雲行き(その6)
その姿を見て「馬鹿だなぁ……」なんてことを心の中で呟いたりなんかして、まっしぐらに向かってくる楓の方へ歩を進めた。普通の行動だろう。
でも普通はここまでだったのだ。
靴でアスファルトを叩いた瞬間、分厚い雲が頭上で急速に広がりだした。
突然暗くなったことに驚いて、空を仰ぎ見ると、額にぽつりとくるものが。
その数は瞬く間に増えてゆき、たちまち地面を満遍なく湿らせた。俄雨だ。
「チっ……」
なす術無くずぶ濡れになっていく自分を感じながら舌打ちを打った。
どこかに避難しなきゃな。コンビニがいいか? それとも公園の遊具に屋根があっただろうか…………。
「優希ちゃん!」
聞いたことが無い真剣な声。だけど聞き覚えがある気がする声色。
どうでもいいことを考えてしまうくらいその叫び声は日常離れしたものだった。
名前を叫ばれただけでは何を意味するのかが分からない。緊急性を要するのならば自分で考えるよりも聞き返す方がベターだろう。しかし、私はそのどちらの行動もとることができなかった。
背中に強い衝撃を感じて、次の瞬間に私の体は路上に突き飛ばされていた。
痛い! と脳の中では言葉になっていたが口から外に出たのは「ああ……」とか「うう……」などの言葉未満のうめき声だけだった。それほどの痛み。それほどの衝撃。経験したことがなかったが、交通事故ってこんな感じだろうな。
軽自動車でも突っ込んできたのかと、痛むからだをなんとか動かして、私を突き飛ばした犯人を見た。
しっかりと見た。
黒い毛並み。赤い目。鋭い牙と爪。
大型のバイクよりももう少しだけ大きそうな狼がそこには立っていた。
「なっ……」
ありえない存在。ただただ絶句。
狼は動けないでいる私の左足に鼻先を近づけ、ガブリ。齧りついてきやがった。
悲鳴を上げた、と思う。でもどんな声だったかは分からない。
「優希ちゃん!!」
またしても聞こえてくる真面目な声。ああ、そうか。楓、お前の声だったんだな。そんな声が出せるなんて知らなかった……。バシャバシャという水音が近づいてくる。馬鹿な。もしかして私を助けようと向かってきているのか。馬鹿な。こんなデカい狼相手に、お前に何が出来るんだ。狼の胃の中に入る人間が一人から二人に増えるだけだ……。
(逃げるんだ、楓……!)
ああ、頭の中ではちゃんと言葉になってるのに、口から出たのはやっぱり呻き声だけだった。
くそう。
痛みと無力感とが作用して、意識はブラックアウト寸前だった。右足に獣の鼻息が当りピクリと震えた。
齧られる! と思って奥歯を食いしばったのだが……。
追撃はついに来なかった。
どうした、何があった? 突き飛ばされてからというものの非日常感にすっかり参っていた私の脳では現状をさっぱり理解出来ない。
優希ちゃん!
楓の声が聞こえる。
距離は近く、でもどこか遠く感じた。
(ああ、私は気絶するんだな……)
他人事の様にそう考えた次の瞬間、その考え通り、意識が私の掌中からするりと抜けた。