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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第二章 ― 2 ―
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27 連鎖と判断 4

「あれのをゆけ」

 小声で唱えたとたん、ドアが前にはじけ飛んだ。はっ、とホンカワチらしき影がふり返る。さすが警官らしい、機敏な身のこなし。だが、彼は見た物に対応できず、凍りついた。


 獣がふわりとその身にのしかかり、獲物の喉笛にくらいつこうと頭を伸ばす、何の抵抗もなくそのまま後ろにホンカワチは倒れた、だが、その瞬間


 掃除用具入れの中から、規則正しいバイブ音が漏れてきた。

 カケルの携帯電話だった。


 はっ、とその事実に気づいたのはホンカワチが先だった。


「オマエ」


 こんな風に狼にのしかかられた者はたいがい、恐怖と信じられないという思いで表情が凍りついたままになる、だが


 彼はあきらかに、怯えてはいたもののなぜか目に、かすかな戸惑いを浮かべていた。


 そしてその目線は、狼の顔からすっと軽く左耳の脇に流れる。


 狼は急に、下の男のウールと綿の肌触りを感じ、獲物の胸元を押さえた手を上げた。


 そう、人間に戻ってしまった手を。


「前に……ここで」


 疑惑の匂いが強くなる。そうだオマエとは会ったことが。そのピアス、そしてぼさぼさの髪、しかし何故、全裸で?


 完全に、狼は解けていた。カケルはそのままの姿で倒れたホンカワチの上にまたがっている。さっきまですぐ近くにあった喉首が急に遠くなった。そして抑えつけている下の男が、重量を増したように思えた。膝に拳銃のホルダーが当たっている。


「あの、あの」


 何と言っていいのか、カケルは完全に混乱していた。何故? 何が起こったんだ?


 再び、バイブ音がしんとしたトイレ内に響く。恵からだろうか、どうしたらいいのか。


 答えはもう、一つしかない。カケルは動悸の激しい胸元を押さえるようにしながら、やっとのことでことばを口まで運び上げた。


「あれのをゆけ」


 ホンカワチが銃に手をやる一瞬前に、狼は彼の喉首にくらいついた。

 あまりにも焦り過ぎたのか、がりっ、と食い破った歯と歯とが嫌な音をたてる。ごぼ、と排水が鳴るような濁った音がして、下の男が身をのけぞらせた。えへ、えへ、と空咳なのか嗚咽なのか何度もかすかな声にならない音を発しながら下の男は全身を硬直させて抵抗した。鈍い音をたてて腰回りの装備が床に当たる。脚が狼の後脚の下で激しいキックを繰り返していた。バイク乗りらしく、かなり力強いバネ、腕にも胸や腹の筋肉にも、のしかかっている魔物を蹴散らしてやろうとする激しい意志を感じる。


 しかし、それはだんだんと力を失いやがて、小刻みな痙攣となってやがて少しも動かなくなった。代わりに、さらっとした血が砂漠に現れた川のようにあたり一面、白いタイル張りの床を濡らしていった。


 ホンカワチの大きく見開かれた目にも、赤い涙が溜まっていた。鼻の穴からも口の端からもやはり赤い体液が漏れている。苦しかったのだろう、狼のあごを外そうと鞭のように宙にしなっていた手も、今では全く動かず、床の上に長くのびている。かすかにゴロゴロと鳴っていた喉が、ようやく静かになった。


 狼はその変わり果てた姿からそっと身を離し、まだ汚れていない奥側の床に跳んだ。


 かなり汚してしまったが、すぐに、片付けはやってくるだろう。

 

 カケルに戻ってから、彼は灯りをつけないまま手早く手と顔、そして胸元を水道で洗う。狼の時にかなり念入りに毛づくろいするのだが、こうして人間に戻ると案外汚れがとれていないことが多い。しかも今夜は人が来ないかそわそわしながらの作業だったので、余計に手がかかる気がした。


 用具入れから服を出し、慌てて着る時に携帯を確認する。やはり、2回とも恵からだった。


 画面を確認している時に、トイレの床にざわざわと音のない何かが蠢いているのを感じとっていた。

 よかった、いつもの『掃除屋』はこんな場所でもちゃんと嗅ぎつけてくるんだ。


 カケルが廊下の様子を伺いながら外に出て行った時には、ホンカワチはすでに大部分が『処分』されていた。硬い拳銃の一部らしい、銃口らしい形がまだ彼らの重なる躯の隙間から見え隠れしていたが、それも間もなく、消化されそうだった。もちろん、床に拡がる血だまりはあっという間に彼らに呑み尽されて、床は暗がりの中ですら判るくらい、磨きあげたように艶やかに光っていた。


 急に、強く石鹸が香った。前に受け取ったハンカチについていた、この病院の液体石鹸の香り。


 ヤツの手はまだ濡れていたな、今日も石鹸を使ったんだろう、でもハンカチは使わなかったんだな。

 カケルは足を引きずりながら、非常階段に向かった。



 そうちゃん、どこ行ってたのよ。恵はまだぐったりしている太一を抱っこしたまま、救急窓口脇に座っていた。


 やっと、終わった。会計も済んだし……呼んだの、聞こえなかったの?


 うんごめん、とカケルは投げやりに答える。こっちもちょっと、とり込んでてさ。


「へえ何」


 太一は急性の大腸炎と言われたらしく、とりあえずは薬を出してもらったらしい。説明を聞いたことで恵も少しは落ち着いたらしかった。いつものように皮肉っぽい口もとで笑う。


「アンタでもとり込んでることあるんだ。で、どんなタイソウな御用だったのかしら」


「ちょっとね……」恵がじっと見つめていたので、カケルは仕方なく答える。


「ウンコ出たくてあんまり人の行かないトイレに行って入ったら、鍵開かなくなってしかも外から電気消された」


 腹を抱えて笑う恵から、むっとしたままの顔で太一を受け取りよっこいしょと担いで、カケルは病院を後にした。



 つながってしまったことだ、もうやってしまったこと。何度も自分にそう言い聞かせる。


 それでも、やはり何かが間違っているのだろうか、その思いは日に日に強くなる一方だった。

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