34 事務所再訪 4
気弱さがにじみ出てしまっただろうか、すっかり会話は向うのペースになっている。
「殺そうとした人間から訊くんですか」
「どこにいる」カケルは一歩大きく近づいた。
「話さなければ本当に殺すぞ」
「そうなると、もう一生見つけられなくなるのに」
「匂いは覚えている」
そんなことが何の助けになる、という笑った目だった。泥濁りの目。
ムカイヤは一向に起きる気配はない、しかしいつしか、形勢は逆転していた、ムカイヤにのしかかられて首根っこを押さえられている。急にそんな感覚に囚われ、カケルはよろめいた。相手のまん丸いようで先の尖った膝がしらが肩甲骨の間に突き刺さっている感触まで覚え、息が浅くなる。
気づくと、よろめくようにムカイヤの脇まで寄っていた。
「そう、おいで」優しげな声、そして匂い。以前見た七色の光が、寝転んでいる男から複雑な芳香となってカケルの鼻をくすぐる。この匂いは、そう、何というか、まるであまりにも
「教えてやってもいいですよ、条件がありますが」
「どんな」
「膝をついて」
声のペースにはまり、すっかり膝下の力が抜けてしまった。カケルは言う通りにした。
「そう、いい子だ、そう」
ゆっくりと節をつけるように何度もそう言いながらムカイヤは右手を差し出した。むっちりとした手に嫌悪感しか湧いてこないにも関わらず、カケルはその手をとろうと、腕を伸ばした。
突然、心臓を鷲掴みにされたようなショック、細かい振動が左胸を刺してカケルは飛び退るようにムカイヤから大きく離れた。床についていた膝がバウンドして骨を打った。
膝がしらの痛みで、急に目覚めたかのように意識が戻る。
今、何をしようとしていたのか?
ムカイヤはまだ寝転がったままあやふやに片手を伸ばしている。こちらも呆然とした表情だ、釣り上げたはずの大物を逃しました、と顔に書いてあるみたいだな、心臓の上あたりをぎゅっと押さえながらカケルは後ずさる。
携帯のバイブだ、しかし、ポケットを漁るまでもなくすぐ気づく。携帯は部屋に忘れてきていた、なのに。
恵が呼んでいる、携帯を鳴らしている。鼓動が激しく、冷や汗まで出てきた。それでもなぜか、幻の携帯着信のおかげで目の前の罠が閉まる寸前に助かったのだ、それだけは解った。
「明日……明日こちらから連絡を入れる」
ようやくカケルはそう声に出し、後の返事を待たずにドアを閉めた。ムカイヤが追ってくる様子は全くなく、建物は元のこじんまりと廃墟じみた貌に戻っていた。
駅近くまで来た時には、心臓がせり出しそうになっていた怯えはだいぶ下火になっていた。自販機の並びに公衆電話をみつけ、小銭を数枚スリットにねじ込んで覚えていた恵の携帯番号を押す。0と8と2しかない珍しい番号で、契約してきた啓吾がかなり自慢げだったという覚えがある。恵は最初「そんな目立つ番号はイヤよ」と目を尖らせていたが、周りからびっくりされたり、子どもたちから「母さんの番号はすぐ覚えられるよね」とちやほやされるうちに、気にならなくなったらしい。こんな時にまさか、カケルのためにもなるとは思いもしなかったが。
待たされることなく恵の声。「今どこ」怒っているような声だが、急にカケルは泣きたいくらいの安ど感に包まれる。
「近くだよ、今から帰る」
「電話は」
「部屋に忘れて来たんだって、何か用?」
「そのまま出て行っちゃったかと思った、車で出て行くのが見えて追いかけたんだけど」
恵は泣いていたのだろうか。
「ちょっと用事があっただけだよ、特に用事じゃあ無いんだよね? すぐ帰るからさ」
駅のアナウンスが耳に届く。
「あんたどこにいるの?」
「近くだって。もうお金無くなる、切るよ」
切る直前に思った、ありがとうと言うのを忘れていた。
狼の群れを見かけたことについて、ムカイヤに伝えるのを忘れていた。
電車からもより駅に降り停めてあった車に乗り込む時に、ふと思い出す。
どうしても伝えなければ、と思っていたにも関わらず、電話をする気分にもなれずあれからずいぶん経ってしまっていた。
ムカイヤには言わなくてよかったんだ、そう無理やり己を納得させながら車のドアを開ける前に空を見上げる。
雲が厚く空を覆い、月はどこにも見ることはできなかった。




