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森の中は、気持ちのよい風が吹く湖畔とは違い、鬱蒼と木が生い茂り、暗く陰気な雰囲気に包まれております。
枯れ落ちた葉っぱが腐り、積み重なってできた地面はぶよぶよとして、何だかとても気持ちの悪いものに思えます。また、森のどこかから響いてくる鳥の声も、まるで赤ん坊の泣き声のようでした。
そのおどろおどろしい空気に立ちすくんでしまったお妃さまでしたが、生来の負けん気が邪魔をして、えいやとそのまま森の奥へと進んでいってしまいます。
いったいどれだけ歩いたのでしょう。
周囲は深い緑ばかりで、他には何もありません。呼ばれたように思ったのはやはり気のせいだったようです。
お妃さまはそのまま引き返すことにしました。さすがに、行きよりも足取りが軽やかになるのは仕方がありません。
しかしその軽快な足取りが裏目に出てしまったのでしょう。お妃さまはふいに、ぐにょり、と非常に嫌な感触を足の裏に覚えました。
思わず叫んで飛び退ると、そこにいたのは大きくて醜い、一匹の蝦蟇がえるでした。
「なんじゃ、蛙かえ」
お妃さまは、ほっと息をつきました。そして、おもむろにその蛙をしげしげと眺め、眉をひそめます。
誰もいない森の奥で、蹲る一匹の醜いカエル。一人ぼっちのその姿は、嫁ぎ先の城に馴染めない異国人の自分と重なるように思えたのです。
お妃さまの胸に、どうしてだか苛立ちと重くるしさが湧いてきます。
「ええい、憎らしや」
お妃さまは思わず、衝動に任せてそのカエルを蹴り飛ばしてしまいました。
「ゲコゲコッ」
カエルは悲壮な鳴き声とともに、茂みの向こうにガサッと落ちていきます。
その様子に、お妃さまはちょっと悪いことをしたなと思いましたが、そのまま森を抜けるべく背を向けました。その時です。
「アタシの使い魔をいじめたのは誰だい?」
誰もいなかったはずの森の奥から、声がしたのです。
お妃さまが慌てて振り返ると、そこにいたのは杖を突き、森の陰よりもなお暗いローブをまとった、一人の老婆でした。
「妾じゃ」
お妃さまは突然現れたその老婆に仰天しながらも、胸を張ってきっぱりと答えました。
「御主の蛙とは露知らず、蹴り飛ばしてしまった非礼は詫びよう。だが、このようなところで蹲っていたこの蛙にも、非があるのではないかえ」
逆に非難するようにそう言うお妃さまに、老婆はケタケタと笑います。
「なるほど。噂に違わず、随分と気の強い女子だね」
「妾を知っているのかえ?」
お妃さまが大きく目を開いて尋ねますと、老婆は鷹揚にうなずきました。
「もちろん、知っているよ。遠い東の果ての国から来た、一人ぼっちのお妃さま」
揶揄するようなその言葉に、お妃さまはむっと顔をしかめます。
「妾も随分と有名になったものじゃの。では、文句があるなら城に来るとよかろう。お主がこの森から出て来られるのならば」
こんな陰気な森に引きこもっているような老婆に、大きく立派な城にまで足を運ぶ度胸はないだろう。売り言葉に買い言葉で、お妃さまはそう老婆を侮ります。
しかし老婆は、意地悪なお妃さまの言葉に腹を立てるでもなく、むしろよりいっそう可笑しそうな声を響かせました。
「誰がわざわざ城にまで出向くものかい。用なら、ほれ。この場で済ませてしまえばいい」
にやりと不気味に笑う老婆に、お妃さまは途端に怖気づきそうになります。しかし、ここで臆病風に吹かれては矜持にもとると、再び負けん気を奮い起こしました。
「なんぞ。文句があるなら、はよ申せ」
「文句なんて、まだるっこしいことはしないさ。あんたと、それとこいつには、それぞれ罰を受けてもらうことにしよう」
老婆の足元には、再び「げこげこ」と鳴き声を上げながら、蝦蟇ガエルが戻ってきていました。
老婆は何やら口の中でブツブツと、不気味な呪文を唱え始めます。そして最後に「ほらよ」と持っていた杖の先を蝦蟇ガエルに向けました。
すると何という事でしょう。カエルはボフンという音と共に白い煙に包まれます。そしてそれが晴れた時、代わりにそこには、一人の女性が立っておりました。
西の果ての国では、子供にしか見えない小柄な体格。
濡れたような黒髪に、象牙色の肌。
紅梅色の唇は愛らしいけれど、眦の吊り上った黒目は気が強そうに、太い眉は強情そうに見えます。
それはまるで鏡でも見ているかのように、お妃さまそっくりだったのです。
お妃さまはびっくりして、はしたなくもぽかんと口を開けてしまいました。目の前にいるカエルのお妃さまも、同じようにぽかんと口を開けております。
「森の中で蹲っていたカエルは、望まない姿にされていい迷惑。カエルを踏んづけたあんたは、カエルに姿を真似されていい迷惑。そら、これでおあいこだ」
老婆はカンラカンラと楽しそうに笑いますが、お妃さまにとってはとんでもありません。何てことをするのかと、大焦りで老婆に喰ってかかります。
「はよ、この蛙を元に戻しや!」
「はよ、この蛙を元に戻しや!」
突きつけた指は、しかし、同じ台詞を重ねて言ったカエルのお妃さまによって、同じように自分に向けられています。
お妃さまはかっとして、自分と同じ姿をしたカエルのお妃さまを睨みました。
「真似するでないっ」
「真似するでないっ」
しかし一言一句違わず、山彦のように同じ言葉が同じ声で帰ってくるばかりです。
これでは埒が明かないと、再び老婆に目を向けようとしたお妃さまでしたが、気付けばその姿は忽然と消えてしまっております。影に溶けたか、地に沈んだか。お妃さまは慌てて、声を張り上げました。
「勝手に消えるでないっ! 戻りや! 消えるなら、これを何とかしてからにせいっ」
けれど、老婆からの返事はなく、ただ不気味な鳥の声と木々のざわめきが聞こえるだけです。
偽物と二人きりで取り残されたお妃さまは、ただ茫然と森の中に立ち尽くすしかありませんでした。