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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第三章 ― 1 ―
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08 結婚してもいいですか

 出て行くよ、ここを。結婚したいんだ。


 すゞと知り合ってもう六週間になる。恵にそう告げるのはいつにしようか、カケルはずっとタイミングを狙っていた。


 ムカイヤのところを抜けるよりももっと、精神的にはキツい。

 あちらは涙を流しながら

「本当に今までお世話になりましただよ、旦那」

 と、へいこらお辞儀をして何ならばヤツのぷっくりした手の甲に何度もキスして円満に去っていくチャンスだったのに、つい襲いかかって殺そうとしてしまった。おかげで何かの呪いをかけられるところだった。

『電話の生き霊』に救われなければかなり危ない所だったと後から改めて気づいたし、別れ方としてはマイナス点に限りなく近い感じもしていたが、それでもお互い憎み合って別れた方が断然気は楽だ。


 一つだけずっと心残りだったのが、偉そうな口がきけなくなるくらい、ムカイヤを叩きのめしてやればよかったこと、そのくらい爽やかとも言える憤りを抱いていた。


 何か忘れてやしないか、俺? ひらめいたのはほんの一瞬。

 誰かの顔が浮かんだ気がした、しかし、輪郭すら定かではない、男か女かさえ。


 思い出せないことがある、ということは自分でも気づいてはいた。いつからかなのかも分っている、この避難所にしばらく住めそうだという話が出た頃からだ。


 大事なことなのだろうか? カケルは立ち止まって、いったんステージの方を眺める。


 何に関係したことなのか、せめてヒントがどこかに転がっていないかゆっくりと目をさまよわせた、しかし一瞬でも浮かんだ人物はすでにどこにも姿がなかった。

 思い出せないくらいだから、そうたいしたことではない、カケルは自分に言い聞かせる。


 もちろん警察に追われている件は忘れる訳がない。棘となって心に深く刺さったままだ。

 しかし人を殺したことは、カケルの表層には直接響いてこない。今までずっとそうだった。警官を見かけても、身がすくむということもない。


 刑事たちが避難所に突然押し掛けてきたら、と想像したこともある。ただ、迷惑だろうな、母親は、圭吾さんや夏実はどんなにショックを受けるか、と思ったくらいだった。


 幸か不幸か、棘はささったままでも忘れることはできる……それが血流に乗っていつか心臓に刺さって死ぬというのも迷信だ。放っておけばいい、ただ、ずっと人には明かせない痛みを抱えていなければならないのだが。


 それよりもカケルが今一番気になっているのは、すゞとの新しい暮らしのことばかりだった。


 警察に踏み込まれるかもという恐れはあっても、家族の目の前でなければどうにでも対処できそうな気はしていた。


 しかし本当に反論できるのだろうか。カケルには全く自信がなかった。

 恵は口では反対しなくても、あの目で何か訴えてくるに違いない。


 別れにはお互いの痛みが伴うだろう。

 

 避難が決まる前の晩、恵がカケルを抱いて全身で「離れないで」と訴えた時のぬくもりは今でもカケルの胸に残っている。あの晩も裏切る寸前だった、皮肉にも避難指示がなければあれが家族で過ごす最後の晩になっていたはずだ。



 『家』に着いたのは、まだ早朝と言ってもいい時間だった。

 朝帰りのカケルは足音を忍ばせて体育館に熱く充満する混沌の匂いの中を渡り、片隅にひっそりと沈む家の塊に戻った。


 段ボールでできた囲いの中、家族はぐっすりと眠っていた。

 圭吾と晴樹の姿はなかった。すでに何かの用事で出かけたようだ。


 カケルは琢己用の『朝食』をそっと、一番手前に寝ていた恵の枕元に置いた。ポリ袋がかすかな音をたて、恵がほんのわずかに身じろぎして向きを変える。形の良い鼻の線が暗がりに白く浮かんでいた。カケルはその様子を目の端に収める。


「メグ」何となく、小声で呼びかけたが反応はなかった。カケルは囁き声で続ける。


「結婚したいんだけど、いいかな」

「うん」


 やけにはっきりした返事に、カケルはぎょっとして身を引いた。


 恵は全然目覚めた様子はない、ぐっすりと眠りこんでいる。上になった方の口角がかすかに持ちあがる。いい夢をみているようだった。


 本当は他に聞きたいことがあった。

 カケルは声には出さず、彼女の寝顔に問いかける。


 ねえ、メグ、どうしていつも肝心な時に携帯で呼んだりするの?

 ホンカワチの時と、ムカイヤを絞め殺そうとした時、そしてすゞに誘われた時。

 これからも俺が何かしでかそうとすると、メグは俺に電話をかけてよこすのかな?


 それって……呪い? それとも、意識下での愛情?


 母親が急に大きないびきをかき始めた。恵は眠ったまま顔をしかめ、少しだけ脚を曲げ、脇にくっついて熟睡する太一を抱え込むように腕を巻き付けた。


 愛情も呪詛も、人を留め置こうとする点ではあまり違いはないのだろうか、カケルは住居スペースをざっと見渡してから足音を忍ばせ、また体育館の外へと向かった。


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