序章後半
時が過ぎ場所を変えて外森林某所。雲に遮られた月明かりが分厚い葉の層を仄かに照らし出す。光が少ない闇夜の森は、獣達が暗躍する食事時。
イナバ三世を発ってから二日目の夜。森でも比較的背が高い針葉樹に昇ったエグザムは、討つべき害獣の姿と痕跡を探していた。
「此処も見込み違い。東を探すのはやめて、西へ移動するか。」
全長が人間より三倍以上大きな痺れ猫。必然的に通れる獣道は限られ、狩人の経験上では負傷した害獣は傷の治癒で動かない事が多い筈だった。
「境界線に異常は無い、今日も焚き火を焚いている。此方の掻いた心算か、もっと木々が密集する場所を探そう。」
建物なら五階建て相当の高さから飛び降りるエグザム。今人外の力を人に見られたとしても、この暗闇では猿型の害獣に見間違えるだろう。
少し痩せた背嚢を腰帯に垂らし、ツルマキを背中に担ぐ姿はすぐ闇に消えてしまう。落ち葉や小石を蹴散らす僅かな音は、獣が森を走っている様に聞こえた。
広大な外森林は長い間文明の介入を受け、独自の生態に改造された人工庭園の様な場所だ。半分神の園と同化しているとは言え、紛れも無く探索者と獣達の庭と言える。
木々の間を難なく疾走するエグザムの獣目は暗視能力を有している。そこ等の獣より目がいい事を自負するエグザムは、探索者がうろつく境界線辺りまで戻る事を考えた。
(あの辺りは採取計画で木の伐採が進んでる。俺が仇猫なら伐採現場か切り株林に身を潜めるな。)
川の跡に転がる無数の大岩を避けて通るエグザム、獣と同じく跳躍しては地面を走り続けた。
元川底の湾曲した大地に水は流れていない。隆起した丘の谷間に挟まれた地形で、南方に見られる枯れヤシに似た樹が乱立している。
(やはりこの辺りは獣道が多い。小型の獣をまったく感じない。)
元川底を疾走する獣は、直感的に野生の勘を働かせる。立ち止まり風の流れを確認した。
(幸い風がまとまってる。北東よりの風だ。)
エグザムは次の待ち伏せ場所を探す。狩人の経験上、獣が傷を癒す間は獣道から離れる事を知っていた。
(間違いなく俺を警戒している。あの大きさなら五日程度飢えずに隠れ続けれるだろう。此方から見つけ出すしか方法が無い。)
無言で走り出したエグザムは、進路を西から北西へ切り替える。付近の餌場で最も遠い場所から探す事にしたからだ。
茶色い獣目に映る世界は果てしなく森が続くばかり、昼に近い明るさはある程度先で途切れていて、結局は耳と鼻に頼るしかなかった。
境界線。外森林を西寄りに縦断する長いあぜ道。運び屋が近づける限界領域では、定期的な間引きと森林計画が行われている。
三日目の朝。外森林北西部のとある場所で、大きな広葉樹の枝に跨り古い切り株林を見下ろすエグザム。六度目の待ち伏せをしていると、新たな動物が狩場に現れた。
(何が来るかと思えば狼犬だったか。黒い毛に細長い鼻、北の山犬と森狼との雑種だろう。もう少し待てば猟師が現れる筈だ。)
人と同じ体高の猟犬が二匹、若木が伸びた古い切り株や捨てられ朽ちた倒木を物色している。涎を垂らし森の幸を探す姿は、労働の対価を得ようと働く人間と同じだ。
狩人は獲物を釣る餌が現れた事に幸先の良さを感じた。騒ぎが起きれば聞こえる範囲に討伐対象が居ると判断していたからだ。
(やはり向こうも気付いたな。臭い玉を使わなくて正解だった。)
たんぱく質と老廃物が固まる匂いが、僅かな対流に拡散している。狩人にとってそれは、安心した獣が狩りを始める一種の合図に等しい。
エグザムは一撃で害獣を絶命させるボルトを装填する。彼はその太く長い鋼鉄の棒を「杭」と名付けた。
(銀貨五枚の威力は既に実証済み、角度が良ければ必ず眼孔奥の脳を潰せる。)
大型害獣に対し、技量と装備で必殺の一撃を与えれる探索者は少ない。害獣の驚異的な防御力や生存性を無視して傷を与えるには、大砲や爆弾を使うのが手っ取り早いのだ。
(痺れ粉を生成する毛状外皮は、傷付くと断面から粉粒を垂れ流す。手記に書かれた情報が頼りに成ったな。)
林の境界である低木と高木は、猫の巨体を阻む程密集してない。白と焦げ茶色の幹が射線を阻んでいたが、境界から飛び出した害獣を射抜く障害になりそうな壁は無かった。
また高所から放たれる杭の運動エネルギーを計算すれば、初遭遇時より深い傷を負わせれる。犬達が鼻を鳴らす音を聞きつつ、そう考えたエグザムは現れるだろう場所へツルマキを向ける。
(たてがみが見えた。あの黒い毛と禿具合は俺の矢傷だろう、伏せて餌を観察してやがる。狙いは飛び出してから餌に食い付くまでの一回きりだな。)
北から狼犬を睨む仇猫。翡翠の瞳が何度か揺れ動くも、体を微動だにせず数分が過ぎる。仇猫が餌の追加を待っているのは一目瞭然だった。
(俺の時と同じく、様子見に時間を掛けてる。群に居るのが気に食わない自由奔放そうなヤツだな。)
同じく微動だにせず、ツルマキの照星越しに狩りを観察するエグザム。今まで何度も目に焼き付けた一時が終わりに近付いた。
「葵いぃぃ、茜ぇぇ、帰るぞぉぉぉ。」
野太い男の大声が森に響き渡り、大きな猫耳が反応した。瞬間仇猫の目が獲物に固定される。
連合で多い女性型固有名詞を付けられた二匹の狼犬が同時に首を振り向く。牙を剥き出しにした仇猫が草陰から飛び跳ね、エグザムは素早く右人差し指だけ動かした。
驚いた鳴き声で森から転がってきた死骸を警戒する二匹。大きな猫の左目から反対側の頭蓋までを貫いた杭が、呆気なく終わった狩りを物語る。
「葵ぃぃぃ。茜ぇぇぇ。」
飼い主が再び野太い声を上げた事で思考麻痺から我に帰った二匹、近付くエグザムに気付かず西の来た方角へ走り去った。
「人より遥かに硬い筈の骨を砕いてる。凄まじい威力だ。」
周囲を警戒しながら杭を引き抜こうとするエグザム。頭骨の関節隙間に杭の一部が挟まっていて、うっかり力加減を忘れてしまう。
「しまっ。曲げてしまった。」
摘出された杭は、曲がった鋼鉄の棒へ変形した。銀貨五枚分の資産が事実上失われたのだ。
エグザムは勿体無いと愚痴りつつ、屍の矢傷を観察する。討伐対象の仇猫かどうか、自らの目で確認する。
(三日前に遭遇したあの個体で間違い無い。あの時は距離を稼ぐ事に必死で気付かなかったが、こうして見るとデカイ猫だな。)
自身と同じ体高に何食分の肉が有るのだろうか、考えるだけで疼き我慢できないエグザム。湾曲した棒に付着した体液を舐めながら、発炎筒を懐からゆっくりと取り出した。
切り株林。低木や若い木々が多い伐採跡地。森の幸が多く実り易いことから、小型の獣が食料を求めて頻繁にやって来る。
猛獣の肉で腹を一杯にしてから二日目の昼。例の応接室で待機中のエグザムは、椅子に座り狩りの記憶を思い返している。
(仇猫は人の生業を熟知していた。外森林で長く暮らさなければ、猟師と探索者の行動範囲を覚えれない筈。あの固体が子供の頃から森に住んでいたのなら、全てに説明がつく。)
舌に記憶した猫の味は、今まで食した害獣より濃い味だった。人間では毒素が強すぎて血抜きしなければ食べれない肉に、エグザムは麻薬のような快感を味わったのだ。
心なしか艶が増した肌を擦り血の効果を確めるエグザム。待機中の時間を更なる妄想に費やそうとした。
階段を降り、廊下を歩く靴音が待合室に来客を告げる。人間にしては軽やかで静かな足音にエグザムは心当たりが有った。
(今回はカエデ独り。そろそろ血統について聞き出さないとな。)
エグザムは机に両手をつき大げさに椅子から立ち上がる。扉が開く前に両手を後ろで組み姿勢を正した。
「遅くなりましたが、これより貴方の任務を説明します。」
カエデは丸めた地図を何も無い机の上に広げ始める。皮製のそれは長らく丸められていた様で、手を煩わせるカエデにエグザムも手伝った。
(この辺りの記号地図だな。古めかしいがしっかり寸法化されてる。)
自らの兜を左端においても、中央をしならせて丸まろうとする硬い皮地図。机を完全に覆った盤面で、エグザムの初任務が説明される。
「密林北に在る水没林で土竜が増加中、これの間引きと湖周辺の巡回が貴方の任務です。稀に隣の七色階段から甲殻獣が侵入する事が有るので、状況に応じて撃退してください。必要な任務資料は情報室から、物資は補給部から受け取れます。それと、この部屋は貴方の私室に宛がわれたのでご自由に。」
鍛冶職人が着用する分厚い前掛を首から提げたままのカエデ。エグザムの質問に答えた後、本題を話し始める。
「夏頃に貴方の探し物が見つかるでしょう。それまでに腕を磨く事をお勧めします。では、明日からの任務に血の加護と祝福を。」
無い胸に右手を添え退室した少女。閉まった扉を呆然と見つめるエグザムは、先住部族の挨拶の意味を考えた。
水没林。神の園西北西に在る大きな湖。北の氷河と東の台地から流れる雪解け水が合流する天然の貯水湖。
長い年月を経て拡大した湖畔と周辺の池には多くの物が沈んでいる。
二期十三日、小雨。
曇天の朝は、降り始めた小雨と銃声で騒がしい。其処でも秘境の日常が始まっている。
東から生物が腐った匂いと硝煙の臭いに誘われたエグザム。針葉樹に絡まった「絞め殺し」の幹に跨り、東の湖畔で発生中の生存闘争を眺めていた。
「あいつ等が土竜か。確かに見た目は大鼠に近いな。」
地中から探索団を襲撃中の小型害獣の群。四つの赤い目と出っ張った前歯が鼠の頭に付いている害獣達は、地中から獲物に体当たりし怯んだ探索者に噛み付いては一人ずつ穴へ攫っている。
「二十人居た旅団を数分で壊滅。地中から音も無く近付き、包囲して確実に仕留める。数が取り柄らしい狩り方だ。」
水捌けが悪いのか、水を多量に含んだ腐葉土に足を取られた探索者に群がる泥の塊。最後の獲物を奪い合いつつ、周囲では探索団が持ち込んだ物資を荒して器用に穴へ転がす蠢く塊達。
「本来なら奴等に食われる幼稚な探索者は居ないと聞いたが、調べれば理由の一つぐらい見つかるだろ。」
階段に足を踏み出す感覚で大樹から飛び降りるエグザム。今回は受身などせず、派手に軟弱地面を踏め締めた。
(柔らかい腐葉土だ。この土地ならば地下生物の王国を築ける。連中が住処に選んだのも納得だ。)
水没林周辺は昔から大胆な開発計画が立案された経緯をもつ。いづれも悉く失敗し、計画責任者達は何度も獣の猛威に泣かされた。
防水機能をもつ具足にへばり付く泥と黒い何かがエグザムの歩みを妨げ始める。
「重い所為か良く沈む。空洞を踏めばそのまま落ちかねない。」
装備含め常人の倍以上重い探索者は、諦めて四つん這いの姿勢で進む事にした。
(どのみち肉薄される。連中含め、今の俺が獣にどう映るか試そう。)
事前に地形情報を調べて、何時もより更に軽くした装備に泥が纏わり付く。その様は緑色の幼児服を着た大きな乳飲み子と大差無い。
土竜(固有種)。神の園西側に広く分布する大鼠の一種。地中や枯れ木を掘る為に発達した牙と前足で獲物を捕獲する。
群は平均百近くの個体で形成されていて、役職によって体格差がある。同秘境の害獣社会で底辺を逞しく生きるネズミ達。実は巣で身なりを綺麗にする事に余念が無い。
エグザムの鋭い嗅覚を占有した樹の腐った匂い。変色した木と倒木が目立つ湖畔は何処も同じ景色に見える。
「穴だらけかと思ったが、直ぐ下に無数の岩が埋まってる。雨の所為でぬかるんで見えただけだ。」
硝煙の臭いが風に流された戦いの跡に、二本足で独り佇んだエグザム。散乱する樽や箱の木片に何かの痕跡が無いか調べ始める。
(地下世界の獣らしく便利な鼻の持ち主らしい。食料が一つも残ってないな。)
魚類や発酵肉の印しを幾つかの残骸に見つけたエグザム。缶詰が残ってないか期待した分損をしてしまった。
今度は腐葉土に開いた穴の一つを調べ始めたエグザム。何度も鼻に入る空気には泥と血の匂い以外しなかった。
「体臭がしない筈無い。鼻が利く以上、何かで誤魔化している筈だ。」
泥の穴に頭を入れ少しでも手掛かりを掴もうとするエグザム。後で泥を落としに湖へ入る予定を、頭の行動表に組み込んだ。
(穴はどれも途中で崩れてる。巣の位置を特定するには別の方法を探すしかないか。)
金属製の自衛具もとい鎧を引きずった跡に、手を掛け穴から脱出する探索者。泥を落とし全身に施された緑の偽装を復活させる。
(巣に煙玉を入れる案はやめよう。おそらく相当深くまで掘っているだろうから、手の出しようが無い。)
地面に刺さった鉈を回収し、三度歩き始めたエグザム。一直線に雄大な湖面へ突き進む足取りは、泥と獣の脅威で鈍い。
(この歳に成ると泥の厚底靴が気持ち悪く感じる。死神の癖に人と同じ苦悩が煩わしい。)
陸地と違い砂地が硬い湖の浅瀬。湖面の波に負けない波を起たせ、エグザムは素早く泥を洗い落とした。
「対岸の木々は、良く見ればこちら側よりでかい。あの辺りから密林なのか。」
水に浸かった具足越しに雪解け水の冷たさを感じるエグザム。地図を思い返しまだ見ぬ世界にときめく心臓は、冷されつつあった。
急いで陸地に上がる独りの探索者を観察する無数の目。半ば水没した大樹から縄張りに入った獲物を見つけると、素早く姿を隠してしまう。そのもの達は今晩のおかずが増える事を、毛を逆撫でて喜んだ。
煙玉。火を点けると強烈な催涙効果を含む煙が発生する発煙具の一つ。用法用量守って害獣に使用しよう。
雨が止むと、雲の隙間から斜陽が差し込み始めた。天気の変わり目は、湖を薄っすら包んだ霧を北風で南に押し流す。
時折水飛沫を上げ水面に顔を出す鱗蛙や水トカゲ達水棲害獣。臆せず湖畔を歩く狩人をじっと観察している。
「やはり上がって来ないか。この辺りの湖畔は土竜の縄張りらしい。」
エグザムは胸甲の上に羽織るマントの胸ポケットから手記を取り出す。土竜の住みかを探す手掛かりを思いついたのだ。
(水没林は周期的に年単位で拡大縮小を繰り返す。当然形を変えながら周囲を浸食するだろうから、水と土壌に恵まれ植物がよく育つ。)
切っ掛けはカエデが持って来た皮地図に描かれていた。現在の東西に伸びた楕円状と違い、昔の水没林は半月に近い形だった。
(詳しい資料はあれだけと勘違いしていた。白爺は昔水没林に立ち寄ったのだから、何処かに書かれている筈だ。)
エグザムは歩きながら素手で薄い皮を捲り、ようやく目当ての図を探し当てた。其処には南に湾曲した知らない湖が確かに書かれている。
「流石白爺、足を運んで調べたんだろう。おかげで助かった。」
エグザムは素早く手記を仕舞うと汚れた手甲を装着する。一か八かと北側の湖畔を歩いていたので、巣が在るだろう水没した住居跡に近かった。
大きな湖の湖畔北側を歩き続けると、水没した木々を間近で見れるようになる。魚が湖面を跳ね虫を捕食する光景は、危険な害獣の痕跡さえなければ疲れを癒せる保養地に向いている。
「硬い。相当時間が経っている様だが、腐敗の速度が遅い。」
エグザムは浅瀬から陸地へ倒れた大きな倒木に手を触れた。炭に近い肌触りのそれに違和感を感じる。
(これにも焼けた痕跡が無い。養分の土に微生物を寄せ付けぬ原因が有るのだろう。)
湖畔各地に点在した木の亡骸はどれも化石化していて、黒い大地に還る前の状態と言える。手記に記されて無い感想をエグザムは考えた。
「この様子では、湖全体と南の密林に何等かの影響がありそうだ。間引きと平行しながら調査しよう。」
またしばらく歩くと地面が少し硬くなり、足に大地の手応えを感じた。湖畔沿いを歩いて来たエグザムは、湖北側の湖畔は侵食が少ない事に気付く。
(砂利が多いな。昔は北から河が流れていたんだろう。)
鉈で掘り返すと腐葉土の堆積層の下に小石混じりの茶色い土が現れる。エグザムは周囲を見渡しながら、遠浅の河を想像した。
害獣。文明にあだなす生物の総称であり人類の敵。エグザムは獣と呼んでいる。
「一時間程度歩いただろうか。周りは黒い枯れ木ばかりだ。」
突然足を止めるエグザム。朽ちた倒木の一つに真新しい穴を見つけたのだ。
エグザムは詳しく調べに近付くと、耳が何かを蹴る足音を拾う。
(見つかってしまったが、この道で正しかったようだ。)
眼前の倒木は側を残して中空状態で、蹴り上げると新たな穴が出来た。エグザムはほくそ笑むと王国の壁を壊して侵入する。
(半ば水没した造成地に穴だらけの木々と森。あれが奴等の根城、白爺の手記に無い地形だ。土竜の住処にはおあつらえ向きな場所に違いない。)
森の一部を切り開いた場所と、湖面から突き出した大きな針葉樹達。放棄された建設途中の足場が幾つも渡されていて、黒く変色した木々に幾つもの穴が開いている。
エグザムはツルマキではなく鉈を握る。泥や腐葉土で汚れた刃はなまくらで、獣を撲殺するの為に選んだ粗製武器。
「反応無し。何処に隠れた。」
不思議な事に、倒木の壁を壊し侵入したエグザムを迎える獣は居なかった。今までどおり静かな湖畔の波音が辺りを支配する。
エグザムはその場に片膝を突き鉈を地面に刺す。予想どおり泥の下は固く、僅かな振動すら遮る地下世界を感じた。
(流石に土竜が出す振動は感じ取れないか。時間を掛けずに仕事を始めよう。)
右手に鉈。左手に曲がった棒を握り前進を再開するエグザム。土竜の狩りを小手調べに体験しようとした。
「おおっとすまん。罠を先に踏んでしまった。」
片足で地面を蹴り前方に転がったエグザム。体重をかけられたツルマキがエグザムの背中に無言で抗議した。
その時、間髪居れずに足元が振動し地面が膨らむ。エグザムは左へ側転して陥没を回避すると、動き出した土竜達を察知した。
「試し斬りぃ。」
エグザムは地面から計った様に飛び出した最初の土竜の脳天を勝ち割る。続けざまに飛び出した個体に体を反転させてツルマキをぶつけ、同時に後ろからの奇襲にも鉈を振るう。
(軽い攻撃だ。その程度ではツルマキ(たて)を突破できないぞ。)
泥の舞台で踊る様に鉈を振り回すエグザム。鋼鉄の棒と手甲が鋭い爪との間で火花を散らす。
(こいつ等鉱物系の因子持ちだぞ、資料には無かった。群れで動かれたらひとたまりもなく、人間なら食われてお終いだ。)
そう考え逃走しようとした時、左足が地中の穴の天井を貫いてしまう。エグザムは一時的にだが土竜の罠に嵌ってしまった。
「油断した。」
土竜の名は伊達ではない事を、舌打ちして痛感するエグザム。右足に噛み付こうとした一匹を踏み潰して体を前に倒し、土砂を撒き散らしながら左足を引き抜いた。
踏み潰され首から下を植えられた同胞を見た土竜達。泥まみれの黒い体毛を逆撫でいっせいに奇声を上る。
(足の速さは予想どおり早いが、掘削する早さも速かった。)
エグザムは元杭に串刺しにした大きめの亡骸で、地面から次々湧いて出る土竜の頭を殴り回る。当然、気絶した土竜で幾つかの穴が塞がった。
(人の皮を被った獣でもお構いなしか。腹を満たす事より縄張りから追い出そうとしているな。)
戦局は劣勢で、己の能力でも対処しきれない数の暴力をどうしようかと案じたエグザム。自身が笛吹き男だった事を思い出す。
(星鼠や栗鼠系の獣達は特定の音に弱かったな。大鼠は知らんが、こいつ等なら効果が有るかもしれない。)
その為にも撤退を成功させなければ、と考えたエグザム。追われながら自らにも害を及ぼす探索道具の使用に踏み切った。
「はぁっ。」
素早く息を吸い込み呼吸を止めると、臭い玉を手で潰してから素早く捨てる。後は全力で風上へ走るか、発生源から遠ざかれば問題無い。
エグザムは後方の黄色い煙を確認し、倒木の間を離脱する。草笛に似た悲鳴を上げる土竜達から、鼻に手拭を押し当て逃げ延びた。
臭い玉。中心核を潰すと燃焼反応を起こし、着色された黄色い煙に混じって、強烈な硫黄と少量の青酸成分を吐き出す。大量吸引すると呼吸器や脳神経に障害を残し、最悪死に至る発煙具の一種。
謎の素材を錬金術で合成して作られた、生物の殺傷を目的とする高性能探索道具。
日が傾き北風に流される雲を見つめるエグザム。変わり易い天候に半ば諦めつつ、腰掛けた倒木で風が止むのを待ち望む。
やや東よりの南に広がる湖畔には、土竜が根城にする開拓跡が広がっている。およそ一時間前に訪れた獣の王国には、何故か戦士達の屍が何処にも見当たらなかった
(大型種の足跡は無い。血の匂いが拡散するのを嫌って地下にでも隠したのだろう。)
エグザムは幾何学的な遺物を素手の指で擦った。暇そうにしながらも、先程の戦いを頭の中で再現する。
「最低でもこの手で二十は殺した。臭い玉の分は分からないが、組織的に弱体化できただろう。」
土竜の存在は、およそ八百年前の史上初の秘境調査から知られている。統一暦黎明期に施行した統合改姓の対象から外したほど知名度が高いのだ。
獣笛が出土したのは遠く離れた異国の地。残骸大地と呼ばれる東大陸最大の秘境の何処か。
(吹き矢と麻酔針は置いて来た。隠れた連中を探し当てる術も無い。獣笛が唯一の解決法に成る事を願う。)
一帯が無風状態になる前兆を感じ取った演奏者。煙管の様に細長い発声管に息を送り始め、草笛に似た音を奏で土竜の悲鳴を水没林へ響かせる。
化石化した木の穴を風が揺さ振り、連続する音色と共鳴し始める。エグザムは目当ての観客へ届くよう、演奏を続行した。
協和音に何かを感じたのだろう、木々や地面の穴から土竜達が顔を出す。赤い四つ目は全てエグザムに向けられた。
(群の主はどいつだろう。近くにはおらんだろうな。)
土竜含め八百年間培われた秘境情報の大半は、イナバ三世崩壊時の火災で焼失した。ある意味探索業の黄金期は獣から始まり害獣によって終わったのだ。
(所詮獣の生き方は何処でも同じ。人をも殺す好奇心は獣にも通用する。)
エグザムが獣笛を吹いたのは、水没林に住まう鎧蛙や水トカゲを集結させる為だ。百を超える害獣の群を、独りで一つずつ潰すには時間が掛かりすぎた。
(これだけの数の水棲獣が集まれば、直ぐに餌場に変わるだろう。だからさっさと臭い玉の謝礼を受け取ってくれ。)
エグザムは演奏間隔を短くしてゆき、伴奏を不協和音主体に変える。最初の個体が上陸するまで演奏者は笛吹き男のままでいた。
「ご清聴ありがとう。」
笛の音が止まった時、騒がしい水場へ振り返る土竜達。天敵の大群が間近まで迫り、あっという間に穴へ退避した。
(黒い土は只の土ではない。噂どおり未知の金属や得体の知れない何かが含まれている筈だ。湖と同じ匂いのする土竜達が十二獣に属する由縁だろうな。)
鱗蛙が水かきで地面を掘り返し、水トカゲは強靭な顎で倒木を噛み砕く。慌てふためき飛び出して来る土竜を見つけては、素早く長い舌と大きな顎で捕まえる。
「そこら中の穴から星鼠の様に湧いて来る。これでこの巣はお終いだ、」
今晩の食材と燃料の調達を思い出し、エグザムは立ち上がると倒木から飛び降りた。
(今晩は此処で篝火だ。獣達も迂闊に近づけないだろう。)
水没した枯れ木から飛び降り湖面を泳ぐ土竜や、森の木々に逃げ込む土竜達。折角難を逃れても、いずれ胴体を引き千切られ美味しそうに食われる同胞と同じ運命を辿るのだろう。それが秘境の日常なのだ。
鱗蛙と水トカゲ。神の園水没林水系に棲息する中型害獣は、雌雄によって形が違う希少な種。とある物語に蛙トカゲの名で登場するほど有名だ。
日没から数刻後の根城跡地。燃盛る炎が湖面と森を明るく照らす光景は、近付くと炭が焼ける臭いが充満している。
「この肉も水と同じく苦味が有る。香草や調味料をまぶしても消えないな。」
黒い木々は燃盛り赤く変色していて、湖畔の一部を酷暑地帯へ変えた。
四方を水場と炎に囲まれた中で放火した張本人。地面に土竜の毛皮を敷いて、焼きたての骨付き肉に齧り付いた。
「土竜の肉ほど魚に苦味は無い。吐き気を感じなければ食べても大丈夫な証だ。」
エグザムは食事に興じつつ、燃盛る土竜の巣を眺める。その姿は一仕事終え家でくつろぐ人間と変りない。
(これでこの周囲から土竜は居なくなるだろう。派手に燃やしても一年経てば獣の住処に成ってそうだ。)
物思いに耽るエグザムは腕組みをして身を横たえた。残念ながら土竜の間引き作業がまだまだ残っていて、巨大な篝火が鎮火する前に歩き出さないといけない。
エグザムは水が沸騰した缶を冷ます為に焚き火から遠ざける。これから数日水筒の中身がほろ苦く成るがどうしようもなかった。
「装備をケチったのは失敗だった。食料を現地調達出来るから狩猟用具ばかり持って来てしまった。」
エグザムは焚き木拾いに森に入った時、緑の果実を採取していた。探索街でも年中出回る甘酸っぱいそれを口にする。
(舌が浄化されてゆく。この状況下では早熟の実でも効果抜群だな。)
種ごと実を咀嚼して、すり潰した果肉の皮で咥内を綺麗にする。エグザムは果汁を煮沸する前の缶に入れておけば良かったと、今更ながら後悔した。
エグザムは巻き時計と磁力石を腹袋に仕舞い、余熱を残した缶の中身を水筒へ注ぐ。焼いた肉を煮沸消毒した葉に包み、器具と一緒に背嚢へ入れた。
「明るくしたうちに、さっさと先へ進もう。」
胸部まで丈の短い緑マントを羽織り、上から防護用の装甲を装着する。再び身体を拘束する自衛具にツルマキを担ぎ、背嚢を腰帯に結んだ。
エグザムは上空へ立ち上る黒い煙で視界が悪い中、湖畔沿いを先に進む事にした。
(ここは俺が育った秘境とは何もかもが違う。楽園なのか死地なのか、一刻も早く見定めなければ。)
数日間なら不眠不休で動かせる死神の体。命の変りに獣の血肉と因子を燃やして走り続ける。
獣因子。昔の研究者や知識人は、獣の血が含む環境特性や特定物質を纏めて因子と名付けた。それは結果的に獣を害獣と呼ぶ切っ掛けに成り今日へ至る。
獣因子の実態は殆んど未解明。多様性に富、短い周期で遷り変わるそれらに研究が追い着いていないからだ。
二期十五日。昼前で天気は快晴、ただし気温が低い。
抜かるんだ足場に慣れた足取りで、鬱蒼と生い茂る藪を掻き分け進んだエグザム。先程から薄暗い森へ差し込む赤い光は、領域を示す池から発せられていた。
(此処が七色階段の麓か。赤い水草の様な物で池が赤く染まっている様に見える。)
一つの森を抜けたエグザムは大きな池を見下ろせる小高い崖に出た。はっきりと聞こえる滝の轟音に顔を上げる。
そこは巨大な壁が階段の様に連なる扇状地。名とは違い三色の滝が霧を発生させ、幾つもの虹を生み出している。
「成る程。確かに七色の階段だ。」
エグザムは任務外の個人的な秘境調査で水没林から東に進んで来た。手馴れた手つきで腹袋から双眼鏡を外すと、虹が輝く世界の観察を始める。
(池には獣らしき影が見当たらない。色からして入らないほうが得策かもしれないな。)
七色階段は虫の丘と呼ばれる巨大な台地の西端に在る扇状地。僅かに傾斜した三つの壁は、大地から溶け出した石灰質などの成分で構築された天然の貯水壁だ。
「上の池で虫が飛んでる。甲殻獣の一種だろう。」
レンズ越しに赤い体液を持たない彼方の獲物を見て、エグザムは手を伸ばしつまみ食いする妄想をした。獣の狩人は甲殻獣の甘い蜜の味が血の渇きをまろやかにする事を知っていたのだ。
(資料には断崖沿いに台地へ登れる道が有ったが、おそらくあの坂がそうなのだろう。)
エグザムは双眼鏡を使い細部まで観察しようとしたが、滝から発生する水飛沫が霧の役割を果たしていて邪魔だった。
「近いうちに階段を登る事に成る。その時までお預けだ。」
エグザムは最下層に甲殻獣が降りて来ていないか確認し、任務を終えて帰還する事にした。帰り道はどの獣で血を満たそうか。狩人はそう考えながら鉈で邪魔な枝の排除に勤しんだ。
甲殻獣(種)。無脊椎、又は硬い外殻を有する害獣の総称。空を飛び地を跳ね水に潜る多くの獣が該当する。
積もった埃とカビの臭いを放つ地下図書室。乾いた砂が石の床を汚し陰湿な空気を漂わせている。
十八日の夜。帰還したばかりのエグザムは、雨水が流れる微かな音を楽しみながら情報収集に励んでいた。
「何か用か、カエデ副団長。」
エグザムは見知った情報ばかり記載されたページを捲る事に飽き、背後の通路から足音を殺し近付いて来る少女に問うた。
「亜人の狩人だったと聞きましたが、噂以上の勘の良さですね。何を調べてるんですか。」
背中から世俗訛りの共通語が聞こえ、心の中で苦笑いするエグザム。日に日に文明人化する上官へ振り向こうとする。
「何の記録が有るか確認していた。」
走り鳥の長い羽を結わえた羽衣の下に、見慣れぬ服を着ている少女。予想とは違う身なりにエグザムは驚く。
「驚きました?これが私の狩装束です。業界用語で探索用自衛具と言う代物ですよ。」
カエデは所用で数日留守にしていた事を話し、お互い亜人同士秘密が多いいですね、と笑みを浮かべながら語った。
「おかげで任務を伝えに行く手間が省けました。此処で貴方への任務を説明します。」
放置された本の椅子に腰掛、足を休めながら詳細を語り出すカエデ。僅かに衣服から人の血の匂いを漂わせている。
「我々の予想より早く、あと数日で雨季が遣って来ます。貴方には七色階段の害獣駆除と登山経路の偵察を頼みます。雨季の間活発に成る虫達と鉄砲水が押し流す瓦礫から七色階段の道と遺跡を守らなければなりません。」
エグザムは説明を聞きながら血の匂いを追及するかどうか迷う。
(見たところ負傷している訳では無いし、衣服も綺麗に洗われてる。放出量からして俺くらい鼻が利かねば判らないだろう。)
エグザムは質問の有無を問うカエデに、血の臭いがすると暗に質問した。
「え。ああ、害獣の死体を調べたので臭いがまだ取れてないんでしょう。」
一瞬見開かれた赤い獣目。ほんの少しの間、確かに亜人の少女から表情が消えていた。
(街中に流れる隠れ里の噂は真実なのかもしれない。今は掟がうんぬんで聞き出せないだろうが、事の次第を覚悟しておくべきだな。)
エグザムは任務受領の返事を返し、明日にでも発てるよう自室へ移動する。緑の探索者を見送る視線は、獲物を見つめる獣の如く獰猛だ。
地下図書室。イナバ三世に長らく放置されていた秘境調査資料を保管した物置。統一語以前の文字で書かれた書物を読むには、多くの資料を読み漁る必要がある。
雨が止まない二十一日。七色の面影が失せた扇状地は、勢いよく溢れ出る滝の轟音でけたたましい。
雨を物ともせず謎の枕木の階段を登るエグザム。急勾配の石灰壁を左に見上げながら、足を滑らせ右手の赤黒い池に落ちないよう壁沿いを歩く。
(朝まで晴れていたのにこの変わり様、これが秘境の雨季なのか。)
時折頭上から流れ落ちてくる大小の自然物。壁沿いに蛇行した登山道を塞ぐこれ等を見つけると、積極的に排除するのが任務内容だった。
(木製の枕木ではない、これも遺跡の一部に見える。)
エグザムは壁から剥がれ落ちていた石灰岩を拾い池に放り込んだ。
人間の頭大のそれは赤い湖底から大量の泡を吹き出し、瞬く間に油で調理された後のテンカス状態に成る。当然エグザムが落ちれば、人モドキの油揚げが勝手に完成してしまう。
(元は暗黒期以降の前時代に造成された土地だったのだろう。大空洞に眠る旧時代の遺跡より形が整っていない。)
腐食し凹凸が激しい足場に組まれた長い岩の階段。腐った歯茎で露出した歯の根元を想起させる足場が、エグザムを上の池へ導いた。
その青い池は下より大きく、複数の小島が少ない木々の受け皿として点在。悠久の時が作り上げた幻想郷は、酷い臭いと工学的な造形を剥き出しにしている。
「獣除け香料に似た刺激だ。何処から流れてる?」
例えるなら途中の踊り場で途切れた石階段。遊歩道は自分で見つけろと主張する白い石灰質の湖畔、遠くの壁沿いに見える次の階段へ渡れないよう通行人を困らせた。
(下と違い青色の鉱物が堆積した池と診た。試しに足爪で触れてみよう。)
エグザムは大胆にも雨で溢れた池の浅瀬を通ることにした。隆起した石灰質の地形が、浅瀬を青く淀ませていたからだ。
具足の金属製部で水面を突いても何等反応が無い。そこで今度は右足で柔らかい堆積層を、優しく踏み締める。
(僅かだが水が何処かに流れてる。只の有色池の一種だろう。)
エグザムは時折膝近くまで沈む足場に神経を尖らせながら、腐食が激しい壁沿いの土手へ歩み続ける。不思議な事に、あれ程漂っていた清涼系香草の臭いが段々薄れ始めた。
「あの穴からも水が流れ出ている。この池は二種類の溶媒の混合液なのかもしれん。」
空気に触れ反応する物質か、或いは化合反応を生じさせる地形特性と考察するエグザム。歩きながら覚束無い足元に困り果て、仕方なく近くの小島に上陸した。
(特異な環境に適応したのだろう、綺麗な青緑色の葉だ。)
エグザムは大きな巻き草から垂れた葉を一枚もぎ取り、破いて断面の匂いを嗅ぐ。
(只の植物の香り。水質の影響が無いのは何故だ。)
三段目の貯水壁の両端には上へ伸びた階段勾配と、植物や木々に隠れた穴が開いている。
(あの穴は大空洞の一部と繋がっている。記録では昔の秘境調査隊が使っていたらしい。今では獣の巣窟だろうな。)
自室より少し広めの小島から進路を決定したエグザム。先に上を片付ける為、迷わず階段下の土手へ向かった。
大空洞。神の園中央山岳地帯の地下に点在する巨大空洞と同遺跡群を指す。其処から発見された様々な遺物は、イナバ三世の探索黄金時代を築いた。
石灰らしき層に覆われた構造物の上で這い蹲るエグザム。肘あてと腹袋が身体の一部を圧迫させつつ、ツルマキを森へ向け続けた。
やや黄ばんだ上層の池は半ばジャングルに覆われている。雨季以外の季節、森の無法地帯から飛んで来る甲殻獣を押し留める場所だった。
(硫黄かと思ったが、虫や何かが腐った成分なのだろう。鼻が曲がりそうな臭気だ。)
文字どおり虫の丘は腐海と呼ばれていて、地上や地下に住まうあらゆる動植物は、殆んど固有種に限られる。
遺跡から出た汚染物質や水が削った土壌に原因があると言われており、最盛期を過ぎた金山はその点だけ昔と変わらない。
(手記や資料室にも此処の情報は少なかった。下の穴が何処へ続いているのか解らなくては、奥を探索する者が現れない訳だ。)
エグザムは石灰壁に接した高台の一つ。二本の低木が傘代わりに成る場所で、森から現れる甲殻獣を待ち伏せしている。
(おかしい。偽装は完璧の筈、羽音や鳴き声が聞こえるのに水場へ一体も現れない。)
雨に濡れたツルマキと撥水油で水を弾く杭の束。今なら雨水の潤滑効果で狙い易い絶好の狩り時に、獲物が現れず時間を浪費していた。
虫型の甲殻害獣は雨が降ると興奮状態に成り易い。大きな触覚や羽が雨に濡れ、知覚と運動性が損なわれるからだ。同時に狩人にとってこれは狩り易く成る天の恵みと言えた。
エグザムは時間を掛け考え抜いた末、腐海の中へ侵入する事にした。
(どの道このまま天候が悪くなれば、ツルマキの性能を活かせなくなる。嵐の中で獣を狩るのは何年ぶりだろう。)
黄ばんだ何かの培養液で汚れた具足を、激しさを増す雨で洗い落すエグザム。砂浜を抜け植物の根が支配した足場を歩き出す。無論、手に磁力石を持つことも忘れなていない。
(雨の所為で鼻と耳が利かん。今の虫の丘では磁力石だけが頼りだ。)
魔石に分類される磁力反応石を菱形十二面体、解り易く言えば十二面のサイコロ状に加工した磁場探知用球状水平儀。三つのリングに挟まれた磁力石だが、森の道を進むエグザムに方位を教えてくれる。
(入って早々磁場の乱れが酷いな。近くに遺跡でも在るらしい。)
三つのリングの中心で浮かびながら回りだした磁力石。北を示す面を軸に小刻みに揺れる。
エグザムは歩きつつ、話しと違う状況を脳内で精査した。十年間の狩人の経験は確かに獣の異変を知らせていたのだ。
(やはりこうなっていたのか。獣が少ないのも納得だ。思えば最初に見上げた時、飛んでいた個体がそうなのかもしれん。)
手記や資料の図解で見た事のある甲殻と角。散乱する虫達の死骸は、どれも内臓が何処にも見当たらない。
「甲殻はどれも雨を弾いてる。襲われて一日程度、いや虫の丘なら半日以内だな。」
焦げ茶色や黄色の体表には虫系害獣特有の薄皮、つまり艶が残っている。バラバラになるまで解体されたそれらは腐る部分が少ない所為で、エグザムが近付くまで死臭を出していなかった。
(調べるのに蛇行して歩きまわり、見つけたのが獣の死骸。おそらく角虫や狩虫だろう。)
エグザムは調べ終わり木々の間を引き返す。依然として止まない雨が次の狩場を告げている。
角虫。大きな角を生やした虫系甲殻獣を指す用語。あえて虫に例えるならカブトとかクワガタとか。
行き場を求めて蔦が入り口の壁沿いを覆った大きなトンネル。エグザムは遠めで見たより遥かに大きな入り口の前で立ち止まった。
「獣の匂い。穴の何処かで食事中らしい。」
青い池へ流れる水は若干白く濁っていて、周囲だけ植物が多い理由を克明に物語っている。
(どれだけ腐っていても、此処では全て養分に成る。さっさと中に入るか。)
エグザムは光源が絶望的に乏しい闇の入り口をくぐる。腰帯に下げた照明具の反応液が辺りを青緑に照らし出した。
空気の対流を感じさせる雑多な匂いが、崩れつつある水路で獣の存在を主張する。等間隔で歩くエグザムにとって未知の先に何が居るのか、直接目にしなければ皆目検討がつかなかった。
(一本道ではないな。壁面を崩して後から掘られた坑道が枝分かれしているようだ。)
エグザムは整然と湾曲した壁に掘られた穴の一つを覗き込む。人間用通路と思しき坑道から何かの匂いがする。
硬い岩盤を削った跡。掘削して出た土砂や瓦礫が見当たらなかったが、代わりに何かが踏み潰したであろう闇虫達の屍で埋め尽くされている。
(小型の害獣は眼中になし、なんとも哀れだな。)
紫色に見える屍の坑道から、生物の存在を窺い知る事ができず。エグザムは闇虫達の体液が付着したトンネルの先へ進んだ。
しばらく歩くと足元を流れる水量が減り始める。人為的に掘られた坑道を虱潰しに探す気も無いエグザムにとって、数少ない状況の変化だ。
(反応液の予備を多めに持って来るべきだった。登山道の掃除が終わっている以上、一旦帰るべきか。)
少しだけ下へ傾斜した水路を歩きながら、探索を中止すべきか考えているエグザム。トンネルの奥からうめき声の様な音が聞こえ、思わず立ち止まった。
(風が震わせる洞窟の洞声とはまるで違う。この波長は間違い無く獣の鳴き声、それも陸獣に近い声帯の持ち主だ。)
エグザムは素早く決断すると、腹袋から獣笛を抜き取る。一本道の先に居るだろう正体不明の相手に対し、土竜の合唱を唱えた。
(この際、何かがが釣れるまで吹き続けるか。)
引き返しながら笛を吹き、餌が移動している事を獲物へ伝えたエグザム。吹き始めてから時間を掛けず、二度目の咆哮が返ってくる。
エグザムは腹袋に獣笛を押し込むと、激しい水音を発てて入り口へ走り出した。
(複数の足音が反響している様に聞こえる。此処まで上がってこれる獣の群は限られる筈。)
あえて速度に緩急を付け、逃げる土竜を演出したエグザム。自らを餌とし、入り口まで誘き寄せる事に成功した。
走るエグザムは小島の一つへ飛び込み身を隠す。トンネルから何かが吐き出されようとする音を聞いて、ツルマキに杭を装填した。
(音が止んだ。用心深い性格らっ)
大きな穴から出現した巨大な頭に絶句するエグザム。呼吸するのも忘れ、自らが何を誘い出したのか理解してしまう。
(あれは上位種でも最大の獣、大塚蛇。何故森の王者が腐海の穴にいるんだ!?)
身をくねらせ木々の間から辺りを見回す黄色い眼孔。舌をチラつかせ、明らかにエグザムを探している。
(水場まで引き込む作戦が裏目に出てしまった。情報が確かならヤツは俺を逃がしはしないだろう。)
大きな緋色の瞳孔が、木々から歩いて出て来た獲物を捕らえた。雨にも躊躇せず、長い胴をくねらせ棲家から巨大な半身を曝け出す。
「その鱗の罅割れ、鉛玉の傷ではないな。鎧虫の突進でも食らったのか?」
三階建ての高さから見下ろす相手を見つめ返すエグザム。大塚蛇に少しでも怯んだ様に見られれば、闇虫と同じ末路を予想できた。
(俺の逃げ場が無い事を理解してる。食えるかどうか値踏みしてやがって、噂に聞く古代獣の貫禄は圧巻だな。)
黒に近い灰色の体表こそ記録と違うが、上の池と同じ高さから扇状地を見渡せる雄姿は圧巻だ。この状況でそう考えるのはエグザムだけだろう。
足掛けを右足に乗せツルマキを自身に立て掛けた狩人。臆せず余裕を見せつつ、古い格言を思い出す。
(窮鼠猫を噛むと、意味の分からない事を白爺が言っていた。ヤツが只の生物なら時間稼ぎせずに済むのに。)
エグザムはナガーーーイ胴体で周囲を囲まれながら、始めから諦めた退避先の代替が来るのを待っていた。狩人の士気は長いものに巻かれそうになっても挫けないのだ。
止まない雨の中、エグザムと巨大生物の耳が雨以外の劈くような騒音を拾う。一つ二つ三つと増える羽音は、獣が出せる音にそぐわない音色に近い。
(角虫を食い散らかした奴等で間違いない。やはり俺の読みは当っていた。)
来訪者を見つめる狩人と古代獣。姿や年齢がかけ離れた二匹の獣は新たな獣を歓迎する。
「主を決める戦い。特等席で楽しませろ。」
蛇に比べれば圧倒的に小さく、それでも小屋程度の大きさの甲殻獣に期待を隠さないエグザム。待ってましたと言わんばかりに蛇の胴壁に飛び乗る。
エグザムが自身の胴へ飛び乗った事に興味が無い様子の蛇。舌をチラつかせ空飛ぶ鎧を睨んだ。
(あれは鎧虫の一種だろう。口が肉食獣と同じだが、蛇の鱗には十分歯が立つ。)
銃弾を防ぐ鱗に杭が通用するか怪しい。そう考えつつ、エグザムはがら空きの後頭部へ杭を射出した。
机に重量物を置く様な音を発て、新たな皹を作った大塚蛇。頭を後ろに反らし、邪魔者目掛け噛み付こうとした。
「ふんっ。」
エグザムは大きく蠢くからだから素早く飛び降り、包囲と凶悪なアギトの難を逃れる。呼吸する間をおかず、崖沿いへ走り出した。
(奴等に登山道を潰されたら害獣駆除どころではなくなる。あの杭を何とか有効活用出来れば或いは。)
大蛇と虫の戯れを振り返り観察するエグザム。蛇の後頭部に刺さった杭に焦点を集中させた。
大型の害獣同士。睨み合いの末どちらが先に相手に牙を立てるか争いが始まる。
水飛沫と騒音を撒き散らし高空から肉薄した一体の鎧虫を、大塚蛇は巨体をしならせ器用に尾で叩き落とす。だがその挙動は当然隙を生み、二匹目の体当たりを食らってしまう。
(上手く互いを消耗させ、少しでも勝利の可能性をものにしてやる。)
崖沿いの無事な水溜りから観戦するエグザム。折角落とした一匹への追撃が出来ず、体を回転させ牙から逃れた蛇の焦りを見た。
「動きが消極的過ぎる。雨の所為だろうか、このままでは只の縄張り争いで終わってしまうぞ。」
狩人は自らの手で任務を遂行する事を決断し、一か八かと土手目掛け走りだす。狩人の辞書に敗北の文字は要らなかった。
大地を揺らし石灰質の小島と池沼を掻き荒らす四体の大型害獣。場所を変え配置を換えて交互に突進する様は、エグザムを除いて秘境の日常を醸し出していた。
「おらぁぁぁ!」
登山道から最大限助走を付けて飛び上がったエグザム。伸ばした右手が脚部先端の鋭利な棘を掴み、自身を上空へ運ばせた。
(機会は一回のみ、こいつを落下させて脳天を貫いてやる。)
エグザムは両足を脚部先端に絡ませると、左腕にツルマキを乗せ、照星を羽根の付け根に向ける。逆さまの眼下で遠ざかる地面から、鎧虫の進路が蛇の真上に来る機会を窺った。
(なんて挙動で飛ぶんだこいつら。)
空中で巨体を捻り降下を始めた鎧虫。エグザムの予想どおり、勝負をつける事に決めた。
放たれた杭は一枚の羽根を根元から切り離した。姿勢制御の羽根を取られた鎧虫、エグザムと共にきりもみ状態で落下する。
エグザムは素早く弦を引くと次の杭を装填する。地面に激突するまで猶予は少ない。
変わった羽音で異変に気付き、振り向き見上げる大塚蛇。初めから羽音で位置を掴んでいたので、避けれると高を括ったのが命取りに成った。
(この距離ならば!)
エグザムは落下物を躱す蛇と交差する瞬間、ツルマキから放たれた杭で頭部を砕き命を狩りとった。
事切れ倒れる巨体と一緒に池に着水した鎧虫。どちらもツルマキによって倒されたのだ。
「激闘の次は豪雨か。自衛具を耐水仕様にしておいて良かった。」
エグザムは泥層にめり込み絶命した鎧虫から降り、激しさを増す雨に愚痴った。
横たわる黒い壁は不気味に痙攣している。牙を突き立て貪る二体の獣は、食事に夢中でエグザムなど眼中に無い様子。
(血色体を探してる、連中からしたら牙を無くしても欲しい筈。)
エグザムは旺盛な食欲と鱗を砕く音を聞きながら、首が潰れた鎧虫の亡骸を調べる。噂に違わぬ硬い甲殻に鉈では歯が立たない。
仕方が無いので肉を諦める事にしたエグザムは、巨体に昇り筋肉関節部から寸断された羽根の根元に杭を撃ち込む。
「ふんっ。」
今度はかえしが無い杭を引き抜き、噴き出す体液を缶で受け止めた。
「少し磯の香りがするな。これが腐海の味なのか。」
濃厚な白い血液に険しい表情を綻ばせたエグザム。消化器官が獣因子を濾し取る感覚を楽しみ、勝利の美酒を味わった。
大塚蛇。神の園に住まう巨大な鎧蛇。地面を掘り返し盛り山を根城にする習性が有る。上位獣十二種の内、古くから存在する害獣。長寿と高い知能から秘境の悪魔と恐れられている。
撃退するには狩人の知恵と捕食者の狡猾さが必要で、並みの火力は一切通じない。
二十四日の夜。食事と排泄を済ませたエグザムは、自室で資料室から拝借した本を読んでいる。
(どれも肝心な部分は写しだ。俺が解読出来るのは戦国時代の慣用字まで、前時代の文字はさっぱり解らん。)
その本はどこぞの遺跡から発見されたある種の技術書だ。幾つかの機械図面と文字の羅列は失われた印刷技術で刷られており、薄汚れていても塗料は色褪せていない。
(この首飾りは暗黒期以前の遺物と似ている。どうやって違う材質同士を一体加工したのだろう。)
エグザムは作業を中断し、椅子の背にもたれかかる。
旧式武器が部屋を飾る唯一の飾り。木製の台に立て掛けられたそれらは、ゴミ同然にエグザムに押し付けられた物達だった。
「探索黄金時代の資料はホント少ない。都会の博物館に展示される様な物しか載ってないぞ。」
エグザムは首から提げた死神の首飾りを手に取る。
鎧虫や大塚蛇の血液に何の反応も示さなかった水晶体。蝋燭と反応管の明かりに照らされ、輝く事無く灰色を強調している。
(遺物から作られた再生品ではないのかもしれない。聖柩塔は錬金術の最高峰、公表されてない知識が有って当然か。)
次の項を読み進めようとしたエグザムの耳に、聞き慣れない足音が伝わる。慌てて首飾りを服の裏に隠すと、椅子から立ち上がった。
「此処に居たのか、探したぞエグザム君。」
調査団長のオルガは何時もの探索服とは違い、白い旅装束を纏って扉から現れた。
「うちの猟師から聞いたぞ。黒い悪魔を討伐したらしいな、皆沸きあがっているぞ。」
エグザムが用件を問う前に捲くし立て話すオルガ。半分近く白髪で埋まった額は汗ばんでいる。
「狩人が獣を狩るのは当然だ。」
エグザムは素っ気無く相槌を送り、オルガに対し改めて用件を聞く。内心は満更でもない手応えを感じた。
「五日前に赤い山を偵察していた狩人が、西山道近辺で植獣の古代獣を発見した。大きな白い花の形をしていたそうだが、おそらく偽装だろう。君にはこいつの調査と山道からの排除を命じる、頼んだぞ。」
オルガは亜人の肩を掴み軽く揺さ振ろう(応援)としたが、自身より小柄な狩人は微動だにせず、己の年齢を独り勝手に実感してしまう。
「了解した。明日に出発出来るよう今から準備しよう。」
エグザムは自室の収納箱へ振り返ろうとすると、待ってくれと話の続きが有る様子のオルガが呼び止めた。
「今から話す内容は調査団の探索云々(うんぬん)では無く、個人的な要望だ。」
狩人は声を潜めて始まった会議に只ならぬ事情を察した。静かに椅子に座り机の上を片付ける。
「公務で辺境伯の執政官と面会して来た。結論から言えばこの調査団はあと一期程度で解体され、おそらく後に組織再編される。中央連中は夏頃に連合軍精鋭と合同で、辺境伯に秘境探索を遣らせる心算らしい。」
オルガのひそひそ話しを聞きながら、バロンとの会話を思い出すエグザム。秘境を巡る駆け引きが進展した事を理解した。
「私は探索者を引退した身。団長の座から潔く身を引いて役目を誰かに譲ろう考えたが、老後を楽しむのに些か心残りが有っては宜しくない。なので君の狩人の業を、老人の足掻きに使わせて欲しいのだ。」
オルガはエグザムに個人的な密名を託そうとする。老人の目には謎が多い若者が別の可能性に見えたのだろう。
「此処の組合は害獣と遺跡の情報全てを公表している訳でない。未確認種や危険領域などと枠を設けているが、私の見立てでは昔の調査内容の一部を隠した可能性が有る。噂が真実なら裏で隠れ里と結託して秘境の一部から人を遠ざけている筈、なにより情報が正しければ、君がこれから向かう赤い山は未確認種の巣窟と言う事に成る。」
有無を言わせぬ口調が一旦途切れる。エグザムはオルガが依頼を出した動機を訊ねた。
「私の半生は探索業と共に在った。探索者として多くの成功と挫折を味わったが、秘境への愛と未知への探求心を忘れた事は無かった。引退した身とて探索者の端くれ、復活した神の園調査を最後まで見届けたいのだ。引き受けてくれるなら、私が培った財力と人脈から依頼の助力と報酬を出そう。」
オルガは改まって狩人へ、老後の心残りに成りそうな障害排除を依頼した。
(これも聖柩塔の計画の一部なのだろうか?いや違うな。個人の私欲で狩人を縛るには接点が細すぎる。どのみち俺が秘境をうろつくのには妨げに成らない。話だけでも聞いておくか。)
エグザムはオルガに了承ついでに委細を問う。血統を特殊な獣因子と言い換え、未確認種との関連情報を欲した。
「君は亜人の力を高めたいのか?残念ながら私が提供出来る情報は無い。君には狩人の視点で私に真実をもたらしてくれ、それが私とカエデ嬢の願いだ。」
その曖昧な依頼内容を以て、エグザムは組織の内情を垣間見る。夏への切符を唐突に渡された気分を味わった。
(調査団を裏で動かしているのはカエデとみて間違いない。バロンは隠れ里と聖柩塔の繋がりを隠そうとしたのではなく、俺が隠れ里と組合のどちらかと手を組んで勝手よろしくする事を嫌ったのかもしれないな。)
探索者や狩人、優秀な団員として扱き使われる彼。進むべき道はきっと秘境の何処かに続いているのだろうと、この時初めて理解する。何故なら獣の居場所は初めから秘境にしかないのだから。
古代獣。害獣の中には長命な種族が存在し、その殆んどが成長しつづけ巨大化する。長い時間秘境で過ごした結果、蓄積した獣因子が独自の進化を促したからだ。
何れも広い縄張りを有し、事実上秘境の主として君臨している。
二十六日の早朝。岩場が多く起伏が激しい土地は、ひしめき合い繁殖する植物と虫達の楽園。其処には秘境西側の中央を占有した熱帯系樹林が広がっている。
「花や果実の匂いが充満している。芳香剤の倉庫に居るようだ。」
密林に入ってから既に一日が経過していた。エグザムは鉈で獣道を造りつつ、複雑な地形を上り下りしながら東へ進み続けている。
密林と呼称されたこの地では、太古の昔から似たような植生を育んできた。外森林の木々より更に高く太い巨木林や、異様に大きい花々が雑草の如く生えている。
(植物達は皆大きい。俺が知る雑草は此処では低木や藪程度の高さだ。)
極端に言えば観葉庭園に小型化されて入れられた気分を味わうエグザム。時間の経過でも飽きない程、多くの意味で刺激的な場所と言えた。
そんなエグザムは蔓草と見紛う多年草の根を伝い、小高い岩場を登り始める。赤黒黄色と何層にも積み上がった地層を其処でも目にした。
(場所によって地層の構成や種類が違う。自然的に堆積したとはとても考えれない。)
分厚い毛皮以上羽毛布団以下の厚さの緑苔に右手を伸ばし、小高い崖を登りきったエグザム。滝が流れる窪地を見下ろし息を呑んだ。
「道理で地面が振動するはずだ。地下に大規模な水路が流れてる。」
崩落によって出来た縦穴の底を流れる激流。天井の陰でほの暗く見える流れは、雨季であるにも関わらず大して濁っていない。
(南の湿地流域へ流れている。海岸線まで相当遠いのに、もうこれだけの水量に達するのか。)
雨季では貴重な青空が滝つぼに虹を描き、葉に張り付く水滴と花弁に溜まった雨水が蒼い空を映し出す。虫の羽音に紛れ時折聞こえる鳥獣の鳴き声が、獣の楽園である事を物語っている。
「この辺りは高台だ。あの木からなら周囲を見渡せるだろう。」
エグザムは巨大樹の根に近付き登れそうな場所を探した。
(虫の丘ほどではないが、此処にも磁場の乱れが存在する。磁力石を失えば迷うだろうな。)
獣の髄力を躍動させ、ザラザラとした巨木の体表に杭を突き立てるエグザム。かえしと矢羽が無いそれは、磁力石同様数本しかない貴重品だ。
「ふっ。」
肺を圧縮し重い自重をしならせたエグザムは、地面と水平に枝分かれした太い枝に腰掛けた。すぐさま腹袋から小型の双眼鏡を取り外し、緑の地平に囲まれた巨大な堅牢残丘を観察する。
「赤くない緑の山。標高は外界山脈」より少しだけ低い。此処からでも只の山にしか見えない。」
神の園中心に在る山岳地帯は赤い山と昔から呼ばれてきた。何故赤いのか、その理由を知る者は数少ない生き残りとその子孫だけだ。
エグザムは南の方で発達中の雨雲を視界に入れ、突発的な大雨が迫っている事に気付く。
(又雷雲が近付いて来た。雨で地盤が緩む前に出来る限り進んでしまおう。)
立ち上がると針葉樹の幹ほどの太さの枝を走りだし、エグザムは重い自重で枝先をしならせながら飛び降りる。落下地点に選ばれた若い大木は、数本の枝を犠牲にエグザムを受け止めた。
大鴉が一斉に飛び立つ様子を見上げ、そそくさと赤い山へ走り出した狩人。その鼻はいきなり獣の痕跡を検出した。
(雑食性の糞は、この匂いがそうなのか。どうやら人狼の勢力範囲に入ったようだ。)
人狼とは大猿と呼ばれる害獣の一種で、神の園に住む固有種だ。
エグザムは小さな岩に根を下ろす古木林を翔け、足爪で小石を蹴り派手な音を発てた。狩人は初めから隠れる心算など微塵も無かった。
(賢い獣なら、わざわざ手強い奴に歯向かったりはしない。俺を見つけても驚いて傍観するだけだろう。)
腰で揺れる緑の背嚢が虫の腹に、兜に巻いたゴーグルが虫の複眼に見えるだろう。そう考えたエグザムは、森の住人へ自ら存在を誇示する。そうやって正体不明の怪しい生物は獣の林を翔け抜けた。
密林。神の園で最も多種多様な植物が確認された地域。周囲と隔絶した森と起伏に富む世界は、まさに秘境の中の秘境と言える。
日没から数刻経っても雨が止む気配は無い。
エグザムは巨木の根の下に葉を敷き詰めて雨宿りしている。降りしきる雨で昼間の暖かさが薄れつつある闇の世界は、火を熾せば獣を呼び寄せる環境のままだ。
(雨で鳥獣や牙獣の匂いが掻き消された。慣れない環境を無為無策に進む訳には行かんし、今日は此処までだな。)
結論を出した狩人は獣が食す黄色い果実を齧る。柔らかい果肉と咥内に広がる甘い辛味は、人の肌に触れると痒みをもたらす毒が含まれている。
(聞いた以上に密林は広いようだ、あれだけ走っても赤い山が近付かない。片道三日程度と考えていたが、最低でも四日は掛かりそうだな。)
雷の閃光が辺りを何度も白く染め、雨音を掻き消す音が轟き続ける。雨が止むのを願う狩人は、夜が明けるまで瞑想に耽る事にした。
赤い山。神の園中心部の山岳地帯と高原地域。地下に大空洞と多くの遺跡を隠す要塞跡が存在する。
組合では同秘境で二番目に危険な場所と言われている。
翌日の早朝、緑苔と根に侵蝕された森にエグザムは居た。
片手に持った植獣の根を追加の水筒代わりにした狩人は、密林の中でも古い木々が多い森を歩いている。
(外森林にも似たような場所が在ったが、此処は人の手が入ってないのか。似た様な光景と特定の植物ばかりだ。)
樹齢千年を超える樹木が、果樹園の苗木間隔で乱立した緑の世界。そんな噂と違わぬ光景も、ただ広がっているだけなら見飽きてしまう。
(獣が居ないのは苔が発する成分の影響だろう。鼻が乾くような感覚は嫌な感じだ。)
同じ成分が漂う樹海に獣が迷い込むと鼻が利かなくなる。その後どうなるか、それは足元の苔の塊が物語っていた。
「内臓が完全に腐ってない。苔の繁殖規模から、其れなりに時間が経っている筈だが。」
細菌が繁殖できない、又は苔に吸収されるのだろうか。そうエグザムは考えた。
すかさずエグザムは背嚢から磁力石を取り出し眼前に掲げた。密林で頻繁に反応していた磁力反応は、すっかりなりを潜めている。
足元を踵の鉄爪で掘り返すと、重く黒い腐葉土が表れた。
「妙に水捌けが良い。地下水脈でも在るのか?」
エグザムは磁力石を掲げた状態で、体を軸にその場で何度か回る。どれほど回しても北を示す面に変動は無く、磁力石に変調は無かった。
(進路はぶれてない。このまま東へ進もう、)
再び歩き出したエグザム。分厚い苔の絨毯に足跡を残しながら、森の中心へ更に近付いた。
密林は多くの沼地が点在していて、湿地流域に生息する害獣の姿を見かける事がある。雨季から夏にかけて獣の繁殖地として有名だ。
狩人が歩む緑色の世界は、歩くだけ暗みを増し少しずつ青色に変色する。
数刻の間、何時何処で獣と遭遇するか分からない状態で樹海を進んだエグザム。曲がりくねった黒い老樹の間から白い針葉樹の森を発した。
(植生が変わったな。此処の葉と苔は全て青で統一されてる。)
それまでの青緑色の苔や木の葉とは違い、白い体表が特徴的な針葉樹の森はとにかく青かった。まったく腐敗臭がせず生物の気配が無い静かな森。昨晩の雨で濡れた木々は、光が殆んど届いていなくて暗い。
エグザムは何度目かの方位確認を行う。取り出した磁力石は北を軸に上下に激しく揺れる。
「磁場の乱れが強い。この揺れ方だと影響範囲は相当広いぞ。」
金貨一枚で狩人が買ったそれは、同種の物と比べて安物だ。探索業が衰退している連合ではこの手の輸入品が手に入り難い。
エグザムが一歩踏み出すと苔の絨毯に違和感を感じ、足を退けて膝を突いた。
(これは苔じゃないぞ。菌糸が土に根を張ってる。)
歩いて来た苔の絨毯と違い、謎の植物の層はエグザムの自重に耐え切れず完全に潰れている。
苔に似た薄い層の何かは手袋の皮に包まれると簡単に崩れてしてしまう。狩人はその植物に心当たりが有る事を思い出した。
エグザムは胸甲内側の胸ポケットから手記を取り出すと、息を吹きかけ目当ての項を探し出す。
「あった、これに違いない。」
前任者の白爺が書き残した見聞録に、「白い森」の単語を見つけた探索者。文字だけの内容に素早く目を透し把握する。
(なるほど。獣を寄せ付けない成分に守られた限定領域の森か。落ちた枯れ葉に変質した菌糸が張り付いて、葉を分解して苔モドキを形成する。更に何等かの条件で白い大樹の芽に変化するようだ。)
一字一句逃さず目読している最中、獣の聴覚が地面を這う謎の音を拾う。エグザムは静物に閉ざされた絵の様な世界で、東から明確な獣の気配を感じた。
(白爺、調査不足だったな。限定領域は間違いだ、此処にも獣が出るぞ。)
エグザムは苔に這い蹲り微動だにせず、北方向へ遠ざかりつつある存在から身を隠す。頭だけを音の方向に向けると、見たことある影が森の奥へ続いている。
(あれは蛇の胴体だな、大塚蛇より少し小さい。薄っすら明るく見えるのは鱗が青いからだろう。古代獣に変化したばかりの鎧蛇が妥当な線だ。)
壁が線として消えて行く最中、狩人は中腰の前倒姿勢で立ち上がると小走りに蛇道へ近付いた。
苔を地面ごと潰し、漉し取り濃縮された茹で汁の様な清涼系の臭いが鼻を衝く。森の奥へ伸びる獣道は、機械で舗装された道と何処か似ている。
(地面の露出が少ない。以前の古代獣と違い鱗に凹凸が無いのだろう。情報室の張り紙にそれらしい二つ名は無かったな。)
もう少し進んだ場所で地面を調べていたら間違い無く見つかっただろう。そう考えながらエグザムは行軍を再開した。
人狼。狼に似た顔と尻尾以外は、大猿特有の隆起した筋肉と手足に鋭い五つの爪を生やした牙獣。人と同じかそれ以上の体高には全身黒い毛を生やしている。
臆病と獰猛さを垣間見せる性格は、まさに人狼の名に相応しい。遠くから豆鉄砲を撃っても筋肉に刺さらない逸話が在った。
三十日正午。緩やかな勾配を蛇行する登山道は、背の高い雑草が多い茂る獣道と大差無い。イナバ三世を発ち五日目にして、エグザムは赤い山西側外縁の西扇状地に辿り着いた。
周囲の植生は高原に見られる低木草で、何れも大きな葉を重そうにしならせている。虫や鳥獣の鳴き声が活発で、背後の麓に広がる密林よりも森らしかった。
「下から見てもでかい山だ。頂上から見渡せる景色は、さぞ絶景だろうな。」
エグザムは扇状地の先に聳える大きな岸壁の向こう側、此処からでは見えない赤い山の山麓を想像した。
(この辺りの足場は森よりはしっかりしているが、雨季の季節地すべりが多いと聞いた。微かな臭いや音に注意しないと瞬く間に生き埋めだ。)
草を踏み倒しながら勾配を登っていると、小さな生物が飛び出して来る事がある。それらの大半は虫や小動物でエグザムの脅威に成らないが、知能が低い為か逃げ出そうとせず飛び掛ってくる奴も居たのだ。
「また斑蛇か。これで今晩も蛇肉だな。」
エグザムは噛み付こうとした腕ほどの太さの蛇を蹴り上げ、素早く鉈で頭を討ち落す。
「この辺は獣以下の動物が多いな。狩りの前の腹ごしらえに丁度良い。」
長い胴を引きずりながら血抜きと内臓を取り出す狩人。寄生虫の有無を確認し終え肉の帯を腰に巻いた。
しばらく歩くと苦も無く扇状地の頂上へ到達する。昨日の豪雨を感じさせない晴天は、赤い山を乗せた岩の台地へ登るのに適した天候だ。
(ここの岩盤は自然に隆起した地形と似ている。化石層らしき白みがかった地層も多い。)
エグザムは岸壁の階段を見上げる。登山道は幾重にも切り立った急斜面の崖沿いに、扇状地同様蛇行して上と繋がっている。
(此処から先は高原への道で、上に到達する頃には夜になっている筈。天気に恵まれている内に辿り着いてしまおう。)
大きな落石が散らばる扇状地の頂上から続く崖沿いの道へ進むエグザム。重装備と重い体が小石を砕く感触は、つむじ谷の煙谷を彷彿とさせた。
(御山への登山道にもこんな場所が在ったな。あそこほど複雑で危険な道は早々無い筈。もし似たような場所に出くわすなら、獣と遭遇する方がよっぽどマシだ。)
不死鳥でも怖がる細い道と突き出た岩の橋。記憶に刻まれたその場所は、若きエグザムの修行場だった。
赤い山へ至る登山道は全部で六つ確認されている。虫の丘も赤い山に含まれる事から、現在のエグザムは二つの登山道を登った事に成る。
一日の早朝。遠くの探索街の遥か先、西の山脈から顔を出した太陽。高原の外縁部で日の出を眺めるエグザムに、季数が三期目に変わった事を告げた。
(雲一つ無い快晴が二日も続くとは、俺は運が良いのかもしれない。)
斑蛇の皮に残った水分が弾け飛ぶ音を聞きながら、日ごろの行いを思い返す狩人。朝食に火が通った事を思い出し、焚き火から突き出た複数の木の枝を慌てて抜き取る。
(焦げた皮に滲み出た油が蒸発する匂い。たまには獣以外の肉を食べるのも良いな。)
そう考えながら厚い肉に歯を立てた狩人。口から白い蒸気を吐き出しつつ、黙々と朝飯を咀嚼した。
(今日から山の山道に入る。これまで以上に獣と遭遇するだろうし、植獣の古代獣は厄介な相手に成るだろう。)
エグザムは連続で瞬きするのと同じ速さで肉を咀嚼してゆく。予想より早い日の出に、匂いで獣を釣る事を恐れた。
「こいつで最後だ。精々血を蓄えて待ってろよ白い花。」
残丘。侵食に取り残され形成された丘や山を指す。地方によって様々な呼び名で呼ばれる事が多い。
赤い山は高原地域と複数の谷で構成された山岳地帯だ。麓より平らな場所が多く、入り組んだ場所との境界が明確な事から、多くの害獣の住処と成っている。
そんな場所をある人々は神の座と呼び神聖視してきた。谷や高原に張り巡らされた山道は、そのモノ達によって築かれ長らく管理されていた。
その谷間の入り口は獣の鳴き声でやかましい。低木が茂る林と樹木に複雑に絡まった蔓草が、背伸び競争に日々明け暮れる。
そんな中をツルマキを構え歩くエグザムは、鼻でしか解らない何かを探っていた。
(資料ではこの先の丘と川沿いの林が古代獣の庭だったはず。森に隠れながらそれなりの距離を移動したが、未確認種どころか川自体を発見できていない。)
赤い山の多くは危険領域として立ち入りが制限されている。害獣や遺跡が多くかつては探索者の行き来が有った山道は、植物に改造され殆んど見る影が無い。
「この鳴き声は何の獣だろう。鳥ではない。」
腐臭が漂い湿度が高い森を進むエグザム。山道を谷間目指し東北東に進んでいたが、何時の間にか低木の樹海へ足を踏み入れていたのだ。
鳥獣がいっせいに羽ばたく音が何処からか伝わり、狩人の動悸が少し加速した。歩みを止めずに腐葉土や木の根を踏み締めていると、前方から草木を押し退ける音が複数聞こえてくる。
(こちらへ来る!間に合え。)
エグザムは音を発てずに木々の間に身を隠した。緑の偽装が完全に溶け込んでいる様だ。
蔦を切り裂く鎌の様な腕。足の先端を腐葉土に突き刺し現れた甲殻獣は、二体とも始めて見る獣だった。
(蟻と似てる小型の獣、一つ目の獣を見るのは初めてだ。あれが未確認種なのだろう。)
赤い単眼が角張った胴の先端で蠢き、エグザムが先ほどまで立っていた場所を凝視する。四本足で更に近付くと、変わった構造の逆関節をしならせ両鎌で腐葉土の一部を持ち上げた。
エグザムはツルマキをゆっくり静かに動かしつつ、標的の体を観察する。
(俺の知る甲殻獣とは体つきが違うな。筋肉部はどれも露出している。何処に脳みそが在るのだろう。)
エグザムは自身が残した足跡を丹念に知らべる獣へ向け、ツルマキの引き金を引いた。
至近距離から放たれた杭は、首か頭部か曖昧な胴先端部の目元に刺さる。射抜かれた一匹は体を派手に横転させ、蔓の藪に受け止められ事切れる。
その代わり、右手だけで押さえられたツルマキは強い反動で茂る蔓を揺らしてしまう。居場所がばれる事は織り込み済みで、狩人が藪から姿を現した。
(逃げようとしない、好戦的な獣だ。)
両腕の逆関節部を展開し腕と鎌が長くなる。足を素早く動かし肉薄した獣は、異音を響かせ狩人を刈り取ろうとした。
何かが弾ける様な音で切断された植物達。瞬間的に圧着した落ち葉が立ち上がるエグザムから次々と剥がれ、エグザムの代わりに鎌の餌食に成った。
(まるで機械獣だな。誰かが神の園へ連れて来たのだろうか。)
自身の腕より遥かに広い範囲を刈り取る鎌に苦戦する死神。若い木の枝や低木さえ切断する刃が、塞がれた逃げ道から何回も迫って来た。
(俺より奴の方が少し速い、これでは死角に入り込めない。見知らぬ森の中へ逃げるのも得策じゃない。)
茸や不思議な形の草花を荒し腐葉土を飛び散らせる戦いの果て、余裕が失せた狩人は正面から決戦を挑む事にした。
空を切った右鎌とは反対へ前転し、左鎌の返し刃に体を肉薄させ関節部に取り付いた。
「折れ曲がれ!」
鎌の構造を掌握したエグザムは渾身の力で甲殻獣の左腕第二関節を捻じ曲げ、自身を貫こうとした右鎌にぶつけて一瞬の隙を作る。流れる動作で自身の支点を変え、左手の手甲を第三関節に嵌め込み赤い単眼を右手で引き抜いた。
エグザムは金属が裂ける様な悲鳴を間近で聞いた後、直後に先端部の眼孔から溢れ出る赤い体液を右肩に浴びてしまう。
(凄い量だ。動脈か心臓を引き裂いたのだろう。)
生物のそれより絵の具の紅さ体現した血は、何故か甘い果実系の匂いがした。狩人は只ならぬ獣因子の存在を直感的に疑う。
「確か首飾りは。」
疑念を払う方法は一つだけ有り、エグザムは腰袋の一つに捻じ込んだ水晶体を、血で汚れた右手で取り出した。
「なんじゃこりゃ。」
意表を衝かれたエグザムが見た物は、右掌の上で灰色から紫色に写り変わる四角い何かだった。
牙獣。血に生きる一般的な害獣の総称。数多居る害獣の中で特徴的な牙を剥ぎ取れる種を指している。
日が中天を通り過ぎてから数刻後。エグザムは南西へ蛇行して流れる川の岸辺で洗物の最中だ。
(貴重な重曹を半分も使わないと落ちないとは。やはり只の獣の血ではないな。)
山間部の一つ上の高原から複数の滝がその川へ流れ落ち、山間であるにも係わらず小規模河川を名乗れるだけの水量が流れている。
獣の気配を確かに感じつつ、それでも川に獣が近付かない習性を逆手に取ったエグザム。半刻程度砂利場に尻を落ち着かせた結果、ようやく羽織を洗い終えた。
エグザムは洗濯に活用した丸く小さな砂利を払い無防備な肩にそれを羽織る。その上に外した肩具と胸甲を付け直すと、何時もの狩人装束が完成した。
「おっと、こいつも洗わないとな。」
神経筋を丸く結んだ大きな眼球。紅い宝玉に見えなくも無いそれは、エグザムが未確認種調査に役立つだろうと考えた証拠品。そして謎の血の持ち主であり、緑の羽織を汚した元凶でも在る。
(おそらく機械獣の生体部品の類だろう。これを持ち帰ればオルガの株も上がる。)
エグザムは音を発てず、泥と固着した体液を川の清らかな水で丁寧に洗い落とす。綺麗な赤い単眼は、自らと同じ獣の目をしている。
神の園は番人制度で管理された秘境ではない。当台含め歴代の執務官は外来獣の持込や、外秘境への固有種の持ち出しを禁じている。大陸東部に棲息する特定の害獣が神の園に居る筈がないと、エグザムはそう考えた。
(組合かオルガのどちらかに嫌疑が掛けられるだろう。どうなる事やら。)
エグザムは戦利品を背嚢に仕舞うと、川岸の斜面に点在する遺跡の壁を直視する。
(この辺りは山道から離れた場所だ。全ては覚えれなかったが、おそらく危険領域に入った。)
旧文明の遺構はどれも白く変色し、堆積した塵やら汚れやらが植物の繁殖地を提供している。光が入らない穴や窓の奥は、遠くから視ても不気味なほど目立っていた。
「今は花の古代獣が先だ。」
エグザムは踵を反し森の中へ入る。静寂など無縁な、鳥獣や謎の鳴き声が耳を劈く喧騒へ戻った。
鳥獣。鳥の形をした獣。文明圏では愛玩具、秘境では翼獣の餌と認識されている。一部飛べない種が存在する。
そこは谷底で侵食から取り残された残丘。谷上の高原より低く風が吹きつける丘は、植物と獣の檻で囲まれている。
(地図では此処が西山道の終着点に指定されてる。昔は管理が行き届いた林だったんだろうな。)
エグザムは低木の細い枝を数本犠牲にして、成長途中の葉から顔を覗かせた。
西から続く低木の絨毯は谷間の丘で途切れていて、谷が途絶えた東の崖まで広葉樹の森が続いている。また時折吹く風は方向が定まっておらず、気ままにエグザムのスカーフをはためかせた。
狩人は双眼鏡越しに丘上から周囲を見回す。丘の南崖から舞い上がる翼獣や谷斜面で巣作りに励む鳥獣を何度も見つけても、肝心の花が見当たらない。
(白い花の植獣か、白い花の古代獣か釈然としないな。もし地下系の獣だったら既に場所を変えた後だ。)
神の園は森が密集している事から植獣が繁殖し易い秘境だ。隣の大国「大部族団」に在る秘境「世界樹」と違い、生息害獣数の中で植獣が占める割合は二割程度。全部で六つ有る枠組みの種が生息している神の園では、多くも少なくも無い平均的な数字と言える。
エグザムは双眼鏡を一旦下ろし肉眼で空を見上げる。ここからでは見えない赤い山の頂上付近に、大きな笠雲は無さそうに見えた。。
「もし雨の間だけ地上に顔を出されると、此方から積極的に手出し出来ないな。山の天気の気紛れさに勝負を賭けたくない。」
再び双眼鏡を目に当てたエグザムは、地図を頼りに西山道の痕跡を探し始めた。
(植生に痕跡が有って当然なのだが、やはり樹海化していては判らない。谷違いは在り得ない以上、何者かが手を入れた可能性が有る。)
エグザムはカエデ達先住部族の生業を想像する。自身と同じ秘境に生きる集団は、文明や獣にも成りきれない不確かな存在と言えた。
他にやる事も無く気ままに双眼鏡で眺めていると、エグザムは数刻前に遭遇した甲殻獣らしき影を北の木々の合間に見つけた。
(獣の拡大視野に頼らず我慢して正解だった。)
影は其処から南近くに流れる川へ近付いていて、進路を把握した狩人は地面へ飛び降りる。
(奴等に杭は勿体無い。久しぶりに弓で仕留めよう。)
なだらかなこげ茶色の地面で繁殖する低木の林を駆け抜けたエグザム。何時もより勢いをつけて岩場から川下へ飛び降りた。
風を切ったエグザムは水場に近く湿った腐葉土を着地の衝撃で踏み固めると、人外の脚力で土を掘り返し前転。勢いを転がりながら藪で殺し、手ごろな藪で止まると対岸の林を注視する。
綺麗な直線と整った湾曲線の影が、走りながら木漏れ日に照らし出された。生物とは思えない体構造の二体は、エグザムが多くの書物を通じ知り得た機械獣の特徴と酷似している。
対岸の川沿いを下流へ移動中の甲殻獣を発見したエグザム。進路を予想すると一つの考えが浮かび上がる。
(あのまま進めば俺が殺した死体の場所に近付く。あの二体も同じ道を通ったのだろうか?もしそうなら統率する存在が居るはず。原理は蟻と同じか。)
エグザムは見えなくなった謎の蟻を追跡する為、林を出て浅瀬の川を渡る。上流で水量が少なく、冷たい水は澄んでいた。
腐葉土の地面には特徴的な穴が大量に開いていて、相当前から蟻の通り道である事を物語っている。その道沿いを走るエグザムは意図的に排除された低木の残骸と、引っこ抜かれた木の根と穴を何度も発見した。
(雑な地ならしだが、あの足なら理に適ってる。埋没した木の根や石に足の先端が刺さらないよう工夫したようだ。)
自身よりも体一つ分の高さで茂る木の葉の天井。擦った傷ばかり目立つ狭い並木の獣道を走りつつ、いっこうに蟻一行へ追い着けないエグザムは違和感を感じ始めた。
(足跡は確かに道を辿っている。見つけた時は人と変わらぬ速さで歩いていたが、途中から走り出したのだろうか。)
エグザムは獣の喧騒で頼りにならない耳の代わりに、鼻で痕跡を探し始めた。走っていても鼻腔に入る空気は腐葉土と植物の香りばかりで、甘い花の香りぐらいしか目新しさが無かった。
(血の匂いにしか興味を示さない獣は少ない。この匂いを辿ればもしかしたら。)
その先を考える前に結果を発見したエグザム。立ち止まり通り道から森の奥へ逸れた足跡を調べる。
足元に無数の真新しい穴が出来ている。急停止した直後、忙しなく体を旋回させた痕跡と判断した狩人。木の根が露出し一部耕された盛り土で黒砂虫の一部が蠢いていた。
「この匂いは薬品の揮発成分か何かに近い。」
エグザムは匂いに誘われ道草をくっているだろう一行を追いかけ森の深部へ入った。
加速した蟻モドキの速さを予想しながら走っていると、エグザムの耳が数刻前に聞いた断末魔と似た音を拾う。
(奴等がやられたのか?機械獣にしか見えない体と赤い目、そうだ奴等の名をアカメと呼称しよう。)
断末魔の後に振動した地面と羽ばたき逃げ去る鳥獣達。何か硬いものを砕く様な破壊音が断続的に聞こえ、エグザムは木の裏から事態を把握しようと顔だけ出した。
大きな白い花を頭部に生やし、巨大で長い顎に並んだ牙獣の牙から赤い血が流れ出ている。暗い緑色系の体は植物の緑素肌と同じで、無数の根を手足に胴体の核を支えている。
(あ、あれは幻獣の不死花じゃあないか!まだ生き残っていたのか。)
成長前の種子袋を彷彿とさせる胴体の緑核。硬そうな外皮の罅割れは所々脈打っていて、様々な形状の植腕で残りの一匹を絞め殺す。アカメを噛み砕き体液と内臓だけ器用に飲み込む植獣は、とうの昔に狩り尽くされた筈の獣と瓜二つな容姿だ。
山道からの排除対象がまさか絶滅した害獣だと思いもしていなかったエグザム。珍しく口を開け呆け面を晒してしまう。
(不死花は神の園から駆逐された古代獣。永遠の命を受け継ぐらしい噂話目当てに、当時の探索者達が生け捕りにした話ばかりしか知らない。)
エグザムは多くの問題を含む案件に頭を悩ませる。杭で急所を貫き行動不能にしてから切り刻むか、火を着けて存在ごと消却してしまうか判断に迷う。
(調査団に戻っても、間違い無く未確認事案として処理されるだろう。オルガにだけ話すべきだろうか。)
くるりと方向転換したエグザム。色々思考しつつ忍び足で遠ざかろうとした時、背後から風をきる矢羽の音が迫って来た。
エグザムは反射的に地面に伏せる。瞬間、己の首が在った空間を通過した黒い矢を見送った。
(対人用の矢。おそらく毒が塗られた暗器の類。)
ツルマキを分離して板バネの弓でアカメを狩ろうとした狩人。まさか自分が射られるとは想像すらしていなかった。探索者が立入らなくなって久しい秘境で、謎の狩人から狙われてしまったのだ。
体勢を維持しつつ四足生物が獲物へ飛び掛る様な跳躍で回避行動を執るエグザム。飛び跳ね場所を移しながら射線を切る様に移動した。
(射手は不死花の向こうから俺を狙った。あの状況で俺を見つけるには、何かしらの事前情報が必要だろう。相手は複数と考えるのが妥当だな。)
狩人として、地の利の有無が勝敗を分かつ事を理解しているエグザム。逃げきれるとは最初から考えておらず、ツルマキに狩猟矢を装填しつつ藪の中で作戦を考える。
(何者だ?組合の狩猟団では無さそうだ。カエデの同郷くらいしか思いつかん。もう少し相手の出方を窺おう。)
森周辺の状況が解らないエグザムは迂闊に出しゃばろうとせず、正体不明の狩人と時間を掛け我慢比べをする事にした。
待ちに徹するエグザムの予想どおり、アカメの悲鳴で静かに成った筈の森に喧騒が戻り始める。木々が邪魔で不死花が居る筈の空き地が見えず、断続的に振動する地面から何等かの行動をうかがえた。
エグザムは藪の中で状況を静観していると、北西から何かが枝や草を掻き分ける物音が聞こえる。明らかに茂みを此方へ近付く物音は、警戒しているのか停止と前進を繰り返していた。
(間違い無い、隠密靴を履いた人間の足音だ。あの程度の物音なら、俺でも尾行に気付くのは無理だろう。)
そうこうしている内に木々の暗がりから、ずんぐりした輪郭が木漏れ日に照らし出される。獣の毛皮で全身を隠し、牙獣のフードから黒い顔を覗かせる男が現れた。
(随分古風な装束だ。毛皮に土の匂いを着け、獣の匂いで体臭を誤魔化してる。弓も軽さを重視した木製の代物、おそらく近場から現地調達した素材を用いているのだろう。店で売ってる骨董品にすら及ばない武器だな。)
その男の顔つきは連合では見られない帝国系の角張った骨つきで、何かの刺青の上に黒い化粧を施している。
左右に揺れる瞳の動きから、油断無く辺りを警戒し続ける狩人。足元の藪の中にエグザムが隠れている事に気付かない。
(向こうも目と鼻で獲物を探すようだが、臭いに煩い俺を見つけるのは不可能に近い。)
眼前を通り過ぎようとした獲物に手を出さずそのまま見送るエグザム。すれ違いざま、見知らぬ獣の血の匂いをはっきりと憶えた。
(塗料は炭か何かの混ぜ物だろう。酸化し易いだろうから、あまり長持ちはしない筈。)
エグザムの狙いは此処で遭った事を完全に揉み消す事だ。雨季で匂いが混じり易い環境でも、獣の血を顔に塗りたくった獲物を追える自信が有った。
結局太陽が高台の高原に隠れるまで静止し続けたエグザム。気温の変化で夜にも降り出しそうな雲が流れて来て、少し早い夏の狩を始めようとする。
植獣。土と水、光と肉の何れかさえ有れば成長可能な生物の総称。害獣の中で最も生命力が強く、特定の秘境にのみ生息する。
明確な思考手段を与えられた人造の害獣は、旧時代末期に創られたと神話や叙事詩に記されている。
日が陰り、雲の隙間から夕日が北の崖を照らしている。周囲の暗さと相俟って、焦げ茶色の狩装束が更に地面と林に溶け込もうとしている。
鉈を曝け出し落ち葉を静かに踏み締め加速中のエグザムに気付かず、内輪話に忙しそうな三人の狩人。同じ毛皮の中に隠している装備の入れ替えをしていた。
「伏せろ、後ろだぁ!」
咄嗟の回避命令を実行する間も無く首を討たれたその狩人。血と肉片が弧を描き、舞う視界が捉えたのは緑色の逆襲者だった。
「アレフッ。」
残りの二人が肉切り包丁と酷似した片手剣を鞘から抜く前に、エグザムは肉薄した自身に怖気づいた形相の首を返し刃で切断する。
一つ目の首が地面に落ちるのと、悲鳴を上げ腰を抜かした三人目が地面に崩れたのは同時だった。
「所属と身分、名前を吐け。」
エグザムは素早く刃物を握る両手ごと片足で踏み付け、情報を吐かせる代わりに自慢の体重で男に泡を吹かせる。朦朧とする意識の中、三人目の男が最後に見たのは人型の緑獣だった。
「何とも軟い。神の園の先住部族は人間に近しいだけのようだ。」
エグザムは失神した男から毛皮を剥ぎ終わり、無い頭髪の代わりに腕を掴み持ち上げてから首を切断する。
唯一血で汚れた鈍らの鉈は、人間の骨を砕いても傷一つ見当たらない。布が巻かれただけの鋼鉄の板は、三つの屍を手っ取り早く生み出すのに向いている粗製品なのだ。
(危険領域の探索は禁じられてない。何より里の狩場は山の向こう側と聞いた。探索者を襲うのがこいつ等の役目なのだろう。)
エグザムは血液が滴り落ちる生首を持ち上げると、胴体の衣服を切り裂き破いた襤褸切れで顔の化粧を落とし、生気が無い褐色の肌に表れた見慣れぬ刺青を調べ始める。
(こうして見ると単純な形の図形と言える。こいつのは右頬だけか。)
成分を調べようと擦った手袋の匂いを嗅いだが、鼻がそれらしき成分を検知しなかった。不思議に思ったエグザムは、暗くなりつつある状況下で更に顔を近づける。
「これは刺青じゃない。生体痕の一種だ。」
エグザムが舐めた感想は、油汗と僅かに炭の残り滓の味がしただけだった。青い三角の模様は間違い無く変色した細胞で出来ていたのだ。
(バロンが言った遺伝子を弄くった痕。成る程、確かにこいつ等は俺と同じ亜人だ。今は古代獣の討伐より、一刻も早く山から下山しよう。)
エグザムは大きな毛皮の外套に身を包み、その上からツルマキと背嚢を背負う。思いついた死体の処理方を実行する為、太い蔓草が自生する闇の中へ消えた。
それからさほど時間を経てず川に流された死体が何処に行き着いたのか。噂すら流れなかったことから、誰も彼も見つけれない場所に納まったのだろう。
幻獣。絶滅した害獣を指す業界用語。
三期六日。調査団現地本部の自室。
「これを見てくれ、どう思う?」
外と隔絶され、昼か夜か判らない元武器庫で秘密会合中の男二人。机の上に置かれた神経筋付きの赤い眼球をまじまじと見つめる。
「機械獣の視覚部位と似てるな。向こうで何が遭ったんだ?」
中肉中背のエグザムは自身より少し背の高いオルガに、初めから顛末までを簡単に説明した。
「神の園で何かが起きている。副団長なら詳細を知っている筈、団長権限で尋問出来ないか?」
質問に深刻な表情で顔の皺を増やしたオルガ。とある事情で未成年を尋問するのは無理らしく、団長としての威厳を感じない。
「調査団は組合と隠れ里の合同事業組織。切っ掛けが何であろうと、協力関係に皹を入れる事態は避けたい。」
私的な調査を命じられ、エグザムは最初の探索で成果を出した。だが、内容が予想以上の衝撃をもたらしたのだろう、腕を組みオルガはしばらく考え込む。
「襲撃した三人組は手慣れの狩人とみて間違い無い。奴等の装備の大半は、秘境で入手可能な素材を加工した物ばかりだった。」
エグザムは襲撃者が亜人であることを伏せている。なので、隠れ里の狩人だとあえて断言しなかった。
「それと、俺はこの目の持ち主をアカメと名付けた。これは何者かが機械獣を持ち込んだ明確な証拠に成るぞ。」
オルガはしばらくエグザムの話を聞いていたが、結論が出たのかゆっくりと口を開く。
「この話は経験則だが、探索者視点で見れば神の園は枯れた遺跡群ではないかもしれん。まだ誰も立入った事の無い場所が有る筈だ。」
オルガはそこで話を一旦止める。証拠品を手に取り手触りを確めながら小さな声で語りだした。
「遺跡で眠っている遺物は計り知れない可能性を秘めた存在だ。例え用途不明のガラクタでも錬金術に長けた者なら、幾らでも金が生る木を生み出せるだろう。ただ私が知る遺跡の多くは、今も開けてはならぬ扉で封印された場所が在る。何が封じられているのか詳しくは解らんが、それらを見つけた私はそのつど道中を引き返して、何度も犠牲と時間を無駄にしてきた。」
独白を黙って聞くエグザムは、引退した探険家が何を伝えようとしているのか察する。血統を有する特定生物へ辿り着くには、それ相応の鍵を必要としていた。
「今は雨季で遺跡の探索は難しい。来期の中ごろまでこの話はしないようにしよう。良いなエグザム君。」
我侭を言えば、今から装備を整え次第遺跡探索へ出発したかったエグザム。組合と隠れ里の妨害を排除して、単身遺跡を探索する方が能力的にやり易いのだ。
「了解した団長。俺は雨季が終わるまで二つ名の討伐を進める。」
エグザムは気勢良く言葉を返し、退出する団長を見送る。
(上位獣の次は古代獣。この調子なら未確認種の壁を越える日も近いだろうな。)
彼はこれからしばらくの間、狩人として行動することにした。少女が洩らした「夏まで」の先に、血統生物が存在すると確信したからだ。
(組合と隠れ里、俺と聖柩塔。相当複雑な思惑が張り巡らされていても不思議じゃない。今は時間が惜しい、さっさと準備に取り掛かろう。)
エグザムは証拠品として押収されなかった狩装束を、その他の装備と共に持ち出す。
幸いな事に狩装束を知っている筈のカエデは出払っている。同族殺しの証拠品を見つからずに処理できる絶好の機会と言えた。
機械獣。獣の枠から飛び出したかの様な容姿から機械の獣の名が付けられた。生息域は東大陸の東部地域で分散している。
その正体はかつて人類の繁栄を支えた鉱物生命体。
八日。朝から小雨が降り続いていた探索街は、正午を過ぎると風向きが変り快晴を迎えた。
エグザムは以前討伐した仇猫の報酬を受け取りに、組合へ続く階段を登っている。
砦北は東大通りから組合が在る上座まで階段状の区画配置だ。一段目は集荷場と運び屋待機所。二段目は宿場と酒場。最後の上座は組合と関連施設が広場を囲って隣接している。
(何故階段を一直線に通せないか解った。初めから物流の利便性なんてどうでもいいらしい。)
物々しい雰囲気さえ無ければ階段沿いの歓楽街に見えなくも無い北地区。多くは探索者より組合員や荷運びで鍛えられた男達がそこ等中で働いてる。
石垣の基礎に高く積み上がった煉瓦棟や石造建築物。火を点ければ簡単に広がりそうな雑居物件が、密林の植物の様に高さを競い合う。何れも年代を感じさせる佇まいは、七色階段とは似て非なる環境と言えよう。
何度目かの踊り場を経て頂上広場に到着したエグザム。思いのほか時間が掛かった事に驚いた。
(階段を登り続ける度に人が減っていく、此処まで徒歩で登る輩は少ないらしい。俺も進駐団から滑車で来れればよかったのに。)
エグザムは左手側に在る発着場に到着した木造滑車を観察する。
大きな籠から降りる人々は皆街の住人と見受けれる。商人や製造業者と役人、合わせて十五人の身軽な乗客は広場の方々へ散って行く。
新たな客や荷物を載せて南の進駐団発着場へ離れ始めた滑車。この街の物流を支えている公共施設に、エグザムは体重制限が有る事を知らなかった。
(一般枠の俺が乗るには銀貨三枚掛かる。俺は追加料金で大人三人分も重いんだな。)
エグザムは所々雑草が生えた石畳を歩き、更に石垣で高くした組合入り口をくぐる。常時開け放たれた扉の内側は想像より静かで、無人の大衆浴場を彷彿とさせた。
(三つ在る窓口の内赤色の垂れ幕が目印と聞いたが、あれだな。)
エグザムは大きく討伐窓口と書かれた看板を発見し、いそいそと垂れ幕で内部が見えない受付へ進む。
秘境に居れば出くわしそうな完全装備の探索者が呼び鈴を鳴らすと、中からエグザムより大柄な漢が出現。用は何だとエグザムへ手短に問う。
「仇猫の討伐報酬を受け取りに来た。これが証明の手紙、確認してくれ。」
組合員の管理職を示す黒い作業着を着た大男にオルガ直筆の手紙を渡す。
「後ろの椅子に座ってろ。直ぐに終らせて来る。」
太く大きな手が筒状の容器の蓋を開ける様は、どう見ても不自然な光景だった。
組合の内部は、石の柱に通された複数の丸太天井と白煉瓦白い漆喰が特徴的な壁。床と内部の仕切りは全て木製で、何度も改装した痕跡が残っている。
肩の荷を降ろし、エグザムは長椅子に座って呆然とくつろいでいると、一階奥の階段から数人の探索者が降りて来た。
「噂だと思って気にも留めてなかったが、調査団の副団長が子供と同い年だとは信じられん。」
口ひげを生やし長い赤毛を後頭部で結わえた男は、歩きながら似たような姿の探索者と楽しそうに笑っている。連れと一緒にこれから秘境へ向かうようだ。
(情報の通りが早いのか遅いのかあやふやだな。組合は閉塞的な組織らしいがその影響だろうか。)
木の床には階段から入り口まで毛皮の道が通っている。長椅子の背後、エグザムの真後ろを通過した探索者一行は、中堅の探索団と狩人の目に映った。
所要一分程度で例の大男の右腕が赤い垂れ幕から表れる。手に握る袋から僅かに硬貨同士が擦れる音がした。
(幾分早く終わりそうだ。これなら俺も街の観光に繰り出せる。)
エグザムは受付台に置かれた袋に報酬が入っている事を耳で理解し、長椅子に荷物を置いて受付へ歩み出た。
「報酬は通達どおり金貨五枚分の銀貨五十枚。確認は済んでるから持って行け。」
探索者と言っても連合内での身分は平民。商人でもなければ金貨を所持する事は出来ない。エグザムは久々に文明の匂いがする袋を握り締め、経済と言う概念を久しぶりに思い出す。
合金製の硬化は重さ以上の価値を有している。これだけの資金が有れば、街の住人なら数期程度働かずに過ごせる。多くの平民にとって銀貨は最良の通貨と言えた。
(錬金術で溶かせば水銀の材料に成る。何処かに設備と腕の良い職人は居ないだろうか?)
金の使い道は人それぞれ。余った銀貨を溶かそうかと画策するエグザムを咎めれるのは、両替商以外居ないだろう。
エグザムは組合を出て脇目も振らず長い階段を降り始める。これから向かう先の予定は一つだけ決めていた。
(東大通り沿いに洗濯屋が在った。あそこなら装備と毛皮からする血の臭いを落せるだろう。金が有るうちに専門職を使いたい。)
探索街へ出発する前の七日に、エグザムはイナバ三世の地下浴場で装備の汚れや臭いをあらかた落としておいた。何故なら秘境から直に街へ入ろうとすると、臭いでばれて必ず防疫所に通されてしまう。
「まだ少し成分がこびり付いてる。秘境へ向かう前に完全に落としてしまおう。」
匂いを発する微粒子は、時間が経つと変質して独特の臭いを発する。時にそれが命取りに成る事を、誰よりもエグザム自身が知っている。
エグザムは蛇行する階段を数段飛ばして駆け降りる。目的地までの道のりは近いようで遠い。
どうせぶつかるような障害物など、そうそう登って来ないだろうと考えたエグザム。昼過ぎの休息を迎えている探索街で、仕事を続けているのは極限られた者達だけだ。
神の園探索組合。連合内で最も知名度が高い探索組合は、害獣の素材や希少品の採取を取り仕切っている。なので実質的に猟師互助組織に近く、狩猟組合と揶揄されている。
狩人にとって観光とは、文明に対する偵察活動に他ならない。硝子箱や商品棚に置かれた多くの商品は、技術の品位と錬金術の浸透度を測るのに適しているのだ。
(流石に横道だけあって人が少ない。水道整備が往き届いているおかげか、煩わしい下水の臭いもしないな。)
エグザムは東大通りの北路地を散策している。緑の狩装束は洗濯屋に預けていて、竜車に揺られていた頃の白い旅装束を着用している。
錬金通りと繋がったこの裏道には、産業区の名のとおり多くの店が立ち並んでいる。街の東側を占める区域は辺境とは思えない程品揃えが豊か。食料品から生活雑貨が探索具と混在して販売されている。
「この服の拘束具は北の工業区で作られた部品だろうか。艶消し塗装や溶接鋲にむらが無いな。」
女性物の下着を装着した複数の等身人形の中に、一つだけ自衛具らしき防護上着を発見したエグザム。自身が着用する緑の羽衣と違い、薄い繊維生地に拘束具と青い強靭布を貼り付けてあった。
(野戦向きとは言い難い、試作品の類だろう。)
白の外套で肩から靴までを隠したエグザム。緑の背嚢と腹袋を背負う姿は、旅人より流浪の民を彷彿とさせる出で立ち。
エグザムは喧騒が聞こえる表通り目指し通りを西へ歩く。すれ違う人間の数は表より控えめで、子供連れが多い。
普段兜の内側に緩衝材として被る緑の丸帽子で目元に影を作り出し、更にゴーグルを目に装着し獣目をそれとなく目立たせなくする。こうした気配りは、亜人を見慣れていない市民に対して近寄り難い雰囲気を演出する。
(狩や探索に必要な物資は全て調査団の補給所で事足りる。土産を買って帰っても衛生班にゴミを出すなと叱られそうだ。)
組合の探索者や猟師を動員して、イナバ三世へ多くの物資が日夜運ばれている。歴戦の狩人とは言え、運営人員対し頭が上がらないのだ。
エグザムは暫らく歩き続け、人通りが多く騒がしい歩道に出る。
「北側は薬品関係の店が多いな。」
人の生活臭と様々な薬品の臭いが鼻を劈き、狩人は気が滅入りそうになった。
風が後ろから錬金通りへ吹き抜け、一瞬だけ弱まる臭いに宿舎特有の発酵臭が含まれていた。
(バロンめ。用が有るなら尾行せず話し掛ければ済むだろうに、俺を警護している心算だろうか。)
通った裏通りを振り返らず、エグザムは街中心部を軸に湾曲した通りを北へ歩き出す。
(まだ付いて来る。これで進道が同じ可能性は消えた。)
砦から街への内門をくぐった時から、一定の距離を置き付いて来る運び屋の男。おまけの体臭を時折風に運ばさせ、わざと存在を知らせるかのような立ち回りだった。当然、エグザムは監視目的で尾行しているのではないと判断した。
狩人は暫らく居心地の悪くしながら街を散策し、様々な商品を調査しながらバロンの動向を窺う。何度かさり気無い仕草で振り返ると、隠れる素振りを見せない運び屋が歩道を歩いていた。
(もう少し距離を縮めれば裏路地に入って姿をくらませれる。そう、もう少しの辛抱だ。)
それから直ぐに北大通りと合流する交差点が通りの先に見えた。エグザムは此処で始めようかと考えた矢先、後ろから注意を促す運び屋の口笛が聞こえた。
(此処で待機しろだと、何を考えてるバロン。)
エグザムは仕方がなく歩道まで迫り出した屋台の椅子に腰掛ける。大きな布を支える鉄棒が置かれた隣で、昼食を済ませる事にした。
その運び屋が愛用する靴は鉄板入りの厚底靴。エグザムの予想どおり石畳を鳴らす硬質な音が近づいて来た。
「聞きましたよ、二つ名を討伐したそうですね。おかげで私の仕事も繁盛しそうです。」
知人風の口調で相席に座ったバロンは、やって来た店員にエグザムと同じ注文をすると金を払う。椅子に座るまでの間整えられ艶を見せていた黒髪が、仕事中の清潔な一市民を際立たせた。
「狩人が獣を狩るのは当然だ。」
エグザムは前にも同じ台詞を吐いた事を思い出し、今更ながらさり気無く返した相槌に、恥ずかしさを感じてしまう。
「昨日、副団長を屋敷街で見かけました。公務で副団長が呼ばれるのは珍しいそうで、あなたの瞳より獣に近い瞳でしたね。」
料理を待たず本題をきり出した代理人に、エグザムは訝しがりながら答える。
「亜人の中には先天的に顔か何処かに特有の痣を持つ種族が居るんだな。彼女も体の何処かに図形と似た模様が在るのだろう。」
そう言いながらエグザムは緑の手記を取り出すと、バロンに生体痕の模写を見せた。
「これは特定の狩人に見られる遺伝的な証拠でしょう。もしかして殺っちゃいました?」
軽い口調で問うたバロンに対しエグザムは問題なのかとだけ答え、両者はしばらく沈黙した。
「今頃何処かで排出されて微生物が分解している頃だろう。何も問題無い。」
腕を組みそう宣言したエグザム。不幸な出来事だったと無言で語り、バロンは他人事として受け流す。
「それより領域に入って何か収穫は有りましたか?調査団の活躍を待ち望む声が日に日に高まってますよ。」
エグザムは薄ら笑みを作り外套の襟ボタンを幾つか外すと、首元を目立たせないようバロンへ向けて襟を開いた。
僅かに表情を緊張させエグザムの胸元を凝視するバロン。視線の先は紫色の四角い水晶体へ向けられていた。
「その表情。これを見たのは初めてじゃないな。今回は正確な情報を教えろ。」
仕立て屋の様な手際の良さでボタンを填めて襟を正すエグザム。遠回しに尾行した事情の説明を要求した。
「我々が求める物は龍の血です。かつて異形の存在として恐れられ、様々な書物に記された架空の悪。それが数日前、神の園の某所でその存在を示す手掛かりを発見しました。」
長い害獣との生存競争に明け暮れる古の時代を書き修めた多くの叙事詩には、生物の頂点に君臨する異形の支配者達が登場する。多くは文明を滅ぼし歴史を抹消する獣として登場し、年月を経て読み手書き手が龍と呼ぶように成った。
「つまり巨大獣の生き残りが神の園に居るとでも言うのか。あの山は相当広いが、遠目から見てもそれらしき亡骸は一つも無かったぞ。」
歴史研究が注目されるように成って久しい今日。龍の名自体、元々架空の存在だったことが広く知られている。その数々の神話に現実味を持たせた原因は、大部族団と帝国各地に散らばる巨大生物らしき死骸が発端だった。
「それについては肯定します。情報によれば、獣因子に姿を変え受け継がれているそうです。多くの常識を覆す何かに変容しているとの結論が出ました。」
エグザムは赤い山で遭遇したアカメと不死花を思い出す。
(獣の血に流れる因子がもしも巨大獣を起源とするなら、叙事詩や伝記の内容が現実味を帯びる。何故それを示す明確な証拠が存在しないのだろう。)
機械獣と似た獣が有する因子と、幻獣指定された筈の獣。無機有機と対極的な獣が一つの箱庭世界で暮らしている現実が多くを物語っていた。
(隠された真実が有るとすれば、古代人の子孫に聞くのが手っ取り早いな。ん?成る程、全ては予定調和で決まっているらしい。)
注文した茸スープと果実パンが両者の間に置かれる。湯気を上げる黄色い液体から、仄かに甘い穀物の匂いと野菜の酸味成分が鼻を燻らせた。
「バロン、何故組織は回りくどい遣り方で俺に頼ろうとする?いい加減真実を言ったらどうだ。」
エグザムは店員が人間の知覚範囲外から遠ざかったのを目で確認してから、食事を始めつつ話を再開させた。
「では話しましょう、落ち着いて聞いて下さい。三代目の体は獣因子を取り込む器といして造られたからです。来るべき時の為にね。おっと、この話はくれぐれも内密に。二人だけの与太話として聞いてください。」
目を左右に激しく動かすバロン。その小さな告白が例え演技だったとしてもエグザムの平常心を激しく揺さ振り、僅かに驚いているだけに見える狩人に対し、面白がった運び屋はついつい口を滑らしてしまう。
「もしあなたが龍の血を取り込むことが出来れば、姿形を留めつつ支配者の力を行使できる筈です。例の血の渇きに困る事も無くなるそうですよ。」
黒い木目調の茶色い食器が、不自然に音を立ててエグザムの口にスープを届けた。震えているのは喉だけではない。
「そ、そうか。解った、話はそれで終わりか?」
何処でも見られる雑多な景色に気付き、急いで食事を終わらせたバロン。席を立ち短い別れの挨拶を済ましすと、人ごみの中に消えてしまう。
(バロンの話が正しいと、俺の正体は人型の実験生物になる。もし家畜と同じ終末を迎えるのなら、いっそのこと獣の王にでも成るか。)
終わりを向かえた昼下がり、人々が通りに溢れ出してもエグザムは焦げ茶色の果実パンを突いている。乾燥した果実片だけ口に入れる仕草は、昔の癖だった事を思い出した。
巨大獣。生物の骨と思しき巨大な残骸。多くは地中や海中に埋没していて、屍から流失した養分が小規模な秘境を形成している。
その巨像が動く様を見た者は生きて居らず、悠久の時は人々から真実を遠ざけさせ忌々しい過去を封印してきた。