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秘境日和  作者: 戦夢
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六章前半



六章「枯れた栄光」

俺は獣神と関係のある情報を提供する見返りにヤマダ爺の頼み事を引き受けた。軍管轄となったとある石窟遺跡へ極秘潜入し、何かしらの理由で閉ざされた未踏領域を発見。想定外な事が続くも見た事がない翼獣らしき巨大獣を討伐し、何時もの癖で死骸の味を確かめながら巨大獣を調べた。

結論から言えば俺が討伐したあの獣は枯死獣で間違いない。俺の目の前で死骸が急速に白化していき、世界樹が枯れて化石化するよりも早く塵の山に成ってしまった。

古くから伝わる枯死獣の死に際を目の前で眺める事しか出来なかった俺は、証拠とし灰らしき骨砂の様な土を袋に入れて持ち帰った。勿論ヤマダ爺から依頼された秘密基地の白黒写真も撮影済みだ。帰り際に石窟遺跡内へ降りて来る兵士達に見つかるよりも先に縦穴から脱出し、姿を見られずにあの偽装陣地から脱出した。

今日の日付は十八日で、現在の時刻は午後七時と日が沈んで間もない。俺はヤマダ邸内の書斎でヤマダ爺が夕飯の支度を終わらせるまで待機している。山を越えたあたりで済ませたので、体に疲れは無い。暇なのでヤマダ爺が執筆した幾つかの本を読んでいる訳だが、西方言語特有の簡略化された文脈を読むには多くの知識概念が必用そうだ。

「待たせたの 畑で取れた野菜とキノコの煮つけを持って来た お主の分も有るから残さず食え」

ヤマダ爺は狭い書斎内の畳の上に座り、入れ物にも見える木製の台座に乗せた大きな盆で俺を机側に押し退けた。

大きな盆には二人分の夕食にしては量が多い料理が様々な種類の皿に取分けられている。煮付け料理を中心に豆や獣の肉と何かの出し汁が碗に収まっていて、俺は久しぶりに見た箸を手に取り感触を確かめる。

「お主箸の心得が有るのか 箸を使いこなす亜人を見たのは初めてじゃわ」

笑いながら箸を手に取ったヤマダ爺を無視し、俺は盆に乗った皿を指で挟みむと箸で味付けされた野菜類を口へ運ぶ。茹でられ細胞構成が溶けた果肉は噛み締めなくても千切れてしまう。硬い肉ばかり食す俺の顎には物足りない料理だ。

「大松ばかりの森に畑が在るのか その歳で畑作業をこなしていると何時か畑の肥料に成る日が来るかもしれんぞ」

白い羽織と白く薄い生地のズボンを着用しているヤマダ爺。俺の疑念を払拭するかの様に、余計な心配は無用だと一蹴。そのまま豆と名称不明の野菜類を噛みながら口を動かす。

「それで頼んだ調査は終わったのか お主が出発してからまだ三日も経っておらんが あの山向こうの演習場には入れたのか」

俺は傍に置いた腹袋の貴重品入れから写真と遺灰の様な粉末が入った皮袋を取り出し、数枚の写真を渡してから体験した事を話し始めた。

「撮影する余裕が無かったから一枚しか撮ってないが 石窟遺跡内に未踏領域と巨大で未完成な塔が在った おそらく暗黒期中期から末期辺りに建造が始まった遺跡だろう 崖下や岩の隙間に人間やら獣人やら骨が散らばっていた」

箸を盆に置いて写真を凝視するヤマダ爺。咀嚼物を飲み込んでから口も動かさず、黙って俺の話を聴いている。

「その塔らしき遺跡内の底に翼獣型の巨大獣が眠っていた 最初は崩れた瓦礫の山だと思ったが どうも眠ったままでも照明の光を感知する能力が有ったらしい 仮死状態だった獣に襲われて咥内飛び込んだまでは良かったが 未踏領域内の溶岩洞窟を運ばれ 石窟遺跡内と隣接する場所を突き抜け吐き出されてしまった」

俺は枯死獣との戦闘と死骸が白い砂に変わった経緯、そして塵芥に成る前の死骸の写真と遺灰を持ち帰った事を報告した。

ヤマダ爺は話しの途中で写真を盆に置き、俺が台座の横に置いた皮袋を手にとって中身を調べ始める。謎が多そうな遺灰を調味塩感覚で摘み、臭いを嗅いでから指先に付着した粉を舐めて味わう。俺は話を終えて様子を観察しながら、人間の癖になかなか大胆な事をするヤマダ爺に味の感想を聞こうとした。

「これはまさに灰石炭の粉そのもの 畑に使う肥料より純度が高いが間違いない 本当にその巨大獣の死骸から採取したのか」

俺はヤマダ爺が何を考えているのか察し、すぐさまその考えを否定した。そして枯死獣の死に際を目の前で見たと言い、あの獣が枯死獣の生き残りで間違いないと断言した。

「お主の装備の汚れや傷跡は本物じゃった あれを見れば嘘を吐いていないとわしでも解る 昔から軍が害獣を生物兵器に転用しようと研究しておったが 大陸蛾を兵器化して失敗した教訓が有るから生物兵器の可能性は低い おそらく地底王国に君臨した支配者の守護獣だった個体じゃろうな」

ヤマダ爺は何か思い当たる節が有るのか、棚に手を伸ばして幾つかの本を取り出し始めた。俺は右腕を伸ばしながらどれを引き抜こうか選んでいる様子を眺めつつ、枯死獣だと断定する理由を口にする。

「俺のクロスボウで特殊炸薬を詰めた矢を何発か当てたが 致命傷を負った直後から傷が修復されて火傷程度の外傷痕しか残らなかった だから再生箇所と周辺の温度差を利用して軟らかくなった首を吹き飛ばして殺した おそらく少量の小銃弾や手榴弾含めた科学兵器では削りきれないだろう 守護者が何なのかは知らないが あの獣は俺が起さなかったら今もあそこで仮死状態のまま眠っていた筈だ」

ヤマダ爺は俺の話を聞きながら、黙々と分厚い本の項を捲り何かの記述を探していた。また探すまで待たねばならないのかと思った時、ヤマダ爺は見つけたとだけ口ずさみ本を開いたまま俺に手渡した。

「その壁画は砂陰地方の旧ジルニア共和国領内に在る遺跡地下の宝物庫内に有る物じゃ 描かれた年代は推定で二千年以上前の暗黒期前期 まだ共和国の前身たるジルニア王国が建国される以前の時代にまで遡る ジルニアの意味は唯一の汁 つまりジルニア砂漠の塩湖から採れた塩で周囲に交易路や交易都市が建設される以前の時代 考古学会連中の言い分を借りると砂漠ではなく森が広がっていた時代の都市跡だった場所じゃ」

俺はヤマダ爺の話を聞きながら縮尺法に則り、水彩画で精巧に書き写された壁画の写し(ページ)を捲りながら全体図を脳内に浮かべる。

(確かに背景画として都市周辺に無数の樹木が描かれている。石窟都市時代より中世に近い石と木の建造物。そして王の台座として五つの生物が中央の何かを囲む様に配置されている。所々欠けているが、これほど綺麗に書き写せたのだから実物の保存状態はさぞ良好だったに違いない。)

俺は横長の壁画中央に描かれた炎の様な図が何を意味しているのかヤマダ爺に質問した。すると皺と髭が目立つヤマダ爺の口から久しく聞いてない重要な単語が出てくる。

「それは聖獣伝説を記した壁画 故に中心に位置する絵は災厄の星屑に相当する何かじゃ この目で見てきたから断言できるが 他の壁に残っておった幾つかの壁画とは明らかに描かれた年代が違う 実物は絵の具を塗っただけの壁絵とは違う半彫刻形式の壁画じゃった 宝物庫は古い墓所を改築して封印したのじゃろう そう結論が出た数年後にわしらが発見した壁を調査活動に出資した豪商が運んで行ったが 砂漠に森が実在した数少ない証拠じゃった もうあの場所には崩壊の危険性で入れないが ジルニアの豪商に聞けば運ばれた壁画を見れるかもしれん ちなみに他の壁画もその本に記録してあるぞ」

俺は項を捲りヤマダ爺が調べた壁画の縮小版を次々に流し見る。ヤマダ爺の言うとうり彫刻画の様に精巧な聖獣壁画と違ってどれも落書きの様な絵ばかりだ。意図的に人物像を簡略化して装飾品や道具を強調させる技法は珍しくない。宝物庫として一時的に使うので、後から消したり修復し易いよう書くのが通例だ。

「聖獣伝説を記した壁画は少ないと聞いたから 俺も現物を見た事は無い あの巨大獣が獣神だと仮定して 他にも遺跡や石窟内で眠った個体が居る場所の心当たりは有るか」

俺の問いにヤマダ爺は本棚から取り出したばかりの地図帳を手に持つと、そのまま俺に渡して二つの地域を探せと言った。同やら旧城塞都市エンティール南部の森没界(しんぼつかい)と、フラカーンから北北西方向約百二十キロ地点の中央山脈東外縁に在る石窟遺跡に可能性が有るらしい。

「砂陰地方は砂陽地方と違って遺跡や石窟寺院の改築が殆ど行われていない あの地方では遺跡を文化財として管理するよりも 盗賊や害獣の根城に成る前に壊してしまう風習があった 現存する遺跡の殆どは統一暦に入ってから発掘された物で 所有と管理権限が明確化されてから修復された物がばかり じゃから発掘含めた調査が中途半端な遺跡に限定してその二つに絞った わしが知る中でお主に調査を命じた石窟以上に可能性が高い」

地図帳には長年使われ続けた痕跡が書き残されている。元が簡略化された地図とは思えない程に線や地図記号が書き加えられていて、都市や交易街の数より遺跡の名が多い。

「その本は最初に使っていた物の四代目 四十年分の探索記録を纏めた物でもある 四十数年かけて国中を行き来し 宿や野営地で小説を書く為の情報源として製作した じゃが険しい中央山脈と危険で遭難し易い森の奥までは調べれんかった お主の考えたとうり忘れられた未踏領域に伝説の生物が眠っとるとしたらその場所を調べ尽くせばいい 獣神自体に興味が有るなら西の龍骸(りゅうがい)渓谷に在る石窟寺院を訪ねてみろ 確か北側の大渓谷内に在った筈 今は例の枯死騒動で谷へ至る山道は封鎖されとるらしいが お主なら山や岩場伝いに谷へ行けるじゃろう」

ヤマダ爺は写真や灰石炭が入った皮袋を俺に渡し、そのまま食事を再開させた。どうやらさっさと食事を済ませて洗い物を済ませてしまいたいらしい。かつて白爺の世話をしていた俺にとっては、目を瞑って矢を避けるより簡単に推察できる事情だ。

(おそらくこの老人は溜め込んだ相当な額を隠居生活に費やしている。白爺も骨董収集に蓄えを浪費するだけの外部資産が有ったから、活用法によっては辺境貴族に成れたのかもしれん。名ばかり男爵の飼い殺し生活は御免だが、旅立つのが数年先だったら今頃は貴族として歩む目標を立てている頃だ。)

無意味な考えを巡らせる俺は、幅広の地図帳から目を離さずに、右手の椀に口を着け豆を入れた汁を一気に胃に流し込む。そのまま飲み干すと空になった茶碗を戻し、今度は焼いた肉片を箸で摘まんで咀嚼し始めた。

地図帳には起伏が激しい山間部には等高線と、川や谷底を記す線と共に探索用の山道までも記されている。旧城塞都市が在る湖の満月湖から東の山岳地帯はエンティール連山と呼ばれていて、標高千から二千五百メートル級の死火山が聳える土地だ。地図上では山々から南は海岸線、西は南西方向に別の山岳地帯まで広大な森が広がっている。砂陰地方の気候と雨水を確保する為に古くから保護されてきた地域で、俺が大好きな筋肉質の肉が沢山住んでいる場所でもある。

(肉を食いながら肉を想像すると味に深みがでる。砂漠地方に入ってからまだ半期しか過ぎてないのに獣の血が恋しい。早く本物を喰いたい気分だ。)

俺は僅かに震える左手に気付き、箸を止めて地図帳を捲って別の地域へと思考を移す。

(アカリ山脈とも呼ばれている中央山脈。標高八千メートルを超える大陸が衝突して隆起した造山帯。地震が耐えないからとうの昔に獣以外住まなくなった砂陰地方の主要水源地。聖獣伝説では森を追われた獣の種族たる始祖族が北方山脈のユカリ山に逃げ延び、人間共が険しい中央山脈を越えて災厄から逃げ続けた始まりの場所。そんな場所に獣神が眠っているのか怪しいな。)

食事の大半を終えた俺は、大皿に載った名も知らぬ野菜の組織片を箸で摘まんでいると重要な事を思い出した。それはこの地に来た仮初の理由であり、形式上後回しに出来ない枯死調査報告書の作成に他ならない。

「ヤマダ爺よ 一つ頼み事があるのだが聞いて貰えぬか よそ者の俺が北方山脈で枯死問題の調査をするのは難しい 現地住人の協力者として調査代行を頼みたい 手元にベルマール商会発行の調査書類が有るから 記入項目に調査結果を書き記すだけで郵送すれば依頼完了だ なんなら完了報酬を今支払おうか」

地図帳を持ち主に渡した俺は何時も以上に白爺の口調を真似、自身の代わりに西で起きている世界樹枯死化の調査を代理を頼んだ。俺には獣神に関係する情報を集める目的が有る。鳥を花を愛で暇を持て余しているヤマダ爺なら容易いだろうが、正直に言うと素人の俺に世界樹枯死調査は難し依頼だった。

「それは無理な話だな なにせもう枯死騒動は鎮静化へ向かっている お主が石窟遺跡を調べている間に知り合いから手紙が届いてな アイアフラウ商会と帝国から派遣された調査隊によって枯死原因が判明したから いま龍骸(りゅうがい)渓谷内に流れる水を調整しようと新しい堤防の建設計画が協議されているそうじゃ つまりもう枯死問題の調査をしても無意味 原因が水質に含まれる域外養分だと特定された以上 ワシを雇う必用など無い」

帝国はともかく、アイアフラウ商会が参加した情報は初めて聞いた。オルガは発掘調査の資金集めを名目に商会に雇われた手駒を使って方々を調べている筈。もしかしたらその資金提供を受ける代わりに手駒を何人か派遣したのだろうか?

「その手紙にオルガルヒと言う名は有ったか 俺と共に枯死獣を追っている探索者なんだが 今はフラカーンに居るはずだ」

ヤマダ爺曰く、獣人の狩人からの狼の瀬に載って運ばれて来た便りによれば、帝国とアイアフラウ商会が百人規模の人材を派遣して枯死化を食い止める作業を継続中だ。二日前まで大規模な土壌と地下水の調査を行っていたが、枯死原因が周辺地域の植生の変化による地下水の減少と森から流れて出た川水による水質変化だと判明して大慌て。商会に雇われたオルガルヒなる助言役の提案で急遽渓谷付近の山間部に堰を建設する事が決まり、多くの業界へアイアフラウ商会と帝国の幼帝名義で人材と物資の募集が始まっている。

「調査隊がいつまで渓谷内に留まるか知っているか もしオルガルヒに会えればあんたをアイアフラウ商会に紹介して没収された資料の返還を頼んでもいい おそらくオルガルヒの調査に参加する位で妥協させる事が出来る筈だ」

俺の言葉に喜ぶわけでも嫌がる様子も見せず、考え事をしながら黙って食後の茶を(すす)るヤマダ爺。俺が知る物欲塗れ(まみれ)の白爺とは違い即決即行動とはいかないようだ。

「枯死した世界樹の処理と枯死化途中の世界樹治療の為に時間がかかる どうしてもあと一週間(十日間)は滞在せねばならんだろうな それと没収された資料が帰ってくるとは思ってない もし未開の遺跡を調査するのなら同行してもよいが 七十を超える老人に出来る事など限られていよう」

茶が熱くて渋いのか、ヤマダ爺は答を出さぬまま湯飲みに口をつけて少しずつ茶を啜っている。俺は夜が深まる前に屋敷を発とうと考え、ヤマダ爺が棚に戻した地図帳を再び引き抜いて龍骸渓谷の場所と目的地への経路を確認する。

「今から向かう腹積もりか 夜遅くなると亜人の体でも容赦無く冷えるぞ あの谷は基本的に関係者以外の立ち入りは制限されておる もし不届き者として捕まっても忙しくてすぐ釈放されるだろうが それでも行くと言うなら道を教えてやる じゃからそれをわしに渡せ」

ヤマダ爺は俺から地図帳を取り返すとすぐ項を捲り始めた。ヤマダ爺が捲る項は俺が見ていた周辺の地形図が記載された項と明らかに違う項で、俺の記憶では地図に使用された記号類の紹介目的で描かれた架空の地図が記載された項の筈だ。

「没収を防ぐ為に暗号化された本はあれだけでない この古い地図帳にも色々と手を加えてある こうでもせんと砂漠を渡りながら小説を書いたり調べ事に励むのは不可能 お主もこの程度の技を覚えておいた方が身の為じゃよ ほれこの項の赤線を辿ってみろ」

俺は手渡された地図帳に記載された山間部の等高線を見回し、間違いを消した際に出来た僅かな消し残りらしき赤い線を目で辿る。

(この山の配置地図は西の山岳地帯で間違いない。わざわざ全面書き起こしの項だから、後から足した部分に何故記号解説欄を書いたのか疑問だったが、どうやら他の赤線も含めて元は山道を示す地図だったようだ。)

ある程度地図を解読した俺は、腹袋に仕舞っておいた自身の地図帳に山の配置や地表の構成含め必用な情報を書き写し始めた。本音を言えばこの地図帳を何等かの手法で入手すれば済む話だが、有用そうな人物を情報を墓まで持って行きそうだと判断して殺してしまうのは惜しい。

「それにしてもオルガルヒとは聞かん名じゃな 確か何かやらかして追放された奴が似たような名前だったが 都市の所為か思いだせん アイアフラウと聞いてようやく思い出せたのだから やはり歳のとり方には注意せんといかんか」

白爺とは違って年齢による老いは隠せないのか、それとも俺を試す為にわざと言ったのかもしれない。俺は年寄りの戯言だと受け取り、やはり押し黙ったまま黙々と転写作業を続ける。

「先に言っておくが この盆地西の山は複合火山により形成された岩山が多い 山道が連なった山々の狭い谷間や峠道に密集しているから 一度道を間違うと大きく迂回する事になる 昔は迷った旅人を案内してくれる夜光族や親切な牙獣族の集落が有ったが 今は世界樹関連の物資運搬経路と化してい宿場が少ない そして渦中の龍骸(りゅうがい)渓谷は南北に長い大渓谷じゃ もし違う出口から谷内に入ると崩れ易い崖沿いの道を通ることになるから確認を忘れるなよ」

俺は短く感謝の言葉を告げてから、大まかな道順を記した自身地図を腹袋に入れて立ち上がる。

もうこの屋敷に留まる理由は無いので、玄関に置いた背嚢とツルマキ含めた自衛具一式を装着したら直に出発だ。

「オルガルヒにあんたの事を報告する 不利益が発生しないよう旅先で出会っただけの元小説家として話すから心配無用だ そして俺が軍の敷地内に入った事実は無くその証拠も無い だからこれの処分を任せる」

俺は玄関の敷居を跨ぐ際に、ヤマダ爺に秘密基地を記録した焦点がずれている白黒写真を渡した。着色技術によって高鮮明化処理を施す事が出来ないようわざと(ぼか)した写真なので、軍敷地内に無断侵入した証拠にはならない筈だ。

「解った これから入る風呂釜の燃料にでも使うから扉を閉めて先へ進むといい 森の中に獣は出んが原野を行くなら止まるなよ」

俺はとても短い相槌を返して引き戸の扉を閉めてから敷地内を歩き、そのまま閉まった門前で石畳を蹴って(へい)を乗り越えた。そのまま森の中に着地すると歩かず走り、夜通しで西の山へと突き進む。

月明かりが乱立した大松の葉で隠れて辛うじて樹木の輪郭に浮かんだ濃淡が確認できる。視覚を熱視に切り替えて白く浮かび上がり始めた森を走り、まだ消化途中の胃が野菜を消化する感覚を抱えたまま夜を走る。上を見上げても月が出ているか判らないが、俺の耳石は確かに大地磁気を捉えていた。


夜光族。太陽族の中とは正反対に夜間のみ活動する植物知性体。寿命も長いが夜行性で洞窟内を好み、夜光花と同様に樹皮細胞の一部や枝の端に発光器官が備わっている。始祖族の中で最も獣人離れした容姿で、太陽族としか精密な意思疎通が出来ない。

古き名で夜を告げる者を意味するアツカンの名で呼ばれていて、夜光族と言う単語より明確な反応を示す。蕾の様な頭部には感覚器官が無いので、異種族が簡単な意思疎通を行う場合は特定の触腕に触れるとよい。


俺はヤマダ邸が在る大松の森を西に抜け。広々とした高原内の原野を更に西へ走った。高原と言っても標高が高い盆地なので、月明かりだけで山裾まで広がる原野を走り抜けるなど簡単だった。

この辺りの山々は標高が二千メートルに届きそうな山々で構成されている。複合火山の中でも複数の山が混在した地形で、鋭山や円錐山が多い割に切り開かれた谷間や川辺を除いて平たい場所は少ない。

獣ですらない野生動物を何度も見かけながら三つ子山の尾根を走り、岩場や山中の崖から跳躍し何度も川や山道を越える。時折観光地図に書いた幾つかの山道線を思い出しながら周囲の地形把握を行い、あえて人目につかぬよう岩山の狭い尾根を走ったりもした。

野を走り山を越え闇夜に浮かぶ数十メートルの吊橋を何度目か渡った頃、俺は現在時刻を確認しようと西へ伸びた山道を走りながら懐から懐中時計を取り出した。

(四時間近く走り続けてもまだ三分の一か。この調子なら合わせて一時間程度体を鎮めるだけで目的地に到着できそうだ。)

左方向斜面下の百メートル前後辺りを流れる川が月明かりに照らされ、一部が鱗の様に輝いて見える。俺はその光景を思う存分眺めながらも足を動かし続け、深夜時間で全く生物の気配が無い山道をひた走る。

北方山脈と中央山脈は旧時代から続く文明による汚染が少ない。標高が高く平地が少ない中央山脈と違い北方山脈では古くから鉱山開発や山間農業が盛んで、山間部の谷間を流れる川の多くは人工的に整備された運河だ。

(龍骸渓谷か。地図帳を見た限りでは化石化した本物の巨大獣が横たわった様な地形だった。谷底の標高が千メートル下回っているから周辺の運河や地下水が自然と集まり易い。世界樹に必用な砂中成分が不足したと言うより世界樹の栽培量を間違えたのが原因だろうな。)

龍の骸の名がつけられた大渓谷は、北方山脈西側中央に有る二つの盆地が大きな渓谷によって繋がっている地域だ。盆地と山裾の開拓地含めて山脈西側で最も居住面積が多いと観光案内雑誌に書かれていた。そして大渓谷である龍骸渓谷内の北盆地には古くから数種類のアローエ系世界樹が自生していて、南側で栽培されている改良種の原種である世界樹が森を形成している。

アローエ系は保水性に優れているので北方山脈内に多く植えられている。殆どが樹齢百年を越していて、第六要塞南に広がっている中央盆地含め複数の盆地を部族水源地として機能させる重要な存在だ。

俺は龍骸渓谷へ流れる運河の内、北東方向から北盆地内へ流れる大腸川を見下ろせる崖沿いを走っている。北盆地東側の山の尾根を到達点とすると、現在地から目的地まで直線距離で残り四十キロ未満の道のりが待っている。疲れを殆ど感じないこの体なら遠い距離ではないが、途中に高過ぎて越えられない岩山や飛び下りると落下死する崖が在るので迂回する必要が有る。

俺は北方向へ曲がっている山道の曲がり角から道を外れ、頂上の岩場から崩れて転がり落ちた岩が多数有る山裾へと斜面を走る。坂道で重い荷物を背負ったまま走る姿が目撃されれば不要な噂が立つかもしれない。それでも俺は速度を殺さず加減もせず小石と共に斜面を走った。


牙獣族。牙獣の特徴を受け継いだ始祖族の獣人を指す共通語。始祖族達の間では古くから戦士を意味するチヌークの名で呼ばれている。

個体により差異が有るが、発声気管の都合で全ての共通言語を使いこなせない。高い身体能力と生命力が特徴で、人より寿命も長く秘境内の汚染環境にも耐性が有る。

始祖族でもっとも個体数が少なく、北方山脈内に牙獣族のみの集落は無い。現在多くの牙獣族は帝国と大部族団の秘境を行き来する狩人や探索稼業に専念している。


ヤマダ爺の屋敷を出発して十四時間と三十数分。ほぼ半日を費やして、俺は龍骸渓谷北盆地が見渡せる高さ四百メートル未満の尾根に到着した。

太陽が西側に見える谷から昇ってから四十分が過ぎた頃か、まだ日の出直後で太陽の光は盆地内に届いてない。太陽の光に体正面を照らされ、火照った手を空にかざすと湯気が出ているのが見える。夜明けから然程時間が経過してないので山の上の温度は氷点下近くまで下がったままだ。

「盆地にしては狭く湖も小さい 渓谷の谷間を埋め立てた様な場所だな」

南北へ地の先まで続いている大渓谷を視界に入れなければ、第六要塞南の中央盆地の五分の一程度の広さとは思えないくらい小さく見える。盆地面積は3.6キロ㎡で中央に南北に長細い形の湖が在り、その湖を囲うように東西の山肌には山岳農園の様な段地が整備されている。

(枯死化した世界樹とその一歩手前のアローエ系世界樹の林。ここが龍骸渓谷で間違いないようだ。)

石窟寺院らしき建物と近辺に密集している天幕の垂れ幕より、斜面山腹から山裾を越えて湖畔まで広がる世界樹の枯死具合の方が目立っている。特に山裾に植えられた配合種らしき世界樹畑を境に盆地内の枯死状況が別れていて、数が多い湖畔側の世界樹の森が綺麗な白髪の森に変わっていた。

「折角だ 下りるのはアイアフラウ商会の天幕を見つけてからにしよう」

俺は眩い朝日から目頭を手で覆い、暗い盆地西側へと視界を拡大させる。東西の山裾に点在する白い仮設式部族天幕の形や大きさが明瞭化し、大半の天幕が雑多な配置のまま狭い団地内に密集しているのが解った。

どの天幕にも色とりどりの垂れ幕が尖った屋根から垂れ下がっている。天幕を内側から支える主柱の最上部に旗形式で設置してある垂れ幕が殆どだが、アイアフラウ商会の単純な紋章は雑居天幕には無さそうだ。

(白地に赤褐色の玉を四つ並べた横列が縦に三つ重なっただけの紋章。あんな手抜き紋章なんてそうそう目にしない代物だ。帝国出身者とは言え帝国との関わりを絶った男だ。帝国王家の隣で野営しているなんて事は。)

盆地西側の岸壁に岩茸の如く建設された半円形状建物の屋根に、帝国王家を意味する金色の大冠で拘束された二体の巨大獣と共に酷く単調な玉の列が重なっただけの白い垂れ幕が垂れ下がっている。俺の目が正しのなら身分と名を詐称している元団長は、あろう事か地位と名声を捨てて逃げた国の時期国王候補が派遣した集団と同居している事になるのだが。

(部族界隈の古い知り合いから隠れる為にあの場所を選んだのか、単に商会の都合で帝国から来た調査隊の世話係を頼まれたか。もしかしたら肝心のオルガは居らず配下だけを出張させただけかもしれん。)

俺はまだ寝静まって静かな盆地へ下りようと決め。最初の着地場所から高さが五十メートル近くある断崖の崖から飛び降りた。衝撃を受け流す為に全身を硬直化させて衝撃に耐えつつ、両手足での着地を何度も繰り返して東側山裾の斜面へと降り立つ。

そして今度は山裾から階段状に区画整理された団地畑の間を走り、農道らしき石階段を下って湖畔の森へ続く盆地内に整備された石畳の山道に合流する。石畳の山道は谷沿いの裾野内を縫う様に南北へと延びていて、石畳には車輪が石表面を削って出来た浅い(わだち)が出来ていた。

(天幕の数が多い。盆地内の商会だけでなく近辺の商会から供出された天幕も含まれているはず。この盆地だけで何百もの人員が寝泊りしているのか。)

俺は広い渓谷内の斜面に生えた巨大な雑草の様な世界樹を見回しつつ山道を南へ走る。右方向の斜面の向こうには貯水池らしき湖が在り、第六砦の貯水池とは違う緑色の湖面が朝霧を発生させている。霧により谷底からでは盆地全体を見渡せない。山の崖から見えた寺院もこの場所からでは見えなかった。

そのまま石畳の山道を爪先で蹴って走り、霧深い湖を東西に通行できる浮き桟橋前で方向転換。そのまま土が盛られた斜面を少し下って筏の様な浮き桟橋を揺らしながら走る。俺の足爪が金属板の足場を引っ掻くたびに、木槌で鍋を打ち鳴らした様な音が鳴る。もしかしたらこの音で寝ている者達の目を覚ましてしまうかもしれない。

俺はそう考えながらも、霧の中へ続く浮き桟橋を走り続ける。どの浮き桟橋にも湖底との係留柵は無いので、水位が変動しやすい湖なのかもしれない。そもそも浮き桟橋は太い釘の輪に鋼線を通しただけの代物だ。深く想像しなくても谷の住民を通行させる為だけに設置された物だろう。

霧が晴れ始めた途端。数十メートル先に対岸と浮き桟橋を固定する係留線を束ねた支柱が見えた。俺はそのまま支柱を固定する為に土で盛られた坂道を駆け上がり、西岸沿いに在る石畳の山道で一時止まる。

「遺跡を改築した寺院 支柱沿いの石階段を上がれば正門へ至れるはず」

俺は山道と西側斜面との間に在るアローエ系世界樹の林を突き抜け、岩場前で腐葉土を蹴って五メートル未満の高さに有る石階段に跳び乗る。

(元々寺院は石窟遺跡だったのか。半笠茸の様な寺院を山腹に立てる為に崖を削った跡が有る。)

石階段は木造寺院を支えている木の柱の間を蛇行しながら上へ続いている。俺は石階段を辿らず、人為的に削られた元石切り場らしき崖を跳びはね崖を登り、そのまま寺院直下に位置した石階段最上段へと到達した。

俺は最上段の石階段を登って岩場を南方向へと登り、下から見えていた寺院正門が在る坂道へと合流した。

寺院正門は統一暦に変わってから建てられたらしく、寺院本体と同様に経年劣化箇所が少ない。正門は柱を赤く壁を白を基調とした壁で構成されていて、高さ四メートル程の上部には木板を挟んで並べた緑の屋根が被さっている。

(扉が開いてて助かった、これで破壊せずに素通りできる。それにしても寺院と言うより旅館の様な本棟だな。アイアフラウ商会と帝国から派遣された調査隊が根城にするのに丁度良いと言う事か。)

樹皮の表面に生える半笠茸とほぼ同様、半円形の緑屋根が特徴的な住居が岩から生えたように四段積み重なっている。半笠茸は積み重ならず笠自体で独立しているが、目の前の寺院らしき旅館は重なった二枚の住居が上下左右ずれた位置に建てられてた建築物だった。

「龍骸北寺院と部族宿 成る程な」

俺は入り口たる玄関の両脇に置かれた板看板の間を進み、閉じられた木製の大きな両開き扉の取っ手を掴んだ。

(流石に開いてないか。内側から錠前で固定されているから戸を叩いて使用人を呼ぶべきだろう。)

そう思い右手を赤い扉へ近付けようとしたが、直に思い留まり右腕を下ろす。なにせ俺はこの盆地内に居る者共とは違って呼ばれてない部外者に過ぎない。幾らアイアフラウ商会と繋がりが有るとは言え、同商会から派遣された調査員がフラカーン支部員やオルガと接点が有るかどうかまだ判明してない。

俺は身を翻し赤い全木製の両開き扉がら十歩離れ、高さが八メートル近く有る二階建て住居と近くの崖を同時に見上げる。

二階構造の独特な建築物が崖の岩場で上下にずれた位置で並んでいるが、果たしてどちらが本物の寺院なのだろう。下の本棟には一階屋根の上に展望通路が増設されていて、上の本棟二階屋根の広そうな足場よりは立派な造りだ。

ヒバメ(砂鳥人)達専用の足場だ となると上が部族宿だろうか」

俺は建物内部に侵入することを優先して思考を切り替え、左手の断崖をよじ登って下の建物内へ侵入できそうな道順を探した。

(宿泊している連中や獣人に見つかる前にオルガと接触できれば文句なしの上出来だ。ただその可能性は低いから逃げ道も考えておかんと危なくなる。)

岩の組成には精通して無いので、硬く隆起した岩盤層の崖をよじ登っているとしか表現できない。ただ俺の手足の爪は牙獣の物より頑丈なのは確かなので、重い装備分も含めた体重を肥大化した黒い爪に乗せても砕けたり曲がったりはしない。

突起や僅かな窪みに爪を差し込み崖を順調に昇って、建物一階の緑屋根へと右足を伸ばす。俺の自重だけで構造材が折れたり軋む音を鳴らしそうな屋根外側を避けて、俺は正門の屋根と同じ造りの緑の大屋根に降り立った。

展望通路は赤と青の塗装が施された木枠の手摺で囲まれている。手摺自体は俺の体の半分程度なので、太い支柱に足を掛けて少し上がれば簡単に手摺を越えれた。

展望通路である板張りの床に立つと、直に崖沿いから谷内に広がる世界樹と湖が目に映る。先程まで湖と周辺に漂っていた霧は跡形も無く消えていて、朝日に照らされた谷東側の崖上部に西側の稜線が影を生み出している最中だ。

(あの崖から飛び降りて正解だった。あと少し遅れていたら俺の姿を不用意に晒していた。)

俺は無言のまま呼吸を整え、足音を立てずに板張りの展望通路を歩く。板は特殊な保護液が塗られているらしく、湿った樹木片を焼いた時に生じる独特な匂いが俺の嗅覚を遮った。

展望通路はそれぞれの部屋と建物奥へと通じた廊下と繋がっていて、奥へ通じた廊下内は静かなままだ。俺は寝息すら全く聞こえない廊下をゆっくりと歩きながら、今歩いている建物が寺院だと判断した。

(建物中心部の吹き抜け構造。そしてこの防腐剤や金属用酸化防止油の匂いと外へ流れ出る空気。間違いなく石窟遺跡が近くに在るぞ。)

十メートルにも満たない廊下を進んだ先には、建物外側に在った展望通路と同種の通路が在る。外側と同様に吹き抜け構造の中段を半円状に露出した崖内部と繋がっていて、二階部分と同じ高さに在る石窟入り口とも繋がっている。

俺は展望通路の手摺から一階と二階の床から天井までの吹き抜け構造内を見渡し、一階から二階の四角く切り抜かれた石窟入り口へ至る木製階段周辺に並べられた様々な像を見下ろす。

(石像や銅像より木製の立像が多い。殆ど獣人の物ばかりだが、一応人間や亜人らしき像も有るな。それにしても年代や種類含めて整合性が無い。おそらく例の月神信仰たるユカリ教に関係した像だろうが、寺院と言うより宗教物を収めた保管庫だ。)

少し湿った空気の冷えた本堂内には噂で聞いた月神たるユカリを祀る像が壁際や階段傍に幾つも並んでいて、どこぞの王廟内での光景が脳裏に浮かんだ。そして空気中に獣人だけでなく人間の臭いが僅かだが混ざっていて、それらの匂いを含む空気が石窟入り口から流れているようだ。

俺は今更ながら、林の麓から五十メートル以上高い岩場に建てられた全木造製の高床式建築物に入ったと自覚し、本来の目的を思い出す。周囲の部屋に生物らしき匂いや音が無いので部屋と廊下を区切る引き戸を開けると、やはり畳みが敷かれた部屋には誰も居ない。

(この建物で記録書の製作や管理作業を行っているのか。上の居住施設へ上がればオルガの匂いが有るかもしれん。)

畳みが敷かれた扇状の部屋には机や椅子と共に複数の本や書類が積まれている。大半が木箱から出されたまま紐を解かれず放置されていて、万年筆の墨を入れた容器や書類の束から合成液の臭いが漏れ出ていると見ただけで解った。

「アイアフラウ商会の紋章だけだ なら隣の部屋が帝国から派遣された調査隊の作業部屋に違いない」

俺は引き戸を閉めると、廊下を歩いて平らに切り出された岩場へと歩き始めた。周囲には誰も居ないと判断したので多少足音を発てても問題無いはずだった。

「朝早くから仕事ですか 貴方調査隊の関係者ですかそれとも」

二階通路の石窟入り口奥から何者かが歩いて来る足音が聞こえたのと同時に、廊下を歩いていた俺はその石窟通路から出てきた多角族の女と遭遇してしまった。獣相手なら瞬間的に近付いて脅すなり息の根を止めれば済む状況だが、どうやら相手はこの(いびつ)な施設の管理者か関係者らしい。

「偶々(たまたま)近くを通ったからアイアフラウ商会の知り合いが居るかどうか確めに来た お前はオルガルヒと言う名か帝国系の顔の老人男性を知っているか」

背中に背負っている大きな背嚢やツルマキ含め、全身に傷だらけの各種探索具を装着している亜人なんて探索者以外ありえない。だから緑色で上下一体の着物を纏った多角族の女性は俺を探索者だと直に理解し、アイアフラウ商会から来た取り纏め役は此処には居ないと説明し始めた。

「オルガルヒ様と一行はこのアローナ寺院跡を拠点に利用してますが 現在南の盆地へと出払っていて不在です 何用で何時帰って来るのか我々は知りませんので 他の者に聞けば解るかも知れませんね それより貴方は何処から入って来たのですか 亜人や獣人と言えども不法侵入は罪よ」

適切な言い訳が思い浮かばず言い澱む俺に対し、多角族にしては背が低い女は自身がこの施設の管理者だと説明。この場所は調査隊に空き部屋を提供している以外は、他の地方から移された宗教物の管理を行う場所だと告げた。

「一階に有る物は全て 統一暦施行後の寺院廃止冷による略奪を防ぐ為に周辺の寺院から集められた物ばかり 石窟寺院を改築した他の倉庫にも宗教物を保管ぢてあるから 此処に有る物はその一部」

俺は視線を中年管理者から外し一階を見下ろす為に向きなおる。管理者に説明されてようやく多くの像が雑居状態で置かれている理由が解り、古都バスムールに在るベルアラ王廟に保管されていた歴史資料では発見できなかった手掛かりが有るかもしれないと考えた。

「おそらくオルガルヒも聞いたんだろうが 俺も獣殺しの始まりとされているあの伝承に興味が有ってな 此処にはユカリ教に伝わる始まりの秘薬に関係する宗教物は有るのかどうか知りたい」

始まりの秘薬とは今から千年と七十数年前にまで遡る。歴史上世界で始めて量産に成功した害獣駆除用の薬品の起原とされている代物。この始まりの秘薬の存在を後世に伝えた伝承を東方錬金説と言い、錬金術と言う概念を砂陽地方に広く普及させた始まりだと伝えられている。

「始祖血清の研究をしていた錬金術師の像なら有ります 私は専門家ではないので研究内容についての詳細は語れない オルガルヒ様と同じく人物史の簡単な説明なら可能です なので説明を終えたら出て行くと約束するなら案内しましょう」

その条件を呑むと回答した俺は、長い黒髪で大きな曲がり角が両耳の上から突き出た管理者の後を追い中央階段を下りて一階へ移動する。塗装が施されず年季が入った木造階段を軋ませながら管理者の左後方で話を聞き、始まったばかりの宗教物保管状況と保管へ至る経緯から聞き始めた。

「この一階では見てのとうり重い像を保管してます 始祖族の英雄や偉人から獣神を祀る神像まで年代を問わず運ばれて来たので 貴方が求める錬金術師達の功績を称えた像も複数有ります ただし関係書物は専用の調査許可書無いと見せれないので 今回は像の解説だけで諦めるように」

緑の着物を纏った管理者は人間と殆ど同じ素足を冷たい板張りの床に乗せると、広間を階段四五段分だけ高く設けられた入り口側へ行かず階段の後ろへと曲がりながら進んで行く。

一階の床は全面板張りだ。大きな立像の一部が一階外周通路側へはみ出ていて、床の積載重量の関係で階段から遠い場所には何も置かれてない。

「階段の裏は岩場なので重い物は全て階段億の部屋で保管してます 高名な錬金術師シルバールの青年像と老年像も他の錬金術師の像と纏めて置いてあるから説明は数分で終わるでしょね」

俺は管理者に導かれ石窟を改装した片方の暗い物置空間内に入った。管理者は天井に吊るされた電灯から垂れ下がる紐を引っ張り照明を点灯させると、削られた石壁や天井を除いて周囲の壁に並べられた多くの像が姿を現す。

「これがミノスケ(多角族)の血筋を引く錬金術師シルバールの写し像 本人が生前木彫師仲間に頼んだ作品で 完成したのはかの人造緋色液を完成させた数年後だと記録されてます」

丸い部屋内の入って左側奥に並べられた複数の立像の内、管理者は壁側の最後列に並べられた等身大の立像

を右手で指し示した。立像は無塗装で少し黒ずんでいるが、貫頭衣を着用し頭に管理者と似た角を持つ人間の姿とよく似た人物で間違いない。

俺は像が左右別々の手に持っている酒瓶と角笛らしき容器を見ながら管理者の説明に耳を傾け始めた。

錬金術師シルバール。北方山脈がまだユカリ山岳群と呼ばれていた千年と少し前の時代、同山脈内の龍骸渓谷近辺に在った集落で農家を営む家に生まれた。兄弟は無く幼い頃から両親の農作業や家畜の世話を手伝い、長老から簡単な読み書きと算術を教わる日々を過ごしていた。

十歳の誕生日を迎えた頃。近くの村から来た同い年の人間の少年と比べられ、己の小さい体から自身が貧しい家庭に生まれたと初めて認識する。シルバールは貧困から抜け出す為に村を定期的に訪れる人間の商人に弟子入り、長老の掟をあえて破り本格的な学問の道に入った。

シルバールは商人と共に砂陽地方を旅して周り、十代と二十代を帳簿と在庫管理作業に費やし数学と錬金学の基礎知識を習得する。当初から僅かなお小遣いを溜めていたのが功を奏し、自力で持ち運びが便利な農業用固形肥料を開発。これを切っ掛けに二十七歳の春に商人の下から独立した。

それからシルバールは肥溜めから採取した材料を基に各地で固形肥料を売り歩き、時には行商生活を過ごしながら各分野の専門書を買い読み漁る生活を続けた。

三十を迎えたシルバールは習得した多くの専門知識と資金を基に故郷の集落を活性化させようと集落が在った場所へ帰ったが、数年前に発生した水害と疫病で両親が死亡した事実を知って故郷を後にする。

その後シルバールは山を下り、習得した錬金学の知識を培い発展させる為に旅医者として都市間を放浪するようになる。シルバールの名が錬金界隈に伝わるようになったのは、三十六歳の時に枯死化した世界樹により汚染された水である石炭水から独自の手法で燃水を抽出した頃からだ。

当時の燃料事情は石炭や陸珊瑚海岸で採れる黒血石を代表とする熱石が主流だった。砂漠地方では木炭は貴重なので、湯を沸かす際は主に覇王樹ジェノーバから採れた夜光石を使い昼間の内に温水を確保するのが市民の習慣として浸透していた。

まだ西大陸でも原始的なガス供給網が整備される前の時代。地下資源や鉱山だけ恵まれていた砂陽地方にとって、当時まだ畑の肥料や乾燥剤としてしか使い道が無かった石炭水が燃料用油として利用可能だと知れ渡るまで然程時間を要さなかった。

シルバールは当時の有力者や豪商から多額の資金援助を受けていた。およそ二年半で枯死した世界樹から、現代では合成材料として知られている白石炭や灰石炭の原型である乾燥粉末を完成させると、後の世界樹産業の基礎を構築する数多の錬金術師と共同研究を始めた。

始まりの秘薬の存在をシルバールが知る数年前。まだ四十代に入る前から世界樹を食し枯死させる天敵を駆除する為の合同研究計画が始まっていた。狩人や都市警備隊含めた枯死獣討伐実績が有る者達も参加し複数の案が研究されていたが、高い再生能力と砂漠環境への適応性を併せ持つ異形の生物を世界樹や交易路に近づけさせないだけで精一杯だった。

四十二歳の頃、シルバールは他の錬金術師と共に研究職種として合同研究計画に参加。幾度も現地調査を実施し数度枯死獣から追われる体験を越えて、枯死獣から採取した血と世界樹の樹液に類似する点を発見する。直にシルバールと錬金術師達は枯死獣の絶滅のみを目的とした特効薬たる始祖血清、若しくは人造始祖血清の開発に着手したが、開発は難航し一時頓挫しそうになった。

その頃に東方から来た異民族の人族錬金術師からシルバール含めた錬金術士達の手に始まりの秘薬が渡る。研究の大部分が始まりの秘薬が有す特殊な獣因子の解明へと注がれ、その研究結果により獣因子の活動を抑制したまま体内で分解される人造緋色液が誕生した。

シルバールは枯死獣を絶滅させ後の世界樹産業の発展の礎と成った砂陽の偉人として語り継がれ、生前から獣人でありながら富と名声を得た数少ない始祖族出身者として認知されていた。

シルバールは現在の豪商民に相当する有力氏族等から、私有地付きの屋敷や財資を見返りに専属顧問職への就任を求められていた。しかし自由気ままな老後生活と研究時間確保を名目に全てを一蹴。生涯独身で養子もとらずにフラカーンに移り住んで余生を過ごした。

死期を悟ったシルバールは遺書を残し、死ぬ前に知り合いに渡した特定の学術書以外の財産を全て処分するよう綴る。遺書をフラカーンのユカリ教寺院に預けてから三年後に死亡。死因は当時流行していた獣因子欠乏による多角族特有の先端硬化症だと推測されている。

当時はまだ寺院が行政施設として機能していた時代なので、葬儀は本人の遺言により北方山脈南部地方の寺院で執り行われた。現在は観光街に指定されている南台地町の寺院に、遺灰が遺言どうり世界樹の肥料として撒かれた記録が残っている。

「しかしシルバールの死亡年代は定かではありません 出生地と共に記録に残されてないので不明ですが 未統一暦八百八十年ごろだと噂されています 人造緋色液の研究に関わった錬金術師は シルバール含め全員が始まりの秘薬を運んで来た者の存在を秘匿しました 研究自体の危険性が高い為に内容や詳細が流出するのを危険視したと仮定されてます」

その言葉を最後に管理者は錬金術師シルバールの立像から体を俺へと向けなおし、そのまま退出するよう促した。俺は逆らおうとはせず素直に命令に従い狭い通路を戻り始めると、背後の空間内から通路の入り口側までを照らしていた乳白色の灯りが消えた。

(オルガから聞いた以上の情報は無かった。結局、覇王樹始祖王から採れた緋色金を分解精錬したらしい人造緋色液と始祖血清は枯死獣の絶滅と共に破棄され製造法も失われてしまった。オルガは始まりの秘薬を運んで来た錬金術師が陸珊瑚海岸の探索街の一つに工房を建てたと言っていたが、結局オルガも明確な場所を特定できずに終わっている。果たして本物への手掛かりは残っているのだろうか?)


アローエ系世界樹。食用から薬品原料素材として栽培される世界樹。ぬかるんだ湿地の土地改良効果が有り、主に水辺近くでの栽培に適した巨大多肉植物。成長速度が早く長く太い葉を方々に伸ばし続けるので、放置していると十数年で五十メートルを超える大樹へと成長してしまう。定期的に茎の先端部を刈り取る事で成長を遅らせれるが、採取管理を怠ると一気に根まで枯れてしまう繊細な種だ。


西から昇っていた太陽は既に東の山向こうへと沈みかけている。オルガに会う為に渓谷内の山道をひたすら走り続けた甲斐があって、どうにか夕暮れ前までに龍骸渓谷の南側に有る盆地内の石窟遺跡前まで辿り着けた。

俺は今疲労で鈍くなった体を休めに、盆地東斜面の岩肌に在る石窟遺跡入り口の石造り建造物内で休んでいる。この石造りの建造物は北盆地内のアローナ寺院跡とは違い大きく改築された痕跡は見当たらない。石窟遺跡特有の岩盤層を切り抜いた空間内を照らす灯火の光が薄明るさを演出していて、階段状の入り口から入って直の広く四角い空間内に置かれた石造りの長椅子が体の火照りを鎮めてくれている。

(十二時間近く走ってようやく四十五キロ前後。重装備を抱えたまま夜通し走った影響で体の動きが悪くなってやがる。)

俺は水筒に入れた獣の血を全て飲み乾し、血染めと俺の獣因子が栄養分を補給するのを待つ。亜人の細胞内に有る獣因子は獣人より獣寄りの因子だ。当然獣由来の瞬発力や持久力を維持する為には獣同様に多くの血肉が居る。幾ら血染めや龍の因子が特殊だからと言っても、栄養補給を欠かす事はできない。

(オルガは枯死調査が終わったから石窟遺跡の探索を始めたようだ。探検家の直感がこの遺跡に始まりの秘薬の手掛かりが有ると告げたのだろうか。)

先ほど出合った石窟入り口前に居る門番含め、俺は南盆地内に来てからオルガルヒの居場所を探しに聞き取り調査を行った。あの帝国由来の堀が深く頑丈そうな顔はこの辺りでも珍しいのか、アイアフラウ商会から派遣されて来た探検家の動向について簡単に知る事が出来た。

(派遣されたのはオルガルヒなのは間違いないが、まさか調査活動が終わってすぐ帰らずに居てくれた事で出会えるとは思わなかった。探険家と言うのはつくずく遺跡や廃墟が好きなのだな。)

何時までも長椅子から足だけを投げ出した状態で寝転がっている訳にはいかない。そう考え俺は上半身だけを起こして石窟追跡内へ入る準備を始める。

(手掛かりは僅かに残る老人特有の加齢臭と獣用葉巻タバコの臭いだけか。どちらも嗅ぎたくない臭いだが、今は一刻も早く合流して情報交換と今後の行動予定を考えるべき。幸いな事に此処は人が寄り付かない遺跡倉庫だから、秘密の会話を聞かれる心配をせずに済む。)

俺は長椅子の脇に置いた背嚢からツルマキを外して背負い、腹袋と各種探索具を帯の袋に入れ直してから立ち上がった。そして最後にツルマキを展開しないまま両腕に持つと、腰帯に提げた照明具に灯りを灯す。

墓所の様な四角い空間内を緑色の光が埋め尽くし、灰色の壁と天井に不気味な影が映った。俺はそのまま待機部屋から奥へ真っ直ぐ続く階段を下り始め、爪先と足裏から伝わって来る硬く冷たい感覚に神経を集中させた。

聖獣伝説に登場する獣神の一柱にして、始祖族の間でキリンと呼ばれている一角族の門番の曰く。この石窟遺跡は前時代初期に湧き水が枯れて棄てられた地下道を改装した地下倉庫だ。現在は地下一階部分を世界樹や近辺の畑から取れた農作物を保管する場所として使っているので、オルガを追跡している俺の鼻を邪魔しようと何処かで嗅いだ事のある匂いが階段下から溢れ出ている。

「この匂いは乾燥した豆類 ホウキの農場に在る穀物倉庫と同じ匂いだ」

家屋の階段とは比べるまでもない長い階段を下りると、地下一階の各部屋と繋がった地下道が集約した広間へと辿り着けた。この場所までなら探索と言うより捜索活動感覚で下りて来れるが、これから向かう地下三階層までの道のりは探索者でも迷い易い場所らしいから注意が必要そうだ。

俺は上の待機部屋と似た造りの部屋を歩き、降りて来た階段と反対の位置に在る階段へと足を踏み入れ地下深くへ下り始める。

(オルガが門番の男に伝えたとうり試掘トンネルの調査目的で遺跡に入ったとしたら、合流するまで上で待機している訳にはいかん。おそらくこの遺跡はオルガが二十二年前に帝国調査隊として活動している間に調査できなかった場所の一つだろう。トンネル調査を方便に封鎖された地下区画の探索をしている可能性がある。幾ら探検家と言っても所詮人間、獣が出なくても迷えば遭難する。)

俺は段々造りならぬ削り具合が粗くなりつつある石階段を下りながら、両目の視界を交互に切り替え始めた。熱視と通常視界を拡大させた遠視で緩やかな階段の先を見て、動体の影すら逃さず捉えようと無用な瞬きを控えた。

石窟遺跡と言えば地下深くまで掘られた坑道と地下住居跡。そして外敵の侵入を想定した地下迷宮と方々の地下洞窟と繋がった抜け穴。時代を遡れば獣だけでなく亜人や獣人から逃れる為に人間が掘った石窟遺跡も多数存在していたので、崩れ易い場所が残っていたら崩壊に巻き込まれる可能性が有る。

事故や事件とは何かしらの不運が重なって発生する。白爺は運に左右されないよう事前に情報収集と準備を怠らないよう務めたらしいが、やはり探索に不運は憑き物だと何時も言っていた。

他者の口癖を飽きるほど聞いた俺がそんな状況に遭遇したらどうすべきか。白爺の様に憑き物を無視して逃げ出すのも手だが、折角手に入れた能力と自由意志で思う存分道を進んでみるのも悪くない。

階段を下った先には、地下墓所の様な荒削りの坑道が集約する地下道が真っ直ぐ前方に続いている場所だった。俺は嗅覚が僅かに感じる何かが腐った様な腐敗臭に眉を顰めると、想定どうり準備していたガスマスクを装着してから道を歩き始めた。

ガスマスクによってオルガが残した匂いを辿れなくなった。熱視もガスマスクの透明板を挟んでいるので遠くまで見えない。それでも腐敗臭を長時間嗅ぎ続けるよりは何倍もましなので、土や埃が堆積した地面に残された真新しい大きな靴跡を辿って前に進む。

砂岩層らしき壁には他の通路や部屋への出入り口が開けられている。幾つかの通路は崩落によって塞がっていたり、そもそも未完成なまま放置された場所も有る。しかし地下空間にしては狭い幾つかの部屋には人間含めた生物の骨が積まれていて、ほぼ間違い無く腐敗臭の発生源だと推定できた。

(乾燥していながら澱んだ空気の所為でミイラ化している物が有る。幾ら細菌の心配を殆どしなくていい地方だからと言っても、死体の処理くらいはやるべきだろうに。)

俺は門番から教えられた千年以上前の地下墓所を進みながら、通路や部屋へオルガの足跡が入ってないか一つずつ確認する。時折足跡が枝分れした狭い通路の入り口付近で重なっていて、通路や部屋の奥から出入りした痕跡がオルガの目的を物語っている。

(やはり地下三層の試掘トンネル調査は方便だな。このまま一気に通路を通って三層へ続く階段を下りてしまおう。)

昔の俺なら何も感じなかったが、龍の因子を受け継いでからはガスマスクをしているだけで妙な圧迫感を感じるようになった。単に五感の一部が制限される様な圧迫感ではないのは明白で、第六感とも言える方位感覚などにも影響を及ぼしているらしい。

俺はガスマスクを一秒でも早く脱ぐ為に足跡を辿る足を速めた。そして地下通路の奥に階段を見つけるとそのまま駆け出し、足音を発てつつ急な階段を下りて三層に到達した。

地下三層は上の似そうとは比べる必要もない程に造りが荒い。崩壊層の岩盤から崩れ落ちた岩の破片が足元の壁際に幾つも転がっていて、降りて早々出くわした分岐点から先は紛れも無く三つの坑道が奥へと続いている場所だ。

「何故か空気が新鮮に感じる まぁ直に息苦しくなるだろうが」

溜息を吐きながら肺の空気を入れ替え、すいでにガスマスクを脱いだ感想も漏らしつつ地面の足跡を探す出す。僅かに堆積した砂にそれらしき足跡が残っていたので、俺は鼻でオルガの臭いを確認しながら右端の通路奥へと進んだ。

地下三層内の坑道を進むと、直に旧時代に掘られたとされる地下住居跡に似た区画へと出た。ヤマダ爺の依頼で調査した石窟遺跡上層と同じで、白い粘土材らしき人口石材で壁から天井と床まで舗装されている。

(足跡が途切れている。この坂道から先は塵すら積もってないから足跡は殆ど残らない。僅かに残った臭いだけが頼りだ。)

俺は両側の壁をくり貫いて部屋とした住居跡を目にしながら緩やかな坂道を進み、途中で他の地下坑道と交差した十字路で立ち止まった。

十字路を見渡し残った臭いを嗅ぎ分けていると、神の園南盆地内北部の遺跡に巣くっていた竜蜂の巣穴が脳内に思い浮かんだ。あの時はとにかく中心を目指して進んでいたから気にも留めなかったが、途中で臭いが消えていたら捜索を断念して道を引き返さなくてはならない。

(傷を付けても問題にはならないだろう。なにせ文化財登録もされてない石窟倉庫だから地割れで崩れてもそのまま放置されて終わりだ。)

俺は自分の爪を利用して右側の壁に引っ掻き傷を付ける。とりあえず落書きだと判る程度に数字と矢印も刻んでやれば、道しるべの変わりになるだろう。

目印を刻んでから十字路を直進した俺は、臭いを頼りにオルガ探して続けて地下住居跡を歩き続けた。ゆっくり進んだ為に時間にして二十分ほど掛かってしまったが、既に見飽きた地下住居跡を越えた先の地下坑道奥に俺の照明具とは違う色の灯りを発見した。

(オルガが使っていた照明具の赤い光だ。こんな奥に来てまでして始まりの秘薬に関する手掛かりが見つかるとは思えないが、一体オルガは何を探しているのだろう。)

俺は対象が無関係な別人だった時を想定して、念の為に照明具の光を消してから追跡を始める。狩人時代に散々獣を追い掛け回した経験から体が勝手に動き、足音を発てず息も少なめに獲物を狙おうと視野が狭まり始めた。

視界が遠視効果で狭まって見え、坑道奥の曲がり道の先を進む何者かを追って足が早まる。歩幅を縮めた小走り状態で曲がり角まで進むと止まり。曲がり角右側の壁から顔だけ出して獲物の様子を観察する。

(あの体は人間の男で間違いない。おれより頭一つ半大きな体と幅広の肩幅。そして何時も所持している葉巻煙草の臭い。これでオルガだと断定する条件は揃ったも同然。)

岩が隆起し赤みがかった岩肌は溶岩洞窟と似ている。岩石に含まれる鉄分が酸化して赤みが増すらしいが、獣の血より紅くない色など赤とは言えない。

そんな坑道内を手持ちの照明具で赤く照らして進んでいる探険家らしき男は、壁の地層や落ちている岩石に目もくれずに道の先を見ながら歩いている。このまま背後から声を掛けて強引にでも地上に戻させるべきだろうが、俺は探検家としてのオルガ・アイアフラウを知る為に岩陰から尾行する事に決めた。

(肩から提げているのは貴族連合内で買ったらしい狩猟銃で間違いない。後ろから杭を放って反応を確めてやりたいが、流石にこんな場所で気付かれずに近付くのは無理だ。何か有ったら石でも投げて注意を引いてやろう。)

この瞬間から闇に乗じた追跡が始まった。俺がこの遺跡に来る事など聞いているはず無いのでオルガは探索に夢中で気付く素振りも無い。俺は坑道内を進み時折懐から何かしらの探索具を取り出すオルガを観察しつつ、岩陰に潜んで闇に染まった足元に小石を並べる作業に集中する。

(それにしても地下住居の割に大きな坑道跡だ。この石窟遺跡についての情報は門番からしか仕入れてないから不明な点が多い。オルガは何の情報に基づいて探索を行っているんだ?)

追跡を続けて二十分ほどが経過しただろうか。臭いを嗅ぎ分けながらゆっくりと進んだ時とは違い、オルガの歩きに迷いが無いのでかなり深い場所まで来てしまった。こうなるとオルガの手元には地図かそれに相当する何かが有るのは明白なので、俺は期待を込めてオルガの後を追い続けようと決めた。

地下住居跡から坑道を抜けてオルガが向かった先には、何者かが掘ったと思われる鉱脈調査用の試掘トンネルが在った。試掘トンネル或いは中途半端な坑道内には地上で見かける堆積岩層の一部が露出していて、足元の砂地には何処からか漏れ出た地下水が流れた痕が残っている。

探索を開始してから二時間以上経過している筈のオルガは、俺が追跡しているのに気付かず試掘坑道を見つけ次第内部の行き止まり箇所を調べている。休まずに手探りで堆積岩らしき壁を触っている様子から推測すると、何者かが意図的に塞いだ空間が有るのかもしれない。

オルガの様子を確認した俺は、古い坑道跡から掘られた幾つかの試掘坑道の入り口から離れ坑道跡の曲がり角の死角に戻った。オルガが壁を触り小型なツルハシで岩盤層を叩くのと同様、俺もオルガの姿を確認しては死角へと戻って待機する作業を続けた。

探索とは重労働なので地道な労働と諦めない精神が試される。ベルマールシャボテンで人足として働いていた時と比べても、成果が不確かで必要性も曖昧な探索行為は金と時間がかかるものだ。

だから俺はオルガの観察を辞めて合流する事にした。俺が探索を開始してから一時間が過ぎたので、そろそろ休憩しても良い時間だ。

俺は今居る坑道内から掘られた最後の試掘坑道から出てきたオルガにあえて語りかけず、オルガの左手から発せられる赤い照明光に照らされた白髪老人の横顔を左やや後ろから座ったまま見上げる。

「老いた人間の体を酷使すると寿命が縮むぞ」

試掘坑道から出て坑道右奥へと進もうとした瞬間声を掛けられ、オルガは素早く体を反転させて俺へ左手の照明具を掲げた。

「何だエグザムか わざわざ脅かすような真似をするんじゃない 本当に寿命が縮んでしまうぞ」

オルガは死神の名を呼んだので、眉一つ動かさない仏頂面のまま動揺しているらしい。もしかしたら疲労で驚くだけの体力が残ってないのかもしれないが、とりあえず俺も元団長の名を呼ぶ事にする。

「お互い枯死問題の調査が終わったから今は自由時間だ オルガ・アイアフラウに聞く 一体この遺跡へ何を求めに来た」

名前を出されて不都合な身の上のオルガルヒ。わざとらしい咳を吐いて周囲を見回してから俺の目の前で背嚢を降ろすと、その背嚢上に腰掛探索具と共に照明具を間に置く。

「実はな お前がシャボテンで働いている間にフラカーン支店の敷地内で発掘調査を実施したのだ あの敷地は商会の支店が建つ何代も前に複数の錬金術師が工房や屋敷を構えていた場所でな 何か調査の役に立ちそうな物がないか調べたんだ」

そしてオルガと哀れな使用人数名は埋められた古井戸から古い地図が入った金属箱を発見した。金属箱を保護していた木箱は朽ちていて、錆だらけだった金属容器を叩き割った結果、何処かに在る石窟遺跡内部を記した古地図が出てきたのだ。

オルガは支店長を説得したか騙して、枯死問題の調査を口実に商会付きのお供と共に龍骸渓谷に着た。勿論枯死調査は表向きの理由で、初めからこの石窟遺跡の調査が目的だったようだ。

「勘違いするなよジール 私はあくまで調査活動に貢献出来そうな情報だと判断したから調べたのだ 支店の倉庫から石窟遺跡や廃墟跡の資料を持ち出させて調べた結果 この遺跡と地図の断片図が一致した 獣皮紙(じゅうひし)に焼いて書かれた地図だったから製作されたのは最低でも千年以上前 だから私は石窟遺跡がまだ住居として使用されていた暗黒期に書かれた物だろうと判断した」

俺は右手を目の前のオルガルヒへ伸ばして、その見つけた地図を見せるよう要求した。するとオルガは背嚢ではなく胸帯の小袋から折り畳まれた手拭の様な物を取り出す。

「本物は皮の劣化が進んでいて持ち出せる状態ではなかった 代わりに世界樹繊維の硬質紙に書き写したから原物は修復依頼待ちのまま倉庫内に保管してある」

折り畳まれた痕がしっかり浮き出ている青い厚紙には、精巧に書き写したらしい紋様の様な迷路図が描かれてある。四つの区画に分かれた坑道図にも見えるが、全ての区画が一つの道で繋がっている。

「倉庫と地下墓所を通った時も一本道だったからこの場所まで来れたのか 確かにこの遺跡の構造と似ているが一本道で繋がった石窟遺跡なら他にも在るだろう そもそもこの地図には構造の全体図が書かれてない この端の印にも見覚えが無いな」

俺の疑問に対し、オルガは四つの縦と横線を合わせた印を封印を意味した古い地図記号だと教える。

「まだ枯死獣が地上を跋扈していた時代に この地方で使われている地図記号の原型が登場した 資料によるとその印は二重柵を意味する通行禁止の印 種族間の対立を防ぐ為や崩落の危険性が有る場合に使われたらしい 昔も今も重要な場所は偽りの理由を使おうとも住民から遠ざけようとするものだ だからその写しにもあえて書かなかったが 本物の地図には封印の印の先に塔らしき構造物の絵が書かれていた この近辺に塔は多数在るがどれも統一暦が始まってから改築された物や再建された寺院施設ばかり 私は絵の塔とは建築方式が異なっていて別物だと判断した」

俺は塔について心当たりが有ったので、オルガルヒに地図を返すと地下王国跡を発見した経緯からヤマダ爺の存在含めて体験した内容全てを包み隠さず話した。

その結果、未完成の塔と再生能力を有した異形の巨大獣。何より国有化され軍の管轄地に指定された場所と言う要因がオルガルヒを悩ませる。

「ヤマダなる人物の推測は客観的に判断しても正しい 軍の管轄地域なら生物兵器の類だと噂を立てれる ただし現状でその地域の調査を国に要求する場合 アイアフラウ商会全体を纏めている妹に頼むほか無いな もし私がこの地に居ると妹に知られると連れ戻されてしまうだろうから そのヤマダ爺を調査隊の長に仕立てて商会を動かさねばならん 本店に届いた紹介状の返事が返って来るまで だいたい一週間(十日)あれば返事が返って来るだろう それまでに他の候補地の調査を終わらせて有益な情報を得られれば 或いは枯死獣を生きたまま捕獲出来れば隠居した老人でも国を動かせるはずだ」

俺は立ち上がり傷や綻びが目立つ探索具に付着した土埃を払う。今まで音を立てずに壁際等に潜んでいたので汚れが溜まっていた。

「フラカーンに戻るぞ 俺もそろそろ秘境を探索したいから 森没界に入りたい今の気持ちを損ないたくない それに只の地下探検は次から代わりを雇ってやらせろ 今後は秘境探索にのみに集中したい」

俺は軽そうな背嚢に座ったまま体を休めているオルガルヒへ、休憩時間を要求してくる前に懐から輝きに満ちた鉱物を見せる。

「これだけの物なら人足代わりにどこぞの傭兵団を雇うのも可能だ 俺にとっては不要だと解ったから 以後これの運用は任せる 調査活動の足しにでも使ってくれ」

ベルマールシャボテンで採取したダイヤ原石。人間の握り拳大の石は天然の鉱脈からでは滅多に採れない代物だ。オルガルヒは投げ渡された原石を両手でしっかりと受け取り、すぐさま照明具で照らし輝き眼に近づけた。

「やはり隠し持っていたな まぁ十分な収穫が有ったのだから不問で終わらせてやろう それと喜べジール 今から急げば南盆地に来る引き揚げ船に乗れる そうすれば明日の朝にフラカーンに着けるかもしれんぞ」

ダイヤ原石を懐に仕舞ったオルガは席順は早い者勝ちだと言い捨て、この場から坑道内の元来た道へと走り去った。俺は方向が間違っていないかと心配しつつ、ツルマキを背嚢の定位置に戻してから後を追った。


一角族。始祖族の内で五番目に人口が少ない種族。頭部の額のみに角を有す獣人で、顔が牙獣に似ていて身体能力も多角族より秀でている。牙獣族より口数は多いが、最適な水辺と避暑地を求める放浪癖が有る種族なので訛りが強い。

他種族同様に他の種族との交配は不可能。寿命が長いほど額の角が長くなるのが特徴で、死後に角を古くから懇意にしていた他種族の知人に渡す風習が残っている。


十九日の午後七時過ぎに、アイアフラウ商会所有の小型飛行船「砂嵐号」で龍骸渓谷南盆地から出発した俺とオルガ。借りた人員や物資を降ろす為に一度古都バスムールに寄港して、翌二十日の午前三時四十分頃にフラカーン南発着場へ到着した。

発着場から更に都市へ続く蒸気式軌道車に乗って都市南の商工区に入り、そのまま表通りを北上してアイアフラウ商会フラカーン支店に最も近い終着駅の太陽花前駅で降りた。

残りの道を徒歩で辿り店舗表入り口から凱旋したオルガルヒを筆頭に一階通路を突き抜け、敷地内に建てられた本拠地の三階建て煉瓦造りの建物へと帰還した。

本拠地である支店本部に到着したのは日が昇る前の午前四時三十分前。砂嵐号で十分な休息をとったので俺もオルガも疲れは感じてない。

活動拠点として借りている部屋は三階で最も北側に面しているので、窓からはガス灯を装飾品代わりに飾り付けられ緑色に光る夜の太陽花が一望できる。

現在の時刻は午前四時五十三分。商会の支店長から宛がわれた各調査員から届いた調査報告書を整理しているオルガの傍ら。窓辺に椅子ごと移動した俺は覇王樹の太陽花を眺めながら、夜風に当たりつつ旧城塞都市エンティールの地下道図が記載された古い地図帳を調べている最中だ。

「ジールよ こっちの体が冷えて健康に悪い そろそろ窓を閉めて自分の机に戻れ」

覇王樹太陽花は広葉樹の様な世界樹だ。元は竜の舌と呼ばれるアローエ系世界樹が成長して巨大化した品種だったので、都市の下水道環境に適応した結果王都の中心部上空を木の枝に変異した葉で覆うほどにまで成長した。現在も硬質化した枝を横に広げ成長し続けているので、千年後には都市全域を葉で隠すかもしれない。何よりも樹液を琥珀化させた太陽石は太陽光を吸収して暗がりで輝く性質が有るので、自然と傷が出来た場所から漏れ出たまま回収できずに放置された場所が光っている。

「窓を閉めたら太陽花の暖かい空気が入らなくなる 逆に冷えてしまうのではないか」

俺の言葉にオルガルヒは鼻息を荒げながら万年筆で今すぐ閉めるよう合図を送ってきた。俺は仕方なく両開きの窓扉を閉め、カーテンも閉めて外部から視界と空気を遮断した。

「この店舗と本部棟には太陽花から暖房用の温水と蒸気が供給されている 乾燥した冷たい空気より何倍も体に優しいのだよ」

オルガは報告書の束から目を離せずに居る。机の上に並べられた書類の山の仕分けだけで忙しそうだ。書類自体は装丁代わりに紐で結ばれているので夜風で舞い上がりはしなかったが、オルガの白い手が白い蛍光灯の光の所為か何時も以上に白く見える。

「帝国人は寒さに耐性が有る筈だから 砂漠の夜ほど冷えてない都市の空気なんてそよ風程度の事だろう もしかして歳には逆らえないのか」

分厚い地図帳と木製の椅子を携え自身の机へと戻る最中、背後から溜息混じりの出自事情が聞こえて来る。

「それはウラル系と旧巨獣帝国領内の亜人や獣人だけの話しだ 私には南方諸島の血が半分流れているから 脂肪を分解して体温を高める機能は弱い どちらかと言えば砂漠の様な乾燥した空気でも粘膜が乾燥しにくい特性が有るな」

それは意外な情報を耳にした。さっそく椅子に座り地図帳を再び開く前に手記を机の上で広げ、大柄で屈強な帝国男の印象を繁栄した老人の弱点項目に寒さに弱いと追記する。

この黄色い装丁の手記は、先代のエグザムだった白爺が書き残した砂陰地方探索記。緑の手記と同じく題名は無く、古紙を黄色い合成皮で装丁した分厚い手記だ。

木製の机の上には俺の探索具や携行備品含めた雑貨と、店舗から持って来た売れ残りの少し古い雑誌類の束が置いて在る。枯葉色の分厚い封筒の束も幾つか置いてあるが、これ等はオルガの許可が無いと開封してはならないらしい。

(しかし始まりの秘薬や人造緋色液の手掛かりを探していたのに、まさか枯死獣を先に発見してしまうとは想定外だった。突撃槍の様に扱い辛い炸薬入りの杭を渡されて無かったら餌に成っていたかもしれん。)

オルガは二十二年前に商業都市シャワールで枯死獣らしき巨大な蛹の様な物体に遭遇している。獣対策に所持していた緋色金の弾丸を撃ち込んだにも関わらず、眷族らしき甲殻獣と蛹本体を殺せず撤退した。オルガの言ったとうり獣殺しが通じない相手に火が有効かどうか怪しい。廃墟と化したシャワールへ向かう前に有効な打開策を見つけねば。

「何十人もの人材を投入しているのだから枯死獣に関する顛末記録くらい有るだろう いい加減見せてくれないと書類の束が紛失するかもしれないぞ」

正直に告げれば、今の俺は始まりの秘薬より支店長の勅命を名目に各地で活動している商会付きの情報員から送られてきた報告書の束に興味がある。何れも始まりの秘薬や失われた人造緋色液かんする調査報告が綴られているらしいが、俺にとっては独自の人脈を築くのに欠かせない情報源に等しい財宝だ。それをオルガも理解しているので、重要機密書類も含まれているからと言って俺の閲覧を認めていない。

「もし一束でも消える様な自体になれば 真っ先に部外者であるお前が組織から叩き出される お前なら南の森没界や北方山脈で何不自由なく暮らしていけるだろうが その代償に望みを果たせなくなるぞ」

五十過ぎても現地での活動を続けている探検家相手に議論で挑めば返り討ちに遭う。年の功では勝てないので今回は引き下がるしかないが、宝を前に手を出さない探索者は居ないと何時か思い知らせてやる。

「そんな事よりも例の場所へ抜ける地下道を見つけれたのか その地図は現役の探索者から買った情報で随時更新されているから誤りは少ない筈だ 速く覚えておいて損はないだろうから地図を調べるのに集中しろ」

オルガの声には感情が篭ってない。書類整理と報告書を読むのに忙しいとだけ主張している。既に俺が旧城塞都市エンティールから地下道を通って森没界を探索すると決まっているので、日の出頃までに支度を終わらせて別々の場所へ調査に向かう予定だ。

(フラカーンから南東方向におよそ二百六十キロ離れた場所に在る満月湖。その人工湖の中に在る巨大都市の廃墟が在る台地から湖底下を掘られた坑道を通って森に入る。商会への定期調査要請を利用して現地に向かうから当然経費を節約できる。ただしツルマキの保守管理や杭の調達に掛かる費用も商会が負担しているから、この位の労務に積極的に貢献しないとオルガの印象が悪くなるかもしれない。)

二人だけの協議の結果。始まりの秘薬なる存在の調査を待つ間に、ヤマダ爺との協力体制と枯死獣の捜索態勢を整えると決めた。日ノ国出身のヤマダ爺を中心とする調査隊を発足させて、既に俺が見つけた石窟遺跡と他にも枯死獣が潜伏している可能性が有る土地を集中探索する。その為にはヤマダ爺の同意を引き出すために、当人が終わったと認識した現状から抜け出させなければ成らない。

(俺が出来る事は限られている。せいぜいこの手記含めて他の二冊も貸し出しすくらいしかできんだろう。今はオルガの年の功に期待するとして、問題はこの複雑に構築された廃鉱山側の坑道をどう脱出するかだ。)

旧城塞都市は周囲を囲む湖含め戦争用の防衛拠点として建設された都市だった。その都市は今やほぼ全てが廃墟と化していて、現地で活動しているのは探索者を機軸に狩人や害獣監視隊から派遣されて来た兵士達。湖を越えた南側が森没界に面しているので、監視隊は森から来た獣と不法に森を出入りする犯罪者を取り締まる為に百人程度が駐留しているようだ。

(場所は地政学的に二大地方の要衝。戦乱の時代は異民族迎撃拠点。交流の時代は交易拠点。そして導力技術が発達した現代では秘境と隣接した観光地。次は何に様変わりするのだろうか?)

俺は分厚い地図帳の大部分を占める地下坑道図面の項を何度も捲って、白爺から託された手記の余白に書き込む作業を続ける。

オルガの話を鵜呑みにするのなら、これまでの調査で南北枯死海を除く地域に在る遺跡の大半が聖獣伝説や枯死獣と無関係な廃墟だと判った。調査員の報告書には風化や造改築によって原型すら残っていなかったり、国有化され調査できなかった遺跡も含まれているらしい。

オルガは各種準備を終えたら俺を従え都市南発着場から飛行船で北西へ飛ぶ。目的地はエンティールよりもやや遠い中央山脈内に在るアカリ教砂陽本山の太陽の塔だ。

今からおよそ二千六百年前の暗黒期初期。砂陰地方北部で雨乞いの儀式から太陽神を唯一無二の神として崇める宗教が発祥した。太陽神であるアカリ(太陽)を観測し続け、日照りや降水量から日付までを記録し続けた世界最古の宗教だ。砂陽地方の獣神を崇めるユカリ教や後年に誕生した大地の導きとは根本から違い、偶像崇拝を禁止し水の管理を厳格化した戒律を定めている。

本物の太陽の塔は砂陰地方で太陽神アカリを崇める為に建てられた測量建造物で、主に石造りの円柱状や三角柱状の建造物を指す総称。オルガが向かう太陽の塔は形状こそ巨大な円柱建造物だが、建てれた年代が正確に判明してない旧時代の遺跡を改装した施設なのだ。

(あの太陽の塔は俺が地下で発見した未完成の塔より高い。滅亡した獣人達の地下王国が存在した時代より更に古い代物だから、探検家が調べる価値の有る場所だ。)

旋風谷で暮らしていた幼少の頃、読んでいた幾つかの本に印刷された写真が掲載されていたのを覚えている。険しい山々に囲まれた深い穴の下から伸びた棒の様な建物だったが、今は最上部と麓を行き来する空中軌道が観光客や登山客相手に多額の収益を上げているそうだ。

(確かどこぞの登山家が下山名所だとか皮肉混じりに言った名が浸透している場所らしい。ダイヤの運用を任せるのは早かったかもしれない。)

あと少しでエンティールから地下坑道を繋げたエスゾヤ山南側の麓へ至る坑道地図が完成する。商会から貸し与えられたこの地図帳を現地に持って行く事ができないので、確認作業を続けながら他の坑道網の図を手記に書いておけば作業の半分は完了だ。

「オルガよ そろそろ地図の書き写しが終わるから例の書類を持って来てくれ 出来れば空路輸送便の発着時間を調べてくれたら助かるぞ」

旧城塞都市とすぐ南から南と西へ広がっている森没界で活動する場合、身分と活動目的を記した書類を現地の害獣監視隊に提示する義務が生じる。都市廃墟含め満月湖北岸から一帯は保護区として進入が制限されている封鎖領域。秘境を探索する場合に探索者に発行させる探索標の代わりに成る代物が必要なのだ。

「そう言うと思って机の上に用意しておいた 数字で四の番号が書かれた封筒を開けろ 中の書類を全部書いて係りの者に探索組合へ持って行かせる 優先書類だから一時間で商会専属の探索者証明書が発行されるだろう 組合は行政区の中でも警務本部と同様二十八時間営業だ さっさと書いてしまわないと輸送便に乗り遅れるぞ」

仏頂面だったオルガの頬が吊りあがり、筆を止めるなよと脅迫めいた励ましを送ってきた。俺は自身の目論見が看破されていた事を悔しがりながらも、最も分厚い封筒を開けて中から書類の束を取り出した。

(経歴書に出生証明。こんな物、流浪の民である俺が書ける訳が無い。どうやらオルガは此れで俺に枷を填める心算のようだ。探索証明書の発行に必要な書類だけ書いて白紙で提出してやるか。)

俺は懐から懐中時計を取り出し時刻を確認する。現在時刻は午前五時十二分、まだ書類を吟味するだけの時間的余裕は残っていた。


旧城塞都市エンティール。

暗黒暦後期の未統暦1384年に建設が始まった城塞都市。フラカーン戦士団の前身であるエンティール守備隊を主軸とする部族連合軍が中央山脈の南端で西から来た異民族と領土争いをしていた時期なので、修羅の庭を意味する名がつけられた。

城塞都市エンティールは常態化した防衛戦争の為に作られた拠点が始まりで、砂砂漠と岩石砂漠が混在していた土地に大規模な貯水池を作る作業と同時並行で造られた都市だ。現在は満月湖の名で有名な丸い湖は三重の堀に土砂が流れ込んだ事で形成された元人工池。前時代前期の未統暦693年に始まったフラカーン民族自決戦争でアカリ川上流に建設された堰が切られ、現在とほぼ同様の丸い湖と成ったらしい。

元々堰は城塞都市に群がる敵軍を軍団ごと洗い流す為の防衛施設だったが、この戦術を反政府軍に利用されて孤立。フラカーン王国最後の防衛戦争で難攻不落の城塞が完成してしまう。

反政府軍が内輪揉めで自滅するまで都市はフラカーン側の拠点として機能していたが、戦乱が終わると共に自治領として独立。産業技術核心により発達した交易路から外れるまでのおよそ三百年間、二大地方を結ぶ交易鉱山都市として栄えていた。

しかし戦乱が集結してから上流の堰跡に交易橋が完成、その頃から人口が減り続ける。結局前時代の終わり頃に東のエンティール連山最後の鉱山が枯れたのを最後に放棄されてしまい、現在のエンティールは完全に獣の街に変わっている。

現在も二大地方の境界に位置してはいるが、飛行船や軌道輸送が発達した現代では秘境が近いだけの場所だ。北は砂漠で、南は植生豊かな森没界の原生林に挟まれているから獣と遭遇し易い。東のエンティール連山内の鉱山坑道と地下道が繋がったまま放置されているので、都市本体の再開発話は今の所無い。

定期的に獣を狩りに狩猟団や害獣監視隊が遠征していたらしいが、現在では島の一部が観光地として解放されているだけで城塞都市へ出入りする者は探索者を除いて殆ど居ない。

つまり俺にとって修羅の庭は、まさに絵に描いた様な理想郷と言っていい場所なのだ。


八期二十日の正午(十四時)二十分頃に、大陸蛾から満月湖の北岸の砂利が敷き詰められた発着場に降りた。飛行船で来る予定だったが、そもそもフラカーンから満月湖を行き来している飛行便は獣人が操る大陸蛾のみだった。

俺は丁度出発する間際だった物資運搬用の台船で城塞都市北岸の要塞化した沖埠頭に渡った。今は断崖で囲まれた台地上部の城塞都市へ渡る前の検問所にできた行列最後尾に並んでいる。

ここから都市内へ入るにはこの埠頭要塞で渡し舟に乗り換えるか、観光舟の船主にでも金を握らせて必ず島内の要塞港から上陸する決まりになっている。なにせ泳いで渡ろうとするとほぼ間違いなく、戦乱の時代に都市防衛目的で放流された甲殻魚の餌食になる。その甲殻魚の身開き天日干しが行列の右側で金属製の物差し竿に吊るされてある。この芳しい匂いが解る俺や獣人達は干からびていく白い身から目が離せない。砂漠気候特有の乾燥した空気と雲が少ない青空の所為で、風に運ばれて来る誘惑は此処が秘境であると忘れてしまいそうな錯覚を催す。

(僅かな塩気と獣因子が分解され大気に溶けた匂い。言葉に成らない俺たちだけが理解できる香り。今すぐにでも血肉を食らいたい気分だ。)

エンティールは都市自体が廃墟と化していて、獣や森から渡ってきた来た獣が生息している。石畳の埠頭から台地上部や要塞港を見ると、比較的大きな建造物は崩れず残っている印象を受ける。

沖埠頭から百メートル未満の場所に要塞港が在る。狩人や探索者を乗せた船が埠頭と港を往来しているが、要塞港を半分囲んだ城壁の様な堤防下の湖面に甲殻魚らしき背びれが複数見える。

(渡し舟は側舷と船底が金属板で保護されてる。甲殻魚の硬い歯でも噛み砕けれない。)

事前に調べた範囲では、まだ都市地上部分の石造建造物は残っているらしい。大きな建物ほど植物に覆われているらしく、地上居住区は一部を除いて瓦礫通りと化しているそうだ。甲殻魚はそんな状態の廃墟か南側の岸辺に来た獣を捕食しているのだろう。地図には湖と繋がった地下水道や水没した地下街の一部も書かれてあった。今回の探索では水辺に用は無いので近付きはしない。通るのは地下坑道へ降りれる縦穴への地下街通路だけだ。

(検問所と言うより舟置き場だ。漁具と渡し舟補修用の木材や金属板が保管された木箱ばかりだ。)

俺は十数人ほどの列の最後尾で待ちながら、検問所と言うより何処かの倉庫から引っ張り出した木箱や木板で構築された簡素な通用門を観察する。

(検問官の数はたったの八人。白地に赤線二本の腕章は害獣監視隊徽章だから、半分は監視隊員で残りは派遣された警務官だろう。銃火器や戦斧を装備した探索者連中相手なら短銃や拳銃で十分。少人数なのは当たり前か。)

検問所に並んでいる者達の半分は獣人だ。北方山脈に住む始祖族の白黒狼人族と牙獣族の組み合わせだが、人間含め全員が狩人装備の探索者らしい。おそらく獣人は仲間や知り合いの食料を確保する為か、秘境内で活動中の探索者へ物資を届ける為に入るのだろう。定期的に監視隊の新人が訓練を兼ねて警備に派遣されているとオルガが言っていたが、人間達は全員腕に紹介の紋章を縫った腕章を装着している。何処かの商会に所属している探索者しか居ない。

(そろそろ順番だ。提出書類を出して検問官が見易いように半分出しておいてやろう。)

検問所を挟んで沖埠頭の反対側には渡し舟の木造舟が停泊している。船主達は長い木製の漕ぎ手を岸壁へと押し当て、客を乗せて重くなった小船を漕いで島近くの要塞港と沖埠頭を何度も往復している最中だ。

湖遠方の景色を眺めたり時折湖面を跳ねる巨大魚の甲殻魚を目で捉えたりして暇を潰していると、列が消化されて俺の順番が回って来た。

「探索証明書と活動指示書を提示せよ」

俺は何故か水夫服を着用している砂陰地方出身者らしき日に焼けた大柄な男へと数枚の書類を提示した。書類は人工樹脂製の透明な入れ物に入っているので、日に焼けた指が白く真新しい書類と重なって更に日に焼けて見える。

「定期調査活動の場合は列に並ぶ必要は無い 今度から直接検問官に書類を見せれば直に舟に乗れるぞ」

俺は水夫服の大柄な男を少し見上げて短い相槌を送った。そのまま検問所から停泊している舟へと足早に移動し、視線から隠れる逃げ場すらない場所から一刻も早く城塞都市へと逃れたいと考えながら船頭の隣に腰を降ろした。

(必須装備と申請した自衛具だけで持ち込める量の限界近い。神の園を探索した時ほど多くの物資を持ち込めないのは不便だな。)

城塞都市に入る探索者や狩人の約半分は、地下坑道を通って森没界やエンティール連山へと向かうらしい。俺がそうであったように、森や山に生息している獣を狩猟したり山菜や特定の木の実の採取が目的だ。

二大地方に跨る森没界は環境と水源保護を名目に封鎖された領域だ。神の園程ではないが原生林が多い秘境へと立ち入る場合、エンティール周辺だと傭兵団や狩猟団は満月湖南岸から、個人或いは少数の探索者は城塞都市から入るように定められている。

(許可される者は少ないと聞いていたが、どうやらこの廃墟ではそうでもないらしい。イナバ三世の五六倍広い台地だから二三百人の探索者が活動しても狭く感じないだろう。)

真横でゆっくりと舟を漕ぐ船頭。波が無く風も穏やかなので漕ぎ易そうだが、進路方向と足元の水辺を交互に見返している。

(甲殻魚は人間も食うから油断していると水中に引きずり込まれてしまう。俺の場合は自重でそのまま沈んだで汚泥層に嵌まってしまうだろう。)

俺が乗る舟が沖埠頭と要塞港を差し掛かった時、前方を進んでいた小船に波で揺らめく様に揺れ始めた。同じ四角い船底の木造舟が揺れだすと、その舟から緊張を動揺を含んだ悲鳴が聞こえた。

「まだ動かないように 合図するまで絶対動くなよ」

俺は胸に装着した小型ナイフをいつでも抜けるよう左手をナイフの柄に添えた状態で静止した。その間に船頭の中年男性は舟の進路を少し左に変更させてから加速させ、舟底を甲殻魚の群に(つつ)かれている前方の小舟へと近づける。

(沖埠頭に予備の舟が揚げられていた理由があれか。牙獣は爪や牙を研ぐのに岩すら利用するが、単純に捕食本能のまま遊んでいる様にも見える。)

湖面の波は細波程度なのに、濁流に呑まれているかの如く揺すられる舟。俺が乗っている舟はその舟の左舷と接舷し、二人の船頭が乗客に相手の舟縁(ふなべ)を掴むよう命じた。

舟は少し揺れながらも二隻同伴で進み要塞港の堤防を迂回、堤防先端部で折り返して湾内に侵入する。

外からでは城壁の様な堤防に遮られ見えなかったが、岩場を削った複数の水道跡らしき丸い横穴が並ぶ近くの岸壁に桟橋が構築してある。舟は二隻同伴のまま船着場へ進み、さほど時間が経過しないうちに桟橋に接舷した。

俺は到着した木製の桟橋へ上がる順番を座ったまま待ちながら、要塞港湾内を見回し地形を確認する。

(崖に構築された石垣と上へ続く階段。地下街の地下道と繋がった古い排水路の迷路入り口。そして現在も使われている台車用の軌道線が通った白い硬質煉瓦造りの砲兵待機所。全てが敵を欺く為の偽装だったが、今や地図上では正規探索道の始発点が集まった場所だ。)

前の席に座っていた人間の探索者が桟橋へと上がろうしているので、構造材の硬い木板からゆっくりと腰を上げて少し前屈みになる。

(迷路の水路から地下街に上がって八番縦穴を目指す最短経路を進む。台地上に上がる必要は無いから、さっさと鉱山出入り口まで辿り着いてしまおう。)

俺は桟橋から岸壁に上がり、幾つかの木造小屋や古い煉瓦造りの倉庫が並んだ狭い港内を通って排水路の横穴が密集した崖へと向かった。

エンティールと森没界は迷い易い事から、地図と多めの非常食や医薬品が必須なのだと組合の探索手引き書に書かれてあった。特に三層に分かれた城塞都市地下は防備の観点から、地下街を除いた地下道と地下水路は迷い易い迷路構造が採用されている。意図的に似たような壁や通路が直線と直角のみで構築されていて、昔は階段等の出入り口が偽装扉で塞がれていた。

現在のエンティール地下は、暗がりを好む夜行性の獣の溜まり場と化している。地下構造を破損させる爆発物や仕掛け爆弾を含めた高性能な採掘装置は持ち込みが禁止されているので、俺の杭も許可証が無いと持ち込めない自衛具に含まれている。

なので炸薬入りの杭を減らした代わりに、二刀の曲刀と只の狩猟矢を持って来た。これから入る地下水路に居るだろう吸血土竜や土蜘蛛を蹴散らし、邪魔な幻想花と化け草を排除するだけなら十分な装備だ。

「水溜り 何処からだ」

丸い水路入り口前の人工石材の一部が濡れている。疑問を感じた俺は真上を見上げ、崖上の廃墟から石垣の壁上までを覆う蔓草を睨む。

(情報だと二週間ほど雨は降ってない。今の時期は雨が降って纏まった量が溜まる前にすぐ蒸発してしまう。いったい何処から流れて来た水だ?)

俺は疑問に感じながらも止まっていた足を動かし、照明の類が無い暗い水路内へと入って行く。

水が枯れて乾燥した排水口の匂い。石材の隙間に付着して固まった汚泥の匂い。そして肌に感じる水気と僅かな血の匂いが俺を興奮させる。

入り口近くの水路内には直線状の排水溝が通路の奥へと続いている。日の光で照らされる部分を越えてしまうと、足の裏だけでなく血染め越しの肌を冷たい空気の層が包んだ。

鞘代わりに獣皮で包んだ逆刃の曲刀を腰帯から引き抜く。敢て腰帯右に装着した片方だけを左手に持ち、照明具を使わず熱視だけで水路内を進む。

水路は精巧に切り出され接合された石材を積み重ねた地下道だ。アーチ天井には古い時代に塗られた塗料らしき汚れが残っているが、石灰岩が敷かれた足元と水路には侵食と磨耗による凹凸が目立っている。

入ったばかりだから獣とは遭遇しないだろう。そう考えた奴はそのまま餌にされてしまうらしく、水路の壁下には干乾びた骨や体毛等の断片が溜まった砂埃と共に寄せられている。

(堆積物の大半は雨季の間に湖へと流されてしまう。今残っている一年分の汚れもあと数期で微生物の餌に成るだろうな。)

真っ直ぐ続いていた水路は左へと直角に曲がっている。今の所は一本道なのでそのまま左へと曲がるが、情報が正しいのなら迷路なら定番の袋小路への分岐点が近い。行き止まりには獣の巣や屍等が溜まっている一年分の掃き溜めが待ち構えている筈だ。

左に左折してすぐ、右と前方方向に別れた水路の分岐に遭遇した。俺は分岐点中心部の天井を見上げ、表面を削って描かれた二つの矢印の先を見比べた。

(前が行き止まりで右が正解なのか。こんな入り口に近い場所で迷路が始まっている。流石は元城塞都市だな。)

俺は水路の分岐点を右に曲がると、左手に持った曲刀の剃り返った切っ先を暗色系の灰色世界へ突き出し前に進む。

天井の矢印の先には丸い円が刻まれていた。もし最初の分岐点をそのまま直進した場合、水路内を流れて来た水を湖へ流す別の排水路出口と繋がっている。位置的に湖の近くなので湖底底近くに在る初期の排水口へ通じている筈だが、もしかしたら長年流出し続けている汚泥により塞がってしまったかもしれない。

最初の分岐点を曲がって十五メートル程進むと、道が三箇所に別れた次の分岐点に出会う。今度の分岐点は水路が三方向へと直角に枝分れしている場所とは違う。水路自体が広くなった代わりに同じ水路内に三つの道が構築されていて、左右の段差に上がる階段を壁にして真ん中に下り階段が築かれた場所だ。

俺は再びアーチ天井を見上げ、三股槍の如く枝分れした矢印の先に刻まれた図形を読み解く。

(中央が只の水溜め場。左が何も書かれてないから順路。右は水没箇所か。)

段差へ上がる階段を昇って、一人分の狭い道幅が真っ直ぐ伸びた左の壁側水路を進む。流石にここまで狭いと獣も寄りつかないらしく、水路中央に掘られた三メートル程下の床に生物の死骸は一つも無かった。

俺は再び狭くなった裏路地の様な道を進み、左へ直角に曲がった曲がり角を曲がった。足元の石灰岩には大量の水が流れた痕が残っていて、何処からか流れて来た砂で覆われていた。

曲がり角から数歩進んだ直後、暗く僅かに突き当たりの角が見える場所で何かの影が動いた。俺は暗闇に慣れた夜目を持つ獣だと判断し、砂を搔き助走しながら飛び掛ってきた小型の獣へ曲刀を叩きつける。

壷や硝子を素手で割った様な感触が僅かだがした。曲刀が潰した箇所から瞬間的に熱を有す体液が飛び散り、水路内に甲高い断末魔が響いて反響音が木霊する。

(四足に尻尾と体毛。こいつがエンティール界隈に生息する固有種の吸血土竜か。餌の確保にわざと照明を灯さずに獣から襲って来るのを待っていたが、こうも上手くいくと面白くないな。)

片膝を突いた状態で土竜の骸を抱き寄せた俺は、野生生物の野鼠と大差無い体毛を有す大きな土竜の首に噛み付き生物の生き血を好む獣の血を吸いだす。

(旨い。この苦味と舌への刺激。獣因子を食らうにはやはり血を吸うのが一番だ。)

俺が付けた首の噛み傷から血が出なくなったので、今度は曲刀を鎌の様に持ち替えて大きな土竜の胸の皮を引き裂いた。そのまま内臓を傷つけないように胸肉を切り取り、切り取った肉片を口に放り込んでから心臓を鷲掴みにする。

周囲の気温に体が馴染んでいたので、吸血土竜の体温が熱く感じれる。俺は返り血で血染めや装備が汚れぬよう傷口を下に向けると、果実を捥ぎ取る様に爪で血管を裂いてから心臓を引き抜いた。

「脂分が多いな 非常食代わりに放たれた砂土竜が先祖なら当然か」

胸肉より筋肉質で歯応えがある拳より少し大きい心臓に噛み付く。犬歯で肉繊維を抉り前歯で両断してから奥歯で切り刻む。文明圏で主流な家畜や益獣の肉に無い僅かな酸味と苦味が咥内に広がり、白と黒が混じった単調な視界が少しだけ色鮮やかに見えた気がした。

それから間も無く俺は食事を済ませると再び迷路内を歩き出し、目当ての縦穴を探す探索を再開させる。長期探索を想定すると多くの獣因子が必要だ。だからまだ照明具に光を灯す事はできない。


吸血土竜。城塞都市で田畑造成用と篭城時の非常食として飼われていた砂土竜が害獣化した獣。植物の茎や種だけでなく虫等と腐肉を漁り生物から血を吸って生きている。城塞都市や地下坑道と繋がった廃鉱山だけでなく、森没界北側にも棲息している。


照明を灯さずに水路型迷路を進んでいると、俺の足音や息遣いを聞いて数種類の獣が沢山近寄って来た。最初に遭遇した吸血土竜は単体だったが、奥へ進むにつれて数が増え始め、何時しか獣集団を構成する一部として遭遇するようになる。

俺は壁や天井に張り付いていた土蜘蛛の群を一掃し終え、獣の体液で何色かに塗装され曲刀で蜘蛛の脚を数本だけ根元か切り取った。

(節足類の足は運動の後のおやつに丁度良い。獣因子は薄いがこの生野菜の様な食感が堪らねぇ。)

水路型迷路内でも数少ない大部屋の平たい天井を見上げ、入り口を除いた全部で六箇所の通路が何なのかを確める。

「右側に行くと地下街への登り階段と梯子が有るのか なら 正面右を進んだ次の分岐点は外れだな」

大部屋内には四本の石柱が在り、円柱状の柱が天井の梁を支えている。天井の梁以外は煉瓦を敷き詰めた天井で、多くの土蜘蛛が張り付いていた足跡で汚れている。

俺は入って来た入り口から大部屋を出て、熱視に浮かび上がった保存状態が良い石の床と壁を視界に入れたまま通路を戻る。

俺が目指している八番縦穴及び坑道は、本来の目的である枯死獣潜伏候補地として調べる予定の遺跡に最も近い廃鉱山と通じた唯一の道だ。エンティールから地下坑道を通り元銅鉱山のエスゾヤ南鉱山出入り口から地上に出る訳だが、この道へ至る八番縦穴は地上から入れる地下街からでは行けない場所に掘られた元抜け穴だ。

(表向きは区画ごと隔離されている筈の迷路から行ける裏地下街。そしてその場所から更に下りて縦穴と通じた道を探す。これだけ複雑な地下道を掘るとなると何年掛かることやら。)

周囲の空気には俺が殺した獣の血の匂いが薄れる程の死臭が漂っている。水路迷宮深部には一年近く放置されて溜まりに溜まった汚水やら汚泥やらが生物の死骸と混じり合っていて、血が固まって出来た腐肉の塊が通路の幾つかを塞いでしまっていた。

腐肉や糞尿などが混じり合った堆積物も平然と落ちているので、長年秘境で育った俺でも長時間活動し続けるのは避けたい。体内を流れる龍の血の前では病原菌や雑菌など因子の餌でしかないが、体中に肥溜めの様な臭いを付着させたまま森に入ると獣に逃げられてしまう。

俺は進んできた通路を戻って分岐点にと到着すると、最初に部屋に入った際に邪魔だからと蹴破った堆積物の残骸を除けてから照明具に明りを灯す準備を始める。

分岐点は四角い箱状の小部屋だが、床には殺したばかりの蛇骨蟲の死骸も散乱している。こいつらは十数年前に森没界で目撃されたのを皮切りに、爆発的に増えてエンティール地上にまで棲息範囲を広げた新種の獣だ。蛇の骸の様な奇妙な容姿から、害獣図鑑には新種の虫が汚染環境によって獣因子ごと変異した害獣だと記載されてる。

(光量を弱めている筈なのに眩しくて前が見れない。血統の副作用が一つ顕在するだけで身動きが取れなくなる。なんとか出来ないものか。)

流石に長時間熱視のまま歩くと獣目への負担が無視できなくなる。こんな場所で消耗すると後々が困る点と、今は面倒な獣の相手をしたくない心理状態が俺の機嫌を大いに損ねさせた。

俺は眩しい光から遠ざかるように天井を見上げ、半円状の頂点に位置する場所から四方へと伸びた矢印の先を確認する。

四角い部屋内の天井中心部は丸く窪んでいて、中心部に排水口らしき穴が開いている。その排水穴らしき黒い点から四方の通路方向へ四つの矢印が伸びている。俺はこの部屋に入って来た入り口と先ほど探索した部屋指し示す矢印以外の印に着目。反対側の通路は行き止まりを示す欠けた囲い記号なので、残る道は分岐点を意味する丁字記号がある入り口と反対側の通路しかない。

(環境に適応する為に必要量の獣因子を確保した。もう獣共を相手に探索を遅らせる必要は無い。)

俺は薄汚れ硬質化した体毛の外皮を手で拭い、付着した液体や汚れを払ってから通路を進み始める。照明具を右手に持って暗い通路の先を照らし、遅めに歩きながら光を恐れる獣や虫が逃げ隠れする時間を与えてやる。

(この辺りには化け草や幻想花の姿が見当たらないな。太陽光が当たらない場所でも水が少なすぎると生きれない。地上の出入り口から遠くまで来たようだ。)

二十数メートルの枯れた直線地下水路を通ると、部屋ではなく左右直角方向に別れた丁字路の突き当たりに到達した。俺は照明具を持つ右手を上に掲げ、突き当たりの天井き刻まれた矢印と記号を確認する。

(左には何も記されてない。右へ行けば三番水路に出られるようだが、三番水路は隠し縦穴と繋がってない。)

俺は道を左を選んで迷路を更に奥へ進む。裏地下街は現在の通り名で、元は死体安置所や武器庫含めた地下倉庫だった。その場所に地上から降りられればこんな回り道をせずに済んだのだが、生憎城塞都市は外から来た者を阻むよう設計されている。ふさがれた正規の道が通れないのなら迂回経路を進むしか道が無い。


エンティール連山。

城塞都市東に有る山岳地帯。標高千二百メートル級のエスゾヤ山と標高八百メートル未満の南北アルマ山。そして標高千八百メートル級の東海山と三百メートル前後の森没山で形成された山岳地帯。

位置はエスゾヤ山が西端に在り、その南東に森没山。エスゾヤ山の北東に双子山の南北アルマ山。そして東の海岸線近くに東海山が在る。山岳丘陵地帯を囲む死火山の配置が菱形形状なので起伏が激しい土地だ。現在は低地の大半が森没界の範囲内に入っていて、少数の探索者と大多数の獣が暮らしている。

エスゾヤ山とアルマ山からは銅を中心とする鉱物が採れ、森没山からは石炭と炭素系鉄類が採れた。東海山の麓からは銀や少量の金が採れたが、採掘可能な鉱脈を掘り尽くしてしまったので鉱山施設は閉鎖されている。

ヤマダ爺曰く。この辺りは昔から獣人や害獣の住処で、南と西へと続く森没界に隣接しているので文明の足跡が殆ど無い。そんな場所を統一暦初頭に砂陰の調査隊が地層を調べた結果、二千年から三千年の間に噴火を繰り返していた形跡が見付かった。当時は新しい鉱山開発や錬金術に活用できる非金属鉱石等の採掘が期待されていたが、結局水源保護地として秘境認定されて開発話は立ち消えたらしい。

ヤマダ爺が連山内と近辺の遺跡に着目したのは、当時の調査記録に浅い堆積層から文明の調度品が見つかった記録が残っていたからだ。森没山麓の調査記録によれば、まだ連山が火山活動期間中だった頃の二千年から三千年前の堆積層から多数の文明品と共に都市型住居跡が出土。火山灰か火砕流で都市ごと埋った事実が判明し、当時は試採調査より発掘調査が盛んに行われたのだとヤマダ爺は推測している。

当人の直感では、鉱山坑道が埋没した都市近くまで伸びているので、坑道採掘を再開すれば隠れた空間が見つかるかもしれないらしい。その為に大量の機材が必要となるので大よその目星をつけようと実地調査に乗りだそうとしていた。しかし調査を実施する許可が下りずそのまま諦めたと言っていた。


二十日の午後四時(十八時)過ぎ。懐中時計を腰帯の小袋に仕舞った俺は、ようやく到達した八番縦穴を下りようとと緩やかな坂道階段に踏み込む。

縦穴は岩盤層に四角い大穴を下まで掘った場所で、縦穴の壁内には岩盤を削って構築された階段状の一本道が半螺旋状に下へ続いている。階段は全てが岩盤を削っただけの岩階段なので、杭や鶴嘴で削った凹凸面がむき出しのままで滑りやすい。

俺は照明の緑光を強めて照らす範囲を拡大させた。爪先や足の裏の硬質化した皮膚から伝わってくる感触が冷たく、何処からか地下水が漏れているのか岩の表面が少し湿っている。そして何故か下へ流れてゆく空気が血生臭い。

「人間や家畜の死臭 裏地下街の墓所からか」

縦穴内やこの場所へ続く地下道には照明装置等は一切設置されてない。古い松明用皿や松明棒を置く為の金具が壁に残っているだけで、今や生活用の灯りより酸欠での窒息を防止するほうが優先されえている。

俺は足を止めず階段を下り続ける。足元と同じ幅の低い天井には枝真似の様な骨格の蛇骨蟲が張り付いている場合もあり、危険性が低い蟲を照明の光で追い払いながら狭い階段を下へ進む。

(おそらく意図的に道幅を狭めて迎撃し易くしたのだろう。台地の地下をこれほど深く掘っても崩れた箇所が無い。もしかしたらこの階段自体が何かの足場だったのかもな。)

縦穴最下層に近付くにつれて視力が衰えた蛇骨蟲や土蜘蛛と頻繁に遭遇し、結果的に蟲を追い払う為に穴に落として排除したりしたので時間が掛かってしまう。結局岩階段を下り始めてから十分前後ほど経過してから最下層の地下坑道へ降りる事ができた。

(長いだけでなく広い。この通路に大群を入れると酸素不足で脱落者が出るだろうが、少なくとも上から煙が下りてくる事はない。)

俺は一般的な鉱山坑道と同じく鉄柱や石材で補強された赤い道を歩きながら耳を澄ませる。小石や荒削りの岩表面を爪が叩く音が小刻みに聞こえるが、空気が流動して振動する空洞特有の音はまだ聞こえそうにない。

地下水路の迷宮を突破したので、此処から先は覚えた地図の道順を進めば目的地のエスゾヤ南鉱山入り口に到達できる。歩きなら地上への到達所要時間は七時間程度だが、走ればその半分も掛からずに目的地へ入れるだろう。

俺はそう考え足の動きを速めた。照明具を右手に持ちながら曲刀を担いぎ小走りで一本道の坑道を進み続ける。こんな場所にも害獣は居るが、その殆どが探索者の手で狩られた死骸ばかり。通路内に死臭が篭って無い事から、間違いなく出口へと繋がっている。


土蜘蛛。城塞都市の作物を荒し疫病を蔓延させる小動物を駆除する為に放たれた砂蜘蛛の変異個体。小動物だけでなく獣の死骸を喰らい数を増やし何時しか住み着いた。城塞都市及び近隣鉱山坑道内に生息する代表的な害獣。毛が硬質化した硬い外皮に覆われていて、砂蜘蛛とは違う黒土色。稀に先祖返りの個体が目撃される事もあるそうだ。


俺は満月湖の湖底下に掘られた連山への抜け道を通り抜け、何の問題も無く鉱山坑道最下層部に到達した。山中に掘られた鉱山は全て鉱脈に沿って形成された階層式坑道なので、採掘跡で不規則に広がった坑道を通って縦穴を上がれば数時間も経たず地上に出れた。

殆ど探索者の出入りが無いようで、エスゾヤ南鉱山で入り口周辺は完全に低木や雑草で覆われた雑木林と化している。坑道から出る前に照明具で懐中時計の時間を確認したので、今の時間は午後八時二十分辺りだろう。周囲は夜時間に突入していて、月明かりに照らされた周囲の木々が識別できるくらいだ。

足元には侵入者防止用に設置されていた柵が落ち葉に埋もれている。放棄された入り口横の監視小屋は土台の石板しか残ってなく、森から聞こえる虫達の鳴き声が葉を揺らしている様にも聞こえる。

(今日が二十日。何とか二十二日までに森没山の南裾野に到着したい。)

俺は音を極力発てずに出入り口前で装備の取り外しを始める。ツルマキや曲刀等の自衛具には深緑柄の擬装帯を巻いておいたが、血染めの上には何も着用していない。城塞都市から鉱山坑道を通る際に獣の体液や土埃で汚れると想定して何も着用していなかった。

「これを着るのは五期ぶりか 血染めを初めて着用した時以来だ」

緑色に染められた若葉色の薄着に腕を通す。血染めを着用しているので着膨れする感触がするが、黒系の血染め肌を隠すにはこの衣類が最も最適なのだ。

俺は風通しと丈夫さで有名な貴族連合製の狩人服で上下半身を薄緑色に染めた。そして商会から持参した迷彩羽織を何時もの鎧兜の上に被せ、同じく迷彩布で包んだ背嚢と腹袋を体に装備する。

今回の探索に火器類はツルマキの専用杭以外持って来なかった。獣が(ひしめ)く森没界で派手な銃声を鳴らすと獣が寄って来る。俺は鉈代わりに曲刀を両手に握り、今再び神の園を探索する状態で森へ入った。

血染めの足が溜まりに溜まった枯れ葉や枯れ枝の絨毯を踏み締める。重い俺の体を受け止めて伸び縮みする分厚い藁束の上に乗っている様な気分だ。

(この辺りの標高は海抜九百メートルを僅かに超えた場所だ。森没界北部は平均標高が高く起伏が激しい。目的地の森没山南裾野へ行くにはまず山を南に下りてから、北裾野を流れる北狩猟川沿い南東へ進めば到着できる。水場は獣と遭遇し易い。獣の奇襲だけは避けねば。)

俺は調査用道具類を詰めた背嚢を極力揺らさないよう心がけながら低い木々の間を進む。夜時間なので雲の合間に瞬く星々が見えるが、そろそろ視界が夜間用の夜目に変わる頃なので余所見する余裕は無い。

曲刀を逆に持ち替え鎌として邪魔な枝を刈る。研いだばかりの鋭利な曲線に腕力と質量が加わるので、小指程度の枝なら二三本でも一度の振り下ろしで切断できる。

(目が慣れてきた。熱視を使えば詳細に見えるが、こうも草木が密集していると獣の接近に気付けなくなる。今頼りなのは狩人としての経験と獣の鼻だけだ。)

両腕を同時に振り下ろし左右の枝に絡まる蔦を排除する。蔦程度なら引き千切った方が楽なのだが、今は不用意に物音を発てるのは得策ではない。

俺は緩やかな坂道を下りながら周囲を見回す。枯れ葉が堆積した山肌に根を生やす樹木は五メートル程度の潅木しか見当たらない。濃緑(のうりょく)系の樹木には苔や茸類が自生しているが、月の光に照らされてようやく認識できるほどに数が少ない。そして足元の枯れ葉絨毯には掘り返した様な窪みや膨らみが有り、小型の獣か小動物の縄張りだと推測できた。

(獣なら星栗鼠か森荒し。小動物ならトルネコやシマシマあたりの痕跡だろう。斜面と言えどなだらかで起伏が乏しい場所だ。小動物が潜伏可能な高い木や岩も見当たらないから小動物の可能性は低い。)

周囲を見回しながら歩き、枯れ葉絨毯の掘り返された場所で屈みながら臭いを嗅ぎもした。獣でも糞尿を隠す際には地面を掘る場合が多い。掘り返された場所には排泄物の臭いは無かったが、獣特有の鼻に残る皮膚油の匂いが少し混じっていた。

俺は歩きながら月に照らされた葉や枝を見上げ、鳥等の卵生生物の姿も探す。周囲の幹や落ち葉から虫の音が聞こえていて、(かす)かだが羽根跳び虫や羽虫の羽音が交差した様な音に混じって別の生物の鳴き声が聞こえている。

(虫や鳥類に詳しくないから何の鳴き声かは判らない。水生小動物の鳴き声に少し似ているが、まだ雨季前の季節だから地中で眠っている筈。こんな音を発する獣は知らん。)

俺は念の為にと曲刀を振り下ろすのを止め、少し面倒だが背嚢やツルマキ等に枝が引っ掛からないよう枝を交わしながら下り始めた。一歩進む度に分厚い絨毯を踏み締める乾いた音が足元から聞こえるが、周囲から同様の音は聞こえて来ない。

(森没界の獣で有名なのは白犬と森荒しだろう。どちらも固有種で広い縄張りを群で守っている。今の俺にとって単体で活動する大穴蔵や森熊より厄介な相手だ。遭遇しても走って逃げ切れる相手ではない。)

周囲に耳を澄ませながら歩き、時折月が雲に隠れると熱視で視界を補って前に進む。現在地は比較的危険度が少ない地域らしいが、これはあくまでも定期調査時の目撃統計情報が参考なので当てにはできない。

そう考え木々の間を通りながら緩やかな坂を下っていると、東から流れて来る冷たく湿った風に死臭の匂いがしだした。俺はさっさと坂を下ってしまおうと判断し、真東から流れ込む空気と西の方向を警戒しながら歩みを速める。

群を成す獣は死臭や血の匂いを嗅ぐと興奮するので、風下の西から来るだろう獣の群と遭遇する危険性が高くなった。もしこんな場所で獣の群に囲まれれば、死にはしないだろうが要らぬ傷を受けてしまうかもしれない。

(秘境だから管理地は外周付近のみ。自由に好き勝手出来る時間とは言え、拠点となる場所を探さないと始まらんな。)

俺は大また歩きで枯葉と枯れ枝が堆積した斜面を下り続け、時折止む風と暗くなる森を警戒する。

森没界に分布する川までまだ離れているが、周囲にはシジマと呼ばれる白い横木目の高い針葉樹の姿が見え始めた。そろそろ中型の獣の縄張りが近いだろう。

俺はそう考え左の曲刀を腰帯に差込、背中の背嚢からツルマキを取り外して弓本体部分を展開。作業と並行して胸や腰帯の小袋位置を微調整し、袋内に入ってる獣用の道具を何時でも使えるよう準備する。

(もし一人で一般的な探索団十人分の作業をこなすとなると、手に負えないほど多くの事前準備が必要になる。本音を言えばこんな場所で鼻潰しまで使いたくはない。対処出来なくなる前に使わないと危うくなるのが面倒だ。)

この森没界で活動する探索者達の多くは、誘き寄せと言われている方法で狩りを行っている。この誘き寄せと言う手法は森の境界付近で焚き火をして寄って来た獣を囲んで狩る単純な山狩りと殆ど同じだ。森没界ならではの山狩りは、本来獣が外に出ないよう間引くのが目的だったらしい。

森没界の面積はおよそ五千平方キロだと推定されている。この数字は神の園全域想定面積の二十四万三千平方キロより圧倒的に小さいが、神の園とは違いほぼ全域が森林地帯で構成されている。俺が育った旋風谷と同じく、水源と漁業資源確保の為に自然保護区として立ち入りが制限された封鎖領域の秘境である。

なので森深くの丘陵や遺跡廃墟付近は神の園の密林と同じくらい高い木々が密集している。当然大型の果実系樹木や食える天然の地下茎植物も多い。獣や小動物の排泄により種が撒かれ拡大した森だと言われているので、獣の生息予想個体数は神の園森林部の三千七百以上だと考えるのが妥当だろう。

第六感の方位感覚含めた聴覚と視覚や嗅覚を頼りに斜面を下り、そのままシジマやウラシノ等の広葉樹で構成された森に入った。途中で休まずに歩き続け獣を恐れず積極的に前進した結果、俺は日付が変わった二十一日の午前二時頃に森の渓流沿いの沢に到着する。

道中に夜行性の獣として有名な固有種の夜光鳥に遭遇したが、体長一メートル程の若い個体だったので小動物ではない俺が襲われる事は無かった。

俺は侵食により丸く削られた岩が転がる狭い沢沿いの森を進み、下流方向へ蛇行する川沿いに沿って南東へ進んだ。雨季前なので川は増水しておらず、連山付近の高地から流れ出た水は青く透きとおった清流のままだ。水辺には獣や小動物だけでなく川魚の姿まで確認でき、俺は川幅が三十メートル程の湾曲部に形成された小さな泉で用をたして休憩した。

森没界北の連山と中央付近の丘陵部を別つ大きな渓谷である狩猟谷に入ったのは、日が昇ってから五時間後の午前十二時前だった。予想に反して川沿いが余りにも静かだったので何か居ると警戒していたが、結局それらしき脅威と接近する事も無く地層がむき出しの崖下を走り続けた。

渓谷を抜けたのはそれから一時間と少し経過した正午前で、俺は崖の末端から前方に見える滝を見て川の地形が地図と違うことに気付く。沢沿いの崖下で地図を広げてから滝上近くまで歩いた結果、足元の崖が手元の地図に書かれてないと理解した。

装備重量制限があるので高所路破用の装備を持って来てない。崖際から滝壺を見ると下の森が見え、地面の状態が解らないが高さが五十メートル以上ある事は確かだ。

背嚢には調査用の検知装置や予備の有機電解箱を含めた精密機器と本が入っている。非常食や医療道具と獣笛も入れて有るが、崖から自由降下した着地時の衝撃で破損する可能性が高い。着地前に枝に体をぶつけて衝撃を緩和しても背嚢の中身は守れないだろう。

俺は東西へ横たわった断層の様な崖を遠くまで見渡し、東に見える木々に覆われた山の輪郭が森没山だと推測。崖際沿いを東に進めば森没山の中腹へ行けるだろうと考えたが、途中で獣の群や大型害獣に遭遇すれば地形的に不利だと気付いた。

俺はこの崖を下りようと考え、森の中で何度も見かけた蔓草で足跡の登山綱を製作しようと決定。背嚢から植物図鑑を取り出して食料確保も兼ねて森に入った。



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