二章前半
二章「思惑と攻防」統一暦百五十年三期十五日。
組織再編と改築工事で騒がしい昼のイナバ三世は、昨日から振り続ける豪雨により慌ただしさを増している。
水没林の湖畔全域での水質調査を終え単身イナバ三世に帰還したエグザム。台地の廃墟街を通って、地下へ下りる階段を目指している。
台地の廃墟に張り巡らされた多くの天幕が、地下へ流れる用水路の側溝へ多くの雨水を誘導している。元々台地の砦を改装して築かれた旧探索街は水捌けが良いのだが、地下設備の大半は大規模な基礎工事の最中で、水道網は殆んど機能していないのだ。
外壁の木造部分が腐った末に剥げ落ち、石の壁と柱が剥き出しのままの元集会場。苔生した三階建ての本丸は雨の中でもしっかりと輪郭が見える程大きい。
エグザムは石材の瓦礫と廃墟の通りを抜けると、集会場とは別に地下入り口が在る中央棟の入り口を潜る。
「以前より様変わりしてる。」
何時もなら石の床に渡された廃材の道を避け、石の床に多くの物資が置かれているのだが、何時もと違う吹き抜けの広間に狭さを感じなかった。
(おおかた地下施設の修理が終わったのだろう。俺も部屋の掃除をしないとな。)
此処でも雨水が石造りの天井を伝い側溝へと流れているのだが、内壁が剥き出しの通路を歩くエグザムの聴覚でも僅かにしか捉えれない。
エグザムはそのうち止むだろう考えながら地下への階段を下り始めた。
イナバ三世に本拠を構える調査団は変革の時を迎えている。オルガ団長の留任が決まってから五日が経ち、砦と化したイナバ三世に軍属と思われる武装集団が出入りするようになった。
来るべき連合軍の投入を控え地下の空き部屋の大半が整備と清掃を終えている。エグザムの私室は依然として骨董品で狭かったが、元武器庫は下水用の配管や側溝から離れた位置に在るおかげで煩わしく感じる事も無かったのだ。
多くの探索具や特に重いツルマキを背負い歩く姿で周知されているエグザム。同業者でも話し掛けて来る狩人は少なく、死神の名より「亜人の狩人」と呼ばれる事が多い。
エグザムは鍍金が剥がれた金属製のドアノブを回し自室の扉を開ける。背負う背嚢や腰の矢筒が枠を傷つける恐れが有るので、何時もどおり体を傾け扉をくぐった。
「今度街に行く時にでも売り払ってしまおうかな。」
エグザムはそう言いながらも、木の弓や旧式長銃に汚れや痛みが無いか確認する。荷物を置いた後、人の出入りの有無を確かめる癖が沁みついてしまっていた。
エグザムは砲弾入れだった金属枠の大きな道具箱を開け布に包んだブツを幾つか取り出すと、唯一有る作業台に置く。大部分は布に包まれていたが太い銃口が三つはみ出ている。
更に道具箱から備蓄品で覆い隠す様に仕舞っておいた木箱を取り出すと、枯れ草を敷いた部屋の隅まで運び慎重に置いた。
(杭の消費が激しい。短槍や鉈だけで雑魚を処理するのは面倒になってきた。)
エグザムは四方の留め具を外し上蓋を外すと、申請して入手しておいた矢の材料を幾つか取り出した。
「弦は交換するとしても、バネの予備が無いのは不味い。そうだ、何処かに銃の弾が有ったはずだ。」
ツルマキは量産品の類ではない。もし替えが効かない部品が壊れれば、即用済みと成る消耗品なのだ。
もっと合理的に使える使い捨ての消耗品が有った事を思い出したエグザム。袋から一丁の長銃を取り出し他の道具や装備を纏めて道具箱に押し込めると、箱を施錠して鍵が無い扉から退出した。
錬金術の発達により昨今の自衛具は安価で入手可能な量産品ばかりが流通している。狩人が好む武器や使い道が限定される薬物等の危険物を除き、子供が溜めた小遣いで買えない品は少ないと言われている。
エグザムは照明設備が設置されていない通路を歩いた。地下要塞でも古く深い場所へと繋がっており、水が洩れ異臭が漂う暗い通路だった。
照明装置の代わりに焚かれる松明の炎が高い天井へ煤を吐き出していて、箱の様な室内の天井一角の穴周りが焼けた様に黒ずんでいる。
放棄された物が集まる地下倉庫の一つに来たエグザム。大小様々な木箱が壁に坂を成しているゴミ捨て場で、ある物を探し始めた。
(もし弾が残っていたのなら、おそらく此処に運ばれた筈。旧式火薬は発火剤と似たような匂いだったな。)
文字や図形など目印と成る落書きすら書かれてない黒い木箱を漁り、次々中身を確認しては黙って蓋を閉じる行為を繰り返したエグザム。嗅覚と運が掛け合わさり、十数個目の木箱から缶詰の様な多数の金属箱を発見する。
「これで間違いない。保存状態も悪くない、使えそうだ。」
エグザムは缶の蓋を開け灰色の弾を一つ取り出すと、蝋燭の様に軽く硬い薬莢部を握り、持って来た長銃の排煙部と焼室に重なるように寸法を確める。
(連中《補給係》は仇猫騒動の時に使えそうな自衛具を片っ端から集めていたが、結局俺が討伐して迎撃案が頓挫したからな。誰かがゴミと間違えたのか知らんが、結局此処に運ばれたようだ。)
エグザムにとってこれ等の骨董品に触れる機会は、確実に秘境の探索者より多い。狩で試す機会は無かったが、つむじ谷で無法者から入手した戦利品を調べる行為自体数少ない娯楽と言えたからだ。
「どうせ誰も使わんのだろう。こっそり持ち出すついでに道具箱の拡張も済ませるか。」
エグザムのような単独行動に秀でた狩人にとって、遺物の模造品である害獣用の自衛具を狩に使う事はない。騒音と匂いを撒き散らし己の居場所を悟らせるような行為は慎むべきと考えていたからだ。
(火薬が少ないから減半してあるな。あの太い銃身は減音仕様と考えて間違いなかった。)
エグザムは長銃を首に提げると、黒く大きな弾薬庫を持ち上げる。僅かに匂う火薬の匂いは、燃えると消臭作用を発揮する化合物の匂いだった。
長銃。大砲の火力を個人が携行状態で再現する為に開発された原始的な銃と良く似た自衛具。共通している外観は長い銃身のみ。運用目的と設計概念が多様に存在し、中には遺物を撃ち出す為に作られた代物も存在している。
雨とは無関係に、騒々しくエグザムの自室前を走り通り過ぎた一団。軽装の抗弾鎧と金属製の台尻が肩でぶつかる音が兵卒である事を物語っていた。
「まだ騒がしいな。訓練された兵士はあの豪雨の中でも銃声を聞き分けれるのか。」
半刻前、元集会場の丸屋根に登り幾つかの長銃を試射したエグザム。椅子に座り壁に寄りかかりながら消耗品に油を塗っている最中だ。
「しかし弾が鉄甲弾だけとはな。口径が大きいから獣用だろうが、後装式なら他の弾も使えるだろうに。」
エグザムが片手に持っているのは腐食と撥水効果が有る獣油の一種で、神の園とその周辺で銃を扱う者にとっては必需品と言える道具だ。
黄ばんだ石鹸の様な固形物を薄い布で包み、布越しに木目調の台尻を擦っては蝋燭の炎に近づけ乾かす。乾くのを待つ間に他の長銃に油を擦り付けると、乾いた塗料を確認次第別の手拭で乾拭きを行うのだ。
エグザムはそんな気が遠くなる作業を地道にこなしていると、扉が二度軽く叩かれ来客と所用を告げられた。
「エグザムさん、次の仕事を持って来ましたよ。」
そう告げたカエデは扉を開けるなり直ぐ閉める。揮発した獣油の成分が濃縮した樹液のように臭ったのだろう。
扉の向こうからむせ返る声と文句が騒々しくて、エグザムは道具箱を並べただけの棚を上り、知らぬ間に設置されていた部屋唯一の換気装置を始動させる。
「成分に毒素は有りませんよ副団長。我慢してれば気になりません。」
エグザムは素早くブツを布で隠すと再び開かれる扉の前で立ち止まり、替わらぬ上官に対し敬意を示した。
黒い帽子と長袖に幾つかの記章や徽章を付けた軍属姿の少女が入室し、エグザムは注意と自制を促されて椅子に座る。
「ではこれより次の任務を説明します。三日前に探索組合から湿地流域警備人員の増強を依頼されました。なんでも梅雨時の監視が薄くなった時間を衝いて賊が侵入しているとの報告が挙がっています。エグザムさんには特定害獣の個体と生息調査及び、無法者の発見若しくは監視の任に就いてもらいます。」
エグザムは、服飾と似合った口調で流暢な共通語を捲くしたて話したカエデが隠れ里出身だった事を思い出し、赤い獣目を見つめかえして質問する。
「殺さず生かしておく必要性は?」
対人戦闘の経験が豊富な死神に対し、副団長から現地専属顧問に昇格した少女が、一言愚問だと一蹴した。
「あの辺りにはかつてもう一つの隠れ里が在ったそうです。探索街が出来る前、恐らく初代イナバの里でしょうね。今では水棲害獣の楽園が広がっていますが、泥の下に多くの遺跡が埋まっているそうです。そこで依頼主は遺跡の保護と賊の殲滅を依頼する序に、出没頻度が高い地域での無制限活動と侵入制限を設けてくれました。なので賊の殲滅は我々が代行するので、エグザムさんは権益の保護活動に専念してください。」
そう締め括り満足気に微笑むカエデの意図を察し、エグザムは了承の相槌を送った。
(ようするに密猟者から獣達を守るのが今回の役目か。遺跡か、あの辺りへはまだ足を運んでない。今の時期相当ぬかるんでいるだろうな。)
確かな事は一つだけで、人が踏み入れるには不向きな場所で獣を相手取る事は不可能。遺跡とやらでの戦闘を想定する必要が有るとエグザムは考えた。
何時もの様に呆気なく退出した上官を見送ったエグザム。棚上げした布包みを作業台に載せて整備作業を再開する。
(歳は十四、俺より六年だけ後に生まれたにも係わらず世情に詳しい。亜人でも境遇が違えば、文明に対する考えも違って当然か。)
亜人(種族)。人と良く似た容姿又は生態を有する獣、若しくは人を指す共通語。定義自体が曖昧で、地域によっては事実上死語として扱われている。
現存している純粋な亜人種族は全部で四種。何れも秘境で暮らしている。
十六日の昼過ぎ、密林と流域の境目に在る岩場を南下しているエグザム。何時もより肌寒い朝に目を覚ましてから、いっこうに薄れる気配が無い濃霧に悩まされていた。
(この辺りは梅雨時に霧が出ると聞いたが、確かにこれでは警備網が薄れてしまう。)
石灰質の岩が湿った地面から頭だけ出していて、木々の根がしっかり地面に伸びている。そのおかげで抜かるんだ足場が少なく、昨日の沼地と違い比較的歩き易い環境と言える。
(既に密林を抜けたはず。この林は何処まで続いているのだろう?)
湿地流域は密林から南と東へ流れる河川流域の別命。雨季を迎え増水した濁流が密林から多くの土砂を運び、生成された地形と言われている。
エグザムは一部だけ露出した小岩を避け霧と岩場の袋小路を右に進む。
苔むした木や倒木と、落ち葉が堆積した腐葉土と雑草の絨毯。岩で構築された迷路の様な道は何処も大差ない光景の連続で、霧と合わさり距離感を狂わすには十分な要素と言えるだろう。
磁力石を取り出し方位盤と見比べたエグザムは、歩きながら依頼について思い出す。
(湿地流域中心部とその近辺での狩猟採取は許可制。人手や需要が減ったとはいえ、危険領域の隣で特産物の増殖は難しいのだろう。)
神の園で採れる植物や虫等は殆んどが固有種であり、他の場所では生きられず育てるには難しい事でも知られている。それは他の土地での養殖や増殖を阻む壁として、無秩序な生物の流出入を防ぐ防波堤として機能している秘境の証と言える。
岩と木が少ない広場の様な場所に出たエグザム。足を止め落ちている枝を拾うと、地面を突きながらゆっくりと歩み出す。
湿地流域全土では雑草や苔の絨毯と見せかけて、実は大きな水瓶の様な穴が開いている事がある。害獣でも落ちたら足が届かず溺死してしまう天然の罠を踏めば、エグザムも自重で瞬く間に沈むだろう。
(中途半端に足場が硬くて判り辛い。昨日通った密林の沼地より性質が悪いな。)
背中の背嚢から上へ太い銃身が突き出ていて、エグザムは相棒の代わりに何時でも構えれるよう左手に銃の麻紐を巻いている。
(このまま南へ進めば湿地に出れる。獣が出るか賊が現われるか、どちらが先だろうか。)
歩くたびに銃床と腰袋の一つが小刻みにぶつかり、足音と似たような振動を体へ伝え続ける。
沼地沿いを南に転進してから既に数刻が経ち、エグザムは腐敗臭から泥水と腐葉土の匂いに変わりつつある岩場を通過した。
木の棒が水を吸い脆くなり始めた頃にようやく霧が薄れ始め、エグザムの周りに少数の枯れ木が並ぶ湿地が霧を背景に姿を現す。
(ここが湿地流域の深場、増殖場の一つだろう。植生が全く違うな。)
雑草に足が深くめり込む場所に辿り着いたエグザム。沈む前に足を引き戻し、その場で泥を踏み固めながら周囲を観察する。
背が高い雑草が伸び放題の浮島に多数の花が咲いている。何者かが橋として使う為に渡した丸太は殆んど朽ちていて、整備された増殖場とは言いがたい光景が霧の中に広がっている。
(視界が悪いが絶好の狩時に違いない。銃を持って来て正解だった。)
エグザムは倒木の一つに腰掛け、動くと少しづつ沈む体に違和感を感じつつ準備を始める。
長銃の銃床に予備弾倉を纏めた固定紐を結び重心の調整を行う。照星が初めから無く照門だけで狙撃を完遂する事は不可能なので、背嚢脇に差し込んだ矢筒から一本の細い矢を取り出した。
白爺から教わった簡易的な措置で大雑把な照準装置を照門に填め込んだ狩人。装填していた弾を抜いてから構え、角度を変えては引き金を何度も引いた。
依然として湿地帯は霧に包まれている。更に太陽も雲に閉ざされてしまえば辺りはいちだんと暗くなる。
そんな地上で行軍を再開したエグザム。泥が蓄えた水分が地表で水溜りを幾つも形成している足場を、大きな浮島が在る方向へ進みつづける。
湿地流域は場所によって地形が変わり、生息する害獣の種類も変化する。エグザムは密林から抜け出したばかりの場所、つまり洪水の影響で枯れた元林の増殖場を進んでいる訳だ。
周囲に生息している害獣で多いのは、植獣に分類される「泥クラゲ」と密林の沼地にも生息する「穴虫」。どちらも枯れ草や腐肉を捕食する事から動きが鈍く、無害又は群れても脅威に成れない害獣と言える。
エグザムは浮島の雑草を揺らしながら捕食する複数の触手や、腕が入るほどの大きさの穴から兜の様な頭を出した巨大ミミズを足で追い払う。
(連中が草を食って泥地を形成しているらしい。その餌場を通れば穴を踏まずに済む。)
大きな浮島の様な草原は其処に潜む害獣にとって住処であり餌場で、限られる生活圏を土足で踏みにじるエグザムにとっては数少ないまともな足場と言えた。
湿地流域内に侵入制限が設けられた原因は、危険区域に近いからではなく探索組合の数少ない収入源である増殖場の一つが在るからだ。
エグザムは浮島の端で身を屈めると、草を少し掻き分け泥地に半分埋没していた益獣を観察する。
(アレが水妖か、噂どおり奇妙な見た目だな。)
緑色の核を食用凝固材で固めた泥水に押し込んだ様な何かが、水溜りを震わせながら這い出て来た。
生物であるかさえ疑わしい存在は、神の園にしか生息しない不思議生物の一種と謳われている。沈殿した泥を舞い上げまた水中に潜る物体は、乾燥させ粉末にすると吸水材に欠かせない素材と成る。そう同種製品の基幹素材としては、陸上で採れる唯一の素材なのだ。
(あの粘膜には無機物だけを溶かす成分が含まれている。本体が核だけなんて話、あながち間違いでもないようだな。)
エグザムに課せられた依頼はただ一つ、水妖を狙う密猟者の魔の手から組合の財産を守る事。しかし少女が言った遺跡についても詳しく調査したいのが本音だった。
(もし組合以外の者が湿原に入るには監視が厳しい外森林を迂回しなければならない。目撃場所が東側に集中しているから恐らく川を遡上したのだろう。あの辺りは南盆地と接しているから遺跡が多い、今回は情報書に従おう。)
エグザムは颯爽と浮島から跳び出すと、倒木や別の浮島を足場に湿原を南にひた走る。瞬間的に足を沈ませ半ば液状化した大地を踏み締める感覚は、時折踏み潰す小型の水妖より生々しかった。
益獣。文明にとって何等かの利益をもたらす生物を指す共通語。愛玩生物や家畜も含まれる。
「活動限界は三日あたり。それまでに賊が見つかれば良いが。」
小雨が降り続ける真夜中の遺跡は、周囲を林に囲まれ人工石材の傾いた小屋と言える。
林の西沿いを流れる川の勢いが一段と激しさを増したようで、人工石材の建物が微かに振動し始めた。
「基部が泥の下の岩盤に刺さっている筈だろうに、些か居心地が悪い。」
水と泥で埋もれた階段を見ながら、エグザムは火を絶やさないよう湿った枝を乾燥させつつ薪に並べる。
「まさか今日の飯が蛇一匹だけとは。軽さを優先したツケが廻って来たな。」
斑蛇と良く似た模様だが、緑色の皮を剥いで肉に内臓が付着してないか最後の確認をするエグザム。寄生虫すら寄生出来ないほど毒素を溜め込んだ消化器官は、燃料として消し炭に変えてしまった後だった。
エグザムは晩飯の調理を始めながら、火加減を気にしつつ明日の行動予定を考え始める。
(カエデは名言しなかったが、この辺りも里の狩人達の庭なのだろう。依頼を出す前から組合の管理人と連携していて、今頃は捜査の殆んどを終わらせているに違いない。仕方がないとは言え死神の真似事すら出来そうに無いなら、明日は遺跡の調査に寄り道するか。)
串刺しにした蛇肉は脂肪が少なく、筋肉質な肉が焼ける匂いは男爵鳥や朝鳥の串焼肉と遜色無い香りだ。地上に一部だけ露出している廃墟に住んでいたその蛇は、火に炙られ煙と油を吐き出し始めた。
十分に火を通す事で秘境の毒素は大概無毒化出来るが、それでも人間が食べれる水準には達しない。つまり文明生物の毒を分解する器官は、遥か昔と同じ様に退化してしまっているのだ。
「我が血肉と成れ。」
エグザムは外気と触れ水蒸気を立ち上らせる串焼きに噛み付く。肉を引き千切り咥内を襲う熱さを無視し咀嚼すると、旨みより苦味が際立つ味に額の皺が寄った。
「苦いな。」
しかし自らの舌は問題無いようで警鐘を脳に伝えていない。エグザムは雨水を溜めた缶を火に架けると、少ない晩飯を咀嚼する作業に集中した。
湿地流域。名のとおり湿地化した土地に幾つもの川が蛇行して流れている漁と狩場。南は海漂樹林、東は南盆地の湖へ多くの養分を運んでいて恵まれた土地と思えるが、密林や赤い山から溶け出した毒素や遺跡の成分で汚染されている。
十七日の朝。暗い日の出前に起き出して直ぐ行動を開始したエグザムは、雑草が多い茂る山沿いの林を川と並行して東に走っている。
(この辺りは獣が静かだな。まるで只の林を走っている様だ。)
鉈で蔓草や低木の枝を排除し、緑の偽装が木々に溶け込むよう木陰を沿うように走るエグザム。人外の体力と疲労を知らない回復力は、森の獣と変わらぬ俊敏さを可能にしているのだ。
少しづつ高くなる日光で葉や木々の陰が小さくなり始め、同時に気温が上がり森の息吹がエグザムの鼻を大地の香りで包む。
(この辺りの土にはまともな微生物が居るようだ。周りと違い斜面が多いから、湿地の海抜より少し高台の地形なのだろう。)
日の位置と川の先を調べる為に立ち止まった時、緑の世界に見慣れない色が飛んで来た。
(アレは虫、いや翼獣だ。)
蝶の様な羽根を羽ばたかせ、目立つ七色の光を踊らせながら木々の間を飛行している翼獣。エグザムは翼を有する獣の名に恥じない危険な害獣と出会った。
(不味い、あれは幻想蝶。盆地から風にでも乗って上がって来たのか?)
エグザムはその場に伏せて息を止める。もし空気中に飛散した鱗粉を吸い込めば、錬金生命体であろうが無かろうが粘膜に激痛が走り出して止まらなくなる。
(こちらは風下でないが、木々が微風を攪乱している。本体ともども此方まで飛んで来ても可笑しくない。頼む、止まるんじゃねえぞ!)
心の叫びが通じたのか大きな蛾は、エグザムの進路上を横断し川へ一直線に飛んで行った。
「忘れていた。南盆地には小型の獣が相当数生息している。掲示板に蜂どもの絵が有ったような無かったような。」
虫の丘は甲殻獣の住処だが、赤い山を挟んで反対側の巨大盆地には虫の様な獣が多数生息しているのだ。
エグザムは再び走り始め川沿いを下り始める。幻想蝶の鱗粉の本当の恐ろしさなど気付く筈も無かった。
翼獣。翼を有し飛翔する獣を指す共通語。風を読み空を飛ぶ能力を与えられたのは、なにも鳥だけではない。
赤い山の南側には裾野と巨大な盆地が広がっている。東西で環境が違い探索者や猟師からは、それぞれ「屍の森」と「鉢塚遺跡」の名で恐れられているのだ。
日が中天にさしかかり気温が本格的に上がり始めた曇り空の森。湿地より標高が少し高く北の裾野となだらかな斜面で繋がっている湖畔沿いには、多くの遺跡や古代文明の名残が害獣の巣と化して点在している。
(海沿いは雨雲で土砂降りだろうな。あの雲が此方へ来る前に終わる事を祈ろう。)
雑草を静かに踏み締め、硬い泥層に半分埋没した遺跡に、また少し忍び足で近付くエグザム。既に鼻は獣では無く人間の血の匂いを捉えていた。
(南から追跡されあの遺跡に辿り着いたのだろう。これ以上北へ進めば場馴れした探索者でも危ないからな。)
その遺跡は南の断絶海岸内に点在する遺跡と同様、側だけ残し崩れた建物跡が二つだけ森の侵食から取り残されている。生物の隠れ家や縄張りを示すのに適した場所と言えるが、負傷した人間が逃げ込むには適していない。
雑草の絨毯に這い蹲るエグザム。腹袋を枕代わりに、遺跡を中心に西側の森の中から耳を澄ませ情報収集をしていた。
(痴話喧嘩にしては威勢が無い。相当疲弊しているのか、それとも荷物でも抱えているのだろう。)
発見した当初から動かない監視役と思われる二人の男。棟を支える支柱の間の崩れた壁から、口を動かさず何かに怯える様に油断無く狩猟銃を構えている。
拡大固定した焦点に映る二つの獲物は、自身と同様に偽装用の化粧を施し額や首元に何等かの識別標を装着していない。探索者では無く猟師の恰好をしていて、何度か後方の室内へ顔をそらしていた。
エグザムは時間を掛けた末に、探索者でない猟師の恰好をした集団を件の密猟集団だと判断。ツルマキへ手を伸ばそうとする。
(元気な奴さえ処理できれば複数相手でも直ぐに制圧出来る。この際こいつを試しても支障は無いな。)
エグザムは握ったままの紐を引っ張り背嚢から長銃を抜くとツルマキを横に退ける。今にも欠落しそうな錆びた配管がむき出しの住居棟との距離を測り始めた。
暗殺用の矢を差し込んだ照門の隙間は、最大命中距離の人間と同じ大きさに成るよう設計されている。その為にエグザムは足音を殺し崩れた遺跡に近付いたのだ。
(上手く行けば追跡組みや近場の獣を誘き寄せれるだろう。)
呼吸を止めそう考えた直後に引き金を引いたエグザム。雨の中試射を繰り返し導き出した弾道軌道上に在った男の頭部が、血と脳みそを撒き散らし砕ける光景を視認する。
(減音仕様の弾とは言え獣用の重質量弾。本来なら人間へ撃つのは勿体無いが、まあ骨董品だから出し惜しみする必要も無い。)
エグザムは銃声を響かせた後、微動だにせず事後を観察。次に撃つ飛翔体を狩猟矢か鉄甲弾にするか、獲物の行動を以て決める事にした。
鈍い銃声が響いた後、次の的が壁に身を隠したまま一向に姿を出さない。風や日光を遮る壁や天井が少ない廃墟では、隠れて応戦可能な場所など限られているからだ。
エグザムの想定どおり隠匿若しくは状況判断後に死角、つまり廃墟の反対側から森北方向へ逃走可能な時間が経過した。
(血。何だ近くに居たのか紛らわしい。)
鼻と耳が状況の推移を捉え、風上から僅かだが別の狩人が迫っている事態に気付いたエグザム。新たな係争と犠牲を拵えるのを避ける為、早急な撤退を選択する。
エグザムはまだ熱い銃口に黒ずんだ整備用の手拭を詰め込み、ようやく遺跡からとび出してきた六人の賊と同様北へ走り出す。
(あの時、思いきって道具箱に仕舞った狩人の毛皮を持って来るべきだった。)
洗っても獣の汗の臭いが取れなかった牙獣の毛皮は、こんな状況下でこそ狩人達の鼻から逃れるのに真価を発揮する探索具と言えよう。だが隠れ里の狩人も参加するとの情報を聞いた時のエグザムは、湿地の毒素が付着して使い物に成らなくなる事を恐れて、装備品の予定欄から外してしまった。
(奴等は俺が湿地外に居る事を知らないから、当然俺も密猟者の仲間に見えるはず。また矢で狙われれば反撃するしか対処法が無い。)
エグザムは追っ手を待ち伏せる選択肢を放棄し、狩人達から距離を稼ぐ為に森を走り続けた。
増殖場。秘境での汎用産業を担う生産場を意味する業界用語。文明向けの愛玩生物や家畜の繁殖と育成を行う生物農場。
午後を迎えて直ぐに海岸線沿いの雨雲の壁が赤い山まで到達した所為で、南盆地の危険領域は土砂降りの雨と頻発する雷の音以外なにも聞こえない。
エグザムは早々に密猟集団を追うのを止め、遺跡が集中している鉢塚遺跡で雨宿りをしている。
「暗いな。どれだけ分厚い雲なんだ。」
湖まで続いている崩れた廃墟群の遺跡の中でも、湖から最も遠い場所に在る住居型廃墟の一室。金属部が完全に形状崩壊し土に還った廃墟は、どこもかしくも岩で出来た巨大な彫刻の様な雰囲気を醸し出している。
(壁の中に鉄筋が有るだろうに、どれだけ汚れていてもひび割れが一つも見当たらない。)
元窓枠と思しき場所の下の出っ張った梁に座っているエグザム。数刻の間待機している間に、撥水性を高めた探索具や自衛具は殆んど乾いてしまった。
エグザムは壁に寄り添いながら変わらない天気と吹き込む風を飽きずに眺めていると、視界内の林の中に動く人影を視認した。
「探索者か。いや、あれは賊の一人に違いない。」
窓から近郊の森まで遠く、必然的に境界の林で動く的を正確に長銃で狙う事は出来ない。ましてや減半した火薬量では飛距離が足らず、エグザムは立ち上がると悪天候下でも狙撃に慣れているツルマキを選んだ。
エグザムが潜伏している廃墟の一つへ不安定な足取りで歩いて来る男。拡大した獣目の焦点に憔悴した中年が苦しむ表情が映った。
(足取りが悪い。衣服には傷が無いのに負傷してる。)
口元に微量の血が垂れた跡が有り、唇が紫色で明らかな貧血状態を示している。左目を閉じ右目を細めながら、右手で胸を押さえて痛みを誤魔化しながら歩いている様に見えた。
エグザムは標的が射程内に入ったにも関わらずツルマキの構えを解き、再び壁に寄り添う様に隠れる。その男は自衛具らしき装備を所持しておらず、荷物を捨てた事を暗に示しているほど軽装備だったからだ。
(後続は居ないし追っ手らしき影も無い。自力で此処まで逃れて来たのか、或いは獣にでも追い立てられたか。)
エグザムは歓迎出来ない来客を尋問する為に三階の窓枠から少しだけ顔を覗かせて周囲を確認した後、手摺が無くなった石の階段を音を立てず下りて行く。
(殺した後は腹の足しにでもするか。いや、ここで捌くのは不味いな。)
つむじ谷で狩人をしていた時と同じように、此処での出来事をどう処理するか考えつつ一階通路に下りた死神。たった数段の階段を息を荒くしながら登る獲物へツルマキを向ける。
ただでさえ通路には窓が少ないのに、厚い雲で日光が遮られている所為で夜のように暗い。獣の目でも光量の調節に時間が掛かるのなら、当然男が武器を構えた探索者に気付くのも遅かった。
「たのむ 助けてくれ」
扉が設置されていた形跡すら無い入り口で崩れる様に膝を突き、呼吸を乱しながらうつ伏せに倒れた男。顔だけをエグザムに向け、口と一緒に懇願する眼差しで死神を見上げる。
倒れる動作を獣目とツルマキの照準が追い、沈黙を以て男の懇願を無視するエグザム。予想以上に瀕死の男を冷静に観察しつつ、危険を感じ闇に溶け込むよう後ずさった。
「苦しいのか なら名と近況 それとその病名を教えろ。」
男は咽ながら吐血しつつ、弱々しい口調で名と身の証を吐いた。エグザムにとってそれらは記憶にすら残らない情報だったが、血を吐く原因と成った元凶の名を告げられると反射的に引き金を引いてしまう。
(幻想蝶の鱗粉を吸うと内側から壊されるのか。成る程、あの翼獣が殺人虫と言われる所以だな。)
エグザムは幻想的な羽を羽ばたかせる死の象徴を思い出し、脳髄を貫通し石と同じ硬さの床に刺さった杭を抜く素振りすら見せず、その場から逃げる様に階段を下りて入り口から外へ出た。
「確か崩壊症とか言う名だったか。まさかこの目で奇病を目の当たりに出来るとはな、つくづく飽きない場所だよ。」
エグザムは男が刻んだ足跡を辿り南の森へ姿を消した。装備を整えず危険な害獣と相対する事は死を意味していると、再認識したからだ。
幻想蝶。現地では古い名で殺人虫と恐れられている希少な固有種の翼獣。南盆地西側の鉢塚遺跡でのみ生息が確認されている。
遭遇例が少ないのは生きて帰って来た者が少ないのが原因で、現在に至るまで捕獲の成功例すら無い。当然、生態は謎とされている。
十九日の朝、エグザムは霧の先で青空が薄っすらと見える空を見上げて呟く。
「おそらく北からの寒気の影響だろう」
山間部で補給と休息に丸一日を費やし、日の出より先に目覚め再び湿地流域に突入したエグザム。流域の中心部へ近付き始めた矢先、急激に気温が下がり霧が出始めた訳だ。
林より密度がやや少ないが、相当な面積を誇る湿地中心部の樹林。もう少しで熟し始める緑や白い巨大果実が巨人樹の傘で幾つも実っている。
(植物が本当に大きい、まさに規格外だ。)
エグザムは沈み易い足元に注意しつつ、一定の速度を保ち更に中心部へ歩いている。霧で視界が限られると見える物が更に大きく感じ、距離感が狂いそうになる錯覚に興奮していた。
(泥の毒素の中でも種を残せるよう巨大化したと聞いた。人は無理でも獣なら実を食えるだろう。)
方位盤を頼りに少しだけ蛇行しながら西へ進むエグザム。霧の先に居るだろう相当数の害獣を警戒しながら歩き続けた。
湿地流域の中心から南の地域では植物の巨大化とそれに伴う害獣の特異生態が目立つ。泥クラゲや穴虫等の抗毒解毒機能を有する生物より、雑食能力を有する植獣や菌糸菌類系の植生が数多く見られるほどだ。
「この辺りの巨大樹は芽が出てから半年程度だろう 林にしてはとても若い」
エグザムは口と鼻を覆う緑の手拭を巻き直し、ゴーグル表面に付着した水滴を手袋で拭き取る。すると霧の中で妖しく蠢く影を視認した。
(茸の子の群だ。岩山一つを丸々覆ってやがる。)
一つ一つが自身の身長より大きい青毒茸の小山が進路を塞いでいて、大きな笠を傘の如く開閉させ、生物にも寄生出来る胞子を空気中に放出している。
エグザムは霧で視界が悪い中、空気中を漂う見え辛い危険物から遠ざかるように迂回する。この湿地では不用意に物に触れては成らないのが暗黙のルールなのだ。
再び西へ進路を戻して歩き始めると、今度は右手前方の霧の中から巨大な花弁の壁が姿を現した。
(また隠れ花だ。流石に二度も中に入ったりはしないぞ。)
巨大毒茸と同様、害獣の住処である可能性が高い白い花から離れるエグザム。完全に離脱するまで用心深くツルマキを握り締め、白い壁の隙間から決して目を離さなかった。
抜かるんだ地面は足音や衝撃を吸収し、霧が漂う湿った空気は獣の臭いを遮断してしまう。地面に纏わり付く水蒸気の様な霧相手に惑わされつつ、エグザムは音を頼りに湿地流域内で唯一の危険領域へ足を踏み入れた。
エグザムは泥に大半飲み込まれつつある構造物の残骸を見上げる。
(転がっているのは旧時代の橋の残骸だろう。あの瓦礫を集めれば相当太い柱を復元できる筈。)
地下茎野菜と似たような葉を生やした巨大植物が、少ない泥以外の足場で根を絡み付かせて自生している。霧で青さを増す葉の表面には無数の毛が生えていて、巨大な水滴を幾つも保持しながらも、垂れ下がっておらず重さは感じなかった。
かつては高い位置に在っただろう砕けた道の残骸の間を歩くエグザム。危険領域の象徴的存在と一体と成った感覚を独り占めにする。
小屋より大きく穀倉倉庫と同じ大きさの断面が泥の中から曝け出されていて、霧と合わさり無数の白い繭を不気味に讃えていた。
(菌糸の類ではないな。この辺りで繭と言えば土蜘蛛ぐらいか。)
黄色い菌糸の様な糸状の粘膜で、壁から吊るされる形で植えつけられた無数の害獣卵。一部を除いて半透明の膜の中で足を絡め丸まった蜘蛛達が、やって来たばかりのエグザムを明確な意思で見つめていた。
(音が少ない道を選んだ結果、これか。)
殆んどの卵か一斉に激しく揺れ始め、次々孵化しようとする負荷に耐えれず糸が千切れて落ちてしまう。
エグザムは素早くツルマキを折り畳み腰の尻上に有る金具に固定すると、同じ場所に収まっていた鉈を引き抜いた。
上手く膜を突き破った黄色い斑模様の子蜘蛛達が、落ちた卵の残骸から這い出て来る。危険領域の霧の中、無闇に一対無数相手に逃げるのは得策とは言えない。
「動く物をならなんでも良いのか 実に獣らしい」
先手必勝と豪快に泥を撥ね上げ走り出したエグザムの動きに釣られ、階段状に並んだ元支柱らしき残骸へと蜘蛛の群れが押し寄せる。一匹一匹小動物より大きく既に立派な小型害獣と言える獣の群を相手に、誰が見ても泥の上で戦うのは自殺行為と映るだろう。
子蜘蛛達は泥を纏った毛深い脚で瓦礫を汚しながら、瓦礫の高台に跳び乗ったエグザムを牙で噛み砕こうと四方から迫った。
エグザムは素早く身を翻して包囲の輪を抜けると、一匹の蜘蛛を鉈で切り上げる。
(柔らかい。脱皮する前だから当然か。)
試し斬りで脚を一本失なった子蜘蛛から目線を、着地場所に選んだ瓦礫の断面へ移したエグザム。次の足場側面から無数の蜘蛛の脚が現れていて、既に退路が絶たれた後だった。
(相当腹が減ってるな。相手してやろう。)
断面でも凹凸が荒い場所に着地したエグザム。脚へ纏わり付こうとした一匹を蹴り飛ばすと、俊敏な小動物の様に垂直な瓦礫の面を伝いながら鉈を振り下ろす。
空中でエグザムに頭を潰され瓦礫の隙間へ落ちて行く同胞を見ても、動揺らしき素振りすら見せない害獣達。何故なら、邪魔が減る分だけ少ない餌にありつける確率が上がる事を本能的に理解している最中なのだから。
エグザムは獣以上の俊敏さと瞬発力で黄色い生まれたての害獣達を屠り続ける。大型害獣の鋭利な爪で引き裂く様に、次々蜘蛛の子散らして瓦礫を黄色い体液で汚すのだった。
「遅い!」
残骸上から襲い来る一匹の前足を掴んで断面の角に叩きつけた。
脚の根元に限界以上の負荷が可動範囲外の方向へ掛かったようで、左手に捥ぎ取ったばかりの毛が生えた脚を握ったまま、エグザムは鉈を別の個体めがけ振り下ろす。
(そういやこいつ等食えたっけ。)
狩猟本能全開の一撃で叩き斬られた一匹の子蜘蛛。断末魔を上げ絶命する最中踏み潰された。
エグザムはそれまでの狩の成果を強調するかの様に一際高く跳躍し、残骸の頂上部に着地して汚れた靴底で音を鳴らす。
その行為を目で追い脚でも追おうとした子蜘蛛の生き残りは、自らでは届かない高台に獲物が居る事に気付く。そして目の前で動かなくなった同胞達の亡骸を見て、本能的動作による全力跳躍を以て逃走を選択した。
「残ったのは十匹前後 これで当分は人を襲わなくなるだろう」
エグザムは左手に握っている脚の根元を観察しながら、鉈を握る人差し指で口元を覆う手拭をズリ下げた。
(毒素らしき異臭は無い。生まれたてだからか?)
湿地に生息する有毒種の多くは後天的に毒素を溜め込む生態で、匂いを嗅ぎつつ我慢できずに千切れた筋繊維から洩れた汁を舐め取るエグザム。見立てどおり産まれたては無毒で間違い無かった。
「脚の味は生のイカと似ている 微生物が少ないなら泥で汚さない限り長持ちしそうだ」
全ての生命は生まれ死ぬ瞬間に輝き、その片鱗と意義を物語ろうとする。故に、彼の手中に納まった只の獣脚こそ、生命の輝きを示す決定的な在り処と言えよう。
エグザムは背嚢脇の差込帯びへ強引に食料を差し込むと、滑り易く成った足元に気を配りながら瓦礫の山を降りた。
相変わらず快晴の下でも霧が晴れる気配すら無く、エグザムは只ならぬ状況を理解しようと地下図書館で得た知識を総動員する。
(上の空気は冷たいだろうが、以前の時と違い霧には流れが感じれない。いったいどうなってる?)
再び歩き出したエグザム。瓦礫の道から遠ざかり岩と傾いた遺跡が並ぶ巨樹の林を歩み、心なしか霧が濃く成ったと気付いた時には、既に辺りは同じ巨樹しかない単調な霧の世界であった。
「霧が流れて来る」
エグザムは霧に対流の変化を見つけ、どこぞの迷宮の出口でも目指す様に走り出した。
足が湿地とは思えない程硬い泥層を踏み締め、前方の太い幹林の間から流れて来る霧を見つめる。ゴーグル越しに水滴が少しづつ付着するように成り、エグザムは走るのを止め立ち止まる。
(天気が崩れ、そうにはないな。相変わらず空は蒼い。)
なら何故ゴーグルに水飛沫が当るのか。そう考え視線を木々の間へ戻した時、よそ見する前より濃度を増した霧に大きな影が浮かびあがった。
エグザムは本能的に不透明な状況である事を理解し、素早くその場に伏せる。
(霧が邪魔で見えない、まるでアレが霧を生み出してる様子だ。)
その影は通り道で見かけた巨大な茸モドキより大きく、水妖を更に肥大化させた様な輪郭をしている。輪郭が不気味に歪む同時に不愉快な音を発生させていた。
それは意思を以て行動しているようで、正体不明の影は進路上の巨大樹を溶かしながら北上を続ける。エグザムは新手の獣の気配を探ろうと、しばらく追跡してから正体を暴くことにした。
(霧、いや。果たしてこれが霧なのかどうかすら怪しい。湿地流域の害獣情報に有る不定形の獣は水妖だけだ。)
謎の未確認種か組合の益獣なのかさえ不明な軟体生物の後ろをゆっくり追従するエグザム。吐き出される霧が輪郭以外を絶妙な角度で隠匿していて、どれだけ待っても巨樹が溶かされ倒れる音が鳴り響くだけだった。
(そうだ。足跡を調べれば何か解る筈。)
エグザムは鈍い影を追跡するのを一旦止め、倒れた巨樹の残骸を飛び越える。足跡の形や大きさからなら生物の見当がつくと思った矢先、硬い地面を均一に地ならしされた様な一本道と出くわした。
何かを泡立てかき混ぜる様な音が響く中、霧が薄く成り始める道で呆然と立ちすくむエグザム。
「木が溶けて無くなってる 有り得ん!」
白爺の口癖が勝手に口から飛び出した瞬間、エグザムは何かを感じて霧の発生源へ振り返る。
眼前に広がっているのは廃墟と巨大植物のみで、先程まで林の様に等間隔で聳え生えていた巨樹が一本も見当たらない。
(幻か、いや違う。足跡が途切れてるが間違いなく何かがあそこに居た。)
エグザムは地ならしされたばかりの道に足跡を残しながら、硬さを増した足場が途絶えた場所で立ち止まる。
土の表面が僅かに先端だけ濡れていて、エグザムは手で触れずに扇いで鼻へ匂いを送り込む。
「腐葉土の枯葉が腐った匂いだ 此処から南に在る森はすべて汽水域の筈だが」
どれだけ調べても忽然と姿を消した謎の存在を探る事はできず、継続して調査に使えそうな証拠も見つからなかった。
快晴の青空を照らす太陽が中天をとうに過ぎている事に気付いたエグザム。一本道を辿ろうと画策した時に気付いた事で、それは依頼の終了時間が迫っている事を意味していた。
探索期限。探索者が秘境で活動するには許可証明の所持と、終了時間を守らなければ成らない。本来それを見張る為に組合が存在し、今でも営業の傍ら探索者や秘境で活動する者を監視している。
任務を終えイナバ三世へと帰還してから数日後。調査団は組織解体され名目上のみ「イナバの砦」と命名され、事実上の前線基地として機能し始めた。
それから長期に渡り細々とした任務ばかりが続いたのでエグザムは、謎の未確認種の情報を求め地下図書館に篭り続けていたが、それも雨季が終わろうとしていたある日、終わりを告げられた。
結局のところ手掛かりすら発見できず拗ね、自室で余った非常食を齧っていたエグザムに対し、この瞬間、現地専属顧問の勅命が下る。
「狩猟者エグザムに命じる 屍海岸での害獣駆除作戦に参加し周辺から大型害獣を駆逐せよ 明日出立し 以降一期間を行動期限とする」
十四歳の亜人の少女は形式化された決まり文句を続ける。正規軍属ではないにも関わらず、赤い獣目は決意の眼差しで部下を見上げた。
「予定では作戦期間内において域内の海岸線に対し上陸作戦が実行される なので貴君の行動終了時期は作戦の成否により変動するだろう」
質問せず敬礼を以て了承したエグザムを見ると、カエデは何も言わず扉を開けて退出してしまう。何時もどおり一方的に用件だけ話し終わると、解散とも告げずに別の仕事に取り掛かるのだ。
エグザムもクルリと反転し部屋奥の道具箱の前に立つ。久々の狩を思い浮かべると自然に笑みがこぼれ、ついつい配給品の乾パンへ手が出てしまう。
「雑魚共では飽きていた頃だった これでようやく奥地で狩が出来る」
砦が機能して間もない頃から物資の補給能力が大幅に向上し、希少金属を用いたツルマキの備品交換が容易に成った。それまで消耗品を労わる様に使っていたエグザムにとっては、まさに手足が縛られた状態から解放されたのだ。
(作戦に参加する以上、他の連中とも歩調を合わせる機会が有るだろう。探索団の様に汎用消耗品を多めに持って行くとして、竜相手にコレが本当に効くのだろうか。)
エグザムは骨董品の長銃を一方の箱の上に置くと、押し付けられたまま放置していた弾薬箱の留め金を外す。
神の園に住まう者達が竜と呼び恐れている複数の上位獣達。硬い鱗や厚い外皮と筋肉を有し、何れも人を簡単に踏み潰せる体格を誇る、まさに害獣と呼んでも違和感無い捕食者達だ。
「重さは同じぐらいか 先が三角形の様に尖っているが 確かに体内に破片が残る仕組みだ」
東大陸南を支配する大国「大部族団」から唯一産出する鉱石を溶かし、錬金術で抽出した特殊金属を用いた鉄甲弾。その黄金より黄色に近い三角錐の弾頭部が、反応管の光と合わさりエグザムの手元で殺意を放っていた。
「金が掛かる因子抑制弾 竜に使うならまさに竜殺しの弾か」
砦が結成された当初。骨董品の長銃が旧式の規格で大量生産された代物である事が判り、エグザムは新設されたばかりの銃工房へ予備の銃と弾を持ち込んだ訳だが、数日後に何故か呼び出された補給部へ向かうと、注文した代物と違う大量の高級品を押し付けられてしまったのだ。
(こいつを仮に心臓にでも打ち込めば、俺が竜でも直ぐ死ぬだろう。噂では汚染された獣肉は只の肉に成るらしいが、真実は試す他に手段が無い。)
欲を掻けば緋色金製の杭も欲しかったが、特殊金属の用途を考えると合理的とは言えず、純粋に新たな玩具を試してみたい気持ちが勝った。
なのでエグザムは、かさ張るだろう弾薬用の新たな提げ袋を装備に追加する為、真っ先に作業台の上に置いた。
「断絶海岸を通るか南盆地を通るか 道は実質二つに一つだ 作戦は駆除と言っていたが我侭を貫こう」
分厚い板同士を金属製の枠や鋲で固定した作業台。何時の間にか探索に必要な装備が敷き詰められ、エグザムは大量の備品を袋詰めし始めた。
(おそらく帰りまでに装備の大半を捨てる事に成るだろう。どの道でも海道を通る必要が有る。)
道楽用の炭束と見紛う程の杭の束。裁縫道具も追加すれば一張羅が作れそうな量の包帯。矢筒と鉈が一組に巻かれた巻物が二つ。鎧の拘束具に取り付けたばかりの小袋や新たな保持帯。今まで被っていた分厚い鞣革の帽子を被せた兜帽子とガスマスク付き面当て。濃い緑の防水布を施した長銃と全身用の雨具。そして多数の消耗品と獣肉。
探索者を示す銅色の探索標と狩猟者の証である赤いハチマキが無ければ、誰が見ても戦場へ赴く傭兵や兵士と見間違えるだろう。本来探索者や猟師は軽装であると知られているが、今のエグザムには関係無い話と言える。
「飛竜相手に白爺も苦戦したようだが コレで空へ逃げる前に仕留れる」
エグザムは調整した長銃の装填棒を引き、薬室から竜殺しの弾を排出しながら、緑の手記に描かれた巨大朝鳥を思い出す。
(鳥だからな。きっと獣の味がする鶏肉なのだろう。)
笑みを浮かべながら殺しきれない様な笑い声がその部屋から洩れ出ている。その所為かその扉を恐れてか、その通路を通ろうとする者は限られていて、今も団員達は獣の間と呼び噂している事だろう。
イナバの砦。表向きは調査補助の軍と民間開発部門による合同探索団で、秘境調査と独占開発を企てた辺境伯と隠れ里の代表が暗躍する統合開発事業団。
「我々は秘境での明日を勝ち取り人々の安寧を約束します」と、赤い獣目の少女は宣誓した。
短い雨季が終わり本格的な夏の訪れを意味する夏虫達の鳴き声が、今年も獣や人々の鼓膜に存在を訴え始めた。潮風の影響か虫達が殆んど生息していない筈の断絶海岸も例外でないようだ。
統一暦百五十年の今年も五期目に突入してから六日目。エグザムは南盆地の南端から水没した遺跡に渡された天然の橋を渡り終え、海の蔓草と呼ばれる海草が覆う廃墟の屋上から晴れた断絶海岸を見渡している。
(凄い数の遺跡だ。もし遠方の壁が今も結界として機能していたなら、相当数の人間が住める環境に成っただろうに。)
エグザムは巨額の費用と途方もない労力が潰えた瞬間を想像し、足元の人工石材をまじまじと見つめた。
浸透している定説によると、断絶海岸内の遺跡群は水没する前に建てられた旧時代の遺跡で、様々な形式用途の人工物が侵食から取り残され結果、島の様に湾内各地に点在し形成された環境だそうだ。
消耗品の自衛具の一つ鉄の槍で、足元の構成物質を削ろうとしているエグザム。
「硬い 此処も失われた技術遺産だな」
経年劣化を計算に入れて設計建造された住居棟は、一見すると人工石材を型枠に流し込んみ一体成形した構造物に見えなくもない。しかし内部の原子結合度は人工素子で固め高めてあるので、同じ一体成形品の鉄の槍より何倍も硬いのだ。
更に南へ伸びる海道の先を見つめていると、空の至る所で海鳥の集団が飛びまわり、血や硝煙の臭いが潮の香りに混じって運ばれて来る。其処は紛れも無く獣の世界であり、海産物が豊富だからと迂闊に船を漕ぎ出せば獣の餌に成り果ててしまう弱肉強食の海なのだ。
エグザムは廃墟屋上同士に渡された木製の板橋を軋ませ渡る。足場として有効利用されている遺跡には獣が少ないが、周囲の傾いた廃墟や水没し崩れた遺跡はそうとも言えない。
「猟師達も大変だな 海道警備中に海の中へ落ちれば助からないだろうに」
海岸内に住まう生物の多くは陸と同じく体が大きい。当然ここでも人間は狩られる側で、人の味を知った獣が今も何処かで息を潜めて獲物を待っているのだ。
「何処かに暴れ魚が居る筈だが 海面がどこも緑で深さがわからん」
エグザムは岬から続いた長い橋を渡り終え、これから通るだろう横倒しになった居住棟の墓場を見渡す。
植物プランクトンで濁った緑の海面すれすれを、翼獣や鳥獣達が獲物を探しながら争い競争している。それらは風に舞う木の葉の様に小さく見えるが、白と黒の集団が忙しなく飛び回り広い縄張りを誇示しながら物語る。
(海鳥は餌場を知らせる風見鶏。とても血の匂いに敏感だと爺さんが言っていた。昔は素潜りで魚介類を捕る猛者が居たらしい。まあ、冗談だろうな。)
「それにしても人が居らん まだ相当数が活動している筈 抜け道か隠れ家に居るのか」
見渡す限り遺跡や岩小島が浅瀬に密集している墓場を歩くエグザム。張り巡らされた道は全部海道として定期的に整備されている筈なのに、落ちた橋や切れた縄が目立つ。
(俺の装備では海に落ちたら直ぐ沈んでしまう。安全そうな経路を選びたいが、見る限りそんな場所は無いようだ。)
廃墟の中には金属製の構造物や建物が存在する。人々はそれら失われた超技術の廃材を利用し、積極的に足場へと改造されていた。
エグザムは隣接する住居跡の最上階同士に渡された長い鉄骨を渡っている。下で波しぶきを上げる磯が遺跡の基礎と同化していて、流れて来た多くの漂流物が溜まっていた。
「死体は無い 全部食われた後か」
革靴を履いた片足だけが下の波間に浮かんでいる。エグザムは視野を拡大させ波に揉まれる靴を観察すると、建築職人が愛用するゴム足袋の類ある事が解った。
磯を見飽きたので素早く鉄骨を渡り終えたエグザム。最上階の室内で一度荷を解き、小休止がてら手記をめくり始める。
(この様子では帰り道が同じとは限らない。確認を怠って島か遺跡で孤立するのは避けたいな。)
湿地流域から運ばれた養分が磯辺で多様な生態系を支えていて、探索街で消費される魚介類の半数はこの緑の海で捕れる。それだけに危険な獣が多く、漁をするのは決まって猟師の仕事と言われている。
(ばったり害獣と鉢合せする可能性が有る。俺にとって一番脅威なのは抜け道を知らない事だ。刻々と変化する環境に詳しい知り合いも居ない。危険を覚悟で東の海岸へ辿り着かねば。)
「そう言えばあの壁を白爺は外壁と呼んでいたな あれを辿りながら遺跡の道を北東の岬へ進んだらしい 二つ名持ちの暴れ魚を討伐する為にわざわざそんな事する必要が有るのか?」
私が隣の星で眠っていた頃、貯水湖外延壁の工事が始まったらしい。あの当時なら南西の半島から北東の山々までを壁で遮るのに二年程度の工期が有れば十分だった筈。辺境の惑星と言えど手抜き工事は見逃されないので、経年劣化による損壊は考えれない。何かしらの理由で建設が中断し、放棄された建設用設備が遺跡化したと思われる。
エグザムは糞や長年の埃が固着した窓枠から海側の水平線上に見える青い壁を見つめる。
(資料によると昔の探索者は外壁を狩場との往来に使っていたらしい。古代遺跡なら今でも通れる筈、問題は入り口が何処に在るかだが。)
光の屈折によりぼやけて見える構造物は所々隙間が開いていて、とても道が在るようには見えなかった。
(廃墟と廃材の道を渡れば基部が見える場所まで行ける。潮風に何時までも当っていると装備が痛む。獣の巣の一つくらい強引に突破して外壁を目指した方が早く着くかもしれない。)
エグザムが目指す屍海岸は、南盆地東の屍の森と「竜の巣」と呼ばれる山岳地帯の南側に隣接している。南盆地を横断して湾内深部の屍海岸を目指す事も可能だが、エグザムは獣の脅威が少ない断絶海岸を通る方が消耗が少ないと判断した。
海道。湿地流域の海岸線「大海漂林」から断絶海岸各地と経由し、南盆地東沿岸へと張り巡らされた古い探索道の一つ。探索業の衰退と共に規模が縮小し、現在は大海漂林から南盆地南端部までしか整備されていない。したがって湾内の深部へ進む場合、自前で道を造る必要がある。
錆た配管で組まれた足場の跡。誰かが残した垂れ下がったままの縄。石灰岩の岩礁に寄り掛かる様に倒れた鉄塔。骨組みだけ残った何かの跡地は今や生物の隠れ家と成り、そこへ打ち寄せる波が様々な漂流物を集めている。
エグザムは目を閉じ耳を澄ませる。音は何処かの波止場と似ているものの、残骸に引っ掛かり波を被り続ける無数の屍から放たれえる死臭は、最盛期を迎えた漁村を越える生臭さだ。
「獣肉が中途半端に発酵してる 潮を被った所為か獣因子が原因だろう」
煙突の様な謎の突起物が並ぶ、工場らしき廃墟の屋根を進むエグザム。高所に設置された足場同士に渡された長い梯子は、今も現役で歩く重量物を支えている。
「ん 風が吹き始めた 西風か雲行きが怪しい」
この地の天候に詳しくないエグザムでも、上空の気流の流れぐらいは予想できた。雨風程度で害獣がねぐらへ帰るとは思えず、エグザムは波や風が強くなる前に次の島へ渡ろうとする。
すると西から強い風が配管の空洞に流れ込み、空気の塊が押し出され振動が伝播しては、工場の排気口を一斉に共鳴させる。
(獣!いや、風の悪戯か。)
振動が屋根を支えている支柱伝いにエグザムまで届き、音がまるで風に泣かされる廃墟の悲鳴に聞えた。
(遺跡からも性質の悪い臭いがする。酸っぱい薬品に近い臭い、追い風だから当分続くな。)
梯子を渡り終えたのもつかの間、血の匂いが風に乗って運ばれて来る。その臭いはエグザムの良く知る匂いだった。
「西の海岸沿いで一騒動 探索団が竜種にでも襲われたのかもしれない これでは他の獣達もつられて騒ぎ出すぞ」
今は時間が惜しいと考えたエグザムは瓦礫の足場を無視して、止む終えず跳び乗った配管を伝って直接次の島を目指し走り出す。
(潮が引き始めてから狩が始まるようだ。今も昔もそこだけは変わらないらしい。)
食事の時間を伝える騒ぎが水面の波紋の様に広がり、直ぐに害獣達の鳴き声が夏虫とは一味違う喧騒をもたらすだろう。潮の満ち引きを感じ取る魚の様に狩られる側に回った事を感じ取った者達。廃墟同士を繋ぐ太い配管の上を走るエグザムのように、安全な場所を求め危険を承知で逃げ回る。
「だいぶ痛んでるな 強度は大丈夫だろうか」
大きな亀裂の穴から赤茶色の配管内部へ侵入したエグザム。ひとまず姿を隠せはしたが、幅広く狭くないぶ厚い壁には所々隙間が開いていて、そこから漏れる光に一抹の不安を覚えた。
エグザムは少し濡れた配管内を一歩ずつ慎重に踏み締め、滑って転んだ衝撃で穴が開き高所から海へ落ちないよう歩く。
(流石に海の真上に在る所為か潮風の影響を受け易いようだ。工場の屋根より慎重に歩かねば。)
しばらく歩くとヒビや欠落箇所が増え、歩くたびに不吉な音が配管内を揺さ振る。
「内側からでは配管が何処に続いているのか解らない」
エグザムは配管天井部に海の輝きを映す丁度良い大きさの穴の前で止まり、顔だけ逆さまにした態勢で現在地の確認を行う。
「下はまだ海 島はあと少しだな」
立ち上がり再び歩き出すエグザムは、長い年月を経ても水平を保つ配管内部を歩き続ける。時折穴から入り込む風が配管を振動させ、その度にエグザムも低い声を上げた。
断絶海岸。かつて陸地だった頃に建設された壁と関連施設が海面上昇により水没し、長い年月を経て多様な生態系を育む秘境と成った巨大事業跡。
外壁が外海の海流を阻む防波堤として機能した結果。陸地から流出した土砂を溜め込み、至る所で浜辺を見る事が出来る。地元では遠浅の海を内海と呼び、探索街南方の海岸線を外海と呼んでいる。
周囲を崖で囲まれた孤島に、長い配管を支える鉄塔の一つから降り立ったエグザム。害獣で騒がしくなった曇り空を警戒して、しばらく島で滞在する事にしたのだ。
(不幸中の幸いか森の中に隠れられそうな旧時代の廃墟を見つけたが、円柱の形をした廃墟を直に見るのは初めてだ。)
島内でひっそりと佇んでいる年月を感じさせない綺麗な円形の構造物。周囲が林に囲まれていながらも、木々からは夏虫の鳴き声が聞えず、五階建ての屋上に小さな森が乗っかる様に茂っている。
エグザムは調べる為に廃墟に近付くと、黄ばんだ外壁を手袋越しに触る。
(表面が脆い。いや、これは埃か塗料の類なのか?)
薄っすらと黄ばんだ外壁は岩のように硬く、槍で叩くが跳ね返され黄色い粉が石突部に付着した。
「残った塗料が変色している 擦ると粉が出てくるが今まで雨風に晒されたとは思えない 水を弾くのか?」
外壁には血痕や糞尿の痕が無く、廃墟内からも生物の気配を感じない。周囲の木々は円形の廃墟から少し離れており、エグザムが周囲を調べるのに手間はかからなかった。
どうやら廃墟は土に埋まっているようで、地下含め五階建て以上の建物だとエグザムは推測した。
(時間を無駄にしたくない。あそこから手摺を越えて通路に入れるだろう。)
エグザムは一部盛り上がった坂を登り通路と思しき手摺へ体を伸ばすと、指先にだけ煉瓦を撫でる様な感触を感じた。
「おわっ」
今度は爪先が土を大きく削り足場が無くなる。己の指に掛かる全体重の重さを実感しつつ、エグザムは指が硬くなる前に体を引き摺り上げる事にした。
「ごほっ 少し吸い込んだか」
腹袋が黄ばんだ白い粉だらけに成りながらも、エグザムは何階かの円柱側面通路を見渡す。地面からでは死角になっていた場所に何か有ると期待していたが、残念ながら有ったのは土だけだった。
(まあいい。隠れる場所が見つかっただけマシだ。)
エグザムは腹袋に付着した汚れを叩いて落としながら、外観同様傾斜が無い通路を歩いて、外周を見て回った時に発見した目当ての侵入口へと辿り着く。
「水の音と匂いがする 周りの広葉樹とは違う匂いだ」
暗い通路は入ってすぐの場所で屈折していて、側面通路から内部を窺う事は出来い。しかしエグザムの鼻は、密林で嗅いだ蔓草と似たような匂いが通路から洩れている事に気付いたのだ。
エグザムは鉈を引き抜き外観同様少し黄ばんだ通路へ入る。心なしか冷たい空気が奥から流れていて、曲がり角の先は予想したより明るかった。
(中空構造、天井まで吹き抜けだ。)
太い根や蔓草の類が縦穴の壁伝いにひしめいている。屋上から穴の内壁を通り暗い地下まで太い根が垂れ下がり、何処からか水が流れる音が聞こえる。
エグザムは真上を見上げ、螺旋通路の天井から垂れている薄く細長い大量の葉を見つめる。葉には緑と白い部分が有り、日が差し込まない薄暗い環境に適応した固有種と判断した。
(根や幹が複雑に絡まっていて、どれがどの葉だか判らん。下から海水の匂いが僅かにするが、ここの植物は塩分を完全に分離出来るのか?)
日は既に中天を過ぎた時間帯。エグザムは、地下へ伸びる闇の穴を手摺から見下ろしながら螺旋通路を登り始める。
すると雲から太陽が顔を出したのか突然縦穴内が明るくなり、見下ろしていた闇の穴の中心に輝く水面が現れた。
(そうだ、島に生えている木は海漂林の類ではなかった。島自体が雨水を溜めているらしい。)
エグザムは螺旋通路を登りながら警戒しつつ、扉らしき残骸が倒れた室内を覗く。
その部屋の床は入り口の段差まで水没していて、僅かだが段差から零れた水が螺旋通路に流れている。天井から垂れ下がった太い蔓草が水を吐き出すかの様に、天井から落ちる水滴が縦穴へと筒抜けに響いて止まない。
「降った雨が溜まったのか ん? この臭いは」
何の前触れも無く生ものが腐った臭いが空気の対流に乗って運ばれ来た。エグザムは何時もどおり緑の手拭で鼻と口を覆う。
(外では、臭いさえなければ船乗りが喜びそうな風が吹いていたな。手記に載ってるここの情報が少ないのは、爺さんが風の臭いを嫌ったからかもしれない。几帳面な性格だったから、あながち有り得なくもないだろう。)
今のエグザムは手記の情報をあまり当てにしてないが、それでも頭に留めておく情報が二つ有った。
(暴れ魚や海竜が吐く臭いは、汚泥や汚物内の微生物が出す微粒子の臭いに匹敵するらしい。それでも鼻が知覚出来る類の毒だろうから、神経ガスより何倍もマシだ。)
神の園での死因で最も多いのは、誤って毒素を吸引した事による窒息や幻覚によって誘発する死亡行為だ。場所によっては害獣と遭遇する機会に匹敵し、必然的に相乗効果で死亡確率が跳ね上がる。
エグザムは背嚢からガスマスクを取り出し、兜と帽子を外してから手拭の上から装着する。
本来地肌との間に何かを挟むと機能を損なう恐れが有る。だが人間では無いエグザムを殺せる毒素は限られ、それらはガスマスク等では防げないのだ。
(この様子では今も竜たちが人間より幅を利かせていよう。屋外で活動している者が見当たらないのは、確実に抜け道が在るからだ。それに他の狩猟者は今頃南盆地に入った頃だな。)
再び螺旋状の斜面を登り始めたエグザム。既に屋上の木々が見える位置まで登っていて、通路を突き抜ける太い根の隙間を難なく通り抜けた。
道を塞ぐ蔓草を鉈で切っては踏み潰す。繰り返しながら屋上へ続く通路を進んだ先、エグザムは木々の間に埋没した階段を発見する。
「駄目だ 完全に塞がってる」
目の前の屋上入り口は腐葉土の様な泥で覆われていて、エグザムは根と格闘していた少し前の自身の立ち位置を思い出し比べる。そうしてエグザムは、何時の間にか廃墟の天井部より高い位置に居る事に気付いた。
(湿度が高い。気温が上がったと言うより、まるで温室に入った気分だ。)
エグザムはそう思い返しながら進むのを諦め。再び木の根の間をすり抜け今度は地下へと向かった。
因子抑制弾。特殊金属「緋色金」は数ある獣因子の中で、頑強さに定評が有る鉱物特性を中和出来る数少ない血清素材だ。
緋色金は血液に溶けやすい性質を有し、細胞に作用している因子を細胞核を破壊せず無効化できる優れもの。また、人が獣肉を食す場合は薬品に浸しながら煮沸する必要が有り、それらの調理法は一般的な常識として定着しているが、緋色金が産出する世界樹周辺だけはこの限りでない。
気分転換に細長い葉を兜の穴に複数挿し、幼少時を思い出しながら階段へと下りて行くエグザム。何度も反響する水滴の音を聞きながらある程度階段を下りると、小波の音と鼻が異臭を捉えた。
(潮と死臭。今度ははっきりと臭う、地下洞窟か何かが海と繋がっているのか。)
エグザムはツルマキを闇へと構え、音を立てずに地下深くの階段を進む。
(手記によれば断絶海岸に住む獣はどれも厄介な相手らしい。地の利を活かせる能力と生態を有し、縄張りに入った人間を見つけたら必ず襲い逃さない。とまぁ海底に溜まる骸骨の絵は、後から俺が付け足したんだが。)
全ての個体が海中に生息しているのでは無く、陸地をねぐらに狩を行う種も居る。この海岸では暴れ魚や海竜が生みに棲み、海熊や岩鳥、そして飛龍が沿岸部と遺跡に生息する代表的な害獣だ。
エグザムは階段から降りて高い天井の中央に在る渡し通路から、廃墟が侵食により半ば天然洞穴と化した海の道を見下ろす。
(こんな狭い場所に巣を作ったのか、規模からして海竜の物だろう。)
海竜を解り易く説明すると、魚の胴体に蛙の後ろ足が生えた巨大なトカゲ。体色の違いから何処を縄張りにしているのか簡単に判別できる。
「この場所なら翠の鱗を纏った個体だろう 一先ず不在で助かった」
エグザムは天井通路から巣を見下ろすだけで近付いたりしない。今居る天井通路から下へ降りれる階段が崩れていて、何より家主に空き巣の匂いを覚えられると後が怖いからだ。
(この音は水が流れる音。水筒の残りが減っていたから、飲めそうなら今の内に補給しよう。)
エグザムは音を頼りに根が絡まって出来た天然の蛇口を見つけると、丸い皮水筒を派手に濡らしながら高所から落ちて来る水玉達を受け止める。
ふと見上げると縦穴の先に曇り空が見えて、廃墟内は八階建ての丸い縦穴構造だった。
「風を二重に遮られては獣も中まで飛べまい まさに隠れ家に最適な場所だな」
八段の内壁の大半は太い根で覆われ、上だけを見れば密林に居ると勘違いしそうな光景と言える。
雨水を水筒へと注ぎ終わるとその場で腰を下ろしたエグザム。空洞に静寂が訪れる気配は全くせず、風と水滴が響かせる和音を楽しみながら、巣の主の帰還を待った。
海龍は年中海の中に居ると噂される程、滅多に浜辺まで上がって来ない。二足歩行で歩く姿が最後に目撃されたのは去年の出来事だと、エグザムは記憶していた。
(しかし手がかりは漂流物で作った巣だけか。沖合いで活動する群青色の個体だとこの場所は少し狭いが、そもそも生息環境で鱗の色が変わる理由自体が怪しいな。)
エグザムは水筒の蓋から水が漏れている事に気付き、慌ててしっかり栓を塞ぎ背嚢に戻す。その時崖まで通された水路から、水を掻き分け何かが泳いで来る音が聞こえた。
(長居した甲斐が有った。此処で後の憂いを絶ってしまおう。)
狩人は硬く厚い鱗を貫き一撃で獲物を仕留める為、ツルマキを静かに展開しながら膝巻きから二本の杭を取り出した。
縦穴最下層の天井部に通された通路は、下から見上げると丁度逆光で見えない死角に成っている。ただし魚類は光の波長を感知する器官が発達しているので、眩しいくらいでは姿を誤魔化せはしない。
(背中が青い。間違い無く海中での狩を得意とする個体だ。群から追い出されたか、群が散り散りに成る出来事が遭ったのだろう。)
岩の天井に魚と良く似た大きな背びれが当ってから直ぐ、水中から背より下の白い腹までが出現。中心部へ近付くにつれ水路の底が浅くなっているようで、大きなトカゲは二足歩行で水路を歩き始める。
壁に水飛沫を叩きつけ狭そうに水路を歩く海竜。翼の様な前ヒレより長い後ろ足は太く、エグザムは注意して観察すると手記に書かれた蛙の足には無い物が見えた。
(一部形状が海竜とは違う。こいつは完全に別の種だ。未確認種か、いや思い出す余裕は無い。)
息を殺し物音を発てず、右胸と肩関節の間にツルマキの尻を押し付けたエグザム。
上半身の動きと連動する照星が腰の限界角度を目指し左から右へゆっくりと動き、狩人は獲物が最適位置に来るまでその時を静かに待つ。
(頭が平らでデカイから、一発で仕留める事は出来ないかもしれない。安全策を採って狙いを変えよう。)
エグザムは着弾点を頭部から首の付け根に変更した直後に引き金を引く。
瞬間的かつ強引に体を揺さ振られるように、板バネと鋼線の弦が瞬時に解き放たれた振動がツルマキから響き、大型害獣は一瞬硬直したものの力なく瓦礫の山へ倒れる。
(ああ、思い出した。こいつは陸鮫だ。遠い沖合いの島々で暮らしている筈だが、大陸までやって来たのか。)
赤い血と体液が、鱗が弾け飛んだ傷口と刺さった杭の隙間から流れ出ている。鮫の尾が空中へ浮いた形で死後硬直が始まっている様子で、小刻みに痙攣したまま口から泡を吹き出した。
水かきを広げた状態で時折手足を痙攣させる陸鮫を観察しながら、エグザムは射撃体勢のまま微動だに動かない。既に次の杭が装填してあり、まだ狩が続いていたのだ。
(陸鮫の事は詳しく知らないが、陸では繁殖期を迎えている以上、番が居る可能性を排除できない。せっかく悲鳴を上げさせる事無く仕留めたのだ。警戒を解き巣へ降りて襲われでもしたら全て無駄に成る。)
陸鮫は南の島々が在る海域に生息する固有種だ。配下達は陸鮫を秘境を脱した種だとか、新たな害獣へと進化した生物などと結論付け私に報告した。なんでも似たような境遇の害獣達との共通点が見られるらしい。(随分昔の話だったと記憶していたが、やはり今の神の園は爺さんの知る世界ではない。何かしらの事情が有りそうだ。)
縦穴から届く光が陰り始め、時を同じくして潮位が高くなる。穏やかだった水路に波が寄せるように成り、屍の大きな尻尾を海水が弄んだ。
そんな状況下でも獲物を待ち続けたエグザムだったが、水路出入り口に生物の気配が現れる事は無かった。
「此処までか 今晩はここに泊まろう 探索は明日からだ」
飛竜や翼獣の心配をする必要な無さそうだ、と心の中で唱えたエグザム。視線を赤さを増す空から肉の塊へ移す。
「島内の獣の巣は此処だけ なら今晩盛大に燃やして楽しむか」
多くを語る必要は無い。ただ、久々の纏まった量の肉を前に舌なめずりエグザムが底に居ただけだ。
緑の手記より抜粋。
内海の探索道を通り湾内の砂浜へと辿り着いた私は、拙い共通語を話す隠れ里の少年と出会った。少年は東の山間に独り篭り修行をしているらしく、私は危険な竜の巣で独り暮らしをしている理由を訊ねると、里には掟と言われる戒律が有る事を知った。
少年の名や修行に励む理由は掟により聞き出せなかったが、私の推測どおり隠れ里がかつて存在した聖地の一つではないかと判断した。
詳細や内容を書き記す事はあえてしない。内海を彷徨っていた私を助けてくれた亜人の子供に対し、私は礼節で応えようと思ったからだ。
日の出前から配管内部を歩き出し、時々穴や亀裂から顔だけ出し外壁までの距離を確認していたエグザム。どんどん海らしく濁る海面を見下ろしては、海中に僅かに見える水没した遺跡群を観察している。
「白爺は沿岸部の抜け道を通ったのだろう 独りでも探索団の真似事が出来たのなら 昔は優秀な探索者が多かったんだろうな」
薄暗い配管内を進むエグザムは本日何度目かの独り言を口ずさんだ。その口調からは僅かな後悔が窺える。
(沿岸沿いの廃墟や高台からでは、外壁へ繋がっている配管を見つける事は無理だ。蒸発した海水の影響で光が歪んでいては、どれだけ視野を狭めても確認出来まい。あの時配管へ飛び乗ったのは不幸中の幸いに成った。)
神の園は広い。活動可能な場所が少ないものの、それでも連合北東部の大分部を占めており、東方三大秘境の名に偽りは無いのだ。
つむじ谷とは何から何まで決定的に違う世界を脳内で思い浮かべていると、何の前触れも無く配管が揺れ始める。
「何だ!ついに壊れたか」
エグザムは響く異音に脇目も振らず走り出す。もし配管の道が崩れた場合、なす術無く海中へ落ちるだろうと覚悟した。
だが予想に反し崩壊は起きず、派手に金属を叩く様な足音が響くばかり。エグザムは直ぐに走るのを止め落ち着きを取り戻そうと深呼吸する。
「だいぶ日が傾いた あと数刻したら太陽が東の海辺に沈むだろう」
配管内へ差し込む夕日が赤銅色の壁を赤く照らし、腐食した表面の細かい凹凸がより鮮明に見える。エグザムは相変わらず殆んど傾斜が無い配管の道を歩き出す。
(先程の振動は風の類では無い。何かが配管と当ったのだろうが、内側からでは何も解らん。)
エグザムは上に開いた穴を発見すると、憂いを払拭する為に飛び跳ね、断面に手を掛け顔を出した。
「あれは飛竜 配管を揺さぶったのはあいつらの仕業か」
神の園に住まう翼獣の中で唯一上位獣に指定された空飛ぶ怪獣。情報とは違い朝鳥より痩せた白い鳥に見える竜達は、何かを運びながらそそり立つ外壁の側面で高度を上げてながら旋回している。
(襲って来る気配は無い。上昇気流が渦巻いている様には見えないが、あの辺りの気流は激しいのだろうな。)
朝鳥と同じ赤い鶏冠が印象的な四体の飛竜。一つの獲物へ鉤爪を突き立てながら壁の中腹まで上昇すると、長い尾を揺らしながら東へと飛んで行った。
「あれは海竜 アレだけの重量物でも複数なら運べるのか」
一日半近く吹いた西風は、気が付けば北よりの東風に変っている。エグザムはそれが飛竜の帰巣を促したと考え、血の匂いで始まった逃避行も終わったのだと悟った。
(何れ俺も向こうに着く。その時が来れば極彩鳥の真の姿を拝めるだろう。)
沿岸部から見た時は水平線で揺れていただけの長い壁も、近付いて見れば物語に登場する様な強大な城塞の壁に見える。赤い山を麓から見上げた時と似たような感覚に息を呑み、エグザムは二段構造の吊橋の様な巨大構造物を目に焼き付けた。
「あれが終着点か 壁伝いから登れる場所は無いな」
進路を確認し終え今日中に壁へ到達出来ると確信したエグザム。配管内に着地すると三度走り出した。
飛竜。組合での識別上の固有名詞は、共通語で極彩鳥と呼称されている。古い言葉どおり伝説の生物を彷彿とさせる脅威性から、多くの探索者達は今でも統一暦以前の名称で呼んでいる。
期節ではもう直ぐ折り返しを迎える頃の十三日。エグザムは絞り気味に調節した反応液の光が照らし出す通路を歩き続けている。
「今は何処に居るのだろう?」
錆びた配管の出口は巨大な貯水槽の様場所だった。其処から壁と一体と成っている梯子を上って通路に出たのだが、一つの問題が壁の中を歩くエグザムに立ち塞がった。
「やはり手で開けれる扉は少ない さぁ動いてくれ」
エグザムは水門を開ける様な感覚で、扉横の側壁に埋め込まれた取っ手を回し始める。
梃子の原理で扉に内蔵された軸を回す事によって、扉から重なっていた何かの保護壁が次々枠へ収納されてゆく。隔壁を初めて回した時は子供のように時間を気にせず楽しんだエグザムだったが、既に怪力で硬い棒を回す作業に楽しみは感じれないらしい。
枠に填め込まれた扉をくぐり、エグザムは装備で狭く感じる屋内通路へ侵入した。
(この先に上層へ上がれる階段が在れば問題無く進めるだろう。)
通路には窓や部屋の扉と思しき物は一切無い。来る途中エグザムが何度か通った曲がり角や階段が在る区画とは違い、通路は明らかに別の構造と言えた。
エグザムは天井に埋め込まれた通気口らしき格子口から漏れる対流が無いかと、歩きながら手をかざし、虱潰しに調べる。
(本で調べた遺跡の中には、この外壁より更に巨大な構造物が載っていた。獣の絵ばかり夢中するより、遺跡についてもっと詳しく覚えておくべきだったな。)
エグザムは開いている隔壁に装備が引っ掛からないようくぐり、何度目かになる階層を跨ぐ階段と遭遇する。
(構造物の中に塔。いや、建物同士を一つの箱の中で再構築したのだろう。おそらくココイラの壁の向こうも似たような構造物が並んでいるか、或いはあの橋脚の根元か。)
人工石材にしては良く磨かれた階段を上りながら、エグザムは己の高度計が狂ったりしないか心配する。大抵の遺跡には獣や遺物が存在している筈なのに、外壁内は常に無音と闇が支配するだけの遺跡と言えるからだろう。
「居住目的の構造物ではない 狭いのに橋の様な単純な構造体の中を進んでいる」
それからエグザムは、勘を頼りに階段と通路を行き交い。一日の大半を費やして光明と思しき扉を見つける。
緩やかな登り坂の行き止まりに在る扉の枠が赤く発光していて、エグザムは用心深く足音を消して近付いた。
(この扉、今までくぐった扉と同じだ。設備が機能しているとは思えない、赤く発光しているのは太陽の光が透過してるからか?)
エグザムは恐る恐る取っ手を回し扉に隙間が開くのを待ち、隔壁の保護壁と拘束軸が枠に収まった瞬間、動いた扉の隙間から眩い光が視界を埋め尽くした。
山の尾根に居るかの様に、エグザムは眼下に広がる内海と地平線を埋め尽くした緑の自然環境を眺める。
(なんて高さだ。それにこの匂い。)
雨季が過ぎ去ったばかりの森の空気が、エグザムが立つ場所まで運ばれている。快晴の青空が何時もより大きく感じれた。
彷徨ってから一日程度しか経っていないにも係わらず、ガスマスクを外したエグザムは忘れていた潮の香りを吸い込み溜息で吐き出す。
「随分高い所まで昇ったな 壁のどの辺りだ?」
喋りながら高台の通路へ足を踏み入れた瞬間、足元が抵抗も無く沈む。エグザムは咄嗟に左膝を折って入り口へ体を倒した。
「危ない この高さから落ちたら助からない」
エグザムは壁に取り付けられた通路の金属床を調べ、金属部が腐食してない場所へ再び足を踏み出す。
(どうやらこの道は作業用の足場らしい。進むべきか?)
右足の形をした穴を見下ろすと、垂直な壁に沿うよう打ち寄せる白波が糸の様に細く見える。エグザムは再び言葉を失ってしまった。
(ここは足場が不安定過ぎるから退き帰して別の道を)
冷静に成り口実を思いついたエグザムだったが、入り口真横の壁面に設置された梯子を見つけてしまう。
それは再び反応液を消費して闇の迷路を彷徨うか、それとも未知の高さを経験しながら壁を上がるか、必然的に決断を迫らる程に状況は切迫していた。
「時間は有限 時間は有限・・・」
配管から出て直ぐに見つけた梯子と同じく、壁の素材を変形させて溝と取っ手を交互に組ませた壁の道。エグザムは外壁と同じ暗い青色の壁を見上げ、昇り始める。
(長い配管の次は打ち付けられた梯子。今襲われたら成す術が無い。)
絶壁とも呼ばれる垂直な壁は金属や石材とは微妙に異なる材質で出来ていて、汚れを除いて経年劣化が少ない。エグザムは外海と同じ深い青色の壁を見上げ、人が上り下りする為に設けられた一筋の凹凸線のみ注視し続ける。
(手や足を掛けるのに十分な隙間と奥行きだ。急造の代物でなくて良かった。力を込めても微動だにしないから、これなら問題無く昇れるぞ。)
エグザムは気が散るのを恐れて下を見なかったが、絶壁周辺の海は年中荒れ模様で、潮流の関係で場所によっては渦を巻いている。
(間近で見ても遺跡本体に経年劣化した跡が無い。何の材質を使えば此処まで長持ちするんだ?)
海中に没した多くの廃墟や遺構の残骸とは設計概念が違い、標準時間において三千年程度で水面下基部が侵食される事態は、人為的要素を除いてまず有り得ない。
巨大な壁を昇るエグザムを例えるなら、遺跡の壁を這い上がる一匹のダニが相応しい。世界を見渡せばもっと高い崖が在るだろうが、青い壁を休まず這い上がる緑虫にはどうでもいい事だろうな。
(もう少し登れば赤い山の山頂が見えそうだ。神の園南側を観察するのに良い場所かもしれないな。)
彼は体の重心がずれて足が滑るのを嫌い、やはり真下を見る素振りすらしない。しかし景色は上れば登るほど変わり、とうとう下から裸眼で見上げても判らない場所まで登ってしまう。
高度に慣れたのか、ついに高度感覚が狂ってしまったのか不明だが、エグザムは壁半ばで登る作業を中断し、体を休めながら首だけで周囲を見下ろす。
(大海漂林の海岸沿いから遠い所まで来た。陽炎で海岸沿いがあやふやに見えるが、そろそろ気流を警戒する頃か。)
そう一息吐いた瞬間、西の右手側から流れて来た気流がエグザムと衝突する。風が腹袋や羽織などを派手に揺らし、兜に挿していた萎れた葉を残さず攫って行った。
「「落ちて堪るか」」
過ぎ去った風は潮の香りを運んでいたが、翼を持たぬエグザムにとっては遺跡が生み出した突風に過ぎない。そう、エグザムは己が認識していなかった新たな世界を体験したのだ。
(認識できる高さは観察体によって違うらしいな。地上と空を行き交う者達然り、日々の行動範囲が影響するのだろう。)
エグザムは再び肝が冷える前に壁を登り終えようと決意してから、終始一定の速さで梯子を昇った。
あと少しで長い壁を昇り終えるエグザムは、転落防止用の手摺を跨ごうと手摺から顔を上げた時それを視界に入れる。
「壁 そうだここはまだ基礎の壁だったな」
エグザムは尻を手摺に乗せて安堵しながら、何等かの施設の残骸や廃墟が立ち並ぶ上段の構造物を観察する。
内海で殆んど水没した遺跡群と違い、外壁の中腹、つまり基礎の上に構築された建設途中の関連施設は、十分探索出来そうなほど原型を留めている。そうエグザムの眼前には、工場と断定できる箱型の空洞や巨大な柱で支えてある巨大構造物が見渡す限り並んでいるのだ。
「道を間違えた 獣因子で翼を手に入れたら直ぐにでもおさらばしたい」
壁の中腹で気流の妨害に遭ったが、後半は無風地帯を通り無事に此処まで辿り着けた。エグザムはそう自分を偽り、同時に任務を思い出す。
(上陸計画は極秘で進行いるに違いない。おそらく南西の山向こうの沿岸部から船を出すのだろう。上陸地点を確保出来てないのに作戦が始まるのか不透明だな。)
エグザムの立ち位置から直接外海を見下ろす事は出来ない。僅かに上部構造物や傾斜した橋桁らしき柱の隙間から覗けるのは青い空だけで、基礎を調べた程度で全貌を確認するのは不可能であった。
「あの橋が遠方まで続く唯一の探索道 今の俺には道を選り好むだけの時間は無い アレに全てを賭けよう」
宿場町程度なら丸ごと移せそうな程広い高台は基礎の一部分でしかない。エグザムは建設途中の区画型天井に渡された仮設通路を軋ませ、時に壊しながらながら頂を目指した。
海竜。断絶海岸にて生息する大型害獣の一種。雑食性で基本単独で狩を行うが、繁殖期になると番同士で泳ぎ狩りを行う。故に夏になると非常に目立つ姿が何度も目撃されている。
欄干に垂れ下がる千切れた縄の結び目を発見したエグザム。手摺から下を見下ろすと大きな滑車らしき残骸が、直ぐ下の構造物の屋上にて無数に転がっている。
(昔はここにも海道の出発点が在ったのか。外壁は西の外壁入り口から東の海岸出口までを結ぶ唯一の探索道だったようだが、廃れた原因は、書かれてなかった。白爺は何と言っていたか思い出せない。)
エグザムは錆びたアンカーを固定する縄を掴むと、無造作に欄干から引き千切る。固く保持されていた縄に、忘れられた道標を彷彿とさせる手応えを感じた。
絶壁を足場に構築された橋の頂上部は、尾根に伸びる登山道等とは違い平坦な場所が少ない。冒険を避ける旅行者向けの観光地に相応しくも、構造自体未完成である事を物語っていたのだ。
エグザムは暇つぶに手に入れたばかりの玩具を振り回し、絶景とは反対側を見下ろしながら歩く。
「乾燥が酷い所為で錆が簡単に剥がれる 特異な気流帯が水蒸気を遮っているのだろうか」
黒い手袋に赤い粉末が付着し興味を削がれたエグザムは、大きく体を曲げ全力で玩具を内海方向へ投げる。当然、目にも留まらぬ速さで飛んで行ったアンカーは高空へ消えてしまった。
彼が今居る橋は探索街の水道橋と似ている。本人は知らないだろうが、構造上の観点と傭兵時代の見識から見て、おそらく水道施設の一端を担っていたと思われる。
(旧時代に造られた神の園の都市は未完成だと聞いた。当時ここからでも眺める事が出来たんだろうな。)
上部構造物の橋内部にも、建設途中の施設廃墟や資材の残骸がそこら中に残されていた。エグザムから見ても建設途中で放棄され、本来の目的とした完成形とは程遠い内装と見えた。
橋としての機能は、エグザムが歩いている頂上部の細い展望用通路のみ。通路自体は人が通るのに問題ない幅なのだが、肝心の橋内部は雨風による浸食で内部構造が殆んど露出している。
(力学的に負荷や荷重を分散させる為か、上の工事は中途半端に終わってる。)
エグザムは遠洋の大型船が収納できそうな巨大な溝を見下ろしながら、学術書をかじった程度の知識力で完成予想図を想像する。
(基礎の外壁と同じく、柱にもっと多くの施設を肉付けする予定だったかもしれない。いや、この頂上反対側との間の溝は、上に更なる壁を築く為の基礎跡かもしれないな。)
すると白い箱を頂に置く意味不明な作図が出来上がる。エグザムの学者脳が超えてはならない壁に衝突してしまった。
エグザムは煮詰まった考えを止め、内海の向こう側で広がる赤い山へ視線を移す。
(こうして眺めると、巨大な残丘や台地も背が低いだけの大きなまな板に見える。東の境目の向こう側に先住部族の里が在るらしいが、まぁ隠れ里の事だろう、まだまだ遠い。)
それからどれ程走ろうと遠方に見える赤い山は殆んど姿を変えず、エグザムは夕日が水平線まで近付くまで、小走りながらも長い長い展望通路を走り続けた。
刻一刻と眩しさを増す夕日の光。遮る雲より低い角度から視界を遮る光を遮ろうとした時、エグザムは単調な巨大構造物が並んでいる頂上部の一角に、それまでの構造物とは明らかに違う存在を視認した。
「あれは何だ まるで鳥の巣だ」
気付いた当初、獣目に映ったのは木の枝に枯れ枝や落ち葉を重ねて作られた鳥の巣。されど赤い陽光に照らし出されたその柱の頂上部には、内海で掻き集めたであろう数多の漂流物が盛られている。
存在を認識した直後、エグザムは走るのを止め身を伏せる。鳥の巣と同じ外観の害獣の住まいは、高所に在るとは思えないほど大きかった。
(飛竜の巣、そう考えるのが妥当だ。通行止めどころか近付く事すら禁じられた理由はそう言うことか。)
極彩鳥の行動範囲は広い。故に餌と成る生物が多ければ、文明の近くだろうと気にせず巣営する。当然餌とも成る人々は生活圏を守る為に、外壁へ近付く者を拒み自ら遠ざかったのだ。
膝を折り背嚢を壁として体の前に置いたエグザム。通路上で身を隠せる遮蔽物は少なく、身を安全を確保する為に視野を拡大させ、巣と周辺を観察する。
(街の区画一つと同じ位の規模だろう。向こうの方が若干高い、飛び出した羽毛の下に卵が在るに違いない。)
上部構造物を支える傾斜構造の柱の一つを、飛竜が巣作りに選んだ理由は簡単に察しがついた。なのでエグザムは、見つかれば容赦無く襲い来るだろう親鳥達を殺す算段を考え始める。
(ここなら小型の獣や競合相手から卵を守れる。探索者や猟師が長年近付かなかったとしても、あの場所なら奇襲に対処し易い。物陰から狙撃するか、巣を盾に流血を強いる他無い。)
遠方から見れば並ぶ柱同士の間隔は狭く見えるが、いざ目の前まで来れば大型害獣の旋回を妨げるほど狭くない。瞬間的に生物が出せる速さを超える飛び道具を有していても、地の利はエグザムより極彩鳥側に有ったのだ。
エグザムは認めざるを得ない現実を打開する為、とりあえず重い背嚢を両手で保持したまま、日陰になった低い壁沿いを低姿勢で歩きだす。
(親鳥が居ないからと安心出来ない。相手は獣、親が居なくても自力で孵化して襲って来る。)
影に紛れつつ巣が在る柱に近付いた時、目と鼻の先に在る巣が妨げていた向こう側が見える。エグザムの予想どおり、次の柱の頂上にも同じような巣が在った。
それでもエグザムは止まらず、重い背嚢を持ったまま中腰姿勢で新たな巣を注視する。
(風は若干の西風。寝ている様子だが、無事に通れる可能性は半々。腹が膨れている事に賭けるか。)
遺物にも利用できない廃材の壁で、多数の害獣の屍が骨と腐肉を晒している。それらは全て巣の中で上下に伸び縮みする巨大な灰色の毛玉の食べ残しだった。
エグザムはこれからしばらく活躍するだろうガスマスクを装着。内臓が腐り糞尿と垢が発酵した臭いが鼻へ入らないよう防ぐ。
(ここは内海の中心部の沖合い。餌と捕るのに苦労してない様子だ。)
親が運んできた屍の大半は、砂浜で数多く見られる水棲甲殻獣の殻や水竜の骨。陸で生息している牙獣の背骨と思しき太い骨も有るが、猟師の衣服や探索者の探索具が幾つかの糞に包まれ固まっている。
(今年の死人は前年よりも少ないらしいが、この辺りの巣だけで数百人は消費されてる筈。街の連中があの様を見たら何を言うか聞いてみたいな。)
生憎撮影用のカメラの類は持ち合わせておらず、中腰姿勢のままエグザムは二つ目の巣を超え三つ目を目指した。
展望通路から柱までの距離は遠い。最短箇所でもツルマキの有効射程の外に巣が築いてあり、手摺を下って巨大な支柱を通らなければ、巣が在る橋脚の頂上部に辿り着けない。
街の区画三つ分が入るだろう間隔で並ぶ柱の支柱には、捨てられた巣の残骸の他に割れた無精卵の残骸や雛の乾燥死体が落ちている場所が在った。
短い間でも多くの巣や眠る雛達を間近で見る事が出来たエグザム。太陽が水平線に沈み始め、辺りの気温が低くなると同時に風向きが東寄りの風に変わった事に気付く。
(時間切れか。また明日になれば先に進める、今はその時を待とう。)
今だ巣が並ぶ飛竜の繁殖地から抜け出せていないエグザム。道を戻り見つけたばかりの階段を下りて闇に消える。
夜の内に構造体内で展望通路の替わりに通れる道を探したエグザムだったが、見つけたのは開かずの間と崩れた作業通路だけだった。
翌日、朝から正午過ぎまで階段に隠れつつ外の様子を窺っていたエグザム。前日では見れなかった正午前の喧騒は、風向きが何度も変わっても衰える気配すらない。
(まるで夜の酒場や任務終わりの狩人が屯する補給所の様だ。飛竜達は天候と風向き次第で狩場を決めているらしい。昨日と天候は同じ、必ず飛竜達が出払う時間がくる筈。)
それから時間だけが経過し、鳥には見えない巨大な雛の食事風景にも見飽きた頃。エグザムが潜伏する階段昇降口から見て、最寄の巣へ救いの手が運ばれて来た。
(ようやく帰ってきたのか。今度の餌は何だ?)
エグザムは階段を上がり暗闇から顔だけ出して、目と鼻の先に在る巣へ垂直降下する一匹の飛竜を観察する。
これまでその親は獲物を足で組み敷きながら牙で引き裂くと、未発達の歯が並んだ牙獣頭の雛へ口渡しで食事を与えていた。しかし時間を掛け運んできた割に、足元には餌と成る獲物が無い。
(獣では無く探索者を攫って来たのか。割に合わない狩だったようだ。)
エグザムは、犬の様に発達した翼獣の顎に咥えられた人間が捕食され絶命する瞬間を見ようと、舌なめずりしながら視野を拡大させた。
(生きが良い。丸呑みするか、俺なら丸齧りする。)
獣とは違い理解出来る悲鳴を喚きながら、死を認めたくない男は最後の抵抗の心算で手足を激しく動かしている。
牙が刺さった背嚢を脱ごうと必死な男の下で大きく口を広げる幼獣。その時エグザムは、餌の首下に巻かれた赤い布地に描かれたイナバの砦の狩猟者を意味する使者の花に気付いた。
普段のエグザムなら手を出さず傍観していた。しかし飛竜の棲家で孤立している状況が、亜人の狩人を本来の姿へ追いやったのだ。
エグザムは背嚢から長銃を剥ぎ取り、肩へ銃尻を押し付ける前に引き金を引く。銃声が閉所を伝播しながら耳で拡散し、すぐさま次弾を装填した。
獣の食事は銃声により中断させられた瞬間、我にかえった男は背嚢の肩帯びをナイフで切って巣へと落下。同時に、飛竜の眉間に開いた穴から血が噴出し、男の放尿の様に放物線を描きながら雛の頭を赤黒く染める。
エグザムは頭を垂れ提げたまま硬直している飛竜から狙いを移し、落ちた餌を咥え持ち上げようとする雛を討った。
狩猟者。神の園で害獣を狩る者へ与えられる敬称。古くから一人前に成った証として、一つの探索団を束ねる者なら誰もが通った道でもある。
害獣からの救出劇を因子抑制弾で手早く済ませたエグザム。銃声で騒がしい幼獣の合唱を背に、片方の肩帯が切れた背嚢を揺らしながら梯子を昇る探索者の手を掴むと、時間が危ういので手摺から強引に引き上げた。
エグザムはガスマスク越しに自身と同じ身長と似た体格の若者を観察。同時に怪我の有無をつぶさに調べる。
(日焼けが酷い、少し脱水気味だ。)
背嚢を除いて緑の防水布と獣の鞣革に傷は無く、日よけ帽子に垂れ布が有るにも関わらず、何故か見える範囲の肌は全て浅黒い。そしてその肌は、激しい運動の直後に流す大量の汗で濡れている。
「命 失うところだった」
命からがら生還した探索者は周囲を激しく見回した後、息を落ち着かせながら二言だけ喋った。
(目が座ってない。臨死体験の次は挙動不審か。)
エグザムは返答の代わりに男の皮製の長手袋を掴み、「着いて来い」と短く命令し昇降口へ共に退避する。騒がしくなる鳴き声が多くの意味で警鐘を鳴らしていて、エグザムはまだ震えている探索者を強引に歩かせたのだ。
階段を折り返しの踊り場まで下りた事で安堵したのか、若い探索者は穴だらけに成った背嚢を捨てる様に床に落とした。
「僕はゼル 苗字は無いけどイナバの砦に入団したばかりの新参者 命を拾ってくれて感謝する」
ゼルは喋りながら腰を下ろすと、背嚢を手繰り寄せ中から呼吸具を取り出し装着。エグザムはゼルが臭いを気にするまで思考が落ち着いたと判断し、自己紹介を手短に済ませる。
「俺はエグザム 組織が調査団の頃に加入した亜人の狩人だ お前も屍海岸での任務に駆りだされた口か?」
汗ばんだ黄色系帽子と皮鎧を脱ぐゼル。問いに対し肯定し、組織に加わった経緯と宛がわれた任務を話し始める。
「元々は風見鶏と言う名の小さな探索団に所属していた 四期に新組織の募集が発表されて その時に団ごと砦へ加入したんだ。今回は海岸までの物資運搬と沿岸の掃除が仕事だったけど ようを足している時に笛役が警告し遅れた所為で仲間とはぐれてしまった」
そして飛竜に見つかり、そのままお持ち帰りされたと溜息混じりに語ったゼル。帽子を外し皮鎧を脱ぎ始める。
「こんな所に仲間が居るなんて思わなかった 亜人と言う事は何か特殊な能力を使うのエグザム・・・」
再び感謝の言葉を送ろうとしたゼルは何か思い出した様に押し黙り、折角の会話が濁ってしまう。
(反応が鈍い。確かに新入りだな。しかし砂漠の民族程ではないが、日に焼けた様な褐色系の素肌だったのか。)
獣目と同じ茶色の瞳が再び見開き、死神と視線が合わさった直後にゼルは瞬きをしながら息を呑む。瞳と同じく茶色い髪が垂れた額が発汗し始め、両頬が熱量をおびてゆき赤くなった。
(怯えは無いが、何故に興奮する。)
エグザムも下ろしていた背嚢から水筒を取り出すと、そのまま床で胡坐をかいて水を飲む。無論ガスマスクを外して首から提げた状態でだ。
「もう直ぐ飛竜が食事を摂る為に巣から離れる時間が訪れる 幼獣が昼寝し始めたら俺は東へ移動するぞ」
黒の無精髭を生したエグザムは、茶色い剃り跡が微かに判るだけのゼルへ遠回しに着いて来れるか問うた。
「解った この背嚢は捨ててしまうから其方の荷物を幾つか持とうか?」
エグザムはゼルの配慮を必要無いと一蹴。同じ組織に属していると言えど、汎用消耗品を除いて、同業者に渡せる荷物は持っていなかった。
「僕の背嚢には危険物が入ってる 亜人の人には不愉快でしょうが 折角なんで貰ってください」
ゼルは穴が目立つ背嚢から中身を全て取り出すと、植物油を含ませた油紙で包まれた複数の球をエグザムの目の前に置いた。
「それは獣封じ 害獣の肺に煙が入ると 酸素と一緒に因子を抑制する分子が血中を巡るそうです」
説明を聞いたエグザムは伸ばした右腕を素早く戻し、立ち上がると劇物から離れる。幼少の頃、うっかり手違いで同じ性質の煙を吸わされた身としては、二度と触りたくない代物と言えた。
「背嚢を貸せ 修繕してやるから俺の近くでそれを持ち出すな。」
エグザムは麻酔針として使う針に糸を通すと、飛竜の牙で切断された断面の接合を始めた。
太い針で素早く塞がってゆく布地を見ながら、興味深そうに観察しているゼルは冗談を口ずさむ。
「医療用の縫い針にしては随分太い もしかして何時も持ち歩いているの? 任務で隠れ里の暗殺者のように犯罪人を殺したりするのか?」
ゼルは緊張を誤魔化すように笑いながら、砦内で錯綜する噂の真偽を確めようとする。追求の為、隠れ里の代弁者を名乗る少女の直下部下に対し、命の恩人であるにも係わらず臆せず立ち向かう。
「僕の名を呼ぶ時は呼び捨てで構わない だから秘境で何と遭ったか少しだけ教えてくれないか」
噂の発端について誤魔化しようが無いほど心当たりが有るエグザム。ゼルが同年代の狩猟者とは思えなくなり、エグザムは質問をはぐらかす為にゼルの年齢を問うた。
「今は十八 九期中頃に十九に成る」
連合で一般的に成人を迎える歳は十八とされている。血族の特色で若く見える容姿を有す者が多いお国柄で、ゼルのような成長が早い老け顔は珍しい。
ゼルはエグザムの疑問を察してか、自らが東方民族系の混血児だと告白する。
「僕の母親は帝国出身の流浪民であり海の民の子孫なんだ 父と結婚してからはずっと西海岸に住んでるよ」
流浪民。地方によっては「流浪の民」とも呼ばれている者達が居る。定住場所を持たず国家間を渡り歩く行商人だったり、仕事を求める移民や経済難民も含まれている。
「海の民 水人のことか?」
帝国は大陸最大の国家にして多民族国家。連合より複雑な歴史と長い民族史を把握している者は、同国の国民ですら少ない。
「よく聞かれるけど違うよ 海の民は南洋諸島に在った旧国家の国民なんだ」
故に褐色肌を遺伝しているゼルは、移民の子として都市部で幼少を過ごした昔話をした。
(身売り いやこいつは物好きの類だろう 白爺と似ている)
本来労働力として期待されている移民の子が、自らと同じ様に僻地で探索活動をしている現実を前に、内心驚きながらも興味が湧いたエグザムだった。
危険物。探索具の中でも使用や所持が制限されている品を指す業界用語。人体や自然環境に影響を齎す劇物や、高い殺傷能力を有する錬金由来の危険物が多い。
十六日の正午過ぎ、二人組みの狩猟者は悪名高い森が支配する遺跡群に到達した。
外壁の東側終着点である廃墟の通りは既に森に浸食され、大樹の間に崩れた瓦礫を残すばかり。隣を歩くゼルは興味深げに大きな針葉樹を見上げているが、エグザムの鼻は獣が発する体臭を捉えていた。
(遺跡は東へと続いているらしい。ならここから北上すれば海岸沿いの崖へ出れる筈。)
エグザムは探索団共通のハンドサインで着いて来るようゼルに命じると、ツルマキと長銃を同時に構えながら森へ分け入る。
(この森も屍の森の一部か。大塚蛇の様な特大の獣が隠れ住むには少し狭いな。)
広大な南盆地の東側を占める大樹と遺跡の森。東側の山岳地帯へ続く裾野の入り口であり、害獣との遭遇頻度が高い地域でもある。
密林とは違い地面は硬い。遺跡を支える岩盤まで到達した大樹の根が、水分や養分を逃すまいと導管を方々へ延ばしているからだ。
高い木の葉の天井から差す光が森へ光の柱を顕現させ、遠くの木々の隙間まで見渡せるほど明るい。エグザムとゼルは各々の自衛具を手に森を進んだ。
(この森は危険だ、獣の匂いがそこら中からする。縄張りじたい相当広いのだろう。こいつを沿岸沿いの仲間のもとへ返さないと狩が出来ない。)
エグザムは人間が歩く速度に合わせながら、自衛具としては無防備に近い片手剣を手に持つゼルを守らねば成らなかった。
ある程度進む苔むした浅い窪地から流れる小川を発見したエグザム。両手が塞がっているので顔を水面に近付け、直接水を舐めてみた。
「無味無臭 苔が汚れを浄化しているのか」
エグザムは水筒を取り出し水草にも見える苔と触れないよう慎重に水を汲み始めた。
「お前でも飲めるかどうかは判らんぞ」
ゼルは三つの水筒の中身を空にしてから、水を汲みつつ水質は問題無い事を告げる。ゼルの父親が探索者をしていた時代、所々黄色く変色した緑の苔から沸く水を何度も飲んだ事があったそうだ。
水を補給した一行は発見した小川が流れる北西へ転進。再び獣の鳴き声が微かに聞こえる大樹の森を進む。
エグザムは傾いた日暮れ前の陽光に入らないようゼルに促しつつ、今回の大規模作戦について感じた疑問を思い返す。
(現地専属顧問は執政官に何を吹き込んだのか知らんが、少ない人材を惜し気もなく投入して何をする心算だ。こいつを見る限り若手の育成ではない。獣を大掃除する為に軍を投入したのなら、後々禍根が残るだろう。)
つむじ谷で森を荒らす密猟者を、悉く森熊の餌に変えた記憶を引っ張り出すエグザム。
(どれ程訓練された者でも土地勘が無ければ、折角の経験が台無しになる。)
そう考え後ろのゼルを振り返った瞬間、エグザムは池が在った方角の木々の隙間を走る影を発見する。
恐れていた事態が現実と成り、複数の影が傾いた光の柱を避けるよう近付いて来た。
(猫、いや大猪の群だ。)
エグザムは足音に気付き後ろを振り返ったまま硬直しているゼルを担ぐと、そのまま小川伝いに木々の間を走り続ける。
「獣封じを投げろ」
硬い地面に爪先がめり込み、走るたびに足裏に土が圧着する感覚に舌打ちしたエグザム。上半身を激しく揺さ振られながらも背嚢から劇物を取り出そうとするゼルの顔が、猪の群から然程も離れてない事実を知った。
「手で握りつぶすから息を止めて」
ゼルの意図を察したエグザムはガスマスクを外して腹袋の隙間に差し込むと、瞬間的に焚かれる煙より速く走り続けた。
(もう森の出口が見えてる。それまでに撃退できれば逃げ切れる。)
エグザムの考えがまたも現実と成り、大猪の群れは鼻を啜る音を鳴らしながら森の奥へ帰って行く。
害獣を撃退出来たのが嬉しかったのか、ゼルは短い歓声を上げた後も喜んでいる。エグザムも振り返って敗走する獣を見送った。
獣封じ。水蒸気と同じ白い煙を瞬間的に大量噴射させ、周囲の酸素と抑制因子を化合させる球状の探索具。錬金反応自体は短時間しか持続しないが、それまで生成した煙は十分な抑制因子含んでいる。
森を抜けて直ぐ、階段状の断崖が並ぶ海岸地帯にでた二人? 三つの切り立った崖を見下ろせる高台の崖際に座り、焚き火で目印の煙を雲の隙間まで伸ばそうとしていた。
「そろそろ頃合だ 一旦発煙体を取り出せ」
その赤い煙が時に縄張りの主の反感を買う事を知っているエグザムは、ゼルに赤く燃える燃料棒を取り出させた。
(もう日暮れが近いな。先遣隊が先に到着している筈なのに、何故何処からも返事が返って来ないのだ。)
エグザムは再び視野を拡大させると、湾内の対岸を獣目で虱潰しに探し始める。
(見えるのは青い海と砂浜のだけ。あとは暴れ魚の背びれくらいか。)
何度対岸を睨んでもゼルの部隊に宛がわれ浜辺どころか、湾曲した湾内反対側に探索者らしき姿が無い。エグザムは作戦が何かしらの理由で遅れている可能性を考慮し、優先すべき存在を交互に見比べた。
「何か見えましたかエグザム殿 まさかこんな所で野宿するなんて言いませんよね」
ゼルは種火だけ残せるよう火加減を調節している。頼んでない行為を目撃したエグザムは、発言とは正反対の行動に呆れて何も言い返さなかった。
座っていても埒が明かないと思い、立ち上がって体をほぐし始めるエグザム。その時思い出したかのように一つの疑問が浮かび上がる。
(そうだ。全滅した可能性が、まさかカエデは初めから獣の餌にする心算だったのか。)
しかしその疑念は直ぐ払拭される。何故なら探索団の意思決定権はオルガ団長が握っているからだ。なのでエグザムは今回の大規模作戦が探検家主導の下進行していると信じていた。
「そう言えば団長達の外様組みは今頃南の基地へ到着した頃でしょう 僕も南国気分を味わいたかった」
ゼルは自らの愚痴を聞いて硬直しているエグザムを怪しみ、カエデの直下部下なのに知らなかったとは「これ如何に」と茶化した。
「成るほど 本性現したな」
などと不穏な言動で返され、今度はゼルが困惑する。
(バロンが役目を果そうとしない俺を見かね、カエデと交渉した可能性が有る。何よりあいつなら裏から手をまわす事など容易い筈だ。)
エグザムは間違い無いと決め付け自らを自嘲気味に笑った。
「野宿は無しだ これから砂浜へ降りて夜通し歩くぞ」
ゼルは触れてはいけない隠れ里の暗部を垣間見たと勘違いし、手遅れである事を認識しながらエグザムへ訳を訊ねた。
「俺の任務は大型害獣の駆除 つまり お前の仲間を餌に誘き寄せられた獣を狩ることだ」
南盆地。旧名「竜の巣」の西側を占める獣の楽園。そして探索業と隠れ里がしこりを残した場所でもある。
雲を引く上空の気流帯を月が判り易く照らしている。地上ではそよ風程度の風しか感じないが、次期に突発的な土砂降りが始まるだろうと、呑気に眠るゼルを背負うエグザムは静かに悪態を吐いた。
(あの岩穴を潜れば海道出口付近の沿岸部へ向かえる。獣も眠る時間帯を狙って正解だった。)
度重なる海面変動をうかがわせる岩壁の浸食跡も、夜闇の中でははっきりと見えず。エグザムの暗視能力も陰りを見せていたのだ。
(干物にしても所詮獣肉、鮮度が長続きしない物を食えば体調も悪くなるか。そろそろ新鮮な獣にアリツキタイ。)
探索の途中で食料を現地調達しながら血の渇きを凌いで来たエグザムにとって、狩の妨げとなる背中の荷物は一刻も早く処理したい案件とも言える。
(俺がこいつに情を感じる? ありえん話だ。やはり思考に影響が出始めたか。)
エグザムは波風が浸食したとは見えないきわめて人為的に通された空洞途中の砂場を発見すると、その荷物を少し乱暴に背中から降ろした。
「此処は?何処?」
ただでさえ暗い空洞内部で光を感じ難いのか、疲弊し座り込むエグザムとは対照的にゼルは瞬きをしながら立ち上がって辺りを挙動不審に見比べる。
「元気そうで何より 俺の代わりに この先の浜辺を 偵察しに行ってくれ」
エグザムは何故か安堵している自分に納得がいかず急に襲い来る睡魔に抗おうとするが、薄れ行く意識の中、言われたとおり空洞の先へ向かうゼルへ動かない右腕を伸ばそうとした。
エグザムは珍しく夢を見る。今まで見たどんな夢より曖昧で、初めにとても息苦しく感じた。
「白爺。これは何だ白爺。」
己が守り時に殺した多くの獣達が、五感を超越した何かの気配で語りかけてきた。しかし当のエグザムは何も出来ず、ただ闇雲に時が経つのを自覚する。
(獣。血が乾く、腹が減った。)
自らが空腹状態である事を自覚した瞬間。突然息苦しさが増し、エグザムは胸が締め付けられる閉塞感に苛まれる。
「白爺。助けてくれ白爺。」
口から助けを求めても、時々頼りになる番人は何処にも見当たらない。
「エグザム」
自らに課せられた名を呼んだ時、死神は悪夢から覚める。その時ようやく自身が独りだけの存在だと理解した。
(昔、血が乾いて森の中で倒れた事があったな。あの時が最初の欠食症状だった。何故今まで思い出せなかったのだろう。)
眠る前のよ潮位が上がっていて、足元まで潮の満ち引きが迫っている。幸い探索具は壁沿いに置いてあるので濡れる心配は無い。
エグザムは立ち上がり砂を落すと、背嚢や自衛具を装備し直す。一眠りしたお蔭か手足の動きが軽く心地良かった。
「今はゼルを探さねば 獣に襲われ」
最後まで言う前に老け気味の青年の悲鳴が空洞内を木霊した。エグザムは寝る前より強まった風に獣の匂いが含まれている事に遅れて気付く。
「暴れ魚だ!何とかしてくれー」
エグザムは近付く悲鳴の内容からゼルの頭を心配して、まだ見ぬ空洞の先に出た。
「僕の狩猟ナイフじゃ刃渡りが足りない 槍を投げてくれ!」
白く月明かりに照らされた崖沿い。巨大な蛇に似た影が鰭で砂を散らしながら、走るゼルを追いたてている。
(確かに暴れ魚だ。何やってるんだあいつ等?)
暴れ魚は海で生活する為に特化した前後の鰭を動かし歩いている。何故その巨体が慣れてない場所で狩をするのか、エグザムには疑問を感じるほど遅い追走劇に見えた。
「そのまま走れ!」
声を荒上げたエグザム。要求どおり長銃とは反対側の背嚢脇から鉄の槍を抜き、真っ直ぐ助けを求めて走って来るゼルの後ろへ投擲する。
命じられるがまま救い主へ砂浜を一直線に駆けていたゼル。注文した槍が驚異的な速度で自身の頭部へ迫っている事を察知し、条件反射的に頭を丸めて不条理さをやり過ごした。