六章後半
シジマとウラシノ。森没界だけでなく砂陰地方で広く分布している広葉樹。どちらも加工資材用に適した広葉樹なので、切り出された材木は砂陰地方だけでなく砂陽地方にも出荷されている。
シジマは縞木系の樹木なのできめ細かい年輪と高い耐久性が特徴。主に建材用の家屋用木材として広く流通している。一方黒木系のウラシノは耐火性と乾燥性に優れているので、こちらは家財道具類用の木材として加工されている。
両種は森没界を形成する広葉樹の七割を占めており、主に沿岸や外周付近の山間部に多い。シジマとウラシノは非共通単語なので、それぞれを共通語に翻訳すると白縞と夜林になる。
二十一日の午後六時三十分頃。崖を降りてから針葉樹の森を東南東に進んでいた俺は、ようやく針葉樹の森を抜けた先に在る森没山近くの大きな池に到着した。
背後の針葉樹は所謂巨人樹と呼ばれる大杉の一種なので、図鑑に記載されたとうり獣除けの樹液成分を放出している。俺は臭過ぎて眩暈がしそうな森を抜けてすぐに池の浅瀬に入り、鉄帽を脱ぐと両手でやや緑色に濁った水を顔や頭にかけて臭い物質を洗い流す。
「くっそ 少し目に入った まったく森に入るんじゃなかった」
揮発性の高い油の臭い成分が中々取れず、俺は苛立ちながらも頭を直接水面に浸けて後頭部を洗い始めた。水草に付着した藻らしき小さな物体が短い髪の毛に付着するが、そんな事を気する余裕は無い。
(血染め肌には何も感じない。地肌だけ臭い成分が付着しているようだ。扱いに慣れれば探索に有利だが空の容器が無いから採取できない。)
俺は一通り頭部を洗った後、緑の手拭で擦るように皮膚や頭髪を拭う。森林迷彩柄の布が被せてある鉄帽をすぐに被らず、鉄帽子を片手に持ったまま池の周りを北側に歩き始めた。
「今日中に山の麓へ行ければ 予定どうり明日から遺跡調査ができる 何百年も前に放棄された廃坑道の入り口を見つけて其処を拠点に利用できれば探索が捗るだろう」
俺は鉄棒の中敷へ顔を近付け臭いを嗅ぎ、強烈な刺激を伴う酢の臭いがない事を確認。再び頭に鉄帽を被り直して、背嚢に引っ掛けたままのツルマキを手にする。
ヤマダ爺の話によれば、この辺りは現在からおよそ千四百年前の暗黒暦中期に発生した第二次大部族戦争の古戦場だったそうだ。当時はまだ森没界の範囲は南の丘陵地帯までだったが、エンティール連山の鉱物資源を巡る何十年もの戦いで土地が荒廃し始める。
主戦場が頻繁に変わるので、その度に防衛施設や攻城兵器製作の為に木が切られた。森没界の原生林が縮小した結果、雨季に発生した洪水が砂陰勢力の補給網を何度も寸断するようになる。後の城塞都市が建設されると戦場が別の場所に移ったが、その後も戦争用資材の材料と成る木材確保の為の大規模な植林が行われた。
森没界の植生が場所によって様変わりしているのは殆ど戦争が原因だと言われている。実際に第二次大部族戦争では火薬が普及したので、戦火に遇った砂陰の町の多くが焼かていれる。街を復興する為に幾つかの森が消滅したらしいが、この森没界西に在る首都アストラを再建する為に近場の森だけでは木材が足りないだろう。
俺はツルマキを両手に持ちながら狭い間隔で生えた巨人樹の森と適切な距離を保って水辺を進む。地図上に丸く囲まれただけの池には生物の気配が無いが、もしかしたら水中に潜伏している大穴蔵が居るかもしれない。油断していると緑に濁った水面から十メートルを超える巨体が大口を開けて襲ってくるだろう。
港湾都市アストラ。大部族団の首都。人口は三百五十二万人程度で、都市面積は七百九十一平方キロ。アストラ湾内の東部沿岸を中心に北部と南部沿岸に広がった都市。住民の大半が砂陰系の人間で、砂陽系や獣人よりも亜人や移民が多い。
東部沿岸全域を占める東区に行政機能が集中していて、金融街だけでなく探検家協会や聖柩塔支部等を含めた各国大使館が並ぶ外交街も在る。
俺は二十一日の午後十一時二十六分に森没山の麓に在る廃鉱山に到着した。道中で餌を探している四脚牙獣種の森荒しや白犬の群と遭遇してしまったが、襲って来た個体を殴り蹴飛ばしただけで尻尾を巻いて逃げて行った。
それまで俺は探索者が滅多に踏み入らない森の中なら獣にとって楽園だろうと考えていた。しかし獣の個体数増加に伴い食料不足が蔓延しているとの認識に改め、競争が激しく縄張りに争いから脱落した個体から淘汰されていると結論を出した。
古びた廃鉱山の入り口は水浸しで、植物の侵食で天然洞窟に見える入り口から奥を覗くと坑道自体が水没している状態だった。俺は内部で拠点を構築する事を諦め、とりあえず雨季が迫っているので雨風を凌げる入り口で野営天幕の設置に取り掛かった。
翌日の日の出前。午前五時頃に個人用天幕を叩く雨の音で目が覚めた。例年なら八期の終わり頃から十期の中旬まで雨が降り続ける雨季の季節だ。砂陰地方では到来が少し早く、砂陽地方では雨季期間が遅く短いらしい。俺はそう考えながら緑の天幕出入り口を少し開け、湿った空気を肌で感じ雨の音を聞きながら夜が明けるまで熱視で森を観察していた。
それからおよそ三時間後の午前八時十七分。ようやく雨が止み曇った空が木々の間から見えるようになった頃、俺は背嚢から出しておいた各種調査機器を背中に背負って天幕から出る。
「湿った土と草木の匂い 砂漠より何倍も格別だな」
ツルマキを両手に持ち曲刀を腰帯に差している。小型の探索用具類が入った腹袋は何時ものとうり腰帯上の腹に装着して有る。背中には金属探知機と有害微粒子探査機を同時に背負っていて、その他の備品と一緒に折り畳んだ背嚢袋も防水袋に入れて探査機の握り手に結んである。
(予備電源を入れた有機電解箱だけは乱暴に扱えない。下手に破損させると中から超酸液が出てくるからな。)
俺は目元が雨で濡れないように探索目当てをしっかりと固定し、廃鉱山入り口から出て木々や植物が生い茂った密林の中へ分け入る。
地面がぬかるんでいて足裏の血染め肌に枯れ葉や土が付着した。若い木の枝や背が高い植物の葉を少しでも揺すると上から冷たい雨粒が大量に落ちてくる。雨が止んだ直後なので空気も冷たく、森の中は前日とは別世界の様に静まり返っている。
(退屈凌ぎに獣笛で砂荒しや砂斑の鳴き声を吹きながら進むか。こんな時に住処の外を出歩く獣なんて居ないから、一気に走って森の中に在る遺跡を探す事も出来る。)
撥水効果が有る擬装帯や羽織を各部に着用しているので、雨粒に濡れて体温が奪われる心配をせずに済む。俺は神の園に入った頃を思い出し、故郷を旅立ってからまだ一年も経過してないのに遠くまで来たと考え暇を潰し始めた。
森の中にはシジマとウラシノの木々に混じり、青梨や甘柿らしき木が生えている。まだ花を咲かせる蕾が膨らんでおらず、青い若葉が雨に濡れて水滴ごと垂れ下がっている。故に周囲から水が撥ねる音が聞こえ、静寂の中に時折響く高い水音が俺の神経を逆撫でた。
時折熱視で周囲を見回すと、黒く染まった灰色の世界に白い点や染みらしき何かが映り込んだ。時にそれ等は鳥や小型樹上生物の形を成していて、獣と同様に木の巣穴から顔を出す名前不明鳥も居る。
(そう言えば字を覚えたばかりの頃に、雨季期間中の生物生態系について記した古い学術書を読んでいた。内容なんて殆ど覚えてないが、確か変温生物の大半が積極的に動かなくなると書かれてあった筈だ。)
俺は上空から聞こえる僅かな風の音を聞きながら森を進み、時折視界内に映る不審な影に対しツルマキを向ける作業を繰り返す。昨日の廃鉱山から森に入った直後、探索者らしき装備を着用した幾つかの人骨を発見している。密猟者か違法採掘業者に雇われた狩人である可能性も有ったが、注意すべき存在が獣以外にも居る可能性を忘れてはならない。
「それにしても影が多い 熱視でも全て捉えるのは無理だ」
雨粒や風の音を除外し静寂に包まれた森の中。俺はツルマキの引き金を右手人差し指で触りながら左右の瞼を交互に閉じ、視覚を遠視と熱視で使い分けながら何処までも続いていそうな森の中を歩き続ける。
大穴蔵。最大で全長が二十メートルに達する四足陸獣種の毒牙獣。長く大きな口と尻尾を武器に振り回して獲物を襲う大型生物。名前の由来は大地を噛み砕いて洞窟の様な巣穴を作ることから名付けられた。卵生生物ではなく、母体内で二から四匹程度の幼体として生まれる母生生物だ。
基本的に砂陰地方の河や湿地含めた森に生息しているが特定の縄張りは持たない。活動範囲が広い為、季節ごとに各地を点々とする移動型生物に分類されている。ただし森だけでなく水辺が有れば砂漠や砂界でも生息できるので、フラカーン滞在中に一度だけ枯死海近辺の水辺で目撃された話を聞いた事が有る。
基本的に雑食性で口に入る物なら何でも飲み込む習性がある。食料を積んだ荷舟等の輸送便を襲い河に落ちた積荷や観光客を食べてしまう。その気になれば小型の木舟ごと飲み込めるらしいが真偽は定かでない。大部族団で最も危険な害獣に指定されており、探険家協会が策定した指定危険生物にも該当している。
森の只中に聳える石造りの尖塔。横長の廃墟の屋根に複数有り、廃墟遺跡内に残っている尖塔を全てを数えるには時間が掛かりそうだ。
俺は瓦礫の山と化した石造りの住居らしき建物から降り、再び腐葉土が溜まった遺跡路地を真っ直ぐ進んで行く。
足元の大半は湿った腐葉土に覆われていて、苔やカビらしき植物が大繁殖している。周囲に転がっている石造や独特な形をした石材はどれも緑苔に覆われており、その大半が腐葉土の下に埋もれてしまっている。
「これが廃墟寺院 どちらかと言うと廃墟遺跡だな」
俺は放棄されてから忘れ去られた謎の廃墟遺跡に辿り着き、現在森の中に在る廃墟都市を探索している。廃墟遺跡は寺院らしき三階建ての建物を中心に方々へ広がっていて、大きな寺院周辺を除いて大半が森の遺跡と化している。
(この様子だと捨てられてから千年以上は経ってるな。獣の姿を見かけないのが気になる。こんな入り組んだ場所だと中型以上が活動するには不向きだろうが、群の住処には丁度良い場所だ。)
体内時計によると。天幕から出発してからおよそ七時間は経過しただろう。胸袋から懐中時計を取り出して時刻を確認すれば、正確な時間と大よその移動距離を確認できる。午前中に空を覆っていた曇天井は殆ど消滅していて、正午過ぎの日差しと南から流れてくる強風が木々を騒がすばかり。俺は時折宙を舞って飛んできた枯葉等を払いながら苔むした大木の間を通り、蔓草等の木々に覆われた石造りの建造物が複数在る都市跡らしき遺跡を探索している。
かつて石畳の道だったと思しき場所には巨人樹に似た大きな広葉樹が複数生えている。切り出し地面に並べた石材が崩れた建物の瓦礫の如く散乱しているので、植物の侵食により荒れ果てた庭園にも見えた。
俺は風が廃墟を吹きつける音に耳を済ませ、僅かだが聞こえる鳥の鳴き声らしき連続音が聞こえる方向へ進んでいる。いつの時代に建てられたか見当もつかないが、廃墟が密集しているなら当然獣の巣も近いはず。
遺跡廃墟の多くは三階や二階構造の住居跡らしき建物で、蔦に覆われた壁には切り出した岩を精密に加工して積み上げた模様がある。熟練の石工でも岩表面を直線状に加工するのは難しい。精密機械で寸分違わず切断された石材と同じ様な石材を使用しているので、高度な建築技術により建てられたと素人目でも理解できた。
崩れ埋もれた廃墟の道を通り過ぎ、長年堆積物が溜まり続け小高い丘状に膨らんだ坂を上がる。足から軟らかい砂と雑草の絨毯を踏み締める感触が伝わってきて、重い俺の体が一歩進むたびに大地に沈む。
(鳥の巣が有る。風が騒がしいが、この鳴き声は孵化して三週の鳴き声だろう。食うにはまだ早いが獣の餌には丁度良い大きさだ。)
俺は足元から七メートルの高さに位置する木の穴を見上げながら、自分の食料を誘き出す為の餌を調達しようときめた。フラカーンを出発してから城塞都市で摘み食いをしただけなので、今の俺は血肉に飢えた狩人だ。
邪魔な荷物を地面に置き腰の矢筒から杭を二本取り出し、緑の苔で覆われた広葉樹の外皮に突き立てる。一度では深く刺さらないが二三度打ち付ければ深く刺さるので、俺は足の爪もしっかりと樹皮に食い込ませてから木登りを始める。
湿った木材に釘を刺す様な音が周囲に響く。全高が十メートル近く幹が太い広葉樹なので揺れはしないが、表面が少し軟らかく注意しないと足を滑らしてしまいそうだ。
俺は根元に置いた荷物から七メートルほどの場所まで昇り、太い枝から離れた位置に有る鳥の巣穴を覗き込む。
「砂鳥の雛じゃないが二匹も有れば十分だろう」
直径十センチよりやや大きな穴から深い場所に、枯葉や小枝を集めた巣が有った。巣の中に五匹の雛が身を丸めた状態で狭そうに詰っており、成長と共に二三匹は巣からはみ出てしまうだろう。
俺は親鳥らしき灰色の羽毛だらけの巣から二匹の雛を握り取ると、足と腕を樹皮から放して荷物付近に跳び下りた。右腕で捕まえている二匹の雛は体長が七センチから八センチ程度と小さい。短く白い未発達な羽には抜けたばかりの毛が付着していて、手元で騒がしく囀っている。
(この大きさなら丁度良い餌に成る。紐は、無いから蔓草で縛ってやろう。)
俺は左手で背中の装備品やツルマキを回収し、腹袋の空き袋に二匹の雛を詰めつつ木の下から移動し始めた。
まだ廃墟の全貌を知るには探索不足だが、ほんの数分前に近くの廃墟屋上から廃墟遺跡の大よその広さを確認した。これから餌を仕掛ける為に廃墟遺跡と森の境界付近で手頃な場所を探す。これまでの道中は先に進む事を優先して獣を捌く事すら控えていた。今なら獣の群と遭遇次第機器を置いて狩りに集中できる。
着た道を走って戻り、今度は廃墟と森が混在する外周部を探索し始めた。俺は途中で手の届く範囲に生えた蔓草を採取し、歩きながら即席の縄を作る。
三つ編みや四つ編みの様な立派な物は要らない。飛べない餌が自力で抜け出せなく、かつある程度自由に歩きまわれる長さが有ればそれで十分だ。
俺は周囲を警戒しながら蔓草を強く引っ張り即席の首輪を完成させると、腹袋の脇から雛を一匹ずつ取り出して小さな首輪を餌の首に固定する。
(加減が難しい。窒息させると罠に成らない。緩く絞めると外れてしまう。いっそ足にでも結んでしまうか。)
遺跡廃墟と森が混在する外周は、植物の侵食により瓦礫と化した元廃墟遺跡の墓場と化している。成長した樹木の幹や根により崩れた石材が腐葉土の地面と混在していて、組み立て遊具の様な石材が朽ちた倒木により確実に対地に沈もうとしている。
俺は頭上で多い茂る木の葉から差し込む日光によって浮かび上がった木の葉模様の地上を見回し餌の餌を探す。同時に出来たばかりの水溜りや枯れた植物の残骸が密集している場所を歩き、獣の痕跡を探しながら廃墟近くの林を歩き続けた。
外周を探索し始めてから十五分ほど経過した時、ようやく新しい獣の糞を発見する。発見場所では十メートル以上高い広葉樹が林を形成しているが、比較的開けた場所なので獣道から見やすそうな場所なのは間違いない。
俺は手頃そうな直径十三センチ程度の岩石を拾い、腹袋脇の小袋に入れた餌を繋ぐ蔓草の先端を石に結ぶ。そして餌の二匹と石を名称不明の雑草が生えた木の根元に置き、捕獲した跳ね虫を餌に食わせてから足跡を残さぬようその場から静かに離れた。
草むらに這い蹲り、台床から外したツルマキに狩猟矢を番えながら獲物が現れるのを待ち続ける。この間にやるべき事は何も無く、ただ親鳥を求めて鳴き続ける雛の声を聞きながら獲物を待った。
ツルマキを持つ左手を顔の前に伸ばした状態で身動きせず、餌が疲れて鳴き止んでからも待ち続けた。日が傾き木の陰と這い蹲る俺の体が合わさった頃、日当たりが良い枯葉道の反対側に在る枯れ草の薮が揺れ始めた。
飯が来た。そう思い息を殺して獲物が出て来るのを待つと、薮の中から全高が一メートルを超える黒緑と枯葉色の毛が波模様に見える四脚型牙獣が現れた。
(森荒し一体だけか。群から逸れたのか、それとも追い出された個体だろうか?)
森荒しは森没界に住む獣の代表格だ。基本的に特定の雄個体が牛耳る雌と子供で構成された集団を形成していて、植物や甲虫含め小動物を食らう森の掃除屋でもある。若い雄は群を統率できねば追い出されるので、当然単独行動する森荒しの大半が雄だ。腹が減れば人間さえ襲うので、害獣監視隊が森から出た個体を優先的に駆除している。
森荒しは地面の枯葉道を嗅いで真っ直ぐ餌の方に近寄って来た。餌の雛は急に現れた森荒しから逃げようと草むらを揺らしているので、当然餌を発見した森荒しは鼻息を荒げて口から涎を垂らし始める。
(型と首の筋肉が厚いから狩猟矢で狙うとしたら頭蓋の中心辺りのみ。心臓や内臓を傷つけなければ保存食が作れる。逃す訳にはいかん。)
森荒しは木の根元で揺れる多年草の中に口上の鼻を突き出し、前足で邪魔な草を掻き分けながら餌を探していた。岩石に蔓草で結ばれた二匹の雛を見つけると、瞬きする間も無い速さで口を開き草の中へ頭を突き出す。
森荒しは三つの爪が枝分れした前足で蔓を踏みつけ、貴重な肉を咀嚼しながら歯で邪魔な蔓草を切り離した。噛み付き咀嚼してから首を挙げて肉を飲み込むまでが早く、俺は草むらで鳴き続ける餌が食われ咀嚼される瞬間を狙う。
俺はゆっくりと引き絞っていた狩猟矢を右手から離した。狩猟矢は真っ直ぐ狙いどおりの場所に飛び、餌を右前足で地面に踏みつけて食事中だった森荒し前頭部に深々と刺さる。
少しだけ痙攣した後、左側に倒れた森荒し。一撃で絶命したらしく手足が痙攣したままで、口から涎交じりの地に汚れた羽毛をこぼしている。
俺は狩ったばかりの獲物に近付き、腰帯から黒い刀身の鋼鉄製ナイフを取り出し解体を始める。久しぶりに纏まった量の獣肉が手に入ったので、今晩は廃墟で焚き火をしながら肉の味を楽しもうと考え始めた。
森荒し。砂荒しと同種の四脚牙獣。砂荒しと違って胴体が大きく、茶色と灰色の体毛を有する森の獣。砂荒しより足が遅いが体は大きい。寿命も長く最長で三十二年ほど生きた個体の剥製がどこぞの博物館に展示されてある。
砂荒しと決定的に違うのは保護色と地肌の色ではなく、骨格構造及び筋肉繊維が太い点だ。森熊ほどではないが首が短く爪の毛が蹄の様に硬質化している。体毛が季節によって生え変わるので、冬の時期は若い森熊だと誤認されがち。
枯れ草や枯れ枝が燃え灰色の煙が室内の天井へ上ってゆく。その煙を目で追うと赤く照らされた白い壁の上が黒く見え、目を数度まばたかせたら炎の光で遮られた星々の瞬きが見に映った。
俺は再び視線を焚き火へと戻し、折った枝に刺した森荒しの肉を順番に見て焼き加減を確認する。
「もも肉は焼けたのか これだけ表面を焦せば十分だろう」
枝に刺した肉塊を枝ごと取り、焼けて黒ずんだ肉の表面に顔を近づけて匂いを嗅いだ。肉脂と生木の匂いが部屋中に充満しているが、やはり獣肉を焼いて飛び散る油の勢いは衰える事を知らなさそうだ。
俺は熱いもも肉に齧り付き、火傷しそうな熱を無視してそのまま肉を貪り始めた。咥内に広がる肉汁とばらけた肉繊維が大量の油を吐き出し、焼く事で何時もの苦味が消えほんの少しの酸味と塩気だけが俺の味覚を支配しようとする。
上手いと何度も言いながら肉に齧り付き、あっという間にもも肉の一部分を胃に納めた。勿論焚き火の周りには他の部位の肉を刺した枝が有るので、咥内に残った余韻を懐かしむのはまだ早い。
今の時刻は午後七時半くらいだろう。食料調達の為に多くの時間を費やしてしまったので、今日の探索は諦め食事と保存食の調理を行っている訳だ。椅子代わりに座っている甲殻虫の様な石造の後ろに有る剥いだ皮に、森荒しの肉を内臓ごと切り分け詰めた状態で保管してある。この肉や内臓を燻製にして背嚢に詰め込めば、当分人間用の味気ない非常食を口にする必用は無くなる。
俺は足元に蔓草で束状に結わえた枯れ枝の束を一束焚き火に放り込む。生木ではなく枯れ枝なので直に火が移り、さほど時間を要さず火達磨の束へと姿を変えた。
(雨季前だから乾いた枝や葉が多い。雨が降ってなかったら火を熾す場所を探すのに手間取っただろうな。)
焚き火の周囲には燃料用に拾った枯れ枝や落ち葉以外にも、採取したつる草の束や折ったばかりの枝を置いている。火に近づけて乾燥させるのが目的で、ほぼ全てを燻製肉を作る為に使う心算だ。
「上手い やはり背肉は格別だ」
俺は硬く繊維質で切断するのも難しい肉を咀嚼しながら、今居る遺跡廃墟内の一室を見回して壁に書かれてある壁画らしき装飾絵を鑑賞する。
(ヤマダ爺が記録した写し図とは違う。果実樹らしき複数の樹木が書かれて有るが、記録用の壁画と言うより古い公衆便所に書かれていそうな壁絵と似ている。人間用の便所跡で食事をするなんて考えただけで吐き気がしそうだ。天井が崩れ落ちてなかったら穴が開いた床が残っていたかもな。)
長年の風雨による影響で周囲の壁が石材むき出し状態で晒されている。かつて壁を保護していた内張りらしき壁布は、周囲に転がる石材と同様に瓦礫の下に埋もれてしまったようだ。丁度焚き火の煙で見づらい位置の壁だけがまともな状態で残っていて、上に残っている天井の一部が壁紙に雨水が浸透するのを防いだのだろう。
(泥岩か砂岩の石材だと思ったが違うな。どこぞの遺跡から運んだ人工石材を失われた錬金術で加工して建材として流用していた可能性が有る。そうでもなければこれほど精巧な石像を造る事など出来るはずが無い。この都市遺跡は北方山脈内で未完成のまま封じられていた遺跡塔と同じ時代に建てられた街なのだろうか?)
俺は肉を串の枝ごと口に銜え、尚且つ考え事にも耽りながら燻製肉製作の準備を始めた。
(暗黒期初期の事だから獣人国家と関係している筈。なのに遺跡を歩いて見かけたのは獣人ではなく獣や他の生物石像ばかりだった。建築様式が違うだけと結論付けるにはまだ早いな。)
肉の中心を杭で穿ち開けた穴に蔓草を両端に結んだ太い枝を差し込む。そして焚き火の上に拵えた即席物干し台の物干し竿に枝を差し込んだ肉を吊るすと、また背後から肉片を取って穴に枝を刺す。
「あぁいかん 早く食わんと焦げてしまう」
俺は手元と口の動きを加速させつつ、左の壁際に積み上げた枯れ葉や木の実の山を崩し火に入れる。森には朽ち逝く倒木が多く、燻製用の木片の入手に困る事は無かった。
微生物に分解された木片には森荒しの血液を吸わしてある。これが燃えると獣因子が酸素と化合して重酸と呼ばれる不活性粒子が発生するので、手っ取り早く燻製表面の獣因子を炙って細胞ごと固めるのに適している。
俺は食事を継続させつつ、壁の隙間に挟んだ木の枝に燻製肉を吊る作業を繰り返した。途中で焚き火の勢いが強まったり消えかけたりしたので調節に苦戦したが、およそ三分ほどで森荒しの毛皮の上が片付いた。
後は継続的に弱火を保ちつつ、木片や枯葉等を少しずつ入れ灰色の煙で炙り続けるだけだ。石の下や倒木の内部で見かける甲殻虫の石像に座って枝で灰を除去していると、干乾びた死体が放つ独特な匂いが背後の通路入り口から空気に運ばれて臭って来た。
(獣の匂いではない。煙と焚き火の灯りで何かが近寄って来やがった。)
俺は戦闘を想定して、腰帯や腹袋と矢筒を体に装着してから手早く鉄帽の紐を結んだ。最後にツルマキを背中に背負うと調理場から出て、足音を発てないよう静かに石畳の廊下を移動する。
(遺跡廃墟内に獣が生活している痕跡が無かったから可笑しいと思っていた。どうやら寺院遺跡周辺の廃墟を根城に活動している輩が居るようだ。獣を狩り尽くして何をしているのかは解らない。直接捕まえて喋らせてやろう。)
足の指先から突き出た鉤爪状の爪で平たい石材を引っ掻かないよう走るのは難しい。俺は体を前に傾けず小走り状態で壁と一体化した石階段を上がり、壁と天井の一部が崩れて大きな窓が出来ている場所へと移動した。
日が沈んでから既に二時間程度経過している。柱や壁に使われていた石材の瓦礫が散らばる二階通路の壁際まで来てみると、森の中から建物内へ流れ込む冷たく湿度が高い空気の流れが肌を冷し始めた。
建物内の気温が元から低かったのも関係しているだろう。俺は焚き火によって形成された空気の流れから、継続して干乾びた乾燥死体の匂いが周囲流れて来ていると判断。ゆっくりと崩壊した壁の端から顔を出し、視界を熱視に切り替えて周囲の林の様子を覗く。
(数は五体だが全部じゃないな。あの体は森荒しと似ているがやけに動きが遅い。そもそも草むらや薮に隠れてないのに何故低速で接近して来るのだ? まるで匂いで餌を探す野豚の様だ。)
廃墟の周囲は何本かの広葉樹と土に還りつつある倒木が混在している。森の中でも比較的見通しが利くのでこの場所を選んだが、白と黒の二色で色分けされた風景に映る接近中の獣集団が来る事など想定していなかった。
俺は下の階に有る入り口を目指してゆっくり進んでくる獣正体を知る為に、瞬きを繰り返して視界を通常視界に切り替える。そしてそのまま顔だけを崩壊部の端から出しながら、目が夜に馴染むのを待った。
周囲の風景から闇が薄れ、森の色とは違う緑色の彩色に覆われた森がゆっくりと世界と同調する。ほぼ同時に目の焦点を合わせて観察し続けていた獣らしき存在が闇から浮かび上がり、正体不明の四脚型牙獣の姿に言葉を失う。
(毛が無い口だけ頭の獣だ。おそらく夜行性で目が退化したかのか聴覚器官で周囲を認識しているのだろう。海洋生物や虫なら似たような奴が存在するが、いったい何処から来たんだ。)
俺は夜目で周囲を観察しつつ、建物に近付き死角内に入ろうとしている一匹の獣を目で追った。
姿こそ見覚えは無いが地面を嗅ぐ様な仕草から餌を探しているに違いない。そう判断して獣達が地上に残った血の匂いか一度煙ごと舞い上がった肉油の匂いに引き寄せられたと仮定し、自分の食料を守る為に二階廊下から地面へ飛び降りた。
俺は石板系状の扉が倒れ開け放たれた入り口の左横に着地し、上体を起こすと同時に腰帯から二振りの曲刀を両手で引き抜く。そして短く呼吸を整えてから数歩先に居る一匹へ走り、体長が一メートル半を超えている白い体表の獣の顎を蹴り上げた。
重い木の廃材を蹴り上げたような感触と共に、右足の鉤爪が獣の喉に食い込んで気管支を引き裂いた。そのまま蹴り上げて頭を捥ぎ取ろうとしたが失敗し、俺は右足を引き抜き素早く後ろに下がる。
(数が多い。何処かの廃墟遺跡にこれだけの数が隠れていたようだ。どうりで獣が居ない訳だ。)
俺は悲鳴すら叫べず出血多量で動かなくなった獣から視線を移し。森の中から続々と現れる獣の群と、俺に向かって走り出した獣を目で追いながら体を動かした。
一歩前に踏み出した右足を軸に体を左に捻り、鋼鉄製の湾曲した刀身を振り上げ獣の首を狙う。振り上げた際に刀身方向を入れ替えたので、助走をつけて跳びかかって来た獣の軟らかそうな首を真上から両断。今度は左足で別の個体の顔面を押し潰し、倒れたその個体を踏み台にして次の獣を狩る。
数が多いので手加減はしない。俺は囲まれる前に森へ入ろうと建物傍から走り、噛み付こうと跳びかかって来たり体当たりで転ばそうとする獣の関節や急所を引き裂き行動不能にする。屠殺武器として鍛えられた大振りの曲刀が肉に食い込み、刀身が無い肉厚の反り部分で弱点らしき頭を強打して気絶させた。
戦い始めて十数分が経過したが、拠点廃墟の入り口前に獣の死体畑が出来ても獣達の攻勢は続いている。俺は名も知らぬ獣が相当飢えていると直感し、獣の濃密な血の匂いが充満した林の中で曲刀を振り回し続ける。
(飢えた同種の獣が集まれば最終的に共食いが始まる。こいつらはそんな簡単な事も知らないのか?)
俺は真っ暗な森の中から湧き水の如く湧いて来る獣相手に食欲すら忘れ、ただ生存の為だけに曲刀を振り回す。振り回している最中に黒い二振りの屠殺武器に名前を付けたことを思い出したが、肝心の名前を思い出せない。しかし直接刃を通す事で名称不明の獣が、洞窟の様な一日中光が当らない場所で暮らす獣と似通っている点を見い出せた。
外皮が柔らかく分厚い皮下脂肪に包まれた体。水棲地上類らしく外側に伸びた脚と吸着質な手足。眼球が白く染まり光に対する感受性が異常なほど高い可能性。そして乾燥し干乾びた皮膚が剥がれ易く脱皮する皮で覆われている点だ。
(戦いの場所を移そう。おそらくこいつ等は群棲生物の末端個体だ。何処かに巣が有るからその場所まで案内してもらおうか。)
俺は腹袋から閃光玉を取り出し、すれ違い様に乾きざらついた獣の背中に閃光玉擦らせて発火させた。瞬間的に瞼を閉じ白く燃焼し始めた閃光玉を手から捨てると、そのまま光を背に名称不明の獣が現れる森の中へ駆け出す。
「言っても解らんだろうが邪魔だ」
曲刀の先端部を獣の目や首筋に刺し、皮下脂肪と白く干乾びた皮ごと引き裂き続ける。獣達の間を走り抜けながら手当たり次第切り裂き、森の中で帰り道を迷わないよう目と鼻で判る痕跡を残した。
それからおよそ三十分程度の時間が経過しても、まだ戦いは続いている。俺は曲刀の刃が欠ける事を恐れ。途中から曲刀を殴打武器として殴り続けながら森を東へと一直線に走っている。
装備が探索時より軽い所為で拠点の廃墟から遠く離れた場所まで来てしまった。今だに木陰や薮から謎の獣が現れるので、巣穴への進路から外れてはいないようだ。
また前方に獣らしき丸い輪郭が見えた。それは先程まで相手していた獣より一回り大きく、体表の色や形が大きく異なっている。俺は直に別の個体だと判断し、走るのを止めて近くの木陰に隠れた。
(親玉の登場かもしれん。巣穴から出て来たのなら相当大きな穴なんだろう。)
俺はユカリとアカリを腰帯に挿し、背中からツルマキを手に取り静かに準備を始める。
森の中をゆっくりと歩く大型生物は、骨格形状だけが末端個体と似ている。やや首が短く顎の上には一般的な肉食獣と同様の面が有り、白く濁った目がしきりに動いている。
(甲殻とは違う肌だな。脂肪が変質して硬化した外皮に似てる。体毛が無いのと太短い尻尾は同じだ。)
ツルマキに杭を装填した後、場所を移し薮の中で大型生物が通過するのを待った。全高が二メートルと少し、全長が五メートルを超える獣には護衛らしき末端個体が同伴しているので、俺は対象の頭蓋骨に杭を深く刺してから静かに射撃地点を後にした。
閃光玉。光に敏感な獣目に効く事から探索者の間で目潰し玉と呼ばれている。主に衝撃発火方式と直接着火方式の二種類が有り、俺が使用したのは直接発火方式の目潰し玉だ。
拠点から一時間以上東へ移動した結果。俺は森に覆われた小高い丘の斜面に開いた墓地らしき場所に辿り着いた。丘の斜面に開けられた入り口は切り出した岩で形作られており、板状の大岩が並んでいるので所々崩れている。
俺は腹袋に入れておいた照明具に光を灯してから根が垂れ下がった入り口へと入り、現在地下深くへ続く石垣階段を真っ直ぐ進んでいる最中だ。
この場所を見つけた当初、俺は入り口の大きさから謎の獣達の住処だと疑った。確認も兼ねて直接内部に入ってみるとその答えは正しかったと判断できる証拠が見付かり、こうして泥や獣の血液が大量に付着した石階段を下っている訳だ。
(空気が澱んでる。この場所しか空気の通り道が無いのだろう。)
入り口近辺の壁や天井には、雑に加工された石材同士の隙間から根が垂れ下がっていた。入り口から十メートルも進むと根が無くなり、二十メートル以上進むと息苦しさを感じるようになった。
直線状の階段通路際下段に到着したので、俺は広い地下空間の入り口から高い天井を支える支柱の列へと視線を向ける。
「こんな場所が在るなんて聞いてない 獣の巣に使うなんて勿体無いな」
高さ十メートルはくだらない天井と横幅が二十メートルは有るだろう室内。奥の壁が闇に包まれているので奥行きは解らないが、廃墟寺院と同じく精密に加工された人工石材を隙間無く重ねた建築技術で構築されてあった。
俺は剥がれた白い皮の残骸や糞尿らしき固形物等が染み付いた床を歩きながら天井を見上げ、想像より異臭が少ない事に気付いて立ち止まる。
(土が少し暖かい。それに排泄されてから固まった糞の方が熱を帯びてる。何かしらの微生物が分解しているなら此処はまさしく巨大分解槽そのものだ。)
大抵この様な場所には腸内寄生虫の卵や有害物質の粉塵が溜まっている。俺は十期程前まで住んでいた旋風谷の番人小屋を思い出し、乾燥した排泄物などを撒き散らさぬようゆっくりとした足取りで進み始めた。
緑色の光が直方体を複数繋げたらしき四角柱の列を照らすと、当然柱の外側に位置する側壁に四角柱の影ができる。直線状の影の中に輪郭が鋸状に歪んだ部分が有り、俺は不審に思って入って右側の壁を見ようと柱の列の間へと進む。
「なんて大きさ これが古代の壁画だと言うのか」
光量を上げ強く輝く緑色の光に照らされた壁画。人工石材の壁一面を使って刻まれた彫刻の壁画には大小様々な溝や凹凸が有り、照明の光が当たらず生まれた影部分が上部の天井際に集中している。そして肝心の壁画には森に住む獣達や小動物の姿が描かれており、目や果実等の部分に埋め込まれた宝石らしき光物が緑色の光を反射し輝いている。
(獣の楽園と言うより森の生態系そのものだ。小動物や甲虫を捕食する森の生物。大地に埋った骨と鉱石らしき物体。獣人や人間の姿が無いのは意図的に除外したからか?)
俺は堆積物を巻き上げないよう慎重に歩き、目の前の壁画に近付いた。壁画を真下から見ると正体不明の彫刻作品にしか見えず、全体像を見るため後ろ足で遠ざかる。
壁画の縦幅は床より少し高い位置から天井下までのおよそ八メートル。横幅は縦幅の二倍以上ある。そして目の前の壁画の左右にも別の壁画が有り、右側の壁大部分を活用して製作された三つの壁画を視界に収めた。
(一つ一つが違うが、どちらも獣主体の壁画らしい。右隣の壁画は森の様だが左隣は地形が違うぞ。)
俺は等間隔に並んだ四角柱を左手に、右側の壁画を見ながらゆっくりと空間の奥へ進む。相変わらず床には見覚えの有る白い皮片や老廃物がこびり付いていて、それらが乾燥した粉と植物片等が両足に付着してしまう。
(近場に水辺が有ればそこで洗おう。臭いがこびり付かないとは言え、足や血染めには悪い。)
森を題材にした壁画の左隣は海岸線か川辺含めた湖畔沿いらしき水場が左半分を占める水棲獣達の壁画だ。殆ど凹凸が無い堆積岩層の様な表面で表現された水から顔を出す水棲獣達と、少ない陸地の林や草地から顔を出す小動物含めた獣達が対面した構えだ。
(獣の瞳や爪と反射し易い物を宝石で表現している。全部に光物を使わず琥珀石や磨き玉で色を強調させたのか。倉庫にしては勿体無い程の壁画だ。おそらく宝物庫か墓として使う予定の地下空間だったのだろう。)
壁画はどれも生体系を題材に構築された写実絵らしく、人工石材を何等かの技術で削った代物だと推測できた。今日の石像製作や修復業界では、研磨切削機械と腐食液を使用して被写体を実物どうり再現するのが流行りだ。百名以上の職人を雇えば同じ壁画を再現できるかもしれない。
そう考えながら入り口が有る壁から六十メートルほど奥まで進むと反対側の壁が見えた。俺は一旦天井を支えている二列の石柱の間まで戻り、奥壁の壁画に大きな四角い影を投影する黒い岩石を利用した石碑へと近付く。
「石碑と槍 まさに謎解きの組み合わせだな」
俺の身長より若干背が高い石碑。黒曜石や黒大理石を加工した記念碑と似ているが、削り跡すら無く真っ直ぐ切り出された断面と刻まれた文字列から人工石材を加工した記念碑だと推測できる。俺はその石碑より長く柄が真紅の槍の前で止まった。
槍は骨董品や工芸品として取引されている古い武器そのもので、埃こそ被っているがそれ以外に汚れが見当たらない。銀色の光沢を放つ肉食魚の様な刃が人口石材の床に深々と刺さっており、槍の周囲だけ埃以外の堆積物が無いではないか。
(床に刺し台の様な隙間は開いてない。と言うより床と一体化している様にも見える。仮に強引に差し込んだとしても人工石材に亀裂が走る。もしかしたらこの槍先の金属部分に人工石材を容易く切れる機能が有るのかもしれん。壁画の間に何かしらの手掛かりが残っている可能性が高い。)
この場所を壁画の間と勝手に呼称した俺は、先程から視界内にチラついていた記念碑へと目を移す。石碑は入り口から直進して反対側の壁近くまで進んだ位置に有り、黒く変色した青銅色らしき碑文には四行に別けて長い文字が刻まれてある。文字の彫り具合から察するに、熟練の石工職人が刻んだ碑文では無い。どちらかと言えば人工石材を加工する職人の見習いが掘ったような粗雑さが垣間見える。
「部族旧言語の全角文字 これなら読めるぞ」
俺は槍に関する手掛かりが得られると期待して、白爺と古文書を活用して独学で学んだ全角文字を目で読み始めた。
(私の名はカシミーラ・アライヤ。先祖代々森没界に封じられた禁断の聖域を守る最後のアライヤ。アライヤ一族が守った聖域が地に埋もれてから千三百年。守護者アライヤの血族は分裂と内乱を繰り返し私だけになってしまった。既に古の時代まで五つの聖域を守っていた五つの守護一族は蜃気楼と成り果て この槍と共に与えられた責務を果たす能力も無い。いずれ私も獣神の加護を失い聖域を放棄した者共と同じ末路を辿るだろう。
先代からアライヤが守ったケンタウロ墳墓が火山灰により街ごと埋もれたと聞き、私はその場所を突き止めようと森を彷徨った。戦乱と飢餓で苦しむ者達を盗賊や獣から守り、同志や戦友と共に戦場さえ渡ったが見つける事はできなかった。
老いた私は己の腕で槍を振るう事すら難しくなり、アライヤ一族のみに与えられた修練場で朽ち果てようと決めた。アライヤ一族に受け継がれし獣の呪いを解こうと砂漠を放浪していた時期に出会った親友にこの修練場を塞ぐよう託し、最後に残った呪いの力で槍を操りこの墓標に我々の遺言を刻む。
赤き神槍を握る新たなアライヤ。獣人でも始祖族でも無い不完全な己を呪え。槍を手にした獣は我等の祖ケンタウロに導かれる。槍に拒まれし者は灰塵に、選ばれし獣は呪われ、最後は制した使い手だけが残る。この槍は数多の獣を殺してきた。ケンタウロを求めるなら起さないよう注意すべし、そして我等の悲願を叶えて欲しい。)
槍を前にしながら一切触れず、先に碑文から読んで正解だった。碑文に刻まれた荒削りの全角文字は簡略化されてない素文。当時は読解補助に用いられた横線や区切り点等の記号が登場してなかったので、記述内容が正しいのなら千三百年近く前に製作されたアライヤ一族の遺言状で間違いない。
俺は碑文の内容を思い出しながら赤い槍を見つめ、指先が触れないようにゆっくりと右腕を伸ばす。
「やめておこう 白爺が触れたかどうかは知らんが わざわざ残したのだからそれなりの事情が有るはず
今は壁画の調査を優先しよう」
全身の毛が逆立ち右腕が微かに震えてからようやく体の異常に気付き、俺は怖気づいて離れるように後ずさった。そして少し早い呼吸を意識しながら槍だけを見つめ、目の前に在る材質不明の何かで製作された可能性が高い壁画を調べようと思考を切り替える。
(英雄の子孫が事実かは不明のままだが、白爺はカシミーラから託された知り合いの子孫に案内されたはず。残っていた死体はカシミーラ本人か盗掘者の死体だろう。白爺が死体を回収したのなら安置先は聖柩塔か子孫の墓か、それとも焚き火の燃料代わりにして灰にしたか。)
遺言に書かれた最後の文面を気にしつつ、俺は石碑を通り越し奥の壁に見える壁画が観察しやすい場所へと移動する。この地下空間に住み着いていた謎の獣達は石碑と槍に近付かなかったようだ。石碑から数メートル離れただけで乾き粉末化した糞等の堆積物で床が見えない。
「修練場にしては随分広い 埋もれた都市が健在だった頃はよほど繁栄していたに違いない」
俺は石碑の奥側の壁両側を見渡しながら立ち止り、奥の壁に出入り口や扉が無い事を確認。そして目の前に有る謎の獣達らしきを刻んだ壁画を見つめる。
(大穴蔵や砂竜らしき獣が居るが他の九体は何だ? 絶滅した幻獣か原始獣だろうか。これはオルガやヤマダ爺に見せるべき案件だな。)
森を背景に描かれた十一体の獣達。中央のやや上に配置された森の丘に佇む長い髭と毛が特徴の草竜らしき獣を中心に全部で十種類の獣達が森の丘を囲んで配置されてあった。
俺は丘に佇む獣の周囲に散りばめられた光る鉱石類から、それらが後光の様な表現だと推測した。目の前の遺産が聖獣伝説に登場する森の王ケンタウロを描いた壁画なのは確かなので、背嚢に入りきらず腹袋に入れていた携帯型撮影箱を取り出し、凸レンズを調整して被写体を枠内に収め数枚の写真を撮影する。
照明具の緑光と白い閃光が合わさり幾つかの宝石らしき物体が輝く。ベルマールシャボテンで入手したダイヤより大きな光物が埋め込まれていて、彩色硝子と同じく色分けされ配置されてある。
もし俺が盗掘者なら、今頃手が届く範囲に埋め込まれた宝石や貴金属をナイフで剥ぎ取っているだろう。白爺がこの場所を訪れてから荒らされた形跡が無いので、森を荒らす謎の獣を駆除する前に入り口を塞がなければならない。
(俺の探索目的は寺院遺跡とその周囲を調べて枯死獣の生き残りが居る可能性を調べる事。色々気がかりな事ばかりだが、まだあいつ等の駆除も終わらせてない。まぁこれをオルガに見せれば調査隊を動かす口実に成るだろう。他の壁画を調べて、燻製が只の炭に成る前に拠点に戻らねば。)
その後。空間内の全ての壁画を鑑賞した俺は、もう一度自身の身長より長い槍とやや高い石碑の裏側調べてから階段を上がった。
地下空間は壁画の間以外に部屋は無く、通路や扉等は見当たらなかった。壁画の間が作られた明確な年代を特定する証拠も見当たらなかったが、あの槍を調べれば獣神へ至る重要な手掛かりが見付かるだろう。
俺は遺跡から出てすぐ、近くに転がっている岩石を入り口に積み上げ穴を塞いだ。貴重な壁画遺跡を再び獣の巣に利用されたくなかったからだ。俺は空気の通り穴だけ残して砂や枯葉を被せ、目印代わりに折った枝を刺してから丘から離れて狩りを再開した。
夜通し謎の獣を追って森や廃墟近くの林を探索した結果。寺院遺跡から北へ二三キロ離れた場所の岩場に大きな洞窟を発見する。洞窟は天然の溶岩洞窟だが入り口周辺に遺跡で見た獣の石像や廃墟が在ったので、その洞窟こそが謎の獣の根城だと判断した。
照明具に光を灯して洞窟を進むと、入り口から入って直に天然洞窟を削って拡張した倉庫跡らしき複数の空間に出た。俺は荒削りな空間内に溜まっている数種類の骨や排泄物を確認し、廃墟と化した都市が機能していた時代の地下倉庫を探索。何かしらの理由で地上に出ていなかった白い獣を全て殺してから調査を行った。
結論から言えば放棄されて一部の区画に溜まった水場を獣達が利用しただけの巣だった。夜の間に探索しつくし地上に出てから拠点廃墟に戻った頃に夜明けを迎えた。
俺は二十三日から二十六日までの四日間、不定期に休みながら寺院廃墟を探索し続けた。ヤマダ爺が推察したとうり都市の北側には大穴が開いた陥没箇所が幾つも有って、それらの大穴の周囲にも都市跡の遺跡が残っていた。
今回の探索で発見した多くの遺跡が、火砕流や火山灰で埋った都市と同年代の物かは判らなかった。磁気探知機や有害微粒子検知機を持って来たのは、埋っている貴金属やガス状の有害物質が検知できる場所に地下へ降りれる穴等が在ると想定したからだ。これは遺跡探索を行う上で有効な手法なので役立つと考えていたが、単純に俺の認識が甘かった。
八期の末日には城塞都市の発着場に戻る予定なので、俺は二十八日から二日間の間短い休憩を挟んで走り続け、二十九日の午後九時過ぎに森没界北側境界線に在る最寄りの探索拠点に到着する。
拠点と言っても交易路から外れた森周辺の砂漠地帯に在る集積場だった場所なので、住居用の建物よりも倉庫が多い。俺は夜時間で冷えた倉庫街を歩き、飛行船が到着するまでの間に森没界で遭遇した獣について情報を集めた。
聞き取り調査をせずとも探索者達の会話内容や、探索支部の掲示板に張られた張り紙から正体不明の獣について多くの情報を得る事ができた。俺が想像していた以上に正体不明の獣が多く出没しているようで、街中に居る筈の害獣監視隊員のほぼ全員が森へ出払っている話を盗み聞きし始めてどう言う状況か理解できた。
砂陰地方。大部族団の中央山脈南と西を含めた国の南と西側全域を指す。人工の七割以上がこの地方に集中していて、砂陽地方より緑が多く砂砂漠は中部の小砂界のみ。気候は温暖な地域が多く、年間降水量にも恵まれている。
歴史上において古くから多くの国が乱立した群雄の地であり、西からの民族流入によって国の興亡を幾度も経験した土地だ。現在も海や陸路から一定数の移民が入国しているので、一部の地域では人種が混在した特異な街が形成されつつある。
亜人や獣人も一定数居るが少数で多くは人間だ。排他的なユカリ教発祥の地なので余所者を軽視する風潮が根強く、実際に亜人や獣人より他民族への排他行動が常態化している。国は砂陽地方への移住政策を進めているが、政策浸透度より事実上の棄民政策に対する風当たりの方が強い。
文明を有す生物なら帝国の汚染猿駆除制度と同種の人口抑制策が必要なのに、部族評議会は大量の移民を生産奴隷としか認識してないようだ。
飛行船の居住区画の一部を覆う大きな硝子壁。区画外壁を支える金属骨枠に直接設置されていて、居住区画内に在る下層展望室から下界に広がる砂漠と乾燥原野が見渡せる。
俺は現在その下層展望室の右舷側席に座りながら、同展望室内の飲料販売所で買った絞りたての混ぜ合わせ果汁を飲み下界の様子を満喫している。
この飛行船はフラカーン午前九時四十五分発、太陽の塔行きの大型旅客飛行便だ。フラカーンでは商業用航空便が発着できる南の大型発着場から乗れる大型の飛行船。全長が百メートルを超える大型の単一浮遊構造が特徴で、要するに浮き袋満載の巨大風船に動力機関を搭載して旋回羽で空を進むお船そのものと言える。
後二十数分経過すればフラカーン南発着場から離陸して三時間が経過する。まだ到着するのに二時間は掛かるが、その間に今までの経緯を思い出し簡単な復習を兼ねた日誌を書く事にしよう。
俺は二十九日午後十時五分発の最終便でフラカーン南発着場へ移動し。日付が変わる直前の午後十三時五十分ごろに南発着場に到着した。発着場から都市内を結び軌道車両に乗って一等地南側に在るアイアフラウ商会支店近くの太陽樹駅に移動。同駅で下車してから商会支店まで歩いた。
支店敷地内に在る活動拠点の商会棟に入ったのが三十日の午前零時二十五分くらい。深夜の遅い時間でも店舗は一部営業しているので、当然商会棟出入り口の扉も開放されたままだった。
俺は玄関先で足裏の汚れを落としてから階段を上がり、三階北側端の部屋前まで移動して扉を開いた。俺達の活動拠点は建物内でも広い空き部屋を使っている。事務机の上で山を形成した報告書がとても目立っていたが。部屋中見回しても肝心のオルガの姿は無かった。
俺はオルガが中央山脈内に在る太陽の塔から戻ってない事を店舗内事務室に居た事務員に聞いて確認。そして拠点部屋に戻りオルガの机の上に置いてある数枚の書類に目を通した。
オルガは十日前にフラカーンを出発してから一度も戻ってないらしく、支店宛の郵送物を確認する判子の日付が書類の下側ほど古い。書かれている内容の大半が調査活動とは無関係な遺物売買記録や入札報告書等の帳簿書類だったので、俺はこの件でオルガを尋問しようと決定した。
書類の山の一部に太陽の塔に関する広報資料や調査資料が有り、俺はそれらの書類からオルガが侵入が完全許可制の太陽の塔深部へと下りたと判断した。太陽の塔は数千年以上前からあの場所に在るので、おそらく古くなり放棄された区画を調査する名目で入ったのだと考えれる。
それから書類の束を元に戻してから仮眠をとろうと部屋の床で就寝。疲れていたらしく六時間近く寝てしまったが、本日の午前五時三十三分頃に支店を出発し南発着場に移動したのだ。
「日誌はこれくらいで十分だろう 今日中にオルガと合流できればいいが」
俺は黄色い装丁の手記を羽織の胸袋に入れ、背もたれに背中を預けて椅子を後ろに傾ける。この大型飛行船の展望場は有料の憩いの場なので富裕層に人気がある。当然周囲の展望席に座っている客の多くが何かしらの宝飾品を身に付けていて、展望場に居る亜人の俺へ不可思議な視線を送る奴も居る。
(同族を飼い慣らして得た富を他種族間で共有できねば宝の持ち腐れだ。それに人足数を増やして奴隷らしく働かせれば儲けれる。俺も手法を工夫して探索家業でぼろ儲けしてみようか。いっそ獣神を追うより豪商民としての地位向上を狙う方が、いや。それは流石に駄目だな。)
俺には妥当すべき天敵が居る。あの人の形を模した化け物を殺さねば安寧を築けない。今は確固たる地位より信頼できる情報網と有益な知識が必要だ。
そう考えながら瞼を閉じ、俺はつかの間の平穏を満喫しながら混ぜ合わせ果汁を飲み干す。なにせこの船に乗れたのはアイアフラウ商会発行の身分証が有ったからだ。オルガが秘密裏に身分証の発行手続きを進めていたようで、俺の胸袋には今朝方に事務員から渡されたオルガの分を含めた二枚の会員身分証が入ってる。
(俺の身分証にはジールとしか書かれてないが、オルガの身分証にはしっかりとアイアフラウの名が刻まれている。名前を偽って入国しているに何故だ。この件も含めてオルガをどう尋問してやろうか。)
俺は鼻で笑いながら脚を伸ばす。指定商会の会員は展望場への入室が無料なので、この僅かな一時を徹底的に楽しんでやろうと意気込んでいたのだ。
それから時間が経過し、大型飛行船の旅が終盤の最後を迎える。大型飛行船が高度を下げて中央山脈内の谷間へ降下し始めた時、丁度展望場左舷側の展望席からどよめきの様な騒ぎが発生した。
何かしらの言葉を叫び慌てている客達へ振り返ると、四千メートル級の尾根が続く山々の切れ間に見える発着場近くの町から黒煙が上がっているのが見えた。俺は町の更に奥側に見える黒い棒状の建物と大穴の輪郭へと視野を拡大させ、大部族団で五本の指に入る有名な観光地で何かの事件が起きていると判断する。
(やれやれ、今度は地下に潜る前に騒ぐ群衆を突破するのか。電波施設が無事でも回線が混雑していたらオルガの通信端末や公衆回線は使えない。太陽の塔内へ行ける橋が無事だと祈ろう。)
大型飛行船は緩やかに左へ旋回し始め、予定どうりの航路で太陽の街発着場への侵入経路を進んで行く。一部が燃盛る街へ刻々と進んでいるので、周囲の乗客の中から今直ぐ引き返せと乗務員に罵声を浴びせる声が聞こえ始めた。残念ながらこの空飛ぶ棺桶には災害時等に避難民を移送する義務がある。運行会社はこの義務と運行表と重力束縛から逃れる事はできない。
俺は軟らかい低反発材が敷かれた椅子から立ち上がり、足元に置き足を乗せていた各種探索用具とツルマキを装備し始める。俺の身分はアイアフラウ商会フラカーン支店専属探索者なので、非武装の市民が居る公共施設内だろうと自衛具の持込が可能なのだ。
「これより物資搬入口で解放準備を始める 関係者以外の搭乗客は居住区画へ退避しろ 繰り返す」
展望場内で眠くなりそうな音楽を垂れ流していた音響装置から野太い声が発せられ、展望場内の騒ぎが一瞬にして沈静化した。そして棺桶。ではなくこの飛行船の船長らしき男が船内放送で避難民収容の邪魔になる積荷を破棄すると明言。事態を悟った何人かの乗客が太陽と沈んだ月の方向に体を向け、そのまま両膝を床に着けると両手を握ってお祈りを始める。
(おそらく搭乗口は開かないな。搬入口は後ろの一般居住区後方に有る。押し寄せた群衆で混雑する前に搬入口から跳び降りて、そのまま発着場から観光街を突き抜けてオルガを探そう。)
俺はツルマキを装着した背嚢を担ぎ、少し慌ただしい展望場から中央通路を通って居住区後方へと移動する。途中の居住区内一般客室では搭乗客の誘導が始まっていて、俺は邪魔な輩を退ける為に曲刀を腰帯から抜いたまま臨戦状態で移動した。
飛行船の主機関である粒子圧縮発電機止まった音が船内響いた直後。昇降台よりも緩やかな速度で垂直下降が始まった。貨物室で待機中の俺は積荷を固定する係留線を解く作業中の乗組員達に背を向け、貨物室の物資搬入口横通路で背嚢から杭等の矢種を矢筒に入れる作業に集中する。
「少し焦げ臭いし硝煙の臭いも混じってる どうやら単純な集団火災ではないようだ」
俺は胸当ての胸甲を叩いて位置を微調整しながら背嚢を背負い直す。着地時の衝撃で発生した弱い揺れを感じながら開き始めた昇降口へ向き直り、格納扉が完全に開ききる前に手摺を越えて金属板の坂道を下り始めた。
坂道代わりの格納扉で加速し、そのまま人工石材の板で覆われた発着場を走る。白い石材は所々ひび割れていて、少しだけ窪んでいる場所が目立つ。俺は走って逃げて来た数人の観光客と正反対の方向へと走り、群衆だらけで通れない正規の通用口建物から二百五十メートルほど離れた右隣の北西側通用門へと走る。
(避難誘導どころか完全に統制を失っている。これは聞こえてくる銃声だけで混乱している訳ではない。風に血の匂いが混じってる。)
発着場を囲む鉄柵外側から押し寄せる群衆が通行施設から発着場敷地内に流れ込んでいる。避難民達は人種や職種など関係無く我先に着陸した飛行船や停泊中の貨物飛行船へ走っている。子供連れの観光客ばかりか白い制服の保安隊員の姿も有り、観光街の混乱状況が回復する事は無さそうだ。
俺は車両止めを乗り越え横転した大型懸架車両を跳び越え、同じく道を塞いでいる避難民を押し退けて通用門と街を繋ぐ強化人工石材橋を渡った。通りすがりの貴族連合出身らしき数人の男女が害獣共が来ると口々に騒いでいたので、走りながら中央山脈の奥地に出没する獣の群が街を襲撃しているのだと考える。
(待てよ。こんな空気が薄い場所に獣が居るのか? そもそも山岳地帯に暮らす獣の群は少数が基本だ。幾ら人間が弱すぎるとしても、家屋から出火するほどの騒動に発展可能性は低い。武装集団が獣を使って襲撃して来たのなら別だが、いったい誰が何の為に?)
まだ遠いアカリ教砂陽地域本山の太陽の塔。あの棒状の巨大建造物は直径がおよそ二百八十メートルの大穴中心に聳えている。穴の深さは三百メートルに達するらしいが、人為的に掘られた大穴は貯水池として水が溜まっているので底がどの様な状態なのかは解らない。なので塔の高さは七百メートル程度だろうと推定されているが、埋没部分の基礎から頂上まで何メートルなのか定まっていない。
俺はその遺跡を囲む大穴外縁通りと通じている観光通りの入り口に到着した。通りには十メートル程の道幅に三階や二階構造の半煉瓦造りの建物や木造住居が建ち並んでいるが、普段なら観光客が行き交っても余裕がありそうな道幅が多くの群衆で埋っている。
避難民の洪水に逆らって塔の下まで行くには時間と労力が掛かりすぎる。俺はそう判断し右側の白い塗装の建物脇に積まれている木箱を足場にして屋根に上がり、そのまま煉瓦や土壁の屋根を走る。
(黒煙を上げているの大穴外縁の道沿いに並ぶ建物からだ。登頂客相手に売る何かしらの商品も燃えてそうだな。オルガさえ燃えてなければ、あの程度の炎などちょっとした火遊び感覚で通り抜けれる。)
騒動の発端が不明のまま屋根伝いに観光街の大通りを走り、一分程で観光街の中間地点を越えた。太陽の塔周辺の尾根から吹き下ろす冷たい風に焦げ臭いに臭いと血の匂いが混在していて、薬品を大量に燃やした様な刺激臭も混じっている。
「発泡体を燃した様な臭いだな 長時間空気を吸うと害を受けそうだ」
俺は降雪対策で角度をつけた屋根の上に止まり、背嚢を降ろして中ならガスマスクを取り出した。
通りを走って逃げる輩は少なく、今更顔を見られても困りはしない。しかし顔を隠してから火災現場に入ったほうが後の面倒事を防げるのも確かなので、俺は血生臭い喧騒を前にガスマスクを装着してから鉄帽子の紐を硬く結んだ。
屋根から通りへと跳び下りてから再び砂地の大通りを北北東方向へ走る。この辺りに居た連中は殆ど発着場に非難したらしく、大通りは完全に無尽状態だ。目撃者が居ないので亜人特有の脚力で地面を掘り返しながら走っても、後から文句を言われる事は無い。
観光街の発着場側入り口から一キロ近く走り大穴付近の通りへ急いでいると、前方に見える交差地点の十字路から銃声が連続して響き渡った。俺は足を止めずに大きく跳躍して左側の建物屋上に駆け上がり、波状の金属板を張り合わせた小屋の屋根を走って現場へと急ぐ。
(小銃の発砲音。確か警察機構の部族保安隊の装備火器だったな。何者かに対し一方的に射撃しているようだ。)
俺は十字路と接する石造りの二階建て倉庫屋上で足を止め、屋根の湾曲部分から顔だけ出して下を見た。
七メートル程の眼下では、白い歩哨制服を着た四人の部族保安隊員が西へ伸びた道から迫って来る獣らしき生物集団を撃っている。小銃弾は街中での使用を考慮して中空構造弾が採用されているので、始めて見た灰色の甲殻獣らしき生物相手に押され気味だ。
(背中の甲殻が少し焦げた個体が居るが、あいつ等が街に火を着けた訳ではないらしい。数が多過ぎてももうじき弾が無くなるだろう。今の内に発着場へ逃げないと取り残されてしまう。)
道を挟んだ反対側の家屋までの距離を目で測ってから、歩いて倉庫屋根の反対側まで後ずさった。下で戦っている保安隊を助けても利益は無いので、太陽の塔で他の観光客と共に篭城しているだろうオルガの下へ急がなければならない。
俺は激しい銃声で聴覚が麻痺する前に倉庫屋根を走って跳びあがり、六メートル程の道幅を越えて反対側に位置する人工石材製の二階建物屋上に着地した。
(射撃に集中しているから、頭上を跳び越えた存在に気付く余裕は無い。せいぜい時間を稼いで獣共の注意を引き付けてくれると助かる。)
そう考えつつ再び屋根伝いに通りを走り始めた。最も近い火災現場まで四百メートルも無いので、炎と煙で熱せられた空気により局所的だが風向きが変わっている。そして化学薬品が燃えるような刺激臭が含まれているだろう空気を肌で感じ、俺は先程目撃した獣の姿を思い出す。
(金属光沢らしき艶やかな灰色の甲殻を有する蟲か。神の園の蟲の丘なら或いは。この近くに甲殻獣含めた蟲達の生存圏は無い。持ち運ばれたにしては数が多過ぎる。何処からか湧いて出て来た可能性が有るな。)
銃声が止んだ十字路から百メートル以上離れると、再び屋根から跳び降り椅子やら布等の落し物で散らかった大通りを走る。最も近い火災現場はこの大通りを抜けて右折した大穴外縁部右側辺り。丁度太陽の塔へ架けられた長い吊橋が在る場所だ。
俺はその火災現場の通りから大通り内へ続々と侵入して来る謎の蟲達を視界に入れ、左腰の腰帯に挿した曲刀を右手で引き抜いた。そして対象との距離が詰るまで足を止めず走り続け、多関節四足で走って来た最初の獲物に対し渾身の右足蹴りを食らわせる。
二本の長い触覚から鋸状の脚部先端まで灰色の甲殻で覆われた一匹が大きく後ろへ引っくり返った。湾曲率が少ない背中だと体勢を復帰させる事は不可能らしく、俺は大通りを群れ成し迫って来る蟲を一匹ずつ転ばせ続けた。
(小型種だが重い。こいつ等全てをひっくり返すと体が負担に耐え切れん。触覚か複眼を潰すか、或いは足の関節を砕き無力化して放置。此処で足を止めていれる猶予は無いぞ。)
俺は何かを砕く為に肥大化した二本顎に挟まれないよう注意しつつ、右手で曲刀を振り回し左腕で蟲の一部を掴んで捥ぎ取り握り潰す作業に集中する。
人間の群衆でも前が詰れば後ろが止まるように、先頭の個体を動けなくさせるとその背後が詰って押し合いが始まる。俺は小石程度なら噛み砕けそうな顎を掴んで頭部ごとひっくり返すのが最も有効だと気付き、己の力だけを頼りにあえて虫達の行列に身を入れた。
押し押されながら奮闘し始めてからおよそ三分程経過し、始めの接触位置から五十メートル程下がった位置でなんとか蟲の行進を止める事に成功した。俺は引っくり返った灰色の虫達等で構成された障害壁をよじ登り、まだ後に控えている蟲を曲刀で処理しながら蟲達の腹や背を踏みつけ通りを進む。
(これだけ相手にすれば集団が他の道へと勝手に別れるだろう。時機に此処へ火が到達する。それまでに橋か空中軌道発着所へ移動して塔の中に入れば俺の勝ちだ。)
俺は頭を落として動かなくなった個体の背に乗ると、灰色の硬い甲殻を踏み台にして通り右側の建物屋根へ跳ぶ。踏み台にしても灰色の甲殻から潰れた感触はせず、俺は玄関先の丸太屋根に飛び移ってから更に跳躍して傾斜が緩やかな丸太屋根に上がった。
部族保安隊。大部族団都市部の治安維持組織。軽犯罪から重犯罪までを独自の裁量で裁く執行権が与えられている。貴族連合の治安維持組織である自警団や進駐団と同じ活動内容で、帝国の防人と同様に都市警備が主な任務。
大部族団には法執行制度の監察官制度が無いので、統一暦施行当時から現在まで貴族連合から派遣された各種監察官が各種行政の組織監察を実施している。砂陽地方では都市内行政区にのみ庁舎が在り、平時は部族保安隊の運営は保安監察官が行っている。
黒煙を吐き出し燃盛る街並みを背に、長さ九十七メートルの吊橋を渡り始める。吊橋を支える穴外縁部の鉄塔周辺は広場になっていて、蟲達が延焼材にならなければ火が燃え移る可能性は低い。
ガスマスクを外して背嚢に仕舞った俺は、装軌車両の履帯を彷彿とさせる吊橋を走りながら、微動だに揺れない橋の上で逃げ送れた元人間達を食している蟲達を蹴って大穴の水面へ落とす。大半の個体が食事に夢中なので接近した俺に何の反応もせず、水没した大穴に落ちて着水音と共に沈んでいった。
「食い残しの殆どが肉だ 骨と骨髄しか食わんとは珍しい」
衣服ごと引き裂かれた多くの死体は赤と乳白色の肉塊に成り果てている。それ等食い残しから流れ出た赤い体液で橋の上は滑り易い。俺は何度か滑って転びそうになる度に苛立ち、その度に原因の肉塊を蹴って穴に落として苛立ちを解消する。
(数が多いだけで素手では獣に対抗できない雑魚共が。死んでからも亜人の邪魔をするな!)
丸太程の太さがある鋼線によって複雑に結ばれた吊橋は少しも微動だにしない。長さ百メートル以上の吊橋に使用する鋼線を使用しているので、この吊橋が太陽の塔入り口と大穴縁の鉄塔広場を繋ぐ唯一の道なのだ。
俺は百メートル近い吊橋を渡り終え、僅かだが黒茶色に見える太陽の塔側壁に在る唯一の入口から内部に入った。内部にも多くの蟲達が居て、螺旋階段に散乱した観光客等の死体を顎で噛み砕き骨を取り出している。
(これが太陽の塔の二重構造か。これほど巨大な螺旋構造物を見たのは初めてだ。)
俺は食事中の蟲達の間を通り抜け、返り血で汚れた人工石材の階段を上がりながら頂上を目指す。橋桁が無い吊橋の下は水を溜めた大穴の貯水池なで、蟲達が湧いたと仮定するなら太陽の塔からだろう。周囲が七千メートル級の岩山に囲まれたこの地を襲うとしたら空からだが、発着場を除いた太陽の塔周辺の空に飛行機械の姿は無かった。
(逃げるとしたらこの上か観光街だけだ。オルガが太陽の塔に残っている可能性は低い。何処かから湧いて来た蟲達に囲まれて助かる人間は居ない。生存していれば真っ先に螺旋階段を登って、空中軌道から街に下りようと考えるはずだ。)
幅が二十メートル以上ある螺旋階段は主柱側に並んだ骨組みらしき扇状の広場と面している。階段はこの等間隔に配置された基礎構造の平面同士を繋いでいて、外壁側に築かれたこの階段は厳密に言えば螺旋階段ではないかもしれない。
曲刀で道を塞ぐ蟲を排除し、階段途中や広場に築かれた即席の障害壁を越えて進む。螺旋階段の内側は中空状の空間で、金属製の手摺から落ちれば何百メートル下の真っ暗な底へ落ちてしまう。
(今のは銃声か? あぁ間違いない。上に生存者が居る。」
俺は巨大な塔の中に同じ形状の塔を有する太陽の塔内部を走る。断続的に上から聞こえて来る銃声は散発的で、上の階層から落ちてくる獣が階段下へ消えて行った。
螺旋階段を登りながらも、食料を探して階段周囲を徘徊している個体の排除を忘れない。時折壁や天井の階段裏側に張り付いた個体が襲ってくるが、こちらは走力で勝っているので曲刀や拳であしらい上を目指す。
入り口から二百メートルくらい登った頃、下から上へ縦穴を流れる空気に植物腐敗臭が含まれているのに気付いた。雑草等の微生物で浄化槽内の肥溜めを分解する時に使用する白爺製濃縮緑汁とまったく同じ臭いなので、ついつい足が止まってしまい天井で待ち伏せていた謎の蟲達に囲まれてしまう。
「こいつ等 この臭いの中で動けるのか」
香草や香石等を濃縮した臭いとは違う植物の腐敗臭。この臭いで嗅覚が麻痺し易かったが、血染めのおかげか嗅覚に異常は無い。
俺は対面の蟲を蹴ってから地面を蹴り、頭部を揺すぶられ痙攣している蟲を跳び越えた。階段途中だろうと相手するのは面倒なので、同じ階段内や休憩所が在ったらしい待機所で食事中の蟲含めて全てを無視した。
(蟲だけに数が多い。何処から出てきたか生存者に聞けば対応が練れるかもしれん。こいつ等が再び空腹で動き出すまでどのくらい時間が有るのか調べれば、生体含めて類似の蟲から生息実態を暴ける。)
太陽の塔頂上へと続く螺旋階段。階段自体の勾配角度は十度未満の緩やかな坂道だが、半径五十メートル程度の円を描いて緩やかに上へ続いてる。太陽の塔の頂上から中央山脈の頂大地が眺めれるので、険しい岩場を登るより塔を登る登山道の方が人気だった。
やがて薄暗い空間内を雷の如く瞬間的に照らす白い光が目に届くようになった。銃声の音だけでなく男達の怒号も聞こえ始め、階段中に屯している蟲達を足場に飛び跳ねる俺の目に蟲以外の生物の姿が映った。
(今度は蛇類か。いや違う。砂蟲系か砂竜を細くした様な見た目だ。)
灰色の台形型胴体が特徴の蟲と違い、蛇の様な胴体と頭部付近に狩り蟲らしき節足腕を有する獣。新たに増えた正体不明の生物達は胴と鎌状の腕を頼りに階段をゆっくりと登っている。そして背後から蟲を跳び越え現れた俺に気付き、集団最後尾の数体が体の向きを変えて俺に向かって来る。
(そう言えば西大陸に生息する半獣とか言う枠組みの獣に似たような個体が居たような。まぁ調べるのは後にしよう。)
全身が蟲達と同じ灰色なので、今回の襲撃に何等かの関係性が有るに違いない。そう判断した俺は腰帯右側に挿していた曲刀を引き抜き、鎌代わりに逆刃で持ち替えると袈裟切りで相手の右腕を圧し折った。
俺は後ろに軽く跳び数段下の階段に着地した。新たに現れた獣は容姿から想像できないほどに硬く、鋼鉄の刃でも骨と筋肉部位で別れた関節を破壊するのが限度だと思い知る。
(数が多いからツルマキは論外。この屠殺武器で両断できないなら階段から落とすしかない。あの関節に刃を引っ掛けて投げてやろう。)
小さいが牙獣特有の鋭利な牙が並んだ口で蛇の様な鳴き声を発し襲って来る獣。一個体が鳴けば群が反応するので、階段を一団ずつ上っていた二十以上の群が俺に襲い掛かる。俺は対処出来る数を越えた群相手に苦戦しながら数段ずつ跳び越え後ずさり、一体ずつ確実に処理する為に食事中の蟲達の間に入った。
同じ色の灰色の蟲と半獣らしき生物が薄暗い階段の下で重なって見え、次の瞬間蟲の脚が半獣の鎌に切られた。俺は転倒した蟲を蹴って半獣モドキに大重い胴体をぶつけると、階段側に最も近い別の半獣モドキに体当たりして階段下へ突き落とした。
(蟲より軽いが硬い外皮と鋭利な鎌。鋼鉄の鎌を刺すと抜く隙が出来そうだが、もしかしたらこいつ等の鎌なら使えるかもしれん。)
俺は並べ板の如く連続して倒れた半獣モドキの一体に飛びかかり、頭部含め平たい胸部左右で動く多関節腕に両手の曲刀を振り下ろした。結果根元の関節球らしき骨が割れて筋繊維が破損したので、俺は抵抗する半獣モドキの胸部を右足で踏みつけてからの腕根元を掴んで引き抜く。
骨の様な肌触りの腕を胸部から引き抜く際、しなる生木の枝と同じ抵抗を感じる。血管含め露出した骨部分に纏わり付く筋肉は強化繊維を彷彿させる程に頑丈で、俺は右足の爪が胸部にめり込むのを覚悟で腕の筋肉を膨張させた。
胸部両端から黒ずんで見える体液を噴出させる個体ごと蹴って離れた。あと少し多関節の腕を引き抜くのが遅かったら、首から頭部の何処かを深く切られていただろう。
「この臭いはこいつ等の血液だったのか」
俺は直視したくない青緑色の血液が立てる腕の切れ端から目を離し、同時に握っている曲刀を足元に落とした。鋼鉄製の重く大きな刀剣が人工石材の床に落ちると鈍い金属音が一瞬響き、足に刃は直撃しなくて良かったと一瞬安堵する。
手早く骨に張り付いた筋肉繊維を引き剥がし、体が震えるほど臭う血液を我慢しながら骨の鎌を手にする。そして俺は新しい鎌が有効かを確かめる為、再び接近して来た半獣モドキ達へ腕を伸ばして鋭利な切っ先をぶつけた。
爪で腐った木材を引っ掻く様な手応えと共に、小さな頭部から黒ずんで見える青緑色の血液が噴出した。俺は神経中枢の脳を破壊されて倒れえる個体を尻目に、体を左に回転させ両側から迫って来た鎌を薙ぎ払う。
(予想どおり鎌部分は骨より歯体結晶に近い構造のようだ。生体でもっとも硬い部分だろうと考えて正解だったな。)
俺は新たに入手した鎌を振り回し続け、鋭利な刃部分が欠けようが構わずに半獣モドキの群を切り刻む。半獣モドキの腕は多関節構造なので前後への刺突動作が速いが、俺は己の身体能力を武器に両手の鎌を見境無く振り回し続けた。
その結果、遭遇から二分程度で半獣もどきの一団を全て狩り終えた。俺は折れたり刃が欠けた腕鎌を捨ててから曲刀を回収。死骸から使えそうな腕をもぎ取って新しい鎌を補充してから、再び銃声が鳴り響く上を目指して階段を駆け上がる。
半獣。獣因子による遺伝子融合分裂作用を利用して人為的に生み出された獣。畜産や労働用の獣とし重宝されたが、主に生物兵器として運用する為に数多の種類を交配させた戦闘獣の方が有名。
その歴史は古く暗黒暦前期の約二千年前には既に戦場に登場していたらしい。暗黒暦初期から前時代初期頃まで栄えていた巨獣帝国の黎明期から存在していた説が有力で、同国から半獣技術が世界中に広まったと言われている。
多角産業化が進んだ現在では野生化した半獣と戦闘獣の線引きが曖昧化している。帝国での害獣駆除政策によって数が減って知名度が下がったので、現在この共通語は西大陸で野生化した交配種にしか使われていない。
入り口から三百メートル近い場所に位置した螺旋階段最上部。その最上部には主柱側に有る階段と螺旋階段を繋ぐ広場の様な橋が渡されており、俺は階段下の物陰から幅が吊橋より広い人工石材の橋を見上げ銃撃戦の様子を観察している。
(戦っているのは保安隊員ではない。観光に来た探索者かそれとも害獣監視隊だろうか。)
外周壁側の螺旋階段と橋の接合部に築かれた即席の障害壁。大量の体液が飛び散って緑色に変色した螺旋階段と橋の境界に、下から持って来たと思われる机や椅子等の家財道具が積み上げられている。そしてその障害壁には十人以上の人間が銃火器を手に階段を上がって来る獣を狙撃していて、短銃や小銃と狩猟銃らしき太い銃身を持つ男達が半獣モドキや蟲相手に最後の抵抗を続けていた。
(まだ屋上へ続く階段に避難民が残ってやがる。屋上の空中軌道から全員が地上に戻る前に壁が破られるだろう。都合よくオルガ以外全滅してほしい。)
俺は見慣れぬ獣人集団の屍を食す蟲達の間を通り抜け、最後の待機場から橋へ続く残りの螺旋階段を登り始めた。目的は障害壁から頭を出し闘う者達の顔が見える位置まで移動する事で、前に居る虫や蛇型の半獣モドキを鎌で処理しながら階段を少しずつ登る。
「何だあれ おい 何か登って来たぞ」
直線距離でおおよそ三十メートル弱の場所に見える即席の障害壁から俺を不審な獣扱いする声が聞こえる。主に新手の害獣だとか人型の害獣だとか叫んでいるが、実際に俺へ銃口を向ける様子は無い。だから俺は無言のまま流れ弾を意識して背を丸めつつ、半獣モドキ達を背後から切りつけながら階段を一段ずつ登った。
(しかしこれほど餌に執着する獣を相手にするのは初めてだ。もはや獣と認識すべきか迷う。餌に食いつく虫程度の知能しかないのか?)
俺が螺旋階段の最上部に近付くにつれ発砲音が激減し、やがて活動可能な半獣モドキを弾痕だらけの欄干から穴へ落としたのを最後に銃声が止んだ。俺は両手に獣の鎌を握ったまま半獣らしき生物の死体を踏み、顔を主柱側の階段先へ向けながら最上段から三つ下の段に到達する。
「そこで止まれ お前は何者だ」
俺は二連式狩猟銃の銃口を向けられたので仕方なく足を止めた。狩猟銃を持つ砂陽系の男はまだ若く、青い調理用の前掛と青く薄い生地の衣服から料理人にしか見えない。腰に弾薬帯を装着しているが腕の筋肉や首も細いので、一目で探索者でも傭兵でもない一般市民だと判った。
「俺はジール ある商会所属の探索者だ オルガルヒと言う名の帝国系老人を探している 歳は五十代前半で職業は探検家だ」
短く簡潔に用件だけを喋った俺に対し、料理人風の男含め障害壁から顔を覗かせた男達は口々に知らないと口ずさんだ。俺と直接対面している若者は避難者の顔を確認する余裕が無かったと言い、俺の体から発せられる植物の腐敗臭で顔をしかめる。
「今から確認しに行くから其処で待っていろ この壁を越えたりするなよ」
若者は積み重なった棚から降りて反対側の橋を主柱へと走って行った。装備含め獣の体液で汚れた俺がこれ以上進むなら他の銃口が火を噴くだろう。俺は探索者でもない非弱な人間達に配慮して階段を少し下り、転がっている蟲の死骸に越し掛け若者が帰って来るのを待つ。
(獣由来の疫病や感染症で集落が全滅する事もある。連中からして見れば、得体の知れない生物の血液に触れてまともで居る方がおかしい。だから発着場が封鎖される前にこの地から脱出しようと考えるのも当然だ。なにせ一度集団隔離されたら実験生物扱いだからな。今頃地上へ溢れた蟲達に食い殺されているだろうが。)
俺は人間共の哀れな末路を嘲笑いながら手元を見る。力の限り振り回した骨鎌は両方とも先端が欠けており、握っていた部分が鑢がけしたかの如く磨り減っている。そして手のひら側が白く染まっていて、付着した粉を払っても表面が黒虹色に戻る事はなかった。
待ち始めてからおよそ二分程度が経過した。そろそろ戻って来るだろうと考え顔を上げて橋向こうの騒がしい階段を見ると、丁度見覚えの有る数人の男共を引き連れ下りて来る若者の姿が目に映った。
(あいつら支店所属の調査要員じゃないか。オルガと一緒に出発した時に同伴していたから面を覚えてる。あの時は十人以上居たが随分減ったな。オルガを助けるには手遅れだったようだ。骨を拾うのは無理だが、せめて白髪か遺品くらいは回収しないと俺の立場が危うくなる。)
様々な探索具らしき登山装備で身を固めた男達の面を確認し、襟元の印から間違いなくアイアフラウ商会フラカーン支店調査課所属の人間だと認識する。そして先頭を走る上下共に青い衣服の若者が狩猟銃と弾薬帯を装着していないと気付き、上で誰かに返したのだと推測した。
俺は弾痕で潰れた頭部から白い体液が流れた跡が残る蟲の屍から腰を上げ、階段を上がって障害壁の前に進んだ。障害壁前で立ち止まったのは降りて来た五人の男達と監視者達が合流した直後で、これから階段を下りて最下層へ行く旨の会話が自然と聞こえてくる。
(空中軌道の街側発着場が蟲に包囲されたか。大人数で動けば蟲だろうと容赦無く近寄って来る。おそらく餌を認識したらどれだけ離れていようと移動し始めるだろうな。軌条線を伝って塔屋上まで到達するのも時間の問題だ。)
俺はこれから始まる集団移動を察し、不運にも逃げ場が無い群衆が階段を下り始める前に階段を下りようと体の向きを反転させる。
「おい待つんだジール オルガルヒ主任はまだ下で戦っているかもしれない 緊急脱出用の落下傘を持って来たからこれで最下層へ降りてくれ」
俺は声と共に障害壁の上から投げられた黄色い袋を受け取り、袋が何なのか確認する。
「調査隊は害獣が底から湧いて出るまでベルマール班と合同で調査していた 穴の底の埋もれた場所には避難出来そうな穴が幾つか有った 生存者が居るのならその場所だけだろう 行ってくれるか」
黄色い袋には非常用落下傘と黒字で書かれており、裏側に張られた紙には使用説明と注意事項が記載されている。太陽の塔内で火災が発生すると煙が最上部までを瞬く間に包む。これは非常時でも素人が自力で脱出出来る様に使い易い単一丸傘を納めた袋で間違いない。
「解った 行ける所まで行って確認してくる」
使用説明と注意事項を読んだ俺は、黄色い袋から落下傘を取り出して固定帯を体に装着し始めた。落下傘本体は初心者でも扱える様に背負い式の枠に結ばれていて、枠を背中ではなく胸の前側に固定すると階段の縁に後ろ向きで立つ。
(こんな事に成るなら初めから下へ下りるべきだった。見ず知らずの人間の前で慌てる様な醜態を晒すわけにはいかんが、今度ばかりは大怪我だけでは済まないだろう。)
俺は足元に広げて敷いた強化繊維製の黄色い落下傘を爪で傷つけないよう蹴って、後ろ向きのまま深く暗い空洞縦穴を降下し始める。
肩に固定した専用拘束具に全体重が乗り両脇が上に引っ張られる。先程まで蟲や半獣モドキを相手していた螺旋階段が直に視界内から消え、右側に見える最初の支柱の左隣を突破した。
骨組みが無い大きな黄色い傘が緩やかな上昇気流を受け、一般人より重い体が螺旋階段と主柱の間を緩降下して行く。螺旋階段と主柱を繋ぐ展望台の様な支柱が降下を遮る大きな障害なので、落下傘に開いている方向転換用の穴紐を引っ張り前後左右に降下軌道を調整する。
(入り口周辺は空気の流入で気圧差が無い。これからどんどん落下速度が増える。今の内に隙間が連続した螺旋階段と交差する機動に変えて衝突を防がなければ。)
俺は足元下を見下ろしながら主柱に対し体を右側に向けた。螺旋階段と主柱を繋ぐ支柱の様な高台休憩所は上から見ると少しずつずれた場所に在る。穴を真っ直ぐ降下しても十箇所の支柱を通り抜けた先で進路状の支柱に激突してしまう。
太陽の塔は標高が高い場所に在るので、入り口から流入した冷たい外気が照明装置等により僅かながら暖められ上昇気流が発生している。階段を登っている時は殆ど感じなかった空気の流れが等間隔で配置された支柱群によって攪拌されており、当然空気の流れが乱れた場所に入れば落下傘の制御が効かなくなるだろう。
獣の襲撃により螺旋階段側の壁に設置された照明具が所々破壊され消えている。階段の様に縦穴内を遮る支柱が局所的な明暗の差で見え辛い。俺は一部が闇に閉ざされた場所を感覚だけで幾度もすり抜け、徐々に入り口地点へと近付く。
(軸移動が鈍い。このままだと休憩所に激突する!)
足元から七十メートル程下に入り口の光が差し込む場所が見えた矢先、全部で八箇所有る落下傘の稼動穴を動かす穴紐が硬くなった。反射的に上を見上げ穴の状態を確認すると、穴の一つを覆う稼動蓋の布が半分剥がれているではないか。
(量産品だとは言え破れるのが早過ぎる。このまま底まで降りるのは無理だな。)
俺は入り口付近に着陸して自らの足で階段を下ると決断。体を振り子の様に振って強引に進路をずらし光が差し込む階段入り口へ降下する。
足元すぐ下まで迫って来た人工石材の足場。天然の照明に照らされているおかげで見失う事はなく、俺は着地の衝撃から体を守る為に膝を曲げて前側に倒れた。
骨組みが無い黄色い穴あき巨大傘を結んだ固定相具を外し、俺は血塗られた場所を吹き付ける焦げた匂いを嗅ぎながら落下傘を畳み終えた。そして落下傘を入り口脇の雑誌棚に入れるとそのまま階段に戻り、上と同じく所々真っ暗な階段下へ下り始める。
(ここで照明具を使うと帰り道の途中で反応液が無くなる可能性が高い。熱視で視界を補いながら獣の相手をするとなると面倒だな。)
俺は曲刀を差し込んだ鞘を装着した腰帯から二本の骨鎌を抜き取った。予備も含めて六本の骨鎌が各所の装具に差し込んである。鋼鉄の屠殺武器より鋭利な鎌は耐久性が低い。所詮生物の体から生成された刃の一部なので横方向からの打撃を受けると折れてしまう。
入り口から階段を走って三十メートル程の場所に居た虫達へ蹴りを放つ。上から頭部を踏み潰す要領で蹴ると頭が落ちるので、幅十数メートル程度の螺旋階段上で向かって来た灰色の虫を一匹ずつ始末する。
「こいつで最後」
左足の爪が蟲の頭部を横殴りにし、首の関節部が衝撃に耐え切れず折れた。首の骨が折れても神経筋や食道等は無事らしく、力なく頭を垂れた状態で俺に体当たりしようとする蟲を横から蹴飛ばす。
「ああ 落としてしまうと下に居る連中が危ないな」
俺は螺旋階段から獣を落とさず殺そうと決め、最下層の深部を目指して螺旋階段を下って行く。入り口から焦げ臭い臭いが塔内に入っているようで焦げ臭い。そして入り口から三十メートル程度下り、吹き下ろす冷気と吹き上げる暖気の境目に突入した。
断続して発生する下降気流によって塔内の空気が頻繁に入れ替わる。その所為で人間や獣達の死臭が入り混じり俺の鼻が効かなくなった。だが悪影響は嗅覚だけに留まらない。気流の渦が発生する度に騒音が塔内を駆け抜け、その度に俺の耳が封じられてしまう。
俺は螺旋階段を下りる途中で邪魔な獣達を駆除し続けた。いったい何処にこれほどの量の獣達が居たのかと疑問さえ薄れ始めた頃、闇に閉ざされていた塔の上方が少し赤く光って居る事に気付く。
「間違いない あれは炎の光だ」
不運と言うものは悪い事象が重なって発生する。塔の入り口下か上辺りで火災が発生しており、その炎は少しずつだが確実に勢力を拡大している。入り口から頂上までの螺旋階段は、肉片やら死骸やら遺留品らしき観光客の持ち物が散乱していた。可燃物だらけの階段が炎で包まれるのは時間の問題だった。
俺は階段を下へ走りながら時折上を見上げる。火の勢いは留まる事を知らなく、遠目で見ても炎症範囲が急速に拡大しているのが解った。まるで油に火を点けた様な勢いだと考えた時、体全身に付着した獣の血液を思い出す。
(油の匂いはしないが、水分が蒸発すれば炭素供給源と成る。このままだと持ち物が消失すどころか俺自身が窒息してしまう。なんてこった。)
現在地は入り口から最下層までの中間辺りを越えた所。今から入り口へ戻っても間に合わない可能性が有る。俺は背嚢からガスマスクを取り出す事もせず走力を強め、獣達を無視し螺旋階段の縁側を走って下りる。
(階段を走るだけの時間が惜しい。支柱へ跳び降りて時間を稼がねば。)
階段縁には金属製の手摺が設置してあり、俺は殆ど無傷の欄干に跳び乗った。そして真下方向の三十メートル前後離れた場所に在る何も置かれてない支柱へ向かって跳び降り、体の強度を高め四足体勢で人工石材の支柱に着地する。
膝と肘関節に加わる負荷を筋肉の伸縮機能が吸収する。全ての負荷を吸収するのは不可能なので、肩や腰に衝撃を逃し額が人工石材の床に接触しないよう防いだ。
「まだ余裕が有る もっと下の支柱へ移るれるか」
落下傘を置いて行ったのは間違いだった。俺は後悔しながらも階段へと戻り、螺旋階段下からゆっくりと登って来る半獣モドキ達と相対する。
(此処で可燃物をばら撒くわけにはいかん。邪魔な奴を落とし攻撃を避けて素通りするしかない。)
俺は腰帯から二振りの曲刀を引き抜き、曲刀として進路上に居る半獣モドキを薙ぎ払う。こちらは階段上に位置しているので、とび蹴りで一体を転ばせばその後ろに居る個体も巻き添えにできた。
(頭部を潰すか殴って気絶させれば流血を最小限に抑えれる。オルガが生き残っているかどうかさえ判らない状況だ。こんな所で時間を潰すのは勿体無い。)
分厚く比較的幅が広い刀身を振り回し、鋼鉄の質量と亜人の腕力で半獣モドキを黙らせる。俺は仰け反ったり転倒した獣達に構わず階段を走り、最下層へ急ぐ為に再び欄干の上に飛び移る。
太陽の塔。アカリ教の宗教施設だった太陽塔と区別する為に名称が変更された謎多き遺跡。地表に露出した円柱状の塔には出入り口以外の穴が無く、遠方から黒く見える露出部は高さ三百メートルに達している。
統一暦以前は長らくアカリ教の砂陽地方活動拠点だった。麓の街は砂陽地方へアカリ教を広める為の重要拠点として発展し、大部族団に二つ在るアカリ教総本山を巡礼する信徒達の為の宿場街だったと言える。
アカリ山脈とも言われる中央山脈の山々は平均標高が五千メートルを越えている。砂陰地方と砂陽地方を結ぶ山脈内の貴重な街道の一つと通じる街では何度か疫病が蔓延した。
太陽の塔と観光街は山々に囲まれた場所に在る。都市型の上下水道が構築されたのは統一暦に変わってからで、それ以前は斜面を利用した貯水池と堀や谷底へ生活排水を流していた。下水から排出された多くの汚水により、現在も太陽の塔を囲む貯水池底には昔の汚泥が溜まっている。
戦争や飢饉だけでなく、意図的に衛生面を悪化させ大衆に恐怖を与える事でアカリ教は多くの信徒と奉納金を得ていた。当時の砂陰地方ではアカリ教と大地の導きによる宗教紛争が多発していたので、フラカーン王国の介入が始まるまで北方山脈内では口減らし戦闘が度々発生していた。
長い螺旋階段を下り暗闇が支配した深部に近付いた。体内時計から現在の時刻が午後三時半前くらいだと感じとり、俺は熱視で周囲を見回し真っ暗な世界に熱源を探す。
主柱部分を除外した最下部の大半は、上から落ちて来た様々な落下物で覆われている。人間の手足や頭と共に獣や手摺の残骸等が散らばっていて、休憩所や待機所に置かれていた椅子等の残骸も有った。
(山の周りに転がっているのはどれも獣の死骸か。墜ちて来た分も含めて相当な数だ。オルガ含めた調査隊が遭遇した獣と戦った跡も残ってる。)
俺は足元に転がる金属製の空薬莢を拾い、小銃用十ミリ弾の薬莢と酷似したそれの匂いを嗅いだ。硝煙の匂いが残っている事から保安隊が装備する小銃の弾で間違いない。
(炸薬に臭い消しの化合燐が使われてない。護衛人員を現地で調達すると言っていたが、まさか保安隊から人材を引き抜くとはな。)
俺は拾った薬莢を静かに人工石材の床に置いてから歩き出し、発掘途中のまま放棄された最下層へ近付く。
太陽の塔の螺旋階段を最深部まで下りると、人工石材で埋もれた区画に到達する。底は何かしらの理由で封印処理が施されており、発掘途中の螺旋階段最下部へ進む道と床に掘られた縦穴が有る。
熱視により周囲を見回すと、最下部の至る所に半獣モドキや蟲の死骸が転がっている。死骸や結婚は螺旋階段の上にまで到達してないので、調査隊は螺旋階段まで逃げれず他の場所へ移動したようだ。
(階段下も違う。となると主柱反対側の発掘通路にでも隠れたのか。)
俺は下りて来た螺旋階段壁沿いを歩き、環状の空間を反時計回りに歩く。空気が薄く対流が殆ど無い所為か空気が重い。まるで塔内部の空気が両肩に圧し掛かっている様な感覚だ。
主柱から螺旋階段を除外した外側の壁まで、距離にしておよそ十八メートル程度。階段と比べると幅が広く、周囲には足の踏み場がない程に蟲や半獣モドキの屍で溢れている。例の植物を腐らせた臭いが充満していて、息苦しささえ感じる。
螺旋階段から降り立った場所から見えなかった反対側が見える位置まで歩くと、視界内に発掘跡とは思えない爆破破砕された痕らしき大穴が現れる。俺は床に開いた大穴傍まで近付き底が見えない穴を見下ろす。
(僅かだが物音が聞こえる。水が流れる音とは違う。生物の鳴き声や呼吸音でもない。空洞特有の岩音だろうか。)
俺は口呼吸で鼻から息を吐き出しつつその場で片膝を着き、手で口元を扇ぎながら穴から漏れて来る匂いを嗅いだ。空気が湿っていて僅かだが水と腐葉土に似た土の香りを感じれる。獣特有の発汗物質等の匂いはせず、まるで枯れた井戸の匂いを嗅いでいる様だ。
(中から人の匂いはしない。声を出して呼んでも反応するのは獣くらいだろう。火災で空気が薄くなる前に発見できればいいが。)
人工石材の岩盤層の様な破砕痕は周りが盛り上がっており、本当に爆発で形成された痕なら内側から吹き飛んだと推測できる。立ち上がった俺はその盛り上がった破断面の様な縁から遠ざかり、死体と様々な瓦礫が混在する落下物の壁を登り始めた。
(廃棄物処理場の保管倉庫内に居るようだ。連合内のどこぞの都市に在る焼却処分場を見学した時は袋詰めされた可燃物ばかりに驚いたが、文明圏の消費量を考えればあんなの砂漠の砂粒程度でしかない。)
落下物の小山に積み重なった物が余りにも多く、雑多すぎる光景に熱視でも細部が判らない。俺は腰帯に装着した照明具へと両手を伸ばしながらゴミの山上に移動。瞬いて熱視から通常視界に切り替えてから照明具の摘みを少しだけ捻る。すると容器内の反応液と燃料棒が触れあい気泡が発生。僅かに熱を伴う弱い光が周囲を照らし、近くに居るだろう蠢く者達を照らし出した。
(何だ近くに居るじゃないか。倒れているが熱が有るから心臓は動いてる。となると気絶しているのか寝ているのかのどちらかだ。)
俺は山の下で死体の如く倒れているたった八人の男達を目で確認。握っていた照明具の摘みを反対方向に捻って光を消す。
(腐卵臭はしない。無臭の有毒物質を吸ったのなら嘔吐や神経麻痺による尿漏らしが起る。全員が同時に催眠物質を吸ったのなら意識喪失状態に成る。俺も無事では済まない。)
俺は瓦礫と死体の山を越え反対側の壁際に降り立つと、踏み場に利用した蟲の背に背嚢を降ろして中からガスマスクを引き抜く。そして鉄帽を脱いでから顔にガスマスクを装着して脱いだ鉄帽を被り直す。
(火災がだいぶ近付いてるな。オルガを抱えて入り口まで辿り着けるかどうか怪しい。最悪火が消えるまでの間にオルガを生存可能な場所に隠して俺だけ脱出する手もある。)
再び背嚢を担ぐと両手に曲刀を握った状態で倒れた調査隊へと歩く。オルガはうつ伏せの体勢で床に伏しており、前に伸ばした右手が弾倉式短銃の上に乗っている。半開きの両腕と両足が円を描いている様にも見え、落下物を背に眠っている者も含め全員が死んだ振りをしている様にも見えた。
「起きろ団長 助けに来たぞ」
団長と言う言葉に反応したかは解らない。俺の声を聞いたオルガは電源と繋がった機械の如く頭だけを素早く動かし俺を見上げる。
「ジールか 周りを警戒しろ まだあいつが近くに居る」
俺は左手で曲刀を構えたまま右手を動かし照明具に光を灯した。周囲の風景は同じで調査隊以外に動く影は無い。そもそも物音が無く僅かな風と獣の音が聞こえるだけの空間なので、オルガが何を警戒しているのか予想すら出来なかった。
「時期に此処の酸素も薄くなる 獣が隠れていても酸欠からは逃げれない まだ酸素缶の残りは有るか 煙か火が到達するまでに上がらないと死ぬぞ」
そう言いつつ俺は上を少しの間見上げた。火の手は入り口から下へ少しずつ広がっており、行動不能にした獣達が生きながらに焼かれてる。今思えば観光街の火災現場周囲で嗅いだ薬品が燃える臭いと似ており、有害物質が煙と共に塔の上へと昇っている。
「人型の獣が他の獣を統率しているのを見た そいつは短い時間で穴に戻って行ったが 穴から湧いた蟲達が階段を塞いだ所為で登れなかった」
オルガはそう言いながら他の調査隊員と保安隊員に残弾を確認するよう指示を出した。当人は銃を腰の銃帯に仕舞い、同じ腰帯から狩猟ナイフを取り出す。
「銃の弾は使いきった 他の者も残り少ない だから護衛を任せる」
塔の底は元から酸素が薄い。火災が発生している現状で人間が活動するには呼吸器具用の酸素缶が必須だ。
「解った 階段を上がり始めたら俺が先行して可燃物ごと炎を除去する 何かあったら銃で知らせろ」
俺はこの場所でこれ以上の会話は時間の無駄だと悟り、死体と瓦礫の山を登るオルガ含めた調査隊を補助しながら階段へと誘導した。八人全員が螺旋階段を昇り始めると先頭を登るオルガを越し、少し離れた場所で調査隊の監視を始める。
(オルガが危険視した獣を統率する個体か。今は話が出来ないから詳しくは聞けん。地上に戻ってから街が封鎖される前に情報交換が出来ればいいが。)
登山用具の空気缶を背負う八人の登坂速度に合わせて階段を登る。途中で燃盛る獣の死体を素手持ち上げ、火が燃え移らないうちに穴の底へ投げ続け道を作った。結局オルガが言う統率個体どころか、穴から新たな獣が湧いて出る事も無く。俺は入り口まで燃盛る物を排除し続け八人を吊橋へと導いた。
「やれやれ 入念に準備をしてから調査を始めたのにこの様だ 老いた身には辛いな」
ガスマスクと似た面当てを外し、午後の陽光に照らされた大地で咳き込むオルガ。空気に混じる薬品臭い臭いが肺に悪かったらしく、すぐに面当て装着しなおした。
獣の襲来により消す者すら逃げ出した街はまだ燃盛っていて、既に発着場とを結ぶ幾つかの通りは燃盛る瓦礫で塞がっている。太陽の塔を囲む貯水池沿いの道に並んでいた建物は粗方燃え落ちた後らしく、瓦礫と化した建物で燃える炎が焚き火の炎と似てる。
調査隊の生き残りの先頭を歩きまったく揺れない吊り橋を渡っていると、背後を歩くオルガから逃げ延びた別の調査隊の行方を聞かれた。俺は塔の最上部で四人の調査員と会ったと言い、無事に塔から脱出できたかは判らないと答えた。
「そうか 秘境探索経験が有る社員を選んだから大丈夫だろうが 今回の調査はあまりにも喪失が大き過ぎた こんな事になるなら現役探索者を連れて来るべきだった」
オルガの愚痴を聞きながら吊橋を渡り、袂の鉄塔下を通って広場前で立ち止まった。俺は広場の中央で装備を仕舞っている調査隊から離れ、高台から貯水池に浮かぶ大量の黄色い落下傘と幾つかの水死体を見つめる。
(百人程度は上から飛び降りたようだ。引き揚げ場の浅瀬に脱ぎ捨てた落下傘が密集している。階段で下りた連中が火を点けたのかもしれん。)
そう考えた時、広場に面する石造りの建物だった瓦礫の山から物音が聞こえる。俺は条件反射的に振り返って駆け出そうとしたが、瓦礫から現れたのが人間だったので緩やかに足を止めた。
「両腕が傷だらけじゃないか 誰か消毒液を持っていないか」
先程まで獣がどうのこうの呟いていたオルガが真っ先に動き、衣服含めて煤だらけの少女を抱き抱えた。他の調査隊員は疲労困憊らしく少女へ近付く物はオルガ含めて三名だけだ。
(不味いな。まだ獣がうろついているだろうに負傷者が一人増えた。オルガと情報交換を済ませたいのに重要情報を喋れない。オルガを説得して少女を見捨てさせるか、それとも俺が街に潜む獣を全て始末すればいいのか? まぁ殺すのは何時でも出来る。今は様子を観察するだけだ。)
この時の俺は十歳程度の少女を解放するオルガを見ながら、今回の調査でフラカーン支店が被った被害を数えていた。オルガは他者を救助する事で生を実感する半端者ではない。オルガの様に救出した少女含め他にも逃げ遅れた者達を救出すれば、後に金銭や社会的地位に影響する報酬が有るのかもしれないと期待していたのだ。
全角文字。砂陽地方発祥の象形文字。特定の記号に角状の突起や点を加えた文字で、未統暦二千五百年代に誕生したベルエラ王朝の言語体系として確立した。当時はまだ砂陽地方の一言語文字として使用されていたが、未統暦千九百年頃代に入り世界樹栽培技術が確立され始めてから大部族各地方へ広がる。
全角文字は現在の東大陸共通言語と深い関係にあり、象形文字から派生した多くの言語が東大陸中に普及したのも全角文字の影響が有ったからだ。
全角文字は未統暦九百五十年頃まで共通文字としての地位を確立していた。全角文字を基にした半角文字が普及するまでの千六百年間、大部族での共通文字として使用された。
全角文字の基本体系は三つの概念文字で構成されており、全角数字と全角記号と半角単語によって構成されている。数字及び名称単語と文法単語によって構築された世界初の三種統一言語で、現在の東西共通語及び共通文字もこの三種統一の法則によって制定されている。
古くから砂漠を行き交う交易隊が使用する砂縞の背に騎乗していると、全周の地平線彼方まで続く砂砂漠が一望できる。蜃気楼や陽炎の類は一切無く、日に照らされた大地と空気が生物の体から水分を奪い続けている。
(今日中に山を越えるらしいが、肝心の山がまだ見えてない。この道で正しいのか?)
文明圏と砂漠の境目を越えてから既に二日が経過していて、地図上では目的地の旧商業都市跡間近まで迫っている筈だ。なのに東側の地平線には波状に続く砂丘群しか見えず、二十二年前まで存在していた巨大オアシスを囲む天然の砂防堤なんぞ何処にも見当たらない。
(フラカーンを出発してから今日で四日目。封鎖された太陽の塔はどうなっているのだろう。続報が入って来ないと言う事は、また謎の獣でも現れたんだろうか。)
俺は大部族の砂界周辺で見かける益獣に砂縞に乗りながら、ひたすら暇な時間をどう潰そうか考えている。本来なら今頃森は。没界で発見した壁画の間の調査と槍の回収目的に寺院遺跡の探索に注力している頃だ。太陽の塔の調査で七名の支店関係者を失ったのは痛手だが、獣神が枯死獣である可能性を見極める為にも探索活動を優先したかった。
(太陽の塔だけでなく、肝心の森没界まで大規模な獣狩りの為に封鎖されてしまった。オルガは謎の獣達が枯死獣の眷属だと推測しているが、今更因縁の地へ行き何を調べる心算だろうか。)
馬と草竜を足して割った様な容姿の砂縞に乗り俺の前を行くオルガ。太陽の塔と観光街が封鎖される前に駆けつけた砂嵐号で騒動の渦中から脱したが、俺の報告を中型飛行船の中で聞いた後から口数が減った。
俺は後方斜め上から砂除けの背中を照らす太陽の熱を感じつつ、汗一つ掻く事も無く砂の丘を東に進みながら他の調査隊員の背中を見つめる。
(定期駆除を名目に臨時調査隊を編成したから頭数が少ない。人手不足だからと言っても部外者の人足は雇えないから、俺を除外しても交代要員と含めたったの十五人。確か砂界を行く交易隊は二三十人の大所帯が基本だと本に書かれてあった。案内人とはぐれさえしなければ遭難する可能性は低いと言っても、南枯死海を探索するには数が少な過ぎる。)
今日の日付は九期六日。砂陰地方南部は梅雨入りしたので、この辺りも十日経てば雨季が訪れる。その最中に俺とオルガは陸路で大砂界を渡り、二十二年前に枯れた覇王樹ジェノバと商業都市シャワールへ定期監視隊と共に移動している。
二十二年前の世界樹(若しくは覇王樹)枯死事件により発生した難民問題と砂漠の鏡大量蒸発現象。樹齢二千年を越す覇王樹ジェノバが枯れて商業都市周辺環境が激変し、新しい枯死海である南枯死海が誕生してしまった。押し寄せた難民の対処に困窮した当時の部族評議会は、旧王都フラカーンと古都バスムールの全商会に多額の資金と資材を提供。見返りに関係商会は南枯死海探索協定を制定し、共同で南枯死海の拡大阻止を目的とした南枯死海監視隊を結成した。今回の探索目的はこの協定を遵守し、南枯死海と旧商業都市跡で獣の監視駆除と世界樹の保存監視活動を実施するのが建前だ。
俺は水筒に入れた獣と家畜の混じり血を一口飲み、旋風谷で冬季警戒中に良く羽織った白い織物の砂除けを頭から外す。花水系世界樹のワダツボミから採れる綿繊維を使用した羽織を触ると、滑らかな表面が僅かに熱を帯びてる事が解る。
(白爺の古着棚から何度も拝借した砂除けは繊維が所々解れて熱遮断効果が薄れていた。この白さが陽光を反射する冬山と良く馴染んだから使っていたが、古着と新品だとこうも違うのか。)
昼の間は太陽に日差しや砂嵐等の砂塵から旅人を守る砂界装備の必需品。大半の砂除けは夜間用の防寒布としても使える生地が厚い物が多い。俺が頭から被っている砂除けは獣や荷物を包む際に用いる布らしく、広げてしまえば大きな四角い机掛けの様な布だ。
俺は馬と似た蹄を有す大型の砂縞に跨り、二十二年前まで使われていた大砂界の交易路の一つを東へ進む。名ばかり監視隊員の調査隊員と交代要員の先頭を進む案内役が砂丘の斜面を下り始めたので、軟らかい砂地の上を歩く砂縞の背が少し揺れ始める。
(俺より荷物を乗せた砂縞の方が熱そうだ。水樽や餌の実が詰った麻袋を運ぶのだから人間より重くなる。一頭失えば俺が荷物を運ぶ事になってるから警戒は怠れない。)
珪素を多く含有する細かい砂粒が陽光を反射して白く見える。海岸線の砂丘とは違い黄ばんで見えるが、これから通る枯死海の土は石灰と少量の砂鉄を混ぜた様な色らしい。俺は再び砂除け布を鉄帽の上から羽織って全身を隠し、斜面を滑り落ちる砂縞の上で揺れに備えた。
南枯死海。樹齢二千年級の砂王系覇王樹が在った場所に出現した新しい枯死海。二十二年前までは塩が採れる水と花が代名詞の巨大盆地だったが、枯死したジェノバ周辺から広がった土壌膠着化により平野の西半分が白い大地と化している。
南枯死海の中心に商業都市跡が在り、現在は害獣警戒や世界樹保護の為に滞在する各監視隊の野営地として機能している。
日が中天を通り越して半刻程。現在俺を含めた定期監視隊は、平野を囲む標高差四百メートル程の崖近くを北へ移動している。右側から地平線の彼方まで続く断崖と白い大地を眺めると、盆地平野の地平線辺りに蜃気楼が発生しているのが判る。
(あれが砂漠の鏡か。あそこまで水源が後退、いや減少したのなら都市経済が干上がって当然だな。)
盆地平野西側北部の崖沿いに巨大な扇状地形が形成されてあり、現在地の西側の崖より北部の高台の方が低い。これから長い坂道を通って西の崖沿いから北部の枯死砂漠を東に進み、東北東へ直線距離で三十キロ前後の位置に在る商業都市へ移動して監視隊と合流してから本番を迎える。
(こんな場所に灰石炭や白石炭を盗みに来る輩なんてほんとうに居るのか? 平野を東へ百八十キロ進めば陸珊瑚海岸の中央に着く。砂漠の鏡が在ったのだから塩が採れるのは解るが、今時砂漠改良用の養土なんて他に幾らでも有るだろうに。)
隊列中央に居ながら監視隊最後尾を進む。背後からついて来る十六体の砂縞は全て荷運び役の駄獣なので、当然俺の左手には隊の生命線である綱が有る。
(それにしても天然堤防が崖だとは想像が追いつかなかった。これだけ広い段差が有れば大気に変温層が生まれて雨雲が生まれ易い。雨季になれば平野一帯が冠水して大きな湖が生まれるから、この目で巨大なオアシスとやらを見てみたかった。)
俺は視線方向を少し北側にずらし、遠視で視野を拡大させ廃墟と化した煉瓦造りの街並みを観察する。まだ距離が離れすぎているので建物の輪郭が酷く曖昧に見え、昔読んだ都市図鑑に登場する扇状大地の街並みを観察する事は出来なかった。
(商業都市シャワール。樹齢二千年を越す覇王樹のジェノーバを中心に形成された内海の元港街。長年の水使用で内海の水位が低下し始めた頃に世界樹産業が本格化して現在の商業都市へ生まれ変わった廃墟。そして扇状地の地下水道に獣が巣くう様になってオルガ達が駆除に乗り出したのが騒動の始まりだったな。)
俺は内海が在った平野へ傾斜した巨大な扇状大地と前方のオルガを見比べながら、時折背後を確認して獣の姿を探した。雨季の季節は南から湿った風が吹くらしいが、崖沿いの勾配を下りる最中に砂塵を巻き上げる風は吹かなかった。
俺達は日が沈んだ午後八時前に商業都市北側玄関口の崩壊した外周壁を通過。砂に埋もれ廃墟と化した砂煉瓦造りの元宿場通りを進み、枯死化して倒れた覇王樹の残骸一部が円形広場の半分を塞ぐ場所に到着した。
直径が七十メートルを越すほぼ半円形の広場には無数の天幕が設置されてある。どの天幕も物資保管用と就寝用天幕に別れており、アイアフラウ商会の紋章である十二弾と単純な名前で呼ばれている紋章入り天幕も有るはずだ。
(たしか正式名称は赤玉綱だったような。駄目だ、簡単な名前の筈なのに思いだせん。)
俺達は入り口から入って広場右側奥に在るアイアフラウ商会天幕前で砂縞から降り、俺が引いて来た砂縞達の膨らんだ背に乗せた物資を倉庫用天幕内へ運び入れる。俺は荷運びを手伝いつつ、天幕の後ろに見える巨大な世界樹の残骸を何度も見上げた。
枯死した世界樹の白い壁が、広場どころか周囲の建物を圧し潰し大地に横たわっている。表面は滑らかで磨かれた水晶や真珠の様な光沢を放っているが、太い枝が在った断片等はざらついていて石灰岩層と同じ表面が露出している。
(遠くからでも僅かに見えていたが、近くで見ると全貌が判らない程大きい。枯れる前は二番目に古い覇王樹だったが、大部分は見る影ない程に崩れたようだ。)
俺は背中から物資を外した砂縞を数体同時に広場から移動させ、広場へ入った道を戻って宿場街の一区画を更地にした獣舎へと移動させた。その後に手が空いた者から食事を終わらせ、毎晩午後九時に開かれる合同会議に出席する代表者の随伴を決める抽選を行った。その結果、アイアフラウ商会から派遣された砂陽と帝国の混血らしき若い代表者と共に俺も合同会議に参加する事になった。
「もしかして調査主任の代理として参加させられたのをまだ根に持ってるのか 俺も探検家の知り合いは少ないが基本的に奴等は手前勝手の個人主義者だ 一々気にしていると頭がおかしくなるぞ」
天幕広場に面する三階建ての砂煉瓦住居へと歩いている最中、俺の右隣を歩く商会代表者のファムラン・シュトラールが小声で忠告してきた。
この若者は俺よりも歳が二つ上の二十二歳で、若くして商会役員に選ばれた帝国名門貴族の三男坊だ。何故オルガが帝国と繋がりの有る人間を調査隊に加えたのかは解らない。殆ど興味を感じなかったのであえて聞かなかったが、商会から派遣された元団長への監視役だろうと思われる。
「そうか 参考までに覚えておくから会議でのやり取りは任せるぞ」
砂漠の砂と泥岩粘土を混ぜ合わせ焼き固めた砂煉瓦を踏みしめるファムラン。俺の短い返事に不敵な笑みを浮かべて任せろと言い放った。
(黒髪や白髪が多い面子で唯一の金髪だから会議でも目立つだろう。もう少しおだててやれば俺へ集まる分の視線も独り占めしようとするかもしれん。)
そう考えながらも俺達は広場を抜け、通りを挟んで潰れた北側の区画隣に位置した会議場の敷地を跨いだ。
商業都市シャワール。樹齢二千年以上の古い覇王樹ジェノーバによって栄えた商業都市。二十二年前当時の人口は定住者だけで三万人を越え、砂陽地方一の経済規模を誇った都市だった。現在は元内海の砂漠の鏡半分と共に枯死海へと変貌しており、都市跡も刻々と砂に呑まれ廃墟と化している。
都市の旗印に魔石円環と言われる幾何学模様が合わさった紋章が使用されていた。東に在る陸珊瑚海岸で採れた様々な魔石や鉱物を加工し取引する為に多くの水が消費されたので、砂王系変異種の覇王樹と都市周辺での水不足問題が常態化していた。
広さ八十㎡は有りそうな石造りの広間。アーチ天井を支える梁にも砂煉瓦が使用されており、天井から吊るされた白い照明台すら砂煉瓦製に見える。
砂塗れの赤い絨毯の置かれた椅子に座って天井を見上げていると、突如白みがかって見える室内に鐘の音が鳴り響き始める。俺は奥側の壁に設置された大きな歯車時計の丸い時刻盤へ視線を向け、連続して鳴る鐘の音を聞きながら時刻を確認した。
「時間が来たので定期会議を開催する 今日は新しい監視隊が加わったのでまず始めに代表者の紹介から始めよう では早速」
長机を並べて方陣を構築した会議机の時計側。丁度木製の舞台前に座る年配の帝国男性が鐘の音が鳴り響く中声を張り上げた。服装は砂界で活動する商人や害獣監視隊も使用している白い外套布で、被り物が無い日に焼けた頭には毛根が無い。
「どうも皆さん アイアフラウ商会から新しく監視部隊代表に選ばれたファムランと申します 見てのとうり砂陽と帝国ウラル系の混血ですが生まれはフラカーンなので熱中症で倒れた事はありません 今回は総出で十六人程ですが各分野の熟練者を雇ったので私の何倍も活躍してくれるでしょう」
俺の前に座っていたファムランは最後に貴族出身であると付け加えてから木製の丸椅子に座った。酒場から持って来た様な丸椅子は尻台部分が旋回するので、俺はファムランの後ろで体を僅かに動かし回る椅子の奇妙な感覚を楽しんでいた。
合同会議は都市から交代要員を連れて来た各商会代表者の紹介から始まり、それぞれの担当区画の調査及び害獣駆除報告と世界樹観察報告が終わると休憩。およそ十分程度の休憩時間を挟み、午後九時五十分から明日の活動予定と担当地区の振り分け見直しが話し合われた。
結局俺は一言も話す事は無く、紙面や口答での受け答え含めた全てをファムランが一人で負担した。体つきが探索に不向きな細身なので現場業務には不向きだろうが、商会組織の執行委員である役員の肩書きは嘘を吐かなかった。
(しかし秘境に非戦闘職を差し向けるとはな。比較的安全な拠点が在るといっても、必ずしも外部から獣や賊の侵入を防げる訳ではない。オルガの監視が目的なら探検家を熟知して臨機応変に動ける人材が理想だ。もしかしたらオルガの口数が減ったのはこいつが原因かもな。)
監視隊総指揮を務める四十台の剥げ頭が会議の終了を告げると、長机越しに並んでいた多くの代表者が丸椅子から尻を離した。俺は続々と机から離れて後ろの入り口へ向かう者達から目を離し、今だ椅子に座って書類を睨んでいそうなファムランの背中を観察する。
(オルガはフラカーンを発つ前に代表者が名門貴族出身の若造だと愚痴っていた。太陽の塔から帰還してから日中は拠点と店舗を往復して資料集めに掛かりきりだった。その間にオルガは俺の目が届かない場所でファムランと顔を合わせていたに違いない。となるとファムランはいつから支店に出入りしていたのだ?)
背後に有る出入り口の両開き扉から氷点下を下回った外気が絨毯の上へ滑り込んで来た。すぐにこの部屋どころか建物の明かりが消されて施錠されるだろう。俺は今だ椅子から立ち上がろうとせず書類を見ている謎多きファムランへ声をかけようと決めた。
「書類を見るなら天幕内でも出来るだろ そろそろ戻らないと主任に怪しまれるぞ」
背後から聞こえた俺の声にファムランは頭を左後ろへ傾けて反応した。そして癖で周りが見えなくなると言いながら椅子から立ち上がり、扉へ歩き始めた俺の背後に追従し始める。
アイアフラウ商会に雇われた探索者や傭兵で構成されたオルガの名ばかり監視隊。代表者自体も名ばかりなので専属の随伴者すら決まっていない。それでも代表者の随伴は非常時に代表代行を務めるのが慣習らしく、俺は面倒な役職を押し付けられた訳だ。
砂漠に囲まれた廃墟の街は夜も寒く、日中とは正反対に唾液が凝結し始めている。豪商屋敷か区内集会場だったかもしれない屋敷裏手の会議場から枯れた草や砂が溜まった敷地内を移動していると、背後からファムランに声をかけられる。
「ジール 早速だが北側外周壁周辺の夜間警備をしてくれ あの辺りの堀は貯水池になっているから監視隊の重要設備が多い 俺達に割り振られた担当地域は別の場所だが この書類を見る限り貯水池周辺は共同管理が原則のようだ 見張り役が多ければすぐ帰って来て構わない 様子見だと思って頼んだぞ」
そう言うとファムランは長めの革靴で強く砂を踏み締め、早歩きで俺の右隣を通り過ぎた。
協定により代表者とその権限が保障されているので、この都市廃墟に居るかぎり逆らう事は出来ない。俺は足早に天幕へ歩いて行く焦げ茶色の皮鎧へと了承の返事を送り、足を止めて体を反対側へ向ける。