七章前半
七章「蠢く影」
雲ひとつ無い砂漠の夜は月明かりに照らされ明るい。日中程ではないが遠くに見える廃墟と瓦礫の区別がつく。しかし星々が輝く夜空は冷たく、水道跡らしき貯水池表面が氷の膜で覆われている。
アイアフラウ商会から派遣された調査隊のファムラン監視隊員として最初の仕事が、まさか貯水池と周辺設備の夜間警備とは想像すらしていなかった。
俺はそうな事考えながら砂砂漠の砂が溜まった煉瓦畳の裏路地を歩き、都市北西側の高台上部に在った外周区画内に整備された貯水地近辺を巡回している。ファムランの発言は正しく、この場所には他の監視隊から選出された夜間警備組みが監視している。実際貯水池周辺の煉瓦造り住居跡や物見台には監視人員が配置されており、複数の人種で構成された監視隊自体が砂界に在る都市遺跡を根城にした盗賊団そのものだった。
腰帯から取り出した懐中時計に月明かりを当てると、時計の針が日付が変わった九期七日の午前一時を示している。地形把握も兼ねて崩れた石造りの外壁周辺も巡回したので、何時の間にか予想以上の時間が経過していた。
俺は裏路地から出て、都市内に整備された都市水路脇の道を通って表通りを目指し始めた。左側に見える幅四メートル程の水路には貴重な水が溜まっており、凍結した表面下に水没した水路を構築する石材が見える。
(残った水路を堰き止めて飲み水と生活排水用に別けてある。シャワールは扇状地系に似た河岸段丘の斜面に構築された都市だった。枯れた内海を囲む砂漠大地の貯水池が砂嵐被害に遭う事想定していて当然だな。)
枯死し倒壊した覇王樹ジェノーバに程近い区画から方々へと巡らされた水路の一つを歩き、俺は氷点下を下回った外気に体を晒しながら表通りに合流した。今度は今だ現役の砂煉瓦通りを右に進み、最上部区画北側に在る広場を目指して通り中央を歩く。
(干乾びた植物や獣腐臭すらない。昼間とは全く違う世界に居る気分だ。)
俺はやや東側方向へ傾いた道を南下しながら、廃墟都市の一区画を破壊し倒壊した元覇王樹のジェノーバを観た。二階建て住居が多い砂煉瓦通りからでも白く変質した巨大な倒木の残骸上部が見渡せる。巨人樹系の大型植物すら覇王樹の隣では苗にしか見えない。そんな巨大世界樹の主幹は三つに砕かれ、主幹根元から折れた二つの大枝が南側下の区画へ刺さる様に倒れてる。さすがに表通りからでは南側の倒壊部分が見えなかったが、大枝から細かく枝分れした長い細枝の一群が枯死化した通常の世界樹の森に見えもした。
覇王樹の残骸と重なって見えた広場へと戻り、俺は二十二年前まで豪商達が暮らしていた一等地に囲まれた広場内天幕群の中を進む。十二の赤銅色玉が目印の天幕へと戻る最中周囲へ耳を澄ませると、多くの鼾声に混じって会話に勤しむ笑い声が聞こえる。
(人の脂汗の匂いに混じって酒と草煙草の臭いがする。娯楽施設も残ってない廃墟都市だから誰も文句言わないのだろう。陸珊瑚海岸と近いから違法薬物や魔薬闇取引の取り締まりで忙しいのかもしれん。)
政府や一般情報紙では、世界樹枯死事件による治安の悪化や社会不安は改善されたと宣伝されている。統計学による失業者や犯罪者の数は二十二年前の事件直後から低下し続けているが、犯罪組織が摘発を恐れて地下市場に潜ったとも考えれる。
(覇王樹の残骸は監視隊の監視下におかれてあるが、都市内外に点在する世界樹栽培地の多くが獣の住処と化したままだ。水源が減って文明経済が破綻したと言っても、砂砂漠の砂界に在る貴重な生存圏なのにかわりない。また明日から砂漠を移動する日々が始まりそうだ。)
俺は大きな白い日除け布を広げた天幕入り口をくぐり、アイアフラウ商会から出向して来た調査隊が寝泊りする宿泊天幕の横に在る物資補完天幕内に入った。
「まだ起きていたのか 老いた体を酷使すると残り寿命が縮むぞ。」
血染めを纏った亜人と寝場所を共有する調査隊長のオルガは、木箱を並べた寝台の上で胡坐を掻いて書類の束を見つめている。声をかけられても集中を解く素振りは見せず、書類を見つめたまま今の内に寝ておけと答えた。
「今度の競売に出展する遺物や獣素材を選んでいるのか それとも商会本店から送られて来た古美術品を金に換える算段を纏めているのか」
俺の問いにオルガは何も答えず沈黙を貫く。太陽の塔からフラカーンの商会支店に帰還した時、拠点部屋の作業机に溜まっていた書類の幾つかを追及した。探索活動には多くの資金が必要だが、俺はオルガが探索以外の為に金を使っていると考えている。
「そう言えば例の眷属と太陽の塔から沸く獣について何か解ったのか」
俺は話題を変えて何の書類を読んでいるのか知ろうとした。しかしオルガは調査中だとか機密事項としか答えない。俺はオルガがお前には関係無いと言おうとした瞬間を見計らい、木箱の上から跳び下りてオルガの手から書類の束を奪った。
「実力行使とは反則だぞ 今すぐそれを返せばこの事は不問にしてやるから返せ」
食料や医薬品含めた活動資材が詰った箱の上に跳び乗り、俺はオルガの寝袋が有る寝台と通路を挟んで反対側の寝台に腰を降ろした。既に目はオルガの手から右手手中に有る白い印刷紙の束に向いていて、耳から入る情報以外に読む為に不必要な思考を中断する。
「前々から思ってたんだが 団長経験者の人脈の広さと言うやつは如何程の物か 探検家に転向してから築いた人脈だけでこれだけの情報を集めるのは不可能に近いぞ」
印刷用紙に印刷された文字は東大陸共通文字だが、書体が帝国で使用されている鈍角書体だ。一つの穴を紐で纏めただけの雑な装丁だが、題名が無い表紙に書かれた冒頭文にファムラン・シュトラールと書かれてあった。
「最近様子が不自然だから何か隠し事を進めていると考えていたが どうやら俺の想像は間違いじゃなかったらしい 雇った調査員から送られた報告書を読んでから扱いを決める心算か」
手元から書類束を奪われた俺は、腰を下ろした寝台上に置いてある寝袋を手に取り広げ始める。血染めによる体温調節機能によって昼夜問わず砂界で寝れるが、今は消耗を避ける為にも必要以上に血統を頼るべきではない。
「此処は秘境ではない お前が何を考えたのか知らんが これは私が対処する案件と覚えておけ」
そう言いながらオルガは自らの簡易寝台に腰を下ろし、再び書類の束を捲って内容を目読し始めた。俺はオルガから視線を外して横たわり、緑色の合成繊維で織られた寝袋の前止めを内部から閉めて目を瞑る。
覇王樹ジェノーバ。樹齢二千年を超えた砂王或いは砂女王系世界樹が変異巨大化した世界樹の変種。定期的に花を咲かせ季節により葉が生え変わる変温植物で、街中に落下した葉や花と種が何かしらの素材として重宝されていた。
フラカーンの覇王樹である太陽花から固有光石が採れるように、ジェノーバからも夜光石と呼ばれる熱石系の固有魔石が採れた。夜光石は太陽光を浴びて発熱する作用があり、かつては黒紫色の魔石たる夜光石を砕いた熱石で湯や温水が作られていた。
ジェノーバの原種である砂王或いは砂女王は大きな花を二つか三つの枝先に咲かせる世界樹だ。見た目だけなら見栄の良い巨大食虫植物と表現するのが適切だろう。砂王と砂女王の区別は花弁内の分泌液から放たれる独特な誘引発散臭によって分別されており、野生砂王の腐卵臭と原生砂女王種の香臭による香害が都市を獣から守っていた。
朝日が砂の大地を照らし始めてから四時間と少しが経過し、気温が五十度を超えてもなお上昇を続けている。内海があった巨大盆地平野に広がる丘陵と岩石砂漠が混在する地平に蜃気楼が見え、見えない筈の陸珊瑚海岸らしき黒い山の稜線らしき何かが浮かんで見える。
「かつて海と繋がった巨大な汽水湖があったとは思えん そっちはどうだオルガ 進路上近くに獣の姿は見えるか」
俺は右隣を並行して歩く砂縞の背に乗るオルガに問いかけた後、双眼鏡で周囲に点在する丘陵や砂地池を監視中のオルガとは正反対の方向へ振り返った。
「見える範囲に獣は居ないようだ と言っても多肉植物や世界樹の苗畑までしか視えない お前の獣目ならこれより遠くまで見える 自分の目で確かめたらどうだ」
高さ二百五十メートルの断崖斜面に在る都市廃墟から視線を前に戻し、俺は元商業都市を目印に現在地の場所を脳内に記憶した。そして今度は獣目で見える視界を拡大させて地平に浮かぶ蜃気楼より手前の地形を見渡し始める。
夜が明けた直後に都市南側の元港区から出発した俺とオルガ。現在都市廃墟からほぼ東方向の十五キロ地点まで砂縞の背に乗って移動して来た。本日から十日目の十七日まで旧商業都市廃墟を中心に植林地の警戒や枯死海の監視をこなす任務が続く。たった二名の監視人材で内海内に点在する付近の植林地や苗畑を監視するのは不可能だが、広大な枯死海を監視する為に拠点から遠くで活動中の監視員よりは比較的楽な任務をこなしている。
「こんな場所に獣が居るとは思えない 例の地下通路内なら遭遇しそうだ」
本来の目的である都市の地下調査をするには都市から離れすぎている。今回の任務は内海内の都市近辺巡回なので、獣や犯罪者含めた密輸組織と遭遇する可能性は最も低い。俺は夜間に予定している都市地下調査を想像しながらオルガへと視線を移した。
「獣の血が待ちどうしいなら今は我慢する事だ それよりあと十キロ程東に進んだら進路を南に変える もう枯死海の中だから獣の遭遇に備えて大人しく座っていろ」
オルガは馬具と同じ手綱を引いてから腹を小突き砂縞を走らせ始めた。騎乗生物の中では鈍足の印象が定着している砂縞だが、実は環境さえ良ければ駄馬や草竜より早く走る事が可能だ。砂砂漠内でも平坦な場所なら全力疾走する俺より速く走れる。
俺も砂縞のわき腹を踵で小突いて砂縞を走らせる。オルガを乗せた砂縞の尻を追う形で白い砂漠を走らせ、砂縞が過度に消耗しないよう上半身を揺らさない。
人間の小走りより早い小走りで枯死海を走らせた結果、幾度か休憩を挟んだものの三十分程で中継地点に到着した。途中で獣に遭遇する事はなく、都市廃墟周辺の砂砂漠や枯死海に植えられた環境改善用の世界樹畑を見回る為に進路を南へ変えて白い丘陵地帯を進む。
枯死海には水源確保の為に岩場や池付近に水筒樹系世界樹が植えられ、世界樹や獣の死骸含めた汚泥堆積地域に土壌改善用のアローエ系品種が多数植えてある。覇王樹が枯れる前の商業都市シャワールでは世界樹を活用した海岸付近の水質と土壌改善事業が盛んだったので、世界樹畑の中には廃墟都市が商業都市だった代に植えられた世界樹が残っている。
俺とオルガは二頭の砂縞の背に乗って、主に廃墟都市東から南を経由して南西方向に在る調査地域を巡回した。初日に課せられた十五キロ圏内の世界樹畑や人工池監視を終わらせて廃墟都市に帰還したのが午後三時十五分頃。途中で灰の様な砂や石灰岩らしき岩場に潜む獣と遭遇する事は無く、装備の大半を省いて持って来たツルマキを騎乗しながら触れる事すらなかった。
都市に帰還した俺とオルガは元港区で砂縞から降り、階段状の都市区画を結ぶ長く緩やかな坂道を砂縞と共に登った。商会の天幕が有る広場に到着したのは元港区に上がってから二十数分後の事で、俺は巡回報告をしに監視隊長が居る天幕へむかうオルガと広場南出入り口前で別れる。
「それじゃあこいつ等を戻しに行って来るから事後処理は任せたぞ」
二頭の背に固定された鞍には、俺が都市地下を調査する為に必要な物資が装着してある。この二頭を預かり所の管理人に渡してから装備を回収し、夕食前の点呼時間までに地下区画へ降りる地下道入り口の場所を確認する予定だ。
「任せた あおそこは複雑だが迷うんじゃないぞ」
オルガはそう言うと自分が座っていた鞍から自身の装備品だけを外し、手綱を俺に渡すと広場右方向へ歩いて行った。俺は大柄な老人の背を見送らずにその場から移動し、広場左側の外縁部を通って北側外周地区へ伸びた大通りに入った。
(丁度三十五分前か。封鎖された地下道に降りてから石窟空間へ到着するのに時間は足りてる。問題は地図無しで崩壊した場所を通り抜けれるかどうかだ。)
二頭の顎に固定された金具に結ばれた手綱を左手に握りながら通りを足早に歩く。食肉用の大型馬よりもやや大きな砂縞は両方雄なので、俺や大柄なオルガを乗せるのに適している。
俺は大通り途中の交差路を右に曲がってすぐ近くの空き地内に在る駄獣預かり所の獣舎に二頭の砂縞を預け、他の監視員同様に鞍から装備のみを回収して砂縞の管理を任せた。そして大通りの十字路を直進しながら回収した探索具を装備し直し、円環状に整備された区画の西側へと移動した。
砂縞。草竜と同じ四脚脊椎生物の益獣。乾燥に強い毛が無い体表で、分厚い脂肪に多くの水分を蓄えている。世界樹や多肉植物を主食とし、飲まず食わずで三日間砂砂漠の大地を歩ける。砂漠地方で古くから移動の足として飼われていて、野生種より家畜の方が圧倒的に多い。
シャワールは河岸段丘地形と繋がる岬台地に在った漁村から発展した貿易都市だった。漁村時代から貿易港へと移り変わり始めた頃から区画整備が始まり、基礎造成工事や区画増改築等の都市基礎整備が繰り返された。
なにせ上には砂界が広がる砂砂漠、下には砂界深くまで広がった汽水湖が在る。その境界は階段状の断崖が遠方へと続く河岸段丘があり、世界樹と言うオアシスと同等の恩恵を育てるのに適した場所だった。
俺は砂陽地方の都市とは思えない人工石材製の三階や四階住居が立ち並ぶ外縁部の大通りを歩いている。この道は崖上と唯一繋がった最上層の高層街南側外周部に在る道で、数十メートル先に見える一つ下の複合型住居地区へと降りれる坂道と繋がっている。
「まだ熱い まるで熱せられた岩の上に居る気分だ」
俺は数十分前までこの道と坂道をオルガと二頭の砂縞と共に登って来たばかりだ。坂道は高層街内の高級街に整備された石畳の道ではない。枯死した世界樹から採れる灰石炭等の原料と砂漠の砂や砂利を混ぜ合わせた合成石材による白い舗装道路だ。
(世界樹産業と魔石貿易の発展と共に巨大化した街。成金都市の異名は今も色褪せてない。)
俺は人工石材板を敷いた石畳の外周通りから坂道に入り、かつて都市主幹道路と呼ばれていた導力車等の残骸が並ぶ熱い坂道を下り始めた。
坂道の左側の階層壁沿いには、車輪や動力部と座席周りが取り外された車両類の懸架部品が捨て置かれて有る。並べられたと言うより壁に立て掛けられたそれ等には弾痕等の穴や衝突時の凹みがまだ残っている。大半は軽量合金製の車体が採用された乗用車が多いが、運搬用車両等の大型台車と一緒に表面が錆びた状態で放置されてある。
(事件発生時に放棄されそのまま運ばれず放置された車両群。これだけでも都市が獣の襲撃に遭った証拠と成る。太陽の塔で同じ事件が発生しなければ監視隊はあと十年程度で解散だっただるな。)
俺は都市主幹道路の外側に在る歩道を下りながら顔の向きを変え、今度は右側に広がる枯死海と二つの階層に別れた廃墟の街並みを見下ろす。
オルガの情報によれば、現在の都市基盤たる三段都市構造が完成したのは六十五年も前の事らしい。河岸段丘地形に構築された人工扇状地系の都市は、枯死海へ降りれる下層団地と砂界へ上がれる高層街の間に中間階層が存在する三段構造だ。始まりの漁村とやらが何処に在ったかは定かでないが、シャワールは古い区画の上に都市を整備する事で大量収容を可能とした多層都市に分類されている。
(中間層が暮らした複合居住地区と、下層労働者や工場設備等が立ち並ぶ下層団地。高級街の下に在る上と下の街にしては装いが全く違うな。一部の有力者や豪商民以外は複合居住区に詰められ、その他は下町に寄生させる。典型的な搾取構造そのものだ。)
俺は階層壁の外周に構築された都市基幹道路の坂道を進みながら、影を増す複合住居街を見下ろし事件発生時の光景を想像した。
(高層区を古い様式に仕上げ砂界観光目当てで来た富裕層に金を落とさせる。衰退傾向だった魔石産業の変わりに、覇王樹と共存した観光都市として再起を狙ったのだろう。オルガが居なければ今頃南枯死海は枯死獣の眷属に占領されていたに違いない。)
かつて上街と呼ばれていた中間層の複合住居地区。五階や六階構造の大型物件が通りに密集して並んでいるので、上から見ると背が高い建物より深い溝の様な通り道が目だって見える。特に日が傾き影の領域が増しつつあるこの時間だと、窓枠や通りの玄関付近等に残っている大量の血痕らしき汚れが影で見え辛い。
(元下町の工業区だった下層団地は大半が火災で消失した。それ等の残骸は残っているが、地下浄水区画から湧いた獣の死骸は一つも見当たらない。真実を隠蔽する為に死骸や灰含めそれらしい物を全て回収したのだろう。)
世界樹枯死事件勃発直後の覇王樹ジェノーバを中心に発生した大火により都市人口を超える三万八千人が死亡した。騒動や経済的混乱を防ぐ名目で事実は隠蔽され、表向きは都市構造の欠陥により拡大した火災が原因だと発表されている。数少ない生き残りのオルガ含めた帝国秘境調査隊は一時拘留されたが、そのご全員が国外退去処分として追放された。オルガが言う都市生活廃水や産業排水の最終浄化設備が在った最下層浄化区画で起きた真実を知る者は数える程しか残っていない。
俺は階層壁にて段上に構築された坂道を中ほどまで下り、道の途中に在る階層壁内奥へ入れる地下通路入り口前で進路を変更。白い舗装道路を横断して、人工石材製の巨大階層壁の只中に開いた一つの地下通路出入り口の前で立ち止まった。
(これが地下通路入り口か。人目を避ける為にわざわざ此処まで来たんだ。何事も無く地下区画調査へ移れれば良いが、これで地下区画と通じてなければ他の場所を探す事になる。)
今回オルガから命じられたのは、地下区画へ降りる為の地下通路入り口調査だ。最下層封印状況の確認と有害物質を多量に含む汚染灰塵や世界樹等の残骸の一部を回収するには、対象区画へ通じる道を直接目で確認しないと始まらない。
(空気圧縮缶付きのガスマスクでも長時間活動は人体に影響が出る。オルガは特殊な亜人なら汚染物質の耐性によって長時間活動が可能だと言っていた。残骸や破片を回収するには封鎖された区画に侵入するしか方法が無いとは言え、舞い上がった粒子を遮断する防護服無しで入るのには気が引ける。)
残骸や灰塵には火災により燃えた世界樹や正体不明の獣の灰が混じっている可能性が高い。強毒性高分子化合物であるそれらの残骸により汚染された地下区画は大半が封鎖されている。どれだけ危険だろうと通行が困難に成った地下区画を調査しなければ始まらない。
俺は足を前に進めて人工石材によって構築された四角い通路内に入る。位置関係と方角から太陽光は入り口よりやや外側に影を作っていて、当然通路奥にも光源は無い。
排水溝が掘られた人工石材の通路は高層街の裏通りよりやや狭く、左右両側に排水溝らしき溝が有るので実質的な道幅は三メートルほどしかない。一方で床から天井までの高さが四メートル以上もあり、垂直の壁と平坦な天井も灰色の人工石材で覆われている。
俺は出入り口から数歩入った場所で視線を変え、砂で塞がった足元両側に有る側溝から視線を上げて天井を見上げた。道路から反射した太陽光によって壁や天井の材質と色が判るが、このまま平坦な天井と垂直の壁が奥まで真っ直ぐ伸びているとは限らない。
俺は直線上の地下通路を進みながら腰帯に装着した照明具を手に取り、何時もどうり四角い蓋の上部に有る燃料棒の摘みを回して反応液と接触させる。
(反応液を一滴零すだけで表面が腐食してしまうから扱い難い。そろそろ最新式の炭塩電池式に換えた方がいいかもな。)
緑色に照らされた長い直線通路をしばらく進み続けると、風等で運ばれて来たきめ細かい砂の堆積が減少し始めた。大量の人工石材によって構築された都市階層の基礎部分は想像以上に大きく、地下区画は階層壁から離れた場所に在るようだ。
扇状地系型の人工台地を建造するのに使用された多くの石灰凝結材は国内外から運ばれたらしい。建設が始まったのは百年近く前なので、建設当時から魔石産業だけでどれだけ潤っていたかのか壁が物語っている。火災により発生した黒煙の煤が無い天井を時折見上げながら前に進み、入り口から入って二分ほどで反対側の出入り口に到達した。
(第三階層六番通路。地下整備区画はこの先で間違いないな。)
俺は対面の壁に書かれた文字と矢印から目を逸らし、左右に伸びた広い地下通路の左方向へと進む。手元に地図やそれと同等の資料は無いので明言はできないが、この人工石材の通路は外側に在る地下通路出入り口と地下区画を結び本線の可能性が高い。
照明具から発せられる緑色の光が周囲の空間を照らし出し、やや右に湾曲している通路先の輪郭が見える。横幅と高さが四メートル程の通路には排水路の側溝以外何も無い。天井に照明装置用の穴や固定器具が設置された跡すら無く、そもそも通用を目的とした通路なのかさえ判らない。
環状の通をに入って三分程が経過しただろうか。突如通路先が途切れ空間内の床が照らされたと同時に、壁右側に先ほど見た地下整備区画と書かれた案内文字が視界に入った。
俺は奥行きが広い真っ暗な空間に入る前に立ち止り、背中に背負う何時もの腹袋からガスマスクを取り出し装着した。
(此処から先は黒泥で汚染された環境だ。雨水の流入口が塞がれてあると言っても、亀裂や隙間から漏れた水滴が溜まった場所が有るだろう。)
腰帯から取り外した照明具を左手で掲げながら六番整備区画に入る。五段ほどの短い階段を下ると、かつて都市排水を分別管理していた配管郡の一部が光に照らし出された。
(火災跡は無い。設備も証拠隠滅で撤去されずそのままだ。どうやらオルガの見立ては正しかったようだ。)
俺は何かの調整槽らしき円筒状の容器が並ぶ場所を通り、天井に近い場所に見える通路と繋がった作業用通路らしき全金属製の足場に上がった。整備区画から下の階層へ降りるには昇降軌道が在ったらしい縦穴通路を通る必用がある。
俺は縦穴通路へ通じる道を探しに整備区画内を見て回り、およそ十二分程で北側の壁に案内文字が書かれた通路を発見した。
隔壁が完全に下ろされず半分解放されたまま停止した遮断壁下を潜り、緑色の照明光を頼りに見慣れた四角い通路奥へ進む。人工石材製の隔壁構造部に設置された鋼鉄製の遮断壁は船の機密扉と少し似ていた。俺は振り返らずガスマスクの覗き口から見える限定的な視界から目を離さず歩く。
(空気が澱んでいる。どうやらこの奥に分離された汚水を溜め込む貯蔵区画が在ったのだろう。)
地下火災を広める要因と成った縦穴通路へ移動しながら、俺はオルガから聞かされた都市地下構造について思い出し始める。
(生活排水と工業廃水に別けられた汚水が、浄化分離槽を経由し最終的に覇王樹へと供給されていた。浄化された水は内海へと流されていたが、枯死海の砂を見る限り完全に薬品等の成分を除去出来てなかった可能性が高い。オルガ達は下の地下浄化区画を調査中に眷属と遭遇し、都市を巻き込んだ迎撃戦の末に覇王樹に火をつけた。眷属達は汚水処理から漏れた汚泥等を食し、魔石の原料となる汚染物質を体内に取り込み成長していたらしい。当時既に深刻化していた環境汚染で獣が爆発的な勢いで増殖すると考えて当然だ。)
俺は獣どころか雨水が滴る音すら聞こえない静寂に包まれた地下道を歩き、旧城塞都市地下に在った見覚えのある縦穴階段と似た構造の階段通路内に出た。そのまま階段を下って底まで降りようかと考えたが、時刻が気になり懐中時計を確認すると針が午後四時半前を指し示している。俺は下へ下りるのを断念して通って来た通路を引き返し、整備区画と方々を繋ぐ未確認の地下通路探索に切り替えた。
黒泥。燃えた世界樹から黒煙と共に排出された有毒物質の総称。正式名称は世界樹化合炭素だが、監視隊の間では黒い泥に見える事から黒泥と呼ばれている。空気中や地面に積もった塵灰等を吸うと呼吸器官から発癌し死に至る危険な汚染物質でもある。
主成分は世界樹が燃える際に発生した煙に含まれる有害物質が固着した煤。本来なら酸素等と結合した有害物質が塵等と共に堆積して燃焼現場近辺に溜まるだけだが、地下深くで発生した火災により比重が軽い有害物質と共に地下区画内に充満してしまった。
元々ジェノーバは燃焼促進効果が有る緑素油の割合が高く、砂王系や砂女王系の世界樹と共に激しい燃焼を起す事で有名だった。世界樹の成長に欠かせない緑素結晶は液中で硝酸成分を生成するので、これが大火を広めた決定的な要因と成った。
十日の午後十時四十分頃。合同会議か帰って来た俺は明日の準備の為に倉庫内で装備の確認と点検整備をしようと天幕に入った。
「今日は遅かったな 話が有るから私の声の届く所に居ろ」
書類やら帳簿帳らしき革製の書籍が散乱した道具箱の上に座るオルガ。手には一枚の白い報告書が有り汚れが少なく真新しい。
「まず太陽の塔での害獣襲撃事件について簡潔に報告するぞ」
オルガは手元の報告書へと視線を落とし文章を目で追いながら朗読し始めた。俺は書かれてある内容をそのまま聞きながら自らの寝具傍へ移動し、ツルマキの手入れ用器具を背嚢から取りし始めた。
「現場周辺には大部族銃砲連隊及び山岳猟兵団合わせ四千名の兵員が展開済み 発着場へと運ばれた食料医薬品等の積荷から今後更に増員される可能性有り 我々は厳戒監視網への侵入は不可能だと判断し現在調査許可が発行される可能性が高い調査人員を策定中 なお襲撃個体の詳細については調査中と発表されたまま進展なし 同時に協力者による助言は見込めず森没界への派遣準備中」
俺はオルガの説明を聞きながらツルマキの駆動部に、獣油や潤滑液等を混ぜた混合液を精錬した合成保護液を注す。砂塵除けの砂色擬装帯に無色透明の液体が付着すると固まって張り付くので、細い水注しでネジ周りに慎重かつゆっくりと注し込む。
「以上が最新の報告内容になる 予想したとうり今回も獣に関する情報が機密指定され公式資料から削除される算段だろう なにより太陽の塔の一般調査が始まるとしてもまだ先になる 我々には悠長に待っていれる時間等無い 今回の監視任務が終り次第森没界へ移動し探索準備に入る 質問は有るか」
俺は背後から投げられた問いに対し何も無いと答えた。報告書の内容はオルガから説明されていたとうりの内容だったので、今更慌てる様な事態ではない。
「森没界実施されている大規模討伐は順調に進んでいる 報告書によればお前が遭遇した獣は完全夜行性の獣と特徴が似ていたようだ お前の予想どうりなら新種の獣が地下で爆発的に増殖する生態系が出来上がっている事に成る もしそいつ等が原因で大規模討伐が遅れるようなら支店専属の探索団と共に現地へ飛んでもらう その場合私と別行動になるが 不用意な問題を起こしたりするなよ」
何時にも増してオルガの口調が厳しい。俺はそう考えながら了承を意味する短い返事を返して整備に没頭した。
翌日の十一日から十三日の三日間、俺は編成された南枯死海調査隊と共にシャワールを離れた。シャワールから東へ四十キロ地点に位置する西枯死湿地とその周囲にて、獣観察及び土壌掘削等による汚染物質の調査が目的だった。
枯死湿地は海抜が基準点を下回った場所を中心に点在する枯死湖だ。元内海でも水深が深い場所だったので、不純物や汚染物質で濁った水が残っている。特に塩分濃度が高く海の海水より塩辛いが、苦味成分の腐敗性物質が多く特定種類以外の微生物が極端に少ない事を以前から知っていた。
俺めた調査隊は十一日の深夜に西枯死湿地内の第一中継湖に到着。翌日の十二日に調査活動を行いつつ世界樹の苗。具体的に説明すると、タカマールと言う名の違法薬物原料にも成る幻覚性が強い花水系世界樹の苗を大量に植える作業を警備しながら見守った。
俺の任務は植樹警備だけでなかった。汚染状況等を解析する為に必要な検体の狩猟や、枯死湿地周辺の水や泥等の資料採取を休まず手伝い、全工程を翌日の昼までに終わらせた。
俺たちは十三日深夜に枯死湿地を出発。俺は枯死海に多く生息する事で有名な白岩竜や白砂獄の一部位を乗せた台車と調査隊の警護をしながら廃墟都市へ移動し、一日分の時間を費やして十四日の深夜に帰還した。
そして休息日の十五日。早朝から倉庫天幕内でオルガと予定を協議した結果、俺は専用の汚染防護服を着用して地下区画内に残る残骸回収及び封印状況の確認作業を実施する事になった。
人工石材を流し込まれて封鎖された地下最下層区画に侵入するのは不可能だ。最下層から一つ上の地下水貯蔵層周辺で調査活動を実施し、地下捜索用の備品として常備された汚染防護服を着用して現行最深部へと降りる。今回の調査は監視隊の業務とは関係ない私的調査なので、当然俺と一緒に地下へ降りる奴なんて居ない。
こうして俺は同日の午前九時に主幹道路沿いの地下通路から地下区画に侵入した。五日前に通った地下通路を移動して、現在縦穴通路内に在る階段を下へと歩いている。
(エンティール地下より冷たい。水気が無ければ水音もしない場所だ。)
強い毒性を有する煤が付着した壁と天井は黒く塗装されており、事件後に汚染物質が外へ出ないよう階段足場まで凝固塗料が塗られてある。そんな場所を下へ深く降りると区画への入り口小部屋に到達した。
俺は施錠された回し手の鍵を解く為に擦り硝子を破り、扉内側の回し手に有る摘みを回した。
扉を開け殆ど無傷の金属枠を跨ぐと、階段同様全面を黒く塗装された地下区画とお目見えする。まるで家財道具を引越し先に移した空き部屋の様な広間へと入り、西方形状の壁四方に別の区画と繋がる地下通路の入り口が有る。
(壁の穴は水道用ではない。空気か水道用の配管が通っていたようだ。)
俺は十メートル四方の部屋を真っ直ぐ進み、左右の道を後回しにして反対側の通路を進んだ。この辺りは第一階層上部と同じ高さなので、オルガの事前情報が正しければ第二階層汚水処理区画が近くに在る筈だ。
(本格的な調査をするには必ず封印された場所を確認する必要が有る。事件以降放棄されてから二十年の月日が流れた。)
大規模都市経済が発展した文明圏なら珍しくもない地下駐車場らしき車両搬入区画へと到達し、かつて産業廃棄物等を地下消極施設等の処理場へ運ぶ前に分別する廃棄物集積所と書かれた通路へと入った。そのまま二車線道路の道を進むと大きな空洞空間内に入り、オルガの地下説明に登場したジェノーバ直下区域とやらへ侵入する。
「此処がジェノーバ第三整備塔か 話に聞いた以上にでかい」
ジェノーバ直下区域と言うのはオルガが勝手に名付けた名前で、俺は高架下へと降りて整備塔基部侵入口と書かれた整備搬入用通路へと入った。
車両の通行を目的にした地下通路を進むと、出口らしき場所が金網扉で封鎖された別の空間前に到達する。俺は邪魔な金網を蹴飛ばし固定金具を破壊すると、炭化した樹木等が大量に積み重なる巨大な貯水槽区画へ降りれる階段を下り始める。
(これが燃えたジェノーバの根か。量からして他の場所から集められた分も含まれてる可能性が高い。枯死獣本体の生命維持装置だったとは言え巨大な地下茎をゆうしてたんだな。)
円形貯水槽底部へ続く階段の幅が狭い。清掃目的で使用していたと考えながら途中で止まり、俺は回収用の瓶と鉄製小筒を取り出して世界樹残骸片の採取作業を始めた。
燃やした樹木の種類によって硬度が若干変わるが、大抵の木炭は小筒を激しく叩きつなくとも簡単に割れる物だ。監視隊の共用備品から今回の探索調査に適した物を選んだが、仮設天幕設置用に使用する小型小槌では表面の一部分を砕く事しかできない。
「面倒だな」
俺は時間が掛かると判断し、足元に鉄小筒と合成硝子製の採取瓶を置いてからツルマキを両手に持つ。腰の矢筒から取り出した杭を装填すると、小槌で小さく砕いた凹みへ鋼鉄の杭を打ち込み始めた。
結果的に杭を一本だけ曲げてしまったが、俺はオルガの要求どうり炭化した世界樹内部組織の破片を入手する事に成功した。しかし大量に溜まった黒い残骸の山は崩れ易く、貯水層の中心に見える封印された塔部分へは辿り着けそうにないと判断して地上へ戻る事にした。
同日の夜。合同会議が終了してから三時間が経過した午後十二時前。俺とオルガは本日の調査報告をする為に倒壊した世界樹を挟んだ広場反対側の空き地にて焚き火を挟んで会話をしている。
「俺の見立てでは長らく放置されたままの様だった 地下三層まで残骸や瓦礫は撤去されていたが 貯水層か最下層との接続通路に投棄されたかもしれん 俺一人で人工石材の封印を突破するのは無理だが あの様子では監視隊の総力を費やしても最下層へ辿り着くのは困難だろう」
俺は暖房用の合成軽油の変わりに炎が燃盛る四角い空の金属容器へと黒い粉末を流し入れた。黄色と赤の炎が一瞬青緑色に変色してから紫色に変わり、数秒と持たず元の炎に戻る。
「調査員が調べた噂話は正しかったようだな 評議会の重鎮連中が隠す理由なら幾つか考えていたが 世界樹の残骸が合成魔薬の原料に成ると知れ渡ると帝国が黙ってない」
オルガは俺が渡した瓶内に入っている黒い結晶を火に翳しながら見つめている。片手で掴むのに丁度良い大きさの瓶の口は樹木栓で塞がれていてるが、俺が詰めたジェノーバの炭化細胞片が揺れる炎の光に当てられ夜光石の様に見えた。
「その人工魔石を陸珊瑚海岸の闇市場とやらに出品すれば高値で処理出来るぞ わざと魔薬原料を市場に流して囲いの調査員に流通経路を追跡させるのはどうだ 黒い噂が耐えない評議員や特定豪商の内部事情とやらが暴けるかもな」
俺の言葉にオルガは明確な反応を示さない。軽口を鼻で笑いもせず右手に握る瓶内部の黒い輝きを見つめている。
(考え中か、まぁ当然の反応だろう。枯死海を監視するついでに事件跡地を調査させたら、意図的に分散させた魔法薬の原料と成る未処理の汚染物質が山の様に保管されていたのを発見した。追放れた身の上でなければ軍や保安隊に通報する案件だ。)
俺はオルガへ渡す分とは別に持ち帰った黒泥の換金手段を考えながらオルガの目的を思い出す。オルガは二十二年前に解散した厄災の星屑調査隊の復活。つまり帝国秘境調査隊を再び率いて友人とやらの望みを叶えるのを望んでいる。本人の証言が正しいのなら探検家として中途半端に終りたくないと考えたのだろうが、本当にそう望んでいるのかはまだ判らない。
俺は大部族の部族評議会を脅せる種話を手に持つオルガの様子を観察しながら返答を僅かな間待っていた。オルガは何時もの様に考え事を中断する素振りを見せて溜息を吐きながら口を動かす。
「確かにこれは密輸組織の摘発が頻発する場所へ潜るのに使える材料だ しかし大儀を振り翳し非合法な商売に加担するのは筋違い そんな事をしでかしたら後戻りできなくなると相場で決まっている とまぁ念の為に言っておいたからお前には陸珊瑚海岸の探索街で単独活動を命じる 既に監視任務が明けたら現地に到着できるよう取り計らっておいた 今から詳細を離すから一度で覚えろ それと残り二日間の間に必用な装備の点検を怠るなよ」
オルガは瓶を足元の背嚢袋に入れてから話を再開し、以前聞いたシルバールの名と始まりの秘薬の名を口に出してから昔話を始める。俺はその話に口を挟まず聞き続け、重要な単語を頭で繰り返し思い出す。
オルガ曰く帝国秘境調査隊員として活動していた際、始まりの秘薬を持ち込んだ錬金術師が住んでいた場所を調査しようとした。その場所は陸珊瑚海岸の中央付近に在る探索街の黒真珠街から割りと近い場所に在り、昔から水神の祠と呼ばれる岩礁の入り江として知られていた。
水神の祠に纏わる話で有名なのが、賢人様や錬金王の名で呼ばれていた流浪の錬金術師の工房が在った話だ。工房が存在したのは千年近く前の事で、元々その場所には水神を祀る社が在ったと現地に伝わっている。
オルガと数人の調査委員は黒真珠街の鉱業組合から現地の調査探索許可を認められていた。水神の祠は海獣の住処に成っていて採掘業者に雇われた探索者でも殆ど近付かない場所だと聞かされていた。オルガ一行は陸からではなく海から近付こうと沿岸船を動員したが、現地の海は岩礁が多く波が高い難所で近付くのは困難だった。
最終的に帝国から移住した魚人族の漁師達や探索者達に金を払って現地調査を実施したが、途中で獣や落盤等の騒動が発生し立て続けに死傷者が出てしまった。オルガに残された手段は自前の傭兵団を招集する事だけだったが、秘境保全協定や入国時の審査に引っ掛かると判断し調査を断念せざる終えなかった。
「シルバールなら知ってる 大部族に獣因子だけを殺す最初の獣殺しを広めた錬金術師の一人だ 龍骸渓谷の寺院でその話を聞いた事がある」
無愛想なオルガは俺の短く簡略化された返答を聞いて昔話を止め、今後の予定を含めた調査依頼に関する注意事項を話し始める。
「明日と明後日の間 お前を枯死海調査活動要員の護衛要員として南枯死海を横断する事に成る 既に現地で解散可能だと隊長には言ってあるから 貸し出された砂縞を使って黒真珠街に入れば問題無い それより問題はあれから二十年以上経過している事だ 採掘業者次第だが 場合によっては道すら変わってしまった可能性が高い 今はどんな些細な情報でも見逃せない時期だ 商会から持ち込んだ物資の残りを自由に使って構わないから例の場所の調査を最優先で行動しろ まだあの辺りには」
オルガは説明を続けながら空の金属缶に枯れ枝代わりの灰石炭を入れた。白く水蒸気を多分に含んだ煙が発生しだしたが、時機に表面から水分が逃げて灰色の煙へと変わり始める。俺はそう考えながら己の背嚢の収納口に覆いを被せ固定していると、焚き火を挟んだ反対側に座るオルガが右手を広げたまま俺の前に手を伸ばした。
「お前では魔法薬の原料として売りさばく前に捕まってしまうぞ 残りの分は私が有効活用してやるから回収した分を全て渡せ 心配するな こう見えても私は西大陸で魔石関連の素材学を教えていた 黒泥の合法的な売買方法にも熟知しているのだよ」
丘珊瑚海岸。有色吸収藻により形成された群生珊瑚類に似た形状の岩石大地。南枯死海東側と海岸を南北に分断した大地堤防であり陸橋でも有る。本物の珊瑚類とは違うが表層が群生珊瑚に似ている事から現在も珊瑚海岸と飛ばれている。
有色吸収藻が砂漠から流出した鉱物成分や有害汚染物質等を接触し、体内で水と養分に分解する。暗黒期初頭に発生した内海の水位低下によって海面に出た珊瑚類が変異したのが始まりとする説が一般的。
この有色藻類が吐き出した鉱物類が堆積変性し、砂陽東岸の海岸線が在った場所に南北二百八十キロの巨大岩礁が出来上がった。
十八日の朝。太陽が西の地平から昇ってからまだ二時間程度しか経過してない。砂縞に乗った長距離移動を終えた俺は、周囲の地表部が緑に覆われた珊瑚岩の山裾に整備された倉庫街を歩いている。この倉庫街は砂除けの居住区域も兼ねているので人通りが多く、露天で生活雑貨を購入している労働者達の姿が人込みに混じってちらほら見える。
(魔石産業は縮小を続ける衰退産業だが、まだ魔石産出地では魔石の取引が活発のようだ。)
まだ午前七時半前だと言うのに、倉庫街と化した石畳の通りを通る通行人がやたらと多い。通行人の大半は袋詰めした固形物を背負っていたり荷車を引いていて、倉庫から出した燃料用の魔石や木製の専用容器に入ってる爆発物等を荷車に載せている。
俺は右側の倉庫前に出された発破筒と書かれた木箱の山から顔を前に戻し、進行方向に見える急勾配の石階段を目指して足を速めた。それと同時に視線を左右上下に移して町の風景を記憶しながら住民の生活実態を観察する。
(オルガは数年前に都市型水道網や汚染処理設備が整備されてから住民が増えたと言っていた。港区や中層区画の工業区に汚水浄化施設らしき増殖槽が見えるから生活水準が高まったのは確かなようだ。)
住民の大半が浅黒肌の砂陽系で始祖族系の獣人や亜人の姿は少数だ。黒真珠街周辺で栽培される世界樹や各種作物の管理の為に人足が必要なので、半ば居住区と化した倉庫街に居る大半が労働者なのは当然と言える。
(南北に連なる珊瑚山の上に連なる雨雲。写真で見たとうりの光景だ。周辺環境は昔から変わってない様に思える。オルガの情報が古くなければ良いが。)
珊瑚山とは陸珊瑚海岸の別命であり、現地住民の間では一般的な名称として浸透している。その珊瑚山を形成する珊瑚岩の上空では海から流れて来た湿った空気と乾いた暖気が接触しており、南北に長い岩山の上空で巻物の様な雲の列が形成されている。
俺は視線を上から足元に戻し、埠頭堤防の様な区画に在る倉庫街の南側から探索街へと続く岩階段を昇り始めた。岩階段は削られた珊瑚岩の中層と上層区画に繋がっていて、段数に目を瞑れば緩やかな勾配の通りより早く上に上がれる。
岩階段に使われている修復用の石は堆積変性した珊瑚岩から切り出した石で、若干青緑色に見える非露出岩の深層岩の様な波模様が特徴的だ。珊瑚岩を直接削って構築された階段には至る所に修復された痕跡が残っている。
三分ほど階段を昇り続け、俺は珊瑚山の中腹から山頂まで階段状に整備された探索街に到達した。目的地は探索街中段に在る鉱業組合で、探索街下段から更に岩階段や石階段を登った通りの只中に在る。
俺は下からでも見えるその大きな三階建て施設を目指し、今度は人工石材の階段を登り始めた。
人工石材で塗り固められた階段は均一かつ平坦で、白い表面と両側の白い建物基礎の人工石材が一体化して見える。なにより足下の白い階段は完成してから数年程度しか経過してない。先ほどまで登っていた岩階段と比べると、腐食痕が無い金属管の手摺含めて真新しく見える。
(下の区画も改築された場所が多かった。避難民用に整備された仮設住宅通りも大半が倉庫街に変わっている。十年前まで暮らしていた避難民の生活跡は殆ど残ってない。)
黒真珠街は首飾りに重宝する宝飾の名で呼ばれる三つの探索街の一つ。世界樹枯死事件の影響を受け、十数年程前まで多くの避難民や失業者が発生した珊瑚街の一つだった。オルガの情報とは違い街は再開発期を迎えている。港区と呼ばれ仮設住居が在った下層区では新しい区画建設が行われており、上層の探索街でも人口増加に伴う大型宿泊施設等の物件再整備が始まっていた。
二十二段の短い階段を登り探索街中段地区の通りに到達した。目の前の通りにも珊瑚岩から切り出した大量の石板が敷かれており、視界左右に伸びた幅五メートル程度の通りには観光客らしき文明人の姿が見える。
(シャワールと同じ階段状の街だが、あの廃墟都市へ変化しようとしている様にも見える。案外第二の商業都市が誕生するまで何十年も掛からないかもしれん。)
俺は階段を登って通りを左側、つまり北側へ進みながら軒を連ねた建物を観察し始めた。頑丈な珊瑚岩の変成岩盤を基礎に建てられた建物の多くは、宝飾系魔石等の加工と販売を行う専門店ばかり。居酒屋や大衆宿も含めて大半が珊瑚岩を柱や基礎構造に使用した物件通りに連なっている。
その通りを真っ直ぐ進むと、数分も経たない内に目当ての建物前に到着した。俺は正面入り口上に設置された看板を再度見上げ、銀色の金属板に黒真珠街鉱業組合と黒く書かれた大きな文字を見ながら行動目的を思い出す。
(水神の祠含め珊瑚海岸での探索情報を入手するには鉱業組合の受付が最適だと言っていた。装備と地図を現地調達してから探索を始めたとして、今日中に終るだろうか?)
俺は拭えぬ不安の種を抱きながら段差で仕切られた組合正面入り口に入り、入り口近くに有る事務所らしき案内窓口にて担当者を呼び出す。
「誰か居ないか 俺は商会所属の探索者 近くの珊瑚海岸に在る水神の祠と言う場所を調査しに来た」
都市銀行と同じ形式の硝子窓口の穴に声を響かせると、受付部屋右側に在る扉が開き中から濃い青緑色の制服を着た中年事務員が顔を覗かせた。
「亜人か珍しいな 生憎だが商会の調査依頼は届いてない 探索関係なら建物裏に在る探索事務所を訪ねろ」
俺は日に焼けた肌と痩せて小柄な砂陰山岳民族出身の事務員に用件を伝え、水神の祠に関する情報を要求した。事務員は探索用件でないと判ると態度を改め、受付椅子に座ってからホルマーと名乗り案内仕事を始める。
「あの辺りの岩礁帯は五十年以上放置されて害獣の巣窟と化してる 水神岬に在った銅鉱山が水没して閉鎖されてから探索者も寄り付かなくなった もしあの辺りを探索するなら組合裏側の通りに設置された探索事務所で地図を借りるんだ 十五年ほど前に北採掘区画の一部が崩壊した影響で探索道が繋がってない おそらく地表部の脆い天井部分を通る事になるだろう 出来るだけ装備を軽くした方が安全だぞ」
俺は水神の祠に祠錬金術師が建てた工房が存在したかどうか問うた。ホルマーは五百五十年ほど前まで水神の祠含めた岩礁地帯が漁港として利用されていたと話し、放棄された時まで工房に使われた寺院の社が存在したと語った。
俺は情報を提供したホルマーに謝意を伝え、そのまま椅子から立ち上がって入り口から建物街へ出た。ホルマーの情報を頼りに、最近開設された探索組合出張所を目指して裏側の通りと繋がった路地か細道を探し始める。
(探索事務所か。珊瑚海岸の緑化に伴う生態環境変動で街の周囲にも獣が出没する様になったのは事実らしい。元々陸橋として獣や交易の架け橋と成っていた場所だ。水質保全や水量確保の為に貯水池や人工林を地表部に整備すれば、文明生物以外も近寄るだろうな。)
黒みがかった薄い青緑色の大通りを北に進むと、区画東側と通じた緩やかな勾配の坂道と合流した十字路に出た。交差した通り東側を見ると道の突き当たりに建物は見えず、事実上目の前の坂上辺りが珊瑚山の頂上付近だと判った。
俺はその緩やかな坂道の石畳を駆け上がり、珊瑚山の尾根に整備された道から東西を眺め見比べる。
(人工林の向こう側に海が見える。まだこの辺りは枯死海の空気に包まれているが、東側の斜面を下れば途中で潮の香りに変わる筈だ。)
黒真珠街は幅十五キロの珊瑚岩による山岳地帯西部に有る。南北に二百キロ以上伸びた陸珊瑚海岸の中央に位置しており、オルガから魔石採掘と宿場交易産業が活発な場所だと聞いた。
西側に広がる階段状の街並みと青緑色の岩山を交互に見比べた後、景観観察の最後に水神の祠が在る北東部の岬を見つめる。獣目による遠視能力で景色を拡大すると、案内受付の事務員の言うとうり岬を覆い隠すように隆起した珊瑚岩の丘が見えた。
(あれが漁港跡に出来た陸珊瑚か。社が朽ちてから五百年であれだけ成長したのなら、あと三百年も経てば岩礁帯を完全に覆ってしまうだろう。)
高層区の最上層である上段の通りを通る通行人は少ない。両手で数えれる通行人達は宿泊施設から出て自転車や徒歩で下の街へ移動している。仕事中か休暇中かは不明だが道端で遠くを睨む俺を興味深そうに観察する奴は居なかった。
俺は景観観察を終えて上段通りを南側へ進み始めた。下の中段区画と違い、上段区画には二階構造以上の建物は無い。風見鶏や風車が設置された展望台や監視塔と吸水塔等が在るが、右下の中段と比べても区画自体が南北に長細い。
そんな石畳の通りを歩き始めて二分が経過する前に、俺は三階建ての鉱業組合裏側の敷地内を見渡せる高台に位置した探索組合出張所前に到着する。
(これは港区に在った仮設住居じゃないか。使い終わった物を解体して此処まで運んだのだろう。事務所と言うより物置小屋だな。)
仮設住居の中でも比較的小さな箱型仮設住居。合成木材を加工した板と鉄製の強化板を組み合わせただけの合成板を鉄枠に張り合わせた構造で、耐熱硝子が張られた平行扉の横の壁に探索事務所と書かれた廃材の木板が掛けられてある。合成壁の塗料の色が箇所によって違い、塗料が剥がれた場所が目立っている。
俺は遮光幕が張られてないガラス窓から内部を覗き、照明が消えた暗い事務所奥の机に伏した事務員らしき長髪の人間発見した。扉横には表札以外何も無く、当然呼び出し装置も設置されてない。俺は平行扉の凹みに指を差込むと、施錠されてない事を確認すると同時に扉を開いた。
「起きろ 探索地図を借りに来たぞ」
事務所に入った俺の言葉に反応し、書類の上に筆記具等が置かれた机の上に伏した小麦色の長髪が動く。俺は厚紙箱や棚などで狭まった事務所内の床を歩き、寝起き直後の女事務員が寝ていた事務机の前に移動する。
「ええっ あっ 探索事務所にようこそ」
照明が点いてなく暗い事務所内に入った俺は若い女事務員に紹介所属証明書を差し出した。帝国系にも貴族連合南部系にも見える砂陽系らしき事務員は亜人に慣れてないのか、俺の用件を聞いた後も少し声を強張らせながら対応を続ける。
「証明書を返します 地図は後ろの棚の一番上に有る物の中から自由に選んで それと探索時の注意事項を記載した用紙を渡すので探索前に読むように 回収した魔石や害獣素材は鉱業組合の管轄なので集荷場受付に提出するのを忘れずに 担当者は組合施設の一階南側奥の窓口に居るので電話では呼び出せません」
俺は話を聞きながら棚最上段から丸められた獣皮紙の地図を手に取り、硬い獣皮紙を両手で広げながら地図を確認する。手に取った地図は少し赤く変色しているが、虫眼鏡等で製作された焦げ線だらけの丈夫な地図に変わりない。
「それかなり古い地図ですよ 迷っても自己責任なんで救出隊は出ません この用紙を読んでから選び直したらどうです」
俺は手元の地図に視線を落としながら右手を事務員へ伸ばし印刷用紙を受け取る。単純に探索するなら新しい地図が有効だが、今必用なのは水神の祠に関係しそうな情報全てだ。
「金が有るから他の備品も借りるぞ それと持って行ける地図の上限は一つだけか」
俺の問いに事務机から体を乗り出した事務員は言葉の意味が解らず口ごもった。俺は地図を二枚以上持って行けるかのと聞き直し、最も古い地図はどれかと問うた。
魔法薬。工業用や医療用化学物質の古き呼び名。錬金術の発展と共に魔法という概念が衰退したが、現代でも特定の非合法薬物等がそう呼ばれている。中でも魔石業界で馴染み深い有機溶融触媒の水酸化合物や超酸物質を使い製作された合成魔薬が有名で、世間一般ではとある工業廃棄物の名を捩った不死殺しの名で浸透している。
時刻は午前八時二十八分。俺は調査用の装備として新しく調達した備品を背嚢に追加してから、中層北側の精錬工場に近い場所に在る珊瑚岩の壁に開けられた基幹坑道の一つから珊瑚山内部に入った。故に現在地は黒真珠街から北に一キロほど進んだ坑道内で、探索道として一般開放された坑道を進んで水神の祠を目指している。
石灰質と磁鉄成分等が混ざり合った珊瑚岩は表面こそ脆いが、下へ掘るにつれて変性した岩盤層へと変わり硬度が増す事で有名な魔石採掘地だ。俺は今も続く採掘場で迷わぬよう、背嚢と腹袋のそれぞれに骨董品の様な地図と最新の地図を別けて持って来た。
俺が古い地図を用意した理由は道に迷い遭難するのを防ぐだけが目的ではない。鉱業組合の案内事務員が言っていてが、珊瑚山には崩壊し陥没した穴の様な場所が無数に在る事でも有名だ。場合によっては封鎖された穴に落ちたり、逆にその穴を通って目的地に到達せねばならなく成るかもしれない。そう考えて俺は探索道でもある基幹坑道内に有る瓦礫で塞がった採掘口を一つずつ確認しながら削られた道を歩いている。
俺は崩落して出来た小さめの陥没穴に架けられた金属板を渡り、少々歪だが北方向へ真っ直ぐ伸びた坑道通路の先を見つめる。
(水神の祠は岩礁が侵食により出来た入り江だ。まだ海岸沿いに近付いてもないから潮の香りがしない筈だが、どうやら何処かで新しい陥没穴が出来ているのかもしれん。)
少し下に掘られた通路へと降りる為、俺は岩階段を慎重に下り始めた。基幹坑道には街の中層に在る発電所と採掘現場を繋ぐ送電線が敷設されてある。天井や壁の支柱などに設置された固定具から垂れ下がった予備の送電線が有り、不測の事態に備えて予備の電球と作業用工具等を保管した金属容器が等間隔に設置されたある。
俺は白や夕焼け色の光で照らされた坑道を進み続け、獣との遭遇に備えて片方の曲刀を左手に握ったまま探索坑道を進んだ。送電線は途中で枝分れこそしているが、送電線を辿れば採掘現場や作業場へたどり着ける。かつて体験したシャボテン地下の作業通路より明るい坑道を真っ直ぐ進み、坑道に入ってからおよそ三十分前後の時間で珊瑚岩の崩壊部が一望できる坑道の切れ端に到着する。
(地図が正しいのならこの場所は黒真珠街から北へ四・七キロの地点。此処から進路を東に変更し、十数キロの空白地帯を探索して水神の祠に到達せねばならん。古い地図を頼りに崩壊してない探索道を見つけるか、或いは珊瑚岩地表部に上がって崩壊層を進むしか侵入手段が無い。)
俺は火山活動か大量の不発弾が爆発して出来た様な大きな谷を見下ろしながらツルマキの準備を始めた。此処から先は探索どころか採掘業者すら立入らない放棄区画なので、殆ど間引かれず多くの獣達が生息している場所だ。
(陸珊瑚海岸に生息する獣は海獣含めた水棲獣と甲殻獣が多い。岩蟹を捕食する陸蟹が代表的だと調査隊の誰かが言っていた。枯死海から移り住んだ岩竜や横帯蟲の様な岩石砂漠含めた岩山に生息する獣も居る。人工林の果樹園等で飼われた家畜や果実を狙う種も居るが、探索街周囲と比べるまでもなく遭遇頻度が高い。)
曲刀を腰帯の鞘に収め準備を完了すると、ツルマキを両手に持ったまま崩れず残った坑道の断面から下の岩場へ飛び降りる。高さ六メートル程の場所に有る珊瑚岩の塊は想像以上に脆く、俺は風雨によって更に劣化した表面に深く足跡を刻みながら着岩した。
「岩盤層まで崩れた場所だな 穴や空洞の天井を踏み抜く心配をせずに済みそうだ」
俺は周囲に散らばる大きな岩石片を足場にして崩壊部の底に降り立った。東西に伸びた渓谷の様な崩壊部を見上げてもせり出し切り立った崖に囲まれている様に見える。何より崩壊部の底には水溜り等の水没箇所が在り、底に溜まった珊瑚岩と変性して硫黄岩の様な色に変わった大小の残骸がから水が流れ落ちている。
(鳥や虫だけでなく植物の姿も無い。この様子だと獣が居る可能性も低いな。念のためにとガスマスクを持って来たが、着用して探索する前に離脱した方が良さそうだ。)
俺は杭を装填したツルマキを進行方向へ向けながら崩壊部の谷を東へ進み始める。陸珊瑚海岸の平均幅は十二キロ前後だが、黒真珠街付近の陸珊瑚地域には天然の岩盤地帯が露出しており、幅が十八キロを越えている場所が有る。特に水神の祠の南側には水神岬と呼ばれる長さ一キロ半の岬が在るので、岩盤地帯含めて移動すべき距離と探索範囲は数倍にまで膨れ上がるかもしれない。
平地が無く溶岩台地より起伏が激しい岩石の体積場を東へ進むと、獣と遭遇しないまま二十分程度の時間が経過した。生きた獣とは遭遇しなかったが、人工林等で見かけた砂鳥等の死骸を道中で発見した。その所為で余分に周囲を警戒してしまい、長さ三キロ程度の亀裂の様な崩壊部東端に到達するのに時間が掛かってしまった。
(此処も階段状に崩れてる。もし珊瑚山の天然洞窟が更に東へ延びていたら、崩壊部が珊瑚海岸を大きく分断していたのかもしれん。)
俺は何処からか運ばれて来た砂漠の砂が溜まった岩場を跳ね上がり、階段状に崩れた黒と灰色の岩石山を頂上まで登る。砂漠の砂から獣を連想してしまい、黒真珠街に到着する前に遭遇した砂獄と白身竜を思い出してしまう。
(こんな狭い場所だと大型の獣が潜伏可能な場所は少ない。陸蟹や陸に上がれる海蛇達を警戒しなければ。)
途中から歩いて瓦礫斜面を登った俺は、左右を崖の様な崩壊断崖に囲まれた瓦礫斜面から無事に脱した。そして有色吸収藻によって形成された陸珊瑚の代名詞である岩石植物の園を前にして柔らかい地面に腰を降ろした。
「これを壊すと罪人呼ばわりされる 何処を通って迂回するか」
俺は背中から背嚢を外して覆いの固定を解除し、中から入れたばかりの古地図を取り出し硬い獣皮紙を広げた。長期間筒状の容器にて密閉保管されていたので劣化は殆ど見られず、布の様に柔らかい地図に書かれた焦げ線を指先でなぞり始める。
(最新版の地図によると珊瑚樹の群生地は斜面や窪地を中心に広がってる。探索街周囲の人工林近くに有る珊瑚樹は鉱業組合の管轄だ。水質浄化効果が有るから人工林や探索街に供給する水の濾過装置代わりに重宝されてる。)
青く染色された獣皮紙の地図には、坑道や天然洞窟と要所を記した線と地図記号含めた地名だけ記してある。硬質紙に色彩印刷された最新版には等高線や海岸線含めた地表部の情報も載ってるが、二百年ほど前まで珊瑚樹が重要視されていなかった当時の様子が垣間見えた。
最終的に古地図と最新版を見比べた結果、赤系の珊瑚樹が形成された斜面に作られた古い探索道を見つけた。探索道は此処から更に北の尾根を進んだ場所から分岐した探索道で、崩壊部により大本の道が寸断状態に成ってから放棄されたと思われる。
俺は二つの地図を傷めないよう折り畳んで背嚢と腹袋に収納。赤珊瑚色の岩石植物が東に三百メートル程広がる斜面を見渡せる尾根を進み、所々崩れた古い探索道を北に進む。
(人工林から離れてまだ二キロ程度か。坑道を進んだから地表の様子が判らなかったが、あの坑道は俺の予想より短いのか。)
炭と灰が混じりあった様な岩を平坦に削った道を歩きながら周囲を警戒する。水場から離れた位置に居るので獣と遭遇する可能性は低いが、岩石植物の珊瑚樹を食す岩蟹が居ればそれを捕食する獣と遭遇する可能性を否定できない。
俺は周囲の斜面や窪地等の谷底に見える赤や黄色及び深緑系の有色吸収藻により形成された珊瑚の様な岩石植物を観察する。景観を楽しむだけなら観光客から金を搾れそうな光景だが、街の治安と不安定な大地が結果的にこの光景を隠している。
(五十年間放置された場所にしては古い探索道や石造りの休憩小屋が形を保って残ってる。珊瑚樹の成長は樹木と同じ年単位と書いてあった。水場が流れない場所に道を造ったにしては獣や珊瑚樹の侵食が少ないな。)
そう考えながら二十メートル程前方の道端へと視線を移すと、岩が剥き出しの地表に珍しく緑色の植物が自生した小規模な草むらが見えた。俺は人工林から離れた場所に自生した植物興味が湧き足を速める。
(この辺りは塩害と土砂流出で植物が育つ土壌が自然形成されない地域だ。部分的に土が残ったのか、それとも誰かが植えたのかもしれん。)
両手でツルマキを保持したまま草むらの傍まで走ると、風雨により歪な形に削られた黒曜岩の窪みに干乾びた獣の残骸が残っていた。珊瑚岩に擬態可能な一枚貝の様な殻と平たい軟骨が植物に埋もれず露出していて、一種のみだが数は三体分有る。
「岩蟲 いや違う これは海獣の擬態海魔 何故幼体の死骸が此処に有る」
口で感想を述べはしたが、大よその答えは簡単に想像できた。俺は密猟者により狩られ特定の内臓器官を抜き取られた可能性が高い死骸傍で片膝を突き、露出している大鍋と同じ位の大きさの殻を地面から引き抜いた。
(貝類や特定の海獣は宝飾貝と同じく、体内で不純物を蓄積して真珠の様な結晶を生成する。おそらく人工真珠の様な物を作る為に小さい核を抜き取ったのだろう。陸珊瑚海岸なら密猟行為をしても掴まる可能性は低い。狩りの帰りに邪魔になって捨てられたようだ。)
俺は殻を元の位置に差し込むと立ち上がり、再び放棄された探索道を歩み始める。現在地は探索街から目的地の水神の祠まで道半ばを過ぎた辺り。珊瑚樹の斜面を下って丘陵地の谷底に流れる川へ合流し、海へ流れる川沿い通って目的地に近くの岩礁帯へ出る予定だ。
珊瑚樹。水に溶けた汚染物質や鉱物等を吸い上げた有色吸収藻が排出した石灰成分の塊。珊瑚岩を形成する存在で、有色吸収藻が死ぬと崩壊して珊瑚岩と自然同化する。
微生物の集合体である吸収藻が増殖する過程で大よその形が決まり、枝珊瑚の様な形や茸型珊瑚の様な群生珊瑚と酷似した岩石植物が出来上がる。有色吸収藻は光合成だけでなく、吸収した塩基成分を分解する過程で養分を生成する。
海から吹く潮風と夜間に降る雨によって珊瑚岩が浸食されると、大量の鉱物や汚染物質を含む雨水が浸透して珊瑚岩内部に空洞が出来る。蓄積した金属と汚染物質の化合物により空洞が固められ、出来た地下水脈の上に珊瑚樹が形成される。しかし他の珊瑚樹や地下から溢れた地下水を吸収できる斜面沿いの珊瑚樹の方が発育が早く、当然大きな珊瑚樹が形成され易い。
かつて存在しただろう入り江への道は傘状に肥大化した珊瑚岩によって塞がれた。火山活動の際に海底から隆起した岩礁帯の半分が珊瑚岩の足場と化していて、珊瑚山の麓に空けられた坑道しか入り江に入れる道は無い。
古地図に書かれてある小規模な坑道を通り抜けた俺は、岩礁壁を削って構築された岩礁通路を歩きながら陸蟹に足肉を食している。坑道入り口へ続く斜面沿いで岩蟹の群を食していた大きな海老をツルマキの杭で仕留めたので、腹の足しに繊維質な足部分を関節ごと引き抜き旨そうな部分だけを切り取った訳だ。
(海老や蟹と違って塩辛くない。少し石灰分の苦味があるが甘くて弾力がある。)
砂漠以外に住む獣肉を食したのは久しぶりだ。枯死海や砂界に住む獣の大半は蟲なので、腐敗臭がする保存肉を齧り続けるのに飽きてしまった。
俺は杭に刺した直径三十センチ未満の蟹肉を食しながら暗い岩礁通路を進む。岩礁通路の侵食岩礁部に達しているので、幅が一メートルと数十センチの岩礁右側から岩肌に波が打ち寄せる音が聞こえている。なにより入り江内の浸食具合は複雑で、十メートル程先に坑道から岩礁通路に入ってから二つ目の曲がり角が在る。
その二つ目の曲がり角の左側から黒い岸障壁を照らす光が届いてる。壁から落ちる水がその照らされた海面へと落ちていて、岩場に打ち寄せる波と海面を叩く水の音が岩礁通路内に響いている。
(死臭と腐敗臭がすると言う事はこの先に何か居るようだ。もっと旨い血肉が居れば良いが。)
俺は曲がり角の岩壁から顔だけを出し、日が半分ほど当っている小さな入り江内を覗き見る。入り江内の広さは黒真珠街でもっと大きな港区の三割程度の広さだ。半分日光が当る入り江内の侵食岩礁の間には児島の様な岩礁が在り、臭いの原因物質を発生させる海獣の群が日光浴を楽しんでいる。
(海獣種の海獅子。相手するには面倒な奴等だが肉は旨いらしい。この場所から狙撃して一体ずつ誘い出すか。)
俺はオルガの話しにも登場した沿岸の狩人の異名を持つ獣を排除する方法を考え、不十分な装備を憂慮し群の主たる雄のみを仕留める事に決めた。そしてほぼ同時に絶好の狙撃地点を思い出したので、来た道を戻り始める際に杭から邪魔な蟹肉を抜き取り海に捨てた。
俺は岩礁通路を戻り暗闇同然の岩階段を登って坑道を引き返し、坑道入り口まで戻ると入り口が在る珊瑚山を登って死んだ珊瑚樹を踏み抜きながら頂上に到達する。今度は海綿体の様な色と表面の小さな珊瑚樹が多い場所から周囲を見渡し、物音をたてずに入りへ中心方向へゆっくりとした足取りで進む。
やがて入り江上の天井部端近くに移動すると静かに腰を下ろし、高所際から顔を出さず太陽の位置を確認しながら耳を済ませ始める。以前何処かで海獅子の寝息が大きいと聞いた事があった。俺はその噂話の真偽を確かめる為に数分程待機し、周囲の音に集中していた間は太陽や風向き等を確認していた。
(太陽が傾き始めている。もう正午時間まで経過したのか。)
太陽が中天を通り過ぎ始めたのを確認し、俺は荒い岩盤層に這い蹲りながらゆっくりと顔を末端部分から出す。もしこの場で立ち上がると、下の小島に影が映るだけでなく脆い岩盤層を踏み抜いて落下してしまうかもしれない。
(俺もたまには日光浴でもして体の疲れや汚れを落とそう。獣神の調査に一区切りがついたらオルガから離れて自らの道を探さねば成らん。秘境に生きるか、文明に飼われるか。どちらを選んでも後悔だけは避けたい。)
かつて社の基礎が在ったと思しき丸い穴が幾つか開いてる小島の岩礁。その頂を八メートル前後の海獅子の雄が陣取っており、周囲には十を超える数の雌や幼体が雄を囲むように寝転がっている。
俺はその様子を観察し終えると、再びゆっくりと体を後ろへ下げて端から顔を引っ込めた。ツルマキに装填した杭を抜いて腰の矢筒に差し込むと、今度は別の種類の杭を矢筒から引き抜き硬い人工樹脂の被膜を外し始めた。
(枯死獣でもない獣にこれを使うのは勿体無いが、手頃な威嚇手段としてこの爆砕杭が最も適してる。例え一発で仕留めれなくても爆発音と熱衝撃を間近で受ければ気絶してしまう。雄さえ仕留めれば群は入り江から逃げ出してしまうだろう。)
先端に艶消し処理が施された太く黒い筒を取り付けた杭をツルマキに装填すると、先にツルマキを高所際に置いてから匍匐で進み末端部分に腹を乗せる。腹袋によって上半身が反り返るが構わずツルマキを両手に持ち直して射撃体勢に移る。
射撃位置の天井部から標的の距離はおよそ二十五メートル前後。命中が期待できるツルマキの有効距離と同じなので、経験則から簡単に距離が割り出せた。もしこの高さから岩礁に飛び移っても負傷する事は無い。もしかしたら今まで酷使し続けた靴底の合金版が変形してしまうかもしれないが、俺は標的を射線軸に捉えてすぐ微調整をしただけで引き金を引いた。
炸薬が詰った弾頭部の重量分含め、通常の杭より重い爆砕杭がやや放物軌道を描いて標的の首元に命中。被膜で保護されていた棒状の接触信管が作動して指向性爆薬が炸裂し、真っ赤な爆発煙と共に衝撃と音が入り江全体に響き渡る。
爆発によって叩き起こされた海獅子達が全て海中に飛び込んだのを確認し、俺は立ち上がると小島目掛け天上部から跳び降りた。二秒にも満たない短い落下後に、首の付け根と頭部の一部が焼け焦げた二つの塊近くに着地。すぐさまツルマキを海と繋がった入り江海口部へ向け、海面から頭部を出しこちらを見ている海獅子達を追い払った。
(わざわざ海中用の装備を買ったが、海中で海獅子相手に出来る事は限られる。奴等が戻って来るまでに全ての作業終らせないと身を危険に晒してしまう。)
俺は腰帯から狩猟ナイフを抜き取り、ツルマキを乾いた岩の上に置いてから海獅子の肉を剥ぎ取り始める。
硬い鱗を捥ぎ取る様に強引に剥ぐと、分厚い皮膚に切り込みを入れて外皮を剥がしていく。肉と血と心臓はご馳走なので腐らせる前に空の水筒を背嚢から取り出して血を移し替える。作業を続けながら必要分の肉の切り出しを後回しにし、大きな獣の腹を捌いて心臓の取り出しを優先した。
解体に十五分ほど時間がかかったが、当分活動可能な獣因子を補給できる獣肉を調達できた。俺は剥ぎ取った生肉を持って来た使い捨て麻袋に入れてから解体作業を終え、刻んだ肉と水筒の血を摂取しつつ次の準備を始める。
(しかし食べ残しや骨が多い。大抵の捕食者は清潔さを保とうとする。養育期間中だったら仕方ないが、この様子だと岩場の下を探すのに邪魔になりそうだ。)
水神の祠と呼ばれる入り江内の岩場には、岩礁を削った穴に支柱を差し込んだ船着場が建てられていたようだ。現在は柱を固定する為に削られた丸い穴以外に何も残っておらず、有るのは漂流物の流木片や海草と海獅子達の食べ残しらしき魚や海獣の残骸が散らばっている。
俺は邪魔な骨等の残骸を足で海面に蹴飛ばしてから背嚢を平たい岩の上に置き、海中探索用に買った海中電灯と足鰭を取り出し始める。脇に差し込んでいた自衛具にもなる折り畳み式の銛も引き抜き、血染めの上に装着した探索具を取り外して行く。
水龍の血統により水中でも呼吸が可能だが、海中に長時間留まると肺に不純物が溜まってしまうので定期的な息継ぎが必要だ。それでも従来の海中や水中探索には圧縮空気を入れた缶が必須なので、血統と血染めの恩恵がいかに大きいか言うまでも無い。
脱げない血染め以外の基本装備を体から排除した俺は、鳴れない足鰭を履いたまま波打際へと移動する。左手に組み立てた白い塗装の獣槍を持ち、右手で頭部に装着した海中用目当てを調整しながら波をかぶって濡れた岩場に腰掛けた。
「流石大海原の大南洋だ 沿岸なのに海水が冷たい」
俺は股間まで波を被りながらも両足を海中に下ろし、魚の鰭運動を真似て両足を交互に上下させる。鰭を使って水中を泳ぐのは初めてなので、途中で外れないよう帯をしっかりと固定した。
そして小島の海側海面から水中に体を沈めると、やや速い流れに抗いながら小島周辺の海側深部へ潜る。水深が六メートル程の底には大量の岩石や石等が積み重なっていて、建材用に加工された石材や彫刻らしき石造の残骸が沈んでいる。
(まずは海草の排除から取り掛かろう。漁港時代に沈んだ漁具の下に社で使われていた物が有ればいいが。)
俺は海中に沈んだ人工物や珊瑚岩の残骸に手が届く場所まで潜ると、海藻や水棲種子植物に覆われた岩石を一つずつ持ち上げ排除する作業を始めた。小島北側の海側は陽光に照らされていて海底部が肉眼で確認できる。持ち上げた岩や煉瓦と壷を人工石材で固めた錘らしき残骸を持ち上げ、岩礁部がどれ程下に在るか確認する。
(下の石は全部珊瑚岩を砕いた石だ。海獣の住処と化して長期間放置されたから海藻がかなり多い。このままだと何日も掛かってしまいそうだ。)
息継ぎの為に海面に浮上すると、短く息を吸って再び潜行する。建材に使われた珊瑚岩が多数沈んだ場所が予想以上に広く、単独で全ての場所を調べるには時間がかかり過ぎると判断した。俺は人工物が多く沈んだ場所を重点的に調べると決め、小島から少し離れて入り江と海の境界付近から調べる事にした。
海側との境界の海底は侵食により段上に削られていた。入り江から少し沖へ出ると二十メートル以上の深くなり、水深二十数メートルの底には珊瑚岩から流出した見覚えの有る土砂が堆積してる。
(枯死海砂漠の砂に似ている。鉱物が侵食で粒子状に細かく砕かれた際に珊瑚岩の石灰成分が混ざったようだ。)
俺は沖合いの岩礁群へと広がる砂と岩の海底まで潜り、周囲に沈んだ人工物を探した。入り江内との境界に近い斜面に箱らしき物体の一部が露出しており、俺は露出地点に近付き邪魔な砂を手で掘り下げた。
砂に埋もれていたのは五十センチ四方の小さな木箱で、表面に大量の貝類の殻が付着してる。貝類が全て死んでから砂に埋もれたらしく、表面に細かい砂が付着しているだけで藻類が全く繁殖してない。
俺は発見した謎の木箱を持って海面へと浮上し、足を動かしながら島に辿り付き回収した木箱を荷揚げした。波打際から離れた場所に置くと中身を調べずに再び海に入り、少ない時間を惜しんで探索を続けた。
それから一時間程入り江内の海側海底を調べ、俺は海獣等の歯や骨の一部と共に木箱や缶詰の様な容器類を引き上げた。海草や岩貝に覆われたそれらは殆ど原型を留めておらず、箱の中に在った物は殆どが錆びた金属の残骸だった。
俺は回収した物を小島から岩礁通路へと運んでから休憩し、海獣を警戒しながら再び海に潜った。午後三時頃を過ぎると太陽が傾き、入り江南側半分を覆っている珊瑚岸の天井下まで陽光が届くようになった。俺は光が届かず後回しにしていた海底の岩場から幾つかの人工物を引き上げ、午後四時前頃に岩礁通路へ最後の荷揚げをしてから海中探索を止めた。
傾いた太陽が入り江内全体を照らし、濡れた血染めや頭髪から水分を蒸発させる。岩に寝転がって体を乾かしている訳でなく、俺は東側の岩礁通路に並べた回収物を乾かしながら中身の確認作業を進めている。
「なんだ酒瓶か 小銭入れより期待してたんだがな」
曲刀で付着した一枚貝の殻ごと木枠を叩き割った結果、最初に引き揚げた回収物が中身入りの酒瓶を詰めた酒箱だと判明した。瓶は一つも割れてなく果実酒らしき赤い液体が残っているが、生憎俺は酒等の嗜好品には興味が無い。
(他が駄目なら全部持ち帰ってもいいが、最低二三本持って帰れば手数料代わりになるだろう。)
俺は汚れが殆ど無く表装が分解されて瓶だけとなった酒瓶を台座に戻すと、酒箱の右横に置いた錆びた金属製の箱の前へ移動する。
錆びた金属箱の蓋部分は凹んでおり、密閉蓋と傷部分に溶けた鉄成分が固着している。大きさと形状から土産物の菓子缶だと推測したが、密閉箱事態に亀裂や穴は無く中身が無事である可能性が高い。
(やはり水は入ってない。宝飾箱だったら持ち帰れる大きさだ。ツルマキ用の工具で蓋を叩き割るか。)
俺は元々白系の塗料が塗られていただろう黄色く変質した箱を手に取ってから移動し、回収物と一緒に移した背嚢と腹袋の前に置いて工具箱を取り出す作業を始めた。背嚢下の方に仕舞った緑色の簡易工具箱を取り出す最中体が乾いた事に気付き、血染めの上に衣類と探索具を装着しなおした。
最後に腰帯を装着してから腰を下ろし、俺は取り出した金属容器の工具箱を開けて本物の杭と小槌を取り出した。そしてしばし忘れていた鉄錆だらけの密閉容器を持ち上げると、杭を差し込めそうな蓋の隙間を探し始める。
(蝶番が無いから密閉容器の類で間違いない。大きさの割に重いが頑丈な内張りで保護されているのかもな。)
密閉容器から一度杭を離し、耳の横で容器を振って中身が内側を叩く小さな音に耳を傾ける。音は液体が揺れる流動音でも小銭が動く金音でもない。どちらかと言えば大量の紙束が内側を叩く様な音だが、その中身を知るには固着した密閉蓋を排除するしか方法が無い。
再度原型を残している蓋と容器の隙間に杭を刺し込み、杭の頭を小槌で叩いて容器の蓋と本体に振動を与える。徐々に叩く力を強めて振動を高めるていると、唐突に容器の密閉が外れ蓋が僅かだが動いた。
俺は道具を使わず両手で容器と蓋を掴み分離させた。長年の浸食による腐食や傷で外側は悲惨な状態だが、二重箱構造の内側には全く損傷が無い。それどころか箱の内部には大量の手紙らしき包み紙や折られた紙が有り、紙に書かれた古いウラル語らしき文章がしっかりと残っている。
俺は容器の中身が無事だと判り、言葉に成らない歓喜の吐息を鼻から出しながら蓋を握る右手を天高く掲げた。ウラル語は帝国のウラル地方で使われていた旧言語の一種で、俺には砂蟲の様な文字を読む事ができない。
「これはオルガ案件だ 組合には提出せず探検家に渡さねば」
俺は保存状態が良好な手紙の束を容器から取り出し、背嚢の小袋からも採取用の密閉袋を取り出して透明な袋内に入れた。最後に金属製の密閉容器を内側を確認して何も無い事を確認すると、空になった容器を壁際に捨てて他の回収物の確認作業に戻った。
結局四時間ほどの海中探索で見つけた金目の物は、古い硬貨や銀製の装飾品らしき置物と壊れた宝飾類だけだった。俺はこれら価値が不明な収集品と一緒に、酒瓶と缶詰を背嚢袋に詰めてから水神の祠を後にした。
獣皮紙や古い布繊維が入った木箱と寺院社内にあっただろう壷や陶器も引き上げたが、量が多過ぎてたので諦める事にした。
午後六時前頃に黒真珠街に到着した俺は探索規定に従い、換金できそうな回収品を鉱業組合の担当窓口に運んだ。今回の探索は通常探索の建前での調査活動だったので、何も持ち帰らないと怪しまれる可能性があったが、まさか割れ物の酒が高値で処分出来るとは想像すらしていなかった。
結局酒瓶を回収するまでの経緯を担当者に話す破目に成り、入り口から建物外に出るまで三十分以上掛かってしまった。古い硬貨や缶詰の方が収集家に高く売れると思っていたが、他に持ち帰った物含めて部族紙幣二枚分の価値にしか成らなかった。
こうして懐に忍ばせた手紙の束を感づかれずに一騒動を終えた俺は正面入り口から建物外に出た。空は赤みを増した夕暮れ時で、懐中時計を確認しなくても最終定期便の発着時刻が迫っていると判断できる。俺は買った装備類と例の手紙束をオルガに届ける為、シャワールと同じ名で呼ばれる基幹道路を走り始める。
海獅子。海中での長期活動が可能な鰓と陸上生物の肺を併せ持つ四脚牙獣種。麻痺成分の分泌液を出す牙で獲物を仕留めてから捕食するが、雄以外は巣に持ち帰って群れ内の個体と分け合う事が多い。
雄一体に対し複数の雌が番となる一雄多雌集団を形成する繁殖体系で、基本的に単独行動をするのは群から弾かれた幼体と縄張りを持たない雄のみ。
折り畳み可能な背びれと尾びれを使い海中での高速移動が可能で、沿岸海域を遠くまで泳ぎ複数の巣や広い縄張りを巡回している。陸上型の四脚水棲獣と共通して手足に発達した水掻きが有り、成長と共に肥大化する。
同日十八日の午後十二時前にアイアフラウ商会支店に到着した俺は、就寝前の歯磨きをしていたオルガに色褪せた紙束を手渡した。俺では古く癖の強いウラル語を解読できなかったので、帝国出身の探検家であるオルガなら解読できると考えていた。
しかしその考えは浅はかで幼稚な思考だった。オルガは自らを傭兵畑出身の元探索者だと言い、旧帝国言語であるウラル語には精通してないと今更ながら告白した。だから俺は水神の祠の調査報告を口答で済ませた後にオルガから手紙を取り戻そうとし自らで調べると言い放ってやった。
直接オルガの手から手紙の束が入った密閉袋を奪還しようとした矢先、オルガの作業机の上に有る有線通信器の呼び出し音が鳴り始めた。深夜時間帯なので通信相手は限られたが、オルガは俺の前から作業机の前に素早く移動して黒い受話器を手に取った。
俺の獣耳が捉えた通信内容を要約すると、フラカーンから遠く離れた森没界北宿場街の野営地にて遺跡探索準備を進めていた森没界遺跡調査隊の編成が案内役を除いて終了したとの報告だった。
現在森没界では大量発生した枯死獣の眷属らしき獣の大規模駆除作戦が進行している。俺が遺跡探索を終えて森没界近くの監視隊野営地に帰還する少し前から作戦が始まっていたが、駆除作戦が進行している現在も森没界全域が立入り禁止区域の隔離領域指定されている状況だ。
オルガは受話器を通信器機に置いてから俺に新しい任務を命じた。内容は森没界北宿場街に野営中のアイアフラウ遺跡調査隊の隊長へ指示書を渡し、合流した調査隊を俺が探索した廃墟都市へ案内する事だった。
会話途中だったがオルガは俺が回収した手紙を密閉袋ごと机の引き出しに入れ、同じ引き出しから砂色の封筒を取り出し俺に渡した。オルガはその未開封の指示書を俺に渡すと、再び通信機の受話器を手に取り太い右手人差し指を立てて番号盤を押し始める。
オルガは手を動かしながら口を動かし、俺に対しフラカーン南発着場に駐機させてある砂嵐号に乗って現地へと移動しろと命じた。本来ならオルガと共にフラカーンに帰還してから今後の行動表を埋める予定だったが、俺は自身が居ないたった一日の間に事態が一歩先を進んでいると痛感したのだ。
帰ってからオルガに森没界で発生した新種害獣騒動と太陽の塔の現在状況を聞きたかったが、俺は止む終えずオルガに手紙の解読を忘れるなよと忠告してから準備を開始。僅か三十分後にフラカーン発着場から砂嵐号で現地へと飛び立った。
それから八時間近く砂嵐号の仮眠室で休憩と排泄を済ませた俺は、十九日の午前四時二十五分頃にフラカーンから真南に二百三十数キロ離れた砂漠と森の境界に位置する交易宿場街の発着場に到着する。
旧城塞都市からは西南西七十キロ地点に在る宿場街に降り立った俺を出迎えたのは、砂利が敷かれた発着場を濡らす雨と南から吹きつける季節風だけだ。昔は砂陰と貴族連合沿岸を結ぶ海上交易路を動かした風だが、宿場街の砂除け天幕や煉瓦作りの砂色住居を黒く染め上げても治まる気配は無い。
恵みの雨風に出迎えられながらも、俺は宿場街を挟んで反対側の害獣監視隊野営地へ歩き始めた。野営地にはアイアフラウ商会の天幕が複数在り、雨風で歪んで見える景色の中でも四つ在る大型天幕の円錐屋根が遠くからでも視認できる。
野営地には発着場と同じく平らに整地された地面一面に礫石等の砂利が敷かれてある。数分も経たずに宿場通りを抜けた俺は野営地敷地内に入り、住居用から倉庫用の天幕含めて二十以上在る天幕群を囲む固定柵が無い場所を目指した。
(まだ日没前だと言うのに明かりが点いている。準備が出来たと言っていたから出発する時刻が近いのだろうな。)
俺は等間隔で砂利地に刺した木の杭同士に結ばれた縄の前まで移動すると、天幕が無い広場側近くの入り口内側に居る歩哨代わりの見回り係に声をかけた。夜間警備をしていたのは保安隊の制服を来た若い砂陰系の男だが、彼は俺の要求に文句も言わず関係者を呼びに大型天幕内へ走っていった。
(森没界を管理しているのは砂陰地方のピエトロ管区行政府だ。アストラ近郊の行政府だが独立行政機関である事に変わりない。大商会だから特別に許可したのだろうか?)
そう考えながら独り雨風にうたれ血染めを濡らしていると、天幕広場の中心に有る白い大型天幕の入り口から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ジール 早くこっちに来い」
雨に濡れぬよう天幕入り口内から照明具を片手に持ち手招きしている老人へと顔を向けると、東大陸では珍しい顔立ちと小柄な体から対象がヤマダ爺だと直に判った。俺はすぐさま縄を跨いで天幕敷地内に入ると、走って大型店幕入り口内に駆け込んだ。
「久しぶりだなヤマダ爺 あの屋敷で会った時と比べて少し太ったか」
俺の言葉に白髪の老人は見間違いだと答え、自らが遺跡調査隊の隊長に抜擢されたと言い放った。発言の意味が理解出来なかった俺はやや送れて返事を返し、懐から指示書が入った封筒をヤマダ隊長に手渡す。
「これはオルガルヒからの預かり物だ 遺跡調査隊の案内役を任されたが色々聞きたいことが有る 奥で話を聞かせてもらうぞ」
ヤマダ爺は頷きながら天幕奥へ入るよう指示し、入り口扉代わりの垂れ幕を下ろし始めた。俺は雨に濡れた装備と血染めを拭かず天幕内側に在る別の天幕の垂れ幕を腕で持ち上げる。
天幕広場中央に在る白い大型天幕内は明るく、内部の白い中型天幕内には多くの探索者や学者らしき調査要員が椅子に座っている。全員ではないが新たに入ってきた俺へと視線を送る者が大半で、俺は無言のまま周囲を見回しつつ座れる場所を探そうとした。
「ジール 紹介してやるから乾板の前に移れ」
背後から聞こえたヤマダ爺の言葉に従い、俺は集会所の様な天幕内中央を進む。長椅子や机などが設置された天幕内には大き目の黒い乾板が設置してあり、黒い板表面には石灰棒で地図らしき図形と複数の文字や矢印が描かれていた。
「全員注目 この者は今回の遺跡調査地へ我々を案内する案内役のジールだ 彼は十日以上に前に現地で探索活動を行っていた 貴族連合出身だが大部族の旧言語をある程度は読める 彼には案内役だけでなく目的地周辺の偵察や食料調達も任せる心算じゃから荷運びと勘違いしないよう心掛けよ と言う訳で後はガルツブルクに任せた」
そう言うとヤマダ爺は廃材を利用した壇上から降り乾板横の椅子に座って封筒を開封し始める。俺は何を言うべきか迷いながら衆目を観察し始めると、壇上前に座っていた大柄な帝国人が立ち上がりそのまま俺の前に手を差し伸べてくる。
「俺はガルツブルクと言う フラカーン支店に派遣されたアイアフラウ商会所属の探索団 鉄と汗と血の団長だ 名前が長いから皆から鉄血団長と呼ばれてる 此処には居ないが俺と同じ帝国人の副団長ミルゾフが君達実動部隊の隊長だから会った時に顔を覚えておけよ」
ガルツブルクの大きな右手を握っていた俺は話を聞き終え短い了承の返事を返すと手を放した。主に探索団の名前が咽返りそうな名前だと思いながら空席を探しに壇上から降りようとしたが、握ったばかりの大きな右手で右肩を掴まれ阻止されてしまう。
「おぉっ 亜人にしては珍しく狂戦士の様な肉付だな とりあえず案内役として最初の仕事を頼むぞ」
俺より頭二つ分大きなガルツブルクに引き寄せられた結果、壇上中央に立たされ衆目と少し眩しい集合灯の光を浴びる。仕方なく俺は何を言うべきか考えを巡らせつつ振り向き、少し驚かせる為に文字消し用のタワシとやらを握って黒い乾板に書かれた森没界図を消し始めようとした。
「おい待つんじゃ それを消すなジール 消すんじゃない」
予想外な事に白爺が慌てながら壇上に上がって来て俺の右手を掴んだ。これから邪魔な地図表記を消して俺が遭遇した枯死獣や眷属らしき奇獣の絵を描こうとしたのだが、何故か消してはならんと制止されてしまう。
「何故止める 森の地図など乾板に書かなくとも公式資料を見れば済む話じゃないか」
俺の言葉に白爺は首を横に振り、書かれてある内容が現在の地上地形図とは違う物だと説明し始める。
「これは多くの情報を元にわしが再現したピエトロ部族領の王朝地図じゃ 今でこそ大半が森に埋もれとるが二千年ほど前まで森没界に存在していた古代国家の勢力図なんじゃよ」
俺は掴まれた右手を下げてタワシを台の上に置きながら目の前の乾板に顔を向けた。地図の輪郭線が現在の森没界の範囲と同じな為に森没界の地図だと判断していたが、確かに南の丘陵地帯と東の湿地平野周辺に建物らしき絵が描かれてある。
「そうか なら俺がすべき事は何も無い 俺の紹介よりも講演か何かの続きをしてくれ」
俺はヤマダ爺の右腕を掴み返して立ち居地を交換すると、そのまま壇上から降りてヤマダ爺が座っていた木枠椅子に座った。
ヤマダ爺は壇上で咳払いをしながら石灰棒を手に取り、俺が消した部分の復元作業を始めながら遺跡に関する講演を再開若しくは始めた。俺はヤマダ爺の話を聞きながら目玉を動かし咽返りそうな名前の探索団一行へと視線を向ける。
(始祖族とは違う獣人や亜人が居る。帝国のアイアフラウ商会から派遣された探索団なら他種族混成も納得できる。今回の遺跡調査の指揮に部外者のヤマダ爺を指名したのはオルガだろう。オルガはアイアフラウ商会を動かす為に重要な情報を伝えた可能性がありそうだ。)
聞き覚えの無いピエトロ部族と言う単語を聞き、俺は視線を壇上のヤマダ爺に戻した。ヤマダ爺は屋敷に居た頃は袖や裾が長い羽織を着ていたが、今は非専用要員の調査員代表者達と同じアイアフラウ紹介の紋章が縫われた厚手の秘境探索服を身に纏っている。本人は否定したが痩せて頬骨が浮き出た様な面から少し肉がついて、増えた顔筋の分皺数が減っている。
「さて諸君 最後の待ち人が到着したからこれより遺跡調査の為の事前勉強会を始める まず最初に話す事は森没界で行われていた大規模駆除作戦の経過報告と 現在も太陽の塔で行われている奇獣騒動との関連性についてだ」
俺はいきなり本題を話し始めたヤマダ爺の姿を改めて観察する。オルガからも口止めされているが枯死獣や眷属の情報を口外したのはヤマダ爺と対面した時だけなので、ヤマダ爺が調査隊の主要関係者の前で堂々と枯死獣に関する情報を喋り出したのに少し驚いたのだ。
「公式に開示された資料によれば 今からおよそ千年前に最後の個体が討伐されたのを最後に地上から枯死獣は絶滅した事になっておる しかし人智を超えた再生能力と身体能力を備えた異形の怪物は生き延びていた 二十二年前の世界樹枯死事件を現地で体験した者は居ないだろうが かの事件も太陽の塔と同じく謎の害獣集団の襲撃により発生したのだと判明している 即に言ったが我々が調査する廃墟遺跡は今回の大規模駆除地域外に在る 我々の最初の仕事は廃墟遺跡に例の眷属が居るかどうかを確認し 必要なら駆除と捕獲を行う予定だ もし新種害獣と遭遇したのなら 当然主目的の遺跡調査を進めながら新種生物の発生場所を特定し対象の捕獲作業も行う これはアイアフラウ商会側の意向でもあり既に決まった決定事項だと認識しろ」
全体を見回しながら言い含めたヤマダ爺は、咳払いもせず勉強会の本題であるピエトロ部族について解説し始める。
「わしがまだ三十代後半の若い頃 小説の題材や資料を集める為に大部族各地の遺跡や古戦場を巡る過程でピエトロの意味を知る機会に巡り合った あの頃はまだ遺跡探検や発掘が観光業と直結していた時代で 放浪民の真似事をしていた余所者でも簡単に発掘現場や修復作業場にもぐりこむ事が出来た時代じゃった 森没界とアストラに挟まれたピエトロ管区にて集団墓所の発掘調査に加わっていたわしは積み重なる様に捨てられた白骨土塊から群青石の原石の様な結晶を発見した 結晶自体は胆石が溶けた装備類の成分で変質した物だと直に解ったが 当時の技術では何の成分が溶け出したのか精密解析しなければ判らなかった 興味が湧いたわしは出版された書籍等を調べ上げ 小説の資料用に当時の防具や武器に使用された鉱石類を纏めた資料集を作成した わしはその過程で深緑石と呼ばれる いやかつてそう呼ばれていた結晶の存在を知り 現在では緑素結晶と呼ばれる世界樹の血小板を変異させる技術を確立した集団が古い森没界に存在したと知った 諸君の中にもその集団が後にピエトロ部族を名乗り始めたのを知っている者が居るかもしれん 現代でピエトロの名を聞くと森没界の南と西側を管理する行政区を思い浮かべる者が多いに違いない わしはピエトロ部族の歴史について調べる過程でその名が月と湖を意味する古代語だと知った 枯れてしまった南枯死海へ流れる川の源流地域がエンティール連山なのと同様 かつて北の連山から南の森没界へ流れた水によってこの湿地周囲を埋め尽くす湖が広がっていたのだ」
歳の所為か、それとも小説家としての経験が駆り立てたのかは判らない。ヤマダ爺はかなり強引な供述でピエトロ部族の興亡について語り始めたが、かつて森没界に現在の面積で二割を占める湖が在った話なんぞ聞いた事が無い。
「およそ百年ほど前に大規模発掘調査が行われてなければ ピエトロ部族の存在は今も只の伝承として語り継がれていたかもしれぬ 我々が調査に向かう遺跡の廃墟都市は暗黒期に放棄された遺跡だと言われておる 古い発掘資料を調べる為に知り合いの考古学者に便りで確認させたが わしもその仮説は正しいとの認識じゃ ただし遺跡含めた都市を建造したのは連山を中心に暮らしていた始祖族の一派ではない あえて明言するなら文明ごと消えたと噂されているピエトロ部族が建造した遺物都市の一種である可能性が高い」
俺が渡した指示書入りの砂色封筒を折れた石灰棒や粉末が付着した乾板台の上に置いたヤマダ爺。右手に持つ白い石灰棒を黒い乾板に押し当て絵の修復を始める。ヤマダ爺は修復中の図や文字が若い頃に見た都市遺跡の残骸や壁絵等に描かれた地図情報を整理した略図だと言い、推測話を交えながら地図に幾つかの地名を半角共通文字で書き込み始めた。
「これが二千年前の森没界の概略図だ 現在では泥土林と呼ばれる湿地帯と丘陵部南部の岩石山地域に大きな水源か大規模な人工河川が在った可能性が高い 今では数多の植獣と水棲獣の住処に成っておるが 皆も知ってのとうり多くの固有種が古くから根付く地域じゃ」
ヤマダ爺は乾板と向き合い解説を続けながら右腕動かし続け、既に書いてある各遺跡を線で結び大きな水源を囲うように多角形の図形を描く。何角形の図形か数えるのが面倒だが、斜め横から見える黒い乾板に大きな城壁線を描いている様にも見える。
「現在まで判明してたピエトロ部族の跡地は五つ この全てを地図に書き記し線で結べば わしが想定するピエトロ王朝の勢力圏西側の一画と重なる 実際にこの線は道や川として適した地形をなぞっておる 今も土砂流出により拡大を続ける森没界南沿岸部を除けば他の場所にも部族跡地の手掛かりと成る遺跡が有る可能性が高いのだ」
俺は森没界の南東部に在る巨大な湿地帯を囲む様に描かれた王朝地図の一箇所に文字が書かれるのを待ち、ヤマダ爺が半期ほど前に調査した廃墟遺跡が在るだろう場所で屈折する線の上に新しい文字を書くのを待っていた。
(名前はそのままアライヤか。ヤマダ爺はあの一族について知っていたようだ。となると壁画の間の入り口を開けたのは眷属でないかもしれん。白爺以外にも墓守らしき一族が何を守っていたのか知っている者が居る。)
そう考えながらも俺は日の出前の講義を聞き続け乾板から目を離さない。ヤマダ爺は今回の遺跡調査がピエトロ王朝の手掛かりを探す探索だと豪語しながら熱弁を続けるが、俺にとっては太陽の塔や壁画の間に有る槍をどうすべきかで頭が一杯だった。
ピエトロ王朝。二千年程前まで森没界南部に存在していた可能性が有る文明集団。歴史から法等の生活形態が不明で残存する証拠も無く、後の時代に存在したピエトロ部族集団との因果関係も立証できないため存在自体が仮説止まりに成っている。
それから十九日の日の出(午前五時半過ぎ)頃に野営地を出発した森没界調査隊。人間や複数の獣人と亜人合わせて総勢六十三名の大所帯は野営地から見える森没界外周部に午前五時五十分頃に到達し、森没界に入ると同時に探索経験者を前面に出して邪魔な害獣を撃退しながら森の南下を開始した。
夜通しで非戦闘要員の研究者や機材運用に雇った人員を荷車で運び、調査隊は翌日の二十日正午頃に丘陵地帯近くまで到達すると進路を東に変更する。俺は森没界に入ってから獣人や亜人の狩人と共同で前衛を努め、獣排除担当と偵察含めた斥候役を交代で行いつつ森没界北東地域に在る廃墟都市遺跡を目指した。
森没界に入ってから四日後の二十三日の午後四時過ぎ、湿地地帯の泥土林境界の川沿いを長らく進み続けた調査隊は廃墟都市遺跡の南側に到着した。到着して早々に連れて来た調査隊の兵站係が都市中心の石造寺院に拠点を構築し始め、ヤマダ爺を筆頭に数名の研究者と護衛を兼ねた荷運び係を引き連れ東の壁画古墳遺跡へと案内する事になった。
俺を先頭に夕暮れ間近の森を進み続けた調査支隊は、壁画の間調査支隊は獣と遭遇する以外何事も無く午後六時四十分前に丘へと到着する。俺は自分で封印した入り口から石や土砂を取り除いてから様子見を兼ねて先に階段を降り、壁画の間に水や有毒粉塵が溜まってない事を確認してからヤマダ爺一行に返事を送った。
地下墳墓に続々と降りて来た一行は皆顔を顰めながら照明具の設置作業を開始し、俺は本格的な調査活動を前にして随伴の探索者と共に大掃除を始める。やる事は堆積した糞や皮等の残留物を運びだす作業ばかりで、持って来たバケツ等の容器を持って階段を上り下りして壁画の間から異臭物質の元凶を外に運び出し終えた。
その間にヤマダ爺は壁画よりも、例の呪われた槍と石碑を調べている。外の警戒組みを除いて壁画の間には全部で七つ有る壁画を測量し撮影する班と、ヤマダ爺と一緒に槍と壁画を観察する者達で別れていた。なので作業を終えた俺はヤマダ爺の背後へ移動し、オルガに報告した内容と同じ言葉を用い、此処がカシミーラ・アライヤの墓場かどうか確認させた。
ヤマダ爺の言い分は単純で、遺体が無い場所は墓では無いと言い放つだけだった。俺がオルガへと忠告したのが効いている訳ではないが、石碑はともかく誰も赤い槍に触れようとしない。俺は既に大半が駆除されたらしい謎の獣達と遭遇した経緯を話しつつ、自らの知り合いが此処を獣神関連で此処を調査した可能性が高いと教えた。
ヤマダ爺は遺体が聖柩塔の手に渡ったのなら取り返すのは不可能だと言い、槍の調査を後回しにして壁画調査を終らせると決断し指示を出した。大半の作業を終えていた撮影班の半数が機材を取りに階段を上がって行き、丁度降りて来た副団長のミルゾフ含め壁画の間に少数の人員だけが取り残される。
俺は相変わらず手を近づけただけで静電気が走った様な痺れに襲われる槍を前に佇み、ヤマダ爺に壁画の間について率直な感想を求めた。ヤマダ爺はこの場所が旧時代末期に栄えていた謎多き古代王朝時代に造られた資料部屋だと言い、七つの壁画の一つに描かれた中心的存在が獣神である可能性が最も高いと明言する。
更にヤマダ爺は聖獣伝説に登場する五柱の神の一柱たるケンタウロと関係する支配構造図だと結論を出し、
壁画や床などに仕掛け扉等が無い事から資料室か宝物庫だった可能性が最も高いと結論を述べた。
結局石碑の文言を警戒して槍の調査は進展しないまま日の出を迎えたので、一行は探索拠点へ戻る為に入り口に石を積み上げてから壁画古墳を去った。直近の獣騒動による影響か獣と遭遇する事無く森を抜けた調査支隊は午前七時過ぎに廃墟遺跡へ到着し、廃墟寺院内に構築された探索拠点前で解散した。
二時間程度の休息時間を宛がわれた俺は監視塔代わりに築かれた足場を登り、寺院外壁沿いに在る石造りの尖塔屋根から周囲を見回して森の息吹を堪能し始める。
既に下では周囲の探索情報を纏める地図製作が始まっていて、二時間後には他の獣人探索者と共に周囲偵察活動が待っている。俺は背嚢から獣笛を取り出し近場に居る獣の鳴き声を模倣する練習を始め、とても地味で面倒な作業に時間を消費するだろう日々を迎えた。
廃墟都市を中心に本格的な調査が始まってから三日後の二十七日午前八時四十分頃。廃墟都市中心の寺院から北東方向四・七キロ離れた場所に未発見の遺跡群が見付かった。発見したのは眷族と推定された獣の残党を追跡していた探索団所属偵察班の一部で、エンティール連山に近い北部の山岳地帯から南へ広がる大きな扇状地形の南側に複数有る崩壊部を調査していたようだ。
対象地点は百年近く前に行われた大規模調査地点から東に百五十キロ程離れた場所らしく、昔から古い森と獣の巣窟と化した洞窟が在るだけと認識されていた場所だ。崩落地帯の一部に巨大な崩壊穴を発見した偵察班は、発見した比較的新しい崩落箇所を調べ大量に散らばる獣の骨と眷属らしき獣の死骸や糞等を追って内部に降下。結果崩落した洞窟を進むと地下都市らしき住居跡を発見したのだ。
昔ながらの夜光鳥伝書により発見の報告を受けたヤマダ爺は、俺含めた亜人や獣人と調査要員を召集し二つの潜入部隊と一つの調査隊を編成して現地に送り込んだ。
俺は発見の報告を屋根上で聞いてから潜入調査部隊に志願して現地へと赴き、同日の午後三時前に現場に到着し穴から洞窟内に侵入した。
崩壊部から入って大きな溶岩洞窟を二百メートル弱進むと、最初に発見した偵察班から聞いた報告どうり地下都市入り口らしき城門の様な人工壁に到達する。材質不明の人工石材は壁画古墳で使用された物と同じらしく、白に近い灰色の壁には装飾や文字どころか継ぎ目等が一切無く平らな壁そのもの。唯一両開き扉らしき金属製の扉がやや窪んだ枠内に納まっていて、古い砦などの城門と同じ位の大きさだ。
考古学者や地層研究員と測量技師等で構成された先発調査隊の調査要員が遅れて来てから現場が引渡され、俺含めた潜入人員は無事なまま戻れると安堵しながら移送されて来た機材の搬入作業を手伝いに崩壊部まで戻った。
横幅だけでなく高さも二十メートル以上ある崩壊穴に調査機材を降ろすのは困難で、俺は一度地表部に上がって物資昇降要員として綱を引き力仕事に注力。物資の運び入れ作業が三十分程で終了すると、俺は硬く閉ざされた壁の調査が終るまで扇状地近辺の警戒任務にあたった。
いつ頃か森没界で発生し十日ほど前に集束したばかりの新種害獣大発生により、誰もが生態系の著しい乱れや偏差を念頭に行動している。俺含めた誰もが眷属らしき害獣が新種害獣として処理された事で、評議会等の政治屋が不都合な真実を掴んでいると推測していた。
同日の夕暮れ前から始まっていた発破準備作業の終了を告げる狩猟笛の合図で呼び戻されてみれば、最新の高性能高分子爆薬を使用した円筒掘削爆弾にて扉同士の隙間に開けられた穴へ同種の爆薬を入れる作業が始まっていた。俺は旧時代の遺跡と思われる地下施設の入り口を吹き飛ばす点火装置の準備作業を見物する為に洞窟内に降りると、有毒粉塵や微粒子を恐れて脱落した者達の代わりに準備を手伝わされ掘削機を持つ破目になってしまった。
人間は有毒微粒子等に耐性が無いので、作業が進むに連れて作業人員が人から獣人や亜人に換わった。発破準備作業を最後まで指揮していたヤマダ爺が地上に戻る間際に起爆装置を俺に手渡したので、調査隊の過半を占める探索団武闘派に脇を固められたまま自らもガスマスクを着用し、多くが見守る最中自らの手で古そうな点火棒を箱に押し込んだ。
爆発による衝撃は小さく、音も比較的大きく広い天然洞窟内を振動させる程のものではなかった。想像していたより小さな爆音と共に扉が白い煙に包まれたと思ったら、貫通した事により発生した空気流動により煙が押し流され始める。
生暖かい空気と共に押し流されて来た煙が晴れると、白い照明具に照らされた白い両開き隔壁中央に穴の列が並んでいるのが確認できる。縦に並んだ掘削穴はどれも黒く、離れた場所に設置された退避場所からでも爆破が成功したと判断できた。
誰かが無線機越しに地上へ爆破成功の報告を行っている最中、俺は伐採された丸太で構築された障害壁から顔をだけを出して聞き耳を立てる。周囲がやや騒がしいが、己の鼓膜には空気が流れる音と共だけしか聞こえない。この時俺は漠然とだが遺跡が放棄された何かだと考えながら人工石材の壁に穴を開けた高分子爆薬の威力脳裏に焼き付けていた。