30 任意同行 2
ナカノは中途半端に手を伸ばしたままトマベを不審そうに眺めていたが、
「車に」
そう言われて慌てて車に戻り、ダッシュボード近くの何かを取り上げ、やはり耳に当てて少し話をしていた。
無線なのだろうか? ナカノの受け答えはあっさりしたものだったが、カケルのところにまでざらついた相手の声が切れ切れに届いてきた。もちろん会話の内容は全然分からない。
すぐに通話を終えたナカノは、俺はやっぱり実はコンビニの店員でした、みたいな素のままの表情で戻ってきた。トマベは電話を受けた時からずっと厳しい顔を崩していない。
ナカノが戻るとすぐカケルに目を移し、
「すぐ済みますんで」と言った。
あとはカケルそっちのけで片隅に寄ってふたりで話している。
ね、信じられないでしょう? と何度かナカノが声を上げ、そのたびにトマベが怖い目をしてカケルの方を中途半端に向く。
ますます何かまずいことが起こったらしいが、カケルには直接関係ないのか、視線が遠い。そこにまた、「そうちゃん!」恵の声。
「すみません」
トマベが手の甲で額の汗を拭きながらカケルに近づいてきた。また温和な目に戻っている、だが一旦みせた鋭さをぬぐい切れるほどの説得力はなかった。
しかも、今度はあきらかに何か他の問題で一杯のようだ。
「ちょっと別件で急用ができましてね……明日でいいので早めにここに電話ください」
「はあ」
トマベがさらさらと書いたメモをカケルは何となく受け取る。
『三田警察署 0**―***―0110 刑事課 苫米、中野』と書いてあった。
「すみません」そこにプップー、と間の抜けたクラクションの音。恵はどうしても車から降りずに客をどかせたいらしい。
「明日、お願いしますね、」トマベはすでに心あらずといった感じで、ナカノを引っぱって車に向かった。ナカノはもっと抵抗するかと思ったが、先ほどの連絡がよほどショックだったのか、素直に脇について行く。
ようやく白い車がバックして敷地から出て行った。
「すみません奥さん」少し離れたところで叫ぶトマベの声に応える声はなく、恵の車は悠々と敷地に滑り込んできた。
そのまま庭に停めて母屋に入るかと思いきや、恵は車から降りてまずまっ先に離れの彼の元にやってきた。
カケルはまだ玄関先でぼんやりと白い車の消えた先を見守っていた。
一連の出来事に心と頭が追いついていない。
「そうちゃん」
恵の声は静かだった。「何か面倒なこと?」
カケルはいったん口を開き、恵の目をみた。その目を見た途端、今、目の前で繰り広げられた何もかもが波のように足元に追いついた。
刑事が来た。しかも地元ではなかった。三田? どこなのか分からない、俺を捕まえて連れて行きたがっていた、獲物を捕まえる時の目だった……連絡が来るまでは。車には確かに無線がついていたようだが、最初にあの中年が受けたのは普通の電話のようだった、ぜんぜん『らしく』ない、ドラマではあんな風ではない、どれが本当かなんて分かる訳はないがそれにしてもあまりにも……あまりにも現実的だ。
どんな理由で置いて行かれたのかさっぱり理解できないままだったが、置き去りになったという部分も含めて逆に、自分が追いつめられたという事実がひしひしと圧し掛かってくる。
「あの」黙っていようと一瞬思ったが、
「そうちゃん」恵がまた声をかける、その言い方に急に心が萎えた。幼い頃に戻ってしまったような、シャツの中で体が泳いでしまっているような頼りなさ。
「うん……俺、やばいかも知んない」
何も説明していなかったにも係わらず、恵がつぶやいた。
「刑事さんでしょう」
「うん」
カケルはその場に座り込む。力が抜けて、それ以上姿勢を保っていられなかった。
「やばいことに巻き込まれたの? ユキチくんのことで?」
「違うんじゃね? わかんない……何も言われなかったし」両手で顔を覆う。なぜだろう、姉の口調がとても優しく心に沁みる。人間としての自分はそれが辛い。
「他に覚えがあるの?」
彼は黙って顔を覆ったままうなずいた。
姉はそれ以上聞いてこなかった。ただ、そっと彼の肩を抱いて一度軽く力を入れてから、またそっとその手を放した。
「どんなことがあっても、アンタの味方だから、アタシらは」
さらりとした言い方に、カケルは顔を上げたい衝動にかられる。もしかして、姉は、気づいているのだろうか? 俺が狼だと、次々と人を殺していることまで、とっくに知っているのではないのか?
違う……胸の中に煤煙の固まりとなった不安や疑念が身体から溢れだすことのないよう、彼は前屈みになったまま更に身を縮める。
メグは、家族としてそう言っているだけなんだ。俺がトラブルに巻き込まれたらしい、それですごく困っている、ただそれだけでなぐさめようとしているだけなんだ。
だめだ、今顔をあげたら、俺は全てを話してしまうだろう。
メグにこれ以上、重荷を背負わせたくない。
去っていく姉の気配をうなじのあたりに感じながら、カケルはそのままずっと座り込んでいた。




