四章前半
湿地ダコ。神の園天空樹水系に棲息する大型の水棲獣。東盆地の水没した地下遺跡や地下水道を根城に、流れて来た死骸や腐肉を漁る掃除屋。甲各種や貝類を好んで捕食することから硬い物が大好きらしい。
四章「継承者」
「湿地ダコは低地から霧が消えると獲物を探しに外へ浮上する その間地下は比較的安全になると言い伝えられているんだ」
日の光が差さない地下区画は半分水没しており、大量に堆積した砂や浄化された無機物の残骸が光苔の栄養源と成っている。
エグザムは比較的狭い幅三メートル程度の通路を歩きながら、水に濡れた白い堆積物をまた発見した。ヴァン曰く汚染物質が浄化されて分解された無機物の結晶で、低地内の土の大半は結晶が更に分解された砂だと言った。もっとも説明した本人は興味が無いようで、足元の結晶石に目もくれず通り過ぎてしまう。
(どう見ても見た目は白水晶だ。何かの微生物でも付着してないとこんな花の様な形には成らない筈だが。)
壁の人口石材が珍しく腐食している。水浸しになった足場には昔、壁や汚染物質の融解物が堆積していたらしい。今では数種類の光苔や茸類が繁殖していて照明具の光が無くても地下の構造が手に取るように判る。
エグザムはヴァンの後を追いながら水浸しになった地下通路を進んむ。その途中に大きな地下倉庫らしく空洞に立入ったが、下の階層と吹き抜け構造となっているその区画は半分の高さまで浸水していた。
ヴァンとエグザムは直感的に生物の気配を感じ、無暗に空洞内の壁通路に入らず入り口から内部の様子を観察する。
「匂うな 獣の糞の匂いだ 湿地ダコは陸の生物も捕食するからなのか」
肉や骨が消化され老廃物と共に腐って排出された残骸の匂いが僅かに残っていた。倉庫のように天井が高く内部に幾つかの支柱が並んでいて、目で全てを把握する事はできない。
「話では定期的に住処を変えるらしい 体がでかく成る前の幼体が住んでいたんだろう」
生物の骨や何かの肉片が溶かされた残留物が部屋の隅に密集している。この地下区画の入り口は一箇所しか無く、壁沿いの壁側廊下から下に降りれる階段すらなかった。
「この辺りは廃水用の地下施設が多い 此処も含めて各区画には処理用の貯水槽が今も残ってる」
エグザムは短い相槌で返した後も、歩きながら天井に近い壁内の通路から透明な窓越しに下を観察。ヴァン言うとうり部屋の反対側には大穴が存在し、水没した排水溝の格子は無残にも破壊されていた。経年劣化で崩壊したのなら枠だけが残る筈なのに、網状の格子に開いた穴は大きく内側へ曲がっている。
(発達した獣の筋繊維は他の動物ではありえない力を発揮する。現代の鋼鉄製の檻さえ簡単に壊す連中だ。)
低地は水没遺跡に溜まった堆積物と天空樹の根によって造成された地形。当然崩壊した区画や水か土砂に埋まった区画、そして天空樹の側根が通路を塞いでいる場所さえ在る。そんな場所を歩きながら警戒を怠らないヴァン。簡素な弓矢以外の武装は狩猟用の刀剣らしき分厚い鉈しか所持しておらず、探索装備も限定的に見える。
「ヴァン 本当に例の部屋へ続く道はここしか無いのか 上の天空樹から直接降りた方が早いと思うが」
地下通路を歩き続け何度目かの大きな水没部屋に入った時、エグザムは崩れた壁や天井の残骸の上を歩くヴァンに問いかけた。
「定期的に胞子が吹き上がる場所だぞ あの穴には近付くべきじゃない それよりもう少しで着くから私語は此処までだ」
小石や砂利を含む一般的な人口石材とは違い、崩れた遺跡の壁には補強材の金属線や廃材が一切使用されてない。分厚い断面は本物の岩が砕かれたような有様で、水面下の数メートル先に沈んでいるものさえ原型を留めている。巨大な水槽と化した空洞内の天井には天空樹の若い根で覆われていて、鍾乳石のつららを彷彿とさせる無数の毛根が垂れ下がっていた。
エグザムとヴァンは水没区画の只中まで進むと、突如空気の流れが変わり始めたのに気付き足を止める。
(気圧が下がっている。どうやら天空樹が霧を噴出す準備を始めたようだ。)
再び移動を再開させ、何事も無く壁の穴へ辿り着いたエグザム。低地の地表に突き出した遺跡同士の隙間を見上げると、地上に露出した吊橋の様な根を観察する。
(天空樹は日向と日陰で生体構造がまるで違う。おそらく霧を定期的に噴出すために大量の栄養が必要なんだろう。だから上では光合成を追及して蔦や葉が大量に絡まっていた。逆に地下は毛根がとにかく多い。予想はしていたがこれだけ太く長い毛根を見たのは初めてだ。)
ヴァンが上から垂れた蔦の一部を伝いながら反対側の区画内へ渡るのを見守りながら、エグザムも揺れる蔦の束を握りしめる。
(下の建造物は都市遺跡跡とは違うな。一種の工業地帯か地下隔離施設。何かを製造する巨大工場だったに違いない。)
上から注ぐ日差しが数メートル下の水面から光の柱を届かせ海のように深い遺跡内を照らしている。エグザムは宙吊り状態で僅かに見える底を遠視で見て、砂が堆積した砂山から飛び出した何等かの装置を発見した。
「俺の影があんなにも小さい」
そう呟きながら何時までも宙吊りの体勢を維持する事は出来ない。なにせ太陽光が常時当る場所でない限り、頑丈な蔦も葉が少なく他の毛細根の様に脆い部分が在るからだ。
そのままエグザムは両腕で交互に蔦の束を掴み根の下を渡った。両手には天空樹表面の保護液らしい植物油が大量に付着していて、自身の重い体と相性が悪い場所だと実感した。
天空樹の幹に開いた穴から降りて、時計回りに天空樹の反対側まで辿り着くのに要した時間は十五分程度。エグザムとヴァンは低地へ流れる地下水が湧き出す地下遊水池に足を踏み入れ、複数の滝が幾つもの穴から深い縦穴に落ちる光景を間近で目にする。
「この辺りまで来れば厄介な魚や水蛇を気にする必要もなくなる 見てのとうり低地北側にはこんな深い穴が幾つか在って 所謂地の底まで繋がってる 季節によって赤い山や西の湖から流入する水量が変わるけど 此処の地下に張り巡らされた複雑な地下通路が水路の役割をしていて この縦穴を調整用の遊水池に変えている」
天空樹の根が低地北側の大地方々へ伸びている。一概に大地や根と言っても、均一に造成された古代建造物上部の隙間を縫うように伸びているだけだ。北側は南側と違い地表には起伏が少なく、地下へ降りられる建物の残骸も少なかった。
「湿地ダコの他にも閉ざされた水場に生物が棲んでいるのか」
エグザムの問いに対し、ヴァンは崩壊した天井の残骸に腰掛け首を横に振る。
「棲んでいると言うより取り残されたはぐれ個体が居る 此処の地下には西の遺跡や森に住む虫の死骸が流れて来やすい 餌を追って地下水道を通って低地に迷い込むんだ」
ヴァン曰く様々な獣や蟲から共通語化されてない秘境の生物まで、死骸を含めても多くの個体が低地に流れ着くらしい。大抵は湿地タコの餌になるが運よく生き延びる個体も少なからず居る。今も地下の水没区画には今年の雨季に迷い込んだ魚の群れが居ても不思議ではないそうだ。
「何処を通って来たのかは知らない たまに海から魚がやって来る事もある 去年の秋頃に森の中から水面を見ていたらでかい鎧魚が泳るのを見つけた 何年に一度か湿地に羽虫が産卵に来る 俺が此処に来るようになってまだ二回しか見てないけど 明らかに羽虫の数が増えてるんだ」
ガスマスク越しにヴァンの溜息が聞こえ、エグザムは羽虫が湿地を占拠した光景を思い浮かべる。もちろん有害物質や寄生植物の胞子が絶えず充満している霧に何の反応も示さなかった狩人頭が体を震わせたのを見ると、どれほどの大群がこの湿地に飛来してくるのか簡単に想像できた。
「小さい虫は嫌いなんだ でかい奴と形が似ているのを見ると なんと言うか無視出来ずに意識が引っ張られる」
ヴァンは立ち上がり体を伸ばして深呼吸を行う。ガスマスク越しでも僅かに匂う独特な花の香りが周囲に充満していて、気分が落ち着きそうになかった。
エグザムとヴァンはそのまま登ってきた階段を下り、再び光苔が自生している地下道を進んだ。目的の天空樹直下の空洞部まで直線距離なら目と鼻の先なのに、入り組んだ地形を迂回しながら進むとどうしても時間を要してしまう。しかし時間を掛けただけの収穫も有った。
(主根側に近付くと大きな光苔の群生が多いな。色も青や緑だけでなく赤や黄色の個体も生えている。獣や溢れた地下水に荒らされた形跡が全く無いと言う事は、やはり例の場所には何かがある。)
地下を探索して何度も目にした光苔が、天井の崩落部分から漏れる日光の当る場所まで隙間無く繁殖している。足元は細い蛇行した道しか残っておらず、突き当りの通路には日差しを浴びる只の苔が見える。
エグザムは絶え間なく流れる空気の流れに気付き、硬質な耳栓と頭を包む目だし布越しに周囲の息吹を聞き取る。
(どうやら例の空間は天井が崩落した場所らしい。おそらくこの場所から天空樹の二つの大枝が伸びている。丁度幹の真下辺りだな。)
前を歩いていたヴァンが通路沿いの壁に密着させ曲がり角左側を覗いている。エグザムは逸る気持ちを抑えながらヴァンの合図を待ちつつ、ヴァンの隣で密着服の前止めを静かに開けた。
ヴァンがエグザムの肩を突き、右手で通路の奥へ進む合図を示した。通路の左奥から聞こえる隙間風の様な音に耳が慣れ戸惑いも感じない。エグザムはヴァンに続いて駆け足で通路を曲がり、音の正体の下へと辿り着いた。
地下空間自体にかつての面影は無い。天空樹の白い葉と枯れた蔓草が天井の大穴から垂れていて、砂が堆積した足元には獣の骨が無数に埋もれている。その砂上には骨以外で光苔や植物の姿は無く、天井の穴から差し込む日光に照らされたヘラジカの大きな二本角が砂場中央から生えている。
(此処が毒胞子吐き出す獣の巣穴? 獣や蟲の死骸しかないぞ?)
立ち止まったエグザムはそれらの光景を見ながら、周囲を見回して空洞内の構造を観察する。天空樹の形状が異なる大枝の内、背が低く幹が曲がりくねった広葉樹に付着した汚染植物の発生源は間違いなくこの場所が最も近く、背が高い枝の亀裂が在った場所から見えた穴も真上の穴で間違いない。
ヴァンはエグザムの目の前を歩いて砂場の周囲を調べている。どうやら狩人頭は骨の正体に見覚えが有るらしく、指で砂を指しながら埋もれた骨を一つずつ数え始めた。
エグザムはヴァンを尻目に足を動かし、中央の砂山に根元から埋もれたヘラジカの二本角の下へ歩くいて行く。二本角を見上げると十メートルに達しそうな高い天井に枝分れした角の先が届きそうな錯覚を感じれ、あまりの大きさにエグザムの口から溜息が出た。
エグザムの足が止まったと同時に、角の根元を隠す砂山が僅かに動く。噂で聞いた地震の前触れにしては、己の耳石や周囲の壁に揺れを感じれない。エグザムが左足を一歩後ろへ動かすのと同時に、砂場全体が大きく蠢き始める。
「砂の中で寝ていたのか 起して悪いな」
エグザムはユイヅキを背中から引っ張り台床に固定された板バネを弓状に開く。
「ヴァン 相手が寝起きで覚醒してないうちに仕留める 銃は使えるかぁ」
太い杭を装填しつつ背中の矢筒から残りの杭を握り、腹袋が在った場所の帯びに差し込んだ。その間にエグザムの声に反応したヴァンが駆け寄って来て、任せろとだけ言うと背嚢から長銃を持ち去った。
「ヘラジカじゃないな お前 何者だ」
エグザムはゆっくりと背後へ下がりながら、多くの砂を持ち上げつつ大量の砂塵を舞い上げる相手を睨む。空洞内の広さは最長部分で三十メートル程度。対して砂山から徐々に体を露出させる緑色の何かは、背中だけで長さ十メートルに達している。
エグザムはヴァンが標的を挟んで反対側の死角に消えたのを確認し、戦いを一瞬で終わらせようと物静かな動作で駆け出す。既に標的上部に位置する背中が露出していて、頭から尻尾らしき先端部までの長さが判明していた。
(デウスーラと同じ巨大獣、いや龍だな。あの死体とは骨格が違うが、こんな狭い場所で暴れられたら厄介だ。)
エグザムは中型と大型害獣用に製作された携行弩弓のユイヅキを構えながら進路を変更し、露出した頭部の真横で立ち止まる。
(動きがまだ遅い。十分狙えるぞ。)
眼前の龍は間違いなく古代種の生き残りだ。四つの足と二本の腕か翼らしき足が胴体から生えており、昆虫類の特徴から甲殻獣の仲間だと推測したエグザム。体表の至る所に繁殖しているカビの様な汚染植物を一旦無視して、独特な箱型形状の頭部に杭を放った。
杭は錆びた鉛色の頭部に直撃したものの、鈍い破断音と共に折れ曲がり砂に落ちてしまう。杭が直撃した場所にはツルハシで岩を削った様な痕が残っており、甲殻獣型の龍は分厚い外殻で体全体が覆われている。
「なんて硬さだ ヴァン こいつの外角は分厚い装甲だ 緋色金は通らんぞ しん」
青緑色の背中は汚染植物で覆われており、体表が緑だと認識したのは誤りだった。エグザムは汚染植物が侵蝕した場所を狙うよう指示しようとしたが、真上から延びて振り下ろされた大きな関節腕に阻まれた。
(多重関節の腕なんて初めてだ。離れんと殺られる!)
エグザムは砂を掻いて真横から迫って来た腕を後方に飛び退いて避けた。ただ距離を離して範囲内から脱しただけだったが、腕の挙動は機械的で虫が長い後ろ脚で大地を蹴る力強さを感じれる。
龍は頭部を左へ曲げてエグザムを視界に捉えた。相対する相互の視線がぶつかり両者が次の行動へ移ろうとしたその時、甲高い銃声が空洞内を上に駆け抜けた。
「おいエグザム この銃単装式だぞ 時計回りに位置を変えるから弾を置いてけ」
ヴァンの意図を理解したエグザム。腰に巻いた弾倉帯を外して足元に落とし、その場から左方向へ素早く走り去る。
(何処に当ったかは知らんが一瞬よろめいたな。頭が狙えないなら心臓を狙うしかないが、心臓を複数持ってる種の場合緋色金の効果が薄くなる。持久戦は必至と見た。)
走りながらツルマキに杭を装填したエグザム。装填する前から顔を龍へと固定しているが、巨体を支える四つの足が砂地を派手に掻き乱して見え辛い。龍は巨体の体を素早く旋回させてヴァンを追おうとしている最中で、砂場に慣れていないエグザムに龍の旋回速度に振り回されてしまう。
「邪魔だ」
エグザムは背嚢を投げ捨て足を止めると、ヴァンの意図を無視して逆走をを始めた。自分より体が軽いヴァンの方が砂地を速く走っていて、龍の目の前で一緒に走る気は無かった。
(今は長銃の緋色金が頼りだ。何とかヴァンが装填する時間を稼がんと。)
エグザムは二発目の杭を放ち龍の背中にこびり付いた汚染植物の一群を飛散させる。空気中に胞子や微生物の死骸が塵と共に飛散するが、大気の流れは天井の大穴へと流れていて害は無い。それどころか胴体中央の胸から延びた展開腕でヴァンを挟もうとしていた龍が体を小刻みに振動させて足を止めたではないか。注意を逸らす心算で攻撃の邪魔をしたエグザムは、龍が想定外の行動を始めた事に驚く。
(杭は刺さったままだが出血してない。肉に刺さってないのに痛みを感じたのか?)
龍は体を小刻みに震わしながら腕の各関節を動かし、走り去るヴァンの後方に腕の尖った先端を突き刺した。獲物を仕留めきれず不機嫌そうに悪態を吐く仕草を見せず、エグザムとヴァンが合流するまで手を出さない。
「エグザム あれは獣じゃなく古代兵器の生き残りだ 一度だけ話を聞いたことがある」
エグザムは短く交わした言葉から龍の正体を理解した。目の前の存在は確かに火事場の大きな死骸と同じ龍と言われる古代種だ。そしてデウスーラやゼルが言う龍であり、体に寄生した汚染植物により生き永らえた生物兵器の成れの果てでもある。
エグザムは自分へ向けられる視線を感じてわざと立ち止まり、獣同様狩る相手を観察するために睨みあいを続けながら、三本目の杭を装填したツルマキを胴体胸部へ向ける。
双方が正面から向き合う事によって見えてくる物もある。エグザムの視界には翼を広げようとしている空想上の生物が目の前に存在していて、開かれた下顎に並ぶ白い牙から何かの液体が漏れていた。
(間に合わん!)
エグザムはユイヅキを放り投げ、重量物を投げる勢いを利用して自らも右側に倒れる。直後に龍の口から噴射された白い霧状の何かが砂と背後の壁際を盛大に染め上げ、探索具表面に付着した石灰を白く粉末塗装しようとした。
「エグザムッ」
放射された霧状のスプレー放射によって砂場を転がるエグザム諸共空間を白く染め上げる。白い成分が何なのか解からない内に攻撃を避け切れなかったエグザムを守る為、ヴァンは龍の首に生えたヘラジカの角の片方を長銃で打ち砕く。
エグザムは砂場で獣と同様に体を転がして、装備表面に付着した白い物質を砂粒と擦り合わせる。それと同時に残り二本だけとなった杭の一本を右手で引き抜くと、体中に付着した砂を払う前に龍のもとへと駆け出した。
(どうやら角は飾りじゃない本物だ。それに古代兵器の話なら俺も聞いたことがあるぞ。)
エグザムは砂に足が沈むのを恐れず全力で砂を蹴って空中へ跳び上がる。砂が過剰な脚力を吸収したおかげでエグザムは龍の背に跳び乗ることに成功し、体を固定する為汚染植物の花園に太い杭を差し込んだ。
「弾をくれぇヴァン 体内から浄化するぞ」
杭が差し込まれた龍は硬直しながら、壊れた歯車により振動するガラクタと同じ様に巨体を震わしている。駆け寄ったヴァンが実包の束を投げるだけの猶予が生まれ、エグザムは緋色金の弾を埋まった杭の先端部に向けて埋め込むと、握り拳で叩いて直接火薬を爆発させる。
撃鉄の真似事をした反動でエグザムは右腕ごと背後へ仰け反り落ちたエグザム。体に伝わった大口径用火薬の衝撃で平衡感覚が狂い、動かなくなった龍と同じく体を自由に動かせない。
「大丈夫かエグザム 無茶はもう辞めとけよ」
エグザムはヴァンの腕に両脇を掴まれ砂地を引き摺られながら離れて行く。打ち込まれた三つの緋色金は獣因子を細胞ごと破壊する性質が有り、その性質どうり深く刺さった杭ごと汚染植物を根元から枯らし始めた。
「ヴァン すまないが腰の左小袋に入ってる結晶体を取り出して 俺の代わりに奴の体液を結晶体に付着させろ あと出来れば刺した杭と俺のツルマキも回収してくれると助かる」
エグザムは鼓膜から響く不快な音に意識が削がれ、同時に揺らめく平衡感覚に意識が覚束無い。そのまま獣の骨が半分埋まっている壁際に寝かされ、穴の上部から聞こえる騒がしい蟲の羽音を聞き続けた。
数分後に再びヴァンが近寄って来た。エグザムは調子がある程度回復したのを確認し、体に力を入れてぎこちない動作で立ち上がる。
「ほら受け取れ 言われたとうり持って来たぞ」
エグザムは重かったと愚痴を零すヴァンから汚れたままの二本の杭とツルマキ、そして不自然に変色した結晶体を受け取った。
「しかし不思議な石だな あれの緑色の血を吸って変色したぞ」
ヴァンの言うとうり結晶体は赤紫色と緑色で半分ずつ色分けされている。特殊な獣因子は龍と呼ばれる存在が継承していると捉えて間違いなく、エグザムはヴァンに結晶体と自身の体について一通りの事を話した。
「その結晶体と似たような性質が俺達の聖獣にもある このメータの場合は獣の血を燃やすだけでなく瞬時に血を固める事も出来る 怪我をした時は便利だぞ もしかしたらどちらも獣因子に作用する物質で作られたのかもな」
エグザムは密着服の前止めを外し、その場で結晶体を筐体に装着してガスマスクを外す。ゼルの目論見では、意図的に因子が活性化し易いように絶えず体を外的要因に晒す事が重要。固有種の獣因子すら取り込む血染めを纏っている以上、制御中枢の結晶体が馴染むより先に龍の因子を万が一浴びてしまったらどうなるか解らない。
「大丈夫だヴァン 直に俺の血染めが環境に適用する それより今はあれの調査が先だ」
ヴァンは一人先に龍の下へと歩くエグザムの後ろを歩きながら昔話を始めた。
古くから神の園は獣と蟲と植物の楽園だった。閉ざされた山間部の平野と盆地には多くの遺跡が残っていて、探索者が侵入する八百年前と変わらない生態系が続いている。そんな世界に住みながら自らを炎の民と自称していた時代、顔に特異な痣を受け継いだ人々は生存圏を守る為に神へ反逆した。
「外の世界でも巨大獣や古代種の類は殆ど絶滅したらしいな 噂では今の探索街に骨が残っていると聞いたが エグザムは見たことあるのか」
活動停止した龍の眼前でしゃがんだヴァンは、エグザムの返答に相槌を送ってから自分の手より大きい牙が並んだ咥内を見上げ話を続ける。
「俺が知ってる大きな獣はヘラジカくらいだが 昔は森や山だけでなく海岸にも巨大な獣が棲んでいた 俺の先祖もそんな奴等と戦う為に里を離れ、何処か知らない土地で傷付き死んだと思う」
人間すら丸呑みできそうな顎は以前遭遇した大塚蛇よりは小さい。しかし咥内は牙獣種と同じ構造で、咥内に付着した食べカスらしき汚染植物の塊が悪臭を放っている。
エグザムは数百年前に遡る神の園全域で行われた防衛戦争の話を聞きながら、悪臭を放つ咥内に首を突っ込み調べ物を始めた。
(帝国の残骸大地にはまだ古代兵器の残骸や遺物が転がっているらしい。だから神の園にはまだ古代の遺物が残っていると勘違いしていた時期が俺にもあったな。本物の血染めを纏い巨大獣と戦うにはどれだけの犠牲が出るだろう? 人や物も食い扶持すら限られる状況下で英雄を崇めても人は結束しない。当然の帰結として脱落者が出てくる訳だ。)
咥内の喉奥に白い液体を噴射させた噴射口らしき管が垂れ下がっている。エグザムはナイフで咥内を切って傷口に最後の杭を刺し、血液を杭越し滴らせながら小さな空瓶を緑色の体液で満たす。
「俺にはこいつら龍の生き残りを狩る為 はるばる南の秘境からこの地に来た 本当は自前で金を溜めて世界を旅する予定だったのに 上手い話だと判っていてが狩人の血には逆らえなかった訳だ」
エグザムは龍の血の採取を終えて、咥内から引き抜いた杭に付着した血を腕の皮部分で拭いた。石灰粉と謎の白い物質が合わさりべた付く何かへと変貌しており、エグザムは衣服と装備の汚れを砂で丹念に落さなければならない。
ヴァンは背後でエグザムが清掃作業に勤しんでいる最中、緑の龍を見て感応を述べる。
「結局 生身と汚染植物のどちらが本体だったのかすら解らないまま終わったな まるで屍漁りみたいな奴だ」
そう言いながらも右手に装着した赤い籠手のメータから白い突起を突き出させたヴァン。どうやら獣を葬り去る為の簡単な火葬を執り行うようだ。
「おい待て 今ここで火を焚いたら天空樹まで燃えてしまう この綺麗な砂の上で緩やかに朽ちさせてやれや」
ヴァンは装甲化した硬い外皮にメータの角を刺す直前で腕を引っ込めた。エグザムの言うとうりこの乾いた空間で火を起こせばどうなるかは、直接火を見るより明らかだ。
「そろそろミカヅチが来る時間だ 今から上に登って天空樹の根を伝い湿地に降りる そこから低地を移動して崖上に登れる場所まで行くぞ 急ぐから遅れるなよエグザム」
ミカヅチの言う単語か何を意味しているのか理解したエグザム。体を砂で洗う作業を止めてツルマキを担ぐと、先に蔦を上り始めたヴァンを抜いて縦穴の天井まで上ってしまった。
緑龍ヘルプラント。四つの節足足と二本の翼膜を生やした腕が特徴の古代種。天空樹の成長と密接に関係していた。
頭部はヘラジカに近い草食獣の細長い鼻と口が特徴。赤い目が左右に四つあり、大きな一本角が折れた後頭部からヘラジカのような角らしき木を生やしている。鼻先から尻尾先までの大部分が深緑色の雑多な汚染植物に覆われており、六つの長い手足も例外なく菌糸が根を張っている。
天空樹は二種類の老廃物を排出する。一つは白い灰上の粒子結晶で、もう一つは白い粘液状の油が乾燥した飛沫片だ。それらに胞子が付着して発芽、粒が大きく成長しながら屍の森に降り注ぐ。天空樹は今も成長を続ける肥大植物だが、その苗床で汚染植物を生成していた龍が死んだ事により、今後屍の森へ飛び散る汚染植物の胞子が無くなるはずだ。
「試料を採取して調べても居ないのにあの龍がそうだと決め付けていいのか もしかしたら天空樹自体が寄生生物を培養しているのかもしれんぞ」
遥か底に水が溜まっている大きな縦穴の脇を歩きながら、エグザムは蟲の独特な鳴き声を聞いて振り返った。
「天空樹自体が汚染物質を吸収しているから汚染植物を生み出す存在とは別物 それに前からおかしいと思ってた 調べようにも独りで行動できる範囲は限られていたから エグザムのおかげで調査が捗ったよ でもまさか本当にあんな物が居たなんて思わなかった なんせあの姿を見た者は今まで居なかったからな」
天空樹の上空で繰り広げられている獣の狩りは、赤い山に住む中型翼獣のミカヅチが圧倒的に優勢だ。圧倒的に数が多い四羽甲蟲は狩られる餌でしかなく、天空樹から飛び上がった瞬間羽根を掴まれ巣へと運ばれて行く。
エグザムとヴァンは現在低地の北側、つまり巨大な縦穴が並んで配置された貯水池兼水位調整施設と化した構造物の屋上を歩いている。ヴァンが危惧していたミカヅチの来襲は天空樹から脱出した直後に始まり、あと少し遅れていれば餌として認識されるところだった。
「それよりもヴァン 西の南水源池遺跡へ通じる道は本当に一箇所だけしかないのか 地下水道が此処と繋がっているのなら 多少迷ってでも安全な道を通るべきだと思うぞ」
天空樹の根から伸びた太い蔦が生長し、絞め殺しや低木の枝による薮で道が塞がれていた。先頭を歩くヴァンは鉈を振り回しその邪魔な障害の排除に勤しんでいるが、獲物を振り回し続けるのに慣れてないのか息が上がっている。
「ふぅ 確かに探せば在るよ ただしその道もこんな風に障害で塞がれているから 獣の巣穴に入るのと同じ目に遭うだろうよ それよりもぉっ そろそろ交代してくれないかエグザム 体が馴染むまで力が出なくても これっ位の処理なら出来るだろ」
エグザムは自らの鉈を腰の鞘から引き抜き、明らかに蔦より太い茨の道を鉈で切り開いて行く。ヴァンが身のこなしの軽さを重視した狩人だからすぐ疲弊するのはしかたないと思っていた。しかし実際に太い暗緑色の幹を断ち切るのは薪を割るより難しい。
(なんて繊維質な植物だ。成長が早い竹を叩き割る方が楽な気がする。)
圧倒的な腕力で鉈を振り回し、時には太い蔦を握って強引に捻ったり引っこ抜いて道を拓く。人では明らかに不可能な芸当を黙々と行うエグザムを見ながら、ヴァンは両腕を回し肩関節を休めながら話の続きをする。
「話を戻すけど 南水源池は昔から霧で覆われていた訳ではないんだ まだホウキから人が外へ流れていた時代までは 古代遺跡と何等かの構造物が在るだけの場所だった」
頑丈な茨状の蔦を引き裂く音が響く最中。ヴァンは赤い山の南、南盆地北側の裾野や台地に在る遺跡について詳細を語りだした。
「なんでもそこを定住地と決めてから水源の確保を始めて 獣を狩りながら山を削った土砂で堰堤を築いてて防壁代わりにしたらしい 当時は今で言う遺物の継承で揉めてた時代だから 同族から守る為にも使われたんだろうよ 今じゃ毒虫の巣窟で探索者どころか狩人も近づけないけど もしかしたら失われた筈の遺産が残っているかも」
遺産と言う単語に手を止めたエグザム。そう言えば肝心の獣笛を使うのを忘れていたのを思い出した。
「やっぱり探索者はお宝を求めようと血が騒ぐのか でも解るよ あの地は昔からホウキでも禁足地扱いだから 古い地図や遺物の保管庫が残っていても不思議でじゃない」
エグザムは鉈だけでなく狩猟用ナイフも使い太い葦や蔦状の植物を断ち切る。斬っては払い斬っては引き抜き天空樹の植物を排除し続け、手を止めるどころか少しも手の動きが衰えそうにない。ヴァンはそんなエグザムに敢て何も語りかけず、後ろから異物関連の独り言ばかりを呟いてエグザムの士気を高めようとした。
「後二分で午前十一時だ 休憩するかエグザム 遺物や神の遺産は逃げたりしないと」
ヴァンの呑気な口調が耳障りな甲高い音に遮られ、エグザムはようやく作業を止めて背後を振り返った。
「あれは殺した筈の龍 緋色金に侵蝕されて死んだ筈 ヴァン逃げろ 奴はこっちを見ているぞ」
天空樹から距離にしておよそ七百メートル。丁度低地中央付近まで根から生えた茨の道を北進している最中、エグザムは鉈を強く握りしめ判断が甘かったと後悔した。
「なんだあれ 奇妙な翼が生えてる あの腕は翼だったのか」
ヴァンが奇妙な翼と言った物をエグザムは遠視で確認し、その正体に気付く。
「違うぞヴァン あれは圧縮推進装置の一種 文明でも数少ない飛行機械の原型 いや 紛い物とは違う本物の古代兵器だ 今すぐ隠れろ 見つかったら死ぬぞ」
エグザムは太い蔦を強引に握りつぶし、葦で道を作りながら茨の道を突き進む。ミカヅチや甲蟲が騒音から逃げ出し天空樹が更にざわめく最中、振り返らなくても甲高い推進音が近づいてくるのが判る。
(どうする。この薮の中に隠れても見つかるだろう。どこかで奇襲できる場所は無いか?今すぐあの大穴に飛び込んで逃げるべきか?)
エグザムとヴァンは飛行状態でゆっくりと近付いて来る古代兵器から逃げようと、太陽光を存分に浴びて太く頑丈に育った蔦を掻き分けている最中。耳障りな騒音に負けず劣らない振動が方々の森から聞こえて来た。
「この足音はヘラジカ いやヘラジカの大群だ」
エグザムは太い蔦に足を架け頭を茨の森から出す。自重で太く頑丈な筈の蔦がゆっくりと曲がってい出した頭が再び沈んだが、エグザムは遠視で森の狭間から飛び出してきた巨体の群れを確かに見届けた。
「ヴァン これはどう言うことだ あいつらは低地に降りて来ないんじゃなかったのか」
このままでは古代兵器から逃げてもヘラジカの大群に踏み潰されるだろう。誰が見てもそう判断できるほど個体数が多く、頑丈な遺跡の構造体自体が不気味に振動している。
「見ろエグザム あいつが引き返して行くぞ」
エグザムはヴァンが指で指した方向へ振り返った。古代兵器は地上から二十メートルの空中でゆっくりと時計回りに旋回していて、羽根らしき推進装置から発せられる大気流動の影響で様々な残骸を吹き飛ばしている。もしあの真下に居たら今頃は若い天空樹の枝と同様の末路を迎えていたかもしれない。そうエグザムは思った。
「ヴァン あの穴へ避難してヘラジカの行進から隠れよう 縄の代わりにこいつを使うぞ」
エグザムとヴァンは蔦の中でも若く細い蔦を引き千切り、即席の縄を製作した。即席と言っても天空樹の繊維は頑丈で肉厚だと体験したので強度に問題は無い。複数の結び目が目立つ縄を穴の縁の手摺に結び、エグザムは先にヴァンを穴下の高台へ突き落とす。
「速く降りろ 俺が落ちてくるぞ」
エグザムは手摺に跨りながら周囲を観察する。ヘラジカの大群は自分達より例の古代兵器に向かっているようで低地の遺跡や湿地を崩しながら天空樹へ走っていた。すでに推進装置の騒音より大地を踏み鳴らし植物を踏み荒らす音の方が大きい。エグザムは自身の傍を通過するだろう先頭の大きなヘラジカを見送る前に、縄を伝い穴へ跳び下りた。
巨大な縦穴は壁を人工石材で固められている円筒の縦穴だ。壁に露天掘り採掘場のような坂道や昇降装置は無いものの、上部から十メートルにも満たない間隔で横穴と展望用の高台が設置されていた。エグザムとヴァンはその一つに降りて、地下道奥へ続く横穴通路の入り口に身を隠している。
「まさかヘラジカが群れて行動するとは思わなかった 繁殖期や育児期間でも三頭以上で行動するのは稀 あそこまで纏まって行動するヘラジカを見たのは初めてだ」
珍しくヴァンが冷静な口調と真剣な表情で独り言を呟いている。エグザムは狩人仲間の愚痴を隣で聞きながら、ヘラジカが古代兵器を狙った理由を考える。
(まるで群れが捕食者を追い出す行動と同じだ。ヘラジカにとってもあの古代兵器らしき生物兵器は危険な存在で、発見次第囲んで始末したいらしい。わざわざ森から出て脅威を排除するのだから、何かしらの因果関係が有るのだろう。そしてその関係は歴代の首猟でも知らないなにか深い話、或いは忘れられた秘境の秘密の様な何か。)
人工石材の結合体は旧時代に建造されただけあって、地上の喧騒を完全に吸収していて最低限の振動しか感じれない。その一方で耳は、ヘラジカの特異な鳴き声が耳障りに聞こえて喧しい。皹が入った縦笛の様な鳴き声でも集まれば合唱として周囲に響き、独特な歌を奏でていた。
エグザムとヴァンはそれから二十分近くその場に留まっていた。鳴き声等の喧騒は比較的早く収まったが、群れと化したヘラジカがばら撒いた危険な粒子が地上に漂っているのは明白で、喧騒が止んでもその場から動く事が出来なかった。
「12時二十八分 そろそろヘラジカの飛散物質が沈静化する頃だ そろそろ移動しないと夕暮れまでに屍の森を抜けれない 調査をするのならガスマスクを装着しとけよ」
言葉を言い終える前にヴァンは即席の縄を握って垂直な壁を登り始めた。念のために言われたとうりガスマスクを着用したエグザム。ヴァンが頂上の手摺に手を掛けたのを確認し、高台を高く跳躍して縄を使わずに元居た場所に着地する。
「そんな脚力が有るなら俺を担いで逃げれるだろうに わざわざ隠れたのはアレを調べる為の口実だったのかエグザム」
背中から聞こえた愚痴より、ヴァンが言うアレに反応したエグザム。右手方向に転がっている大きな肉片へと体と視線を向けた。
「ああそうだ 実を言えば今度来た時に死体をじっくり調べようと考えて わざと自然分解するまで待つように言ったんだ おれもこんなに早く再会するとは思ってなかった」
あれほど繁殖していた天空樹の若い枝、つまり地表部に横たわる太い根から方々へ伸びた頑丈な蔦の森は綺麗に伐採されていた。今まで苦労して切り開いた道どころか、広い平面上の遺跡上部に転がっている遺跡の残骸と比べても見る影がない程荒らされている。
「ヘラジカの主食は汚染植物だが稀に仲間の死体を食う事もある 調べた限りでは病気の抗体を体内で生み出す為に行う生物共通の免疫反応と同じだろう もしかしたら汚染植物が貴重な種だったのかもしれないけどな」
エグザムとヴァンは歩きながら地上の堆積物が踏み固められた場所に転がる大きな肉片へと向かっている。肉片はあらぬ方向に曲がった緑の脚らしき節足関節に似ていて、天空樹から通って来た道の近くに同様の肉片が散らばっている。
「あの古代兵器はヘラジカの先祖を改造した個体だったんだろうな 昔そんな遺物を紹介した文献を読んだことがある 現代の獣を軍事利用した連合軍の生物兵器とはまるで違う 全てを破壊する人造巨大獣の様な存在だよ」
足場が砕かれた蔦で不安定だったが、一分も経たず肉片の前に辿り着いた両者は自分達と同じ大きさの脚部関節だった物を見つめる。
「これがエグザムが求めている獣因子の結晶 こんな得たいの知れない物を何に使うんだ」
エグザムはヴァンの問いに答えようとしたが、何も言葉が思いつかずしばし沈黙が続いた。エグザムは立ったまま悩んだ末、苦し紛れに短く答えようと手を伸ばす。
「そりゃ狩人らしく体の糧にするしかないだろ」
ミカヅチ。中型の翼獣。雑食性だが翼獣では珍しく食欲が旺盛で、時には飛竜の卵をも狙う。飛竜とは競合関係に位置する種だが、調査不足で謎が多い神の園の固有種。
狩りは複数で行うが、基本的に狙うのは鳥や身鳥等の小型の翼獣ばかり。図体が大きく離着陸に向かない通常関節足の所為で、陸上生物を捕まえるのは不得意。ただし翼がでかく揚力が大きいので、中途半端に背が高い人間は間違いなく捕獲し易い餌でしかない。
五期二十三日。午後四時二十分過ぎ。
圧倒的な走力で屍の森を駆け抜けた二人の狩人。赤い山南部の裾野に点在する天然洞窟前で野営準備を終えてから、今後の予定を話し合う前にそれぞれの自由時間を過ごしている。エグザムは天然の火山洞窟出口上部に立ち、西の遠方に立ち込める霧を観察していた。
(やはり屍の森の霧と似てる。探索者達は霧の発生原因がどちらも同じだと言っていたが、水源池遺跡にも古代兵器が居るのだろうか?)
洞窟の上部高台は冷えた火山岩が露出しており、僅かに堆積した土に茂る雑草以外の植物は見当たらない。その結果やや高い丘の様な高台から遠方の拓けた地形を見渡せ、東の地平へと傾いた太陽が照らす湖畔の様子が一望できる。
(あの湖には以前一度だけ近付いた。あの時は密猟者を追って南西の対岸にある埋没した遺跡まで近付いたが、今回は東側から蟲の巣窟を越えねばならん。遺跡を調べる余裕は無いだろう。)
アーチ状の洞窟入り口の上で遠方を観察していると、真下の洞窟から自身を呼ぶ声が聞こえた。
「食事が出来たぞ 降りて来いエグザム」
エグザムはその声によってヴァンが食事の準備をしていたのを思い出し、活性化した獣因子によって若干強化された体を六メートル下の地面へ投げ出す。
(体がまた軽くなった。あの古代兵器の獣因子はデウスーラと違って体全体に作用している。それに先ほどから体が痒くなってきた。確実に血染めの表面が変化している。)
本来なら六メートルの高さから跳び下りた場合、膝を曲げるだけでなく受身をとり体に係る衝撃を逸らさなければいけない。しかし軟らかい腐葉土に深い足跡を残しながらも膝をしっかり曲げるだけで衝撃が吸収でき、膝関節や脚の筋肉に些かの痛みも感じなかった。
「体は慣れたかエグザム 俺特性の天空樹と獣肉の豆焼きが出来てるぞ」
エグザムは、奥が崩落で塞がった天然洞窟の入り口から聞こえた声に振り返った。
「なんだまた豆焼きか お前達はどうしてそんなに肉を植物で巻くのが好きなんだ」
ヴァンは枝を折った串に刺した乾燥肉を天空樹の新芽で巻いただけの焼き物をエグザムに手渡した。
「油を吸い込んだ茎と苦味が消えたこの舌触り この味が解らんとは不便な奴だな」
エグザムは自称ホウキの民達が始めた簡素な肉料理を頬張るヴァンを見ながら、自身も串の枝ごと豪快に齧り取る。
「熱を通しただけで苦味が消えるのが解らん 俺にとって苦くない肉など人の肉と同じだぞ」
焚き火を挟み目の前の亜人が人間も食す狩人だと知り、ヴァンは噛むのを止めて咥内の内容物を飲み込んだ。
「それって万年食糧難で舌が味覚を求めるのを辞めた結果だろ 神の園では不健康な奴から死んでいくから気をつけろよ」
その言葉にエグザムは言い返すのを諦めた。目の前の狩人と自身との間には、焚き火を燃やす燃料の枯れ枝より良く燃えそうな血の定めが有るように思えたからだ。その所為だろうか、ふとエグザムは焚き火を見てこの洞窟を形成した溶岩の事を考える始める。
(昔の狩人や隠れ里から逃げ出した者達も洞窟や人口空洞を活用したんだろう。長老やゼル達の話を総合すると赤い山の南側に独自の集落が複数存在していた。そう言えばタカも聖域がどうのこうのと言っていたような気がする。)
エグザムが考えるとうり赤い山南側の裾のに点在する洞窟は、かつて聖域から逃れた先住民が住居や倉庫用に掘った人工空洞と、赤い山が火山だった頃に形成された火山洞窟の二種類が存在する。勿論旧時代に掘られた地下トンネルも残っているのだが、文字通り獣や蟲の巣窟と化しており、狩人であっても装備なしで近付ける場所ではない。
「なあヴァン 最初の探索街の話を聞いたことあるか」
エグザムは途中で折れて短くなった枝を焚き火に食わせると、表面の蔦が焦げている別の串焼きを手に取った。
「聖地イナバの事だな 狩人以前にホウキの人間なら皆知ってるよ 八百年ほど前に初めて外から来た人間と同胞が暮らした最初の街で 元々ホウキとは違う別の一族が住んでいた土地だった場所 探索者達が何処に在ったか調べ尽くしても見つからなかった幻の都 まぁ明日から入る南水源池遺跡の事だろうな 今じゃ台地と裾野北側が霧に包まれて視界不良で有名な場所だ」
そう言いながらもヴァンは懐から懐中時計を出して時間を確認した。普段から持ち歩かない懐中時計をヴァンが所持している事が予想外だったエグザム。内心で隠れ里の狩人が探索者に転職する日も近いなと何度目かの感想を漏らす。
「本当は探索街に潜入した密偵の老人から聞きたかったが 生憎掟とやらで真相を知るのに手暇が掛かってしまってな なにせ俺は年を越すまで隠れ里の存在すら知らんかった 未だにホウキの歴史については疎くてどうにも成らん」
急に老け込んだ発言に繭を潜めたヴァンだったが、エグザムに演技をしている様子は無い。それどころか獣の様な牙で肉ごと串を噛み砕いているので、人に近い精巧な亜人が何時もどうりの獣に見えた。
「ああすまん これは俺の育ての親の口癖 いや訛りを受け継いだ証だ 西大陸出身らしいが気品なんて全く無い奴だったから 俺もこの方が話しやすい」
咀嚼しながら独特な口調で会話を挟むエグザムを見て、ヴァンは自身に課せられた役目について考え始める。その意中を察してかエグザムは咥内の咀嚼物を飲み乾し、下で口周りを綺麗にしながら本題を話す始めた。
「確か予定進路上に幻想蝶と竜蜂の巣が在るんだったな わざわざ大量の殺虫剤を持たされた訳だが 虫が嫌いなら俺が先導してやってもいいんだぞ」
エグザムは焚き火の近くに置いたまま忘れていた元腹袋の背嚢に手を伸ばし、重そうな荷物ごと軽がると片手で持ち上げ目の前に置いた。
「いや俺が先導するよ 確かにあの辺りは危険な虫ばかりだけど 対処法さえ守れば誰でも通れる場所だ それより問題は裾野遺跡で山側に在る堤の壁 あそこまで如何に安全に行けるかで水源池調査の何度も変わってくる 俺の予想ではこの数日の晴れた天気で霧が縮小している筈だ 出来るなら山側を通って台地の麓へ行きたいけど 霧が晴れた今の山肌では虫の活動が活発化している頃だろう」
エグザムはゼルから紹介された空中写真を思い出す。飛行船や飛行艇で取られたと思われる写真には赤い山の三大台地のうち、最も小さい南台地に蓄えられた人造湖らしき湖面が写らせていた。
高台から眺めた時も、撮影された空撮資料と同様に堤の壁から漏れた霧が台地の周囲へ広がっており、今でも霧らしき何かが発生している。
「この辺りの土壌は甲虫や小動物が住めるくらい安定しているけど 此処から西へ進むと環境が様変わりした湿地に出られる あそこは北の水没林と地質が似ていて汚染物質による土壌環境の膠着が顕著だ 水場は毒虫すら寄り付かない程の虫除け草で覆われている 獣と遭遇さえしなければ湖まで行けるよ 問題は湖沿いを水蛇と地竜に気付かれず北の遺跡群へ進む方法なんだ」
エグザムはヴァンから厄介な水棲獣の生態と対処法を覚えさせられた。日が傾いているとは言え季節が夏前なので空気が生暖かく、空気中に含まれる水分によって肌や髪が潤う。故に危険な水棲獣が水場から出て森や岩陰に潜むのに都合の良い季節なのだ。
「水蛇と竜蜂は手記で確認したから撃退は任せろ それより例の遺物が眠っている話と聖地について詳しく聞かせてくれよ もしかしたら俺が知っている情報が役に立つかもしれないから」
そう言いながらエグザムは、背嚢の内ポケットから緑色で無印装丁の分厚い手記を取り出した。手記は白爺である先代のエグザムが己の探索記録を纏めた記録手帳だが、聖柩塔の依頼で知り得た情報が全く記載されてない。
「そうだな じゃあまず俺達の先祖が聖地と揶揄した理由から話そう」
ヴァンは南水源池遺跡が神の園先住民の血を引く者達から聖地と崇められている古い伝承を話し始めた。その話は複数の出来事を一つに纏めた物語で、熟練の探索者や博識な探検家なら己の経験だけでおよその経緯を把握出来そうな話が始まる。
「俺達が古の言葉を語り まだ自らを炎の民と呼んでいた暗黒期末期 あの丘は水の使徒を祀る場所だった 当時は今のように霧に閉ざされた湿気くさい場所ではなく 遺跡の廃墟や残骸が埋もれず使用されていた旧時代の都だったらしい らしいと言うのはそれを見た者が居ないからで 昔から聖域扱いされて立ち入りが監視されていた場所だったのは確かだそうだ 噂では神の遺産を管理する場所で 人の手では扱いきれない程の財宝が眠っていると聞いたことがある」
その財宝を守護するのが、使徒に選ばれた一族に統治されていた水の民達。かの者達は炎の民同様、神の園で自らの生存圏を上位者の守護によって守られていた存在だった。
「ホウキに伝わる古い方の龍伝説には 倒すべき外敵に生贄を差し出すことで種族の安寧を得る風習があった 今じゃ馬鹿らしい非合理な話だが 火事場の司祭や長のノアが管理してる遺物や書物にしっかりとそう記されているんだと」
ヴァンはさらに話を続け、水の使徒の庇護下に在った筈の水の民がそれらの文献から忽然と消えた謎の出来事を話す。
「知り合いの祭司や長老が言うには 受け継いだ旧時代の遺物である生活設備が壊れて遺跡を放棄せざるおえなかったそうだ 火事場の神殿に保管された古い書物の中には水の民によって神の言語で書かれた資料がまだ残っていると言っていたな」
エグザムは緑の手記の余白である、後ろから数えて二十ページ目当りにその事を鉛筆で書き込む。なにせ前任者が残した資料は探索組合で情報料を支払えば取得可能な情報ばかり、写真ごと転写や複写が可能な現代において手記の価値は大衆紙と然程変りない。
「本当にそんな古い時代から封鎖されていたのかぁ この手記によると前時代末期には南盆地全域で特定の虫や植物の管理育成場が造られていたようだが それ以前に探索者や昔の調査隊が丘の遺跡を調べてめぼしい物を盗掘した後だと思うが」
エグザムの言うとうり手元の手記には、南盆地の平地を調査したと思われる覚え書き同然の落書きが地図らしき何かを形成している。先代が南盆地で何をしていたのか解る手掛かりは、書いている最中に思い出したかの様な箇条書きだけで、これから向かう先の情報が少ないのは探索者としても死活問題同然の状況と言えた。
「そうだよエグザム あそこはとうの昔に何度も調べられ地上の物は探索者に破壊されたか持ち去られている筈なんだ 多分エグザムが想像した遺物は残ってないんじゃないかな」
そう言い終わるとヴァンは無言で食事を再開する。エグザムはその言葉に理解が追いつかず数秒間硬直していたが、此処に至ってようやく自分が利用されていたと理解し、右手人差し指で挟んでいた貴重な鉛筆を真っ二つに折って無言の怒りを焚き火に投げ付ける。
「あれだけ俺に遺物の話をしておいて まるで全部昔の話しだから忘れろと言っている風に聞こえる 冗談はともかく俺への茶番は許さんぞヴァン」
そう言いながらもエグザムは焚き火の炎に右腕を突っ込んで、ヴァンの近くに刺さっていた最後の串焼きを手に取った。
血染めの効果により代謝が高まったとは言え、人型の人造獣であるエグザムは食物を多く摂取しなくても生きられる存在の筈。血染めを纏ってから獣の血以外に食物を摂取しても栄養吸収の面で劣るので、経口摂取はなるべく控えるようゼルから言われていたのに。
「味を気に入ったかエグザム その部分が重要なんだよ 遺物と言えば本来は加工品だ 探索者なら思い出せ 錬金術の真髄だとか究極の悲願だとか言われてる古代技術の復活を目指すなら何が必要なのか」
エグザムの脳裏にある単語が頭に浮かんだ。それはヴァンが言おうとしている単語の最適解だと確信でき、エグザムはヴァンが答を言う前にその単語を口に出す。
「まさか完全な状態の遺産素材とか古代資料でも残っているというのか 御伽噺や空想小説でしか登場しない失われた遺物だぞ 旧時代の紙切れでも高級宅地が土地ごと買えるのに 仮に発見しても個人の所有が認められるとは思えないな」
自然な動作で豆焼きが刺さったままの串を顔の前で大げさに振り続けるエグザム。先代のエグザムがその場に居たら後ろから頭の形が変わる程強く蹴られたに違いない。そしてその仕草を焚き火を挟んで正面から見ていたヴァン。エグザムの言葉を遮り重大な告白を始めた。
「俺には首猟として責務が有るが 汚染植物の調査や実験を続けているのは 火事場の神殿から大切な存在を取り戻す為だ」
ヴァンは四年前のある日、祭司長に就任してから性格が様変わりした幼馴染のノアを調べていると、歴代の祭司長の多くが生体痕の急激に変化により衰弱死する風土病に蝕まれていた事実を知った。その病は発症例が歴代の祭司長だけに集中している所為で、病の存在を知る者は特定の祭司だけに限られ秘匿されていた。
「火事場には古くから炎の化身が祭られているらしい 首猟の俺でも内部の奥まで入れないほど 少数の者以外の立ち入りが禁じられている 俺は旧知の仲を利用して何とか面会する事が出来た その時 抜け毛や血を数滴分だけ採取し 秘密実験室に持ち帰って調べたんだ」
ヴァン曰く代理人から秘境植物や土壌の研究目的で貸し出されていた顕微鏡等の機具で調べた結果、細胞内に人とは違う染色体らしき細胞核が寄生しているのを発見したそうだ。獣因子に見られる擬似染色体とは違って形状はきわめて正確な球体状で、細胞が死滅しても数日間試験板の間で生きていたらしい。
「幼い頃に死んだ父と母から植物療法を教えてもらった俺には その謎の細胞核が何らかの方法で合成された汚染物質の塊だと直に解った 獣因子とは違って後天的に体と融合した汚染物質だけを取り除くには とうの昔に失われた浄化植物特有の浄化因子を復活させるしかない」
ヴァンは明言こそしなかったが、昔の神の園には現在の大砂漠団に在る秘境から産出する緋色金鉱石と似た作用の秘薬が存在していたと言った。緋色金鉱石は単独だと非常に硬い鉱石として知られ、特定の汚染物質に汚染された水の浄化材としても使われているほど貴重で高価な特産品だ。エグザムもその鉱石を加工した旧式長銃の弾を所持しており、緋色金の話からかの秘薬の存在について信憑性が高いと判断できた。
(汚染物質を浄化するのはその組成を解析したのと同義。その秘薬を復活させればあの憑き物が獲れるかもしれんな。おそらく文字どうり龍に対する特効薬だったんだろう。もう少し聞いてから、体内で汚染物質を形成する情報を聞くか。見返りは、やはりアイツの話をするしかないな。)
食事を終えたエグザムは表面がこげた串の枝を火に入れると、ノアの体に取り憑いた災厄の正体を明かした。勿論まだ夕暮れ時で空は炎の様に明るく輝いている。
「火事場にそんな秘密が有ったのか どうりで立ち入りが厳しく制限されている訳だ 単に古い導力炉だから管理が難しいだけの話ではないな 確かに歴代の長老だけが火事場を神の座の如く重要視している 俺達は今も龍の住処の隣に暮らしていて 昔の伝承は真実だったんだ」
興奮気味に左頬を左手で擦るヴァン。額は若干汗ばんでおり、空気に含まれる湿気が炎に炙られヴァンの姿が揺らいで見える。
エグザムとヴァンはしばし過ぎ去る時間を忘れて話し合い、各々の目的を達成する為にある計画を纏めた。エグザムは当面の目標である理想的な体を手に入れる為、自分自身が秘薬の被検体を務めヴァンの知恵と技術を躊躇無く受け入れる事に決めた。ヴァンはエグザムに投与した血清で体内の汚染物質の分解反応を確め、今度こそ里の支配を人の手に戻すと宣言した。
南水源池遺跡。蟲の丘が大型の甲殻獣の楽園だとしたら、南水源地遺跡は毒虫が住まう湖畔遺跡。中央の湖は面積にして南盆地の半分を占めている。この湖を探索者は水源池と呼んでいるが、ホウキの住人は台地上部に在る幻の湖をそう呼んでいる。
翌日の二十四日、八時過ぎ。場所は南盆地の東側湿地に流れる川沿い。朝から濃い霧が盆地の北側を覆っており、曇り空の所為か昨日より気温が低い。周囲は背が高い植物が大繁殖しているが、目立つ樹は少なく林の規模も小さい。
先頭を歩くヴァンは軽いので靴底に泥が付着しても軽やかに歩いている。しかしエグザムは背が小さい割に体が重いので、当然泥上の地面に足がめり込んでしまう。
エグザムは警戒役のヴァンから離れすぎないように四メートル程後方を歩いている。いつもの倍近く距離を離しているのは、他でもなく生物の足音が霧の向こうへ伝わるのを防ぐ為だ。
(何も聞こえない、とても静かだ。この霧が晴れれば虫が餌を探しに方々から飛んで来る。隠れる場所が無いならどうする事もできん。)
靴に天空樹から採取した蔦を巻いて泥の付着や不用意な音の拡散を防いでいる。この湿地の水は謎とされている重金属成分で汚染されているので、エグザムと言えど飲めないし獣や虫にとっても嫌な場所だ。
雑草の茎の根元は何れも黒ずんでいて、茎と一体化した細長い葉の先端が濃い緑色だ。これ等の植物は全てこの盆地にしか自生してない固有種。緑の手記に記述されたとうり医薬品や特定の化学物質の原料として栽培されていたが、統一暦が始まる前に放棄されてから湿地全体を埋め尽くすほど瞬く間に広まったらしい。
(植物の中には汚染物質を抽出し無害化する種も有る。この植物もその一種として注目されていた筈だ。いくら隔離領域に指定されたからと言って、そのまま放置しておくとは勿体無い。)
エグザムはその名も忘れられた植物が虫を遠ざける為に放置されている事をヴァンから聞いた。獣同様に餌場や領域の境界に手を加える管理法と同じで、この植物が繁殖しているからこそ比較的安全に湖に辿り着けると言う訳だ。
大きなツルマキを右腕で肩に担ぐ様に持ち歩きながら、何も持ってない左手で背が高いその雑草を掴み根っ子から引き抜いたエグザム。皮手袋越しに感じる確かな手応えと肌触りに驚き、植物の薄くも硬い葉を昨日見かけた擬似植物と重ねる。
(縦に裂くのは容易いのに、横からだと千切り難い。まるで固定用の合成紐だ。)
エグザムはゆっくり歩くヴァンと歩調を合わせつつ、手に持つ植物から発せられる独特な臭いに僅かに眉をひそめた。何故ならその植物には虫の神経伝達を阻害する成分が含まれていて、エグザムの鼻を強烈に刺激する塩素系の臭いを常時放っているからだ。
(だからヴァンはガスマスクのろ過膜を二重にしろと五月蝿く言っていたのか。青茎)の新芽を濃縮した様な臭いだ。あれは処理を怠ると臭い成分が溜まるから扱いに注意しろと言われたっけ。)
エグザムは虫除け植物の葉で首飾りでも作ろうと考えていたが、ヴァンの忠告を思い出し植物を足元に捨てる。捨てられた丈が長い植物はエグザムの足に踏みつけられ、黒い大地に張り巡らした同属の根より深く埋没した。
それからエグザムは蛇行した小川沿いをヴァンの後を追ってひたすら歩き続け、一時間後に霧が一部晴れている切れ間に辿り着く。其処は午前中の太陽光を反射している細波でゆれる湖を一望できる岸辺で、例の雑草沿いに低木が疎らに生えている水場の境界が曖昧な場所だった。
「あの遺跡がどうかしたのか 獣や虫が居るようには見えんが」
エグザムは足が植物の根ごと沈む感覚に慣れ、緩やかな足取りで立ち止まっているヴァンの横に並んだ。珍しく警戒した素振りも見せず大きな青い湖と浜辺に埋没した石造りの遺跡を眺めているヴァンに対し、エグザムはヴァンと同じ景色を見ようと遠方へ視線を向ける。
「湖が 水位が上昇してるなんてありえない 下流の湿地へ流れが堰き止められたのか」
緊張状態から解放された途端に口を動かしたり体を動かし謎の挙動を行うヴァンが、真横にて真顔で考え事に没頭している。特に右手で口元を擦りながら左頬の三本線が有る生体痕をガスマスク越しに指でなぞっており、エグザムは普段から何を考えているのか解らない年下の青年が更に解らなくなった。
「北側の湖は絶えず一定量の水量を維持する天然の貯水池だとイナバの誰かが言っていたな 地下水脈や遺跡化した旧時代の地下水道の何処かが塞がったのだろ 昨日俺が情報の謝礼に旋風谷の」
エグザムは前触れ無く口を閉ざすと、ヴァンの肩を自身に引き寄せながら一緒に後ろの雑草の茂みに倒れた。その直後。細波に揺れていた岸近くの湖面に映る曇り空が大きく揺らぎ、人の頭より三倍以上大きな水生獣の頭部が浮かび上がる。
(水蛇だ。手記の絵と同じ形状、鰓と肺で呼吸する蛙と蜥蜴を足して二で割った蛇。水場が無いと生きられない両生類でも陸上への適応力が高い珍しい奴。一度捕まえて生き血を食らいたいと思ってたんだ。)
文明圏で飼われている蛙や蜥蜴に似た頭部は蛇の胴体より一回り大きい。その体では蛇特有のとぐろを巻く事ができないものの、薄い鱗と発達した筋肉で水中と陸上を魚や陸獣より速く移動出来る。
エグザムは草むらから僅かに見える、全長十メートル以上は有るだろう水棲獣の頭部を観察し続ける。本物の蛇とは眼球が異なり蛇と見ている世界が違うだろう。そう考えながらどう狩るか思案し始めたら、左腕が僅かに動かされて今までヴァンの口を塞いでいた事を思い出した。
エグザムから解放されたヴァンはそのまま草むらに這い蹲ったまま顔をエグザムへ向けた。ヴァンは昨日に割り振った手順どうりエグザムに水蛇の処理を任せる心算だ。
(とりあえず此処からあいつの注意を逸らして、出来れば溶解液を吐き出す前に仕留めたい。あいつになら狩猟矢が通るはず。)
エグザムは草むらの泥に沈んだ石を引っこ抜くと、草むらから勢いよく立ち上がって自ら姿を現す。
僅か一瞬の間だったがエグザムの動きに水蛇は驚いたようで大きな頭部が硬直した。その直後エグザムから投げられた拳大の石が頭部の眉間に命中し、衝撃で大きな頭が上に仰け反った。
その間にエグザムは隠れていた場所から数歩離れた場所に移動した。ツルマキを素早く展開しても水蛇が体勢を整えるのが先だと自覚していたが、水蛇は酷く動揺した素振りを残して湖面に姿を隠してしまう。
(逃げた。いや、そんな筈は無い。やはり俺が囮に成ろう。)
エグザムはツルマキから複合板バネの弓を取り外し、結合部に直接狩猟矢を番え走る。行き先は草むらを出て数メートル先の水辺。湿地を歩いて見飽きた黒いヘドロが堆積している筈の軟弱地面で、水棲獣が獲物を最も簡単に襲い易い場所だ。
「ヴァン 先に遺跡へ行ってくる」
浅い水ばで盛大に湖面を打ち鳴らし水飛沫と泥を撒き散らすエグザム。静寂に包まれていた湖畔に響く豪快な水掻き音が水面を伝わり方々へ拡散する。ヴァンから北側に五十メートル以上離れた石造りの埋没遺跡まで僅か五秒程度の短い出来事だったが、エグザムは多くの水棲獣の興味を引いたに違いない。
(水没林に在った木造家屋の残骸とは違うが、これも元は居住用に作られた石造りの大型住居だったんだろう。水の侵蝕と自重で基礎から埋没してる。)
エグザムは白い大理石らしき平面的な石材の壁に手を押し当て、今にも崩れそうな吹きさらしの天蓋が崩れないか試してみた。その天蓋と言っても屋根部分には木材が使用されていた様で、天井の梁と成る部分から上が消失している。
泥や汚水の足跡を残しながら玄関らしき入り口から侵入したエグザム。数度ほど傾いた床も壁や柱と同じ種類の石材が使われていて、割れた場所に泥水や枯れた水草の残骸が溜まっている。
(家具や調度品は一つも残ってない。何百年も野ざらしのままだと陶器の類すら風化するらしい。南の遺跡には探索者が捨てた道具や銃の残骸が残っていたが、この辺りまで探索者は来ないようだ。)
エグザムは太く傾いた円柱に背を預けてから、ガスマスクと耳栓を外し口と鼻を赤い手拭で覆う。この手拭はエグザムが所属している合同調査団から組織された新しい探索団、「イナバの砦」の団員にのみ支給された一種の識別用の手拭。赤い生地に黄色の刺繍で花が描かれているのだが、エグザムはその花が何なのか思い出せなかった。
「やぱりこの兜の方が軽い そろそろ痺れを切らす頃か」
エグザムは柱か崩れた内壁伝いに傾いた足場を渡り、湖の浅瀬に使って埋没している遺跡の崩壊部へ移動し始めた。
(湖の水が此処まで上がっている所為でこれ以上進むのは危険か。)
足元は崩れた壁や柱に使用された加工済みの石が転がっているだけで、元々綺麗な大理石だった床は完全に瓦礫に埋もれてしまっている。さらに厄介な事に二階部分ごと崩壊して埋もれた残骸の山も水没していた。これでは閉所で獣を狩る当初の計画に支障をきたすだろう。
(釣竿でも有れば簡単に水蛇を捕まえれる。一度くらいは魚や軟体類以外の生き物を釣ってみたい。そうだな、ゼルに俺専用釣竿の製作を押しつけて奴の本業を邪魔するのも良い。)
エグザムは狩とは無関係な事を考えながら、崩れた壁を登って廃墟の上部に駆け上がった。三メートル程の高度差を優位性に換え、廃墟の北側の壁の隙間からエグザムの様子を観察していた大きな黒い目玉を目印に矢を放った。
矢が運よく残っていた煉瓦の壁向こうに居た水蛇に刺さり、水蛇は痛みで大きな頭を振り回し壁を破壊する。狩猟矢の鏃内にはエグザムが勝手に「緑龍」と呼称した生物兵器から採取した体液が装填されており、体液内に含まれる龍因子が水蛇の獣因子を殺すか細胞を食らうかして巨大な蛇を内側から壊していく。
エグザムは人間に例えるなら目頭に刺さった鋼鉄の矢を抜こうと壁や柱の石材に頭部を打ちつける水蛇をじっくり観察し続ける。勿論水蛇が暴れるたびに崩れた廃墟が瓦礫の山に変わっていくが、狩人にとって重要なのは獣の死に様の一点のみ。
(蛇の毒にも複数の種類が有るが、やはり獣と龍の因子は全くの別モノと考えるべきだな。捕獲や信号用に持って来た矢の内部にあの体液を流し込んだだけで十分な効果を発揮してる。文明の狩猟道具も侮れない代物だ。)
結局水蛇は矢を取り除けないままのた打ち回り、脳髄に毒が回って体を歪に曲げながら衰弱して死んだ。頭から細長い尻尾の先端まで目算で二十メートルに届きそうな大きさの死体を調べる為、エグザムは太い杭を矢傷に刺して廃墟から強引に引っ張り出した。
「どうだエグザム 実験は上手くいったのか」
ヴァンは天空樹の蔓を同じく天空樹の硬直化した細い根に通しただけの簡素な弓を手に持ち、固い草むらを足で踏み締めながら歩いて来た。目の前に頭が異様に膨らんだ巨大な蛇に似た生物が横たわっているのに、周囲を警戒する素振りもしていない。
「ああ上手くいったぞ お前の言うとうり獣因子の捕食は確かに存在するようだ この作用を研究すれば秘境どころか全ての獣を支配下に置く力を手に出来るだろう ゼルの奴が特殊な獣因子だと言っていた理由もこれではっきりした」
エグザムは使用した狩猟矢をヴァンに渡した手で水蛇の膨らんだ頭頂部を皮手袋で擦る。出血した血が凝固し傷口が膨張して出血を止める防疫反応とは明らかに違い、細かい鱗同士が離れて一部剥離するまで肥大化した腫れは明確な拒絶反応を起こした痕だった。
「水蛇の黒くて硬い皮膚を内側から腐らせる毒 緋色金と似て異なる因子だけでこの有様か エグザム 約束どうり他の連中にこの事を漏らすなよ」
ヴァンの言葉にエグザムは頷くだけで何も言わない。既に赤い獣目は萎み始めた死骸の頭頂部に向けられており、狩猟ナイフで簡単に切り裂けるほど細胞の崩壊が進んでいた。エグザムは露出させた脳を狩猟ナイフで掬い取って口に含むと、一切噛み砕かずそのまま飲み込む。
「それ上手いのかエグザム 亜人は獣なら何でも食うと聞いたことがあるが 俺が想像した秘境飯より斬新だな」
冗談を言ったつもりのヴァンだったが、目の前に半分液状化した脳みその一部を押し付けられると堪らず後ずさった。それもそのはずで、古代人の血を引く特異な民族出身のヴァンは肉類を口にする時は必ず植物片も食べないと消化できない体だからだ。
「しかし植物研究の目的が幼馴染を救う為か 昨日話した祭司長の兄は本当に信用できる相手なのかヴァン 聞いただけだと正直疑問しか沸かないが お前がそんなに長老の方針が嫌だと言うのなら カエデの噂話を真似して独立組織を立ち上げてしまえばいい カエデなら多様性がどうのとかで協力してくれるかもしれんぞ」
ヴァンはエグザムの言葉に何も言わず、食事の途中なのに死骸にメータの角を等間隔で刺して行き燃やし始めた。一度着いた火は内部の水分を瞬時に沸騰させ、瞬く間に長い死骸を長い篝火に変えてしまう。エグザムはその光景に唾を飲み込み、頬に感じる明確な熱さに遺物の特異な仕組みを痛感する。
(獣因子に含まれる揮発性の油を瞬時に分解して、分解して体内発火を促す? 駄目だ、重要な事なのに思い出せない。疲れているのか、まだ体が龍の血に適応しきれてないのか?)
エグザムは鉄帽を中敷の布帽子ごと脱ぎ、皮手袋越しに左手で枯葉色の短い頭髪を掻きながら痒みを紛らわす。最近体の変調により肌の感覚が何度も過敏に成ったりして、今まで気にも留めなかった体臭や痒みを頻繁に意識するようになった。血染めが大量の垢を吐き出すので、定期的に体を隅々まで洗わないと酸っぱい臭いが体から漏れ出てしまうとゼルから警告されていた。
(昨日の夜に服と体を隅々まで洗ったんだが、まだ汗より垢の方が出る量が多いな。折角火が有るのだからもう一度体を洗おう。)
エグザムはゼルから渡された精神抑制用の白い錠剤を一粒小袋から取り出し、口に放り込まずその場に捨てた。薬は毒の一種だと聞かされて育った狩人は獲物以外に毒を使用する気は無いらしい。
「あの遺跡で水浴びしてくるから すまんが少し待っていてくれ」
エグザムはそう言うと大きな弓を抱えたまま湖へ潜ってしまった。獣を恐れぬ亜人が体臭を気にして身なりを整えるのをどう思ったのだろうか。ヴァンは遺跡へと続く即席の焚き火から獣肉を剥ぎ取りつつ狩人の帰りを待つことにした。
水蛇。比較的大型の水棲獣。神の園の水場に潜む害獣の代表格。しかし個体数は多くない。他の水棲獣同様生息域で体色が異なり、大きさや寿命に差異がある。
特徴的な頭部により比較的発見し易い。大きく成長すると浮力を失うので水場に寄り付かなくなる個体も居る。
霧が周囲を白く染め上げ、ガスマスク無しでは呼吸が出来ないほど白い微粒子が充満している。霧は着かず離れずの距離を保たないと双方が見失ってしまうほど濃い。エグザムは霧に即視感を感じながらヴァンの後ろ歩き。湖畔沿いの草地を北へ向かっている。
(ヴァンの言うとうり湖の増水と霧には何か深い関係が有るのかもな。毒虫や竜蜂とか言うでかい甲虫が寄り付かないだけマシだが、隠れている正体不明の何かと鉢合わせしそうだ。)
エグザムは足元の草地から顔を上げ、閉じていた目を開けて白濁した靄の世界を熱視で観察する。すると破壊と創造の化身と謳われた伝説上の災厄の能力により、視界は透明度を高めながら濃淡だけの風景に変わっていく。
(いつの間に遺跡の敷地内に入ったんだ。この道がヴァンの登山道だとしても、此処まで遺跡に近付く必用があるとは思えん。)
左右には凹凸が殆ど無い壁が在り、真正面の進行方向へと真っ直ぐ続いている。城壁ほど高くはないが何かを仕切るための壁なのは明白で、エグザムは幅六メートル程の道幅の隅に見える石垣に着目した。
(どうやら基礎部分は岩や石を積み上げた石垣だ。砂の堆積具合からしてここは昔川底だったのかもしれん。これほど大きな人工河川を造るには多くの人と金が必要だ。昔の探索団や調査隊にも随伴要員が居たらしいが、百人引っ張って来ても足らんだろうな。これだけ高い治水技術があれば、水の使徒なんて居なくても十分水の民を名乗れるぞ。)
エグザムは三メートル程斜め前を俯き加減で歩くヴァンを見て、足元の軟らかい土壌をだけを見てこの道を正確に歩ける事に疑問を感じた。
(首猟はその血統がどれだけ狩りに適しているかを証明した存在。三公職と呼ばれているだけあって能力も地位も高い。しかし風を読む能力なんてとても理解できん。おおよそ耳石か三半規管自体が潮流振動か何かと共鳴するのだろう。俺でも手の届く範囲の流れしか判らないのに、音じゃなく空気の流れで地形が解るのは驚異的な能力だ。)
熱視能力は遠視ほど長時間維持できない。無理やり目を開き続けると網膜の色彩細胞が壊れてしまい、今度は元に戻らなくなる恐れがある。エグザムは再び瞼を閉じて眼筋をほぐそうとしたら、左斜め前を歩いていたヴァンに左半身をぶつけてしまった。
「どうしたんだヴァン 大丈夫か」
ヴァンは急に立ち止まった所為で後ろを歩いていたエグザムに衝突されて前のめりに転んでしまった。エグザムは自身より身長が数センチ高い相手に手を差し伸べ、瞼を閉じて見えない手を握ったヴァンを立たせる。
「すまないエグザム どうやらこの道の先で何かが起っている 流れが変わったから対処を任せた」
ガスマスクと耳栓越しに酷く曇った声が、これまた大層頼り無さそうな声だった。つい先ほどに熱視を使ってしまった眼を酷使するのは忍びない。しかし現実はそう待ってはくれない物だと、エグザムも直に理解する。
「確かに何かが此方へ近付いてる こっちだ 今すぐ壁を登ってこの場所から離れるぞ」
大抵の生物には視覚、聴覚、触覚、味覚、そして嗅覚の五感が備わっている。同時に特定の生物は六つ目の感覚を有していて、ヴァンの様に五感では捉えれない何かを知覚する事が出来る。
エグザムはホウキの民達が一概に血統と呼んでいるその第六感をある程度認めているので、平らな壁に背中を向けて自身を踏み台にしろと躊躇無く言い放った。
「あんまり高く上げるなよ」
ヴァンはエグザムの姿が霧で霞むくらいの位置まで下がってから一気に加速して、エグザムの下半身に跳び蹴りを放った。エグザムはその蹴りをしっかりと両手で受け止めて両腕を振り上げ軽やかにヴァンを投げる。そして自身も振り返って軽めに跳躍し、四メートル程の壁の縁に軽々と両手を掛ける。
「急げエグザム 上流の様子が何時もと違う 何処かの高台に避難しよう」
腕の力だけで上半身を持ち上げようとしたエグザムをヴァンが引っ張り、なにやら急いで避難すべきと急かす。エグザムはヴァンが何を根拠に急いでいるのか理解できず、熱視を使い周囲を調べる。
「枯れた樹や倒木が多い 隠れるより此処から離れた方が おい待て」
何も告げず走り出したヴァンは高台らしき坂を登って、そのまま石造りの遺跡の影が浮かぶ林の中に消えてしまった。エグザムはヴァンが踏み鳴らす枯葉を潰す音を辿りながら、自身の直感に従い林の中を走る。
(あいつは霧で殆ど見えないのに止まらないのか。もしや霧の有害物質か汚染物質を吸って幻覚を見ているのかもしれん。早く捕まえないと全部手遅れになってしまう。)
霧の影響か熱視による物体の温度差が見え辛い。と言うより霧自体が熱を含んでいて視界の大部分が白く濁っている。エグザムは倒壊した瓦礫を登る人型の熱源を発見し、確実に捕獲する為六メートル程度の薮を飛び越えた。
まさかエグザムが飛んで来る事を想定していなかったヴァン。己を捕獲する為に広げられたエグザムの両腕に捕まり、着地の勢いのままひび割れた合成石材の屋根に倒れ込んだ。
「しっかりしろヴァン 何を感じたんだ この霧で感覚が鈍ったのか」
とりあえず目覚まし代わりに古めかしい獣鼻を模した緑色のガスマスクの右側を軽めに叩いたエグザム。ヴァンが気絶する事無く痛そうに頬を擦ったのを確認して一安心する。
「避難場所を探した心算だったんだが まさか皮手袋で叩かれるとは思わなかった とりあえずこの辺りに居れば大丈夫だろう 川の方を見ていろ そろそろ洪水が来るぞ」
エグザムはヴァンが指差した背後へ顔だけ動かし、丁度聞こえ始めた地鳴りの様な音に集中する。音の発生源は白く揺らいで見える霧の向こう側を右から左に移動していて、濁流が窪地を流れるような鉄砲水に聞き覚えが有った。
「大量に降って吸収しきれなかった雨水が川を広げる音だ まさか枯れた川に水が流れているのか」
腐葉土が堆積した川底には確かに雑草が大繁殖していた。しかし、雨季以外に小さな小川すら流れないだろう人工河川に流れているのは間違いなく水だと耳が告げている。立ち上がり耳をすませたエグザムにヴァンは背後から近付いて種明かしをする。
「驚くなよエグザム 実はあの川が霧の正体なんだよ 湖へ一定量の水が流れると余剰分の水は霧と成って盆地を包もうとする 勿論すぐに太陽光に当てられて大半は蒸発するが 霧が特に濃くなり湿度が一定の段階を超えると ああやって周囲の水分と結合しながら川が発生するんだ」
周囲の霧が徐々に減少し始め、大地に日差しが差し込む周囲の景色が色をとり戻していく。その只中に居ながらエグザムは川を見つめているばかりで、ヴァンの話に耳を貸す素振りもなかった。
「だから雨季でも湖の水量は一定のままなんだが どうも様子がおかしいのは上流に何か異常が在るんじゃないかと考えている とにかくここの霧は天空樹の物と性質が違うと覚えておいてくれよ」
ヴァンはそのまま瓦礫の山から飛び降りて、雲の切れ間から差し込む光に照らされた林の中へと消えてしまった。
エグザムはヴァンを急ぎ追う事もせずゆっくりと瓦礫の山を下る。物理現象を越えた不可解な出来事を説明しようと色々な仮説を思い浮かべたが、自身の見識では何も解らないので諦める事にしたようだ。
結局、霧の中を通って北の大地へ向かう計画は完全に崩れた。ヴァンは虫が比較的寄り付かない川沿いを歩く事に決め、川沿いの土手を歩きながらエグザムを先行させた。
それからおよそ一時間半後の十時過ぎ。エグザムとヴァンは虫の巣窟と化した赤い山の南裾野に到達する。周囲の地形は迷路の様に構築された水路や高台の道。そして橋や壁の残骸が蔦や植物の葉で覆われていて、かつて存在した白い石造りの都は忘れられた廃墟へと様変わりしていた。
「あれが竜蜂か 直接見ても蜂と言うより空飛ぶ蟻だな」
体長三十センチ弱。四枚の翼を広げた全長は八十センチに届くと思われる。エグザムの言うとうり文明圏で飼育されている蜜蝋種と大きさや姿形が違う。大きな二本の顎と細長い複眼が黒く光を全く反射してない。足や胴体関節に生えてる筈の体毛は何処にも無く、羽根の生えた薄緑と灰色の蟻達が空を飛んで縄張りを巡回している。
「数が多いあいつ等を警戒してか 赤い山から湿地へ翼獣はまず来ない その代わり北西の密林から牙獣種の大噛みや大猿が巣を荒しに来る 今の時期は散乱した卵が孵って幼虫が大きく育つ頃だ その太った幼虫や蛹を食べに集まった獣を狩る為に人狼の群れも居るはず また深い霧に包まれる前にあの壁を越えれば問題無い」
エグザムとヴァンは石造りの廃墟の壁から崩れた砂利が多い合成石材に巻きついた蔦を手で絡め取っている最中だ。縄は天空樹の蔦を編んだ丈夫な縄をそれぞれが所持しているが、鮮やかな緑の葉を茎から伸ばした蔦は全て擬装に使える。狩人にとって手軽に体に巻ける蔦や葦等の植物は、時に擬装以上の効果を発揮すると知っていた。
「酸素濃度が低下する程不活性化した水素の霧 現実に直視しなければ誰も信じないだろう お前が考えた仮設なのか」
エグザムは四本の蔦を交互に編み調整可能な輪を作る。煙玉や臭い玉そして虫殺し用の液化殺虫剤が入った缶をその輪に固定して腹やツルマキに巻いていく。
「いや違う だいたい今から六十年くらい前か 今の長老がとある探索者の男と協力して盆地をくまなく調査した時に その探索者が考えた仮説らしい 当時のホウキは今ほど文明よりに発展してなかった時代だから 設備も時間も足りなくて聖域に踏み込む事が出来なかったと当人から聞いた事がある」
六十年くらい前、とある探索者の男。この単語に何かが引っ掛かる思いを感じたエグザム。少しだけ手を止めて前任者の自称武勇伝を思い出す。
(そう言えば羽根付きの蟻に襲われ言葉が通じない獣人に拾われ、挙句の果てに綺麗な蝶の住処で一晩過ごしたとか言ってたな。白爺の話は何処まで事実か判らんから真面目に聞いたのは何時が最後だったか? 覚えてない事を思い出せる訳ねぇか。)
エグザムは最後にナイフと鉈を何時でも抜けるよう角度を調整して腰帯に再固定し、髪ではなく蔦が生えて見えるガスマスクと鉄帽を装着して瓦礫の影から立ち上がる。
「予定どうり試料を探してくるから 絶対赤い奴だけには見つかるなよ」
エグザムはヴァンの小さな返事を聞き流し、壁と柱だけ残った石造りの三階建て住居跡から飛び降りた。
(ツルマキで音も無く仕留めるのは難しい。そこ等中に転がっている瓦礫から投擲物を探す所から始めるぞ。)
人工石材には適さない砂利や小石を含んだ合成石材の石畳は、常に水路の脇に敷かれている古い遊歩道だた場所に多く見られる。その道は今でこそ瓦礫や枯れた植物の残骸に覆われて白い部分が少ないが、着地時に靴底の鉄爪越しに伝わった衝撃から今でも十分な耐久性が残っている事が判る。
エグザムは検地された田畑の様に同じ寸法で仕切られた四角い区画の間を北へ走る。遺跡には以前見かけた都市部の雑居住居群の様な大規模に都市整備された痕跡は無かった。しかし区画を仕切る大小の用水路には人が呼べそうなほど透明度の高い水が流れている。とても秘境の只中だとは思えない遺跡は建物と橋以外は原型を留めていて、エグザムは二メートル程の側溝に飛び下り巡回飛行中の竜蜂から姿を隠した。
(表通りを進むより用水路を歩いた方が死角に隠れ易い。まさか都市で狩をする事になるとはな。虫の警備に見つからず労働担当を捕まえるには餌か囮が必要だ。)
エグザムは羽音が廃墟の壁向こうに消えたのを耳で確認し、足早にその場から立ち去った。本来ならヴァンと共に虫の街を虫ごと無視して山道へ向かうのが本当の目的に適った経路だろう、しかし今のエグザムとヴァンは互いの約束を果す為に別行動をしている。
(秘境の生物は文明圏の動物より大きく異様な姿をしている。組成が謎の汚染物質や鉱毒の有害物質に数世代に渡り犯された結果、遺伝子情報を蓄積した染色体の細胞分裂が正常とは別の働きを獲得してしまった。と言うのが統一暦で制度化された学術教本の見出しだったな。本来なら種族淘汰により個体数を減らしてしまいがちな秘境生物。限られた環境でしか生きられない俺や人間も含めた相反する種同士が交わる事は無い。)
エグザムは用水路の角を曲がり数歩走っただけで止まった。何故なら比較的細く浅い用水路が途切れていて、裏路地から大通りに出るには川が深すぎだ。
(水蛇から浮き袋を剥ぎ取っておけばよかった。せっかく戦装束を真似て手足を結わえたのに。)
そう考えながらも早々に最短経路を諦めて他の道を探す事にしたエグザム。宅地区画を仕切る狭い側溝を一つ前の角まで戻り、川と並行に延びている用水路を走る。
エグザムの目的は竜蜂が蟻だった頃から続けている餌の保管場所を発見し、出来るだけ多くの種の肉片を採取する事だ。エグザムは血染めの効果を体験した結果、わざわざ扱い方次第で危険な代物に早変りする龍因子より、秘境に生息している多くの害獣から採取した獣因子を取り込み新たな肉体と命を得ようと考えた訳だ。
「あの身軽さと聖獣の力さえあれば独りで台地の麓まで辿り着けるだろう 急がないと霧に呑まれてしまう」
崩壊した石造りのアーチ橋だった残骸の上を飛び跳ねて対岸へと渡ったエグザム。対岸にも同じ様な崩壊途中の廃墟が連立していて、近くに居るかもしれない潜伏個体を誘き出す為に合成石材の断片を道沿いの廃墟の屋根へ投げる。
(赤い影が見えた。きっとあれが手記に書かれた隊長格の竜蜂だろう。恐らく腹の振動石か羽根を擦り合わせて仲間を呼ぶはずだ。上手く陽動に集まってくれよ。)
エグザムは川沿いの道に隠れながら、もう一つの断片を隣の廃墟へと投げる。どちらの廃墟も壁と柱だけが残っていて、何も無い窓枠から崩壊した内部が僅かに見えていた。
それらの窓枠に黒や緑、そして腹の部分だけが紅茶色の竜蜂が群がり始めた。どうやら竜蜂の中でも蟻型に近い黒色の個体には耳石に相当する発達した聴覚器官が備わっていないようで、崩れ落ちた廃墟の頭上を旋回している黒い集団は同族の様子を観察しているだけのようだった。
エグザムはその隙に通りと仕切られた川沿いの段差から跳び出し、そのまま物陰を伝い群れの間を中央突破する。
(ここで虫殺しを使えば抜群の効果を発揮するだろう。あの臭い植物を纏わなくても済むのは、まさに時代の進歩と言える。)
白い紙で包まれた円筒状の金属容器には、虫を寄せ付けるフェロモンと同質の微粒子が液化状態で充填されている。虫殺しはこの吸引道具を使用して誘き寄せた虫を確実に殲滅する駆除用殺虫剤の二つから成る市販品だ。
エグザムは道を塞いでいる瓦礫の山に登らず、地面との隙間に開いた瓦礫のトンネルを張って先を急ぐ。
(こいつを使うのは試料を集めてからだ。手記の情報が正しいのなら、こいつ等の抗体が直に免疫物質を生成して殺虫剤が効かなくなる。)
瓦礫のトンネル内は外見より長く曲がりくねっていた。しかし虫が集まっている廃墟から離れた別の空き地へと出れたので、エグザムはそのまま近くの水路に下りて身を隠す。
「白爺は竜蜂を蟻と蜂の交雑種だと手記に遺した 生物の生態知識は今の俺より当時のエグザムの方が上なのは間違いないが 調べるのならもっと他の研究も参考にしろよな」
エグザムは耳を澄ませ薄暗いトンネル状の水路内から竜蜂の動静を窺う。どうやらエグザムが考えていたより竜蜂の個体数が多い様子で、エグザムは再び迂回を強いられる事になった。
竜蜂。竜の名を受け継いだ大型の虫。何等かの目的でこの地に運ばれた種が管理者の目的に反して増殖。世代を重ねながら変異し分派する度に別の種へと変化する珍しい獣因子の保有生物。
秘境の淘汰環境を集団生活で生き残り現在の群れを形成しているが、その生態は絶えず変化しており状況を常に把握するのは困難に違いない。また個体によって姿形だけでなく役割も違うが、神の園の食物連鎖の低位に位置している事から事実上野放しにされている。
長い年月を経て露出した金属製の骨組みが向き出しのまま化石化している。円形遺跡外縁部の壁を昇り始めてから三分ほど、エグザムは最後の骨組みから足を放して体を壁の上部へ持ち上げた。
「此処が食料倉庫か 確かにあの大きさだと穴の中で暮らし難い」
露天競技場の様な人工的な窪地内には方々から運ばれて来た獣や蟲の死骸が散乱している。もともと其処に何が在ったのか検討出来ないほど死骸が溜まっていて、都市の生ゴミ集積場より濃い血の臭いエグザムの鼻腔を圧倒した。
(雑菌が繁殖するのに適さない土地柄だからか、死臭より汚染物質から発生している有毒物質が充満してる。このガスマスクでも長時間の活動は無理だな。)
その汚染物質が大気中に漂う微粒子と結合した白色系の堆積物を踏みながら、エグザムは内壁と一体化した階段を下って行く。
(中央の窪地に保管された食料を別個体同士で分け合っている。床が崩れて露出した地下空間に腐った餌や糞尿を落としているようだ。なかなか衛生的だな。)
エグザムは階段出口から堂々と遺跡内部へ侵入する。遺跡自体は何かを外部から隔離する為の施設だったのか、いわゆるドーム状屋根の残骸が反対側の区画を塞いでいる。しかし餌場までの道は崩壊し迷路化した内部区画を通れば辿り着ける。
(竜蜂と一括りに言っても雑多な虫の集まりにしか見えん。どこまで虫のままなのだろう? 此処で試してみるか。)
壁から見下ろした限りでは食事に夢中な虫を刺激しなければ素通り出来る。そう考えていたエグザムは早速静かな足取りで黄色く丸い竜蜂らしき個体の背後を素通りする。
(先ほどの竜蜂は丸虫みたいな外見だったな。外見は丸い甲虫なんだが、とても空を飛ぶ種とは思えん。)
エグザムは元は地下に埋設された作業用の通路と区画を一体化した道を歩いている訳だが、排水路らしき格子穴に雨水で流された堆積物が僅かに付着しているのを発見した。細かく白い砂粒の様な結晶が光を反射させて輝いている。
(まるで塩の結晶だ。秘境に住む虫には岩塩や塩湖より良質な塩を吐き出す種も居る。もしかしたら昔の調査隊はここで大規模な生物実験を繰り返していたのかもしれん。もっと詳しく調べれば或いは。)
文明の益虫といえば、やはり良質な糖や蛋白源として加工される蜜蝋種とその巣が代表的。エグザムは緑のカビや青い苔が生えた人工石材の通路を進みながら、警戒対象の竜蜂について色々な活用法を思い浮かべていた。
エグザムは遺跡内部に在る高い内壁同士に架かった空中通路を渡り終え、ようやく日陰部から日向の空洞区画跡に辿り着いた。中央の窪地を元空洞区画と遮る最後の壁まで直進する前に、エグザムは崩れた天井を支えていた人工石材の梁の陰に隠れる。
(わざわざ高い建物に餌を運ばずとも、着地し易い場所なら幾らでも在るだろうに。もしかしたら中央の餌場から良い物を選んでいるのか。)
かつて多くの作業員や研究者が働いていた空洞内の内部居住棟。現在は空から運ばれて来る死骸や卵、そして大きな魚類と黒い果実の置き場として活用されていた。獣でも食事を選り好みするのを知っているエグザムは、虫にしては高い竜蜂の雑食性に疑問を呈す。
「もしかしたら支配種か共存種が地下に居るのかもしれない それなら霧から逃げるのに地下を使える いやそれは違う機会に調べれば済む」
エグザムは大きな梁の残骸から顔だけ出して周囲を観察する。どうやら空洞の足場だった固い床に虫の足跡は無い。それは地上を徘徊する監視役の虫と遭遇しなければ安全だといえる証拠。そのまま狭い足場の隙間を縫う様に移動して、エグザムは元居住棟の一階入り口へ駆け込み再び建物内部に姿を隠した。
(暗い。何かが蠢く気配を感じる。早く終わらせよう。)
玄関区画を経てエグザムは左右に在る一階通路を無視して、入り口正面からそのまま階段を上り始めた。階段内の床や壁は堆積した雨水と土埃により変色していて、壁を触ると大量の粉が皮手袋に付着する。
(分解作用のある汚染物質の影響か? 旧時代の構造建築物が腐食している。霧で何かの微粒子が大量に発生しただけなら問題無いが、虫の死骸から蒸発した消化液が飛散しているとガスマスクが傷付くかもしれん。)
エグザムは慎重かつゆっくりとした足取りで階段を上る。鉄爪が床の人工石材に触れると足に巻いた蔓草が潰れて足音を減衰させる。甲脚の先端に生えた毛の役割を蔓草で再現する事によって、鉄爪が打ち鳴らす足音は虫のそれに限りなく近い音になるのだ。
旧時代に屋内で建てられたとは言え、基本的な構造は現代の住居棟と大差無い。階段は十階の屋上へと繋がっており、屋上へ出れる通用口は固定柵具ごと外された枠だけで風通しが良さそうだ。
何事も無く最上階の手前まで上ったエグザム。階段の踊り場から明るい空を観察し。耳栓越しでも頭に響く甲高い大きな羽音が止むのを待っていた。
(俺が階段を上がって来る最中に新しい餌を運んで来たな。それにしても長居する奴等だ、肉団子でもこしらえてるのか?)
エグザムは背中からユイヅキの弓をそっと持ち上げ、何本かの狩猟矢を握りながら静かに弦を引き絞る。弓自体は機械複合弓と同じ規格部品で構成されているので、脱着時なら矢を番えず引いたまま弦だけを固定可能だ。
エグザムはゆっくりとした動作で壁に体を密着させ、顔を少しだけ覗かせて屋上の様子を窺う。屋上には干乾びた肉がこびり付いた骨を足場に、神の園を代表する獣の肉片や内臓が散乱していて足の踏み場が少ない。
(黒い奴しか居ないな。こいつら体がでかいから戦士階級だと考えたが、どうやら只の働き蟻のようだ。)
エグザムの目の前で羽根を畳んだ八匹の黒い竜蜂達。密林南部の沼地に生息する大型の泥蟲や羽蟲を捕食しながら、大顎を使い他の獣や魚などの肉片を肉団子に加工している。
(虫が小型の蟲を捕食している。あの顎なら闇虫や鎧蟲の甲殻を簡単に砕けそうだな。)
エグザムは壁に緩やかな動作で分離したツルマキを立て掛けると、鉈と狩猟ナイフを両手に装備して屋上へと突入した。
暗闇から姿を現した狩人装束のエグザムに気付き、近くに居た黒い竜蜂が反応して顎から肉団子を落としす。どうやら顎は手足とは別の神経系統で操る偽椀らしく、特定の方向にしか動かないらしい。エグザムは手短に一匹の顎を両手で掴み、腕の力だけで竜蜂の隆起した関節から生えている二本の顎をこじ開ける。
(いい肉付きだ 良質な食料に囲まれて育った珍味として高く売れるだろうに。)
数種類に分類されている角蟲の中でも、二本の湾曲した角で獲物をかち割る二本角ほど大きくない竜蜂。所詮虫の仲間でしかないので、易々と顎をへし折れ簡単に首を引き千切る事が出来た。
エグザムは翼を広げ飛び立とうとする七匹の竜蜂を次々と殴打して死骸の山に落とす。巨大化した虫の多くは翼を広げてから飛翔するまで数秒の時間が必要だ。特に秘境で進化した外来種の個体だと巨大化の弊害が顕著で、一般的に甲殻害獣の蟲と区別される要因とされている。
「こんな奴等でも群れて襲って来たら逃げるか道具を使わないと殺されてしまう 採取を始めよう」
背嚢から採取道具入れの木箱を取り出したエグザム。竜蜂達が南盆地内の湖や湿地流域と北西の密林から獲って来たと思われる雑多な小型害獣の死骸にナイフを突き刺し、小さな採取用試験管に一つずつ肉片を入始めた。木箱内の差込口には昨日書き込んだ害獣名前のが雑多に並んでいて、手で名前を縁取りながら確認して採取個体を間違えないよう採取試験管を穴に戻した。
エグザムは五分ほど屋上で採取を行い、採取した血液の保存用にと持って来た採取試験管の半分を使った。残りの半分のうち三つには別の場所で採取した獣の血と体液が保存されており、緑と黄色の体液は緑龍の物である。
採取は順調に進み、住居棟の内部に投げ入れられた小型の獣類を全て調べる前に空きの採取試験管が無くなった。ヴァンにお願いされた仕事を終えたので、今度は霧が出る前に遺跡を脱出して北東の斜面に聳える壁の麓へ行かなければならない。
エグザムは九階の窓側通路を階段へ戻る為に歩いていると、建物内の中央部を通り反対側の窓側通路と繋がっている脇道から熱い空気の流れが外へ吹き出しているのに気付いた。
「火事か こんな場所で火が発生するはず無い」
熱風は鍛冶や温泉の源流と同じ熱気を含んでいて、何等かの熱源により暖められた空気が通路内の扉の隙間から漏れているのが解る。エグザムは接合部が壊たまま腐食した開き扉を強引にこじ開けた。すると暗い屋内から鉱泉特有の臭いがする熱風が噴き出て、驚きのあまり声を荒げてしまう。
「くっせぇぇ 肥溜めの分解槽の臭いだっ」
ガスマスクのろ過膜を透過するほどの小さな微粒子が大気中の成分と結合して悪臭を原因と成っている。間違いなく何等かの装置が地下で稼動している証拠であり、エグザムは臭い証拠を確めようと入り口から屋内へ侵入した。
人工石材を平たく固めただけの遺跡内部は保存状態さえ良ければ、月明かりが照らす夜でも光を反射して比較的明るく見える。しかし様々な体液が付着したまま微生物に分解される事なく残っている壁だと、汚れが光を吸収してしまい室内に光が届いていななかった。
エグザムは天井から氷柱の様な堆積物の塊が垂れ下がっている広い室内を歩く。建物の外見とは様子が違い、住居用の空間にしては熱視が捉える範囲が広すぎだった。
(内部が空洞になってる縦穴だ。あそこに階段が在るな、下は地下と繋がっているのか?)
またも吸い寄せられるが如く縦穴内に設置された渡し通路を歩いて階段を下りて行くエグザム。縦穴内は階層ごとに出入り口が設置されていて、半開きの扉から弱い光が漏れているだけだ。
不思議な事に金属製の階段には、あれほど通路を大量に汚していた堆積物や体液の染みが一つも無く保存状態も良好だ。縦穴自体は表から見た建物より深い場所まで続いているので、エグザムは緩やかな足取りで階段を降りて行った。
(これが熱風の正体か。何かのガスが定期的に下から吹き上げている。ガスマスクで遮断しきれる量じゃない!)
エグザムは階段の手摺から身を乗り出しすと、手摺を蹴って三メートル程離れた場所に位置するやや下側の側壁通路に跳び移った。
(音で気付かれたかもしれん。このまま下り続ける時間は無いな。)
この時ようやく霧が発生するまでの制限時間を思い出したエグザム。足音を響かせながら吹き上がる空気の流れに負けじと側壁内の階段を駆け上がり、居住棟一階に在る玄関からとび出した。
「なんてことだ 麻薬の様な成分を吸ったのかもしれん 頭が痛くなってきたぞ」
玄関を出て直隣の壁に体を預けたエグザム。ガスマスクのろ過器具を交感しながら深呼吸を繰り返す。しかし残された時間は少なくこれ以上立ち止まっていられない。何時霧が発生しても不思議でない程、空には大量の水分が蒸発してできた雨雲が勢力を拡大している。
エグザムは舌打ちをした後再び駆け出して遺跡内の迷路に戻った。今から来た道を戻って円形外縁部を南から北に反時計回りで移動するのは時間が勿体無い。故にエグザムは遺跡中央のくぼ地を迂回しながら、反時計回りに道を探して遺跡を突破するしかなかった。
南盆地北部遺跡群。湖の北側湖畔から赤い山の裾野までに広がる大規模な遺跡都市跡。全時代末期に行われた調査で、現在の探索街の人口と同数の人間が生活していたと判明した。
高度な治水技術と水質管理能力に長けた水道網が、山間部から裾野を経由して湖畔まで整備されている。一部が森や湖と繋がっている人工河川を水棲獣が縄張りを移動する為の水道として使っているらしい。
歩きながら照明具の淡い緑光に照らされたアーチ状の天井を見上げ、何処からか聞こえる水滴が水面に落ちる音を探るエグザム。迷路と化した遺跡内にこの地下水道に降りられる縦穴を発見したので、水の流れを俎上して台地近辺へ安全に出れると考えていた。
「どうやら地層から石灰成分が漏れている様子は無い 天井に塗布された白い何かが気になるな」
下水道と言っても地下を流れる川を指す暗渠で、多段状に造成された直線上の堀に水が進行方向側からゆっくりと流れている。そして川底に相当する最下段の溝は長年の間に堆積した土砂らしき砂の層で塞がっていた。遺跡内や都市跡を流れる人工河川より堆積物が遥かに少なく、どうやら普段から蟲や獣が寄り付かない場所だとエグザムは推測した。
(こいつが役に立つと思って引っ張り出したんだが、こうも道が真っ直ぐだと別の事を心配してしまう。)
エグザムは現在、照明具の光を頼りに直線上の地下水道最上部を歩きながら出口を探している。手元には天秤と形状が似ている方位水平棒を所持していて、歩きながら僅かに揺れる黄土色の矢印が真っ直ぐ進行方向に向いている。
「地磁気が乱れない地下がこんな所に在るとは誰も思いつかないだろうな あとで手記に書き残さないと」
文明圏で使用される一般的な方位磁石は磁気の乱れに弱い物が多く、長年神の園では独自に発展した方位盤や測距器具が活用されている。エグザムはその方位水平棒を背嚢に仕舞うと、今度は愛用の獣笛を取り出し骨組みを分解していく。
(さてさて、竜蜂の耳石を使うと何色の音が出るのかな?)
獣笛は獣や蟲の骨等の硬質繊維を粉末してから再形成した管楽器。遺物なので何かしらの錬金術により製造された笛なのだが、形状が不規則に変わるので見知らぬ者が見たら何かの模型か遊具と勘違いしてしまうかもしれない。
躯体に接続された管を外し、曲がった配管をゆっくりと伸ばす。露出した水疱と呼ばれている空の容器内に赤と黒い耳石を居れ、エグザムは手早く元の形状に組み立てていく。
「石を砕くのに時間が掛かるのが難点だ 一々唇を舐めていたら管が固まってしまうからな」
エウザムは獣笛の口に唇を近付け口笛を吹くより大きく速い息を送った。たちまち獣笛が振動し管や振動体が入った容器から大きな手応えが帰って来た。
(まだ音を出すには早すぎる。もっと笛を慣らさないと役に立たない。)
エグザムはその後も歩き続けながら笛を乾吹きし続け、地下水道の調査を後回しに道を真っ直ぐ歩き続ける。
地下水道はエグザムが考えていたより長く地中を掘った代物のようで、壁や天井に亀裂や崩落部分が見当たらない。しかし著しい水量の増減により多段構造の水路には水が流れた筋が幾つも残っていた。現にエグザムが歩いている足元にも干乾びた水苔や石灰粉が付着したままだ。都市の地下水道は現在も機能している可能性が考えられ、エグザムは乳白色の付着物で覆われた天井に歪な笛の音が反響しないのは何故だろうと考える。
(熱水缶や蒸気缶を動かしていると水管内に不純物が溜まる事がある。もしかしたら此処は熱せられた蒸気や熱水を通す為の供給路なのかもしれない。北の都市は冬の間、都市暖房設備で温水や蒸気を家屋ごとに割り振って送っている。この神の園も北国と同じ緯度帯だから、都市型暖房設備を地下に通した方が効率的だ。)
乾いた音を奏でる獣笛を一心不乱に吹き慣らしていると、エグザムは天井から垂れ下がっている乳白色の氷柱らしき物体を発見した。さらにエグザムは眼を凝らすと、大小の突起を並べた天井の最上部になにやら蠢く物が見える。
(菌糸生物、とは違うな。おそらく水妖の亜種だろう。大蜘蛛や黒耳が居る様子も無い場所だ。そんな場所だからこそ、水棲獣にも見つからず生き残れたに違いない。)
エグザムは手記に精巧な絵で描かれた神の園の代表的な地下系害獣を脳内で再現した。特に翼獣に分類される黒耳は特殊な耳石を有していて、獣笛の音響波を相殺できる微細振動を発生させる事が可能だ。
「もしかしたら この地下水道を維持管理するために放たれた生物 古代人の益獣が水妖の先祖なのかもしれんな 今も昔も人に飼われているからあの姿のままで変われない なんて事を考えた事が俺にもあったな」
照明具を調節して緑色の淡い光を強めたエグザム。珍しい乳白色の水妖達を見上げながら平たく狭い通路を歩いて行く。手記にも無い珍種を発見したので見上げる事ばかりに集中してしまい、足元の確認を怠って危うく転倒しそうになった。
(粘液だらけじゃないか。成る程、これが壁に付着して白く染め上げたのか。樹脂ゴムの様な粘土質。水に濡れている間は粘液状態を保っている。)
溶解物が垂れ下がった形状で固まった突起物に大きな影が重なっている。その影は天井に張り付いた大小様々な大きさの水妖達で、粘着性の糸らしき何かを体中から垂らしていた。
大量の水妖が張り付いていた天井を抜け、更に真っ直ぐ延びた暗渠を歩き続けたエグザム。幾つか在った曲がり角を全て無視し、何十箇所目かの人工石材の水平橋を渡っていると、柱の袂に引っ掛かった植物の塊と古いドラム缶を発見した。
(こんな所に古い資材が有るとは思わなかった。誰かが捨てた物が此処まで流れて来れるのか?)
ドラム缶には旧連合言語で廃棄物処理用と記されている。どうやらエグザムは連合国北部山脈の城塞連山で使用された旧言語、「山人語」で描かれた廃棄物処理用のドラム缶を発見したようだ。
「一部だけ残った塗装と穴だらけの缶 引き上げる必要は無いな」
「山人語」は旧王国時代から使われていた「西洋語」を主体にした言語で、文字体系は現在の共通言語文字に似ている。現在山人語を話すのは山人の中でも職業学者や少数の部族出身者だけだ。古くから山人は獣人に分類された地方民族扱いだが、前時代の初期から終盤まで地金技術と畜産技術だけで黄金時代を築いた歴史の深い民族として知られている。
エグザムは成型加工で廃液と施されたドラム缶に興味を無くし、そのまま橋を渡って獣笛の空吹きを再開した。これまでに通過した場所には他の地下水道と繋がっている場所も在ったが、目当ての方向と違うために全て無視している。
(この道は何処まで続いているのだろう。もう都市跡から出ていい頃だ。此処まで来れば竜蜂に追跡される危険も無い。)
更に獣笛を吹き続け五分が経過しようとしていた。驚くほどに真っ直ぐ整備された地下水道が、自身の想像より遠くまで延びている事に今更ながら驚いていると、耳に獣笛の乾いた風の音以外の音源が聞こえる。
(やはり追跡されていたか。時間を稼ぐ為に罠を設置するのを躊躇ったのが甘かったか。)
僅かだった竜蜂達の羽音が少しづつ大きくなり、エグザムは地下水道を走り加速して行く。飛行型の虫に走り勝つ自身があったエグザム。自慢の足の速さを活かし、少しずつ羽音から遠ざかって行く。
「飛べるからと言って何でも速く成る事は無い せいぜい覚えておけよ」
やがて羽音が消えてしまい走るのを止めたエグザム。地下水道が大きな縦穴の最深部で他の水路と合流した場所に到達し、縦穴の水場を挟んで反対側の通路三箇所から届く自然光に眼を鳴らそうと照明の光を減らした。
エグザムは水場に浮かぶ浮きらしき台形の桟橋に立ち、見上げて高い高い穴の上から僅かに届く光を見つめる。
(長い地下道の次は高い煙突を上るのか。)
天頂の頂きに輝く太陽の光が、高い円柱状の縦穴の壁を照らし出している。エグザムは壁に在る螺旋階段と幾つかの穴を見上げ、自身が大掛かりな昇降用軌道のど真ん中に立っていると自覚した。
「非常用の梯子ではなく階段だから多少は安全だろう 早く上に戻ってヴァンを探さないとな」
そう言うとエグザムは分岐点から水路の先へ行かずに、桟橋から離れて側溝側の道を通り、縦穴内に設置された螺旋階段を昇り始める。螺旋階段は人工石材で完全に固められた足場だけで形構成された簡素な造り。手摺や柱の類は無く、足を休めたり荷物を置く為の踊り場も無い。
エグザムは光源が有る頂上構造を遠視で確認しようとしたが、逆行で頂上近辺が黒くて何も解らない。辛うじて光が入る場所が楕円に近い形状だと判る。
(此処にも水の痕が有る。雨季の溢れた雨水が縦穴をせり上がり圧力で密閉状態の蓋が壊れた。それとも元から天井が開いていて、浸入した雨水が壁を伝った痕だろうか?)
疲労を感じさせない確かな足取りで向き出しの梁ごと崩落箇所を跳び越えたエグザム。既に数十メートルの高さまで昇ったにも係わらず、頭上の遥か先に在る出口の大きさは下から見上げた時と同じままだ。
それからエグザムは高さ百メートル以上の螺旋階段を登り続け、途中から吹き上げ始めた生暖かい風に違和感を感じながらも最上部の真下に到達する。階段のさらに上を見上げると丸天井を支えるアーチ状の梁が壁の外側と繋がっている。そして下から見えた光の楕円は、水平稼動する大きな上蓋が中途半端に止まった巨大な屋根扉に他ならない。
エグザムは屋根扉と同じくアーチ屋根に設置された最後の階段を登り、眩しい地上の光に獣眼を眩ませながら地上世界を見渡す。
「これが台地の上か 写真に写っていた湖はあれで間違い無い こんな簡単に上まで登れるのに どうして登山道が無い要塞だと言われているのだ さっぱり解らん」
空で発達していた筈の雨雲がどこにも無く、代わりに筋状の薄い雲が南北に横たわっている。秘境独特の澄んだ横風を感じエグザムはガスマスクと鉄帽を外して深く息を吸い込む。
(綺麗な空色の湖だな。微生物や藻類が繁殖していないらしい。純粋な火山湖とは言えないが、大量の水が必要だったのだろうな。)
標高が百メートルと半分程度の台地上部に在る、面積にして大よそ一キロ平方メートルの青い湖。湖面の細波が反射した光で水中が見えないが、湖畔に相当する浜辺や岩場が見当たらないので相当深い湖だと推測できた。
エグザムは階段の出入り口から離れ、高台から見渡せる全ての光景を目の当たりにしようと草地を歩く。高台自体が台地東側に建設された巨大堤防と隣接していて、北側の斜面を転がり落ちれば丁度堤防上部に渡れるだろう。
「確かヴァンとの合流予定地点があそこの麓だ 此処から叫び手を振れば奴が気付くやもしれん」
高台の麓沿いの遺跡からエグザムの立ち位置まで直線距離にして一キロ近くあるだろう。獣同士の遠吠えで無ければ意思疎通できない距離を前にし、エグザムはとりあえず顔を逸らして南側の観察を優先する事にした。
南盆地の山越しに遠方の海が見える。目を遠視に切り替え更に瞼を細めると、断絶海岸から立ち上がる複数の煙が遥か遠方の絶壁と重なって見えた。
(まだ森を焼き払う前のようだ。おそらく炊事と風呂用の焚き火だろう。古い飛行艇や河川用運搬船だけでなく見たことも無い双胴船まで持ってきやがって。カエデに権限を与えた奴が何を企んでいるのか知らんが、ホウキの復権の為に海から入る必要なんて無いだろうに。)
エグザムへ遠方の喧騒は届かない。今も着々と旧海道が整備され水没した遺跡の測量調査が進んでいるが、これ等は大掛かりな計画の為に必要な下調べに過ぎないのだ。
エグザムは視線を盆地内に戻し、背後の人工湖より大きな本物の湖を眺める。
「こうして見ると霧の範囲は想像以上に遠くまで広がってる 虫達だけでなく水棲獣や牙獣も近寄らない訳だ」
既に雄大な湖は見る影も無く、盆地の北半分を覆った白い霧状の膜が今にも台地を覆い尽くそうとしている。霧の発生源は台地上部と伝えられたエグザムにとって、霧が都市遺跡や火口湖東の壁から流れ出しているのに疑問を感じずには居られなかった。
(霧は温度と湿度差による落差によって地上を漂う雲の一種。本来なら台地上部に霧が発生する筈だ。ヴァンが言うには水分を急激に昇華させる何かが空気中を漂っているらしいが、本当にそれだけで不可解な霧が発生するのか?)
エグザムは腕を組みながら霧に隠れた湖を見下ろし想像図で地形を補っていると、霧とは関係ない別の疑問が脳裏を横切った。
まさか。そう言いながら直に胸元のポケットから手記を取り出したエグザム。とあるページをそっくりそのまま視界と重ね、殴り書きされた文字を一つずつ目で追ってゆく。
(同じだ。遺跡の配置と角度が全く同じだ。単に想像だけで俯瞰視点を書いてもここまで正確に地形を記録するのは難しい。前から無意味に難しい事をする奴だったが、趣味以外で役に立つ事もしたんだな。)
エグザムは何十年も前に自分の先代がこの場所に辿り着いたと知り、もう一度手記を洗いざらい調べようと決意した。そして手記を胸ポケットに仕舞うと高台の北側斜面へ歩き、降りれる場所を探そうとした。
「おーい エグザム そこに居るのなら手を貸してくれないか」
聞こえない筈の声、生物が発する匂いや音等の気配が無い場所から掛けられた言葉に一瞬我を失ったエグザム。足早に高台の草地を西へ歩き、最も角度が険しい断崖の袂に立つ。
「何故其処に居るんだヴァン 麓の遺跡で落ち合う予定の筈だ 手助けを求めるなら言い訳くらいしろ」
エグザムは断崖の岩場を登っているヴァンに対し、体に巻いた蔦の縄を伸ばそうとせずただ見下ろす。どうやら今のエグザムには眼下の首猟が信用ならない密猟者に見えたのか、無言のまま崖上でツルマキを組み立て始める。
「話す 話すから早く縄を下ろしてくれ お前には伝えないと成らない言伝が有るんだ」
人工的に抉られた崖は崖下に岩が転がっている以外に足の踏み場が無い。地層に露出した石や穴に手足を掛けているヴァンは、エグザムと同様体に巻いた蔓草や天空樹の縄を所持してない。難攻不落の台地を登る手段が他にもあるとエグザムはすぐ理解した。
「言伝は後で聞こう まず俺を騙した経緯から話せ」
エグザムは擬装の代わりに体中に巻いていた蔓草の束を簡単に結わえると、末端をしっかりと握って崖の中腹に居るヴァンへ縄を垂らす。
「助かったよエグザム 長老に教えられた場所が一部崩れていて 其処を上るのに縄を使ってしまったんだ」
最後にヴァンはエグザムの手を掴み持ち上げられて救出された。当人の言うとうりこの高台まで来るのに消耗が激しかったようで、草地に仰向けで倒れてまま起き上がろうとしない。
「今回の探索案内に呼ばれた時 最終的に長老からエグザムをこの場所に導くよう命じられた 話を聞くに最初は要人視察や復興計画の下準備かと思った でもエグザムは復興計画に関わらないとはっきり言ってからいきなり昔話を始めたんだ 長老が自分の昔話を話す事は滅多に無い 正直に言えば面倒な頼み事だと思ったよ」
ヴァン曰く、長老のギ・ロウはこの台地に何が在り何の為に霧で隔離されているのか知っている。そしてエグザムがこの場所に辿り着けるかどうか試し、本当に辿り着けたのならこの書状を渡せと命じられていた。
「ほら受け取れエグザム 何なのか知らんが古い誰かへの手紙らしい それを読めば答えが解かると聞いている」
エグザムはヴァンが腹巻から取り出した古い獣皮紙の束を受け取り、幾重にも結ばれた絹糸を解いて折り重ねられた中身を確認する。
(何だこの染みの多さは? 何かの血で意図的に塗りつぶした痕が有る。)
長年折り畳まれていた獣皮紙は拘束された圧力で分厚い折り紙を化している。エグザムは大陸共通語で書かれた文書を読み進め、読破する前に誰が何の為に書いたのかを理解してしまった。
聖柩塔所属の探索委員会に雇われた調査員としてこの神の園に来てから五期分の月日が過ぎた。細胞変移の証拠となり代理人達が例の獣因子としつこく呼ぶ浄化微小生物を探している途中だが、私は探検家として個人的な調査を繰り返し、思わぬものからそれの手掛かりを発見するに至った。この記録は一探検家としてその事実を記録し、同時に何時でも抹消可能にすべく別の記録手段に記した断片の一つだ。
遥か数千年の昔に栄えた旧時代の都市群。現在は神の園と呼ばれるこの地は、もともと特定の分野の研究ないし開発に特化した実験都市だったと推測した。その根拠は世界中の秘境や放棄された土地。学術上の区分だと「封鎖領域・汚染世界・隔絶世界」の三つに分類される土地から出土する害獣の骨に、神の園で棲息する害獣の特徴と似た骨格的特長が目立つからだ。私は生物学の中でも秘境生物の知識に精通しているから断言してもいい、周囲に山脈と海で隔てられたこの場所は東大陸の西部地域に生息する害獣の先祖が暮らしていた土地、考古学会で何度か聞いたことがある伝説の古代都市「ヤマト」だと証明可能な証拠が幾つも残っている。
本来ならこの供述を白書の一部に残すべきで私もそれを願っている。しかし私は仮初で調査をしている地方探険家に過ぎず、研究結果は代理人達に譲渡する契約も結んでいる。今の私には神の存在と所在を隠匿し後世の探検家に託す事しか出来ないだろう。これを読んでいる名も知らぬ者へ、究明した事実と園の真実の一端を教えよう。
私はイナバに住む隠れ里から移り住んだ者から者から龍の存在を知った。龍とは現在害獣の数種類の個体名に使用されている竜の語源であり、古から神の園で生きている特定の古代種を指す神の園の旧言語だ。当初の私は龍なる存在を説明どうり古代種として認識していた。しかし多くの伝手を通じ入手した資料や生物試料を解析していく途中で、龍なる存在が通常の獣因子と違う何かで遺伝子を残す生命体だと確信した。結論を先に述べると、確認した龍は全部で八種存在する。この獣皮紙はその内の一種について調査結果を残した物だ。
私は地元の伝承に伝わる水の使徒と呼ばれた存在をこの龍の一種だと仮定した。この種は水妖の亜種(もしくは原種)を従えていて。古い言い回しで説明するのなら、水質の改善機能を司る巨大な水棲獣に近しい生物だろう。隠れ里の先住民に受け継がれた独特な肌の模様から推察して、水の民達にも同様の身体的特徴が有ったに違いない。そう仮定すると双方の民族の中には獣と会話可能な者が一部存在する事になる。彼ら或いは彼女らはこの水妖を介し水の使徒なる物と意思疎通を行っていたのだろう。現代でも未解明な旧時代の遺物を利用して独自の都を維持するのは難しい。それを千年近く前まで維持していたのだから、水の使徒は獣でありながら都市の管理者だった訳だ。
名は明かさないが私は親身な協力者からその水の使徒について幾つかの伝承を知り得た。要約すればその獣は自身と同じ存在か自らの眷属以外に対し友好的な思想を持ち得なかったようだ。とても排他的な獣が幾らでも地上を闊歩している時代だったからか、あの地下水道を登り高台から見渡しただけの私には想像もつかないほど危険が溢れていた時代なのだろう。しかし水の使徒は人か亜人を介し都の支配者だったのは間違いない。私は霧に受け入れて貰えなかった余所者らしく、獣との意思疎通を成しえる存在ではないらしい、それでも・・・
「三十代前半の頃 一年だけ神の園に居たと言っていたな 何の為に居たのか話さなかった理由がこれか どうやら真実を解く鍵は俺の中に有るらしい」
エグザムは暴露本に近い獣皮紙を読み終えるとヴァンの隣に座り一息つく。学術書や論文として確たる証拠が記されてない書簡をヴァンに渡し、これからの予定を組み立て始めた。
「俺はこれから水の使徒に合いに行く もしかしたら直に戻って来るかも知れないし 場合によっては一日二日の間戻らないかもしれない だから数時間経っても俺が戻らないのならそのままホウキへ戻ってくれ」
そう言いながら立ち上がろうとしたエグザムを引きとめようと、ヴァンは長老から伝えるように言われた言伝を喋る。
「あれだ 長老が言うには他にも預かっている手紙が在るから それ等を渡す代わりにホウキの為に闘ってくれと言っていた 最近竜の巣で探索団が大規模な討伐を始めた所為で獣達が混乱している 俺も当分森の番で忙しくなるだろう だから早く終わらせて例の約束を進めようぜ 待ってるからな」
そう言うとヴァンは、エグザムが自身を引っ張り上げるのに使った蔓草を体に巻いて崖を下り始める。短い間に体力が回復したらしく短い別れの言葉を告げると、蔓草の縄を固定せずに険しい崖を下りて行った。
(本当に忙しい奴なんだな。俺も急がないと森が危ない。)
エグザムは獣が住む森を守る為に障害となる霧の排除をゼルに約束した。既に天空樹に居た龍は倒され汚染植物の拡散も収束しつつある。あとは探索街とホウキを繋ぐ新しい探索道の為に、南盆地の通行を妨げる霧を取り除くだけだ。
山人。貴族連合北部の山岳地帯に住む獣人。人より頭一つ分背が高く、全身毛で覆われた喋る熊とも揶揄されている。寒冷地域に生息している雪人と同じ種で、一般的に山岳地帯に在る三大公領に一つ「城塞連山」に住む者達を示している。
再び縦穴に入り螺旋階段を伝って高い縦穴を最下層まで下りたエグザム。水面に浮かぶ台形型の桟橋を渡り、三股に分かれた水路から最も綺麗な中央の地下水道を選んだ。
(この水路は天井が光を反射していて明るい。他の二つは光草が少なくて暗いからこの道を選んだんだが、どうやら見栄えだけで選んで正解だったようだ。)
壁際や水路の側溝には、光苔の遠縁にあたる光草の一種が色とりどりの花を咲かせている。その花々は文明圏で庭園用植物として知名度が高いスイレンと瓜二つに見える。
「水質を選ぶ管理が難しい水生多年草の一種だった筈 こんな所に咲くはずが無い」
エグザムは階段状に仕切られた水路を歩きながら、足元の水面で水の流れに揺れている光草を観察しつつ
水龍について知り得た情報思い出す。
(デウスーラと同様に他種との意思疎通を行う獣。水生生物に近くも別種な存在。そして南盆地の霧と深い関係にある支配者。いや、都市の管理者か。出来れば闘いたくない相手だ。)
エグザムは足を止めてその場にしゃがみ、右手で流れている水を掬う。
「臭いも濁りも無い」
そう言うと皮手袋を洗ってからもう一度水を掬い取り一口だけ口に含んだエグザム。舌に鉱物特有の苦味を感じて、そのまま飲み込んでしまった。
(只の硬水だ。若干温泉の源流と同じく不純物が混じってる水だが、これなら人間でも問題なく飲める。)
地下水道は絶えず大量の水を何処かえと運んでいる。エグザムは幾つかの地下水道が南盆地以外の場所と繋がっているのではないかと考えた。
更に水路を歩き続け、他の水路や地下道との繋がりが無い水路に飽きてきたエグザム。水場に咲き乱れている光る観賞用の花について簡単な図を手記に書いていると、緩やかに湾曲している水路の先から水と共に霧が流れて来た。
(空気が冷たいのに霧が流れて来る。普通ならありえない自然現象だ。どうやら俺は試されているらしい。)
エグザムは鉄帽を脱いでからガスマスクを外した。地上でヴァンに霧の中では呼吸し辛くなると警告を受けていたが、エグザムは敢て無防備に霧の中を進む事にしたようだ。
(あの獣皮紙に書き残された説明が正しいのなら霧は水の使徒の一部。つまりここはもう相手の体内と言う事になる。自分の領域に他者が無断で侵入すれば誰であろうと警戒する。俺なら話を聞く以前に獣の餌にするが、さてどうなる事やら。)
エグザムは足を止めず水かさが増す勢いで流れて来る霧の道を進む。やがて白い霧が腰の高さまで上昇し、スイレンと酷似した光草の光が遮られていく。このままでは視界が塞がって足を段差から踏み外してしまう。そう考えたエグザムは仕方なく照明具に光を灯し始めた。
地下水道は常に緩やかに蛇行していて、今まで通った場所に直線箇所は片手で数える程しかなかった。そして前方からゆっくりと流れて来る霧が頭の高さまで到達し、アーチ天井から反射する光が緑色の照明具だけと成る。
「不思議な霧だ これだけ濃いのに水気を感じれない」
エグザムは足元を注視しながら、照明具から漏れる緑色の光を反射している霧の中を進む。口元まで霧が上がって来てからまだ一分も経ってないのに、息苦しさで呼吸が速くなり始めた。
(普通の獣や蟲ならこの道を通れるのは中型まで、虫も恐らく方位感覚を失って迷うか逃げ出すだろう。此処を通れる者は例の選ばれた者だけに違いない。もし俺が得た龍の因子を向こうが識別すれば、この霧に変化が出る筈だが。)
霧の中で呼吸を続けていると、砂嵐などで鼻や喉が詰まる様な感覚に陥ったエグザム。酸欠で意識が混濁するまでまだ余裕が有るが、まるで水中を歩いているような感覚に少しずつ実体のない不安を感じ始める。
エグザムが霧の道を進み始めて四分が経とうとした時、水路中に充満した白い霧に変化が出始めた。まるで霧を構築する謎の微粒子が意思を持って流れを変えている様で、エグザムが歩いている水路中央の段差から霧が消失し始めた。
「俺は選ばれたのか それとも」
瞬く間に出現した霧のトンネルを見つめながら、独り分の道幅しかない細い道を歩くエグザム。円状に湾曲した霧の壁に照明と光草の光が合わさって映り、白い壁が更に白く映し出されて眩しく見える。
(これでこの霧が普通の霧とも屍の森の霧とも違う事が解かった。以前湿地流域で遭遇した大きな水妖らしき影の件も含めて、霧自体が何の集合体なのか管理者に聞いてやる。)
湾曲した地下水道を通過する直前、霧のトンネルの先に青い光が差し込んでいるのに気付いたエグザム。照明具の光を小さくすると、そのまま駆け出した。
蛇の様に蛇行した謎の地下水路は、青い光に包まれた円環状の空洞から方々へ延びているらしい。そう考えたエグザムは大きなアーチ天井に埋め込まれた水晶らしき青い光源を見上げながら、地下空間全体を見渡した。
空洞外周の壁には全部で八つの地下水道入り口が在り、天井には六角形状の穴が複数あった。その穴から内部の池へ流れ落ちる大量の水が大きな滝を形成していて、縦穴から入った地下水道と同じ真新しい人工石材の天井に青い波模様が揺らめいている。
(この霧を辿れと言う事か。なかなか面白い事をするじゃないか。合うのが楽しみだ。)
エグザムは幅五十メートル以上ある円環に近い構造の地下空間見渡しながら、外壁をくり貫いて作られた人工石材の階段を上がってゆく。石階段を形成する人工石材も青く光によるものではない波模様が見え、エグザムは大理石の様な人工石材も在るのかと少し驚いた。
細長い絨毯の様な霧の道は階段上がった先、黄色い光に包まれた円環状の空洞内へ伸びている。中央には下の空洞と同じく円柱状の巨大な水槽が在り、黄色い光とは違う青い光を放っていて部屋全体が明るい。
(こんな所で花壇を見るとは思わなかった。手入れをする者が居るようだ。しかしこれほど水を溜めると塩素が充満して臭いくなるらしいが、清涼剤の様な匂い以外何も臭わない。)
エグザムは階段から出てすぐに一度立ち止まり、空洞内を見回して大よその大きさを測った。
「半径四十メートルと少し 二段重ねの円環構造と言ったら巻貝を模した家しか思いつけん」
丸い空洞内の下半分は水没していて、エグザムが立っている道も空洞の中心からやや高い位置に渡された空中通路。そしてその通路の両側には透明な壁に真鍮色の手摺が軌道を描く手摺に仕切られていて、中央の道に描かれた赤い太線の上に霧の誘導絨毯が敷かれていた。
エグザムは再び歩き出し、塗装の剥がれや埃の堆積が全くない通路を反時計回りに進む。壁や床の基本色は、「バラム真珠」と言われる白黄金色系の装飾品と同じ色だ。
(観葉植物と半獣の噴水に、真鍮色の手摺から眺める水面か。おそらく旧時代の娯楽施設なんだろう。今も残っている物は定期的に改修された文化遺産ばかり。まさか神の園にそんな物が在ると誰が思うか。)
エグザムは幅五メートル程の通路を歩きながら霧の絨毯を進む。空中通路の一部は、外側の壁に在る四箇所の隔壁と繋がっている。そして橋と一体化した空中通路の至る所に古代語で書かれた看板が設置されていて、エグザムはその一つの前で立ち止まり描かれた図形に目を奪われてしまう。
「まさか本当に巻貝の様な構造なんだな これはまるで帝国南洋に伝わる水中神殿の様な構造物だ」
エグザムは早速胸ポケットから手記と鉛筆を取り出し、慣れた手つきで表示された図を模写し始めた。
見たことも無い観葉植物。汚れ一つ無い床に描かれた赤い道。光を反射させる真珠類特有の光沢。そして硝子張りの手摺から見える光を透過させた青い水。下半身が魚の牙獣石像は口から水を吐き出し、静寂な空間に目を閉じると水の流れを感じれる。
エグザムは本来の目的を数分間だけ忘れて模写を完成させると、既に視界内に見えている螺旋階段の方へと歩み。中央の大水槽を囲む柱の間の一つに設置された螺旋階段を上がって上の階層へ移動した。
(二階は居住区のようだ。区画ごとに柱が在るから内部は広い大部屋か、別の空洞と繋がっているかもしれない。しかし水平解放式の扉とは珍しいな。扉の向こうへ行けないのは残念だ。)
螺旋階段を上り終え、下の通路と同じく赤い線と大理石らしきタイルが敷かれた円環の道を歩くエグザム。霧の絨毯は時計回りに円柱水槽を挟んで反対側まで続いていて、天井の窪みに填められた丸い水晶が白い光が少し眩しかった。
エグザムはバラム真珠色の通路を歩き螺旋階段の反対側まで移動した。其処には天井から張り出した階段が在り、やはりその階段へと霧の絨毯は続いている。
(二階の案内板だとこの上は水生生物の展示場らしい。これだけ大きな地下施設を湖底に作るだけでは飽き足らず、娯楽施設に水生博物館まで付け足すと元が何なのか判らないと言われそうだ。)
そう考えながらも階段を軽やかに蹴って登るエグザム。予想以上に分厚い天井に続く湾曲した階段を走り、ついに第四層へとたどり着く。
第四層の外側の壁は半分透明な遮蔽版で覆われている。奥には水槽を泳ぐ魚影が見え、エグザムは霧の絨毯から抜けると近場の水槽に駆け寄った。
(クラゲの幼生だろう、知らない種だな。妖精種も居るから海水が入ってるのか?)
エグザムは水槽の底を覆う砂利や藻類を這う甲殻類を観察し、珍しい赤色のザリガニに食欲を掻き立てられた。分厚い透明板は岩を押すような手応えで、手持ちの自衛具を使用しても中の食材を獲るのは無理そうだった。
エグザムはそのままえ時計回りに水槽を見ていると、中央に在った筈の水槽が太い柱に置き換わっているのに気付いた。更に主柱には一箇所だけ昇降機の軌道らしき溝が有り、上の天井にまで溝が続いている。
(其処に乗れと言う事か。)
霧の絨毯は軌道直下の丸い昇降台で途切れていた。エグザムは装備類を確認し、鉄帽とガスマスクを装備し直した。
「此れはどこを弄れば動かせるんだ 何処にも操作盤が無いぞ」
そう言いながらも床と同じ色の昇降台に乗り移ったエグザム。詰めれば七人程度が載れそうな比較的小さい部類の昇降装置の上で戸惑い様子を見ようとした丁度その時、足元から何かが外れる音と振動が伝わり昇降台が上昇して行く。
更に昇降台は緩やかに加速し、危うく天井へと接触しそうになった。足元ばかりに気を取られていたエグザム。いつの間にか真上の天井の一部が開かれ、縦穴内へと昇降軌道が続いている事に気付くのが遅れた。
長い円柱状の縦穴をぐいぐい上がっていく昇降台。縦穴は今まで登った階段より高く、バラム真珠色の側壁に青い照明が等間隔でエグザムを迎えている。
(手摺も安全柵も無いのにこの速さはおかしい。壊れているのか?)
片膝を突いたエグザムは緩やかな減速による浮遊感を感じ上を見上げる。丁度縦穴最上部の隔壁が解放されようとしていて、急上昇により短く感じた上昇時間を間延びさせる減速が始まっていた。
エグザムは開いた穴から見える青い光に目を凝らす。遠視より熱視で穴を見ると縦穴より先は冷えているのか真っ暗で何も見えない。
(これだけ下の区画から離れているのだから、気温や湿度が違って当然か。さてさて蛇が出るか龍が出るか、この遺跡の管理者が何者なのかようやく解かる時だ。)
エグザムは加速度や浮遊感とは違う血の滾りを感じ、じっとしているのを我慢するのが辛くなる。あと少しで昇降台が頂上に到達する瞬間を見計らい、四メートル程の高さを飛び跳ねる。
急激に変わる気温と光量。そして目と鼻の先に在る丸い人工池から突き出た巨大な生物の頭部。青い光で照らされた巨大な石像と見紛うほどの存在を前に、エグザムは着地する前に思考を放棄してしまった。
「お前が水の使徒なのか」
エグザムは立ち上がりながらそう呟いた。以前七色階段で遭遇した大塚蛇より大き巨体が待ち構えていては成す術が無かった。
エグザムの問いに対し、青系色彩の光沢を放つ半円状の目は反応を示さない。しかし鱗らしき鎧に包まれた首根っこから生えている二本の長い触角器官を来客へと伸ばし、六つの目が赤く光りだした。
【私はこの浄化施設の管理者 箱舟の継承者を歓迎する】
エグザムは脳内で再生された言葉に驚き、頭の両側から自身を包める距離に在る触角の先端部を交互に見比べる。
「俺は龍の血を貰いに来た 用件はそれだけだ」
エグザムは大きな鰭らしき先端部を警戒しながらそう告げた。直接電気信号を弄られる意思疎通に慣れてないので、出来るだけ短い会話で済まそうと決めたのだ。
【私は超微細結合※※の提供に対し対価を求める 内容は虫の駆除だけだ】
反応が早すぎる回答により頭の混乱に拍車が懸かる。そこでエグザムは頭の鈍痛を和らげる為に、一旦話題を変えることにした。
「すまん俺には意味不明な単語にしか聞こえない 龍の血について詳しく教えろ」
エグザムの考えを読取った自称管理者。一秒にも満たない間にエグザムの脳へ信号を送る。
【ならばその器の情報を開示せよ】
エグザムは自身が人の形をした錬金生命体だと、特に錬金生命体とは何かを詳しく話した。
【水質管理者としてお前に名を問う 契約を求めるなら答えろ】
先ほどから一方的な意思疎通を繰り返した所為で、鈍痛が頭痛に変わってエグザムから正常な判断を奪ってしまう。エグザムは思い出すように自身の名を口ずさんだ。
【死神に浄化装置を与える これで虫の巣を除去せよ 使用法を転送する】
今度は視界内に麦粒の様な種が成長する様が映し出される。その実体はまさに生物を食らう凶悪な植獣そのもので、エグザムは自身が死神と呼ばれた事に気付かない。
【締結した契約の履行を希望する 私は霧による監視と補助を提供する 用が有れば霧に語りかけろ】
そう言うと蛇を象った巨大獣は水中に尾から潜り沈んでしまった。波打際に残されたエグザムは頭痛が止むのを待ってその場に膝を突き、そのまま時間が過ぎるのを待ち続ける。