08 後ろ向きにして
それから不思議なことに、彼女からその話は一度も出なかった。
教科委員もごく普通にこなし、話す内容も教科のこととか、国語担当のマスヤマのくせについて、とか(~~ね、~~ね、とやたら「ね」の多い優しげなしゃべりと教壇の前を首を縦に振りながら往復するので「コーチン」と呼ばれていた、鶏の名古屋コーチンからとられたらしい)そんなあたりさわりのない話題ばかり。
次にキスしたのはそれからずいぶんたってから、夏休みも終わった頃だった。
また彼女から誘ってきた。今度は理科準備室。薬品臭い空気の中での長いキスのあと、彼女が言った。
「私、カケルと同じ大学に行きたい」
不思議なことに、彼女は聞いてこなかった。
ねえ、カケルは私のこと、好きなの? とは。
クリスマス、一緒にすごさないか? と誘ったのは今度はカケルのほうだった。
もちろん、好意は持っていた。しかし好きだよ、とは言えなかった、どうしても。なぜなのだろう、向うからも何も聞いてこない。私はカケルのことが好き、とは何度か言ったけど、こちらが好きかどうかを確かめないなんて、不思議だと思っていた。
それでも聞けなかった。こちらから踏み込むことができなかった。
高校三年のクリスマスイブに、彼女の部屋でふたりは初めてむすばれた。
「ねえ」
彼女は白い背中を向ける。「お願い、後ろ向きにして」
終わった後で、彼女はこちらを向いた。頬を赤く染めて、濡れているような目をしたままカケルを見た。何か言おうと開いた口を、カケルは塞いだ。下半身に気だるい疲れを覚えていたが、行為が済んだあと、ようやく胸の中いっぱいに温かい想いが満ちて来るのを感じた。長いキスが済むと、彼は言った。
「オレもイブのことが好きだ、愛してる」
イブはようやく、ほっとしたように目元をほころばせた。やっぱり、ずっと待っていたんだ、この言葉を。カケルは喉の奥に感じた痛みをかき消そうと、もう一度彼女にキスした。




