発端のようなもの ー噂話ー
私の住む街にはある噂があった。
曰く、ここ最近行方不明者が立て続けに出ていると。
その失踪者の行方は誰にも分からないだとか猟奇的殺人者によってバラバラに解体されてしまっただとか満月の夜に徘徊すると言われる狼男よろしく獣化した大男が頭からバリバリ食ってしまっただとか未知なる知的生命体にさらわれて今は異次元を彷徨っているのだだとか、とりとめの無い噂(だからこそ、ということもあろうが)は適当にそのばで考えた悪い冗談のように信憑性がさらさら無かった。
しかしその根も葉もない馬鹿話は「街から人が消えた」という点だけはなぜか共通していた。
さっぱり実感はないんだけど。
大体寒村じゃあるまいし周辺から数人何所かへ行ったところで気がつく筈も無い。「すみません、ちょっとわたしこれから失踪をする者なのですが……」と挨拶に来てくれるのなら別だが。そんな奴は家にはまだ来ていない。来られても困る。
正直私、羽根村優希はこの話に全く興味が無かった。
確か二週間くらい前に初めてその噂を聞いたんじゃなかっただろうか。そのとき私は、「へえ、そう……」とそっけない反応だったと思うが何ぶん興味が無い為この記憶にも自信が無い。「あっそう」だったかもしれないし「ふーん」だったかもしれない。無感動だったことは確かなはずだが……。
そもそもオカルト話を私に振るのが間違いだ。科学を盲信しているワケでもないが「狼男とか出てきたらどうしよう」と言われても、んなもん出てくる筈が無いとしか言えない。狼だって出て来ない。この周辺はクマだって出ない。出てせいぜい日本猿が数十年に一回迷い込んでくるくらいだ。
少し話は変わるが論理的にばかり物事を考えていると友人が減るのではないかという気がしてならない。にもかかわらず油断するとロジカルに考えているのでもはやこれは私のデフォルトの設定なのだろう。
論理的ではないが社会的ではある話というものは確かに存在する。
矛盾だらけで破綻しまくってるどころか話としての形を保ってすらいない奇声の類い等々理解するのが難しい言動にいちいち突っ込んでいたらキリが無いという側面も間違いなくあるが、そもそも人が論理的かつ合理的で無ければならないという前提条件文が与えられている訳でもないしハード面からしてほ乳類の動物であることだし、原理的に正しい行動というものも系を最大限広げて考えればそんなものは存在しない訳で、それは行動したという結果でしかない。つまりどうこうするべきだなどという価値観の定規に全ての人間を当てはめようとするこういこそ無意味であり無価値である。論理的思考は論理的であるというだけであり「考え」そのものに優劣など絶対的には全くないのだ……。という講釈を叔母から小学生の頃に聞かされていた私の身にもなってほしい。憶えている私も大概だが。
記憶を更に掘り起こしてみれば自分は感動が少ない人間だった。
鉛筆をゆらゆら動かして「ほらグニャグニャに見えるでしょ」と当時小学一年生の私に上級生がそうやってみせたのだが「それがどうしたのだろうか」とキョトンとしてしまった。
確かにそう見えるが、「揺らすことによって硬い鉛筆があたかも柔らかいこのように見える」と種も仕掛けも分かっていたからだろうか、なんのリアクションもとらなかった。今なら機嫌を取っているのだと分かるから愛想笑いの一つくらいは出来るかもしれない(だからといってやるとは限らないが)が六歳の私には高度な話だった。
それから九年経った今でもつい先日同じようなミスをやらかしてしまったので、本質的には私は変わりないのだなあと目の前の失敗から目を逸らしたりもした。
まあつまり、こんなようなことを常日頃考えている身としては「宇宙人が出た」とか言われてもまず疑ってかかるしそもそも白けてしまうと言いたいのだ。
高校生という若人の称号をもっているにもかかわらずそんな頭が常識(非常識?)で凝り固まっている私だったのだが、
だから、いきなり噂の真相を確かめてくれと言われたところで、困惑しかできなかった。