雲をつかむ手
某大学病院での医療ミスが話題になっている。稚拙な手技での手術により多数の患者が亡くなったのではないかと報じている。確かに許せないことだと思いながら、明日香は、そうして執刀医は、それを続けられたのかという気持ちが強くある。できることなら自身で、その医師に取材したいくらいだ。
医師は、患者をお金としか見ていないとか、人の死を軽く見ているとか、大学病院は人を実験材料にしか考えていないとか言われるけれど、それは本当なのだろうか。もし、本当なら、その気持ちを一部でももらいたいと不謹慎なことすら頭をよぎる。
明日香は動物病院に勤務して7年。ベテランの域に入る。ある程度手術も任されるし、一般の診療は一通りこなせる。はじめの数年は、簡単な症例、厳密にはそんものはないが、いわゆる命にかかわらないような病気や怪我の診療のみを任されていた。それ以上に難しい状態の場合は先輩獣医師に治療を引き継いで、先輩のサポートに入りながら、難しい症例の管理を覚えていく。そのころが一番単純に獣医師としての幸福を感じていたかもしれない。もちろん、先輩が治療に当たっても、助けられない症例というのはいたが、明日香としては全力でサポートしたという達成感が感じられていたからだ。でも、ベテランの域に入り、ほとんどの症例を自分の責任の中で管理するようになってきて、明日香の心は折れそうだった。
早く一人前になりたい、早くどんな症例でも任される立場になりたい。そんな気持ちが強く、やらせてもらえないフラストレーションに苦しんだ時期もあったけれど、任されてみてまさか自分の気持ちがこんなにもろいとは、自分自身が一番戸惑い失望していた。
明日香は、もちろん動物好きだったが、医療ドラマや漫画も大好きで、そこに映し出されるヒューマンドラマ、命のやり取りを通じての悲喜交々に目を輝かせていた。ドラマで華が出しやすいせいか、そういった制作物の主人公のほとんどは外科医だ。だから、自然、明日香も外科に惹かれていった。
ドラマや漫画では完成された外科医がその芸術的な腕を頼りに治療に当たり、その熱意に浮かされるように患者や家族が命について深く考え、絆を深める。
しかし、現実には、まずは技術を身につけなければ話が始まらないのだ。どこで練習するのか。それは結局、院内で先輩獣医師の技術をみて、書籍で学び、やがて先輩の監督のもとで恐る恐る実施する。つまりそれは練習ではなく、既に本番であり、その症例はもちろん患者なのだ。某外科医の漫画では、動物を使って手術の練習をしているような描写も僅かにあったが、動物が診療対象である明日香にその選択はない。だから、未熟な手技に恐怖を感じながら、1件1件積み上げていくしかないのだ。神罹ったような手技なんてそうは到達できるものではない。
臨床経験と手術の件数を重ねるごとに、絶対大丈夫などという言葉は決してつかえないということが骨身にしみてくる。どんなに簡単に思われることでも失敗に終わる可能性を内包しているのだ。
明日香はここ数か月で、自分の担当の動物を3件亡くした。いずれも高齢な動物だった、内わけとしては、異物除去のための腸切開が1件、子宮蓄膿症による子宮摘出が1件、この2つはいわゆる外科症例だ。もう一件は脳腫瘍と思われる発作の管理だ。
高齢の動物には、予備能力といういわゆる体の余力が少ないため、外科はもちろん投薬治療でも若い動物よりリスクは高まる。ましてや手術が必要になるという状況は、事前の体調も良くないわけだから、検査では拾えなくともリスクがより高まっている可能性は否定できない。
明日香の亡くした2件の外科症例でも、事前の検査では、麻酔をかけることで即絶命するようなリスクは検出されなかった。高齢動物の麻酔リスクが高いというのは一般的な事実だが、そうはいっても術前で大きな問題がなければ今まで何件もそういった症例は乗り越えてきてくれていた。そして、腸内の異物の症例は、手術以外に選択の余地はなかった。
色々言い訳はある。言い訳というと人聞きが悪いが、手術をしてはいけないという積極的な要因はなかった、発作の症例もまずは発作を抑えないことにはどうにもならなかった、いつも通りの手順で、抽象的な意味で慎重に観察もしていた。それでもそれらの症例は、術中の心肺停止、術後の腎不全、鎮痙薬による呼吸不全でそれぞれ亡くなっていった。
仕方なかった。言葉にすればそれしか思いつかない。力及ばなかった、ともいえるが、どこに力を入れれば結果が変わっていたのかはわからない。高齢な動物であるというのは、それだけでリスクが高まるわけで、そこを死亡の根拠にすることは可能だ。しかし、同時に高齢の動物というのは、その分その家族の中で13年15年と長く生きてきた存在でもあるのだ。だからこそ、病院で予想外の急変で亡くなってしまうことの罪悪感はとてつもなく重い。
幸い…やはりそういうべきだろう、その3件の飼い主達は病院や明日香を責めることなく、疾患のせいであると納得してくれ、お礼すら述べながら亡骸を引き取ってくれた。
一件落着ですね、と、世間の人は言うだろう。もめなくて良かったですねと。それは良かった、けれど明日香にとっては無傷ではない。医者が、患者を実験体と思って割りきることができたらどんなに気持ちが楽だろう。
医療というものは、失敗を繰り返しながら現在に至ってきた。もともとは呪術師や魔術師、祈祷師の分野でもあったものだ。現代医療からみれば、古代に行われていたまじない的な治療の効果は詐欺的だと思われたとしても、その時代の呪術師は、こんなことでは治らないと思いながら祈っていたわけでは無く、真剣に平癒を祈願していたはずだ。現在からみれば、むしろ害になっていたのではないかという治療法だってたくさんある。それらも、その時々の医療に携わる人々は真剣に取り組み、失敗を乗り越え先に進んできた。
失敗、そこから学ぶことはたくさんある。
けれど医師が、失敗を乗り越えられなければ、と明日香は思う。失敗で心が折れてしまったら、その先に新しい治療法は生まれない。いくら試験管の中で成功しても、実際の生き物の中で成功するかどうかは、やってみなくてはわからないのだ。
だから、患者を実験体としか見れないような医者こそ、じつは天職なのではないかという不道徳な気持ちに取りつかれる。もちろん、患者にそれが透けて見えてしまってはいけないが、どんな失敗にも耐えられる心があってこそ、医療者としての未来が開けるのではないかと。
今日も、明日香は布団の中で何度も寝返りを打つ。寝返りを止めて体が止まれば、ifが襲ってくる。もしも、という言葉は、歴史を語る上で一番ロマンがあって、そして一番意味のない言葉だろう。それは、明日香の短い歴史、つまり過去についても同じこと。もしも、あの時こうしていたら、もしもあの時、そうしなかったら、もしもその症例を自分が担当しなければ。もしも、もしも、もしもが無限に襲ってきて眠れない。いっそ叫んでしまったり、吐き気に襲われたりすれば、この思いはどこかに吹き飛ぶのではないかとるのと思うけれどそれすらも、もしもであり、明日香の体に変調はなく、ただひたすら頭にもしもが詰め込まれていく。
身体的な変調がないこともまた、実は真剣には悩んでいないのではないかと、さらに明日香の苦悩の色を濃くしていく。真っ暗、真っ暗だ。いつも通りだった、慎重にやっていた、問題なかった。
ごめんなさい。涙が流れだし、そのことでようやく眠りが忍び寄ることをゆるされた。
過去のことが無限に思い出されて、呻吟する夜は毎月やってくる。その夜が来るとたいてい翌日から生理になる。毎月続く苦しみ。過去は取り消せないから、明日香が救われる日はこない。
心を失ってしまわないと、この仕事を続けていけないのか。
亡くなってしまった動物に対する罪悪感、そして、十何年時をともにした飼い主から、不意にその愛犬、愛猫を奪ってしまった罪悪感。そんなものをいちいち感じていたら、壊れてしまう。
だから、明日香はもう病院を辞めたいと思っている。あんなにあこがれていて、あこがれに一歩一歩近づいてきたのに、近づくほどに心がついていけない。
今日も医療ミスの事件の報道が流れている。どうしてあなたは、それを続けられたのですか。報道が本当なら、医師は強い意志を持って失敗したわけでは無く、自身の技量を顧みず漫然と治療を繰り返していたようだ。許されることではない。
けれど。
明日香は積極的な治療に腰が引けている。あれ以来しばらく手術も執刀していない。幸い病院に獣医師は複数いるから、治療に支障は出ていないけれど、良いことではない。全力で当たらないというのは良い獣医師ではない。しかし怖いのだ。この恐怖を乗り越えるすべを、明日香は雲をつかむように探している。しかし、雲は霞で、つかむことができない。未だ、明日香の手は何も把持できないでいる。
いくつか掲載させていただきました。読んでくださった方々ありがとうございます。感想はいただけないので、あまりお楽しみいただけていないのだろうと、申し訳なく思います。
私の中で、つかえていた色々を文字にする作業をしてきました。しかし、他人が読んで面白いのかというと、少し違うのかなと思い始めてきました。
もう少し、読んで面白い作品が執筆できるように、頑張ってみたいと思っています。
でも、一応完結したものを投稿できたので、とりあえず、私も小説家! うれしいです。