41 持って行けないものを捨てる
なぜだろうか、写真のフレームの中に最後に飛び込んできたのはラブ。
ラブが写っていた、一緒に。太一の脇に寄り添いいつになく従順なオスワリの姿勢で。
どうして旅先までついて来たんだ? 父が真面目に問い正す。うちにつないできたはずなのに。一緒には来られないはずなのに。
ラブも伊豆が好きなんだよ、きっと。琢己がそう答えた。晴樹ではなかった、声がもっと透き通っていて、跳ねるような軽やかさ。いつも跳んでいるように、話すことができるんだ、俺はどこかでそう納得する。
ねえ早くシャッター押してよ、誰の声だろう、メグだろうか? なっちゃん? 焦れたようなどことなく楽しんでいるような、イブの声?
母はまだ若く、白いワンピースのすそを翻し車椅子から立ちあがる。私もうこんな年寄りのフリは疲れたわ、早く旅に出たい。もう来てるじゃないか、旅に、そうたしなめる晴樹はどこか圭吾さんのように落ちつき払っている。そして白い服の彼女をエスコートしようと右手を優雅に差し出す。結婚式にこんなグレイの燕尾服を着ていたのは圭吾さん、だから相手はメグのはずだが。女性はすでに若い頃の母でもなくメグでもない、でもどこか懐かしい表情だ、それをはっきり見せないように彼女はくるりくるりと回りながら崖に近づく、危ない、と叫びたかった俺を、すっかり成長した太一が優しく押しとどめる。
「だいじょうぶ、落ちることはない、時は決して僕たちに追いつけないのだから」
誰もがその人自身ではないようだ、だから俺も、自分ではないのだろう。ラブがとことことこちらに走ってきた。ざらついた舌で俺を舐める、俺の鼻先を。
とがった鼻先を。
俺は狼だった。そして目の前にいたのはラブではなかった。いつの間にか、メス狼に代わっていた。イブだろうか、匂いがはっきりしない、そうか
これは夢だからか。
放っておけばいいさ、琢己が弾むような口調で語りかけてくる。
夢は覚めるまで、放っておけばいい、いつか自然に手を離す時が分かるから。
俺は目覚めて気づく、少し泣いていたようだ。風が頬に冷たい。
あの『家族旅行』の時の写真はほとんど、残してあった、一次避難の時に未整理のミニアルバムをリュックに入れていたはずだ。写真は全て俺がカメラマンを務め、メグにせっつかれて現像も一通りしてあったのだ、ただ、まだ家族そろってゆっくり見たことがなかった。
次第に記憶が蘇ってくる。
琢己は結局、学校の宿泊訓練には参加しなかった。その前の傷が化膿して、治りきっていなかったため学校側からやんわりと参加を断られてしまったのだ。
恵は反対にほっとしたようだった。弾む口調で旅館に追加の連絡を入れていた。よかった、和室なんで大丈夫なんですね、はい、中学生です、一人追加で、はい。
そうだ、伊豆に行った時の写真は捨てたんだった、全部……いや、一枚だけ残して。
ラブを置いて行った日、しばらく行って最初に休憩したコンビニで、俺はA5サイズのアルバムを取り出した。コンビニはすでに避難対象地域ではなかったが店内にも駐車場にも、更に遠くに逃げようとする人々がごった返していた。
俺はあること無いこと声高に噂を飛ばしている連中を押しのけるようにアルバムを手にしてゴミ箱に近づいた。「燃やせる」ゴミはあふれんばかりだった、奥にねじこむように棄てたアルバムはプラの弾力に負けて少し手前に戻ってきたが、そこをまた押し込んだ。
ゴミの隙間から折れまがったページがみえた、青い空と海の写真が三角に覗いている。
仕切りに整理せずただ挟みこんでいただけの写真がまとめて外に飛び出し、足もとに散らばっていた。メグに言われて撮った民宿の外観、景色……その中に子どもだけ四人、記念になるからとおしゃれな玄関先に揃った写真が混じっていた。
奇跡的に、琢己が真正面を向いて、笑っていた。偶然だったのだろうが、本当に奇跡のようだった。
それだけじっと見直し、胸ポケットにしまう、あとの四、五枚はまとめてぎゅっと折り縮め、またゴミの中に戻した。プラごみの隙間を通り抜けたのか、今度はすんなりと奥まで落ちていった。
俺は、夢をひとつ手放したんだ。ひりひりするような痛みの中でそれを思う。
もう持ってはいけないと悟ってしまったから。
喪失は予感した時にもっとも大きく、実感した時にはもうすでに何も残されていない、感じることすら。だからもう恐れる理由もない、ただ淡々と受け入れるしかないはず……そう信じていたのに、不思議なことに涙は出るものだ、樹が風で葉をそよがせるように、雨が水たまりに波紋を描くように、淋しさは心を自然と震わせる。
今も涙は出ているのだろうか?
第二章はここまでとなります。この先、第三章です。
おつき合いいただき、ありがとうございます。




