朝(その3)
浮き足立っている教室の居心地が悪いと感じてきたので詰まる息を抜く為にもそこから逃げ出した。
私の主観ではそれはその場の思いつきの行動だったのだが、「先輩」には予想出来たことだったらしく、
「やっ☆」
少し歩いた先の廊下で私は会ってしまった。
神前りえに。
高橋はなんと言っていただろうか。気をつけてくださいだったっけ? あいつは神前の何を知っているっていうんだ。せめてそこまで教えてくれたらもう少し警戒も出来たというのに。
だのに、バッタリと、あっさりと、会ってしまったじゃないか。
ついさっき聞いて、このざまだ。
「あたしに用ですか?」
もしかして伏線とやらを早々に回収しにきたのか。
「いやこんな序盤にそれはないでしょ。違う違う。私はゆーきに伝言を頼まれてるの」
チビっこい先輩は文字通り抱腹絶倒の様子で、さてそこまで笑うようなことを私は言ったかな?
というかその呼び方はやめて欲しい。言われる度に鳥肌が立つ。
「そう? じゃあ羽根村だから……むらむら?」
「ぶっ殺すぞ」
「え何ちょっと言ってみただけじゃんいやいやいや待って待って拳下ろそうよ。ゴメン、ゴメンて。もう言わないから暴力はよそう? ね?」
「一回分はどうしてくれようか」
キレた私が余程怖い顔をしていたのか神前先輩はすっかり腰が引けていたがここで引き下がるつもりなど毛頭ない。
「ね待って話し合おうよ。ほら、お水譲ってあげたじゃない」
奪ったのもお前だけどな。
「私が買ってあげたじゃん」
それはねつ造したデタラメだ。お前は私にびた一文払ってない。
「それじゃあ、それじゃあ……前からこうパクッと食べられそうになったところをすかさず私が後ろからア痛タタタタ!?」
一切聞く耳を持つつもりもない私。至近距離まで近づくと先輩の顔に手を伸ばし、耳の裏の下の方にある窪みに人差し指を力一杯押し込んだ。ここなんかのツボじゃなかったっけ。リンパ腺だったかな? まあどうでもいいや。大事なのはここを押すと痛がる人が多いということだ。
聞か猿の如く耳を抑えて踞る「先輩」。右耳しか攻撃してないのになんで両耳抑えているんだろう……。
その背中が丁度踏みやすそうな高さにあったのだがさすがに実行に移すのはやめておいた。しかし踏みたい背中である。
「今回は初犯ということで手心を加えましたが次はそうはいきませんよ」
本当は割と本気で押し込んだが。
涙目でコクコク頷く先輩。ちょっと震えてないか。
「っ痛ー……。久しぶりにキツいの貰っちゃったな……。ブルブル」
本気で青ざめているようだった。
「むらむ……ゴホン、はダメとして、じゃあなんて呼ぼうかな」
私は振り上げかけた拳を下ろす。
「そうだな……。羽根村だから……はねちん?」
「ぶっ殺すぞ」
「いやいやいや待って待って拳下ろそうよ。今のはセーフでしょ! ねえ待ってって! ちょゴメン、ゴメンて。もう言わないから暴力はよそう? ね?」
「一回分はどうしてくれようか」
「いやいやちょっと。……あ! そうだ、ピッタリな呼び名をたった今思いついたよ!」
「そうですか。もう二度と聞けないのが残念です」
「ガチで息の根を止める方向なの!?」
今度は「先輩」は抵抗し取っ組み合いの攻防が数分続いた。
「……ねえユッキー、私たちそろそろ本題に入るべきだとは思わない?」
「……奇遇ですね。ちょうどそのことを私も考えてたんですよ」
静かな廊下の真ん中で汗だくで息が荒い女生徒が二人、そこにいた。
なにやってんだか。
ちなみに「ユッキー」はどつき合っているうちに有耶無耶に決まった「先輩」が私を呼ぶ名前だ。もうそれでいいや。正直疲れたし。そういえばまだ一限も受けてないんだよな。この疲れを引きずったまま一日学校をやっていかなきゃいけないと思うと暗澹たる気分になった。
「ゼーゼー……、エヘン。私がユッキーに会いにきたのはね」
「下級生の神経を逆撫でする為でしょう」
「ユッキーは皮肉屋だったのか……。いやそうじゃなくて、伝言」
多少改まった様子を見せる「先輩」。そういえばそんな話もあったな。なんで脱線したんだっけ。
「私はユッキーに、生徒会長からの伝言を預かってるの」
「なんですって?」
余計なことを考えていたせいで発言の意味を掴むのに失敗した。
「生徒会長が、君に、用事があるんだよ」
「先輩」はゆっくりと単語を区切って言い聞かせた。
生徒会長が、私に?
「そうだよ。お昼休みに生徒会室に来てくれって。お昼を持っていってね」
つまり四時限目が終わり次第すぐに行けと?
「そういうことになるかな」
チビっこい上級生を矯めつ眇めつする。真剣そのものの表情。どうやら正気らしい。
こんな話、私じゃなくても訝しむ。
誰だかも憶えていない生徒会長から呼び出しを受けるのもよく分からなければその伝言を「あまり良い話を聞かない」らしい「先輩」が伝える役なのも理解しがたい。
コンビニでちびっ子におちょくられてから高橋は来るし今度は生徒会長だって?
嫌な予感しか感じない。
「あたしその話断れないんですか」
「無理ー。今日すっぽかしたら即家庭訪問だと思うよ。何を隠そう、私が去年やられたからね」
「去年の会長と今年の会長は違うんじゃ?」
「ところがどっこい、去年と今年と来年の生徒会長はずっと同じ人間なのだよ。どういうことかは……お昼に会ったらきっと分かるよ」
キーンコーンカーンコーン。
「ああ、予鈴鳴っちゃったねえ。じゃあ、お昼の話伝えたから。ちゃんと行ってよね」
神前りえはそういってさっさと踵を翻した。
もう少し問いつめたかったが、しょうがない。私も教室に戻ろう。
体を180度ターンさせて教室を目指して歩を進めた。
※
私は生徒会長の顔と名前、それどころか生徒会のメンバーの誰一人のことを知らないし、そもそもそんな組織があったということも言われるまで忘れていた。
だってそうでしょう?
生徒会。
そんな作り話じゃあるまいし学校を操ってるだの生徒を支配しているだのそんな話はあるはずないのだ。
影響力なんてたかが知れている。
それでも、だ。私が上級生から呼び出しを受けていることに変わりは無く、その事実だけで普通はないことだ。私は今まで一度もなかった。
それが今日だというのも引っかかるものがある。もうすでにちびっ子と戯れたし(二回も、だ)隣のクラスからハンサム野郎は来るしそのせいでクラスに居づらいわでいろいろな事が起こっていてお腹いっぱいだ。これ以上は吐かないと胃にスペースが空かないぞ。丁度リアルに気分が悪い事だし、トイレ行っとこうかな。
そんな考える必要のないことを考えていたから気がつくのが遅れてしまった。
全く、いつも「考え過ぎだ」と注意を食らっているのに反省出来てないじゃないか。
「ん?」
最初は現状に違和感を感じた程度だった。
「あ、あれ?」
だが一度違和感を感じれば今自分の身に異常事態がふりかかっていることにすぐに気がつけた。
何が起きているのかは分からなかった。
「なんだ、これ…………」
視界全体が薄い紫のフィルムがかかっているようだった。もちろんそんなものはない。
空間が、薄く色づいているらしい。
けどこの変化は些細な事だった。んなもんどうでもいい。どうでも良くない事が他で起きているのだ。
「64のゲームでこんなんあったな…………」
我が校はA、B、C棟がそれぞれあって、やはりそれぞれが隣接していて相互に行き来が出来る。上空から見ると「コ」の字をしている一般的な造りである。大きさもそんな馬鹿でかいとは言えない普通サイズだ。
だから、廊下に並行に視線を走らせると必ず突き当たりにぶつかるものなのだ。今まではそうだった。
しかし、今、その「先」が見えない。
いつまで歩けば突き当たりたどり着けるのか見当がつかない。そのくらい、ずっと一直線に続いている。後ろを振り返ったが、同じようなものだった。私はそれに、鏡を二枚向かい合わせて鏡にうつる像が連続して無限に見える現象を連想した(最も、厳密には有限らしいが……)。
どうやら私、羽根村優希は学校の廊下に閉じ込められたらしい。




