体質でもありません 直ぐに返答できない理由が有りますから一旦離れて」
祭司長はエグザムの下から三歩下がると向きを変え背中を見せる。そして壁に左手を付けながら右手を自身の額に当てるとそのまま微動だに動かなくなった。
(紋様。いや、今確かにあの生体痕が赤く光った。どうやら目的地に着く前に例の秘密とやらを見てしまったな。とりあず今は待とう、実力行使はその後でも出来る。)
エグザムは平らで冷たい石の壁に立ったまま背中を預けると、時間潰しに腕を組んで体へ意識を集中させる。するとどうだろう、今まで体の何処かしらで疼いていた痺れが消えてゆくではないか。
(まるで扉を開け閉めするのと同じ感覚だな。歩いても立ち止まっていても筋肉は使う、先ほどより侵食が早まったのだろうか。となるとやはりこの通路に入ってから何等かの影響が血染めに作用したと考えるべきだ。)
エグザムは右手を広げ古めかしい鍵と櫛を見つめる。狩りで獣を射る太い杭と違い、髪飾りを固定する銀色の棒はとても真新しく見えた。
その後、僅かな休憩を済ませた両者は再び薄暗い通路を歩き出す。時に階段を下り分岐した通路を曲がって遠くまで進んでも、相変わらず通路は薄暗く空気が乾燥していて生暖かい。なにより窓が一切見当たらず、エグザムには天井や床の側壁に等間隔で設置された小さな格子戸を数えるくらいしか暇を潰す方法が無かった。
(どうやら定期的に何処からか振動が発せられている。配管を通って地下へ空気が送られているからか?)
何度も通って来た同一規格の扉の前で前を歩いていた祭司長が止まり、これまでと同様少し間を空けてから取っ手を掴んだ。エグザムはその動作に興味を示さずそれまで天井の通気口を見つめていたが、開いた扉の先から届く赤い光に気付き視線を扉の先に戻す。
(調査団本部の現像室と同じ照明を使っているのか?それに今までの通路より幅が広い、まるで別空間だな。)
やはり屋内用の扉にしては分厚い扉をくぐり、エグザムは赤色灯が照らす配管と何等かの機材が置かれた新たな通路に踏み込む。すると壁中の到る所から響いて来る様々な音に顔をしかめ、両手で耳を塞いだ。
(予想はしていたが此処まで酷いとはな。まるで生物の体内にいる様だ。)
通って来た通路を振り返り変貌振りを再確認しようと振り返った。すると扉が自ら動き入り口が閉じられよとしていたので、閉じ込められると判断したエグザムはあわてて扉を手で制止する。
「扉から手を離して そうしなければ先に進めませんので」
不快な異音の中でもはっきり聞こえるほど近い距離から発せられた声を聞き、エグザムは冷静さを取り戻して扉から手を離す。問題の自動的にゆっくりと閉じてゆく扉に複雑な仕掛けが施されている様には見えないが、エグザムは背後から流れて来る暖かい空気が開閉動作と何等かの関係が有るのだろうと推測した。
「環境が落ち着きましたので歩きながらこの遺跡について説明しましょう」
その声を聞いて再び振り返ったエグザムの目に、壁に設置された金属製の箱の前で前髪を持ち上げている祭司長の姿がいきなり映った。さらに祭司長の額の生体痕が淡く発光するのとほぼ同時に室内の明かりが青白い色に変わり、導力が途絶えた歯車の如く通路が静寂に包まれる。エグザムには通路内で何が起こったのか理解できなかった。しかし知的探究心を刺激するには十分過ぎる出来事で、謎の装置を納めた箱を閉じようとするノアの手首を掴んで中身を覗き込む。
「この類の遺物を見るのは初めてですか これは管理者用の認証装置です 遺跡内部は常に稼動しているので人には危険な場所も在ります こうして私の様な紋様化した生体痕が無ければ文字どおり遺跡に侵入できません」
大きく丸い外膜に保護された三重の凸レンズと無数の黒い穴。箱の中の認証装置とやらには操作用の端末や計器類が一切無く、箱から顔を離すエグザムの好奇心は何処かに掻き消えてしまった。そんなエグザムの心中を察してか、蓋を押し上げ端末を封印したノアが再び解説する。
「この遺跡 すなわち導力炉を管理する機構や端末は全て私に集中しています 私が知る限り 外の世界でこの技術は継承されていません なのでホウキに聖柩の代理人が接触してくるまで生体部品と言われる概念はこの里だけの存在でした」
祭司長は案内しながら通路の奥に歩きだした。追いすがるエグザムはこの遺跡に関するあらゆる情報を緑の手記へ遺そうか迷ったが、話の内容が導力炉の核心へ近付くにつれ迷い自体がどうでもよくなる。
「まだ統一暦が始まる以前 現在の暦換算で遡る事約六百年前までこの導力炉は放棄された遺跡として封印さされていました それまで先人達は神の座から持ち出した数々の遺産 探索業で言えば遺物を糧にこの大地で生き永らえていました」
青い照明に照らされた通路の突き当たりまで辿り着き、壁の前で立ち止まったまま目を閉じ口だけ動かすノア。真横でその様を観察しているエグザムには、相変わらず行動と発言が一致しない不可解な公職者に見えた。
「しかし獣が跋扈するこの土地で安住を得るのは不可能でした どれだけくぼ地を切り開き高い壁を築いても時が経てば朽ちて壊される その驚異的な獣の生態の前には 外世界で錬金術と言われた多くの技術や道具を用いても代償の方が大きかったはずです」
上半身を前に少しだけ倒せば額が壁と接触する間隔を保つ祭司長とエグザム。眼前の壁は照明の青い光に照らされている。なにより細かく荒い表面は人口石材と違い、見る者に触ると軟らかそうな感覚を感じさせる。
(おおよそ六百年前か。統一暦は今年で百五十年だから、前時代期の戦国時代真っ只中だな。)
統一暦換算で現代から遡る事おおよそ九百年前。世界は以降七百年ほど続く群雄割拠の戦国時代に突入した。人口爆発や食料と疫病危機が発端に始まった文明圏同士の争いと、秘境勢力の拡大による文明生存圏の縮小への抵抗戦争。まだ東西大陸間の大規模な交流が無い時代、惑星中の非秘境文明圏は闘争を国策の中心に用いていた。
「種族の苦境が重なったのでしょう 先人の狩人達の中から安住の土地を求めてホウキから去る者が出ました。代々継承した司祭長達の記録にも移住者の問題が度々登場します ですが結局その者達が求めた安住の地は何処にも在りませんでした 探索者でもある貴方は南盆地とその周辺の遺跡や住居跡を見て来た筈 私より直接目で見た貴方の方が詳しいのでは」
エグザムの脳裏で大地に埋もれようとしている人口石材の廃墟が映し出される。今や南から広がる湿地拡大の影響で多くの遺跡や廃墟の瓦礫が草木ごと埋没しようとしている謎の霧世界。他所から来た密猟者が幻想蝶の毒燐粉を吸って壊死し、獣や蟲の巣窟と化した湖畔遺跡群。隠居したタカから探索街の始まりの場所だと聞いていた廃墟の残骸には、もはやかつて栄華の残滓すら残ってなかった。
「祭司長としての意見を言えば当時のホウキに移住策は必須でした 蜜蝋蟲が次世代を分派し種族を存続するのと同じで 我々が種族として淘汰環境を生き残るには複数の可能性が必要です しかしホウキを棄て南に移住した者達の中から本来共有する筈の神の遺産を持ち出す輩がそのつど現れ 結果的にホウキの安全は脅かされ続けたのです」
エグザムは内心で「それが確執の始まりか」と呟き、何も答えてくれない壁を触ろうと冷たそうな謎の材質へ右手を伸ばすが、触れる直前に壁自体が少しだけ揺れると、まるで壁自体が意思を以て右手から逃げるかの如く奥へ遠ざかった。
「お 俺は触ってないぞ」
突然の事態にエグザムは数メートル奥に平行移動した突き当たりの壁を見つめたまま動けない。そのおかげで何時の間にか歩いて移動した祭司長の視線の意味を理解出来ない。
「私の隣へ 今日の炉は機嫌が悪く動きが不安定なので多少揺れますよ」
エグザムはとりあえず足を動かしノアの細い腕が指す場所で立ち止まった。すると両者を中心とした円状の溝が足元の床に現れると、僅かに揺れながら人が屈むような速度で床が下降し始める。
(これはいわゆる昇降台の一種だろう。ゴンドラと比べたらこの程度の揺れなど無いに等しい。ん?)
そのまま下降し続けるかと思われた昇降装置だったが、通路からエグザムの頭四つ分低い位置で停止してから天井が塞がれた。同時に照明が青から白い光に切り替わり円筒上の空間を明るく照らすと、白い天井や周囲の艶やかな壁と床にエグザムと祭司長の立ち姿が映し出される。
エグザムはその視界の変わり具合に驚き首を左右に何度も振る。そうすると白い壁に己の見っとも無い姿が投影されたので、平静を装い腕を組んで天井を見上げた。
「体内に侵入したのでこのまま下に降ります 神経質なので何度も触ると困ります」
ノアの忠告が終わるのと同時に、急激な加速度を伴う浮遊感が頭部の三半規管を襲う。当然方位感覚に優れるエグザムにしてみれば直立不動で自由落下している感覚に近く、隣のノアを見習って自身も目を瞑る事にした。
「立場上話せないので詳細を省きますが 結局ホウキも遺産の喪失を免れず 既に六百年前から貴重な土地と重要な施設だった幾つかの遺跡を失っています 以上がこの炉に火を入れる前のおおよその経緯です」
反射した光を鮮明に反射させている壁の材質に興味が湧いたものの、なかなか手を出せず祭司長の話を聞いていたエグザム。仕方なく長い浮遊感に浸りながら過去を精査していると、これまで見聞きした情報と食い違う部分に気付く。
「探索街のイナバ四世郊外で暮らしているこの里出身者から聞いたんだが 南盆地の遺跡群と住居跡を築いた連中は神の座とやらか もしくは最初の探索街から流れて来た者達だと聞いた 目の前の祭司長とあの鍛冶師 いったいどちらを信用すればいいんだ」
目を瞑りながら返答を待っていると、右隣から衣服が僅かに擦れる音と妙な視線を感じる。エグザムは瞼を開けてノアを見ると、わざわざ体の正面を自身に向けた祭司長と視線が噛み合う。
「あなたから見た隠れ里と言う概念は 残念ながら意思統一が成された存在ではないでしょう 現在も探索街を通して外世界から我々の存在を隠していますが これは神の座を部外者の手に渡さず正統な者へ託す為であり 我々の真の理想を成し遂げる為の環境創りの一環 貴方は自身の可能性を信じてください」
無表情で語られた噛み合わない会話を終えた両者は、沈黙を以て視線を決別させた。
(何かの巣穴をつついてしまった。おそらくこの里の政治絡みだろう。向こうはこの件でこれ以上話す気はないらしい。)
胸で組んでいた腕を後頭部で組み直したまま長い浮遊感に身を任せたエグザム。曲面の壁に浮かび上がった己の姿が少しづつ横に膨らむ様子を確認しながら、昇降機が止まるのを待った。
「間も無く最深部の安置室です 降りる際一時的に急減圧するので姿勢を楽にどうぞ」
たったの数秒後、祭司長の宣言どおり急激に空気が薄くなり耳鳴りが頭に響く。さらに円筒状の空間も変形しており、壁面に映った普段から険しいはずの狩人の目つきが一層歪む。エグザムは己の筋肉を強張らせ強引に肌と血染めの表面を密着させる。
(空間の体積を膨張させる以外に空気の空気を同時に抜いているのか。人間だったら肺胞が潰れて窒息するな。)
亜人でも堪らず膝を折りそうな状況でも、ノアは相変わらず無表情な顔で平然と瞼を閉じたまま微動だに動かない。そんな祭司長を流し目で観察しながらエグザムは、ノアに対する評価を里の住人から代理人の同類へと変更した。
明かりが消え体が上に引っ張られる感覚が無くなる。自然と足元に力が入り、慌てつつもしっかり前を見つめたエグザム。ノアが到着を告げても聞き流し、床からゆっくりとせり上がる壁の下から漏れる赤い光に唾を呑む。
「内部の空気組成は地上と若干違います もし不快感を感じるなら立ち止まって慣れるまで待ちましょう」
エグザムは膝から下から舞い上がる冷たい空気を鼻で吸い込み、壁が完全に上がる前に順応しようとする。祭司長の言うとおり鼻の粘膜が乾いて徐々に嗅覚が低下するが、同時に立ち込めるむせ返るような懐かしい匂いに気分が否応なく高昂ぶった。
「獣とは違うが人間の体液とも違う それに鉄を焼いたような焦げ臭さが有るが 香しい熟成された血の匂いだ」
壁が胸の高さまで上がったところで我慢できなくなったエグザム。前に踏み出し体を反らして壁をくぐると、暗い世界を赤く照らす存在を下から見上げた。
それは地下に在りながら広くて境が見渡せない水面に一部を沈めた巨大な亡骸。有機物なのか無機物なのか判別し辛そうな体表は殆んど朽ちているにも係わらず、部分的に残っている血管らしき配管が今も脈打っている。エグザムはその物体の生前の姿や本来の名を知らない。しかし多くの書物を読み挿絵で登場した様々な生物を記憶しているエグザムにとって、それは本来存在を許された生物ではなかった。
「破壊と創造の使者デウスーラ 北海の海神伝説に登場する古の神にそっくりだ」
その大きな巨体自体が光を発している所為で空間の全貌を把握できないが、天井から垂れた何本もの鎖と鋼線が背中と首に刺さった無数の杭を保持している。羽根の皮膜は破れ甲殻が残っている部分も少ないが、数多の神話上で龍と呼称される生物の造形で有る事に違いは無い。
巨大な亡骸に夢中なエグザムはさらに近くで見ようと水場へ傾斜した斜面を下ろうとする。しかし背後からノアに右手首を掴まれ体ごと引っ張られると、そのまま重心を逸らされ転んでしまった。
「ここの液体は全てアレから流れ出た体液 生命活動は止まっているが代謝機能の一部は生きていて上の浄化槽へと送られる 生物が触れるとそのまま細胞ごと解けて液体に不純物が混ざる 私に要らぬ手間を掛けさせるな」
眉間に皺を寄せた眉毛と髪が光を吸収して赤く染まっていて、今までの無表情な祭司長の面影は無い。エグザムは大きな胸の前で腕を組み仁王立ちしている変貌したノアに度肝をぬかした。
(ようやく本性を現したな生体部品め。やはり錬金生命体の類だったか。)
風が無いのになびく赤い長髪と太陽の様に輝く眼の虹彩。白に近い地肌は僅かに発光しているのか、ノアの輪郭が白く霞んでいる。神秘的な現象を前に体が物理的に振動し始め、エグザムは危険を感じ後方へ大きく飛び退く。
「結晶体が共鳴している まさか巨大獣 お前は何物だっ」
強張る体に気合を入れる為に放たれた怒声が、当人が想像したより遠くの壁まで響き渡った。一方、エグザムの魂の波動を感じた謎の覚醒存在。何かが興味を引いたようで頬を吊り上げ堂々とエグザムを鼻あざ笑う。
「つい先程私の名を口ずさんでおいて何だその様は 私はお前達の茶番に付き合う気など微塵も無い さっさと我が元に来て目的を果せ死神」
心の中で響きがよく気に入っていた別の名を、まるで役立たずのゴミを吐き捨てる様な物言いで告げられたエグザム。一瞬にして視界から赤以外の色が希薄化し、体度が急上昇して体表から白い湯気を立ち昇られる。
「怒りで血が暴走しているのに此処まで冷静で居られたのは初めてだデウスーラ どちらが本物の死神に相応しいかこの拳で試させてもらう」
全身白尽くめの死神は言葉を最後に爆発的な加速で拳を突き出すような暴挙に出ず、全身の筋肉を躍動させて相手の出方を窺った。
「狡賢い奴だ まぁたまには火遊びをしても良いだろ 炎の巫女よ」
邪魔そうな祭司服を脱ぎ捨てながらエグザムが待つ壁方向へ歩く伝説の死神。何処と無く白い宗教色を前面に押し出した威厳は脱ぎ去られ、四肢と胴を黒い密着服で覆い最低限の保護材を関節部に宛がった現代戦術用の野戦装束が現れる。何より自信たっぷりに張り付かせた笑みが獲物を見定めるように何度も瞬き煌く所為で、エグザムはノアが着痩せする体系だと後に理解する。
(水面から離れても変化無し。体は人間を元に変化しただけあって人の理から逸脱できないはず。どうちらも言葉で説明するのが面倒な性格なんだな。)
相対距離が十メートルまで縮んだ瞬間、エグザムは飛び掛る為の助走を始める。狙いは女性らしく華奢な腰と首のどちらかを強打するのみ。
大きく体を前のめりに倒しながら迫って来たエグザムに対し、デウスーラは木の葉が舞う様に後方へと宙返りしエグザムの攻撃範囲から抜け出た。さらに追撃して迫って来るエグザムの素早い殴打を左右に身を逸らして避ける。
(奴が光っているお蔭で俺の視界でもよく目立つぜ。生憎火遊びとやらに付き合うつもりは無い。)
エグザムは息を上げず体を翻し続ける人形の様な相手に対し、連続打撃以外の方法で有効打を与えようと考えを廻らす。なにせ相手はエグザムと同じ身長でも体は細い。一撃の重さはエグザムの方が圧倒的に有利だ。
(しかしあの薄い生地の服を何枚も重ね着したところで、あの大きな乳房を隠せるはずが無い。もし俺が胸や筋肉を自在に調整出来る異能を使えたのならどうする。わざわざ重心に影響する様な状態を維持する筈ない。)
回避してばかりのデウスーラはエグザムの攻勢がやや単調になった瞬間を狙い、エグザムが一歩を踏み出すのと同時に長い足を大きく蹴り上げる。
(速い!掴めるか。)
エグザムは咄嗟に己の上半身を前に傾けて、喉を狙った蹴り上げを胸板で防ごうとした。しかしエグザムが想像したより遥かにデウスーラの強打は強力で、体を捻って蹴り上げられた靴底の踵が衝突しただけで体が宙に持ち上がった。
(なんて力だ。首に当たっていたら衝撃だけで朦朧する。)
完全に地面から離れたエグザムへ自身も軽やかに飛びかかり更に距離を縮めるデウスーラ。鳩尾の大角膜を狙った膝蹴りが見事に命中するが、人と違う身体構造の亜人では急所の位置が個体ごとに違う。
「慢心したな元巨大獣」
エグザムはデウスーラが反撃して己の懐に飛び込んでくる瞬間を待っていた。空中でエグザムは己の左腕をノアの筋肉質な右膝に絡める様に回し、右手を最も手頃で掴み易そうな肥大化した左乳房を鷲掴みする。そのまま自身と相手の重心を支点の鳩尾を中心に左へ旋回させて、デウスーラの側頭部を固い地面に打ち付けた。
(呼吸は有る、気絶しているだけだ。結局、祭司長とはあの亡骸の主が乗り移る為の操り人形だったのか。本来脆いのに複雑な内蔵機能すら簡単に改造する獣因子。確かに古の巨大獣の様な規格外の存在なら可能な話だろう。)
血液が急激に冷え視界が徐々に色を取り戻す。目の前の足元で舌を出し唾液を垂らしながら白目を向いて仰向けで倒れている対戦相手が覚醒するのを待ちながら、エグザムは本来の目的である特殊な因子について情報を整理した。
「生体痕が遺伝子改造の跡ならこの目の様な額の幾何学模様は後天的な痣の一種 たったこれだけでは獣因子との関係を調べれないが とりあえずこいつの血を飲めば取り込めるのだろうか」
エグザムは血染め越しで胸元に埋め込まれたもと首飾りの結晶体を触る。紫色のそれを直接見るには頭と首を限界まで傾ける必要があったが、最初に変色したのは機械獣モドキの血液を浴びた時だったと思い出した。
(折角の機会だ。血染めがなにか吸収するかもしれない、やってみよう。)
気絶したデウスーラの隣に腰を下ろしたエグザムは、ノアの体が突如変異し発達した肉体を覆う黒い密着服の表面を撫でた。しかし右手が感じるのは筋肉が詰まっている硬い弾力だけで、触れた右手が変色してない事からその装束に巨大獣の素材は使われてないと判明した。
(そう言えば連合の督戦部隊で秘境専門の特殊部隊がこれと似たような装備を着用していたな。あの時一人くらい生かしておけば連合の裏世界について少しは勉強できただろうに。)
白爺に叱られた嫌な記憶を思い出しやや落胆するエグザム。以前と同様の方法で獣因子を取り込む事に決め、気絶しているデウスーラの後頭部を左手で少し持ち上げると、色素が鮮やかな赤色の髪を搔き分け出血の有無を確認する。
「皮膚は人と同じくらい柔らかいのに切り傷どころか痣すらない 普通ならたんこぶくらい出来るんだが 頑丈な奴だ」
エグザムは血の採取を諦め、首筋に手を入れだらしなく開いた口と瞼を閉じさせる。戦う前に自ら殺意を滾らせ決闘の啖呵を切ったものの、こうも簡単に相手が気絶してしまっては拍子抜けして面白みに欠ける展開だった。
「暇つぶしにこれまで戦ってきた血染めの戦士達は半刻も戦えば疲労で動かなくなる腑抜けしか居らんかった だから勘違いするな お前が勝てたのは私が慢心したからだ 次からは容赦しない本気で潰す」
単純に気道を確保しただけで直ぐ目を覚ましたデウスーラを見下ろしつつ、エグザムは自分の勝利を強調しながら同意の言葉を返した。すると返って来たのは文句でも物理的な反撃でもなく、弱々しいとある嘆願にエグザムは意味不明な顔で瞬きを繰り返す。
「なんだその目は いちいち気に食わない奴だなお前は もう一度言うぞ 私は力を解放した影響で暫らく動けんからこの無駄にでかい胸部を片方ずつ揉め そうすればお前に因子を渡す準備も整うしこの体も動く お前も男ならまたとない機会だ なにも恥らう必要もないし今の私には必要な事だ」
体が硬直して動けないのは事実らしく、揉むのを催促してか笑いながら手足を小刻みに震わすデウスーラ。揉んだ事があるのは白爺の硬化した肩や腰くらいしかないエグザムにとって、硬い粘土の如く硬直した筋肉を十分も揉み続ければ疲弊する苦しみを二度と経験したくなかった。
眉をひそめたエグザムは二つの残丘から目を逸らし己の右手を見つめる。握った時に空気が詰まった玉を握るような感触から、生物の乳房と構造自体まったくの別物だと想像できた。
「それを揉むのは面倒だ 空気入れと同じ様に直接足で踏むが構わないか」
結論から言えばその提案では現状復帰に時間が掛かると却下された。仕方なくエグザムは白爺と同じ方法で解決することに決め、デウスーラの下腹部に跨り両手を右胸に重ねて押し付け圧迫する。
「何故こんな面倒な 物を二つもぶら下げている 大部族団の砂漠地帯に水分を 溜め込む部位を持つ獣がいるらしいが わざわざ戦闘時に膨らませても邪魔なだけだろ」
直接圧迫してみると複数の筋肉質なバネの様な何かを押し込んでいる感触が右手一杯に伝わってきた。更に圧迫を繰り返すと掌に伝わる熱量がじわじわと高まっていき、エグザムは胸の奥の芯の部分が少しずつ膨らむ謎の感覚に戸惑う。
「あぁ気持ちいい この姿で胸の高まりを感じるのは初めてだ もう少し速めに揉め 久しぶりだから多少手荒でも問題無い」
口で言うとおり何度も体を揺さぶられるのが気持ちいいのか、デウスーラは紅潮した頬を弛緩させながらだらしなく言葉にならない曖昧な返事しか返さなかった。
それからエグザムは二十分近く左右の膨らみを交互に揉み続けた。白爺と違い何の縁も恩も無い相手に何故ここまで奉仕しなければならないのか理由を忘れ始めた時、唐突に双丘から吹き上がった謎の液体を大量に浴びて上半身を濡らしてしまった。
「おい何だこの白い液体は 妙に薬品臭いぞ」
エグザムは自身の両手にべっとりと付着した白い液体を舐め、獣肉を濃縮したかのような苦い味に驚き唾と一緒に吐き出した。
一方のデウスーラは何故か沈黙したまま真上を見上げ、光芒とした表情で背筋を痙攣させている。生殖能力を有する本物の男ならいざ知らず、何が起きているかまったく理解できないエグザム。大きなコブから吹き出てくる白い液体は乳液とは違い、どれだけ胸を圧迫して流出を止めようとしても効果が無い。
「なんだ まだ足りないのか お前も存外欲張りな奴だなエグザム 安心しろもう終わりだ ひとまず自分の胸を見てみろ」
その言葉の意味に気付きエグザムは己の胸部に嵌め込まれた結晶体を取り外す。
「どうだ破壊と想像の炎の色は そこいらの魔石や宝石より美しいだろ 実際は侵入した外敵を焼き払った浄化の色なんだが 今更お前に言っても無駄だな」
黒いに近い紫色だった四角い謎の結晶は今や、温かい熱を発する鮮やかな赤紫色に変色していた。
「お前には特別に血より濃厚な私の因子を授けた いずれはこの地上に存在するあらゆる極寒世界でも血の滾りが衰えないように成り 炎や灼熱の熱波に幾度炙られようと汗一滴流さず過ごせる日が来る これらの恩恵は我が因子 つまり私が継承した獣の力のごく一部でしかない はたしてお前は新たな私をどこまで使いこなせるかな」
デウスーラは言葉を締め括る様に腹の底から笑い始める。エグザムは何が面白いのかまったく想像できないその笑みへ視線を送ると、額の紋様が薄くなると同時にノアの肉体から強い白色の光があふれ出した。
(眩しい。離れないと目が焼けそうだ。)
エグザムは祭司長の下腹部から腰を上げるとそのまま数歩下がり、進行中のデウスーラの変調を観察する。
「もう限界か」
仰向けのまま動かないデウスーラが大きく息を吸い込むと同時に、出合った当初から長かった特徴的な赤い髪が時間を逆行させる如く短くなってゆく。さらに肌の色素も無機質な白さから健康的な乳白色の薄紅色に変わり、密着した合成布表面に浮き出た筋肉がまるで空気が抜けた様に萎み始める。
(肉体の色素どころか骨格自体が変化している様に見える。くそ、眩しくてこれ以上は無理か。)
ノアは黒い隠密系の装束を纏っている筈なのに、エグザムの目は全身から溢れる光に溺れそうになった。エグザムは右手を眼前にかざして目を保護したが、驚く事に瞼を閉じても淡い赤色の炎が視界で燻ぶっている。
(光の波長が体を透過している。結晶体を胸に填めてないのに此れだけの効果が有るのか。)
エグザムは眩しい光景を背にし、胸元の筐部に赤に近い赤紫色の宝石を填め込んだ。すると体の隅々まで確かな温かさが浸透してゆき、周囲の冷気がまったく気にならなくなった。
「これが噂の血染めの順応性 体と一体化している筈なのに違和感がある まるで生きている服を着ている気分だ」
胸の中央に巻かれた血染めの筐部から両手の爪先と足の爪先まで、全身に根を張るように赤く脈打つ謎の繊維が広まってゆく。そしてエグザムは変容する自身の体を隅々まで調べながら、何度も両手の赤い模様とを確める様に比較する。
(例の新たな因子を取り込んだのは間違いない。長老の話どおり、ようやく血染めが変化しだした。)
赤い染料を散らして汚したかの様な大小の斑点。胸の結晶体から供給された電気で発光する微細な生物と言うよりも、発光する物質そのものが凝集している様に見えた。
(生物は常に体内で弱い電流を発している。蟲や植物に発光する種が存在する以上、熱や微弱電流を媒介に定着した菌糸が何等かの波長を出しているに違いない。はたして俺の知識だけで御せる力だろうか?)
大いなる可能性と一抹の不安を抱えながら自身の変化と向き合うには、一体どれだけの時間と情報や労力が必要になるか。この時のエグザムは世界有数の錬金学府が本腰を入れる理由を始めて実感する。
「死神仲間以上に私達は同類なのだろうなエグザム 一緒に空の器を埋めあわないか」
何の前触れも無く耳元で囁かれ、突如わき腹から突き出た細い腕に胸をまさぐられた。エグザムは焦げ臭い空気の匂いから自身を遠ざけようとして、胸の結晶体へ伸びようとしていた黒い密着服に包まれた細い両腕を振り解こうとする。
「今度は何の心算だ 勝敗は決したはずだぞ」
しかし、細くても相手が獣の道を究めた存在ならそう簡単に振り解けはしない。エグザムは臍の上で両腕同士を硬く握り離そうとしない相手へ首だけ向ける。
「慌てるな お前にはまだ此処ですべき事が有る 左前方を見ろ あの湯気が目に入らんか」
背後から自らに問いかけるような青緑色の眼差しを送る表情に、胸を揉んでやったり格闘戦上で対面した時の厳しい眼差しは無い。里の住人や特定の亜人に見られる人間より大きな眼球がエグザムの獣目を捉えて放さず、艶やかな果実の様な黄赤色の髪が瞳の色と対照的に映えて見える。
(後ろ髪が逆立っている。もし耳がもう少し尖っていたら人狼ならぬ狼人の名が相応しい。)
エグザムはデウスーラの変貌振りに言葉を無くしたまま、言われたとおり光が届いているか妖しい暗闇の先へ目の焦点を合わせた。するとどうだろう。床や壁が暗さで影に包まれた曖昧な境界に、小波の様に揺れる炎の様な何かが見えるではないか。エグザムは何度も瞬きして視野を拡大させながら焦点を探ろうとし、暗い地面の先で揺れる無数の煙を認識した。
「やはりもう見えるのか 話しで聞いていたがお前はやはり獣の死神なんだな 昔の私だったら喰い殺されていたかもしれぬ なに 此れも選ばれし者の役目 一緒に湯に浸かりながら垢を落して体を癒そう」
エグザムは後ろから体を押されつつ謎の秘湯目指し足早に歩く。途中、背中に当たる誰かの肥大化した膨らみの所為で上半身が猫背となり歩きにくかった。
それから数分が経過し、両者は暗い空間で一際黄色く淡い光を発する大きな浴槽の縁で暖かい湯船に浸っている最中だ。
「風呂にしては途方も無く大きな浴槽だな 大樽一つで満足する俺には開放感が狂いそうだ」
地下空間の大半を占める液体で満たされた空間には、有機物をあっという間に分解する液体の貯蔵槽以外に、一区画だけ薄められた液体にお湯を混ぜた区画が存在している。この場所は本来、入浴とは別の用途で使用されるはずの場所だと、湯船に胸まで浸かるエグザムの隣で体を伸ばすデウスーラが喋り始めた。
「この体は寿命が尽きればただ灰に成ってしまう 当然器を失えば私も消滅してしまうが そうならないように新たな体へ因子ごと引っ越す必要がある この浴槽はその準備をする為の禊場なのだが かつて血染めの戦士たにも解放した事がある」
エグザムは湯気に包まれた発光する赤黄色の湯船に顔を近付けると、両手ですくった湯で顔を洗う。
「血染めが肉体を浸食すると古い細胞が菌糸の老廃物と共に衣の表面へ排出される 地肌なら擦れば問題無いが血染めだと溜まりやすい だからこうして湯船に浸かり排出を手助けしてやる必要がある 湯が肌に染みるだろ 今のお前は内側から少しづつ変わりつつある 代理人や長老が見ればそれだけで驚くだろうが 真に驚くべきはお前の順応の早さだ」
肌に溶液が付着すると同時に泡立ち、細かい粒子が角質の隙間に入り込む。特殊な処理を施した熱湯と混ぜられ希釈された湯船には、体の汚れを落すだけでなく血染め本来の性質を活性化する成分も含まれている。エグザムは自身が溶かされるような錯覚を楽しみながらデウスーラの説明に耳を傾けた。
「炎の民たち あぁ お前から見れば里の住人だが 祭司長の正体が古の血統種だと知る者は居ない 今は導力炉の管理者と言うより祭司連中を束ねる頂きの存在だと崇められている どうせ数日と経たずこの湯に浸かる事になるだろうが 上では祭司長として扱ってくれ その方が巫女の機嫌を損ねずに済む」
エグザムはちらりと右隣へ視線を向け、湯船に浮かぶ大きな乳房を観察する。黒い密着服は直ぐ傍で湯船に沈んだ籠の中に保管してあり、元祭司長の体を隠す衣類はなにも無い。なによりエグザムと間逆の細い体に長い足が、あたかも健康的かつ理想的な理想検体として赤黄色の液体に沈んでいる様に見えた。
(どう見ても雌の体だな。彫刻家や肖像画家が見たら絶句しそうだ。それにしてもあの膨らみを維持する必要があるのだろうか?)
額に在った筈の赤い紋様は消えたまま、火照った肌が水滴を弾いている。おまけに肌の発光現象が消えていて、地肌の大半が波打つ溶液の光を投影している。
「炎の民か 確かに存在していそうでも聞かない名前だな 以前 代理人から里の住人が古代人の子孫だと聞いた 古代人と言ったら空の上に住んでいたとか別の星から来た一族だの色々な伝説が有るが ホウキの歴史に似たような話は無いのか」
エグザムの問いに対しデウスーラは微笑むだけで何も言わない。第三者から見ればその表情からは面白そうな秘密を隠す子供の様な無邪気さを窺える。しかし、血みどろの対人経験ばかり育んだエグザムにとって、その笑みが何を意味しているのか謎のままだ。
エグザムがもう一度確めようと口を開いた瞬間、デウスーラは水面下の壁を蹴ると湯船の沖合へ泳いで行く。不思議な事にあの体格に見合わず水の抵抗を殆んど受けないようで、息継ぎをせず魚の如くそのまま光る水底の深部に消えてしまった。
(尾びれや水かきも無いのに体を少し曲げるだけであんなに速く泳げるものか。おそらく因子により何等かの能力を独自に開花させたのだろう。幾ら年数が違うとは言え、俺も真似したら出来るように成るかもしれない。)
エグザムは思考の最後に羨ましいと吐露した。何故ならこの死神は体が重すぎて密度が濃い海ですら沈む陸上生物だからだ。湯船に適した温度と言えど誤って足を段差から踏み外せば、即座に淡く黄色い光を発する希釈された溶解液の人工池奥底へ沈む。
(あの頃の肺活量が健在なら三分は潜っていられる。浮上用の潜水具が有れば下りれる筈。)
無味な思考を巡らせ爪先から少し離れた段差の縁を水面越しに見下ろしていると、足元の深層壁から無数の泡と共に何かの影が現れる。影は瞬く間に人の頭部の頭髪へと姿を変え、目の前の水面に黄色い髪を濡らして纏わせた雌型の死神が顔を出した。
「何故追って来ない お前は噂の真相を確めたいのだろ せっかくすぐ底に答えが在るのに何故尻込みする」
手足を水かきの様に動かして水面に浮かぶ相手に、疑惑と好奇心が入り混じった青緑色の目で睨まれたエグザム。時として役立つ沈黙が通用しない相手だと悟り、己の弱点の一つを愚痴るように告白した。
「そうかぁ 泳げなかったのか クッハハハハハッ それではアレを見る事も叶わぬな ハッハハハハッ」
浮かびながら声を張り上げ盛大に笑うデウスーラに眉をひそめるエグザム。相手は己の手が届きそうで届かぬ絶妙な位置で高笑いしているので、己の無力さを痛感しながら腹立たしい笑い声に耐えるしか無かった。
海神伝説。起源は暗黒期の東方大陸中央と北方海域について数多くの資料を基に執筆された歴史参考書。人々の生活や交易が海を基盤に成り立っていた時代背景を元に、何物かが独自の解釈を多用し様々な登場人物を一つの群像劇に纏めた一冊の伝記本。
原作者不明で複製されたが、複製技術が全て職人の手に頼っていた時代に複写と転写を繰り返し、いつしか解説と考察で更に分厚く成った。前時代期中頃の戦火や禁書焼に遭い数を減らし現存している数は少ない。
登ってきた階段を独りで下りながら里の歴史について考えているエグザム。足元を見下ろすついでに下界の里を見渡し、僅かな月明かりに照らされた盆地に点在する幾つかの遺跡を見比べる。
(文明の戦争史と違い、秘境には秘境の歴史が有る。オルガが何を見てきたのか知らんが、俺より神の園の正体に心当たりがあるらしい。白爺はこの里で何をしたのだろうか?)
エグザムは顔を上げ、薄い雲の切れ目から時折姿を出す白き月を睨んだ。
「あの場所でだいたい二時間と数十分程度過ごしていたようだ あの液体に浸かってからやけに体が軽い ゼルを探すのをやめて夜の里を歩き観よう」
相変わらず松明の炎が照らす岩場の階段は淡く薄暗い。文明圏ではそろそろ夏を迎える頃合なのに、大陸北方に位置する神の園の空気は乾いたままだ。しかし今のエグザムにとって周囲の寒さは、血を求め体を動かそうとする闘争欲求を落ち着かせるのに丁度良かった。エグザムはそのまま足早に階段を駆け下りると、あっという間にゼルが佇んで居た高台に辿り着いた。
「話し相手に手間取りましたか 火事場から出るまで随分遅かったですね おかげで待ちくたびれましたよ」
登って来た時と同じ場所に佇んでいるゼルに何も言い返せないエグザム。知らない単語を聞いた所為か、それとも珍しく油断していて代理人に驚いたのかは不明だ。エグザムはすこしだけ沈黙した後、色々な疑問を口に出し始める。
「まさかあんな風に気絶するとは思わなかった お前達代理人とはいったい何なんだ この里 いやホウキについても俺が知らない事がまだまだ有るのは理解した このまま例の因子を探すにしても 現状では方法が限られているとしか言えないな」
エグザムは組織が神の園について知り得た情報の全てを要求した。本人の言うとおり不慣れな地で満足な狩など出来る筈が無い。そこで私は胸元で淡く輝く宝石に免じ、今の彼に最も適した鍵を与える事にした。
「例の手記に情報が載ってないのなら私から言うほかありませんね まず初めにこの秘境神の園は存続の危機を迎えています 深刻な順に並べるとまず外界由来の生物汚染と域内生物による生態系の変容 今度は様々な遺跡や遺構の崩壊 最後に古の時代に滅んだ筈の巨大獣が復活する兆候です 我々はこのホウキと関係を結んだ百年以上前から神の園を調査観察してきましたが 元々ホウキは貴方が先程対面した火事場の長により統治された隠れ里 共通語で言う閉鎖都市の一部でした」
前時代の初期まで赤い山の遺跡群は都市として機能していた。その都市は、当時のどの地上文明にも存在しない様々な古代技術によって維持され、現代の文明でも成しえない豊かな生活水準を誇っていたのだろう。そして赤い山に埋没した廃墟や山中の遺跡で暮らしていた古代人は、階級により分散した生活圏を形成していた。現在の隠れ里ホウキの三公職とよく似た支配基盤を纏める上位の支配者が複数存在しており、現在の帝国を支配している階級構造と政治体制が似ている。
「貴方は探検家の先代から大陸史について教わったはず 僅かに残った数千年前の遺産を巡り最後の争奪戦が繰り広げられていた当時 外界と隔絶した園の古代都市でも重大な危機が発生したようです」
世界中のあらゆる情報を数値化した統計と参考資料。なにより統一暦以前に赤い山を探索した探索者達が持ち帰った遺物を調べれると、古代都市の都市機能を損なう致命的な事態が発生した事実が判明した。
「古代都市はこの里の物とは比較にならない程巨大な導力機関により維持されていた様で 我々はこの存在を箱舟と呼称しました その箱舟は数千年の昔に失われ伝説と成った旧時代の遺物ですから 一度でも壊れてしまっては直す術がありません 後はご想像の通りですね」
私はエグザムの表情を確めゼルの口をいったん閉じた。経験則から言えば、これ以上話せば目の前の死神が何をしでかすか予想出来ない。銀河紛争を経て変移した傭兵の遺伝子は、やはり存在しているだけでも兵器として扱わないと。
「成る程ようやく理解できたぞ つまり俺は生物導力炉の後始末をするために秘境へ生み落とされた訳か お前達が先代の白爺を紛争地域に潜入させたのと大差無い理由だな」
エグザムは獣の様に喉を鳴らし鳥のように胸を膨らませ笑った。その今にも銃の引き金を引く剣幕に懐かしさと忘れてしまった何かを感じる。正直に言えばあまり思い出したくない。
「まぁ俺は誰かと違い差し伸べられた手を切り落とす様な真似はしないさ それより神の園について話すべき事が残っているだろ まさか俺を失望させるだけでは足らず 人モドキ一匹を崖から突き落とす面倒事が望みか」
エグザムは歩きながら間合いを詰め、有無を言わせずゼルから更なる情報を引き出そうとする。獣目は闇夜に浮かぶ小さな月を彷彿とさせていて、少しだけ赤みがかっていた。
「では神の園探索戦力の今後の動向と次の命の血の在り処を教えましょう それと先代の遺品整理の話もしなければ成りませんが 些か時間が掛かりますけど此処で済ませますか」
火事場。隠れ里にて祭司長が管理する動力炉の通り名。古の巨大生物が抜け殻と共に安置されているが、エグザムや代理人含めても詳細を知る者はごく僅か。
赤い山の山頂。正確には剥げて岩場が露出している尾根から登る太陽の光を全身に浴びているエグザム。盆地中央の残丘頂上に在る遺跡の天辺で寝転がり、白い衣の隅々まで太陽光を当てようと寝返りを繰り返す。
纏ってからたった一晩明かしただけで繊維同士が完全に癒着し、包帯を巻いた独特な線は見る影も無く消えていた。
「血染めを着てから一度も生理欲求を感じないし食欲も湧かない 老廃物を血管伝いに吸っている筈だが 因子の調子さえ良ければ今日中に狩を再開するぞぉ」
大きな欠伸を吐きながらだらしなく横たえた体を伸ばすエグザム。ふと胸へ視線を傾ければ、光を反射させる結晶体の輝きが朝日と共に視界を独り占めしている。光の波長が滑らかな結晶体の表面で変化しているのか、それともエグザムの獣目が赤い光を無意識に無効化しているのだろう。胸元の筐体から取り外した四角い青紫色の結晶体は、薄黄色い朝日を反射させ蒼く輝いて見えた。
エグザムが素材や加工原理不明の魔石を観察していると、下の方から自身を呼ぶゼルの叫び声に気付く。
「本日は里の案内なのでくれぐれも自衛具と探索具を忘れずに それから午前七時までに下の広場へ下りてくださいね」
上半身を起こし結晶体を胸の溝に戻したエグザム。少し伸びた短めの髪を何度か触ると、身支度を始める為に遺跡の吸水塔から真下の貯水池目掛け頭から飛び込んだ。当然の事ながら生活用水より溢れた雨水や河川用の調整池を兼ねる緑色の水面に水柱が立ち、何かしらの目的で栽培している水草が水面で揺れる。
水深四メートル程度の人工池に三十メートル以上の高さから飛び降りれば、当然体を水底の岩に打ちつけて怪我をする。しかし何事も無くゆっくりと浮かび上がったエグザムを確認しただけでゼルは何も言わず立ち去った。
この遺跡周辺だけは周囲の街並みから隔絶している。単に平地に残された高台だからではない。どちらかと言えば古代の人口石材で築かれた遺跡と無数の給水塔が城の如く聳え立つ古城に近い。
残丘の斜面は斜めに突き出た幾つかの針葉樹と蔓草の天幕で覆われており、斜面を削り整備された坂道は下の街からは見えない。なにより今も地下水を汲み上げる滑車を動かす遺跡の導力は、滝の様な音を立てて稼動し里の方々へ生活用水水を送り続けている。
太陽が直接里を隅々まで照らすまでまだ数時間掛かる七時前。残丘周囲に整備された用水路に架かる石橋を渡り終え、エグザムは名も知らぬ狩人の石像を据えた水場を兼ねる広場に下り立った。だが朝早く街並みは山の陰に隠れていて暗い。肌寒さと風習の所為か通りを歩く住人の姿は無く、広場には冷たい水を飲む放し飼いにされた四足の狩猟生物しか居ない。
「あの野郎 何処にも居ねえじゃねぇか 今度は姿を眩ませた案内役を探せと言うことか」
久しぶりに纏った深緑色の探索具が獣の戦士としての象徴を隠し、体を動かすと同化し痩せた体と衣服の隙間に空気が入り込む。勿論エグザムは自衛具として持ち込んだツルマキや長銃も含め、ほぼ全ての装備を纏い完全武装している。よって動かなければ体温が外に逃げださない。エグザムは探索者風の運び屋を装い、水場に置かれた長椅子代わりの石に腰を下ろして休むことにした。
すると大して間をおかず、水場で戯れていた四匹の狩猟生物の一匹がエグザムに近付き足元の匂いを嗅ぎ始める。その生物は手持ちの手記や探索組合内に張られた張り紙に描かれたある獣と酷似しており、獣の家畜化が里でも行われている判り易い証拠だった。
「森狼の子供か どうした そんなに青苔の匂いが気になるのか」
エグザムの声に反応してか、頭上の尖った八つの耳が一斉に声の主へ向きを変えた。目の前の足元から自身を見上げる獣の目は典型的な肉食獣の特徴と言え、エグザムは目と目の感覚が狭い二対の茶色い獣目に懐かしさと親近感を感じる。
エグザムは暇つぶしに腹の備品入れの一つの紐を解き、中からすり潰した植物由来の青い粉末がたっぷり入った硬質瓶を取り出した。
「この粉末を燃やすか擦り込んで乾かすと鼻が壊れそうなくらい刺激的な臭いを発する 一つまみだけで蟲を気絶させる劇薬だぞ」
樹脂を塗り込み巻いて丸めた栓をほんの少し緩めると、すぐに手元から濃厚な清涼感を纏う刺激が溢れ始める。だが気温や湿度の差により微粒子が想像したより多く飛散してしまい、互いの網膜や鼻の粘膜に付着して涙と鼻水が溢れてしまった。
エグザムと森狼が水場で慌ただしく顔を洗っていたら背後にある通りから広場へ何物かが歩いて来る足音が聞こえた。その足音は硬い下敷きを踏み鳴らす高めの音で獣の類とは違う。エグザムは充血した獣目で振り返ると、背後の石畳で立ち止まり自身を見つめる独りの少女が居た。
「あんたがエグザム 私はウシブナ ゼルさんの代わりに案内を頼まれたからよろしく」
黒土色の毛皮コートで膝から上を完全に包み隠した装いは、吐く息の白さを強調している。頭部を覆うコートの風防により黒い前髪と顔の表情しか露出していないが、里の住人の象徴である黄色の生体痕が鼻頭を跨いで両頬まで伸びている。
鼻を分厚い手袋で覆いながら簡単な挨拶を返したエグザム。己より頭一つ分低い位置に有る幼顔を見て、ついつい少女に対し年齢を質問してしまった。
「今は十三 三期後には十四になる 外から来た者は子供を見ると年を聞きたがると聞いたけど やっぱりみんな背が高いから珍しいの」
エグザムは素直に珍しいと答えた。なにせ近場の文明圏でも百五十センチ近い身長の十三歳児は少ない。エグザムが知る限り、連合内の人型種族で早熟型は南西の沿岸諸島民族くらいだ。
「今回の案内について確認の為に聞く 俺は稼地熱炉として稼動しているの遺跡の見学を要望した ゼルの話では幾つかは里の外に在るそうだが その装備で大丈夫か」
焦げ茶色の分厚い毛皮の外套で体を隠しているとは言え、毛皮の下に何かしらの自衛具を所持しているようには見えなかった。里の外は地理的に崖の上の荒地や雑木林を指している。戦士達が獣の侵入を監視しているとは言え、戦いに不慣れな者が立ち入れる場所ではない。
しかしウシブナは不安そうな表情を一切せず、それどころか自信満々に四匹の森狼の子供を指差した。
「この子達が居るから大丈夫 それに丁度これから食材と餌を獲りに行くんだ ゼルさんは長老に何かの用事で連れて行かれたから 近くに居た私が案内する事になったの」
ウシブナは息継ぎする間も無く短い口笛を一回だけ鳴らした。すると水場でくつろいでいた森狼達が一斉にウシブナを見つめ、手招きした少女の足元に駆け寄って来る。
「俺が聞いた話では お前の黄紋は畜民として区別されていて 南側のくぼ地畑付近に住んでいると聞いた 何故狩人達の真似事をしているのだ そもそも」
エグザムは通りを東へ歩きだしたウシブナに質問しながら、そもそもゼルが少女に重要な役目を担わせた理由を問いたざす。
「最近 獣達が頻繁に境界を越えて作物を荒らし回っているおかげで 戦士達も山へ狩り出されて守りが手薄になっているんだ 戦える技士連中も壁や要衝の守りで忙しい 私達畜民も自分の身くらい自分で守らないと生きていけないよ」
里の現状を長老のロウから聞いているエグザムだったが、まさか戦いや狩に不慣れな者が本当に獣の界隈を行き来している現状に言葉を失った。旋風谷やイナバ四世周辺でさえ飢えた獣が跋扈している秘境世界において、外部から救援すらない奥地の只中で機能不全に陥った集落がどうなるか簡単に想像できた。
「そ そんなに驚く事なの 心配しなくても備蓄なら数年分有るし 食い物なんて山や川で幾らでも獲れるから ずいぶん昔に南の海まで総出で狩に出かけた事もあるんだよ」
ウシブナの表情は朝から晴れやかだ。何より後ろをついて来る森狼達は口から涎を垂らしており、よそ者のエグザムから見ても、一行が狩で何度も山へ分け入っている事が窺えた。
それから新たな仲間を加えた一行は家々が並ぶ東の段地を登り、二十分程度で東側の境界である石壁の門へと到着した。
(近くで見ると大きいな。探索街の城壁とは違い岩場にそのまま岩を置いてある。この辺りは数年周期で地震が発生するらしいが、やはり崩れる度に造り直しているのだろうな。)
里を守る最後の壁は大小様々な岩を隙間無く重ねた大きな石垣の壁だ。高さは場所によって六メートルに届き、西の赤い山から昇った太陽に照らされ陽光を眩しいくらい反射させている。
(外側は全て斜面になっている。この川含め里を守る為に土を盛って高台を造成したのか。)
川に架かる石橋を渡った一行は遠方で重なって見える山々の稜線を左に見渡しつつ、川沿いの畦道を北へ歩いて行く。流石に里の外では聞こえてくる蟲や獣の鳴き声は甲高い。音だけで正確な距離と個体を識別するのはエグザムでも困難だった。
(獣笛を持ってくるべきだった。最近使ってなかったがこの里周辺なら活用できる。)
畦道は様々な雑草に覆われていて整備された探索道とは程遠いが、高台自体が川の堰堤として南北に延びており周囲を遠くまで見渡せる。なにより左側の景色大半を占める東の森境とは十分な距離が保たれていて、秘境特有の成長が早い高草が斜面で大繁殖していても視界の障害にはならなかった。
「ウシブナ 獣の餌は何処で調達するのだ まさか獣が襲って来るまでこの道を歩き続ける気か」
未成熟の森狼が狩りを行う様子を見てみたいエグザム。本心を隠しながら四匹の様子を見に振り返った。
「ここの斜面には獣除けの帰化植物が植えてあるから森の獣は寄って来れないんだ 本来は北の下層農場で放し飼いにした家畜用の飼料も兼ねてるけど 最近の森の様子を怖がって家畜が此処まで来なくて困ってる」
帰化植物と言う単語が何を意味しているのか直ぐには理解出来なかったエグザム。土手沿いのなだらかな斜面に自生している高草の一つ一つへ目を凝らすと、見知った秘境でも見た事が無い種類の植物が混じっているではないか。
(森狼達が急に大人しくなって驚いたが、獣を警戒していた訳ではないのか。しかし汚染された土地で文明の花が咲くとはな。つまらん。)
歩きながら足元の名も知らぬ雑草を舐めたり匂いを嗅いでいる森狼。数匹がエグザムの視線に気付いても、興味がないのかまったく反応を示さない。エグザムは歩きながら道の先まで続く川と堰堤の道の先を見つめ、山々の影でまだ見えぬ目的地の遺跡を思い浮かべた。
「ねぇエグザム 此処に来る前は別の秘境で暮らしてたんでしょ せっかくだから外世界の事や面白い身の上話が有れば話してよ」
そう言うとウシブナは足を進めながら後ろのエグザムへ振り返った。案内役の少女は遠方の山々を眺めるエグザム以上に暇を持て余していたようだ。一方、期待の眼差しを送ってくる相手にどう対応しようか悩むエグザム。少しの間だけ閉じた唇を不自然に動かし咥内を唾液で湿らせる。
「一年前まで南部の秘境で秘境管理者と一緒に暮らしていたが もともと俺は産みの親を知らない秘境に棄てられた亜人の子供だった 今もそうだが 赤子の時にもこの獣のような目つきと体が人目を引きやすかったのだろう あの地域では珍しい事例なのか俺を拾った奴が育ての親に託したんだが これが運が良いのか悪かったのか未だに判らない 俺の記憶では引き取られて直ぐ小間遣いの真似事をさせられ 直ぐに秘境管理の責務を担うようになった」
エグザムは一年前まで信じていた偽りの出自を明かすと、立て続けに旋風谷の世情と暮らしについて簡略化して説明した。
「なるほど 口調がやけに爺くさいのは育ての親の影響だった訳か それでエグザムはその人を何故白爺と呼んだのだ」
語尾を強調させ自身と似たような口調で問われた問いに対し、エグザムは無表情のまま長い髪と髭が白かったからだと答えた。
「白爺は死ぬまで己の名を誰にも明かさなかった だから俺も育ての親の名を知らない 死体はあの地の何処かに埋葬されたか 誰かの手で灰を撒かれて草木の養分に成ったのだろうな もし旅立つのが数期遅れていたら面倒な手続きやゴミ部屋の整理をしていただろう」
エグザムは喋るのを止め、急に前を向いたウシブナの後姿を観察する。
(己も何時かは死ぬというのに、見ず知らずの他人の死を悲しむ余裕が有る。その終わりが何時訪れても珍しくないこの地で長老達が理想とする未来は実現するのだろうか? 一つだけ言えるのは、今の世の中におて秘境は何処も世知辛く生き難い場所だ。今なら秘境を旅して周った白爺の苦悩も理解できる。)
会話が止まり再び獣の雄叫びが場を支配したので、エグザムは背嚢脇に担いでいたツルマキを右手に持ち、分厚い板バネを展開し鋼線の張りを調節し始める。
「ウシブナ この森狼達は亜人や人と似た生態の獣を狩った事はあるか」
ウシブナは唐突な質問に対し戸惑うも、餌にするのは小型の獣や木の実だと返答し再び振り返った。すると何時の間にか手が届く距離まで接近していたエグザムに驚き顔を見上げる。
「これから忙しくなるだろうから今のうちにこれを渡しておく 案内の礼に貰ってくれ」
エグザムが右手に握っていたのは先端を尖らせただけの鋼鉄の棒だった。ウシブナは謝礼に送られたその金属棒を手に取りエグザムと交互に見返したが、贈り物の正体と贈り主の真意が解らない。するとエグザムが一回り大きなクロスボウを強調するよう近づけたので、ウシブナはようやく手に持つ謎の棒が何だか理解した。
「こんな太いものが刺さったら十二支達でも血を見るよ それも含めてイナバの技士が作ったの」
エグザムは手渡した杭と指されたツルマキについて簡単に紹介を済ませ、ウシブナが口ずさんだ干支について情報を要求した。
「干支とはね ずっと古い世代の神の獣を意味する古代語なんだって 統一語だと暗黒期の時代に分かれた神の血筋を継承している獣らしい ホウキの近くだと斑牛や長耳の様な群れる獣や 単独で行動するヘラジカと毛玉だったり最近下層農場で見かける飛猿あたりがそう呼ばれてる そう言えばこの子達と同じ血縁の山犬も神の座から下りて来てるらしいから」
西の赤い山から流れて来る風が一行を通り越し石垣の外壁に当たる。すると壁に遮られ気流が乱れた所為で会話がつむじ風に遮られた。そこでエグザムはふと西の空を見上げ南から北へ移動する雲の一団を観察する。
「最近晴れてたから雨季は過ぎたと思ったんだけど 向こうに着く前にずぶ濡れは勘弁してほしい」
愚痴を言い終える前に走り出したウシブナに続き、四匹の小さな森狼達もエグザムが振り向く前にその場から走り去ってしまう。エグザムは飼い主を通り越して畦道を独走する森狼に追い着こうと、爪先から腹と背まで全ての筋肉を使い雑草を蹴り潰した。
森狼。ホウキで飼われている山犬の亜種。黒色系で土色の毛皮と黒い瞳は山犬とは違い、成体の大きさも大きく劣る比較的非弱な獣。長らく家畜として飼われた所為で山犬と比べ聴覚と視覚が劣っているが、味覚と嗅覚だけは野生種より発達している。
無数の煙突から出る蒸気煙は曇天の雲より白く湿っている。川の上流沿いの狭い裾野は水耕栽培地に適しているのか、それらはまるで書籍に登場する南国風景と酷似している。エグザムは斜面の崖に渡された古めかしい板橋を渡りながら、右手下方に広がる谷間の異様さに目をそらせなかった。
「驚いたでしょ 植えてある植物は全部家畜用の飼料で葉や茎も食べれるように品種改良された品種なんだって たしか南では米と呼んでいるらしいね 私達は食べないけど家畜 そう言えば外の世界では家畜と益獣に分けてたか」
ウシブナは一つ目の橋を渡り終えたばかりなのに、崖の斜面に打ち付けられた吊橋の支柱に体を預け額の汗を拭いている。高所恐怖症なのか、歩くたびに板を軋ませるエグザムに怯えて説明が覚束無い様子だ。
「下層農場に居る家畜は草竜と星鼠に男爵鳥 聖柩塔が百年以上前に貴族連合の各地から取り寄せた益獣を飼ってる 勿論農場も兼ねているんだけど大半は地下で栽培されてるから 地上の畑は全部試験用の畑として使ってる ほら渡って」
エグザムが板橋を渡り終えると、ウシブナは小さな高台の反対側に架かった頑丈そうな吊橋に森狼達を先行させる。吊橋は太い鋼線を何本も使用した単純な構造で、崖沿いに渡された三つの橋の中で最も長い。斜面に刺さった支柱や露出した岩に巻かれた鋼線は錆付いているが、狭い空中歩道を四匹の森狼が駆けても殆ど揺れなかった。
(里に入る時も遺跡の壁が在ったが下層農場の地熱炉も似たような遺跡だな。それに煙突の数からして地下で温室栽培を営んでいるに違いない。あの湯気からして堤から流れ落ちる水は熱水だろうが、単に地熱を利用してお湯を沸かすなら炉と言う必要も無いしな。直接目で確かめるまで待つか。)
エグザムはウシブナが七十メートル弱の対岸に渡りきると、隙間無く繋がれた硬い木板の足場を揺らしながら一気に駆け抜けた。息も乱さず振り返り波打つ吊橋を眺めるその顔は、達成感に喜ぶ得意げな表情が浮かんでいる。
「なかなか面白い橋だ やはり遊具は本物に限る」
渦巻き板が伸縮し揺れる滑車の不気味な音に足を震わせながらエグザムを無視するウシブナ。やはり高所が苦手らしく、最後は森狼と共に頑丈な板橋を駆け抜けた。
一方のエグザムは急ぐ事無く板を軋ませながら、少しずつ近付く遺跡をまじまじと観察する。
(遺跡特有の人工石材の平らな壁と思ったが、どうやら上の構造物は煉瓦に補強材を流し込んだだけの建屋だ。もっとも、土台だけ遺跡の基礎を利用している可能性も有る。白爺が蒸気谷に造った地熱炉は生物培養方式の分解槽を埋めて堆肥溜めにした物だった。もしあれに後から手を加えるとしたら、やはり汚染物質を抽出する実験炉だろう。下の裾ので秘境外作物を栽培している以上、何かしらの浄化槽が在る筈だ。)
吊橋はそのまま堤型の遺跡外面部上部に通されていて、煙突から年中蒸気を噴出している所為か空気の湿度が増している。エグザムは遺跡の硬い天井部に足を着け、広く平たい敷地内に在る無数の建物を一つ一つ見比べ始めた。
「倉庫の掘っ立て小屋から権力者風の豪邸モドキまで在る 遺跡とは場違いな花壇が畑なのか」
仕方がない事に此処は秘境に遺された古代遺跡。汚染されてない連合の平野部で盛んな畜産や酪農、国の代名詞とも言われる大量の玉野菜及び果実の類が整然と栽培される光景とは無縁な場所だった。
エグザムが辺りを見回しながら平らな人口石材を意味なく歩いていると、真横の段差の上からウシブナに勝手に歩き回るなと怒られてしまう。これも遺跡の類に目がないエグザムには仕方がない事なのだ。
それからエグザムはウシブナに連れられながら、上部だけでも十分以上時間をかけ様々な試験用花壇や肥料用粉末が入った大袋を見学した。設備や用具が古かったり別用途の機材を流用するなど、ある意味秘境らしいやり方で生産の営む手法は旋風谷の菜園道楽に通じるものがあった。
(わざわざ森から持ち帰った虫を繁殖させてまでして土壌の変移を調べている。長い年月の間に毎日記録し続けるのも大変なのに、十数種類の土壌実験も並行して行うのか。それに簡易的な実験器具で菌生物と微細虫の研究までしている。いくら文明の統一化が遅れているとは言え、何世代も前の初歩研究に人材を集中させて問題無いのか?)
エグザムをひとしきり案内した後、ウシブナは森狼の餌を捕まえると言い出してエグザムを例の豪邸モドキに連れて来てから、森狼と共に遺跡の北側へ向かってしまった。
(どうやら何処かの興行集団の大道具を分解してここまで運んできたようだ。塗料成分が風化した臭いからして相当な年代物だな。どうせ他にやる事も無い、何も考えず時を待とう。)
簡素で殺風景な板張りの室内には古い薪暖炉と積み重ねられた椅子と机だけが残されていた。奥の通路には他にも幾つか部屋が在るようで、それぞれの扉がない入り口へ静かに空気が流れている。
「そう言えば遺跡の何処にも人を見かけなかった 今は休憩中なのか或いは交代時間」
玄関や窓ガラスの隙間から湿った空気や水が流れる音が聞こえて来る。エグザムは原始的だが個人では到底管理しきれない規模の農園に人が居なかったのを思い出していると、ふいに顎と耳の置くがこそばゆく振動し始めた。エグザムは鉄兜をずりあげ分厚い毛皮の手袋ごしに顎と耳を擦って違和感を確めようとした瞬間、窓硝子の隙間から連続的に届く森狼の鳴き声を耳にする。
そのとても聞き覚えのある鳴き声は呼吸と共に大きくなり、エグザムは椅子の背後に立て掛けたツルマキを手に取り立ち上がった。
(お前はウシブナの傍に居た森狼。)
開きっぱなしの玄関口に駆け込んで来た一匹の小さな森狼は、生え変わったばかりの短い毛を逆撫で立たせ、開いた瞳孔と吠え面を自分に向けて尻尾を振っている。息を詰まらせている森狼の子供が何を意味しているのか思い当たる節があったエグザム。ツルマキを肩で担ぐと張りぼて小屋を飛び出し遺跡を北へ走り出した。
「西風に異常無し 流石に黒煙は上がってないな」
己の後ろから遅れず追走して来る獣の飼い主に訪れた危機が何なのか、正体は不明だが自身の鼻が捉えなかった血の匂いをエグザムは確かに感じていた。
(そう言えば今日は水を飲んだだけで何も食ってない。血染めを纏うとこんな時でも空腹を感じてしまう。)
エグザムは周囲の花壇や古い水道網と配管に目もくれず一直線に中央の安全帯を走りぬけた。やがて道が狭まり谷の北側斜面に到達するが、山を切り開き整備された探索道はそのまま下り坂で段地の先へ続いている。
「山の反対側にも煙突か この辺り一帯は益獣用の水耕農場らしい」
里の斜面や里周辺のくぼ地に見られる段地畑と違い、周囲の耕作地は湯気を上げる水面に細い緑の植物が無数に浮いているではないか。エグザムは自身が知る米と明らかに違うその水草に驚き足を鈍らせてしまう。
(全部終わった後だ。ウシブナの身に何か遭ったら俺が白い目で見られる。)
周囲を水田の様な水耕畑に囲まれた丁字路まで辿り着き、一瞬だけどちらに進むべきか迷ったエグザム。後ろを振り返ろうとした時、それまで追従していた森狼の子供が自分に脇目を振らず右の角を曲がって視界から消えてしまった。
エグザムも体を右へ倒し地面に足の鉄爪を食い込ませ強引に分岐点を曲がる。するとそれまで背が高い米モドキの所為で見えづらかった視界が開け、長い農道の先から走ってくる無数の人影を視認する。
(顔の模様からしておそらく技士や畜民、紛らわしいな。鎌を持ってるから全部農民だ。)
山間の低地で蛇行しながら東西に伸びている農道には、粘土由来の石材で固めた生簀の様な人工池が道沿いで連なっている。走りながら横を見るとたしかに多くの生簀にはウシブナが言う未成熟の米が栽培してあるが、生簀の高い壁から水棲の生物が養殖されている様にも見えた。
面倒事が嫌いなエグザムは狭い道で逃げて来た農民と衝突するのを恐れ頑丈そうな生簀の壁に飛び乗る。更に狭まった足場を走りながら一時的に高くなった視野から池を見下ろすと、幾つかの生簀内の藻や水草が繁殖した池底に幾つかの魚群が泳いでいるではないか。
(生命線は此処か。水源が北に有るとだけ聞いていたが、氷に含まれる不純物と汚染物質を地熱炉で無害化している訳だな。後で必ず調べよう。)
エグザムは額を汗で濡らし道の反対から逃げて来た者達を壁上から見下ろす。それは数秒の出来事だったが、見知らぬ狩人が誰なのか聞こうとする者より厄介な獣の対処を求める声の方が多かったのは確かだ。
標高にして四十メートル程度の岩山が連なる里の北部は狭く入り組んだ地形だ。生簀の壁を走りながら開けた視界を見回しても木々が多い茂る斜面と生簀通りが続いているだけで、谷を曲がった先がどうなっているか解らないまま。
エグザムは再び農道に降りて前を走る森狼を追い抜こうと速度を上げる。そして後ろから聞こえる声援など耳を傾けず、高速で脈打つ己の心臓を聞きながら始めて狩る獲物の情報を思い出す。
(問題は相手の脚力より挙動だ。正確にツルマキで狙うのは難しい。一度の跳躍で射程外に逃れられたら今の俺でも追えん。これだけ走らされたのだから必ず心臓と血を貰うぞ。)
横隔膜を左右交互に伸縮させ上半身を上下させながら一歩でも遠く速くへ走ろうとするエグザム。肺呼吸や重心移動に不必要な運動を省いた結果、苦もなく案内役の森狼を跳び越す。
(今度は陸橋か、この辺りはやけに橋が多い。俺の体力は無限に有るわけじゃない。まだ時間が掛かる様なら力を緩めよう。)
長く南東へ蛇行した曲がり道をようやく突破し、それまで谷底の木々で塞がっていた視界に石垣の陸橋に架かる長い板橋が現れた。エグザムは森狼がそのまま橋を渡るなら体力を温存して獣走りを止めようと考えていた。だが森狼が橋桁左脇の坂道へ直角に曲がったので、体力切れの懸念が杞憂に終わって一安心する。
「血の匂いが近い これは また耳の違和感か」
何処からか、銃声が広い河川敷へ響き足を停めたエグザム。立て続けに共通語では無い何かしらの単語が川辺の森から聞こえて来るので、狩に不要な背嚢や旧式長銃等をその場に降ろし準備を始める。
(殆ど時間が残ってない。奇襲に失敗したら追撃せず撃退に専念するべきか、或いは初めから獣除けや緋色金の弾丸を使ってしまうか。)
奇しくも案内の森狼はその場に留まり騒がしい上流の雑木林へ吠えている。結局エグザムはツルマキに杭を装填させて鉈を背に差すと、最低限の探索具を入れた腹袋を背負い直し森に分け入った。
「あの様子だと他の森狼も訓練済みだろう ホウキの狩人は優秀だな」
森の中には獣や積雪で倒れ朽ちている最中の倒木が目立ち、川の流れで運ばれたと思しき大きな岩が幾つも転がっている。長い年月を経て何度も水の流れが変わり、幾度も森をなぎ倒したであろう痕跡が足元の苔むした地面にも埋まっている程だ。
エグザムは苔むした緑色の大岩を右に避け、時折聞こえる銃声を頼りに倒木と若い木々の隙間を縫うよう走る。ツルマキの台尻右肩に当て固定し、飛び出した標的の頭部を何時でも狙えるよう上半身を前に傾けると、ややせり上がったの上丘から標的の獣を発見する。
(興奮しているが錯乱まではしてない、それに出血している。どうやら二の腕で何発か弾を受け止めたようだな。あの程度の傷なら自力で治せるだろう。それよりこの場所は俺の偽装に不適切だ。感づかれる前に場所を変える。)
エグザムは鉄兜の上から被った深緑繊維織りの帽子を深く被り直し、木を盾に弾を撃ちながら川縁へ後退している二人の戦士とは間逆の方へ坂を下る。戦士が手に持つ狩猟銃から発射される大口径銃弾は、遅い弾側と着弾痕から硬い芯を軟らかい金属で覆った硬芯弾だと推測したエグザム。誤射で倒れるなどと恥ずべき行為は死んでも避けたかった。
(園東側の獣も銃に慣れてるな。どうやら岩陰で弾切れを狙っているらしい。あれでは流れ弾を避けて安全な射撃位置を探すのは難しい。方法を変えよう。)
弾が命中した木々の幹にはすり鉢大の窪みや穴が出来ており、幹から発生している幾つかの煙も確認できた。エグザムの目と鼻の先に在る細い木や枝に弾が当たると貫通し、軌道を変え木の葉や落ち葉を宙へ飛ばして被害を拡大させている。
(皮膜に白燐でも使っているのか?森がやけに煙たい。獣殺しを使わないからガスマスクを置いてきたのに、少し開放的に過ごしただけで勘が鈍ったな。)
エグザムは首に巻いた何時もの手拭で口と鼻を隠し、やや白みがかった黒い巨体が隠れている大きさ四メートルの大岩へ接近を試みた。
飛猿は神の園に住まう固有種の中型害獣である大猿と体系が似ている。しかし全高は飛猿の方が最低でも一メート程大きく、全長は尻尾まで含めると大猿二頭分を超える。また飛猿は牙獣の中でも広い視野を誇る特異な種で、眼球の稼動範囲は真正面から真横までと非常に広い。
エグザムは飛猿に引っこ抜かれたばかりの白い木に匍匐で近付くと、左腕で頭部を守りながら頭を上げて周囲の様子を観察する。
(例の二本角が無い。あれは雌だな。夏前の今は繁殖期だから雄だと見境無く襲って来るらしい。難易度が下がって好都合。それに目立ち易い傷が有る。奴が撤退してた戦士を追うならここから一度だけ狙える。)
片手に数十キロ程度の石を持ち、背中を大岩に預け銃声が止むのを待っている雌の飛猿。右頬の隆起した表面に鼻から顎へ斜めに裂傷の痕が有り、草食系の益獣全般と共通の頭部が傷跡に生えた真新しい黄色い体毛によって周囲から目立っていた。
直ぐ近くを通過した流れ弾が最後の一発だったのか、銃声が鳴り止み森に静寂が戻った。エグザムは気付かれないようゆっくりと頭を下げて白い木の陰で射撃姿勢に移ると、一秒二秒と頭の中で時間を数え始める。
(奴の血の匂いで鼻が効かん。あの巨体なら動くと必ず音や兆候が発生する。あの二人が仲間に助けを求めるなりしてさっさと退いてくれれば助かるが。)
想像上の秒針が十を越えても周囲に変化が無く、エグザムは更に時が経つのを動かず待っていた。すると冷たい地面から僅かな振動を感じ、小枝や木の実を踏み潰す湿った音が聞こえて来る。
エグザムは大きなツルマキをゆっくり持ち上げ射線を想定した座標の空中へと定めた。その場所は先程の戦闘で銃弾に倒された木や引っこ抜かれた木と石が無造作に転がっており、川へと通じる手ごろそうな道が出来ていた。もし飛猿が通過すれば真横から急所の頭部や頚椎を狙える。一撃必殺を信条とするエグザムの狩に御あつらえ向きの環境が整ったのだ。
そして思惑どおり、僅かな振動や巨体が地面を踏み潰す音が確かに迫って来た。あと何歩で標的に鼻先が倒れた木から姿を現すのか。えぐざむは自身の経験則から、標的が間近まで迫っている頃合だろうと判断し引き金に人差し指を添える。
想像上の秒針が二十を越えた時、はっきり聞こえていた足音や巨体に当った枝と葉が揺れる音が掻き消えてしまう。エグザムの視界には既に登場している筈の獣の体はまったく見えず。ようやく飛猿が違う方向へ進んでいた事に気付いた。
もはや思考するだけの時間も惜しい。そう考えたエグザムはツルマキを右腕だけの力で高めに投げだし、自身も後を追うように前方へ転がるように跳びはねる。大事なのは静から動。相手の注意を引き同時に驚かせる。体が小さい獣ならではの危機回避手段だった。
飛び猿はエグザムが隠れ潜んでいた白い木の近く、エグザムが足を伸ばしていた方向へ体を向けていた。
体を力強く倒立させた反動で翻り一息に大きく距離を離したエグザム。更に後ろに倒れるよう転がり、大切な相棒を体で受け止める。
(驚いても退かない。撃たれて手を出さなかったのに消耗してないらしい。)
飛猿は広い視界の隅で派手に動いた獲物へ頭を向け、手元に落ちている白い木を掴むと無造作に投げた。しかしエグザムにとって木が何本飛んで来ようが直接の脅威にならない。ゆっくり転がって来た球を拾う様に素早く一歩だけ踏み込むと、上半身を大きく前に倒し白い木の下をくぐった。
エグザムはそのまま接近し自分から飛猿の間合いに入り相手の意表を突こうとする。しかし飛び猿はエグザムの行動を無視して丘の斜面に在る木々へ飛び退く。
(反復跳び一回で五六メートル。転がれば更に十メートルも移動しやがる。あの体で頭は中型と大差無い。狙うならやはり止まった時だな。)
エグザムは可能な限り素早く走り飛猿へ己の脚力を見せ付ける。銃火器を所持してない相手に獲物の獣がどう動くか知りたかった。
「最初に投げたのは牽制か咄嗟に出た癖 そして腕の怪我を気にしている」
先程まで相手していた戦士とは違って、木々の間を迂回しながら己へ向かってくる相手に飛猿は距離を保つ事しかしない。エグザムが銃火器を所持しておらず肉体の輪郭を露出させた装備でもない所為か、先程隠れていた大岩から南側を行ったり来たりしていた。
(子供が居るのか? いや、時期が早すぎるし脂肪の付きが悪いな。もし俺が疲れるのを待っているのだとしたら、次の方法を試せば良い。)
エグザムは己の背後に苔生した大岩を背負いそうなほど近い位置で止まり、真正面に獲物の飛猿と相対した状況でツルマキを構えてみる。案の定、飛猿は反復横跳びで射線から逃れようとするが、生憎ツルマキの射程外でエグザムが引き金を引く事は無い。
エグザムはゆったりとした動きで肩を上下させ、さも激しい運動で息が上がっているかの様に振る舞いながら一歩ずつ前に歩き始めた。すると飛猿は足元に転がっている倒木や大きな石、或いは己が引き抜いたりへし折った木をエグザムに投げ付け始める。
(引っ掛かったな。その程度では当らんよ。)
背後の岩に枯れ木が衝突し砕ける音や、木々同士が弾き合い乾いた打撃音が頭の中まで響いて来た。しかしエグザムは素早い挙動で迫り来る障害物を強引に避けると、そのまま加速しながら飛び猿の間合いまで一気に駆け抜ける。
(早く。もっと速く。)
体を動かした所為か喉が水分を求め、体が獣の血を欲している。エグザムは貧血で倒れ自我を失う前に、せっかくの獲物が戦いで闘争心を失い逃げ去る前に、何時もどおり最小限の力でツルマキの硬い引き金をひいた。
流石は熟練の狩人らしく、大型害獣用の自衛具を扱う腕と正確さは一流と言える。馬や草竜とよく似ている頭部の額から首の根元へ深々と突き刺さった杭により、飛猿の頚椎の完全破壊に成功した。元々幾ら視野が広く距離感の認識に秀でた捕食者と言えども、拾い投げた飛び道具の影から一直線に飛んで来る小さい何かを脅威と認識するのは不可能だったようだ。
ツルマキに新しい杭を装填し手足を痙攣させる獲物へツルマキを再度向けたエグザム。重心を乱され左半身から崩れるように倒れた獲物へ歩きながら向かう。
(血染めのおかげで想定より楽に仕留めれた。まだ骨まで変化が浸透してない様だが、今までより遥かに体が軽い。まるでツルマキが非力なユイヅキの様に軽かったぞ。)
エグザムはそっと手を伸ばし強張った首筋に当てて脈を確認する。
「土より生まれし獣の子 一番汁ありがたく頂戴するぞ」
儀式的な意味などまったく無い戯言を呟き、まだ暖かい亡骸に刺さった太い杭を握りながら、同時に杭が刺さっている大きな額に口を近づけたエグザム。力を込め杭を素早く引き抜くと、血液が盛大に吹き上がりそのまま己の口で傷孔を塞ぐ。
脳へ到る静脈に圧力がかかる体勢で死んでいるのか、止まる勢いのない血を少し頬に零しながら芳醇な香りと独特な苦味を喉で味わうエグザム。歓喜の時間を最大限楽しむ為なら、自ら吸い上げ己の胃を膨らませてでも堪能したい贅沢な一時を味わった。
体が血に含まれる獣の因子を求めている。体の内側からくすぐられる様なやり場の無い衝動と言葉に出来ない感覚。まるで全身の神経や筋肉が胃から直接から血を貰おうとせめぎ合う感覚に、心臓が何時もより遥かに速く大きく高鳴った。
エグザムは飛猿の岩のような硬さの肩に背を預け、立ったまま無言で生え変わっている途中の茶色い鬣を何度も撫でる。
(まだ軟らかいな。これが伸びると色が変色して黄色に変わり、やがて暴君の代名詞に成る。そうなれば雌だろうが若い雄だろうが手が出せなくなるくらい暴れるらしい。夏場は北の氷河から他の獣も下りて来る。まだまだ楽しめそうだ。)
左頬の斜めに走った傷跡を素手でなぞる様に触り、獣特有の太く硬い繊維質な体毛の感触を楽しむエグザム。
「この頬の傷は自分で付けた傷かもしれない 肉まで達してないから爪で剥いだんだな」
暴猿は雑食性で知られ腐肉どころか骨まで噛み砕く飲み込む。時には岩塩や木の皮まで食べて巨体を維持し、特定の縄張りを持たず季節ごとに餌場を変える習性で知られている。当然秘境由来の汚染された物質、つまり原因が不明とされている有害な物質を含んだ食物を、他の害獣より多く取り込んでいる訳だ。
「やはり傷の治りが早い 血が固まるのが早いし粘り気も相当高そうだ」
エグザムは大きな左肩に有る銃創に顔を近付け、舌で固まった血液を舐めた。
(凄い苦さだ。細胞へ行き渡らせる鉱物系の栄養素を直接固めて、細胞の修復と増殖の足がかりにしている。まぁ全部資料で読んだとおり、これだけ獣因子が濃い獣は珍しい。)
大地にひれ伏している亡骸はエグザムの身長よりやや高い。この大きさの死骸を解体するだけで最低でも八人必要だろう。当然エグザム独りでは血が固まるまでに肉を切り取る事すら出来ず、あと数分で腐り始め大部分が食せなくなるのを黙って観ている事しか出来ない。
エグザムはツルマキから静かに杭を抜き取り背中の矢筒に差し込むと、川を目指し亡骸を背にして歩き始める。
「体が熱い 無理に動かした所為で栄養が足りなくなったのか 今は里に戻って肉体の変容に備えよう」
着用しているエグザムどころか設計した当人が想像した以上に、失われた遺物の能力は当初の予想を超えていた。
己の体から逃げない熱に。血染めに吸われているのか頭部だけ噴出す汗に違和感を感じたエグザム。川で水を汲んで体を冷そうと考え、森の固い地面から砂利で埋まった河川敷へ踏み出そうとした瞬間。
飛猿。神の園に生息する大型の固有種。手足には蹄が発達した鉄をも砕く大きく頑丈な爪が有り、大きな腕で同族すら簡単に持ち上げてしまう程の怪力だ。夏の繁殖期には食欲が旺盛に成り他の害獣が逃げ出すほど暴れるので、組合の探索者から暴君と呼ばれている。
食性は雑食で探索者を装備ごと噛み砕き、骨まで溶かす胃液で何でも消化してしまう。冬の間は北部の氷河周辺で冬眠し、雪解けの時期に神の園へ下りて来る。季節により体毛が入れ替わり白や黒の地毛の一部が鮮やかな黄色に変色する事から、前時代末期の探索時代に黄金繊維と例えられる程高値で取引されていた。
閉じた瞼に奇妙な明るさを感じて腫れているのか重い瞼を上げたエグザム。視界を占める天上には白く明るい光を発する何本かの蛍光灯と、同じく無機質なまでに白い天井だった。
「此処は何処だ」
顔の周りには緑色の塗料が塗られた低い壁で囲まれており、直感的に自身の体が寝かされている状態だと把握できた。そこでエグザムは周囲の様子を知る為に上半身を起こそうとしたが、力を入れようとしても首から下がまったく動かない事に気付く。
(もしや拘束されている?何か見てはならない物を見たのか、それともと。そうだ俺は飛猿を狩ってから体の火照りを冷まそうと川へ近付いて、それから何が遭った?)
エグザムは記憶が途切れている事から歩いている最中に意識を失ったのだと判断した。しかし血が渇いて無意識のまま獣を襲った過去と違い、今回は幼少期の時と比べてまったく別の違和感を覚えた。なので首だけでも曲げれれば体の様子が分るはずと考え、首を動かそうと鼻息を何度も荒げ続ける。しかしどれだけ力もうが力は首から逃げていくだけで、この不測の事態は解決しそうに無い。
「誰か 誰か居ないか 誰かた 誰か来い」
首すら動かないのに声は出る。そのもどかしさがエグザムの声色を高め、怒りを無機質な天井にぶつけるだけの原動力と成った。エグザムには何時まで動かず待ち続けるのか見当がつかなかったが、声を張り上げるだけの作業は唐突に終わる。
「四時間と三十二分で覚醒 現在の時刻は十二時四十三分 気分はどうですかエグザム様」
頭越しに逆さまに見えるゼルの顔を見て、エグザムは最初こそ言葉に成らない憤りを感じた。しかしこの状況で面倒な代理人が現れると言う事は、己の体で予期せぬ出来事が進行している可能性を否定できない。エグザムは眉間に大層な皺を寄せゼルに説明を命じた。
「とりあえずこの鏡で自身の体を確めてください」
文明の医療施設に必ず備わっている自立鏡の四角い大きな鏡が、焦げた色の体毛らしき繊維に覆われた己の胸を映し出した。さらにゼルが鏡の角度と距離を少しだけ調節したおかげで、口をあけたまま文字どおり硬直している全身焦げ色の毛と外皮で覆われた見知らぬ自分が鏡に現れる。
エグザムは一時的に言葉を忘れ呆然と己の変化を直視する。血染めが獣の血を吸いその能力を適正化し着用者にもたらす。かつて失われたこの遺物を纏った選ばれし者達は、亜人でも獣でもない姿で里を守り続けた。その話をゼルと長老のロウから聞いていた筈のエグザムは、正直な感想をゼルへ問いかける。
「おいゼル これは獣の戦士どころか新種の獣人だろ 頭だけ人で体が獣なんてまるで御伽噺の方の精霊人だな そもそも本来なら因子を能力の恩恵に変換するはず どう見ても血染めがそのまま獣化している様に見える ついでに体が動かない理由も説明しろ」
鏡に映る己の体には、浴槽の外から伸びている数十本の様々な管が何等かの形で接続されている。脈や成体電流等の生態情報を調べる配線が束ねられた太い管と、何かの液体が無数に送られている透明の管。己の肛門や男性器に宛がわれた排泄用と思われる太い管は浴槽の排水溝で合流していて、深刻な変容具合を増長させて見えた。
「我々が特別に調合した保存液で獣化を抑制しているので副作用に体の感覚が無くなります それより先に貴方が今居る場所と経緯を伝えます」
四時間ほど前に森と河川敷の境界で倒れていたエグザムが見つかり、下層農場の地下区画の一部を改造した進化研究所に飛猿の死骸と共に運ばれて来た。進化研究所はホウキの食料事情や医療体制を確立する為に造られた地下研究所で、下層農場の最深部に位置している。
「実は血染めを製作した聖柩塔の研究所 つまり本部は現在も獣因子の研究が続いていまして 血染めと融合したエグザム様の体がどう変化するかある程度は予測していました」
しかし只の獣を用いて機械工学で形作った人型の器は、所詮試作技術を継ぎ接ぎして造った仮初の器に過ぎない。衣服や装備を纏う感覚で外側から新たな獣因子着用させれば未成熟な体がどう変化するか、残念な事に参考になる資料や実例はこの星に無かった。
「しかし結果は見てのとおり ものの見事に頭部と筐体以外は貴方が殺した飛猿と同じ構成の外皮に変わりつつあります 結論を出すとエグザム様と血染めの親和性は生体構造の奥 言うなれば遺伝子段階で別の存在へと昇華しました 組織が造った紛い物の肉塊から新しい種へ進化したのです 今から浴槽の保存液を別の液体に変えれば細胞の活性化が再開します 因子情報が遺伝子に書き加えられ新しいエグザムへ変わりますが 後戻りは出来ません」
元は同じ紛い物の命のくせにと内心で呟いたエグザム。興奮気味に生き生きとした表情で見下ろされても、まったく嫌悪感や違和感を感じない。エグザムは生まれ変わる自身を鏡越しに見つめ、代理人に連れられ途方も無い規模の夢物語に参加して良かったと初めて思った。
「構わんから液体を変えろ もう俺は血を求める旅路に居るのだからな」
生緩い保存液に浸かりながら、エグザムはまだ見ぬ命と闘争の夢に浸る。ほんの少しだけ間のまどろみだと自身に言い聞かせ、培養液の入れ替え作業を行うぎこちないゼルの動作を眺め続けた。
それから三時間ほど浴槽で体が整うのを待ったエグザム。害獣や益獣用の鎮痛剤と精神抑制剤を大量に持たされ、ゼルの案内で進化研究所の入り口まで辿り着く。
「今は十五時十二分なので あと一時間と四十八分でこの研究所を閉めます それまでの間にこの下層農場を紹介しつつ案内するので 絶対私から離れないように」
通路の四方は高度な技術で均一に固められた人口石材で、台形状の通路は街の大通りと言って遜色無いほど広い。もし此処が文明圏なら様々な型式の導力車が行き交い、熱風と蒸気が騒音を遺跡の壁に反響させていてただろう。
「ここの構造は間違いなく古代遺跡 いや更に古い何千年も前の遺構だな そんな場所で俺に自衛具を持たせたのだから ここにも獣が出るんだな」
研究所への通用門が在る通路の行き止まりの壁は真新しい鉄骨や補強材で要塞化しており、その奥にある進化研究所を守る最後の隔壁だ。
「下層農場は赤い山の地下通路網と繋がっているので たまに壊れた隔壁や崩落した壁の隙間から蟲や甲虫が侵入するのですよ 本来なら数名の戦士か狩人が巡回しているのですが 今は里の南側の防衛で他所に出払っていて殆どの区画が無人です」
歩きながら話し続けるゼルの背後で、進行方向の道の先を包む闇を睨むエグザム。無人と言う単語にある事を思い出した。
「人どころか生物の匂いが殆ど無い しかしゼルよ 研究所は確かにお前以外誰も居なかったが 研究員すら不要な無人施設なんて残しておいて良かったのか」
ツルマキを背に預け鉈と狩猟用ナイフを両手に握るエグザムは、研究所で細部を加工した自前の探索具を着用している。相変わらず背中より大きな背嚢は少ない照明に照らされ内容物が詰まっている事を物物語っており、今までエグザムが入手したほぼ全ての物品が活躍の機会を待っている。
「エグザム様が祭司長と面会した時の導力炉と違って ここの遺跡は旧時代の昔から稼動し続けてます もっとも 何度も改築や改造を繰り返した所為で就工当時の面影はありませんがね どの道探索を行う時は此処が拠点だと私や里の者達が支援し易いので 迷い易いですがしっかりと地形を記憶してください」
話をはぐらかされたエグザム。目の前の標的を鉈と研ぎ澄まされた刃物で解体したい衝動に心をざわめつかせつつ、長い通路を警戒しながら歩いた。やがて通路の行き止まりまで到着すると、研究所の通用門より黒く黄色の斑模様で縁取った大きな扉に出くわす。
「昇降装置で上の階に上がります 珍しいですか 我々が居るこの階は階層ごと隔離されていたので保存状態が良いのです 組織ではこの模様は侵入が制限されている特別な通路を示しているそうで この大きな空洞通路で何か大掛かりな物でも運んでいたのでしょう」
ゼルは喋りながら高さ五メートル以上ある人口石材の扉の脇に埋め込まれた機械式指示盤を操作しており、エグザムは話よりゼルの手元の方が気になった。すると巨大で重厚な扉の内側から、等間隔で連続して響いて来る重低音が聞こえる。エグザムは脳内で巨大な歯車同士をかみ合わせ降りて来るゴンドラを想像した。
(これだけ扉が大きいのだ。どれだけの重量貨物を運べるのだろう?)
文明圏で体験した電動昇降機械が到着する鈴の音と違い、装甲装置が到着したのを確認できるのは指示盤に灯った緑色の光だけだった。エグザムは扉の中央に立ち重厚な扉が左右に開かれる瞬間を待ち望んでいると、右から水を差す現実が伝えられる。
「その大扉は大型貨物用ですが壊れていて使えません 我々が使えるのはこちらの通用昇降機だけです」
声のとおり右を見ると大扉の隔壁に収納されていた円柱がせり上がっている。祭殿から生物導力炉が在る遺跡本体に降りた時と違い、煤だらけの煙突内のような有様だ。
エグザムは溜息混じりに落胆した表情を浮かべ、ゼルを大きな背嚢で壁に押し付け四角い昇降機の中にはいった。
「青いつまみを一つ分上げてからずらして固定すれば動きます まずは全四層のうちこの昇降機が停まる三層目の北配管区画から案内を始めるので エグザム様 あまり動くと積載限度で止まるので大人しくしましょう」
強い加速度を感じ、何メートル上昇しているのか判らない狭い箱の中で周囲を見回すエグザム。最近文明圏でも普及しだした画期的な液晶表示板の類は無く、昇降室内に在る回転式表示板に掘られた精巧な古代語が伝えるだろう数字の意味を漠然と理解した。
「遥か昔はこの昇降機だけで百階以上の区画と繋がっていたようです 今は最上部と最下層の研究区画とを結ぶ直通通路として改造して使用しているので 昇降機が途中で止まってしまった場合 放棄された区画に閉じ込められる可能性を忘れないようご注意を」
間接的に生き埋めを意味している警告に流石のエグザムも大人しくなる。回転式掲示板の回転速度が幾度と無く不自然に変動しては、その度に遺跡の機構一つの修理すらままならない現実を痛感した。
「神の園や周辺地域では地震が頻発するらしいな 古代文明の遺構といえど何千年と耐えれるのか」
ゼルがエグザムの問いに口を動かそうとする間も無く、急激な浮遊感と共に昇降機が一気に減速し始め中身が揺さ振られる。エグザムは背嚢を仕方が無く押し付けていたゼルから聞こえた珍しい悲鳴に、思わず笑いそうになった。
その後直ぐに振動が収まり、体にかかっていた負荷が消えた。連動して自動で開かれる扉に言葉にならない感慨深さを感じたエグザム。そのまま昇降機から飛び出す様な勢いで眩しい光が注がれる空間に躍り出る。
(凄い。まるで地方農栄所の無菌殺菌加工所を大都市の地下網規模まで拡大させたような景色だ。配管区とはまさにこのことか。)
大小の銀色や真鍮と鉛色の配管が立体的な迷路の様に交差し、四方の高い壁に越しに何かの通り道になっている。地熱炉と言うからには蒸気が吹き荒れ湯気で曇った視界を想像していたエグザム。驚くほど整備と清掃が行き届いた青い床に映る己の顔を見下ろしたまま動かない。
「生きている区画は全て清掃機械により殺菌処理までされており 空調装置により外部から取り入れた空気に塵や微粒子は一切含まれてません 気絶していたエグザム様も荷物と一緒に途中で隅々まで洗ってあるのでご心配なく」
再び前を歩き出したゼルに慌てて追いすがるエグザム。道を示す二本の白線の間を歩くようにと促された。
「確かに神の園東部の近郊は世界有数の火山地帯なので 今年はまだ発生してませんが去年は二回揺れました しかし赤い山とその周辺の地形は古代文明の技術により岩盤ごと補強されているおかげで 地下施設への影響は殆どありません 地表の遺跡の多くは経年劣化や地盤沈下で基礎ごと崩壊しましたが 人の手で維持されている遺跡等の例外を除いても 現在の地下遺跡の多くは昔の面影を残しています」
天井や配管の脇に吊るされた照明装置はどれも年代がばらばらで、骨董市で見かけそうな反応液型の照明具から最新式の蛍光灯まで色々な光を発している。簡単な金属枠で築かれた足場の作業用通路が白線から方々へ延びていて、圧力や温度などを検出する試験管の近くに設置された軌道を走る管理機械が、失われし時代の無人過程技術を担っている。
「合成銀の塗料が塗られた装置は全て調整用の付属機器です 鉛色の配管が南から東へ通っているでしょ 上の浄水槽で汚染物質や鉱物等の水以外の成分を取り除いた純水を ホウキの東に在る導力炉に送って熱水と鉱泉に加工しています 地熱炉は巨大な熱交換器なんですよ」
エグザムは天井伝い大きく曲がり、東の壁の一部をくり貫いて接続された巨大な配管を見上げたまま言葉を失う。現代の技術を以てしても、精密強化金属製の直径十メートル規模に及ぶ多重中空式配管は造れない。何より秘境の奥地で大規模な地形改造なんて夢のまた夢だ。
ゼルは白線の十字路を南へ曲がり、次の目的地へ移動する為の昇降機を指し示す。
「あの昇降機が これから向かう三層中央に位置する地熱炉本体構造区画と繋がっています エグザム様 その道をそのまま進んでも放棄区画の奥の行き止まりしか在りません」
配管や繊維質な何かで保護された管と一緒に併設された軌道が、白線の内側を歩くエグザム頭上で複雑に交差している。エグザムはその軌道を走る架橋車の様な運搬用機械を目で追ったが、数が少ない白い車体はゼルが注意した北の放棄区画に消えてしまう。
(行き止まりだがその奥で別の遺跡と繋がっているのか。神の園の地下遺跡は前時代末期に探索し尽くされたと聞いた。こうして稼動している無傷の地下構造物が存在するなら、まだ眠ったまま未発見の遺跡が残っている筈。見つける方法が必ず存在する筈だ。)
エグザムは近場の放棄区画にいてゼルに質問したが、返って来たのは代理人特有のはぐらかしだけだった。自分で調べろと遠回しに言われた以上追求しても無駄だと悟り、エグザムは次の昇降機を待つ間に視認可能な範囲の構造を観察し続けた。
旧時代。この星の公転周期で三千五百年以上昔。まだ銀河文明が星々に瞬いていた失われし歴史部分を指す用語。
またしても傷が目立つ昇降装置から降りると、エグザムは幅三メートル程度の通路全体から聞こえる小さな振動音に耳をかたむける。
(重要区画以外は連絡通路でも傷や綻びが目立つ。誰かが定期的に掃除するとしても人手が足りてないな。)
エグザムは灰色の床を触り滑らかな足元に埃が溜まってない事実を確認する。依然として照明灯りが暗闇に対しても少なく、己を運んできた者達の痕跡すらない事に表情を歪めた。
「こちらが近道なので先を急ぎますよ 三層はまだ問題ありませんが二層から上は獣が出没します この辺りにも獣除けや蟲殺し用の成分が散布されている場所が在るので 獣の肌に何かの影響が出るかもしれません」
エグザムは重要な事を前触れも無く言ったゼルに文句を言おうとしたが、直前である事を思いつき大人しく足早に追従する。
(研究所の件や放棄区画の事といい、ゼルは何か重大な事を隠している。代理人にとって組織との繋がりが絶たれるのは、やはり死を意味しているのだろうか。自我の安定となる根拠を失えば獣だろうと脆くなる。ここはそれを試すのに絶好の場所だな。)
狭い通路だけの道は直ぐに終わり、複数の空部屋が連なる長い曲がり道を進んだ。途中何度も見かけた真新しい矢印が壁や天井に何等かの目印として描かれており、通路を揺らす僅かな振動と合わさって方向感覚が狂いそうになった。
やがて両者は通路脇に設置された見慣れぬ隔壁扉に辿り着き、ようやく長い道のりから開放される時が来た。
「ここの高層通路は全部同じ構造なのでその構造を覚えてないと迷うのですよ とりあえず先に地上との正規の直通路を教えるので 今後の探索に活用してください」
ゼルは設置された大きな回し手を回し、閉ざされた隔壁から壁の接合部を解除する。エグザムにはゼルが何を言っているのか理解出来なかったが、壁から通常の扉と同じ大きさの隔壁扉が開放されて空気が枠から吸い出されると、通路の振動が直接耳に入るほど大きく身近に聞こえ始める。
そして重い隔壁をゼルが引っ張り開けると、エグザムは扉の先に存在する闇に閉ざされた広大な空間に気付いた。