07 キス、だめですか?
もともとそんなことになったのは、聖夜のせいだったのだろうか。
思い出すたびに彼は耳たぶにそっと手を伸ばし、その傷を確かめてみる。
高校三年になったばかり、ゴールデンウィークにはまだ少しだけ間がある、という頃突然、女子に呼び出された。
クラス替えをして初めてクラスメイトになった子、柳原聖夜、という子だった。
やなぎはら、はすぐ読めたが聖夜をイブと読むのは気がつかなくて、最初にクラスの名簿をもらった時には、てっきり男子だと思っていた。
女の友だちから「いぶっち」と呼ばれて「あんだよ」とふてくされたような返事をしている彼女をみて、ちょっと可愛いな、とは思ったことがあった。
笑うともっと可愛いだろうに、と思ったのも確かだった。
背は高くてカケルともあまり変わらない、すんなりと伸びた四肢はいかにもスポーツが得意そうで、紺ブレザーの制服もよく似合った。特に話もしたことがなかったのだが、たまたま引き当てたあみだくじで同じ国語の教科委員を一緒にやることになった。
その時には特別なうれしさも湧かなかったのだが、ああ、ちょっと得した気分かな、程度のテンションで、
「よろしく」
と軽く挨拶をした記憶がある。
「ヤマナシくん、ちょっと」
軽く手まねきされた時も、だからきっと委員のことだろうと思って「なに」何の警戒心もなく彼女についていった。
教科の話にしてはやけに長く歩かされ、気がつくと一番端の音楽室、グランドピアノの前にふたりで立っていた。
「ヤマナシくん、私の名前知ってる?」
いきなりそう聞かれたので「ヤナギハラさん、だろ」と応えるといくらか顔のこわばりをといた。
彼女は特に愛想のいい感じでもなく、大声で笑っているのもあまりみたことがなかった。
何となく怒られるんじゃないか、という気持ちが先にたって、カケルは足をかるく踏みかえる。
「なに? 教科委員のことじゃあないの?」
もしかして、オレとじゃあイヤなのかな、そう感じていたところに彼女が意外な一言を漏らした。
「キスしてくれる?」
固まった。
経験がない。かなり晩熟だという意識はあった。
それでも男子でつるめばつい、理想の彼女の話とかシモネタ系の話で盛り上がったりもしたし、いつかは可愛い女の子とイチャイチャしてみたいもんだ、とは人並みに思っていた。
それがいきなり、こんな可愛い子(笑えばもっと可愛くなる、それは保証できた)に向うから「キスして」だなんて。
「あ、う」
ことばすら出ない。それでも、カケルはその場から動こうとしなかった。目が泳いでいるのが自分でも分かる。顔がかあっと熱くなった。
「だめですか?」
急に敬語になった彼女は、怖いくらい真剣な目でこちらをみている。黒みがちの瞳なのに、わずかにみえる白目が青く映えていた。唇は冷たそうな外見のわりに、ややふっくらと半開きになって彼に更なるひとことを発するべく構えているかのようだった。
「い、いいですけど」
ふわりと彼女がかぶさり、唇がふれた。
始めは触った感覚がなかった。マジかよ、まじかよ、心の中にはそんな叫びしか出てこない。本物のニンゲンなのか、これは。柔らかい、つうか、何も手ごたえがない。
そのうちに押し付けられるような圧迫感、息が熱い。甘い。カケルは息をとめて、目の前の少女の腰に手を回す。嫌がられるかと思ったが、彼女はかすかに首をかしげ、更にこちらに身を任せた。深いキス。彼女の舌がそっと割り込んできた。彼も舌でそれを受けた。ずしんと下半身に急激な重み、逆にそのせいで彼ははっとなって彼女の身体を突き放した。
「ご、」
目の前の少女は、わずかに唇を開き首をかしげたまま、カケルをじっとみつめている。非難の色も喜悦の表情もない、何かをじっと観察するような目。
「ごめん、ヤナギハラさん」
何と言い訳すればいいのか、カケルは真っ赤になったまま両手を前に出す。
「ごめん、オレさ……何て言うかさ」
説明風に振り回す両手に、彼女は手を添えた。
「あのさ……なんつーか」
「初めて?」手を握られたまま問われ、彼は一瞬嘘をつきたい気分になったが
「あ、ああ」
つい正直にうなずいた。
イブは平然と答える。「私も」
どういうことなんだろう?
初めてのキスを、自分から呼び出してこうも無造作にしてしまうなんて。
「あ、あのさ」
「カケルくん、好きだよ」
ごく普通の口調でそう言ってから、イブは右手の人差指でかるく唇をぬぐい、それから彼の方を振り向きもせずに音楽室から出て行った。




